地区の役員さんをやることになって/「選挙公報」の配布

2011.04.07 Thursday

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    今年の4月から順番で、地区の役員というのをやらされている。同じやるなら面白いとものをと思い「広報」を志願した。地区の執行委員会で何が相談され、何が決まったか、住民が知ろうと思えば知れる仕組みをつくろうと、ホームページの導入と、ブログの導入を提案しているが、これだけネット化が進み、普及率が高いというのに、すんなり「やりましょう」とはならない。ホームページのURALを住民に配るのも、住民の顔色を窺って、何か新しいことを始めて文句を言われないか、戦々恐々としている。これっておかしくないと思うのだが……ま、いずれ何とかなるだろうと、このブログ以外に「町内会」で「うまさん掲示板」なるものを始めた。
    それはそうと、地区の役員の仕事というか居住地域の班長の仕事に、回覧板を回すことと、配布物のポスティングがある。先日も「選挙公報」というものが回ってきた。

    今まで役に就くまでは、配布物にあまり関心がなかったが、こうして配るようになると、どんな配布物か気になる。朝、ゴロとトマ子(わが家の犬たち)の散歩がてら、配布物の選挙公報を配りながら見ていた。どうして2枚もあるのか、一枚は「知事選用」、一枚は「県議会選用」なのだが、前もって組み合わせてこなかったので、各ポストの前で組み合わせながら投函していく。「無駄だなあ、一般企業だと、こんな2枚にしないよなあ。表に県知事、裏半分に県議会、下半分に日程やら注意事項を入れれば、十分、用を足すのに……そんなことを思いながらのポスティング作業だ。

    しかし地区役員が「選挙公報」を配布するというのは、良いシステムだと思う。ところによっては新聞を取っていないと「選挙公報」が配布されない地区があるらしい。確認のためインターネットで調べてみると、やはり次のような記事と表を見つけだした。

    「選挙公報とは、候補者の写真やプロフィール、公約が掲載されている文書で、選挙管理委員会が発行する。すべての候補者の情報を一覧できるので、ふだん選挙のことを強く意識していない有権者には便利な情報源といえる。
     選挙公報は、公職選挙法にしたがって各地域の選管が配布する。ただ、選管の職員が直接配るのは現実的でないため、「新聞折込」で配達されるのが一般的だった。そのせいで新聞をとっていないと、選挙公報も受け取れないというわけだ。」

    これがなんと2007年の東京都の状況で、その後、同年の2007年の統一地方選挙のときから全戸配布に切り替えたという。しかし、上の表(J・CASTニュースから転載)を見る限り、2009年7月時点で、東京都23区のうち、まだ3分の一以上が新聞折込になっている。

    では奈良はどうかというと、広陵町はどうも全戸配布になっているようだが、システムとして全戸配布が義務づけられているわけでなく、各市町村の事情により「新聞折込」になっているところもあるようだ。これについては、それぞれの選挙管理委員会に問い合わせないと、実状は分からないらしい。
    新聞を読まない世代が増えていく中、こんなところにも自治会の地域における役割があるように感じられる。自治会というのは、古いようで、なかなか新しいシステムかもしれない。そんなことを感じさせられたポスティング作業だった。

    孫と登る二上山/古代石切場へ

    2011.03.22 Tuesday

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      二上山にある古代石切場(高松塚の石はここから運ばれたという)


      東日本大震災の影響で、関東にいる孫たちが奈良のわが家へ避難してきている。学校を休んでの避難とあって、毎日が日曜日。そこへもってきて春分の日の3連休。元から同居している孫たちも休みとあっては、どこかへ連れて行かざるを得ない。
      近くに二上山があるが、僕も雄岳へは何度か登ったことがあるが、なぜか雌岳へは登ったことがない。
      そこで孫たちを率い二上山・雌岳へのハイキングとしゃれこんだ。娘が弁当を作ってくれ、これを背負って「いざ出発」という次第。僕が車の運転が出来ないため、娘や息子を巻き込んで、まずは竹ノ内街道を万葉の森公園まで進む。ついでながら竹ノ内街道は、古代の国道1号線とも言える道。ここを中国や新羅・百済の使節が飛鳥の宮へと向かった。
      万葉の森公園無料駐車場に車を止め、いよいよ歩き出すわけだが、古代池をすぎたところに、なぜか書家「榊莫山」の「花アルトキハ花ニ酔イ 風アルトキハ風ニ酔ウ」の石碑がある。不思議に思い、帰ってから調べてみると、榊莫山先生、大の二上山びいきだとか。こよなく二上山を愛し、来山記念として揮毫したのがこの句と、馬の背近くにある「トロイデ火山ハ静マリテ 女岳雄岳ヲ拝ム里 尼上嶽ト誰カ言ウ」の二句だという。どちらの句も、なにか不思議と心の琴線に響いてくる。

       

       
      古代池からかなり急な登りが続くが、登り切ったところで、登山道から左へ逸れる道がある。標識によれば古代の「石切場」へ向かう道だという。
      実は、私がここへ来た目的が、この古代石切場を見ておきたかったためだ。
      ここから切り出された石が、奈良の多くの古墳造営のために使われた。藤ノ木古墳しかり、わが家のすぐ近くにある牧野(ばくや)古墳しかり、有名な高松塚しかり、もっと大物では、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳またしかりである。箸墓古墳が、卑弥呼の墓かどうかは別として(僕自身は、卑弥呼の墓は北九州にあると思っているが)、この古墳を造営するのに、二上山の石切場から、櫻井市の纒向まで、人がズラッと並んでバケツリレーよろしく、石を手送りで運んだという。下の写真は、箸墓古墳の近くにある檜原神社から二上山を写したものだが、数字的なデータは持ち合わせていないが、感覚的に、どれだけの人力が動員されたのか分かってもらえるのではないかと思う。またもう一枚は、箸墓古墳そのものの写真だが、手前の古灯籠の火袋は、太陽に半月をデザインした日月紋に見える。最近、新旧とりまぜ半月から三日月まで、太陽(円)と組み合わせた日月紋を火袋にデザインした石灯籠と良く出会う。これについては、またの機会に紹介したい。ここでは二上山から箸墓古墳までの距離を実感していただき、この間を人のリレーで石を手送りしたという大和政権の動員力の凄さを感じていただきたい。

       

      右手に見えるのが箸墓古墳



      「石切場跡
      ここから産した石材は、二上山凝灰岩です。
      古墳時代終末期に奈良県明日香村高松塚古墳、マルコ山古墳の横口式石棺の石槨材として利用されています。
      また、古墳や石棺のほかにも寺院や宮殿の基壇化粧石にも利用されています。
      二上山の岩屋、鹿谷寺もかつて凝灰岩石切場の跡を寺院に利用したものと言われています。この石切場跡は、凝灰岩の露頭が剥き出しになっており、岩塊には矢の跡が多く残り、方形の切り出し痕跡が認められます。」

      地図.jpg

      めでたく古代の石切場を、この目で見られたのは良かったが、息子や孫どもは、山が深そうだと行くのを嫌がり、私一人での寄り道となった。さて孫どもと合流すべく、もと来た道を引き返したのだが、いっこうに孫たちの姿に追いつけない。急な山道をひたすら上り詰め、とうとう雌岳山頂へ到着してしまった。しかし、山頂にも姿はない。どうしたのかと心配していると、逆の方からフーフー言いながら孫たちが現れたではないか。どうやら、勾配の少ない別のコースを登ってきたようだ。

      山頂で持参した弁当を広げ、しばし山頂で遊んだ後、下山する。

      行きしなには気付かなかったが、古代池(下の写真)の所に、手書きの看板が出ている。
      そこには「粥(かゆ)」の起源について、「光明皇后が病気やひもじさに苦しむ人々のために悲田院や施薬院を建て、そこで施されたのがはじまりという」と記されてある。
      文末に「万葉朝がゆ会」 という名が出ているが、これは「毎月第一日曜日に、朝6時30分から雌岳山頂に登り下山の頃に、この古代池付近でおいしい炊きたての茶がゆが振る舞われるという集まりらしい。入会金は年千円になっている。
      退職以来、出張したり書店回りしたりする以外は事務所にこもりっきり。またぞろ腹の出具合が気になりだしており、ぜひ参加したいと心が動いたが、万葉の森までの足がない。
      車を出してもらうわけにも行かず、かといって自転車となると、竹ノ内峠の坂を上れるのかと、それを考えると急にやる気も失せていく。
      なんとも情けない話だが、この4月1日、自転車でチャレンジしてみようと思っている。
      成功した暁には、このブログで自慢たらしく紹介することにしよう。

      はじめての英文出版物

      2011.03.21 Monday

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        退職後、零細な出版活動を続けているが、その活動の一つに、「精神活動の重要性」を啓蒙していくUTAブックの仕事がある。政治・経済・科学等々、物質的な活動が行き詰まりを見せているのが今日の世界の現状だと思う。紛争という人災一つをとっても、個人的な争いから民族的、あるいは宗教的な争いまで、なくなるどころか増える一方で、政治も経済も科学も、さらに宗教でさえ何の解決ももたらさないばかりか、むしろ紛争の原因でさえあった。「心の時代」と叫ばれはするが、お題目でしかなく、次から次へと起こってくる様々な問題を、本当に自分の心の問題としてとらえることは誰もしようとはせず、いつも自分以外の誰かが悪い、もしくは自分以外の何かが原因として見て見ぬ振りをしてきた。
        そんなことを思うと、数こそ少ないが、UTAブックで出版している本の中には、肉体中心の考え方から、心を中心とした考え方への「意識の転回」が提唱されており、それこそが、その場しのぎの対症療法から離れ、人間そのもののあり方を根っこからひっくり返してしまう、そんな究極の解決策が示されているように思えてならない。

        そんなUTAブックの仕事の中で、最初の英文出版物が完成に近づいている。
        Jennie Lai の執筆する"Journey of Con consciousness"(仮題)が、それだ。
        現在、日本で編集・校閲をお願いしているHさんから、中間報告のメールが入ってきた。

        「先日営業日誌にも書かれてましたが、ジェニーは大体今月の24日までに仕上げるようにがんばっているようです。それが終われば、あとは文法やタイプミスをチェックしてもらうように、アメリカ在住の方々による校閲が入るそうです。
        内容は、12月末の初稿からがらりと変わり、ブルーの本(Message frome Taike Tomekichi)からの抜粋も少なくなり、新しいチャネリングを加え、(A4コピー用紙で)100ページ以上になる感じです。私もはじめの少しを送ってもらいましたが、今回は読んでいると本当にうれしくなります。この学びの特殊な言い回しではなく、初心者にもとてもわかりやすい言葉遣いになっているので、読みやすいし、理解しやすいものになっています。」

        完成は、アメリカの著者校正とのやりとりがあるので、見通しとしては、5月に入ってからになると思われるが、この本については、従来の紙の出版でも行うが、同時にアメリカ国内での流通・普及については、電子出版を予定している。
        アメリカでは、ニューエイジと言われる精神世界の出版物が日本以上に盛んだが、そんなアメリカの読者に、UTA出版物は、どのように受け取られるだろうか。

        また、この"Journey of Con consciousness"(仮題)については、日本語翻訳版も追って出版される予定であり、日本の読者にも、新たな波紋を投げかけることになると思う。

        阪神淡路大震災/うわさ話

        2011.03.19 Saturday

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          ここでは、僕が「政府刊行物大阪サービスステーション」で、はじめて出版活動を行うようになった第一号の作品「避難生活から学ぶ心の震災防備」(熱田親憙・著)のなかから、避難所生活の中でのいくつかのエピソードを紹介しています。東日本大震災の被災地域で、これから始まる復興に向けて、しばらくは避難所暮らしを余儀なくされる方々が大勢おられると思います。その方々に幾分でも参考になればと思う次第です。


          食事をとらない車イス
          「あの隅の教室に当初おられた車イスのご夫婦、いつの間にかいなくなったわネ」
          「地震の時は装具をつけていないで寝ていたので、隣の人が背負って、この学校に連れてきたらしいの。でもこの学校のトイレでは用を足せないので、時々半壊の自分のアパートに帰ってするというの」
          「そうね。学校のトイレは健常者向きたものネ。こんなときは困るわ」
          「毎日帰ることは負担なので、どうなったと思う、トイレに行くのが恐ろしくなって、とうとう一日中水を飲まなかったり、弁当を食べなかったりしていたそうよ」
          「でもそんなに長く持つ筈ないよネ」
          「そこで、自力で障害者施設の何とかというところに、やっと収容してもらったそうよ」
          「学校を去るとき、近くの人にお礼をいいながら、健常者自身が大変なときは、私たちのようなものは後廻しになるのネといったそうよ」
          久子はそれ以上聞く気になれず、廊下を出ていった。そして考え込んで了った。──この世の設備は凡そ健常者を前提に作られている。段階なんかは、障害者でなくても老人である私たちにもつらい時がある。その人の立場になって設計されていないということかしら──私はこれらの公共施設を設計する人が、健常者ばかりであるところに原因があるように思う。健常者にその目を持てといっても、つい忘れて了うのが人間の弱さである。答は障害者の設計者を採用することだと思う。

          会社は頼りになるが、女泣かせ
          被災四週目に入ろうとしている週末の、ある寒い夜だった。夕食を終え、校庭にいつものように焚火されるが、この日は一段と燃え盛かり、囲む円陣の輪も大きく、仲々火から離れようとしていなかった。その円陣の中のある主婦がやや高潮した面もちで喋り出した。
          「うちの人たら、この三週間のうち、二回しか帰って来ないの。いくら会社か忙しいからといっても、あんまりだワ!」
          「会社に電話をしたの?」
          「したけど、出張中とかいって、一回ぐらいしか話してないワ。当初は、すぐ単身寮の世話をしてくれて、自治体よりも頼りになるなあと思ってたけど、家族寮を世話する気配は全然ないんだから──」
          「奥さん、本音はそばに亭主がいなくて、淋しいんじゃないの」
          と三十代のある男が茶々を入れる。
          「そんなんじゃないの。子どもが夜中に熱出して、大変だったんだから──」
          「大変だったって?」
          「水をローソンに夜中買いに走ったの。途中真暗らなところを走って、なんとか目的達して、やれやれと同じ道を歩いてきたら、暗闇の中から、一人男の子がヌッと出てきた。何が欲しいか知らないけど、ハッと身を交わして、何とか逃げられたのよ」
          また茶々が入る。
          「奥さんは若いから、無理もないよ」
          この会話をきいていた田口夫妻は、隣の焚火の輪に移り、火を前にして先ほどの会話の感想を述べあった。
          「いろいろ考えさせられるネ、おじいちゃん。会社って、社員は大事にするけど、その家族は大事にしないのかしら。昔なら分るけど」
          家族は亭主が扶養するという考え方は、また基本的にあるようだネ。夫婦は経済的主従関係という見方か強いかもしれない。給与明細でも、家族手当という欄があるものな」
          「すると亭主は外を守り、内は妻が守るというパターンは変っていないわけネ。避難生活の場合は内なる妻が孤軍奮闘も当たり前ということですかネ」
          「少くとも避難生活という非日常的な生活を強いられている場合は、亭主の生活への参加は配慮すべきかもしれないネ。会社も本人も」
          「まだまだ昔の意識が依然として残っていることが再発覚されたことになるわけネ」
          「先ほどの奥さんは病人の氷で恐い思いをしたが、女としてつらい生活の最たるものは何だと思う?」
          「さあ」
          「この前、救援物資の受付のところである奥さんが話していたけど、マンションの水汲みだって。産後の娘がマンション十階に住み、毎日の水汲み(給水車)のための昇降が大変で、娘のコールで応援に行ったけど、エレベーターも動かないマンション十階は、水汲みに難儀したそうよ」
          「昇り降りは腰にくるからネ。それに寒い時期なら、先々腰痛が心配になるわね。」
          「ところでさっきの話に戻るけど、会社からあまり帰ってこない話、どうしてだと思う?」
          「避難生活は辛く、美しくないから、帰りたがらないといいたいのだろう?」
          「そう、男の人の狡さよ。私だって覚えあるからネ。年末の大掃除、何回逃げられたか」
          「あの奥さんはまだその辺が分っていないから、カッカッしている訳かな。その他にもう一つあるよ理由は──」
          「なに?」
          「当時、交通網が悪いから、何時間も掛かるので、疲れることと欠勤だろうな」
          「欠勤って、そのために有給休暇があるのじゃないの?」
          「俺もそう思っていたけど、誰かがいってたよ。遅刻や電話かかけられなくて欠勤扱いにされ、その上それが理由で解雇になったというところもあったらしいぞ」
          「信じられない。それは大きな会社じゃないだろうけど、無茶な経営者もいるものネ」
          「多分、バブル崩壊後、人員整理しなければならない状況にあって、整理するキッカケが見付からなかった社長さんかもしれんな」
          「この地震で揺すられたのは、家や橋だけでなく、表に出ていない水面下の、社会の恥部までに及んだということですか。見方を変えれば二十世紀末の大掃除になるわけネ」
          「その大掃除がどう掃かれ、掃かれた後をどうするかが問題だ。そんなこと思い巡らしていると、後十年いや二十年は死ねないネ」
          「そんなに生き延びたら、世の厄介者になるから、ほどほどにしないと──」
          田口夫妻の会話は核心に触れる部分があってなかなか含蓄がある。年を重ねることは知を重ねることだと気づかされた会話たった。

          運のない人──ダブルショック
          日曜日の朝はやはり人が多い。廊下の隅に設けてある電話の近くは若い人で一杯である。ここに揚げるのはOL二、三年生の会話である。
          「私の友だちに電話したら、しょげてるの。その訳きいたら、私までショックたワ」
          「ねね、どうしたの?」
          「加古川の子だけど、御影のスポーツクラブて水泳のインストラクターをやってたの。地震で崩壊して、失職したわけ。でも本人は正式に言われていないので、営業再開を待ってたみたい」
          「のんきね、馬鹿みたい。私だったら確認して、失業保険もらうように手続きするなあ」
          「不安になって確認したら、復旧の見込みなしと言われて、泣き泣きマネキンクラブに紹介依頼にいったわけ。一カ月後に、エアロビクスのスタッフの仕事があり、喜んで芦屋にある教室へ向う途中のこと、即ち初出勤の日、事故を起したの」
          「どんな事故?」
          「工事現場の脇を通るときに、そこに止めてあったクレーン車と、ピカピカの自転車が激突し、肩から膝までの左半分を打撲して、今自宅で療養中だって!」
          「どこか、よそ見でもしてたのかな。それにしてもついてない話ネ」
          このような似た話は他にも一杯あったと思う。思わぬことで人生プランか狂い、必死にプランの修復に努めたが、心の中の修復まではいかなかったので、チャンスを生かすことができなかったのであろう。幸い若いので、療養中に精神力も培養されて、再度チャレンジされることを祈るばかりである。

          やはりレイプ事件が──
          貞夫が自治会の副会長になってからしばらくの後、午後七時から始った運営委員会の雑談の時の話である。
          「外国では地震、洪水などの天災があると、必ず盗難やレイプなどが横行するが、日本ではそれがない。阪神大震災では住民みな紳士的であると報道されているが、どうも横行しているらしいネ」
          「加害者がその気になるなら、街は暗く、人影も少いので条件は揃っているもんな」
          「どうも崩壊した民家を昼間ボランティアに来て下見し、真夜中に盗難に入るらしいぞ。確かめた話じゃないが──」
          「やはりあったのか。これだけ飽食の時代といわれても、金目のものが欲しいのは、誰でも、いつの時代でも一緒だからネ」
          「そういえば、自治会単位で、パトロール班を結成し、当番制て夜廻わりしているところも時々見かけますな」
          「通勤するOLや通学する女学生を狙って、暗い解体現場に引きずり込み、複数犯で犯すケースか多いようだ」
          「どんな手口で誘うのかネ」
          「噂の話だから確かじゃないけど、『お風呂に入りたくない?』とか言って、ワゴン車を準備しているらしい」
          「実に計画的だね。若いもんは衝動的だが、レイプになると計画的になる訳か。それで被害者届けは出していないのかな」
          「どうも泣き寝入りらしい」
          「今の女性でも昔の倫理感に縛られて、耐えている面があるんですなあ」
          不幸にして、レイプの経験がないので解説できないか、誰でも精神的ストレスや生理的なうっ積がつもると、自分で解放することができないと、他人の力を頼ることになる。そのやり方か強制で、害を与えることになるので社会的な問題になる。しかし社会的問題にしたがらない被害者が多いだけに、問題が深いのである。ここで対策を述べる気はないが、被害者に対する温かい目を持つ社会にならなければならない事だけは確かと思う。
          話を戻そう。運営委員会の雑談は更に続いた。
          「ところでオチついでの話になるが、ここの話ではなく外の話だが、亭主の暴力やセックスが問題になっているらしいネ」
          「今度は家庭内レイプか。地震で亭主のこころまで揺さぶり、不安定にしてしまったのかもしれないな」
          「しかし、ストレスが溜って暴力になるのは分かる気もするが、セックスはその気になるかな。暴力は一方通行でもセックスの一方通行は成立しないものね」
          「正にレイプ家庭版だな。これは奥さんが被害者になる訳だ」
          「奥さんの方はOLや学生と違って、泣き寝入りする事は少いんじゃないかな」
          「最近の奥さんはみな勉強しているから、意識が高いですよ。裁判も辞さないのでは──」
          「だから、最近特に離婚訴訟が激増してるらしい。詳しい数字は知らないけど──」
          「その話はよく聞くネ、最近。離婚を密かに考えていた奥さんが、地震で亭主の本心を確認し、決意が早まったという話を家内からも聞いたな。いろいろな事が表面化しますネ」
          「お宅ではそんな事ないでしょ?」
          「いや、いつ思わぬボロが出てくるか分かりませんワ。ハッハッ──」
          最後には冗談まじりの言葉が入って、会議の本論に入ったが、副会長の貞夫は離婚という言葉が心につかえていた。彼は今まで離婚という言葉は遠い縁のないものと決めつけていたが、一度久子に離婚の心が潜んでいるか聞いてみたくなった。これを聞くことがお互いの絆を深めるキッカケになるかもしれないと思うからである。その後、彼からその後日談はきいていない。

          阪神淡路大震災/避難生活者の言えない話

          2011.03.18 Friday

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            ここでは、僕が「政府刊行物大阪サービスステーション」で、はじめて出版活動を行うようになった第一号の作品「避難生活から学ぶ心の震災防備」(熱田親憙・著)のなかから、避難所生活の中でのいくつかのエピソードを紹介しています。東日本大震災の被災地域で、これから始まる復興に向けて、しばらくは避難所暮らしを余儀なくされる方々が大勢おられると思います。その方々に幾分でも参考になればと思う次第です。


            避難生活者の言えない話

            貞夫と久子はいつも奉仕の姿勢で、その任務にいつも没頭していたが、冷静な目も忘れていなかった。物事がうまくいかない場合には必ずその底に隠れている原因がある。原因である本音を捉えないと、人の賛同を得られないことを痛いほど教えられていたからである。貞夫の目はいや応なしに冷静になり、本音の追究に明け暮れた。当時を振り返り、本音のいくつかをご披露願った。

            一、神戸に戻りたい。隣の人と話したい。
            被災当初の一週間ぐらいの間は、自分たちの住む家さえあればと思い、寒さもひもじい思いも耐えてきたが、数週間も経ち、具体的に行政側から仮設住宅の案内がでると、既に不満に変っていた。
            「こんなところでは、勤め先がない」
            「あそこでは、会社までの通勤時間が遠くて、とても住む気にならない」
            などの言葉に代表されて、折角供給した住宅が、なかなか埋まらなかったとのこと。人間の欲望というのは日毎に変わり、一つの望みが叶うとそれが不満に変わり、常に上を向いて広がっていくものである。これがあるから人間は努力し、成長していくのかもしれない。行政の方たちも予想外の思いを抱いただろうが、本音がつかめきれていなかったのだと思わざるを得ない。商売の世界だけでなく、行政の世界にも人の心を捉えたマーケティング発想を要求するのは酷な話だろうか。この場合の本音は、「今までのように、隣近所の人たちと心おきなくお喋りしたい」のである。従ってできるだけ神戸市内に仮設住宅を計画する努力が求められよう。それも個人別抽せんでなく、隣近所一緒になって抽せんを受付ける計らいか求められる。人間、孤独に耐えられず、孤独死を恐れているのである。

            二、罹災証明に疑心暗鬼
            被災程度によって、行政からの見舞金が違うだけに、全壊・半壊・一部壊の行政判断は、被災者にとって関心の的である。その判断基準が一般の人に分かるように明示されないために、疑い深くなるのは人情である。それを裏付けるような噂も聞いていたので、貞夫の耳もそば立った。ある人の洩らしを聞いた。
            「私んとこ、全壊にしてもらった。現場をみている暇ないから、分らないかもネ」
            行政側からみれば、集中的に申請されるのであるから、現場確認ができないかもしれない。できないなら誰でも判るような基準を発表したら、少くともゴネ得を自慢気に喋る人はいないだろう。公平を旨とする行政は、もう少しオープンにする毅然たる姿勢が欲しいところである。バブルのツケともいえる住専問題や非加熱血製剤問題でも、行政の隠密主義が明かであり、江戸屋敷の官史と全く変っていない。

            三、義援金の皮算用
            全国から神戸市に集まった義援金は千五百億はあるだろうとみている。しかしこのうち、見舞金として被災者の手に渡ったのは百億円足らず。残り千四百億円は、どう使うのだろうか。民間と公共に使用されるだろうが、民間一人当りの取り分は、少くとも普賢岳や奥利尻島の場合よりは少いだろうと、避難生活している教室での食後の話題になっていたという。いづれの日かオープンにしなければならないだろう。これまで株式会社神戸市の開発力の恩恵を受けてきたので、市民はどちらかといえば肯定的な態度をとってきたが、震災後の役所としての対応ぶりに、市民はうんざりし、その仕返しは選挙でと、一度は心に刻んだと思う。二十一世紀の未来都市・神戸を目ざすなら、今回の教訓を忘れず、しっかり心に刻んで、新しい神戸魂をもった行政と市民に生まれ変って欲しいと思う。そして文明と文化が調和した都市になると思うのである。

            阪神淡路大震災/自衛隊のテント風呂

            2011.03.18 Friday

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              ここでは、僕が「政府刊行物大阪サービスステーション」で、はじめて出版活動を行うようになった第一号の作品「避難生活から学ぶ心の震災防備」(熱田親憙・著)のなかから、避難所生活の中でのいくつかのエピソードを紹介しています。東日本大震災の被災地域で、これから始まる復興に向けて、しばらくは避難所暮らしを余儀なくされる方々が大勢おられると思います。その方々に幾分でも参考になればと思う次第です。


              自衛隊のテント風呂

              救援活動のためここ東灘小学校へ自衛隊が着いたのは、震災一週後の一月二十四日であった。多淵夫妻も歓迎して、校門入口の運動場側に立った。外地で戦争した経験を持つ貞夫にとっては、彼らに何ができるかと半信半疑な印象を持っていた。到着するなり、校門正前奥の校舎寄りの運動場にテントを張り始めたので、野営テントかなと思っていたところ、炊事場だった。炊事場にプロパンガスの火がともり、夕餉の匂いともいうべき、ご飯の炊き上がる米の匂い、ダシを取る鰹節の香りが鼻を突き、空いていたお腹を刺戟してきた。忘れていた別のホルモンが動き出したのであろうか、炊き出されたご飯、味噌汁、お漬物を手にした多淵夫妻は異口同音に、
              「まあ、美味しい。熱いって、こんなに美味しいものだったかしら、じいちゃん。」
              「ご飯も汁も、丁度花が咲き始めたころって感じだな。この味、もう少しで忘れるところやった。」
              「心が伝わってくるような気がするワ。」
              「やはり出来たては美味しいなあ。」
              一週間振りに、空腹を超えた味わいを覚えたのである。自衛隊は予め決められた役割を黙々と続けて、被災者の列に応えていった。その列には近くの住民の人たちも混じっていた。我が家に住んでいるとはいえ、ガス、水道などのライフラインを止められた生活には、自衛隊の炊き出しは何とも嬉しかったようである。
              「思い切り火を燃して出来たご飯は、やはりおいしわネ。電気炊飯器と違うみたい。」
              「これ、コシヒカリかしら、おいしいもの。」
              「みんなで、食べるからおいしいのよ。」
              「炊き上って、蒸らし加減が丁度いいのよ。」
              とさまざまな感想を述べなから、校門を出ていった。
              こんな風景が当り前のようになった一週間後の一月三十一日、校門入口の右側に新たなテントを張り出した。校門入口の左側には、貞夫が仕切っている物資本部のテントがあり、運動場の中央奥には自衛隊の炊事テントがあり、右側奥には、避難テントが大小十個ほど陣取っていた。このテントは校舎の教室や講堂、廊下に避難することを嫌い、プライベートを保ちたい家族が多かったようだ。その後仮設住宅や転出先の決った方から教室を空けていくが、このテントは最後まであったという。
              運動場の残り少いスペースに立ちつつあるテントをじっとみていた貞夫は、「野営テントでもないのに、今更なんだろう」とつぶやいた。ややしばらくしていると、水を入れる大きな、腰高の、布製の槽を目にした。
              「風呂場を作るのか。」
              貞夫の忘れていた暮らしの場面である。この二週間、パンや弁当の荷降しや配布にすっかり心を奪われていたことを振り返りながら、自分の暮らしを見廻した。夕食を終えたあとのひとときや寝る前の瞬間に、誰のものともいえぬ体臭を感じたことが、何回もあったことを思い出した。
              目の前に、見る見るうちに、テント風呂が出来上がり、貞夫も年甲斐もなく狂喜した。同じように目を凝らしていた人たちが、たちまち列を作った。しかし隊員の行動は規律正しく、紳士的で、番台代わりの担当者は
              「この看板に書いてありますように、男湯、女湯に分けられませんので、一日交代とさせていただきます。皆さま全員にご利用いただくため、お一人十五分程度でお願いします。なお、下着等のお洗濯はご遠慮願います。」
              と丁重に言葉を繰り返していた。貞夫と久子は彼らの行動に感心し、すぐ甘える気になれなかった。
              「おじいちゃん! 今まで私たちが思っていた自衛隊と違うネ。みな物静かで、余分なことを何一ついわず、なかなかの好青年ばかりネ。」
              「皆が欲しがる頃合いをよく知ってるよ。お腹の心配がなくなったら、次は身の廻りの清潔、さしずめ洗濯だもの、風呂はグットタイミングだ。」
              「私たちの番はいつごろになるかしら。」
              「テント村も入れて、千二百人、それに近所の住民もいるから、大分先になるな。」
              こんな会話を物資本部の隅でしているところへ、隣の教室に避難されている本山さんの奥さんが、顔から湯気を出しながらお風呂談義。
              「ああいいお風呂だったワ。一度に二十人位入れるかしら。何しろ銭湯のようで、生き返った感じ! 久しぶりにジャブジャブとお湯を使ったけど、お水さまさまという感じだったワ!」
              普段何の苦労もなく蛇口をひねると、すぐ使えることに馴れ切った私たちには、自然の恵みに感謝するよい機会でもあった訳である。多淵夫妻がこのお風呂に入ったのは、二月の十日ごろだった。それまで待てなかった二人は意を決して、二月早々神戸脱出を図った。
              阪神電車の復旧は遠く、自分の足だけが頼りだった二人は、道を拾い拾いしながらJR芦屋まで歩いた。芦屋から尼崎まで乗り、駅から徒歩十分ほどのところに、目ざした尼湯ヘルスセンターがあった。同じようなお客で賑っていた。普段は入浴料干九百円のところ、震災価格三百円で開放していたから大繁盛である。それだけに浴舟に浸かっている暇も少なかったが、十八日ぶりのお風呂は、まさに本山さんの奥さんの言葉通りだった。風呂上がりに飲んだサイダーと明石焼が殊の外おいしかったという。多分震災のツメ跡もなく、別世界だったのだと思う。
              風呂の心地良さを知った貞夫が、自衛隊のテント風呂に入ったのは尼崎から帰って一週間後の二月十一日。六帖ほどの大きさの湯槽が二つ、重油を燃して流れ出る豊かな水の量、ほど良いぬくもりを含んだ真綿のような抱擁に酔うほど十五分、生きていればこそ味わえるこの幸せだった。こんな幸せを届けた自衛隊のテント風呂は、近くに銭湯が開業されるまでのニケ月以上続いた。
              満州に出征した当時の軍隊生活と比較しながら、隊員を温く、頼もしくながめていた貞夫は、運動場の片隅で思ったという。
              「自衛隊の役割としてODAの海外派遣は増えていくだろうが、その前に国内に目を傾けなければならない。文明が発達すればするほど、天災、人災の規模は大きくなる。これを助ける組織も、各自治体を超えた国レベルの組織が必要になってくる。それも単なる情報や行政の一元化だけでなく、行動がついてこないといけない。ヨー口ッパのようなレスキュー隊がない日本では、自衛隊しかない」と。そう思うと今回の働きは将来の役割を示唆するものであると貞夫は妙に嬉しさがこみ上げてきた。もし満州でこのような震災が起きたとしたら、当時の軍隊はどうしたであろうかと思うと、隔世の感があった。
              愛される軍隊、頼もしい軍隊と見直した自衛隊を、貞夫は旧日本軍と比較して次のように分析していた。

              一、上官(上司)が威張り散らさない。
              二、私的制裁(リンチ)がない。
              三、紳士的で、無駄口を吐かない。
              四、女性隊員の物事をわきまえた活躍の場(例えば女湯の案内など)。

              隊員にこんな感情を持ったのは貞夫ばかりではなかった。それをはっきり証明させてくれたのが、お別れの日だった。取り立てて退去スケジュールを宣伝しないのに、少しずつ去っていく隊員の仕種をかぎつけて、被災者や近くの住民の輪や列が自然にでき、手を上げて
              「ありがとう、ご苦労さま。」
              「お風呂がよかったよ。」
              「味噌汁がおいしかった。」
              「おやつの焼きいも、子供、喜んでたわよ。」
              「きれいにしてもらって、ありがとう。」
              それぞれの思いをぶつけて別れを惜しんだ。これを受ける隊員は慢ることなく、目に微笑を浮べながら、黙々と目礼して車の中に消えていった。貞夫もその中にあったが、このシーンを貞夫は沈黙の万才だと名付けた。 

              阪神淡路大震災/避難所の中での奉仕生活

              2011.03.17 Thursday

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                「東日本大震災」が起こって一週間が過ぎようとしている。僕が「かんぽう」、いわゆる政府刊行物サービスステーションで出版活動を始めたのは、「阪神淡路大震災」が直接の原因だった。
                阪神淡路大震災は1995年1月17日に発生したのだが、それから5年以上も経った2000年の秋、関西国際大学の熱田親憙(あつたちかよし)教授が、「かんぽう」の僕のもとを訪ねてこられた。お話を聞くと、阪神淡路大震災の際、避難所生活を取材した本を書こうと取材活動を続けてきた。本もある出版社から発行される予定になっていた。ところがやっと原稿が完成した頃は、震災後のプレハブ住宅も撤去された後。出版社側も、この時期、この本を出しても売れないと判断し、出版を下りることになったのだという。自費出版も手が出ない、取材された人たちは、本になるのを待っている。「かんぽう」で何とかならないかというのだ。
                もともと「かんぽう」というのは、政府刊行物を書店に卸す業務、政令・法令公布紙である「官報」の取扱、「官報」への法定公告の掲載取次を主な業務とする会社だった。この業務の中に「出版」は含まれていない。
                しかし、国の出した出版物を書店に卸すだけというのも面白くない。せっかく書店への卸しをやっているのだから、独自の出版物を出せないか、そう思っていた矢先だった。
                没になったという原稿を読ませてもらって愕然とした。大地震という異常事態が発生したとき、それ以前の地域活動というか人と人との付き合いが如何に大きな意味を持ってくるか、また避難所生活という団体生活の中で「食べること」「排泄すること」をめぐる様々な葛藤。エゴもむき出しになれば、善意もクローズアップされる。
                この本は、将来、我々が直面する震災といった異常事態にどう対処していくかのヒントが本文中にちりばめられている。ぜひ出版しなければと思った。
                そこで考えたのが、読者をまず募集しようということだ。著者と出版社が協力して予約購読者を募る。たとえ製作費が全部でなくても、著者も出版社も、費用面でのリスクは大幅に下げられる。

                早速、著者の熱田教授に提案したところ、熱田さんも「面白い、やりましょう!」となり、こうして草の根出版活動とでもいうべき「オーダーメイド出版」がスタートしたのだ。
                そこへ、「神戸新聞」「読売新聞」「サンケイ新聞」「日経新聞」が「面白い」と記事にしてくれた。中でもサンケイ新聞のS記者は、「調べてみましたが、この出版方式、ありそうなのに、今までどこもやっていません」と応援してくれた。(上の写真は、2000年11月26日サンケイ新聞朝刊の記事)

                前置きが長くなったが、こうして「阪神淡路大震災・避難生活から学ぶ心の震災防備」は無事完成した。今では、この本も絶版品切れ状態だが、この機会に、著作権の関係で全文は無理だが、その一部を何度かにわけて紹介していこうと思う。


                避難所の中での奉仕生活

                昨年(九四年)十月、神戸の文化ホールで合同金婚式に出席、市や県の方々から祝辞をいただきながら、多淵夫妻は話し合った。
                「これまで元気にやってこれたのは、皆さんのお陰よ。それにおじいちゃんにも感謝してるワ。これからは感謝の気持を持って、日々暮したいものネ」と久子の提言。
                「改まると照れ臭いが、人間として原点に戻って暮せるといいね」と貞夫の応答。
                こんな会話を交わして、口も乾かぬ三ケ月後の今、地震の被災者として、この東灘小学校の一階の木村教室に、四世帯同居の一員となった。避難できる空間を得、食べるものが支援物資として三食得られるようになると、心も落着きを取戻しつつあった。久子も同じだった。姑の教育で清潔好きになっていた久子は、避難生活三日後の朝、廊下を通ってトイレに入ったら、ウンチの山。流そうにも水がないので、溜まる一方。これ以上になったら用もたせなくなると思うと、本来のきれい好きと金婚式の誓いの言葉が蘇り、
                「おじいちゃん。私、今日からトイレの掃除婦になるワ。地震で生きながらえさせてもらったのだから、感謝しなくちゃ。いつまでも避難生活者になっていたら、バチが当るワ。」
                「そうだな。人の為にする最後のチャンスかもしれんな。お前らしい役目を選んだが、俺は何をやろうかな?」
                「毎日、どうしてもやらねばならないのは、弁当やパンなどの食料の配布だね。力仕事は無理だけど、いろいろな手配、段取り、チェックなどあるから、その方を中心としたマネージャーになったら? おじいちゃん。」
                決ったらすぐ実行に掛かった。フットワークの良い久子は、ゴム手袋、タワシや薬品などを買って、自分たちの使うトイレ、男性用、女性用とも、約二時間半かけて、ウンチの山を袋詰めにして処理した。
                きれいにした満足感はすぐ傍の洗面所にも及び、約三時間で元のトイレ・洗面所に戻った。あとで久子は振り返っていう。
                「とにかく小学生の学び舎を、大人たちが住み家として奪ってしまったのだから、申し訳ないという気持が強かった。それに子供たちにトイレを汚す大人たちと笑われないようにしょうと、年配者である私が率先せねばならないという気持が強かったね。」
                こんな久子の働きぶりをみた同室の宮城さん。四十才前後の大学の先生であるが、早目に学校を引き上げて、自から清掃の役を買って出てくれた。そして同居する四人組全員が掃除婦になって、トイレは勿論、廊下まで水打ちできるようになった。心に余裕のあるときは、学校から足をのばして、ガレキの陰に咲く野の花を摘み、殺ばつとした教室に潤いを生けることも忘れなかった。
                きれいになったトイレでもまだ水洗は使えない。やはり用をたして、そのままの人がいる。責めても仕方ないので、四人の掃除婦は考えた。――徹底的にきれいにして、汚すことが咎められるようにしよう。そして入口に水桶と柄杓と小さなバケツを用意し、トイレに入るときは、バケツに水を汲んで入り、その後は流してもらうよう注意書きを貼ろう。――これを実行するとなると、水の確保と水洗が使用可能かどうかのチェックが必要だった。苦労したのは水洗のチェックである。流れるようにするため、便器の奥まで手を入れたり、棒を入れたりの苦戦の連続。この甲斐あって、以降汚す人はいなくなり、一階から二階・三階と徐々に広がっていった。
                「当初、飢えへの恐れから、人間の食欲のすごさを見てきましたが、排泄のエネルギーのすごさも、同じように感じたワ」と久子は述懐する。私の知人が震災まもなく、現地ボランティアで、温かいおでんを持参し、テントに住むお婆さんに勧めたら
                「おいしそうネ。食べたいけど、近くにトイレがないから―――」と耐えている姿をみて、暮らしの原点を気づかされたという話が思い出された。東灘小学校はまだまだ恵れていたのである。
                一方、食料班のマネージャーを決意した貞夫は、毎朝六時、校門から入ってくるトラックからパンや弁当を降して、皆さんに配るマネジメントをした。一日三回、一回が初めの千二百食。小学校へ避難した人ばかりでなく、学校附近の住民全員が集まったから、人数が読めなくて苦労したという。初めの二〜三日は、食料確保が最大の関心事だったので、一人で二食分、三食分を備蓄する人(比較的若い人)がいたので、年寄りは当らないときもあったという。これらの食料難も解消されると、被災者の関心は、今の避難共同生活をどうやって行くか、将来の自分たちの家はどうなるのかという点に移っていた。そのために自治会が発足、貞夫は副会長、会長はパチンコ店などを経営している事業家の松木さん。自治会の運営は十二ブロックの班長が中心となった。運営のポイントは三つあった。
                一つは今の避難共同生活のルールづくり、二つ目は被災者の要望に対する市対策本部、自衛隊、学校、児童側の回答の引き出し、三つ目は被災者のトラブルである。
                トラブルはいろいろあるが、多いものを上げると、まずは仮設住宅の件で、当選率が低い、場所が遠くて会社に通えないなどだった。次が弁当配給の不公平、人により二個三個確保するものがあるということ。三番目が勤め人の態度の問題。会社の無理解や本人の性格などから、とにかく会社第一。早朝出勤して夜遅く帰る。避難生活の共同活動に何も協力せず、申し訳ないの詫びもせずに、被災者として夜の弁当にありつける。昼間、清掃したり、整理整頓したりして疲れている老人や女の方からみれば、面白くないのは当然である。
                ここにも会社人間の人間像や会社像が浮かび上がってくる。伝え聞きであるが、十八日から平常勤務となったある会社は、神戸から通勤できない、連絡とれない社員を無断欠勤扱いしたという。このような会社の社員は、いつクビになるかもしれないと、家庭より会社を第一にするのは当然である。それにしても詫びる心の余裕だけは持って欲しいと思う。
                四番目が、朝から酒を飲んでいるグータラ男。何もしないで、被災者気取りが皆のひんしゅくを買っているのである。
                五番目が行政当局に対する苦情である。直後は空腹を充すためのパンやおにぎりも歓迎されたが、来る日も来る日も同じものが支給されるので飽きてしまう。そのため「ただ、支給したらいいというもんじゃない」と風当りは強かった。
                この点については自治会も反論できなかったが、往々にして、不平の多い人ほど行動が伴わないので、快く取り上げる気にもなれなかったこともあったという。これはいずれの社会でも同じである。不平不満の多い人は、自分で解決する力がないために不満になるのであるから、受け流してでも、聞いて上げること自体で、解決するかもしれない。
                貞夫は四月下旬、この東灘小学校で、副会長として約百日間頑張ったのである。今は悔いのない日々だったという。

                牛嶋神社の三ッ鳥居/東京の牛、奈良の馬

                2011.03.15 Tuesday

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                  墨田区向島の三囲(みめぐり)神社を後にし、言問橋(ことといばし)交差点に戻ってきたとき、方向を確認しようと持参のアイパッドで地図を開いた。通信さえつながっていればなんとも便利な代物だ。現在地が確認でき、行きたい場所まで道順が出て案内してくれる。若干、持ち歩くには大きいと思うが、アイポッドだと小さすぎて60歳を過ぎた目には酷だ。
                  それはそうとアイパッドの地図をのぞき込んでいると、事問橋交差点の近くに「牛嶋神社」という表示に目が止まった。「牛」を祀る神社といえば、まず思いつくのが「牛頭天王」で知られる「祇園信仰」。祇園祭で有名だが、牛頭天王とスサノオは同義であり、これを合体させ祀っているのが祇園信仰となる。牛頭もスサノオも共に疫病をはやらせる神であり、それを慰め和ませるべく祀り、疫病から逃れようとする。これが祇園信仰の原形になったという。
                  話はかわるが、かつてチャールトン・ヘストンがモーゼを演じ、セシル・B・デミルが制作した「十戒」という一大スペクタクル映画があった。ご覧になった方も多いと思うのだが、この映画の中で、モーゼがシナイ山に登っている間、先行きの見えない不安からか、一部のユダヤ種族が、牛の像をつくり、祭り拝むシーンがある。ユダヤ人達の中にはバァル神を崇拝する者も多く、バァル神を牛の形になぞらえ祭られることが多かったという。
                  このバァル信仰が日本にもたらされ、祇園信仰になったという考え方がある。

                  そんなことが思い浮かび、この牛嶋神社がなんとしても気になる。言問橋交差点でこんなことを思っていると、朝の散歩でも楽しんでいたのか、ひとりの老人が「あれは何ですか?」と声をかけてきた。
                  老人の指さす方を見ると、そこには東京スカイツリーが聳え、その天辺から黒い雲のような筋が上空に向け放射状に伸びている。何かの自然現象なのだろうが、珍しくて「さて、何でしょう」と気のない返事をしながら、デジカメをスカイツリーに向けた。老人は「カメラですか、私も最近持ち歩いておるんですよ」と、同じようにスカイツリーにカメラを向ける。
                  「どこへ行かれるんですか」
                  と、老人はカメラを構えながら訊いてくる。
                  「奈良から仕事できたんですが、少し自分のために時間を作って神社を回っているんです。」
                  「ほぉー、神社ですか?」
                  「歴史が好きなモノで、日本の古代史は神社を抜きに何も分かってきませんから……」
                  「三囲神社は行かれましたか?」
                  「ハイ、今行ってきたところで、これから牛嶋神社へ向かおうと思っています」
                  「それなら、すぐ先ですよ」
                  と言うや、一緒に歩き出した。
                  ゆっくり一人で回りたかったのだが、こうなったら仕方がない。旅は道連れということか……とあきらめて一緒に歩き出した。

                  やがて神社に到着してびっくりした。
                  なんと奈良の大神(おおみわ)神社と同じ三ツ鳥居なのだ。
                  三囲神社の三ツ鳥居は、同じ大きさの鳥居が三角形に組まれたものだが、大神神社、檜原神社(ともに奈良県の桜井市にある)にある三ツ鳥居は、中央に大鳥居、その左右に少し小さめの鳥居を配したものだ。この牛嶋神社の三ツ鳥居も、大神、檜原神社と同じタイプのものだ。



                  大神神社の説明によると、「明神型鳥居を三つ組み合わせた独特の形式で、「三輪鳥居」とも呼ばれ、いつ頃どのようにして、このような形式になったかは伝えられておらず、社蔵の文書にも「古来、一社の神秘なり」とのみ記されている」だけだという。
                  大神神社の三ツ鳥居は、拝殿の裏側にあって境内に入っただけでは見ることが出来ない。参集殿の受付へ頼めば特別拝観が可能だが、撮影は禁止になっている。この大神神社から山辺の道を北へしばらく行くと「檜原神社」へ出る。ここの三ツ鳥居は、境内にあって自由に見ることも撮影することも可能だ。二つの神社に共通しているのは、三ツ鳥居が、この「牛嶋神社」と違い、本殿前に配されいるのでなく、ご神体である御神座(みかぐら)=三輪山の前に配されている。
                  つまり本殿がないのだ。
                  「檜原神社」についてはいずれ別の機会にゆずるが、祭神は「天照大御神」、別名「元伊勢」とあるように「伊勢神宮」に「天照大御神」が祀られるようになるまでは、この神社がその役割を果たしてきたのだ。また「大神神社」の祭神は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)、少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)。
                  これに対し、この「牛嶋神社」の祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、天之穂日命(あめのほひのみこと)、貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)となる。

                  「日本書紀」の一書では、大物主神は大国主神の別名としており、「大神神社」の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。そして大国主の子供、あるいは大国主の六世の孫が、須佐之男命(すさのおのみこと)となる。
                  先にあげたように、祇園信仰では、この須佐之男と牛頭を疫病をもたらす荒ぶる神として同神に扱っている。しかも、この牛嶋神社、五年に一度の大祭、神幸祭では、今日では珍しくなった黒雄和牛が神牛となり鳳輦を曳くという。
                  思った通り、祇園信仰との関わりが深い神社のようだが、「三ツ鳥居」の存在によって、奈良の大神神社や檜原神社との関わりも推測できる。ただ江戸時代、火災にあっての再建のため、それ以前の資料がすべて消失しており、「三ツ鳥居」の由来も含め何もかもが不明だという。

                  境内を清掃している若い神官の方とそんな話をしていると、一緒についてきた老人が、こんな話を聞かせてくれた。
                  この牛嶋神社のある場所は、家康が荒川の流れを西に移す前には、荒川と隅田川の間にある中之島ような場所で、牛のような形をしていたので「牛嶋」と呼ばれていたと言うのだ。
                  この話を掃除をしていた神官の方に確認すると、「そうだ」という。そればかりか、その牛嶋には、天皇家の牧場、いわゆる官牧(かんまき)があって牛を放牧し、牛乳を朝廷に献じていたという。それを書いた案内板が境内の裏手の方にあるという。

                  境内の中の案内板探しが始まった。いつの間にか老人はいなくなっている。なかなか案内板が見つからず、またまた若い神官の方を探し出し、その場所まで連れて行ってもらった。
                  以下は、その案内板の表示を写したものだ。

                  江戸・東京の農業 浮島の牛牧(うしまき)
                  文武天皇(701〜704)の時代、現在の向島から両国辺りにかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。
                  大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令(きゅうもくれい)が出され、平安時代までに全国の牛馬を育てる牧場(官牧かんまき)が39ヶ所と、天皇の意志により32ヶ所の牧場(勅旨牧ちょくしまき)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「牛嶋牛牧」が置かれたと伝えられます。
                  時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることになりました。
                  明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。

                  この牛嶋の地は、祇園信仰で牛とつながっているばかりか、実際の官牧としても、牛の牧場として存在し、二重に牛と縁の深い場所であることがわかった。
                  そのうえ、以前から何となく思っていたことがある。それは今住んでいる奈良は広陵町馬見という地名だ。馬に縁があるとは思っていたが、隣町に上牧というところがある。これは「うえまき」でも「かみまき」でもなく、「かんまき」と呼ぶのだ。しかもこの地は欽明王家の地。やはり、大宝律令以前に、天皇家のためというか、大王のための馬の放牧場があったのだろう。それが馬見や上牧(かんまき)という地名として残っている。この地は、聖徳太子に代表される、騎馬遊牧民族の拠点の地だったのではないだろうか。
                  奈良から遠く離れた東京で、そんな確信に似た閃きに襲われた。

                  なお最後に、ブログ中、桜並木の着色写真を紹介しているが、これは関東大震災後、後藤新平によって計画された「隅田公園」の開設当初の写真だということです。

                  出張紀行/三囲神社&スカイツリー

                  2011.03.14 Monday

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                    東京への出張というので、ぜひ行きたいところがあった。
                    映画にもなった浅田次郎の小説「憑神(つきがみ)」。うだつの上がらない主人公が大変御利益があるという三囲稲荷に参るが、間違って貧乏神、疫病神、死に神を祀る三巡神社に参ってしまう。御利益どころか、貧乏神からはじまって疫病神、最後は死に神と、文字通り三巡りの災難に見舞われるというお話。その舞台となったのが、上の写真にある三囲神社だ。
                    ここへ来るために、時間を作り出そうと、大阪を午後10時10分発の夜行バスで出発し、朝の8時過ぎに、この三囲神社へとやってきた。別に小説が好きだから来たわけではない。
                    京都は太秦、蚕ノ社に「三ツ鳥居」という珍しい三角形の鳥居がある。三角というのは上から見たときのことだが、その「三ツ鳥居」を確認するのが、主な目的。
                    また京都の太秦には、大酒神社があり、同じ名前の神社が兵庫県の坂越(さこし)にもある。そして、そのどちらにも「いさら井」という井戸があって、これは「イスラエルの井戸」が訛ったモノといわれている。太秦広隆寺、蚕ノ社、大酒(大避)神社、すべてに共通するのが、聖徳太子のブレーンだったと言われる秦氏の存在。
                    兵庫の坂越の大酒神社は、渡来人秦川勝が流れ着いたという伝説があり、京都の広隆寺は、その秦氏の建立になる寺だという。そして、その秦氏の拠点太秦・蚕ノ社にある「三ツ鳥居」、それがこの三囲神社にもあるという。しかも蚕ノ社の「三ツ鳥居」を写したモノだという。
                    そして、京都太秦とこの三囲神社をつないでいるのが、三越百貨店というわけ。
                    三越百貨店の屋上には、この三囲神社があり、今居るこの三囲神社も、三越と関係がありそうだ。かつて三越百貨店の正門を飾っていたライオン像が、三囲神社の狛犬と仲良く並んで置かれている。
                    三越といえば、もとは越後屋であり、三井へとつながる系譜をもっている。また三ッ鳥居の説明板にも「三井邸より移す。原形は京都太秦・木島神社にある」と書かれている。
                    そこで当然起こってくる推測が、三井は、秦氏の出自か?ということだ。

                    右写真の鳥居はずいぶん新しいモノだが、もともとあったものを作り替えたのかも知れない。火袋の模様が面白い。片面は三日月だが、反対面には丸く太陽と思われる形が抜かれている。この太陽の抜かれた部分をのぞき込むと、太陽と三日月が重なり、なんと日月紋があらわれる。
                    法隆寺にある「四騎獅子狩文錦」、この獅子狩紋というのは、ペルシャ風の貴族か武将が馬にまたがり、振り向きざまに獅子を馬上から弓矢で狙っているという図柄になるのだが、その騎士の冠に着いているのが、三日月と太陽を組み合わせた日月紋であり、夢殿の救世観音の冠にも同じ日月紋がある。ただし、この場合は、下に三日月がお椀のようにあり、そこへ太陽が乗っかっている図柄になる。この灯籠の図柄を左へ45度傾けると同じ模様となる。



                    ここへ足を運んできたのは何らかの結論を下すためではなく、古代の日本を、文化・経済の両面から支えた秦氏について思いを巡らせるためだ。それはただ単に秦氏だけのことにとどまらず、日本を形作った渡来系の王族、豪族、あるいは名もない兵士へ思いを寄せる縁(よすが)となっていく。ユダヤ、月氏、スキタイ、突厥等々、様々な遊牧の民、放浪の民が、東の果て日本へとたどり着き、部族を形成し、やがて日本という王国を築き上げていった。
                    今となっては複雑に絡み合った糸を解きほぐすことは至難の業だろう。しかし、そこに思いを向けるとき、様々な人の思いが伝わってくる。事実の証明は出来なくても感じることは出来る。
                    それが僕の歴史との付き合い方だ。思いを向けていく先に間違いなく、歴史に埋もれてはいるが、自分の使った思いに突き当たる。

                    そんなとりとめのないことを考えていると、三越のライオン像の向こうに東京スカイツリーがうっすらと聳えているのに気付いた。

                    この後、スカイツリーを追いかけるように、牛島神社へ向かうが、途中、スカイツリーの上空で妙な現象が起こっているのに気付いた。
                    スカイツリーのてっぺんから黒い筋が幾筋も上空へ伸びているのだ。



                    左端の写真は、三囲神社で撮影したスカイツリーだ。ここでは黒い筋は見当たらなかった。午前8時半頃に撮ったものだ。中央と右の写真は、午前9時過ぎ、三囲神社をあとにし牛島神社へ向かう途中、言問橋の交差点で撮ったものだ。スカイツリーのてっぺんから黒い筋が幾筋も出ている。通行人のおじいさんから「あれは一体なに?」と訊かれ、はじめて気付いたモノだ。
                    この翌々日、大地震が起こったものだから、「ひょっとして何かの前触れか?」と、訳の分からぬことを考えたりしたが、僕が知らないだけで、きっと何らかの自然現象で、ちゃんと説明の付くことに違いない。こんな憶測から流言飛語が生まれるのかも知れない。
                    でも気になる。誰か、この現象について知っている人がいたら教えてください。


                                    (日本橋、三越百貨店屋上にある三囲神社の鳥居)

                    聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.5/太子像、叡福寺に到着

                    2011.03.06 Sunday

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                                          (太子町役場のホールで、最後の解説を聞く。)

                      昼食休憩後、「第29回 太子道をたずねる集い」一行は、志都美神社を訪れ、その後、旭が丘公園でトイレ休憩をとり、14時30分、予定通り、バスとの待ち合わせ場所「どんづる峯」手前に到着した。
                      ここから約15分バスに揺られ、太子町役場に到着する。
                      役場ホールで、橿原考古学研究所研究員・廣岡孝信氏の、今回最後の解説に耳を傾ける。
                      話の内容は今日要所要所で説明いただいたお話の復習と総まとめになるので省略するが、片岡氏のレジュメについては、準備が出来次第、ダウンロードしていただけるようにしようと思っている。

                      この後、いよいよゴールである叡福寺へ向かうわけだが、今日は、飛鳥・奈良時代にかけて、上宮王家の地「斑鳩」を歩き、敏達王家の中心部であった「片岡」の地を、北から南にかけて歩き通したことになる。距離にして約20キロ、時代的には、敏達天皇から、天武天皇、聖武天皇、長屋王の時代にあたる120年あまりの歴史を通り過ぎたことになる。

                      そんなことを考えながらのんびり歩いていると、叡福寺に到着した頃には、すでに聖徳太子像が太子廟の前に運び込まれ、法要が始まってしまっていた。
                      別に法要はどうでもいいのだが、写真の画としては面白いので、ぜひ撮っておきたかった訳だ。しかし、回りは既に人で埋まっており、カメラを構える場所もない。
                      ふと見ると、お堂を取り巻く廊下というか縁側というか、そこが空いている。恐れ多いと思ったのか、誰も上がっている人間はいない。ここに上がらせてもらえば絶好のカメラアングルが得られる。靴を脱ぎ、遠慮がちに上るや、思った通りの撮影ポイント、大慌てでカメラを構えた。
                      カメラを構えると、聖徳太子像の前に「富の小川の水」と書かれた水桶が、備えられている。
                      気になったので、帰って調べてみると「富雄川」の水のことを言うようだ。
                      聖徳太子が片岡山(達磨寺があるあたり)に遊行したとき、飢えた人を見て、食べものを与えたという。そればかりか自分の衣装を脱いで掛けてやり「安らかに眠れ」と言われたそうな。そのときに詠まれた歌が、

                      しなてるや 片岡山に飯に飢えて ふせる旅人あはれ 親なしに なれりけめや
                      さす竹の きみはやなき 飯に飢えて こやせる旅人 あはれ

                      これに対し、その返歌として飢え人が詠んだ歌が、

                      いかるがや 富の緒川のたえ(絶)ばこそ わがおほきみ(王君)の み名をわすれめ

                      だという。
                      「富雄川」の水を捧げるのは、おそらくこの事績に因んだのであろう。

                      これですべての行事を終わり、振る舞われた甘酒を頂いて帰路に着いた。