京都大学屯鶴峰地震観測所を訪ねて

2011.06.29 Wednesday

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    屯鶴峰地震観測所坑内.jpg

    屯鶴峰地震観測所入り口00.jpg6月半ば、屯鶴峰にある京都大学地震観測所を訪ねた。正確には京都大学防災研究所屯鶴峰地かく変動観測所という。近々ここは規模を縮小し無人化するというので、以前から見学を希望しており、個人的ならということで便宜を図っていただいた次第だ。
    そもそもなぜ縮小するかというと、地震予知が当たらないからだという。案内してくださった研究員の方は、「地震予知は難しい。何と言っても結果を出さないことには……」としみじみ言われた。
    この方とは、屯鶴峰公園入り口で待ち合わせをし、山道の茂みをかき分けながら観測所への道を進んだ。茂みを突き抜けたところは、工事のため山が切り開かれたような空き地になっており、そのさき左手の茂みに観測所の入り口が白く顔を出していた。
    もともとは本土決戦に備え防空壕があったところだという。防空壕というと小さな規模のものを想像しがちだが、防空壕というより地下要塞と言った方が当たっている。後で知ったことだが、朝鮮人兵士が厳しい条件で掘削にあたったと言われ、多くの犠牲者が出たようだ。このため、この辺りは心霊スポットになっているともいう。
    また、この二上山周辺にはこの地下壕だけではなくさまざまな軍事施設が存在していたようである。高射砲台、機関銃座、燃料貯蔵用地下壕。いわば、この周辺が陸軍航空部隊・航空総軍の一大拠点となろうとしていたように思える。そして、屯鶴峯地下壕はこれらの施設を統括する拠点として建設されようとしていた。韓国最後の皇太子李垠(イ・ウン)も航空総軍の指揮官として、この屯鶴峯地下壕に滞在していていたことも間違いのない事実のようだ。
    屯鶴峰地震観測所入り口.jpg
    話がとんでもないほうに逸れてしまった。しかし、なぜ防空壕跡に地震観測所があるのだろうか? 案内いただいた研究員の方に訊いてみた。要は、坑の中は湿度も温度も一定なので、外気に影響されずに観測されるのだという。そうこう話しているうちに入り口へと着いた。入り口の事務所らしきところで懐中電灯を手渡され、坑道へつながる鉄の扉が開かれる。中からヒンヤリした空気が流れ出し、汗が引いていく。
    ところで近畿には、この屯鶴峰の他、茨木・高槻にまたがる阿武山観測所、滋賀県大津市にある逢坂山観測所の3箇所の観測所がある。
    阿武山が昭和5年に、屯鶴峯観測所は,大地震と地殻変動の関係を明ら屯鶴峰地震観測所機器.jpgかにし,地震予知の手掛かりを得ることを目的として昭和40年に、逢坂山観測所は、昭和45年に地震予知研究を目的として設立された。
    ところで、この3箇所の観測所で2003年3月頃から地殻杯の顕著な変化が報告されている。2004年9月、2005年1月には、地下水位の急激な変化も観測されており、このことは近畿地方の地殻活動に変化が生じていることを表しており、規模の大きな地震が発生する可能性もあるという。現にこの現象は、阪神淡路大震災の数ヶ月前にも認められている。すわ大地震の前兆かと思われたが、この報告がなされたのが平成17年4月のこと。今現在、2011年(平成23年)になるが6年経っても、近畿で大きな地震は起こっていない。
    このことについて、これから先近畿で大地震が起こる可能性があるのか、案内いただいた研究員の方に尋ねてみた。しかし、いけないことを訊いたようで、「これについては自分としては何とも言えない。分からないとしか答えられません」ということであった。

    どちらにせよ、このような地殻変動が観測されているなら、用心に越したことはない。
    千利休いわく「降らぬ間に雨の用意」。いたずらに恐怖心をあおるのでなく、今こそ防災意識を高め、何があっても気持ちだけは対処できるようにしたいものだ。

    広陵町役場で防災についての取材

    2011.06.07 Tuesday

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      広陵町役場の総務部に、総務課長補佐 林田哲男さんを訪ねた。林田さんに広陵町の防災についてに話を聞くためだ。

      まずは、防災の面から、広陵町は地域の自治会に対し何を望んでいるか。震災等が発生したときの自治体の役割は何かということを訊ねてみた。

      林田さんが言うには、広陵町としては人材の育成に力を入れているという。そのため防災リーダー研修を開催しており、そこで防災士としての教育を受けた人たちが、各地域で防災リーダーとして防災意識を高めていくと共に、実際に震災発生時は、住民を安全な避難へと導くことが期待されているという。(今年は2月5日、2月12日、2月26日の3日にわたって防災リーダー研修が実施された。)
      というのも、震災が起こったときは、広陵町としては何も出来ないという。避難勧告等の連絡網も出来ていないし、混乱状態の中では町としては何も手がつけられない状態だという。
      各自が避難所まで逃げてもらうしかないというのだ。このため、いざと言うときのための地域のリーダーづくりが必要となってくる。今回の東北地方太平洋沖地震でも、「大丈夫だから待とう」と1時間近い議論を繰り返している間に、避難が間に合わず亡くなられた方が多いという。リーダーが如何に的確な判断が下せるかが生死を分かつときだってあるわけだ。地域の人材の育成が如何に大事かということを考えさせられる。

      林田さんは、避難所まで来られた後は、避難民への救援物資の配給等、広陵町の仕事になるという。このため、広陵町としては、自治会を中心に自主防災組織をつくってもらうよう奨励している。これは町長に対し、自主防災組織結成届出書を提出することからはじまり、書類審査のうえ、認可されると自主防災組織補助金が交付されることになる。自主防災組織が出来ると、防災倉庫が置かれる。防災倉庫に何を置くかは、町からの指導はなく、各組織が決めることになる。
      そこで林田さんに何を入れるべきかを訊いてみた。
      林田さんは一概には言えないが、二つの方向があるという。
      一つの方向は、メガホンであるとかハシゴ、のこぎり、ジャッキ、ツルハシ、ロープ、救急セット等々、救助器具を収納するという方向。これは必要といえば必要だし、必要ないといえば必要ないということになる。もう一つの方向は、食糧や飲料水、簡易トイレ等、救援の手が届くまでの間、持ちこたえられるよう保存食等の備蓄倉庫とする方向。
      特にトイレは、避難所でも水洗が使えない状態であり、阪神淡路大震災のおりは、トイレに行くのを嫌がり、食事や水分をとろうとせず衰弱死した老人がいるくらいだ。

      そこで避難所はといえば、校区で振りわけられており、我々馬見北4丁目の住民は「真美ヶ丘体育館」に避難することになる。この真美ヶ丘体育館に何世帯が収容されるのか、これはすぐには答えていただけなかったが、かなり窮屈な状態での集団生活を余儀なくされるのは間違いないだろう。

      次に広陵町として、どんな災害を想定しているのかを訊ねてみた。
      この地域では洪水の心配はまず考えられないとして、地震災害を想定しているという。広陵町では、このため平成20年3月に「広陵町地震ハザードマップ」を作成している。これもホームページで公開すべく検討されているらしいが、林田さん曰く、このまま掲載してもインパクトがないので、できれば各自治会で早急に自主防災組織を作っていただき、各地区から避難所までのルート地図を作成してほしいという。避難所までのルートで、どこが危険か、どのルートが安全か、ルート中の危険施設、危険要素は何かを地図上にプロットしていただき、それを集めたモノをホームページで公開することができれば最善ではないだろうかという。本当にそうだと思う。

      最後に普段から心がけておくことを訊いてみた。各自がリュック等に緊急時の食料等を備蓄しておくことはよく言われることだが、林田さんは、寝るとき枕元に懐中電灯とスリッパ等の履き物を用意しておくとよいと言われる。また倒壊家具の下敷きにならないようする事が肝要だとも言う。危険が予測される家具は寝る場所には置かない、やむを得ず置くときは家具が倒れにくくするよう工夫することが大事だと言われた。

      10時前にお伺いし、すでに11時を過ぎている。長時間、貴重な時間を頂いたことにお礼を言い、広陵町役場を後にした。
       

      古代ミルクロードの遺産「蘇」

      2011.05.28 Saturday

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        古代チーズ蘇01.jpg

        暗い話題が続いたところで今日は気分直し。
        さて、一体なんでしょう?  カステラ? 蒸しパン? 外郎(ういろう)……?

        古代チーズ蘇02.jpgみんな違います。
        左の写真のように、こんな可愛い箱に入って売られていました。
        箱の外寸は9センチ四方というところ、厚みは3センチ程度。
        では蓋をかぶせてみましょう。
        箱の表に答が書いてありました。

        「古代の蘇(そ) ラッテたかまつ」

        では、「蘇」とはなんでしょうか?
        「ラッテたかまつ」は、奈良県葛城市にある牧場の名前です。先週、孫二人を連れ、女房と初めての「乳搾り体験」に行ってきました。僕の目当ては、この「蘇」といわれる古代チーズ。飛鳥でも販売されていますが、乳搾り体験なら、孫も遊ばせられるというモノです。

        最近、東京出張のときに行った牛嶋神社であるとか、堺の天牛書店であるとか、牛頭神社であるとか、やたら牛に縁があります。
        つい先日も、「聖徳太子の命日」に、法隆寺から叡福寺まで歩いたあと、「古代日本のミルクロード」−聖徳太子はチーズを食べたか−(中公新書)なる本を読んだばかり。結論から言うと、食べたかどうかは分からないが、食べることは出来たということになります。

        それが、この「蘇」というもの。
        どういう風にしてつくっているかというと、「搾り立ての牛乳だけを煮詰め、水分だけをとった自然食品」だと言います。添加物は一切使われず、白い粉のようなモノは乳糖。商品についている説明書によると、
        「奈良、天平時代には薬や供物として使われ『蘇』よみがえるという字でも分かるように薬効も期待されていたものと思われます。日本最古の医術書である『医心方』には『五臓』の気を補給し、蘇は乳糖が多く含まれており、甘みを持たなかった古代の人たちにとって乳を濃縮した自然の甘みを持つ蘇は貴重品として扱われていたそうです。同時に美容と不老長寿も期待されました。薄く切ってお召し上がりください」、ということらしい。
        実際の味は、何かキャラメルのような味わいで、チーズのような滑らかさはなく、なんとなくザラッとした感じ。切り分けて家族で楽しんだが、誰も2枚目をほしいという声もなく、結局一人で食べてしまった。

        ラッテ高松牧場01.jpg

        はじめての乳しぼり.jpgさて肝心の乳搾りだが、牧場のおじさんの指導よろしく大成功。
        まずは親指と人差し指で輪を作り、ついで中指、薬指、小指と順に握るような形にする。これの繰り返しで、少し黄色みを帯びた温かな白い牛乳が水鉄砲のように飛び出してくる(写真)。

        ところが大喜びで乳搾りをしていると、いきなり「ザーッ」という音と共に水しぶきが飛んでくる。隣の牛君が放尿におよんだ次第。その勢いたるや、水のいっぱい入った風船に、鉛筆を差し込んだというような按配。人間のように「チョロチョロ流れる御茶ノ水」なんて言ってられる状態ではない。
        見ようによってはなかなかの迫力であった。

        無事、乳搾りを体験したところで、喫茶室で搾り立ての牛乳(無料)を頂き、ソフトクリームを食べ、ついでにモッツァレラチーズたっぷりのピザと、やはりモッツァレラチーズ入りのお好み焼きを孫たちと共に食べ、帰路に着いた。

        いつか、古代日本のワインロードを調べてみたい。
        そんなものがあればの話だが……、しかし聖徳太子がチーズを食べることができたように、同じように聖徳太子はワインを飲めた可能性もあるということだ。
        正倉院に残されたワイングラス、当然ながらワインも日本に入っていたというべきであろう。



        ラッテ高松牧場02.jpg

        荒れ果てた京の一角で/語りかけてくる思い

        2011.05.22 Sunday

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          私は煤けた寺の一角に立っている。切り石が敷き詰められた回廊。その突き当たりに四角くポッカリと空いた穴。その穴を石の階段が闇の中へと続いている。
          仲間とはぐれ、探し回るうち、どんどん見知らぬところへと追いやられ、こんな奇妙なところへやってきてしまった。でも、この寺にこんなところがあったのだろうか。石段が下へ下へと伸び、ようやく下り詰めたところは、狭い蔵の中のようなところ……。真ん中に燭台が立ち、その小さな炎が、そこに集まった人たちの顔をユラユラと照し出している。
          どの顔も目ばかりがギラギラして厳しい顔ばかり。中でも何かゾッとするような凄さを感じさせる男の顔……、いきなりその口許が動いた。
          「俺は、女房を殺して喰った。それでも救われるのか……」
          押し殺すようなその声に合わせ、スクリーンのようなものに、その光景が浮かび上がってくる。私は、そのあまりの凄じさに、無我夢中で、その場から逃げ出した。
          ……どこをどう逃げたものか、私は、いつの間にか土塀が続く古い町並みに立っている。身に着けた僧衣は破れ、脚半からは血が滲み出している。
          一体、いつ僧侶になんかなったのだろう……。
          と、網代笠が風に転がされていく。その網代笠が土塀のところで止まるや、銀蝿の群れが、驚いたようにブーンと一斉に飛び立った。掃き寄せられたゴミのように、土塀の根元に並べられた死骸の群れ。途端に、今まで気付かなかった死臭が押し寄せてくる。

          まただ、また、あの苦しい思いが語りかけてきた……。

          臭い、臭い、たまらなく臭い……。鼻や口をいくら覆ってもあの臭いは防ぐことができない。やめろ、やめろ、来るんじゃない、来るんじゃない。俺にはどうすることもできない。やめろ、来るなっ、来るなーっ!
          亡者どもが追いかけてくる。はらわたを引きずった奴、膿みただれた奴、たくさんの亡者が追いかけてくる。
          もうたくさんだ。やめてくれ、やめてくれ、逃げて逃げて、息つく間もなく逃げ回り、どんなに祈ろうと、どんなに念じようと、亡者どもを防ぐことはできない。寄るな、寄るな、下がれ、下がれーっ!
          毎日毎日、切りがない。終わることがないんです。でもやめられません。やめたら、仲間や周りの人間が何と言うか、それを考えたらやめられません。でも切りがないんです。昨日済んだはずの通りに、また新しい死骸が転がっている。いつの間にか死骸という感覚もなくなり、嫌悪感も消え、ただ疲労感と腕のしびれだけを感じている。
          やめてくれ、また死骸が追いかけてきた。亡者が迫ってくる。「仏の結縁を」と、「救ってくれ」と、口々に叫びながら、その叫びが大きなうねりになって押し寄せてくる。息がつけない。いくら書いても、書いても切りがない。いくら書いても後を絶たない。いつの間にか、一人っきりになって、ただ逃げ回っていました。
          ああ、どうしたらいいんですか。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ……。みんなに感謝されて、喜ばれて、偉い人だと言われて、よくやったと言われて……、ああ、こんなはずじゃなかった。苦しい、苦しい、咽が焼け付くようだ。咽が熱くて熱くて、誰か、誰か水を、水を……。水を飲もうとしても、川の中に死骸が……。水をすくった手の向こうに亡者の顔が浮かんでいる。「結縁を、仏との結縁を頼みまいらする」と。
          私は逃げました。逃げて逃げて、苦しくて吐こうとしても、胃の中はからっぽで、苦い胃液だけが上がってくる。ああ、誰か助けてくれ、亡者のいない世界へ連れていってくれ。私はもう疲れ果ててしまいました。もう疲れて動くこともできません。
          ああ、少し落ち着きました。でも、こうしていても、いつ亡者が現われるか、気が気ではありません。いつの間にか筆もなくなりました。墨入れもどっかへいきました。
          私はどうしたんでしょうか。今、なぜか、私は間違ってきたという気がしてなりません。あれは遠い昔のことだと思っていたのに、もう過ぎてしまったことだと思っていたのに、私の心は、まだ、あの亡者たちの中にいました。あの餓えた地獄の世界にいました。煤けた、あの真っ暗な東寺の片隅で、私は震えております。いつまた、あのおどろおどろしい亡者たちが現われるかと……
          少し落ち着きました。少し落ち着きました。私は仁和寺の僧……、隆暁さまとともに少しでも、餓え、病み、死んでいった人たちを供養したいと、少しでも仏との結縁を結んでやらねばと……ああ、思い出したくない、亡者が、亡者が襲ってくる。いやだ、いやだ、思い出させないでくれ。もういやだ、もういやだ……

          誰に言うともなく、その思いは話しかけてくる。

          分からない、分からない……。最初は本当に思っていました。あの惨状を見て、私にできることはないかと、私は僧侶、せめて供養を、せめて死者と仏との結縁をと思い、あの仕事をはじめたのです。でも、切りがないんです。吐き気を催す臭い、犬に内臓を喰い破られた死骸、そんなおぞましい死体の一つひとつに、顔を寄せ、怯む心に鞭打ちながら、震える筆で、額に「阿」字を書いていくのです。毎日毎日、そんな繰り返しです。やめたくても人の目が怖くてやめられない。夢で亡者に追いかけられ、救うどころか、怨霊退散、怨霊退散と祈っている自分がありました。亡者を寄せ付けないよう、自分の周りに結界を巡らし、必死で祈っている自分がありました。それでもだめとなれば、必死で逃げている自分がありました。取りすがる亡者たちを蹴散らし、ひたすら逃げている自分がいました。今、その世界にいます。人の幸せを願うどころか、ただひたすら自分を守ろうと、逃げ回っている自分が見えます。
          ああ、少し楽になりました。少し胸のうちを話せて楽になりました。

          いつも戦いのなか……

          2011.05.16 Monday

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            いつも戦いの中にいる。自分ほど穏やかで喧嘩などとは縁遠い人間はいないと思っていた。なのに、最近、血生臭い夢がつきまとう。朝、目が覚めると右手に指が二本しか残っていない。不思議に痛みはなく、なぜか拷問で切り取られたんだと合点しながらも、ひどく気分は動転している。「どうしよう」「どうしたらいい」と、うろたえた揚げ句に目が覚める。
            「そうか、目が覚めたと思っていたのが、まだ夢の中にいたのか」とホッと胸をなで下ろす始末。
            瞑想でもそうだ。本当の自分に心を向けようとしてもなかなか向けられない時、戦いで顔面を割られたのだろう、血みどろの顔が浮かんできたりする。そんな塩梅で、闇出し瞑想の時なども、「他力の反省をしなくっちゃ」と、坐禅をしていた時の自分に心を向ける。鉄眼寺で禅定を組んでいる自分、その鉄眼寺の様子、指導してもらっていた鈴木龍珠禅師の様子等をイメージしようとするのだが、なかなか心が向かない。それはそれなりに苦しくはあるのだが、ボーっとしていて何かピンぼけの状態……。それがいきなり、グイと腕を掴まれたかと思うと、「おまえのいる場所はここだ!」と、いきなり戦場の真っ直中に連れて行かれる。
            実際に声が聞こえたわけではないだろうが、でも表現しようとすると、やはり聞こえたとしか言いようがない。
            その途端、たちまち周りの声が、戦場の喧噪に変わる。
            断末魔のうめき声、雄叫び、罵声……回りで闇出し瞑想をする人の腕が、顔や首筋や胸に、次から次と当たってくる。その度に刃をたたきつけられたようになり、返って、気を引き締め冷静になろうという思いが働く。でも、叫び声が耳について離れない。血みどろの顔、絶叫する口、あれは敵だろうか、味方なのか……何が何か分からなくなり、自分自身が回りの叫び声の一部となってしまう。

            今回(舘山寺)でのセミナーでも、キリスト教に向けようと、かつてインタビューした「二十六聖人記念館」のディエゴ・パチェコ神父や、探し回った揚げ句やっと見付けた、大村鈴田のキリシタン牢の様子を思い浮かべたり、果てはイエスそのものに心を向けたりするが、そのどれもが血生臭い争いの中にあった。武器こそ持っていないが、凄絶な戦場の中に自分は立っていた。
            自分の身を犠牲にした、殉教という凄絶な戦い。キリストを肯定させようとする聖戦。キリストを排撃しようとする聖戦。正統・異端をめぐっての凄惨な殺し合い。はたまた宗教と政治権力の確執。
            そのどれにも関わりを持った。
            イエスそのものに対して、ハッキリ言って崇敬の思いはない。「あのバカのせいで……」そんな思いしか出てこない。ただ「キリスト教」と言うことになると、憎しみが募る。叩き潰してやりたい――そんな思いと、懐かしい思いと、妙に不安な思いの中に投げ込まれる。揚げ句は、ウワーッという叫び声になり、すべてを否定する思いへ、すべてを叩き潰してやりたい思いへと広がっていく。
            そんな時、必死でブレーキをかけ、方向を変えようともがく。「その方法が、本当の自分に心を向けることだ」と、必死で思おうとする。そう思うと、今度は、様々な思いが渦となって、懺悔とも、反省とも、後悔とも、時には恨み言まで伴いながら、すべてを巻き込んで自分の中から噴き上がってくる。まるで自分自身が一つの溶鉱炉、いや原子炉になったような感じを抱えながら二度目の闇出し瞑想が終わった。

            自分の奥深くに根付いているものは、争う思いだった。どんな形で現れてきても、自分の苦しみの根本は「争う思い」にあった、そう思えて仕方がない。
            なぜ争うのか。自分を守りたいからだ。自分を認めさせたいからだ。自分を押しつけたいからだ。「これだけは譲れない」という思いがある。ここに触れられたら、ここを責められたら、ここを侵されたら、俺には戦うしかないと、そんな思いがある。そうなったら、勝つことも勿論だが、それより自分が潰れても相手にぶつかっていく、そんな思いのほうが強い。
            そのエネルギーを秘めながら、表面、穏やかそうに日常を送っている自分がいる。今、「これだけは譲れない」、その一点を仕事の中で揺すられ出した。「低予算、少部数出版」への夢。印刷が特定の人のものから解放される。ノートがワープロに変わったように、印刷が便利な事務用品のようになっていく。
            UTAブックならそれができる。UTAブックならそれをやる意味がある。UTAブックこそ、それを真っ先にやるべきだ。そんな思いがある。そんな肉的な夢がある。
            ここを突かれたら、今までどうでもいいと思っていたことまでが、自分の中の「争う思い」を引き出す材料となる。どうやら、これから自分の本当の勉強が始まるのかも知れない。 

            神奈川県津久井郡三ケ木

            2011.05.16 Monday

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              昔、神奈川県津久井郡にある三ケ木というところで暮らしたことがあります。三ケ木はミカゲと発音します。JR横浜線橋本駅からバスで小一時間ほどのところです。かつては甲州・武州・相州の結接点にあたり、山深いところとはいえ、戦略上、かなり重要な場所だったようです。というのも、甲州の武田信玄が小田原の北条を攻めたときは、甲州への最短の退却路はこの津久井を突っ切っていくことになるからです。そして津久井城は北条に属しており、このため、武田の主力と北条勢・津久井勢が三増峠でまともに軍事衝突したこともありました。その津久井城も、秀吉の北条攻めのとき、徳川の軍に攻め滅ぼされ、生き残った津久井衆は、この地で百姓となっていきました。
              この地へ越して来てひと月ばかりが経ったころのことです。休みを利用しては付近を散策して回りましたが、にぎやかなのは道路だけ、少し表通りから逸れると、あたりは山と畑ばかり……。裏道の十字路に立っている標識は江戸時代、いや、もっと古い時代からそのまま立っているような代物です。
              ところで私の住む住宅のすぐそばに、三ケ木神社という古い社があります。入り口には保育園ができており、これが神社を隠す形になっており、そんな大きな神社があるようには見えません。かろうじて保育園の横に立つ鳥居が、神社があるということを教えてくれているにすぎません。この鳥居をくぐって行くと、参道は保育園を回り込むような形で山の中へと入っていきます。あたりは鬱蒼として薄暗く、参道は石段となって山肌に沿うように上っていきます。
              その石段の取っ付き口は狭めの広場となっており、そこに目当ての石碑が立っておりました。「天明飢饉、一揆集結の地」と……。

              それを見たとき、まるで闇の中からわき上がってきたかのような思いを感じました。


              闇から浮かび上がってきた思い
              ああ、やっとここまで来た。やっとここまでたどり着いた。浅間山、嬬恋村、津久井……。浅間の大噴火からずっと追いかけてきた。噴火の規模、被害の状況、人心はどうか、その後に続いて起こった飢饉、米の買い占め、一揆、打ち壊し……。
              この機会を逃すんじゃないぞ。真実を調べるんだ。俺が救ってやる。本当のことを伝える。お前たちの思いを伝えてやる。だから教えてくれ。間引いた子はどこへ捨てられる。そうだ、女の子を間引いたときは「よもぎを摘みにやった、男の子なら川遊びにやった」というのか。そうだ、その調子だ。本当のことを明らかにしていくんだ。近江商人がこんなところまで来て、酒造の権利を買い米の買い占めをやっているのか。
              一揆の首謀者は誰だ。土平治だと……農民たちや土地を平和に治めるだと……。そんな人間はいない。架空の人間を作り出し、そいつに罪を着せる気か。だれだ、土平治を名乗った奴は。幕府直轄領で鉄砲を撃ったのはだれだ。
              俺は何もお前たちを罪に落とそうとしているのではない。本当のことが知りたい。形を整えるんじゃない。苦しみが本当に伝わってくるような、そんな事実をつかみ、報告したいんだ。お前たちの代弁者になろうと言っているんだ。
              訴えたんだろう。実情を記した嘆願状を出したんだろう。そいつを握りつぶした奴はだれだ。
              俺にとって今度の浅間焼けは大きな機会なんだ。俺の残りの人生すべてを賭けた大仕事だ。妥協なんかしないぞ。俺の調べた事実をだれがどう利用しようと勝手だ。田沼をつぶす道具にするならそれで結構。俺はただこの仕事を、俺がここにあったという証としたい。自分はこれだけのことをしたという満足感がほしい。
              あのときの、地の底から響いてくるような、あの轟音を決して忘れはしない。身体のうちから震えるような何とも言えない感覚。恐怖もあっただろうが、何かが起こりつつあるという一種の陶酔感があった。江戸の空を暗く染め、降りしきる火山灰……。身のうちが心底震えた。ついに来た。ついにやってきた。俺の仕事だ。機会が巡ってきた。やっと俺にも機会が巡ってきたんだ。誰に認められなくても、自分にとっては、最後の機会だと思った。
              真実を集めるんだ。何が起こった? 噴火だと……。どの山だ、どの山が火を噴いている? 川を人が流れてくる。死人が流れてくる。家が流されてくる。
              浅間の噴火はそれだけでは済まなかった。そのあとに来た大飢饉。むしろ、そのほうが悲惨だった。情報を集めろ。どこの藩でどれだけの餓死者が出たのか。どこの藩が餓死者を出さなかったのか。天領の状況はどうだ。米の買い占めは……。子供の間引きは……。打ち壊しの状況は……。


              ぶくぶくと泡のように浮かび上がってくる思い
              おめえにいったい何がわかるというだ。俺たちを出世の道具にしただけでねぇか。俺たちの暮らしは何も変わらねえ。土地に縛りつけられ、言いたいことも言えず、ただ働くために生きているような状態。食うに食えず、藁を轢いて団子にして食った。その藁もあいつらは、米の値を上げるためだと、集めて燃やしてしもうた。
              おめえは、俺たちの声を集め、本当のことをお上に伝えるんだと……立派なことを言っているが、結局は俺(おら)たちを利用しただけだ。俺たちの災難まで自分の出世の道具につかったんでねえのか。火事場泥棒じゃねえか。お前のやっていることは火事場泥棒だ……。結局は自分のためじゃねえか。


              違う、違う、本当に伝えたいと思った。苦しい状況を自分の思いを入れず、ただ、事実を伝えようとした。出世しようなんて思わない。ただ生きている証がほしい。俺がこの世にあったという、自分で満足できるような何かがほしい。浅間の噴火に出会ったとき、これだと思った。その機会が与えられたと思った。どこまでも食い下がって、事実を明らかにしてやると思った。自分に満足したかった。満足できる何かがしたかった。
              でも、終わってしまえば、何も残っていない。満足感もなく、もっと何かがあるはずだと。あのとき、これこそ一生の仕事と思ったのだが……。
              何を言われても仕方がない。でも俺の求めたものはなんだったのか。俺はただ甲斐のある、自分で満足できる仕事がしたかっただけ。それを悪と言うのか。俺の中に、なにかやりばのない空しさ、すべてを投げだしたい思い、自分のしていることへの不安が渦巻いている。俺はいったい何をしているんだろう。その思いばかりが湧き上がってくる。これでいいんだろうか。これでいいんだろうか ……


              つかの間、自分という闇のの中からわき上がってきた思い。いつしか闇の中へ吸い込まれるように消えていってしまった。

              花粉症 新人デビュー/カモガヤ

              2011.05.13 Friday

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                5月の連休も終わったというのに、今年はまだ花粉症が治まらない。医師に処方してもらった「アレロック(第2世代抗ヒスタミン剤)」も、点鼻薬・点眼薬も底をついてしまった。例年ならとっくにおさまっているのに、今年はどうしたことか、目鼻がムズムズ、喉はカラカラ。今年はもう行かなくてもいいだろうと思っていた医師のもとへ、今日は、たまらず出向くこととなった。

                「まだ治まりませんか? もう杉も檜もおさまってますが……」
                「はい、例年なら5月の連休が終わる頃には、花粉症など忘れているのですが……」
                「一度、何に反応しているか調べてみましょう。すぐ終わりますから……」

                ということで、初めて花粉症の検査を受けることとなった。神奈川で杉花粉だろうと診断され、関西へ引っ越してからも、それで通してきたが、どうも杉だけではない気がする。

                検査は、右上の写真のような検査薬を、スポイトで腕の内側に点けていく。
                僕の場合は、「ハウスダスト」からはじまって「猫の毛」まで7種類の検査薬が点けられた。検査薬を腕に落としていく前に、それぞれ後で分かるように、検査薬の頭文字が腕に書き込まれる。「ダニ」なら「ダ」、「杉」なら「ス」という具合だ。
                検査薬が、腕の内側に水滴のように載せられると、次に先が丸くなった針状のものでその部分を軽くつついていく。
                この繰り返しで、7種類の検査薬が試され、看護婦さんから「蚊に刺されたように、痒くなって腫れてきますが触らないように」と申し渡される。
                待合室で腕を伸ばしたまま待っていると、間もなく何とも言えない痒みに襲われ、思わず掻きむしりたくなる。
                何とか我慢するが、僕の場合、痛いのを我慢しようとすると、なぜか笑い出してしまう癖がある。この時も痒みを我慢しようとすると、思わず笑ってしまい、待合室の他の患者さんに変な目で見られることとなってしまった。
                なんとか10分が過ぎ、再び診察室へ呼ばれ、めでたく結果発表となる。

                「ああ、やっぱり出てる、出てる。稲科や、稲科のデビューや」
                説明によると、「ス」が赤くよく反応しているのは「杉花粉」。その下の「ア」も反応しているが、これは観葉植物に付くカビだという。今、症状として出ているのは「カ」、すなわち「カモガヤ」という稲科の雑草だという。今まではアレルゲンでなかった稲科の雑草カモガヤが、僕にとって新たにアレルゲンとして追加されたというわけだ。
                「カモガヤのデビューや。梅雨の頃まで続くなあ。」
                医師は楽しそうに説明してくれる。本当に楽しそうだ。でも、そのほうがありがたい。これを深刻そうに説明されたらたまらないしなあ。
                医師は更に楽しそうに、付け加えた。
                「こいつら、デビューはするけど、引退はないからなあ。」
                ガーンッ!

                杉ばかりか、カモガヤ君とも付き合わなければ行けないのか。
                人脈が増えるのは嬉しいが、花粉症の人脈というか、花粉脈はこれ以上増やしたくないのだが……

                二人のマドンナ/vol.1 ヒュパティア

                2011.05.11 Wednesday

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                  歴史上、僕のマドンナとも言える女性が二人います。その一人が、4世紀末、エジプトに生きた、女性哲学者にして、数学者、天文学者のヒュパティア。
                  彼女はアレキサンドリアにおいて新プラトン主
                  義哲学校の校長となり、プラトンやアリストテレスらについて講義を行ったといわれています。
                  そのヒュパティアを主人公にした「アレクサ
                  ンドリア」という映画が公開されました。ヒュパティアを演じるのはレイチェル・ワイズ。僕の思い描いたヒュパティア像と寸分違わず、まるでヒュパティアがよみがえってきたよう。これだけでも東京まで出向き観た甲斐があったというものです。
                  この「アレクサンドリア」公開当初は関西では上映館がなく、東京でしか観ることが出来ませんでした。丁度、東京出張があったのを幸い、一仕事を終えるやホテルに荷物を置き、そそくさと「丸の内ピカデリー」へと向かいました。
                  イチェル・ワイズがよかった! というだけでなく、歴史考証もしっかりしており、映画としても堂々たる大作に仕上がっておりました。これだけの大作を単館上映というのは、一体どういうことでしょうか。
                  女性として初めての天文学者「ヒュパティア」は、新興勢力キリスト教に迫
                  害され、その見せしめとなって惨殺されました。教会は、ヒュパティアのことを「天文学で神を冒涜する魔女だ」と弾劾したのです。ヒュパティアについて、5世紀に活躍した教会史家ソクラテス=スコラスティコスは、彼の著「教会史」のなかで次のように述べています。

                  「アレクサンドリアに、哲学者テオンの娘で、彼女の時代の全ての哲学者たちを遥かに凌ぐほどの文学と科学における学識をなした、ヒュパティアという女性がいた。プラトンとプロティノスの学統を受け継ぎ、彼女は、その多くが彼女の講義を受けるため遠くからやってくる聴衆に向けて哲学の諸原理を説明した。彼女が精神の教化の結果獲得した冷静さと物腰における気取りの無さのゆえに、彼女は往々にして政務官の臨席の際に公けの場に姿を現した。彼女は男たちの集まりに来ることを恥ずかしがったりはしなかったのだ。全ての男たちが彼女の非凡な品位と徳性ゆえに、彼女をさらに認めていたのである」と。

                  そんなヒュパティアを、獰猛な熱意に凝り固まったキリスト教徒たちが、カエサリオンと呼ばれる教会へ連れ去りました。そこで彼らは彼女を真っ裸にし、それから瓦で彼女を殺害したのです。彼女の遺体は細切れに引き裂かれ、ずたずたにされた四肢はキナロンと呼ばれる場所に晒された後、燃やされました。
                  宗教の怖さ、宗教に縛られ理性的なものの見方が出来なくなる、そんな恐ろしさを思い知らされる事件ですが、それを冷静な視点で描いた「アレクサンドリア」という映画。
                  すごい映画だと思います。
                  これだけの歴史大作が単館上映というのは、「カソリックの圧力か」と勘ぐりたくなるのは、果たして僕だけでしょうか。
                  また、「僕の憧れ・ヒュパティアを、こんな目にあわせたキリスト教が許せない」。
                  そんな青臭い情熱に駆り立ててくれる映画でもありました。
                  (右上の肖像は、19世紀に想像で描かれたものだと言います。)

                  最後に、そんなヒュパティアを描いたチャールズ・キン
                  グスリーの歴史小説がありますが、これを全文和訳してくれているサイトがありましたので、敬意を持って紹介させていただきます。

                  http://homepage1.nifty.com/suzuri/hypatia.htm

                  次回、二人目のマドンナは、16世紀末イタリアに生きたベアトリーチェ・チンチェを紹介します。

                  我が町、広陵町の靴下

                  2011.04.20 Wednesday

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                    我が町の広報「こうりょう」No.649号に、上記のようなPRがあがっていました。
                    題して「第30回靴下の市&地域特産品交流フェア開催」。そういえば広陵町は「靴下の町」「日本一古墳の多い町」を売り物にしています。町の至る所に「靴下の町・日本一古墳の多い町、広陵町へようこそ」の看板が出ています。「日本一古墳が多い」、これはなんとなく納得できます。でも、どうして奈良の広陵町が靴下の町なのでしょうか?
                    またぞろ物好きの虫に火がつき、調べてみることにしました。やはり、靴下の生産量は、広陵町がダントツ、国内シェアの40%をおさえている。

                    靴下のことを調べていて、もう一つ気付いたことがあります。靴下に関しての歴史書が1冊もないということです。履き物の歴史、衣服の歴史、着物の歴史は、結構書かれているのに、靴下の歴史について書かれたものは皆無です。唯一の例外が、(株)ナイガイさんが出された「靴下の歴史」。これも(株)ナイガイさんが自費出版されたもので、一般書ではありません。図書館で調べようにも、近畿では、大阪市立中央図書館が蔵書しているのみの、いわば稀覯書ともいえるもの。
                    靴下がいかに顧みられていないかの証ではないでしょうか。
                    確かに、誰かに「今日、どんな靴下はいている?」と聞いてみても、即座に答えられる人は少ないのが現状。となれば、よりによって靴下の歴史なんて書く人はいませんよネ。

                    しからば、ということで調べてみることにしました。
                    まず、広陵町と靴下の関係。広陵町は「竹取物語」の舞台となったところ、四国の讃岐氏がここに移住し、朝廷に「竹」を納めていたと言われています。それだけに、「竹炭」とか竹製品日本一というなら分かるんですが、靴下がなぜ? そう思うのは僕だけでしょうか。

                    奈良県自体、経済基盤が脆弱です。
                    明治の廃藩置県では、この「経済基盤が脆弱だ」という理由で、「奈良県」自体が消滅し、「堺県」に吸収されてしまったことがあります。そこへ大阪府の財政危機を救うため、堺県自体が大阪府に統合されてしまったから、さあ大変。一体いつになったら「奈良県」の地名が復活するのでしょうか。その辺の所は、僕のブログ「奈良県と堺県」(http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=24)をご覧ください。
                    まあ、そんわけで親分の奈良県がこんな状態ですから、広陵町は、それに輪をかけて財政基盤は脆弱だったわけです。1910年頃と言いますから、明治43年になりますが、広陵町の吉井泰治郎という方が、広陵町にも産業を興し財政基盤をしっかりさせようと、アメリカから靴下編機を導入したのです。

                    では靴下編機というのはいつごろ作られたのかということになりますが、その前に、いったい人間はいつ頃から靴下を履きだしたのかということが問題になります。
                    冒頭に紹介した(株)ナイガイさんは、靴下博物館を所蔵される他、Web上でも同名のサイトを運営されておられます。このサイトの「靴下のはじまり」という記事を読むと、4世紀〜5世紀にかけてのものと見られる「完全な編物で作られた指付きの子供用の靴下」が、エジプトの墳墓や、アンチーノの町から発掘されたといいます。いや靴下の歴史としてはもっと古く、今から5000年前、「草を編んだ靴に千草を詰め」たのが靴下のはじまり(岡本株式会社「靴下類の系譜」レジメ)という意見もあります。詳しくは、「ナイガイ」さんのホームページ(http://www.naigai.co.jp/05mos/)を見ていただくとして、では日本での靴下の歴史を見てみましょう。

                    日本では「襪(しとうず)」という形で、応神天皇の時代に大陸から入ってきたとされています。

                    衛士隊の交代10.jpg

                    上の写真は、平城遷都1300年祭の時に撮った「衛士の交代」の模様ですが、隊長の足下を注目してください。履(くつ)の中に白い足袋状のものを履いています。これが「襪(しとうず)」です。
                    平城京の場合、衛士の服装は、「養老衣服令」により、儀式の際に用いられたという黒服に鎧を着けたスタイル。隊長は、6位の武官の朝服で、冠は柔い黒絹製。紐をあごで結んでいる。位襖(いおう)と呼ばれる衣服は6位相当の深緑色のもの、下に半臂を重ねて白袴をはき、烏油(くろぬり)の腰帯をしめて、黒漆の横刀を組紐の緒で吊り木製の笏を持っている。足は白の襪(しとうず)という足袋に烏皮(くろかわ)の履(くつ)をはくという出で立ち。(http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=159

                    この「襪(しとうず)」について、(株)岡本の庄健二氏は次のように述べています。

                    1.織物生地を足形に縫製した布の靴下
                    2.用途は現在の靴下と同様に足脚部を覆い保護する役割である。
                    3.経錦(たてにしき):漢代に発達した経糸に色糸を用いて柄を出す織り方の生地を使用
                    4.織物なので生地の伸縮性がなく、足首部をひもで縛って着用する。
                    5.奈良時代までは、机・いすに座って執務していたため、木靴などの靴とともに着用された。

                    この後、平安時代に入って、襪(しとうず)は、足趾割れ紐付きの「足袋」へと発展し、室町時代に足袋へと発展していきます。

                    ところで海外では、11世紀、イスラム圏で初めて編み物としての靴下が作られ、それが十字軍の遠征でヨーロッパに伝えられ、16世紀には、イギリスでウイリアム・リー牧師が靴下編機を発明し、早くも江戸時代初期には、大航海時代の波に乗って、「メリヤス靴下」が日本に将来されることになるのです。

                    以下、靴下編み機の歴史を年表風に見ておきます。
                    1610年 ウイリアム・リーの弟ジェームス・リーがロンドンに靴下の新工場をつくる。
                    1769年 サミュエル・ワイズが手動横編機を機械化。
                    1847年 アメリカで、モーズ・メラーによって丸編機が発明される。
                    1863年 同じくアメリカで、アイザック・ウイリム・ラムが、Vベット型横編機を発明。

                    この5年後の1868年には、日本で初めて佐倉藩の西村勝三によって、アメリカから手回し式靴下編機が輸入されています。
                    1874年、国友鉄砲鍛冶・国友則重によって国産第1号の編機が製造される。

                    鉄砲鍛冶の製作した自転車
                    (国友鉄砲鍛冶は、明治になって靴下編機の他、上記のような自転車製作にもチャレンジしている)

                    そして、1910年頃、いよいよ我が広陵町の吉井泰治郎翁が、アメリカより編機を導入することになるわけです。この辺の事情を奈良商工会のホームページは、次のように述べています。

                    奈良県は全国でも最大の靴下団地で、広陵町はその中核産地として発展してきました。広陵町は古くから大和木綿の産地として、その名を広く知られてきました。しかし、明治末期を境に急激に衰退し、その名も忘れがちになってきたころ、1人の事業家がアメリカへの視察で靴下機械を導入し、生産を開始したのが「靴下の町 広陵」の発祥です。大和木綿が農家の副業として広陵町に定着したように、靴下産業も農村工業を基盤として成立した地場産業であります。
                    靴下産業は、編み立て部門を頂点に染色、セット加工、刺繍、縫製等、靴下産業に関わる企業と、すそ野の広がりを見せる一般家庭内職に支えられ発展してきました。
                    これら下請け加工としての役割を担う企業や一般家庭のほとんどを町内で賄っていることから、地域内での経済的波及効果が大きいのが特徴です。この靴下産業は、戦後、ウーリーナイロン糸の登場により飛躍的な発展を遂げ、質、量共に全国有数の規模を誇る靴下産業として発展し、また町の経済を支える基幹産業としての役割を担ってきました。
                    しかし、最近では中国、韓国等から安価な輸入品が大量に流入してきたことにより、国内での生産量が減少傾向にあります。また生産拠点を海外に移転していく傾向の中で、空洞化の状況となってきました。

                    我が町広陵町の地場産業も、ご多分に漏れず縮小の一途をたどっているようだ。
                    少々話も寂しくなってきたところで、靴下の長談義も、この辺でお開きとしたほうがよさそうだ。
                    ところで明日の「靴下市」、天気予報によれば、空模様もあまり思わしくない。かぐや姫の涙にならなければいいのだが……。

                    溝上雄文さんの遺稿「渋谷おでんや物語」

                    2011.04.11 Monday

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                      今、自分が本づくりに関わったほぼ200タイトルの中から、これというものを選び出し、無料公開するデジタル・ライブラリーをつくっている。自分なりに「選考」を進める中で、妙に気になる一本がある。どうしても「本」のほうで「早く、こっち見ろよ!」とばかりに、しきりに袖を引っ張ってくるのだ。 
                      それが溝上雄文さんの「渋谷おでんや物語」だ。未完の原稿ながら、思い入れの強い作品だ。なぜ思い入れが強いのか、少し湿っぽい話になるが、僕がその本の「あとがき」に書いたものがあるので紹介させてほしい。

                      今年(2005年)明けて早々に、水俣総合病院に入院中の溝上さんから電話が入った。
                      氏は既に、当社のオーダーメイド出版(読者予約を募って、その結果から出版に踏み切るかどうかを決めるという自費出版システム)から、「悪童たちと先生」「談合受注」という、二冊の本を出されている。
                      氏とはそのときからの付き合いだ。昨年末、割烹「今昔」の女将野村さんから、氏が末期ガンで入院し、「故郷水俣で死にたい」と水俣の総合病院へ移られたと聞いたばかりだった。
                      その溝上さんから電話だという。
                      (なんて声をかけたらいいんだろう……)体がにわかに緊張していくのが分かる。
                      「だいじょうぶですか」という間の抜けた僕の第一声に、受話器の向こうから、意外と元気そうな声が返ってきた。
                      「桐生さん、次の本を出したいんだ」
                      「………………?」
                      「末期ガンで、死後の献体の手続きも、今、済ませたところなんだ。もう長くないから、僕が死んでから本にしてほしいって思ってネ。原稿のフロッピーを送ったから後は頼むよ。」
                      「洒落たことしますネ。じゃあ、見舞いがてら一度打ち合わせに行きますよ」と、明るく答えたものの、そういう僕を制して
                      「全部、そちらでやってほしい。みんな任せたいんだ。僕はもう限界だよ。引き受けてくれよ……」と、さっさと言うことだけ言って電話を切ってしまわれた。


                      翌日、「熊本県水俣市天神町一丁目二番地一号 西四病棟四六一号内 溝上文雄」さん差し出しの宅急便が届いた。
                      早速、開けてみた。
                      氏が東京在住中によく通ったおでんやさんに集まってくる人たちのことを書いたものだ。元気な頃に書き出したものを、病床で仕上げようとしたものだろう。
                      「其の一」「其の二」「其の三」と書き進め、「其の三」まで来て力尽きたという感じだ。
                      そんな中にこんな文章があった。

                      やや西に傾き始めた太陽が、高く蒼く晴れ上がった空の向こうから、夏を惜しむように精一杯の輝きと熱気を伝えてくる。私たちは吹き出る汗をハンカチで拭きながら、ぼんやりと晴海通りを行き交う車と、人の流れを眺めていた。時の流れが少しずつ遅くなっていくような気になる。
                      「いつの間にか秋になったのねえ……何だか今年も、あと少しでお正月が来てしまうわ。一年が、あっという間に終わるような歳になってしまった」
                      「もうお互いに若くないからね。……何時までものんびりしていられない、もう残りが少なくなったんだよ」
                      「そうね、もう若い時みたいな、煌くような楽しい時はないのよね……街路樹の葉っぱが一枚ずつ散って行くように、人生も少しずつ終わるのね。……きっとそうなんだわ、悲しいけど……」
                      「そうだよ、昔から人生五十年と言うしね。もう俺たちの活躍できる表舞台は、二度と来ないのかも知れないね」
                      「でも悲しいわね。このまま歳を取っていくだけなんて」
                      「悲しいさ。でも、所詮人の一生なんて〈下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり〉でしかないのさ。まあ、死ぬのはまだ多少先だろうから、生きていることを精一杯に楽しむしかないね」と、私は直実になったつもりで慰める。安っぽく扱われた敦盛が、何だか墓の中で怒っている気がする。
                      人間はどう頑張っても、誰でも死ぬことは避けられないし、逃げ廻ることにも限度がある。それなら、死を恐れることも無益だし、死を軽んじることも勿体ない。

                      氏は、この文章を書いたとき、自分が「ガン宣告」を受け、死と真向かいにならざるを得なくなることを予想していたのだろうか。
                      溝上氏とはあまり深い付き合いではなかったが、氏とは肝心なところで思考が妙に絡み合っている気がする。実は氏から出版の電話を頂いたとき、私自身も、このことで思い悩んでいた。実際に自分がガン宣告を受けたわけではないが、自分の周りで、身近な人が死を迎えていくのを次々に聞かされ、「死」って一体なんだろう。「死 」とはどういうことなんだろうとよく考えるようになった。
                      幼い頃はよく死ということを考えた。死んだらどうなるんだろう。死んだらどこへ行くんだろう。死ぬとき痛いのかなあ。痛いのはいやだなあ。そんなことを取り留めもなく考え、結論がでないままに、考えることをやめようとした。
                      考えるのをやめても、突然わき上がってくる想い。寝るとき、明日、目がちゃんと醒めるのかって思い出すと、怖くて眠れないこともよくあった。
                      それが長じるに従って、死は遠いものになっていった。実際にはどんどん死が近づいてきているというのに、なぜか自分は死なない、自分には死は縁遠いものと思うようになっていって、死は逆に遠いものになってしまった。
                      それがあるとき、死に向かって歩いているという現実に気付かされる。
                      氏の言うように「逃げ廻ることにも限度がある。それなら、死を恐れることも無益だし、死を軽んじることも勿体ない」。まさにその通りだと思う。
                      思い悩むぐらいなら、自分で自分に「ガン宣告」しようと思った。
                      自分の命は六十まで。現在、五十七歳だから、あと三年の命だ。
                      そう勝手に決めてしまった。そう決めてしまったら、おちおち仕事なんかしている場合ではなくなった。女房と二人、食うぐらいならなんとかなる。あと三年で自分の人生に答えを出したい。人の世話をするより、自分の世話をしよう。今まで生きてきた中で出してきた暗い想いを見つめ直し、自分をもとある姿に修正したい。
                      そう思って、会社側に今年いっぱいで仕事を辞めたいと宣言したところだった。
                      そこへ溝上さんから電話を頂き、この原稿を受け取ることとなったのだ。
                      しかし「渋谷おでんや物語」自体は完結しないまま終わっている。文の最後、私達は寄席の追い出し太鼓に追われるようにして「渋谷おでんや物語」の世界から追い出される。
                      テケテケ、テケテケと、追い出し太鼓が賑やかに鳴り渡るが、寄席を出た私達はいったいどこへ帰ればいいのだろう。
                      本の完成を見ることなく、溝上さんも逝ってしまった。

                      本の奥付を見ると、2005年の4月15日になっている。奥付年月日は、少し先の日を設定していたので、6年前のちょうど今頃、本が出来上がってきたことになる。溝上さんが、あの世から「何やってんだ、俺の本を無視するなよ!」と言ってるような気がした。
                      大慌てで、PDFを書き出しアップすることにした。

                      DEP デジタル・ライブラリーのURL http://www.uta-book.com/dep/