聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.4/聖徳太子と昼飯を食う

2011.03.02 Wednesday

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    正福寺_昼食休憩001.jpg 
                             昼食会場「正福寺」に到着

    「第29回 太子道をたずねる集い」も、いよいよ前半最後の行程となった。目指すは香芝・正福寺。レジュメによれば、正福寺は1008年の開創と伝えられ、恵心僧都源信の作とされる阿弥陀如来像を本尊としているという。浄土宗の開祖法然上人は、法隆寺夢殿から磯長の叡福寺・聖徳太子御廟への墓参の祭、この正福寺に立ち寄ったということだ。
    そこで我々も、法然上人にならい、この正福寺に立ち寄り、昼食とする。
    既に狭い境内のあちらこちらで弁当を広げているグループもいる。
    しかし200人が弁当を広げるには、この境内は狭い。そんな不安をうち消すように、案内の方の声が響く。
    「本堂へ上がってください。本堂に食事をとれる場所を用意しています。」
    「お寺の本堂で食事か?! 線香臭いんじゃないのかなあ」、そうは思ったが、「まあ、いいかっ、面白いかも」と、ご本尊様のすぐ傍までいき、弁当を広げた。
    ふと横手に目をやると、なんと聖徳太子像も、ご本尊様の前にあぐらをかいておられる。像とはいえ、聖徳太子と飯を食うなどと、なかなか体験できるモノではない。差し向かいとはいかないが、ワタクシめのすぐ斜め前に太子が座っているのだ。
    おもむろにリュックの中から、自ら用意したサンドイッチと、魔法瓶に入ったお茶を取り出す。そして最後に小瓶に詰めた白ワイン。いつぞや出張したとき新幹線の駅で買ったワイン。プラスチック製の小ぶりのボトルで、蓋がグラスになっており、なかなか気が利いている。また使えると、中身を飲んだ後も捨てずに残しておいたものだ。ここに冷蔵庫の中に残っていた「マドンナ」というドイツの白ワインを入れ、リュックのなかに入れておいた次第。
    太子さんとグラスを酌み交わす、それは無理というものだが、気分的にはそんな感じ。
    太子のブレーンと言われ、帰化人技術者集団のリーダー、秦河勝。彼も酒造りに長じていたと言うが、さすがに太子にワインをすすめることはなかっただろう。
    ……と、思ってみたが、あながち荒唐無稽な話ではなさそうだ。秦氏といえば西域のにおいがプンプンする。ワインの歴史は古い。紀元前6000年頃には、メソポタミアのシュメール人により初めてワインが作られたといわれている。太子がワインを飲んだ可能性は十分あるのだ。聖徳太子には、日本の濁り酒や中国の老酒より、なぜかワインが似合う。
    そう思うのは、私だけだろうか。

    正福寺_昼食休憩007.jpg
                         (太子像と共に本堂での食事風景)

    食事も終わり、本堂から外へ出てみた。そこで入り口の看板に気付いた。かなり年季の入った看板だ。下地になる板は摩滅しているが、墨の染みこんだ箇所だけが残り、「光明道場」と書かれたところが浮き彫りのようになっている。
    光明……またしても西域のにおいだ。
    たまたま、この寺の住職が傍におられ、これ幸いと訊いてみると、
    「光明道場と書かれてありますが……」
    「浄土宗ではよく使われる言葉です。私もこの言葉が好きで……」
    浄土宗、親鸞、光明……
    そういえば、親鸞が学んだ教典の中に「世尊布施論」というお経があった。漢文で書かれているので、これまで仏典とばかり思われてきたが、訳してみると、これが実は、キリスト教の「山上の垂訓」の漢文訳であった。空海や最澄が中国から持ち帰った教典は仏典ばかりでなく、当時、景教といわれたキリスト教の教典やマニ教、ゾロアスター教のモノも含まれていたようだ。
    いや、それ以前、聖徳太子の時代にも、仏教の仮面を被った、たくさんの西域の宗教も入ってきている。聖徳太子にしたところで、厩戸皇子 ( うまやどのみこ ) などというキリストまがいの名前をもっているし、宗教に寛容であった騎馬遊牧民族のにおいをプンプンさせている。
    光明道場、光明皇后、光明が遍(あま)ねく照らす=遍照、すなわち大日如来、南無大師遍照金剛、そして極めつけが、光明神=アフラ・マズダ……
    連想は連想を生み、果てがない。そんな妄想に釘を刺すように、集合の合図。

    いよいよ行程も大詰めを迎える。

    聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.3/達磨寺から尼寺廃寺へ

    2011.03.01 Tuesday

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      龍田新宮を後にし、一路、達磨寺を目指す。大和川にかかる昭和橋を渡れば、斑鳩の地を離れいよいよ王寺町だ。目指す達磨寺も、この王寺町にある。聖徳太子像を先頭に、一行はしばらく葛下川に沿って進み、やがて葛下川を離れ、古い町並みに入っていく。その町並みも終わろうとするあたりに達磨寺はあった。
      ここで待望の解説に耳を傾けるわけだが、その前に配られたレジュメで予習しておこう。

      達磨寺(王寺町本町)
      片岡山と号し、臨済宗南禅寺派の寺院です。このお寺は『日本書紀』・『日本霊異記』などに記された「飢人伝説」(聖徳太子が片岡山へ遊行された時、飢えた人(聖人)に出会ったという伝説)に関わりがあり、後世、その聖人が達磨大師と見なされ、さらにその墓と見なされた古墳が現存することから信仰を集めるに至ったようです。『建久御巡礼記』によると平安時代末期には墓の上に廟があったと記され、その後、鎌倉時代にはすでにこの地にお寺が存在したと考えられています。
      2002年には本堂の建て替えに伴って奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が実施され、本堂地下の石室に安置された石塔、その中に収められた水晶製五輪塔形舎利容器・ハート形舎利などが発見されました。
      現在はお寺のご厚意により、それらを本堂内で見学することができます。

      達磨寺古墳群(王寺町本町)
      『日本書紀』の「飢人伝説」と結びついた古墳は、達磨寺本堂の下、本堂の北東を含め、小規模な3基が現存します。これらは6世紀末頃に造られた古墳で、内部に横穴式石室があり、達磨寺古墳群と呼ばれています。そのうちの1号墳は石室の見学が可能です。

      片岡王寺跡と放光寺(王寺町本町)
      この片岡王寺こそが、現在の王寺町の町名の起源と考えられています。その遺跡は現在の王寺小学校を中心とする位置に存在し、明治時代までは基壇跡が残っていました。それによると南向きの四天王寺式伽藍配置と考えられ、採取された瓦や発掘調査で出土した瓦を見ると7世紀前半の創建と考えられます。平安時代の雷火によって多くの堂塔を失いましたが、現在も法灯を受け継ぐ片岡山放光寺(黄葉宗)が、王寺小学校の西側にあります。

      以上が、頂いたレジュメのうち、達磨寺や片岡王寺跡、つまり今現在、私たちが立っている場所の解説部分だ。

      レジュメに目を通しておけば大凡のことは分かるのだが、これから聞く廣岡氏の話は、僕には目新しいというか、自分が今住んでいる広陵町という場所がどんな場所であったか、まるで横っ面を引っぱたかれたような感じだった。

      平岡氏曰く、この地は168号線の拡幅調査に伴う大規模な発掘調査と、達磨寺の本堂改築に伴う発掘調査によって、まず達磨寺については、古墳時代の墓の上に本堂が建っており、更に本堂地下から石塔を埋納した遺構が見つかったという。つまり3重の構造になっているという訳。
      ここまでのことは珍しくはあるが、レジュメを読めば分かることだ。
      もっと大事なことは、この達磨寺は、片岡という地のど真ん中にあたるということだ。そして古墳の回りを溝が巡っており、ここから奈良時代の土器が多く発掘された。恐らく、古墳の周りで何らかの祭事が行われていたのだろう。つまり古墳時代から奈良時代へと移る境目のことを、この地は映し出していると言える。

      さて、168号線の道路の向こうに王寺町の小学校がある。ここが片岡王寺の跡にあたる。ここからは軒平瓦、軒丸瓦の発掘され、鬼瓦も発掘された。しかもこの鬼瓦、使われたのは法隆寺、片岡王寺、平城宮の三つのみだという。これによって、片岡王寺がいかに一流の寺であったかが分かる。
      しかし、この片岡王寺も、平安時代には廃れ、今は放光寺として存続している。

      先にも触れたが、大和川から北は、斑鳩の地であり、上宮王家(聖徳太子一族)の本拠地になる。そして大和川を南に渡ったこの地が片岡であり、僕が今住んでいる馬見丘陵を含み、富田林市太子町の叡福寺あたりまでの広がりを見せている。その中心とも言える場所が、この片岡王寺跡であり、これから向かう尼寺廃寺跡ということになる。そのことは、発掘された鬼瓦が「平城宮」と「法隆寺」、そして「片岡王寺」でのみ使われていたということから、ここが如何に大きな権力を持った一族の地であったか推量される。
      では、この片岡の中心にあたる場所に片岡王寺を作ったのは誰だということになる。
      候補者は3人、まず聖徳太子の娘・片岡女王、そして敏達天皇の娘、最後に押坂彦人大兄皇子の息子・茅渟王、この3人の何れかではないかと言われている。
      中でも茅渟王の線が濃厚なのだが、いずれにせよ天皇に非常に近しい方が、この片岡王寺をつくったということが、考古学、文献史学の共通の成果として言えるのだという。

      ところで、この片岡王寺というのは総寺、つまり男性の寺であるのにに対し、これから向かう尼寺廃寺は女性の寺ということになる。

      ここまでの説明を聞き、これから達磨寺を自由に見学した後、芦田池を経て尼寺廃寺跡へと向かう。
      途中、芦田池を通りかかったとき、例によって慎ましやかな案内板と出会った。そこで、その囁きに耳を傾けておこう。

      芦田池
      片岡のあしたの原は、葛城山脈と馬見丘陵にはさまれた葛下川流域一帯を言ったのであろうかと思われます。
      本町のあたりは、古くは葦田と呼ばれ、葦が生い茂っていたところから放光寺古今縁起〈正安四年西暦一三〇二年 僧審盛著〉には葦田池と書かれています。
      この地はまた、歌の名所として知られ、数々の名歌が残されています。

      あすからは若葉つまむと片岡の
           あしたの原はけふそやくめる
                        −人麻呂−


      午前11時45分、いよいよ午前中最後の目的地・尼寺廃寺跡に到着する。
      ここに置かれた案内板は、発掘中ということもあって、木組みにトタンを張っただけの仮のモノらしいのだが、それでもほかのモノと違って、若々しいというか、荒々しい感じがする。

      国指定史跡
      尼寺廃寺跡(にんじはいじあと)
      尼寺廃寺跡は、香芝市尼寺に所在する飛鳥時代に創建された寺院跡です。
      尼寺廃寺跡には、礎石が残る基壇が南北約200m隔てて存在することから南北2つに分かれる寺院跡と考えられています。
      尼寺北廃寺は、北に金堂、南に塔、東に中門を配し、それを回廊で囲む東向きの法隆寺式伽藍配置で、その規模は南北約70.8m、東西約44.3mあります。
      平成7年に実施した塔跡の調査では、地下約1.2mで約3.8m四方の日本で最大級の規模を誇る心礎がみつかり、心礎の柱座内からは耳環12点、水晶丸玉2点、水晶切子玉2点、ガラス丸玉1点、ガラストンボ玉1点、ガラス小玉1点などの多彩な舎利荘厳具が出土しました。
      尼寺廃寺跡は、奈良盆地における飛鳥時代後半の造営者一族の動向等の政治状況をはじめ、仏教文化を考える上で重要であることから平成14年3月19日付けで国史跡に指定されました。
         平成15年3月  香芝市教育委員会



      案内板に目を通した後、再び廣岡氏の解説に耳を傾ける。

      今の葛下郡にあたる地域、ここが片岡といわれる地域だが、その片岡の中心が片岡王寺。これに対して女性の寺が尼寺廃寺となる。
      東を向いた法隆寺式伽藍配置で、日本最大級の心礎が発掘されており、その心礎の中から出た発掘品は、古墳時代後期の副葬品と同じ。「古墳時代」〜「飛鳥白鳳」への切り替わりの時期にあたるようだ。ここでも片岡王寺と同じ軒丸瓦が発掘されている。尼寺廃寺遺跡は、北廃寺跡と南廃寺跡があるが、南廃寺跡から、法隆寺、片岡王寺、平城宮と同じ軒平瓦が出土している。ということは、ここも天皇家に近しい方の建立ということになる。

      尼寺廃寺跡からやや南、西名阪自動車道・香芝インターの手前に平野古墳群がある。今から昼食をとる正福寺の近くだが、この古墳群の中で、平野塚穴山古墳に注目してみよう。これは後期の古墳にあたるのだが、朝鮮半島南部 百済との濃厚な関係を漂わせている。
      ところで平野古墳群のある場所はどういうところかと言うと、「茅渟王の墓が片岡の芦田の墓」と言われており、まさに平野古墳群が、これにあたることが、考古学・文献史学両方の一致した結論となっている。
      要するに、敏達天皇から始まり茅渟王を経て天武天皇にいたる王家の中心が片岡という地だといえるのである。



      そして、僕の住む広陵町も、まさにこの中に含まれる。敏達天皇から始まり天武天皇に至る「敏達王朝」とも言える王家の中心が、片岡の地であり、廣岡氏作成の系図を見れば、そこに出てくる場所は、いずれも僕が普段なにげにチャリを走らせている場所(黄色く色分け)と重なっているのだ。
      今まで、古代史などというのは、自分とは関わりのない、どこか遠いところで起こったことのように錯覚していたが、こうして図式化して突きつけられると、どの地も自分の生活圏でおこったことであり、何か因縁めいたモノを感じ、全身、総毛立つ始末だ。
      人はすぐ時系列でモノを考えてしまう。1000年、2000年というと、遠い遠い昔のように思ってしまうが、自分が気付かないだけで、実は、今自分が生きる時代と重なって起こっていることだとしたら……そんな他愛もないことを考えてしまう。

      http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/touba3.htm 
      (※尼寺廃寺跡復元図は、ホームページ「日本の塔婆」から転用させていただきました。)


      聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.2/龍田神社へ

      2011.03.01 Tuesday

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        第29回太子道をたずねる集い〜磯長ルート〜
        平成23年2月22日(火) 
        タイムスケジュール

        (午前の部)
        08:30 南大門集合→08:45 挨拶・説明→09:00 出発(太子像合流)→
        09:10 藤ノ木古墳通過→9:35 龍田新宮到着(挨拶・説明)→09:50 出発
        →10:30 達磨寺到着(挨拶・説明)→11:15 出発→11:45 尼寺廃寺到着
        (太子像合流・説明)→12:00 出発→12:20 香芝正福寺到着(昼食休憩)
        (午後の部)
        13:10 出発→13:20 志都美神社到着(説明)→13:35 出発→13:40 
        太子道顕彰碑通過→14:00 旭ヶ丘近隣公園到着(トイレ休憩)→14:15 出発
        →14:30 どんづる峯手前でバスに乗車→14:45 バス下車→15:00 太子町
        役場到着(役場ホールにて挨拶・説明)→15:40 出発→16:00 叡福寺到着
        (御廟参拝、甘酒の振る舞い)→16:30 バスで帰路に着く(近鉄二上駅・JR王寺
        駅に停車)→17:30 法隆寺南大門到着

        以上が、2月22日に実施された「第22回太子道をたずねる集い」のタイムスケジュールです。
        この日、健康のため、あるいは歩くのが好きだという目的で、はたまた聖徳太子を偲んでと……様々な方が様々な目的で集まり、スケジュール通り、朝8時45分、いよいよ法隆寺西門を3班に分かれて出発しました。

        まず目指したのが、龍田新宮です。20分あまりで龍田新宮に到着しました。神社境内には近くの幼稚園の園児達も集まり、屈託のない笑顔ではげましてくれます。
        また、龍田新宮大鳥居の傍に「奈良街道と当麻街道」という案内板が設置され、僕たちを迎えてくれました。写真ではとても読めませんので、以下に書き写しておきます。出先での案内標識や、ちょっとした説明チラシは、その場所では、まるでそこにあるのが当たり前という風情で立っていたり置かれていたりします。風景にとけ込んでしまい、自己主張の少ないこれらの案内人は、普通はあまり気を付けてみられることがありません。
        でも、あとになって「あそこに何て書いてあったんだろう」と思っても、もう、後の祭りです。そのまま忘れてしまうことも多いはずです。
        だから僕の場合は、必ず気になる案内板は書き写します。書き写す時間がなければ写真に撮っておきます。それが必要か必要でない情報かは、その時点ではハッキリしないことが多いのです。でも、それが大きなヒントを与えてくれることもよくあるからです。
        この集いでも、できるだけ、これら目立たない案内人の言葉を紹介しておこうと思います。

        奈良街道と当麻街道(近世の道)
        奈良街道は、大坂と奈良を結ぶ街道として栄えました。大坂からは奈良街道・奈良からは大坂街道と呼ばれ、この街道筋の龍田は、浪速・なら・伊勢・当麻への分岐点として、龍田神社を中心に商家・旅籠が軒を並べ、西和地方の商業の中心でした。
        街道筋の龍田は、郡山に次ぐ宿場町として栄えました。そのにぎわいは、「龍田宮前はかいでもきれいな宿屋の女がスソではく」とまで歌われ、当時の繁栄ぶりがうかがえます。また、当麻街道は信仰の道として、法隆寺・当麻寺とを結んでいました。
        当麻からは法隆寺参りの道と呼ばれ、法隆寺からは当麻参りの道と呼ばれていました。
        この街道の分岐点の龍田神社から南の小吉田(こよしだ)・稲葉車瀬(いなばくるませ)・神南(じんなん)にかけては、往時のなごりを残す道標が多く残されています。

        以上が、今日最初に出会った案内人の解説でした。続いて、橿原考古学研究所の研究員・廣岡孝信さんの解説がはじまります。今日、この集いに参加した大きな魅力の一つが、プロの研究員が一緒に歩き、その現場現場で、地域に密着した情報を与えてくれるということがあります。
        その第一回目の解説が、龍田新宮境内で始まりました。

        廣岡さんは、今日歩く地域についてその概観を話されます。その要旨は、この「龍田神社」と河合町の「広瀬神社」が大和川を挟んで、当時の要の地になっているというのです。
        今居る斑鳩の地は、上宮王家の領域であり、大和川の南、叡福寺あたりまでは、歴史上「片岡」と言われる地であり、別の王家の領域に属する地域だということです。詳しくは、これからの行程の中で話されることになりますが、まずは概説ということで、次の達磨寺を目指すことになりました。
        その前に、廣岡さんが用意されたレジュメの中から「龍田神社」の説明を見ておくことにしましょう。

        龍田神社
        (たつたじんじゃ:斑鳩町龍田:三郷町の龍田大杜本宮に対して龍田新宮とも呼ばれます)
        延喜式内社であり、祭神は天御柱命・国御柱命で、そして本殿の左右には龍田大明神(龍田比古神・龍田比売神)・滝祭宮も祀る。社伝によると、聖徳太子は老人の姿となって現れた当社の祭神:龍田大明神に従って法隆寺建立の寺地を選定し、さらに法隆寺の鎮守神としたといいます。中世には法隆寺の僧が神職となり、江戸時代には境内に塔・経堂・胎金堂・伝灯寺などがあったようですが、明治の神仏分離令によって寺関連のものはすべて撤去され、法隆寺からも分離されました。
        境内には奈良県指定天然記念物の蘇鉄、大和猿楽四座のひとつ「金剛流発祥之地」の碑、クスの巨樹もあります。

        このレジュメの中で、僕が気になったのは、この神社の祭神が「天御柱命」と「国御柱命」の2柱が祀られているということです。天御柱(あめのみはしら)は、その名の通り、天津神=つまり天孫した一族(渡来系)の神であり、国御柱(くにのみはしら)=国津神は、それ以前の土着の豪族の神々と言えると思います。渡来系の種族が土着の豪族と争い、国津神として祀ることで懐柔していった、その仕上げの段階につくられた神社ではないでしょうか。
        前回にも若干触れましたが、聖徳太子は渡来系の支配民族、それも中国、韓国というより、騎馬民族系の支配層では? 廣岡さんのお話を聞きながら、話の内容とは関係なく、そんな疑念がムクムクと心の中にわき上がってきます。

        話が終わるや、耳を傾けていた一団が、大鳥居の横へ我先にと動き出します。斑鳩町の職員の方が、スタンプ帳に斑鳩町のスタンプを捺してくれているのです。
        やがてスタンプ騒ぎも一段落、次の目的地「達磨寺」に向かっての行進が再開されました。

        聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.1/聖徳太子って何者?

        2011.02.28 Monday

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          2月22日は聖徳太子の命日だという。この日、法隆寺の主催で、法隆寺南大門を出発して、聖徳太子の墓所である大阪府富田林市太子町の叡福寺まで、いわゆる太子道の一つを歩こうという催しが開かれた。
          実在説が疑われている今、何を根拠にと言われる方もおられるだろうが、聖徳太子に興味を持つ自分としては、どうしても参加してみたかった。
          僕の家は広陵町の馬見というところにある。関東から関西へ帰って来るに当たって、女房と共に「終の棲家」になるだろうと思い定めた場所だ。

          自転車が趣味で、早朝、よく法隆寺まで走る。片道約45分、大体15キロの道のりだ。いつもは朝の8時過ぎに法隆寺に着き、拝観が開始される9時には自宅に帰っている。ところが、ある日、法隆寺と夢殿を拝観したいと思い立ち、朝一番の9時に法隆寺へとやってきた。目当ては夢殿の救世観音と、法隆寺に伝わる獅子狩紋が刺繍された古代の錦。
          しかし救世観音は、5月でないと拝観できず、獅子狩紋も公開されてはいなかった。
          そこで売店へ行き、救世観音の王冠が確認できるポスターと、獅子狩紋が一番大きく掲載されいるという図録を購入した。獅子狩紋というのは、ペルシャ風の貴族か武将が馬にまたがり、振り向きざまに獅子を馬上から弓矢で狙っているという図柄だ。正倉院の銀壺にも、この獅子狩紋が彫刻されたものがある。その貴族の被っている王冠の紋章、これが法隆寺夢殿の救世観音の被る王冠の紋章と同じだという。法隆寺を訪れた目的は、このことを確認したかったためである。

          これについては、少し長くなるが、小林恵子さんの説を以下に紹介しておく。
          「法隆寺の夢殿に伝来された四騎獅子狩文錦は文様がササン朝ペルシアの流れを汲み、西アジアと日本の文化交流を証明するものとして、従来より注目を集めていた。その文様は西アジア伝来の連珠文に囲まれた中に、中央に、これもペルシア伝来の生命の木を配し、四人の騎士が振り向きざま獅子を射る図である。太子摂政の時、新羅征伐のために制作された旗であるといわれている(三宅米吉『法隆寺所蔵四天王紋錦考』文一巻一号、明治二一年)。
          織物の制作年代は中国隋代の初期、すなわち六〇〇年頃の緯錦と考えられている(龍村謙「大谷探検隊将来の古代錦綾類」、『歴史と美術の諸問題』所収、法蔵舘、一九六三年)。
          しかし、最も問題とされているのは、制作場所と所有者、すなわち、誰が何の目的で制作し、騎士のモデルは誰かということである。
          ひとつは騎士の冠に着目して、この騎士像がホスロー二世か、あるいは、その子孫のササン王であるという説で、最初にササン朝ペルシア王と結び付けたのは奥田誠一氏(『東洋の古代織物に於ける波斯模様に就いて』国華二六篇六冊、一九一五年)であった。
          それにたいして、桑山正進氏(「法隆寺四騎獅子文様の制作年代」一、『江上波夫教授古稀記念論集・考古美術篇』所収、山川出版社、昭和五一年)は、
          〕翼の馬に乗った騎士像はササン朝には例がない。
          後ろから襲い掛かる獅子を振り向きざま弓射する像の形をとる例はササン朝の場合、きわめて稀なこと。
          K[柑錦の場合、冠の前方の飾りが、三日月状の上に球形が載る形をとっているのはホスロー二世と同じであるが、ホスロー二世のそれは、飾りが冠の頂上に位置している。
          これらをもって桑山氏は法隆寺錦はササン朝プロパーではないという意見である。
          桑山氏は強いて共通点をあげればアルダシール三世(六二九年六月〜三〇年四月)か、ブラーン女帝(六三〇〜三一年)のそれではないかという意見である。アルダシールにしてもブラーンにしても、西突廠の支配下にあった時のササン王である。
          天馬の例としては、法隆寺献納物(現在は東京国立博物館所蔵)の銅鋳製の水瓶に二組の有翼の天馬四頭が毛彫されているが、周知のように、ギリシャ・ローマ文化にあるペガサス(有翼の馬)は有名である。
          騎士が振り向きざま、獅子を射る形は安息式射法(パルチヤン・ショット)と呼ばれ、スキタイ遊牧民に共通する射法であるという(相馬隆『安息式射法雑考』史林五三巻四号、昭和四年)。
          とすると、法隆寺錦には中国文化の影響がほとんどみられないところよりみて、ローマ文化及びササン朝ペルシアと騎馬遊牧民、すなわち突蕨文化の合体作品といえないだろうか。
          法隆寺錦の騎士の冠前の飾りは「●に三日月」の形をしているが、これは桑山氏も認めるごとく、ホスロー二世の頭頂の飾りと一致している。
          夢殿の救世観音の宝冠正面上方に、同じような飾りがみえる。これについて、町田甲一氏(前掲『法隆寺』)は、やはりイラン系王族の流れを汲むと指摘してい-る。救世観音はもちろん、太子がモデルである。この聖観音の造立は一応、太子没後から山背大兄滅亡までの間と考えられている(前掲『奈良六大寺大観』)。
          四天王像もすべて救世観音と同じしるしをもつ宝冠をかぶっているが後の武士の兜の前面の飾りが、その持主を表わしているように、救世観音と騎士像の冠との共通する形「●に三日月の文様」は太子を象徴するものであったと推量されるのである。ただし四天王像の造立時期は南北朝(一三四六〜五五)時代である(前掲『奈良六大寺大観』)。
          更にそれが、ホスロー二世の冠の形と共通するのは、達頭とホスロー二世は同世代の人であるから、両者の間に交流があったことの証明の一つになるかもしれない。
          『補闕記』には烏斑の太子の馬は、太子を乗せて空に駆け上り、雲を飛び越え、東は輔時岳に登って、三日にして帰り、北は高志に遊んで二日にして帰り、太子が見たいと思う場所に五〜六日あれば行かない場所はなかったという。まさに太子の馬は翼ある天馬ではないか。『伝暦』では太子の馬は四足の白い烏駒であったとあるから、太子の馬は黒馬と考えられていたのであろう。」
          (以上、小林恵子「聖徳太子の正体」文藝春秋刊 から引用)

          実物は見られなかったが、ともかく土産物屋でポスターと図録を購入し、確認することにした。
          そのとき、土産物屋のおばさんから得た情報に依れば、聖徳太子の命日に、法隆寺から叡福寺に向かって、かつて聖徳太子の遺骸が運ばれた同じルート(太子道)を歩く催しが開かれるという。おばさんは、「寺務所で参加申し込みを受け付けているので行ってみたら」ともいう。
          そこで早速、申し込むことにした次第だ。



          当日、法隆寺南大門に行くと、すでにたくさんの方が集まり、出発を今や遅しと待っていた。
          南大門と中門をつなぐ広場には、普段は夢殿西側に置かれている聖徳太子像が御輿台の上に置かれ、その傍には、この御輿台を担ぐべく八部衆に扮した男性8人が控えている。
          そして出発時刻となった。約200名におよぶ参加者たちは、3班に分かれ南大門前に整列する。
          やがて主催者によるコースの説明・注意事項があり、いよいよ出発の運びとなった。
          まずは西大門を出て、斑鳩町内の龍田神社へ向かう。
          以下、行程の説明は、他のホームページやブログでも紹介されているので、次回からは、同行された橿原文化財研究所の研究員、廣岡孝信さんが、各ポイントポイントで説明された内容を紹介する形で、叡福寺迄のほぼ20キロの行程を案内していこうと思う。

          愛犬と共に楽しむ10年ぶりの雪景色

          2011.02.11 Friday

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            今朝、犬の散歩に出かけようと庭へ出てみると、一面の雪景色。ここ奈良の広陵町では雪が珍しく、関東から引っ越してからはじめての雪景色を見ることとなりました。
            神奈川県の津久井にいる頃は、冬になると雪かきが当たり前のことでしたが、ここ10年、雪景色とは無縁でしたので、珍しいやら面白いやら、朝早くから、犬のGOROと大はしゃぎ。
            GOROも、生まれて初めての雪で、最初はとまどっていましたが、そのうち「イヌはよろこび庭かけまわり……」の唱歌よろしく、庭中を走り回ったあげく、いきおいあまって外へ走り出す始末。ついに手に負えない始末となりました。しかし、寒さには勝てないとみえ、10分もするとスゴスゴと引き上げてきました。

            雪で困っている人には大変申し訳ない話ですが、今朝はGOROと共に久しぶりの雪を楽しんだという、とりとめのない話。

            実を言うと、今日は、京都のホテル・グランビアで人と会う約束があり、これ幸いと、そのあと、JR京都駅近くのサイクルセンターで自転車を借り、太秦まで走ろうとしていたのです。しかし、寒さにスゴスゴと帰ってきたGOROのことは言えません。かくいう私めも、雪に恐れをなし、約束をキャンセルしてしまったのです。

            というわけで祭日だというのに、今日は事務所に詰め、町内会の広報の仕事をしたり、昨夕届いたUTAブックの返品処理(段ボール箱4箱)をしたりして過ごすことになりました。

             

            自炊で電子図書をつくってみる

            2011.02.09 Wednesday

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                        (断裁機がないので、カッターナイフで根気よく本を解体していく)

                           (ページがバラバラになっているか確認)
              若い人たちのやっている「自炊」ということをやってみた。
              「自炊」と言っても、自分で飯を炊いて食うのではない。書籍を裁断してスキャンし、デジタルデータに変換する行為を「自炊」と言うらしいのだ。
              若い人が「本棚の本を自炊しちゃってさあ」などと言っているのを耳にすることがある。
              なぜ「自炊」というのか?
              一説に、「PCなどに吸い上げる→自吸い→自炊」 となったと、もっともらしいことが言われている。また、ホームレス等への炊き出しをイメージし、本をスキャンしてアップロードすることをも「炊き出し」と呼び、この炊き出しを受ける者は、ただダウンロードするだけのネット乞食だという。こんな説もある。しかし真偽のほどは定かでない。

              ともかく、若い人が言う「自炊」ということを経験しようと思い立った。これも電子図書には違いないのだから。
              それに「本」と「映画」には目がない。一時、たまりにたまった本を処分したことがあるが、いつしかまた「本」が、事務所や我が寝室を浸蝕しつつある。ならばデータ化して残すことを考えるのが賢明ではないか。データ化すれば、「どこに書いてたっけ」とページを探し回ったあげく、「たしか、ココに書いてあったはずなのに」などと悩むこともなくなるわけだ。なにせ検索できるのだから……

              思い立ったが吉日と、早速、本の解体から……。しかし、これには決意が要った。なにせ自他共に認める「本の虫」、本をばらすことに、抵抗感、いや罪悪感さえ感じる。
              ここは思いっきりだ! 男は思いっきりが肝心と、よく切れるカッタナイフを用意し、表紙カバーや帯を外すや、おもむろに背中から3ミリぐらいの処にサシを宛てカッターの刃を滑らせていった。引くこと50回あまり。新書版224ページの本が背中から切り離された。

              記念すべき「自炊第1号」は、ランドール・サトー著「沈没船が教える世界史」。
              一番上の写真は、表紙カバーと表紙と本文の3つに解体された、その「本」である。次は、その解体された「本文」を、まだひっついているところがないか、いくつかに分けチェックする。まだページとページがひっついているところがあれば、それをはがして1枚1枚にし、次ぎにドキュメントスキャナーにかける。
              すると、224ページの本を、読みとる解像度にもよるが、ほんの5分から10分あまりでスキャンを終えてしまう。ドキュメントスキャナー恐るべしである。
              僕の使っているドキュメントスキャナーは、エプソンのES-200。値段も3万円台と手頃で、コンパクトで、一見、炊飯器に似ている?が、その読みとり速度というか炊き上がり時間というか、その速さには驚かされる。「本」を解体するのが嫌で、ベッドスキャナーで1ページ1ページ、影が出ないよう本を押さえつけながらスキャンしていたことを思うと夢のようだ。
              スキャンさえ終われば、後は、そのままPDF化しようが、OCRをかけてテキスト化しようが思いのまま。急ぐ場合は手っ取り早くPDF化し、そのままアイパッドで読むようにしているが、これと思うものは、OCRをかけてテキスト化し、それをさらに、「インデザイン」等の組み版ソフトを使い、自分の好みにあった体裁に仕立て直すことにしている。
              こうすることで、テキスト化の過程で必ずチェックするため、スキャンしっぱなし、本で言うと「積読(つんどく)」ということがなくなる。おまけに自分でページを組んでいくので、自分の読みやすい体裁に組めるし、どこに書いてあったかの見当がつけやすいという利点もある。(検索がかけられるから必要ないといえば必要ないのだが……)

              ところでハードカバー本の解体となると、ちと面倒。厚手の表紙をはずし、カッターで切っていくのだが、裁断機があるわけでなし、手許が狂えば大事な本の版面に傷をつけてしまう。そこで外注で裁断してくれるところがある。安いところで1冊50円〜70円程度で解体してくれるという。
              僕も、今日始めてその存在を知り、利用してみることにした。
              送料込みで20冊まで2000円で解体してくれる。これなら、自分でカッターの刃を本に当てるときの、あの何ともいえない後ろめたさというか、ためらいから解放される。
              あとは仕上がってくるのを待ち、データ化していくだけ。こっちのほうは、どんな体裁に仕上げるのか、どちらかというと楽しい仕事になってくるという寸法だ。

              JR和歌山駅前地下広場 紀州犬のブロンズ像

              2011.02.03 Thursday

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                JR和歌山駅前の地下広場で、紀州犬のブロンズ像を見かけた。なぜか、そのまま通り過ぎることも出来ず、ブロンズ像に添えられた説明書きに目を落とした。

                「紀州犬
                太古の昔より、紀州半島一帯で狩猟犬、戦犬、通信犬として存在した。日本民族は、この自然犬に助けられながら栄えた。この歴史的事実を重視し、昭和9年5月1日付けをもって、日本国は、この犬種を天然記念物に指定した。
                この犬種は、人間に従順であり、粗食に耐え、極地に耐え、強靱な体質と精神力を有したため、如何に過酷な歴史的背景をも耐えて今日に存在しているものである。
                この犬種は和歌山県の誇りであり、世界に誇る天然記念物である。」

                以上が説明文の内容である。
                紀州犬が、太古の昔から人間と共にあったという事実に興味を覚えた。戦犬、通信犬のくだりを読んだとき、正月にNHKで放映された「赤紙をもらった犬」というドラマのことが思い出された。
                偵察犬として訓練されたシェパードが、戦地で「鬼」となった兵士の心に人間の温もりを思い出させる。犬を毛嫌いしていた伍長が「あいつが居たから、この戦場で人間でいられた」、そう言って、傷ついた犬を助けるために死んでいった。
                「あいつが居たから、この戦場で人間でいられた」、このドラマを見て以来、その言葉が自分の心の中に澱のように沈んでいた。
                その思いが、この説明文の一文で、浮かび上がってきた。
                「あいつが居たから、この戦場で人間でいられた」、この言葉が、今も自分の中でリフレインしている。

                それはさておき、このドラマにもあるように、第2次大戦では、日本も軍用犬として犬を徴兵した。黒沢明監督の映画「夢」のなかでも、爆弾を巻き付けられ敵陣に飛び込んでいく軍用犬のことが描かれている。
                しかし、この紀州犬の説明を読むかぎり、はっきり書かれてはいないが、太古以来、戦犬として人間と共に戦う犬の姿が浮かび上がってくる。
                ネットで調べてみると、「軍犬物語」http://kiriken.web9.jp/gunken/index.htmlというサイトで、犬が戦争に利用されるようになった経緯が詳しく紹介されている。
                それに依れば、「西欧ではアッシリアの壁画に勇士と猛犬の絵が残されていたり、紀元前ギンベルン族が戦争に用いたのが」、犬が戦争に利用された初めとされている。しかし、真実の起源は定かではないという。

                では日本ではどうかというと、「太平記」に、南朝の忠臣 畑時能が「犬」と二人の従者とともに足利氏の城を陥とす物語があるのが最初だろうか。(左図は、江戸時代に描かれた畑時能の画 wikipediaから転載)

                しかし、東西を問わず、これらはあくまでも文献上の話であり、「犬の歴史」http://www.daidtm.net/010rekisi.html に依ると、人の祖先と言われるクロマニヨン人が既に犬を飼い、狩に利用していたとあって、これは僕の勝手な推測だが、部族間の抗争にも犬が駆り出されたのではないだろうか。
                それ以前、絶滅したネアンデルタール人と「犬」の関係は、どうも食料として「犬」を利用していたようで、これらのことを考えあわせると、「我々の祖先であるクロマニヨン人は、犬と共に生活し、狩りをしていたことにより生き残った」という説があり、「犬」をどう扱うかが、人類の生き残の大きなポイントになっていたようです。

                ともあれ平和を享受する我々は、もう二度と「犬」に爆弾を巻き付け、敵地に追いやるような選択は、何があってもしたくありません。うちにもゴールデンとラブのミックス犬「GORO」、それにトイプードルの「トマ」という2匹の犬が居ますが、2匹の顔を見ていると、「苦しいことは、もう、やめにして、ゆっくりいきましょうよ」、そんな風に言われているように思えてなりません。

                何か支離滅裂なブログになりましたが……今日はこれまで。

                営業は自転車に乗って 第2弾

                2011.02.01 Tuesday

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                  昨日、和歌山営業から帰ってみると、営業用に購入した20インチ折り畳み自転車が到着していた(右写真)。
                  以前、地方の営業をしたくてドッペルギャンガーの26インチ折り畳み自転車を買った。(左下の写真)値段が手頃だったのと、デザインが気に入ったのが選んだ理由だが、もうひとつドッペルギャンガーという名前に惹かれたからでもある。
                  ドッペルギャンガーといえば、ドイツ語で、普通はあまり良い意味に使われないようだ。超常現象で、もう一人の自分のことをいうらしい。海外旅行に出ているはずが、どこそこで見かけたとか、また家に帰ってみると、そこに既に自分がいて、その自分に出くわしたとか……また、もう一人の自分に出会うと、間もなく死ぬだとか、都市伝説まがいの使われた方をする言葉だ。
                  それを良い意味に「もう一人の自分=分身」と捉えたのが、ネーミングの謂われのようだ。
                  このネーミングに惹かれたのも、購入理由の大きな要因だった。
                  しかし、いざ手許に着いてみると、これが重い。とても輪行など出来たものではない。しかし乗り心地も良く、近場の営業に乗り回していると、みんなから誉められ、「自分もほしい」という人まで出てくる始末。
                  たしかにデザイン性は抜群で、黄色のボディがなんともオシャレだ。以来、愛用車となり、近場の営業はおろか、映画に行くのも、買い物に出かけるのも、近くの温泉に行くのも、かならずお供についてくる存在となった。
                  かれこれ2年も乗ったろうか、またぞろ地方営業に自転車を使いたくなり、やはり手頃な、ドッペルギャンガーの20インチ折り畳み自転車を購入してしまったというわけ。
                  重さは12キロ、これなら下げて出かけられる。そんなわけで、今日は朝から試し乗りと、折り畳みの練習。ほぼ10分程度で折り畳んで輪行袋へ納められる。
                  町内を試乗してみた後、輪行袋に納めた自転車を肩に下げ、今度は徒歩で一周してみる。町内一周約400メートル、嵩張るが、これなら何とかなりそうだ。
                  飛行機も、新幹線も、近場の私鉄も、輪行袋に詰めてあればOKということ。
                  そこへアイパッドとポケットwifiを持てば、地図もOK、ネットもメールもOK。どこに行くのも怖くない。
                  さて、地方の自転車営業、最初はどこに行こうか、現在、楽しみながら計画中。

                  (下の写真は、事務所で組み上げたドッペルギャンガー20インチ折り畳み自転車。定価で3万3600円、アマゾンでの購入価格1万7000円也。分身というには、ちと安過ぎるか!?)


                   

                  ノマドワーキングとアイパッド

                  2011.01.10 Monday

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                    最近、「ノマドワーキング」という言葉を知った。「ノマド」というのは「遊牧民」のことを言うらしい。 転じて仕事をオフィスから離し、自宅や外出先、喫茶店でこなす人たちのことを「ノマドワーカー」と言うようになった。
                    「私生活」と「仕事」の境が希薄になり、仕事の合間に遊び、遊びの合間に仕事をする。
                    リラックスして仕事に向かうため、発想も却って豊かになり、仕事に励むと言うより、仕事を楽しむという方向に変わっていく。
                    僕の場合、自宅内にオフィスがあるので、とりたてて「ノマドワーキング」ということもないのだが、アイパッドを得たことで、またアイパッドを使い込むことで、デスクからも、パソコンからも解放されつつある。
                    というのも、アイパッドのアプリが素晴らしい。安いし、仕事に役立つソフトが揃っている。アプリの開発者は、世界に様々な才能が無限に存在するわけで、マックという企業は、そんな才能にアイパッドという土俵を提供しているということになる。
                    そして我々は、アイパッドを介して、その才能をアプリという形で享受することができる。

                    アイパッドの宣伝みたいになったが、これを使うことで、本当に自由になった。
                    本の校正は、PDFで送られてきたものを、アイッパッドのアプリ「goodreader」を使うことで、直接、修正個所を書き込むことが出来る。注意書きや追加の文章を入力することから、文章を囲んだり矢印を入れたり、手書きで校正や校正記号を書き込んだりと、紙に書き込むような感覚で行える。
                    また、思いついたアイデアなどを、アイパッドのアプリ「Dropbox」や「Evernote」に書き込んでおけば、同じ「Dropbox」や「Evernote」をインストールしたパソコンでも、共通して利用することができる。
                    テキストデータばかりか、画像資料も、音声資料も、同じデータとして一元管理でき、本を書くためのデータベースを、パソコンと連携して構築することもできる。
                    昔、卒論を書くのに、手書きデータカードを作り、データボックスに整理していたのを考えると、パソコン時代になって、驚くほど便利になったのだが、アイパッドを得たことで、今度は、そのパソコンからも解放されつつある。
                    ホームページの閲覧から、参考図書を読むことまで、おまけにメールのやりとりまで、アイパッドだけで済ますことが出来る。
                    (ただ、アイパッドからメールを送ると、古いメーラーで受けた場合、文字化けがおこる場合がある。これだけはまだ解決の良い方法がない。)
                    トイレの中で、新聞を開く代わりに「ビューン」を開き、テレビのニュースや、週刊誌や新聞の記事の主だったことをチェックし、メールをチェックすることだってできるわけだ。
                    たとえ、そこが寝室だろうが、風呂だろうが、アイパッドさえ持っていれば、たちまち書斎に早変わりする(風呂へ持ち込む場合は、風呂用防水ケースが必要だが……)という寸法。

                    今、もっと「ノマドワーキング」を徹底するため、wifiタイプのアイパッドを、外出先でも通信機能を活かせるよう、イーモバイルを導入しようとしている。

                    本をつくる方面だけでなく、書店営業も、アイッパドひとつを持っていけば済む時代が来るようになるかも知れない。でも、その頃になっても書店営業が必要かどうかは分からないが。

                    電子出版の行方

                    2010.12.31 Friday

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                      この年も終わり近くになって、まるで滑り込むかのようにシャープの「ガラパゴス」、ソニーの「リーダー」、ドコモの「ギャラクシー」が発売になった。
                      文章をリーダーに表示するためのフォーマットだが、アイパッドがEPUBという世界標準ともいえるフォーマットを採用しているのに対し、シャープやソニーはXMDFという独自に開発したファーマットを採用している。これはEPUBが日本語特有の縦書きやルビ機能をカバーしていないためだが、それぞれが独自フォーマットを開発しているため互換性がない。アイパッドで買ったEPUB対応の本は、ガラパゴスやソニーのリーダーで読むことが出来ない。
                      本を出版するということは、誰でもが活字という媒体を使って「本」を読めるようにする、いわば普遍化、標準化の過程ではないのだろうか。
                      中世、聖書は、聖職者だけが読めるもので、そのためラテン語という世界に留め置かれ、聖職者以外が、聖書を読んだり書き写したりすると、火あぶりになりかねなかった。
                      聖書の例は極端に過ぎるかも知れないが、印刷術が発明されるまでは、本は一部の特権階級のものでしかなかった。
                      印刷術の発明は、知識、思想、文化等々、今まで特別とされたものを、一般的なもの、誰にでも手の届くものに置き換えるいわば「革命」ともいえるものであった。それは弛まざる普遍化、標準化の道筋のように見える。

                      電子出版は、それをさらに押し進めるものでなければならない筈だ。印刷製本を通してのみ達成できる出版文化は、今や行き詰まり、大きな曲がり角に来ている。
                      それを独自フォーマットという閉鎖的な環境に置く商業主義にはうんざりする。

                      そんなことを思っていた矢先、上記のような新聞記事が目に飛び込んできた。毎日新聞、2010年12月29日(水)朝刊の1面の記事だ。写真では読みづらいと思うので、以下に、その全文を記しておくことにする。


                      米電子書籍 縦書き対応/世界標準、日本普及に道/EPUB

                      米電子書籍標準化団体「国際電子出版フォーラム(IDPF)」の電子書籍の閲覧方式「EPUB(イーパブ)」が来年5月、日本語に正式対応することが28日、分かった。米アップルが採用するなど海外で事実上の世界標準となっているが、日本語などの縦書きを想定しておらず、国内では普及していなかった。イーパブが日本語対応することで、国内の出版社や電子書籍端末のメーカーが開発にかかる時間や費用を大幅に抑えられるため、電子書籍の爆発的な普及に道を開くことになる。
                      日本電子出版協会が今年4月、日本語対応を提案。その後、IDPFから内諾を得た。日本電子出版協会は技術者を派遣し、日本語対応のためのプログラム作成に協力している。来年5月に完成予定のイーパブ3・0は、日本語の縦書きや句読点の禁則処理、ルビ表記などに対応する。同じく縦書きの中国語のほか、右から左へ書くアラビア語やヘブライ語にも対応する。
                      米国の電子書籍市場は、米アマゾンの「キンドル」が火付け役となり急成長。米アマゾンは今年7月、電子書籍の販売数が紙のハードカバーを上回ったと発表した。キンドルや米アップルの「iPad」(アイパッド)など電子書籍端末は米国で累計900万台売れ、10年の電子書籍市場は前年比3倍超との試算もある。iPadが採用したのがイーパブだ。
                      一方、日本国内はシャープが開発した「XMDF」や日本企業ボイジャーの「ドットブック」など複数が混在している。互換性がないため、出版社はそれぞれの方式で書籍のデジタル化を進めなければならなかった。
                      また、国内の大手家電メーカーや書店、携帯電話会社も独自の提携戦略を展開。シャープはカルチュア・コンビニエンス・クラブ、ソニーはKDDI、NTTドコモは大日本印刷と提携。このほか、NECビッグローーブも対応端末を発売し、紀伊国屋書店がパソコン向け電子書籍の販売を姶めたものの、規格は統一されていない。このため、国内の太手出版社や印刷会社が書籍のデジタル化を容易にする統一規格づくりに乗り出していた。【宇都宮裕一、南敦子】

                      はずかしながら、電子図書に関しては、その考え方からして、日本は遠くアメリカにおよばない。電子図書の普及については、フォーマットの標準化が最大の課題であり、いたずらに独自フォーマットの開発で我が身をかばおうとするのは筋が違うように感じる。次いでの課題が、どれだけ格安で質の良いリーダーが提供できるかということになるだろう。
                      iPadに続いて、シャープのガラパゴス、ソニーのリーダー発売は、出版の新しい未来が開けると感じた人たちの多くを、少なからず失望させた。

                      しかし来年こそは、日本でも、新しい電子書籍の道が開けるような、この記事のおかげで、そんな期待を感じさせる年末となった。