弓矢の羽根はなぜ3枚か?

2010.04.02 Friday

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    銀壺に描かれたパルティアンショット/正倉院蔵

    正倉院の宝物 銀壺上の写真は、正倉院宝物の一つである銀壺。正倉院の銀器を代表する名品と言われ、胴部にパルティアンショットと呼ばれる狩猟の騎馬人物像が線刻されている(平凡社「正倉院の世界」から転載 左写真はその全体像)。
    「何? 歴史の教科書でも見たし、別に珍しくもない」って。
    そりゃそうですね。有名ですし、珍しくもないし、何を今さら……って感じですよね。

    昔、高島屋でハッキリ名前は覚えていないんですが、「敦煌石窟画展」みたいなものがあった。学生の頃だったからもう40年も前の話です。そのとき、匈奴(きょうど)と呼ばれる騎馬民族の戦闘シーンが復元されていたんです。実物大で随分強い印象を受けました。鬼瓦みたいな顔をした匈奴の戦士が馬から下り、片膝を立ててしゃがみ、空に向けて矢を射かけている図でした。
    このブログにも紹介しようと、図録やらホームページやら随分探したんですけど、結局見つからなかったんですが……。
    何が言いたいかというと、今述べた匈奴の戦士図と、上のパルティアンショットでは大きな違いがあるんです。何が違うか、匈奴の戦士は馬に乗っていないんです。馬から下りて矢を射ている。しかも真っ直ぐにでなく、空に向かって矢を放っている。では敵は空にいるんでしょうか。
    「敵じゃなくて鳥を狙ってるんだろう」って。違うと思います。横一列に並んだ戦士が、みんな一斉に鳥を狙うでしょうか?
    種明かしをすると、匈奴の戦士の使っている矢は、羽根が2枚の平行翼なんです。これでは矢は真っ直ぐ飛ばず、放物線を描いて飛びます。だから空へ向けて射かけ、敵の頭上に落とすようにするという訳です。
    そこで有名すぎて珍しくもない「パルティアンショット」を見直すと、騎馬の人物は、背後の獲物に向かって真っ直ぐ弓を構えています。馬上から振り向きざまに矢を射る。騎射っていうんだと思うのですが、これが出来るためには、いくつかの発明が必要でした。
    まずは矢羽根が2枚の平行翼から、3枚のロケット羽根に進化していなければなりません。誰が考えたのか、矢羽根を2枚から3枚にした天才がいたんですかねぇ。
    次に馬具です。最初は馬具などなく、馬の腹を両脚で締め付けるようにして乗っていた。それが鐙や轡、鞍などが考え出され、馬に乗ったまま戦えるようになったという訳です。馬具の発明と、3枚のロケット翼の考案が、「パルティアンショット」を可能にしたという次第です。
    ついでに馬具を考案することで、装甲騎馬戦闘、つまり馬も人間も鎧に身を固め、長槍を持って敵にぶつかっていく戦闘方法も可能になるわけです。裸馬じゃ槍を構えて踏ん張れませんから。
    最後の一枚は、法隆寺に伝わる「四騎士狩猟紋」が織り込まれた錦です。馬具と弓矢が改良され、一部、装甲もされているように見えるのですが。いつの時代も、頭のいい人っているもんですね。

    四騎獅子狩紋/法隆寺蔵

    「キセル乗車」と「桜」と「忠度の都落ち」

    2010.03.28 Sunday

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      広陵町のサクラ

       「江戸時代、街道を行く旅人はトイレをどうしたか?」の記事に、中山道を歩かれた方から感想をいただいた。自分も昔、東海道自然歩道を、何十回になるか分からないが、仕事の休みを利用しながら分割して歩こうと計画したことがある。しかし、計画は起点の大阪箕面から歩き始め京都の嵐山にたどり着いたところで挫折した。というのも、関東へ引っ越すことになり、続けることができなくなったためだ。その際、関東に移り住むや、東海自然歩道終点の高尾山登山を行い、とりあえず両端だけは歩いてごまかしたことがある。いわゆるキセル乗車ならぬキセル・ハイクとでもいうのだろうか。

      「キセル」というと若い人の中には何のことかと思う人がいるかも知れない。「キセル」は「煙管」と書く。刻みタバコを吸うための日本の喫煙具で、「吸い口」とタバコを詰める「火皿」と「雁首」が金属でできており、それをつなぐ管の部分は木製になっている。つまり両端は「金」があるが、中は「金」がないということ。たとえば通学定期などを持っている学生が、その区間以上に乗車する場合、乗車時の一区間だけの切符を購入し、降りるときは通学定期で出札し、間の料金をごまかすという不正乗車がある。つまり、それを洒落て「キセル乗車」というのだそうな。

      またこの「キセル乗車」を「サツマノカミ(薩摩守)」と、洒落て読んでいた時代がある。洒落の洒落になるわけで、ややこしいことこの上ないが、この「薩摩守」が、実は僕の大好きな武将の一人なのだ。彼の名は、平薩摩守忠度(タイラノ サツマノカミ タダノリ)……もうお分かりいただけたと思うが、「ただ乗り」に「忠度(ただのり)」がかけられているわけだ。
      洒落はさておき、この「平忠度」は「平清盛」の弟になる。文武両道に優れた人で、「平家物語」でも「忠度の都落ち」の部分が、よく知られている。源氏に追われ平家一門が都を追われるように西海へ落ち延びていこうとするとき、忠度が都にとって返し、五条の三位俊成卿の宿所を訪れる。「落人が帰ってきた」と大騒ぎする中、俊成卿は「帰ってくるには帰ってくるだけのわけがあるのだろう、その人なら差し支えないから」と、忠度を屋敷の中へ招じ入れる。実は、俊成は、忠度の「和歌」の師にあたり、忠度は都を落ちるに当たって「勅撰集が編まれるはずだと聞いております。ここに書きためた和歌の中に、生涯の名誉に一首でもご温情をこうむりたい」と、普段から読みためたものの中から百余種を選び、俊成卿に託したのであった。
      後に「勅撰集」が編まれるに際し、俊成は、朝敵となった「平家」の名を伏せ「読み人知らず」として次の一首を選び「勅撰集」に載せた。その歌が

      「さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」の一首である。

      都を落ちた忠度は、一ノ谷の戦いで、源氏の武将、岡部忠澄との戦いで討死した。享年41才であった。そのとき、箙(えびら=矢を入れておく容器)に辞世の句をくくりつけていたという。その歌が実にいい。「さざなみや……」の歌もいいが、それよりグーンと胸に迫ってくるものがある。

      「行きくれて 木の下陰を 宿とせば 花やこよひの 主(あるじ)ならまし」

      キセル乗車の洒落とは、ずいぶん縁遠い話になってしまった。
      そろそろ花見の季節。花見の酒にうかれるのも一興ではあるが、酔った頭の隅に、この歌の居場所もつくってみてはいかがだろうか。

      藤ノ木古墳石室内部の特別公開に出かける

      2010.03.22 Monday

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        斑鳩文化財センター
                       (斑鳩文化財センターがオープン)

        藤ノ木古墳とガイドのボランティア昨日(3月21日)、」斑鳩文化財センターがオープンした。これに伴い、史跡藤ノ木古墳の石室が特別公開されるとともに、この文化財センターでも「国宝藤ノ木古墳出土品里帰り展」が開かれることになった。
        藤ノ木古墳については、このブログでも、昨年11月11日「広陵町とその周辺・我が町のお気に入り史跡10選 vol.1」でも紹介したが、その時は石室内部に入れず、外から見るだけの訪問だったが、今回、石室内部が特別公開されるばかりか、出土品まで文化財センターで見ることができるとあって、幾分興奮気味で出かけることとなった。左の写真は、藤ノ木古墳について丁寧に説明をしてくれた観光ボランティアの会の大坪さんと、石室内部の見学を待つ人たち。見学希望者には整理券が配布され、一回に入場できる人員を制限し、施設に悪影響が出ないよう配慮されている。ちなみに今回の日程は、
        藤ノ木古墳と家型石棺。碍21日〜22日 9:00〜17:00/■碍27日〜28日 9:00〜17:00
        となっている。
        さてワクワクしながら列の後ろに並び、いよいよ石室内にはいる。中は人がゆったり2列に並んで通れるほどの幅があり、天井は165センチの僕なら高さを気にせずに進むことができるが、170センチ以上の人となると、一部、頭に気を付けないといけない箇所がある。石室内は岩が組み上げられて壁や天井になっているが、その手触りを楽しみながら説明者の声に耳を傾ける。
        藤ノ木古墳は、直径50メートル以上、高さ約9メートルの6世紀後半の円墳だという。南東方向に開口する全長13.95メートルの両袖式の横穴式石室には、朱塗りの刳抜式家型石棺が置かれている(写真左 ただし石室内は写真撮影が禁じられているため斑鳩文化財センターのパンフから転載)。この石棺の石は、私が毎日朝な夕なに眺める二上山の凝灰岩を刳り抜いて作られたものだという。
        被葬者は2名、体格差から男女2体ではないかという見方もある。墓誌銘が作られるようになるのは奈良時代に入ってからのこと。このため、被葬者については不明だが、時代や状況証拠から見て、かなりな確率で、欽明天皇の皇子に当たる穴穂部皇子(あなほべのみこ)と、宅部皇子(やかべのみこ)ではないかと推測されている。

        家型石棺の内部
              (調査時の石棺内部の状態 斑鳩町の発掘調査資料図録から転載)

        以上のような説明を聞き、石室の外へ出ると、斑鳩町のマスコットキャラクター「パゴちゃん」のぬいぐるみが愛敬を振りまき、その前にはパゴちゃんと一緒に記念撮影しようとする親子連れの行列ができていた。陰惨な歴史を刻んだ史跡とはあまりにもちぐはぐな感じがした。
        そんな微笑ましい風景を背に、藤ノ木古墳の説明が書かれた案内板をのぞき込んでいると、観光ボランティアの方が声をかけてくれた。冒頭の写真にある大坪さんだ。気安そうに色々と説明してくれるので、こちらも打ち解けて盛んに質問を返す。慣れない方は、よく虎の巻を見ながら答えてくれるのだが、よっぽど歴史が好きな方なのだろうか。何を訊いても立て板に水で詳しい返事が返ってくる。
        大坪さん曰く、藤ノ木古墳の被葬者の一人と推定されている宅部皇子は、穴穂部皇子の障害を持つ弟だったのでは……そんな説もあるという。体格の違いから男女2体と言われたのも、一人が障害者だったため骨格が小さく女性と間違えられたのでは……。真偽のほどはともかく、そんな感じで様々なエピソードや知識が短時間に次々と語られる。こちらも楽しくなって、ついつい韓国の大河ドラマについてまで聞いてみた。韓国の三国時代をあつかったドラマでは、宝皇女(または寶女王=たからのひめみこ)、つまり後の皇極天皇の出自を百済の王族としている。そればかりか百済の多くの王女が日本の皇室に嫁いでいる。それは百済の属国である日本が独立の気運を見せており、それを百済につなぎ止めるための婚姻政策だという設定なのだ。
        この時代の一次史料は、日本には存在しない。皇極天皇や藤原鎌足が百済人と言われても首を傾げるばかりだ。
        これに対し、観光ボランティアの大坪さんはこともなげに答えた。今の感覚で古代を見ても分からない。天皇家だって、純粋な血統なんて言えないわけで、当時の感覚では、百済から日本に嫁ぐと言っても隣村に嫁に行くような、それぐらいの感覚だったのではないか。またモノや文化だけが移動したのでなく、人もともに移動したと考える方が順当では? 壊れやすいモノなぞ、シルクロードをはるばる運ばれてきたと考えるより、技術者が材料とともにやって来たと考える方が自然ではないか。
        何という柔軟な発想。私より随分年上の方に見えるが、歴史をやっている方は、物事にとらわれない自由な発想をするようだ。思うに、日本の古代も、今の私たちが考えるよりもっと人の移動が盛んで、飛鳥や奈良の都も、青い目をしたひとたちが行き交う、規模を小さくした長安のような感じではなかったろうか。そんなことを思い、斑鳩文化財センターへ向かうと、ここでもズバリその問題を突きつけられた。同館の藤ノ木古墳を解説したビデオ資料の中に次のような箇所があった。
        藤ノ木古墳から出土した王冠は、他に例がないという。新羅の影響を受けた冠の出土例は何例かあるらしいが、藤ノ木古墳の出土冠は、中国、韓国、どの国にも例がないといい、唯一、アフガニスタンに同じ冠の出土例が多くあるという。
        遠くシルクロードの彼方からやってきた王冠。勿論、王冠がやってきたのでなく、そんな王冠を造る文化と技術が日本へ何らかのルートで入ってきたと言うことなのだろうが。

        一体、日本という国、どれだけの人種の坩堝なのだろうか。


        ◇斑鳩文化財センター
          〒636-0114 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西1-11-14
          TEL/FAX 0745-70-1200
          開館時間:午前9:00〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
          休館日:水曜日(休日を除く) 年末年始(12/28〜1/4)
         入館料:無料(特別展は有料の場合あり)

        「背教者ジョアン末次平蔵とアントニオ村山当安の対立」(自分のことを語ってみたくなりました/番外編)

        2010.03.18 Thursday

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          当時、新人物往来社が「郷土史研究賞」を公募しており、試しにと、卒業論文のテーマを発展させ、末次平蔵と村山当安の対立に焦点を絞って新たに書きあげた原稿で応募したことがありました。それが優秀賞に選ばれ、授賞式に東京へ行ったことがあります。授賞式には早乙女貢さなど著名な作家の方たちも顔を並べ、何か晴れがましい思いをしたものです。自分の人生の中で、結構インパクトのあった出来事でもあり、そのとき受賞した原稿をここに掲げておきます。



          第4回郷土史研究賞/優秀賞受賞論文
          「背教者ジョアン末次平蔵とアントニオ村山当安の対立」
          桐生敏明


          ◇はじめに

          長崎代官未次平蔵(政直)といえば同地における切支丹迫害の元凶ともいうべき存在であった。ドミニコ会士オルファネールは、長崎でおこなわれた多くの拷問、教会の破壊には「すべて平蔵が関係している」と、その迫害者ぶりを指摘している。しかしその平蔵もかつてはジョアンの洗礼名を持つ長崎における切支丹の柱石的存在であった。父は末次興善−彼は善良な切支丹として、また裕福な博多・長崎の商人として一生を終った。しかし平蔵はこの二つをそのまま引き継ぐことは出来なかった。富とキリスト教−かつて長崎においてはこの二つは矛盾することなく深く結びついていた。それは長崎貿易の主体がポルトガルとの関係であり、イエズス会との関わりを抜きに貿易という事が考えられなかったためでもある。当初は切支丹になるということは長崎貿易参加へのパスポートをも意味した。しかし今や禁教・迫害の時代を迎え、長崎の切支丹たちはこの二つの選択にせまられた。富を棄て命を葉てる者もあれば、キリスト教を棄てた者もある。前者は殉教者として福者に列せられ、後者は背教者としてユダのレッテルを貼られた。
          そして平蔵は長崎代官の職を代償に、この背教者の道を選んだのである。


          ◇末次平蔵と木村一族

          一五五〇年(天文十九)フランシスコ・ザビエル等一行は松浦領平戸に上陸した。
          さて、ザビエルが初めて日本の土を踏んだのはこの前年一五四九年のことである。日本人青年アンジロー(弥次郎)に導かれ鹿児島に上陸したザビエルは、一年この地で布教活動に従事した。しかし当初の期待は島津貴久の冷遇もあって、充分報いられることはなかった。翌五〇年ザビエルは希望を都へとつなぎ鹿児島をあとにする。そして都への途上、この平戸へ立ち寄ることとなったのである。おりからこの地に初めてのポルトガル商船が入港しており、ポルトガル貿易を重視した松浦隆信は、このためザビエル等一行をも盛大に歓迎することとなった。ザビエルは言う。
          「そこ(平戸)の領主は、私達を大いに歓迎した。其処に居ること暫くにして、住民の数百名が信徒となった」と。
          さて、この改宗の中心となった人物が松浦氏の家臣木村氏である。彼はザビエル平戸滞在中の宿主であり、平戸における最初のキリスト教改宗者であった。それはおそらくキリスト教界にとって、日本における最大の収穫の一つではなかったろうか。なぜなら、のちにこの一族からは、日本人として最初の司祭に叙せられるセバスチャン木村が誕生し、更にアントニオ木村、レオナルド木村、マリーア木村デ村山など数々の模範となるべき切支丹が生み出されたからである。彼らはいずれも名誉ある殉教をとげ、日本における他の殉教者とともに、一八六七年(慶応三)教皇ピオ九世によって福者として世界に発表された。イエズス会士ジロラモ・マヨリカは言う。
          「木村一族は彼らの信仰の師父聖フランシスコ・ザビエルの英雄的な徳からそれることのない子孫だけを生み出すようである」と。
          しかし彼の言に反して、その同じ木村氏から後に背教者となり迫害者となる末次平蔵が登場してくるのである。平蔵と木村氏との関係はキリスト教界側の史料の中にしばしば顔をのぞかせる。例えば一六一九年の「イエズス会年報」にはアントニオ木村の殉教に触れ、その中で彼アントニオが「レオナルド木村の親戚であり、末次平蔵の従弟」であると紹介しているし、またドミニコ会士オルファネールもこのアントニオ木村と平蔵の関係について次のような興味深い記録を残している。
          「(長崎奉行長谷川)権六はアントニオ木村が平蔵の従弟でありかつ平蔵は彼の釈放を願い出ていたので」権六は「平蔵が願い出ているのを考えよ。転べば釈放するであろう」とアントニオに説得を試みた。しかし彼は「デウスの御助により、私は正気の間は決してそんな罪深い不名誉なことは致しません」と、殉教の道を選んだという。
          また村山徳安アンドレスの殉教を伝えるパードレ・モラーレスの書翰には、アンドレスの妻「マリーア夫人」即ちマリーア木村デ村山について次のように記している。
          「長崎代官(村山当安)の息子(徳安)の妻であり現代官(末次平蔵)の姪であって、あれほどの名誉と栄華の中で生活していたのに、いま彼女が夫のいない甚だしい貧困に満足していること、ただ神の御恵みによってこの苦しみを容易に耐えていることは確かに人々の大きな驚きとなっています」と。
          更にアルバレス・タラドゥリース氏もセバスチヤン木村について、彼が「殉教者レオナルド木村S・J、アントニオ木村、マリーア木村デ村山(中略)、マリーア木村デ村山の叔父・養父であり棄教者・迫害者たる末次平蔵ジョアンの親族である」ということを指摘されている。
          では平蔵と木村氏の具体的つながりは何であろう。一六一四年、平蔵自身が述べたところによれば「彼の祖父は自分の家に宿泊させていたパードレ・メストゥレ・フランシスコ(ザビエル)に洗礼を受けた。七十五歳になる彼の母も、誰によってか記憶していないが、種々の事情から考えておそらく同パードレ・メストゥレ・フランシスコによって受洗した」と。すなわちザビエルの宿主となった木村氏は平蔵の祖父にあたる訳で、そして平蔵の父とは先にも述べた博多の商人末次興善なのである。しかしここで見る限り、平蔵は興善の受洗については触れていない。もし興善がこの時受洗していないとすれば「木村が家族全部と一緒に洗礼を受けた」という記録に矛盾する。とすれば、おそらく興善はこの時すでに平戸には居なかったのではないだろうか。
          興善は博多の末次家に養子に入り末次興善を名乗った。いつの頃であったかは判然としないが、このような事情や、ザビエル来島当時、興善は既に三十歳前後であったという事から考えて、この時にはもう末次家に入っていたとも考えられる。いずれにせよ興善は木村氏とは別の機会に受洗したのであろう。彼は洗礼名をコスメといい、コスメ・コーゼンの名で、これ以後フロイスの『日本史』の記述の中にもしばしば登場する事となるのである。


          ◇コスメ末次興善

          コスメ・コーゼンの名がフロイス『日本史』に最初に現われるのは、一五六五年(永禄八)のことである。興善は四十五歳前後であったと思われる。この時イルマン・ルイス・デ・アルメイダは病の身を堺の日比屋了慶の屋敷に休めていた。その病も癒え、明日は河内の国、飯盛へ旅立とうという時、了慶は別れの茶会を催すことを決めた。フロイス『日本史』は言う。
          「その翌日九時に、彼(了慶)は、私(アルメイダ)と一日本人いるまんと、またもう一人、日本で何くれとなく我々の用事を世話していてくれる男で、コスメ・コーゼン Cosme Cojenという、富裕で、たいそう善良なキリシタンに口上を伝えてよこしました」と。
          この二年後、即ち一五六七年、フロイス『日本史』はやはり堺においてであるが、コスメ興善が憐れな捨子を野犬から救けたことを伝えている。このあと興善に関する記述は途絶え、再びその消息が知れるのは十一年後、五七八年(天正六)のことである。
          この年、切支丹大名大友宗麟は島津征討軍をおこし、耳川で決戦におよぶが、逆に惨めな大敗を喫した。この敗報は宗麟治下の博多にも入り、町は時ならぬ混乱状態に陥った。
          博多在住のイエズス会パードレ、ベルショール・デ・モウラ及びバルタザール・ローペスは、この混乱を避け秋月へ逃げることを決する。そしてその避難途上「彼等は博多で彼等の保護者であったコスメ・コーゼンに逢った」のである。
          秋月に入った宣教師らはそこでも多大の困難にぶつかることとなった。秋月種実が大友氏に叛旗を翻したのである。宣教師らはたちまちその保護を失い、生命の危険にさえさらされる事となった。そこで彼らの苦難を救ったのが、他ならぬ末次興善である。彼は「秋月(殿)に働きかけて、ぱあでれたちを迎えて保護を加えさせ、これによって彼等は自由を与えられた」のである。
          末次興善はこのあと一五九〇年(天正十八)にもこの秋月に姿を現わしている。それは恐らくフロイス『日本史』に登場するコスメ興善の最後の姿であろう。
          この年インド副王使節の資格を以って巡察師バリニャーノ一行が長崎に到着した。彼らは豊臣秀吉に謁見すべくただちに長崎をあとにしたが、その一行を博多の近く秋月で出迎えたのがコスメ末次興善だったのである。
          「(彼らが秋月に)着くと、(一行は)コスメ・コーゼン Cosme Cojenという古くからの優れたキリシタンの老人に迎えられた。彼は博多の町の非常に重立った人で、名望ある多くのキリシタンの息子たちの父である。本来の主な家は博多にあるが、(その他)諸所にも家を持っている。その多くの家の一つは秋月にあり、そこで彼は(先に)秋月(種実)殿からはなはだ挙用されたのであった。」
          今こうして、フロイス『日本史』の記事中から、末次輿善に直接関係するものを拾い出し並べてみた。これら一連の記事を読むとき我々は、善良な切支丹としての興善の姿を思い描く事が出来ると同時に、また未次氏初期の活動範囲をもほぼ推測することが出来るのである。それは概ね堺と博多を結ぶルートであった。中世末から近世初頭にかけて、博多は対馬−朝鮮を結ぶ重要な貿易港であった。しかし博多はその膨大な輸入品を捌く消費都市を後背地として持たない。そこで京都といぅ一大消費都市を後背地として持つ堺との連繋が必要となってくるのである。末次興善の屋敷が「諸所」にあり、その一つが堺に在ったというのも当然のことかもしれない。ところがこれから約百年後『元禄二年堺大絵図』には、既に末次氏の名を見付け出す事は出来ない。それどころか、未次興善が堺に居たという記録は、フロイス『日本史』以外には皆無なのである。例えば『今井宗久茶湯日記書抜』にも、また『天王寺屋会記』にも興善の名は登場していない。それは末次氏の当時の商業活動がそれ程大きな影響力を持たない、言いかえれば、やっと頭をもたげてきたばかりの新興商人のそれでしかない、といぅ事を物語っているとも言えよう。
          しかし末次家も平蔵の代となり、長崎貿易に携わるようになると、末次氏の名は急速に当時の商業活動の表面に躍り出てくることとなる。例えば一五九二年(文禄元)、豊臣秀吉は初めての海外渡航朱印状を発給したが、これには、

          長崎ヨリ五艘
          末次平蔵   二艘  船本弥平次  一艘
          荒木宗太郎  一艘  絲屋随右衛門 一艘

          京都ヨリ三般
          茶屋四郎次郎 一艘  角倉     一艘
          伏見屋    一艘

          堺ヨリ一艘
          伊予屋    一艘
             以上

          とあって、この年発給された朱印状九通のうち、五通までを長崎在住商人が得ており、しかも内二通が末次平蔵に宛てられたものであることがわかる。長崎貿易を背景とした末次氏の台頭ぶりが窺えるというものであろう。しかしかといって、この末次氏の隆盛をもたらしたのが、平蔵一人の力に依るというのでは決してない。むしろその土台を築きあげたのは、平蔵の父興善の活躍によるところが大きかった。当初、末次氏の発展は対ポルトガル貿易にかかっており、そしてこれは次の二つの柱に支えられていた。一つはイエズス会との関係であり、今一つは新たに開港した貿易都市長崎との関係であった。興善は切支丹となることによって対ポルトガル貿易に有利な地位を占め、更にポルトガル貿易の為に開かれた長崎へ逸早く進出し、その地に興善町を興すなどして町の発展に寄与し、長崎の町政に少からざる発言力を有するようになったのである。
          そして、末次平蔵の活躍もこの土台のうえにあってこそ、初めて可能になったといえるであろう。因に平蔵の誕生は、長崎開港に遅れること二年、即ち一五七三年(元亀四)のことであった。以後末次氏は衰退の途を歩む堺を棄て、新興貿易都市長崎の商人として次第に頭角をあらわしてくるのである。


          ◇アントニオ村山当安

          そろそろこのあたりで村山当安について触れておく必要があろう。彼は後に平蔵背教のきっかけをつくり出す人物で、未次家とは並ならぬ関係にある。このことは例えば冒頭にも述べた、平蔵の養女であり姪にあたるマリーア木村−彼女が当安の長男であるアンドレス徳安のもとに嫁いでいることでも察せられるであろう。
          さてこの村山当安と末次家との関わりは、当安が身体一つで長崎に流れてきた時に始まる。未次興善が博多から長崎に進出し、興善町を興すなど精力的に長崎に地盤を築きつつあった頃、一人の青年がこの長崎にたどりついた。この人物が後に長崎外町代官となる村山当安その人である。彼は一五六二年(永禄五)の生まれというから平蔵より十一歳の年長となる。出生の地は「尾張名古屋」とも「安芸広島」とも、また「筑前博多」ともいわれる。何れの説をとるにせよ未だ確たる根拠はない。『長崎縁起略』によれば、「東安と云ハ、本名伊藤小七郎といふ者也、生国尾張名古屋の者、元来武士也」とあり、どうやら零落した武士の出であるらしい。「天正年中」長崎に来り当初末次興善の許に身を寄せ、切支丹に改宗し、その洗札名アントニオに「安東」「安等」「和奴唐」等の文字を当てていたようだ。その彼が己れの才覚一つを武器に徐々に身を起し遂に肥前名護屋在陣中の豊臣秀吉にとり入り、長崎外町の代官に任ぜられるようになった。この間の事情を『長崎根元記』は次のように記している。

          文禄の比、長崎内町の分建並廿三町に相極、夫より在郷地を広町に取建、段々諸国の者集繁花の地と成。然処文禄元年秀吉公、唐津名護屋御在陣の時、長崎為2惣代1町之頭人一人御礼可2罷出1に相定之処、生所芸州村山安東と云者、長崎に令2居住1、常に大人に馴弁口才発者也。某を名護屋へ可レ遣首尾可2相調1由、頻に望付、色々献上を支度し、安東を名護屋に差越。秀吉御感有て折々御目見被2仰付1、汝東庵と可2名付1処安東と云事おかしく思召との御雑談有レ之、則東庵と改重而罷出上様御機嫌の能御序を以、長崎内町之外某に御預を蒙度由奉レ願。依之御赦面之地子銀として廿五貫目差上、外町並在郷地迄、御代官相務、と。

          当安の長崎代官出世譚としては非常によく出来た話である。しかし、かといってこの伝承を頭から鵜呑みにすることも出来ない。というのは、当安の長崎代官就任にはイエズス会が関係していると思われるふしがあるからである。このことを確証する史料こそないが、次の事実は、これを類推させるに充分であろう。当安が長崎乙名達の依頼を受け、肥前名護屋在陣中の秀吉を訪ねた年、即ち一五九二年(文禄元)、イエズス会士ジョアン・ロドリゲスがやはり秀吉のもとを訪ねているのである。しかもこの年入港したポルトガル船船長を伴っての謁見であり、日本巡察師バリニャーノの指図によるものであった。このことの意味するところは大きい。
          これより四年前、秀吉が貿易と布教の分離を謀り、世にいう伴天連追放令を発したが、この時イエズス会は報復措置として、ポルトガル船に対し長崎渡航中止を勧告した。以来ポルトガル船の来航は一時途絶え、秀吉はイエズス会とポルトガル貿易の切り離せざることを否応なく思い知らされたのである。そこへ巡察師バリニャーノがインド副王使節として来日した。秀吉はイエズス会の布教活動を黙認せざるを得なかったであろう。そしてこれまでの方針を一変し、イエズス会パードレを貿易の仲介者として利用することを考えたのである。ここに登場してくるのが滞日十余年に及ぶというイエズス会士ジョアン・ロドリゲスである。彼はバリニャーノの通訳として秀吉に謁したが、秀吉はこのロドリゲスを厚遇し、彼に対し頻りにポルトガル船の来日を要請した。
          そしてロドリゲスは、この秀吉の意向に応えるかのように、ポルトガル船船長を伴い肥前名護屋に秀吉を訪ねたのである。秀吉にとっては、貿易と布教の不可分を今一度見せつけられた様なものであり、それだけに貿易仲介者としてのイエズス会を意識しない訳にはいかなかった。そして村山当安が長崎外町代官に任ぜられたのも、やはりこの同じ年の出来事なのである。イエズス会士フランシスコ・ヴイエイラは言う。
          「長崎市に当安アントーニオと称するキリシタンがおりました。貧しい生まれではありましたが、秀れた能力とキリシタンらしい行ないをもっていましたので、イエズス会はこの者を庇護しました。彼はその援助によってこの市の主要なキリシタンたる代官の一人になるに至りました」と。
          つまりイエズス会は、熱心なキリスト教信徒を長崎代官にすることによって、貿易のことや長崎町政のこと、更には長崎貿易をめぐる様々な政治・経済関係にまで有利な地位を獲得しようとしたのである。その証拠に、秀吉没し政権が徳川家康に移るや、イエズス会パードレ、ジョアン・ロドリゲスは、この当安を伴い年頭の挨拶として家康を訪ねた。それは、秀吉以来の長崎代官の職を当安に対し引き続き安堵してもらうためであった。要するに、イエズス会は「長崎代官」村山当安を必要としたのである。時に一六〇三年(慶長入)、当安四十一歳の時のことであった。


          ◇当安とイエズス会の対立

          ところで、当安とイエズス会の蜜月期間はそう永くは続かなかった。当安はやがてイエズス会から離反していくのである。何故だろうか。フランシスコ・ヴイエイラは、当安の道徳的堕落がその唯一の原因であるとしているが、ではイエズス会自体には原因がないのだろうか。この頃イエズス会は、布教資金捻出のため、生糸を中心とした長崎−マカオ間貿易に深く関わり、ついには本末転倒し利潤を追求するに急となり、キリスト教布教団体としての枠を大きく踏みはずすようになってしまっていた。しかもイエズス会はこの貿易に関係する日本人の商業活動を、キリスト教といぅ枠で大きく制限したのである。このため、その取引について「望み通りの生糸を入手出来ない」日本商人達の不満が常に存在したのである。さらに、この長崎−マカオ間貿易の全般にわたって、日本人とポルトガル人の仲介にたち、終始大きな指導力をふるったパードレ、ジョアン・ロドリゲスは「しばしば法外な糸値段をつけたらしく、宣教師ですらそのやり方を適切でない」と指摘した程であり、加うるにイエズス会は、当安を利用して長崎町政まで関与しようとしたのである。
          当安のイエズス会離反もこのようなイエズス会の行き過ぎた商業活動が原因しているのではないだろうか。当安にとつてイエズス会はいまや単なる商業上のライバルでしかなくなっていた。ためにこれ以後当安は、イエズス会商業活動の中心的存在である、パードレ、ジョアン・ロドリゲスの日本追放を画策するようになるのである。例えば当安は、ロドリゲスが貞潔の誓願を犯したと言いたてこれを陥れようとしているし、またイエズス会を危険な存在として機会あるごとに、長崎の主要な人物や「王宮の重要人物たちに説いてまわっている。
          「諸パードレに騙されないようによく注意しなさい。そして神などは存在しないし、総ては生命と共に終ることは確かであると考えなさい。パードレが霊の救いがあるといっているのは全くの偽りであり、パードレ自身もそれを知っているが、この方法によって日本をイスパニア国王に服従させるため、彼らの教えに従うように説いているのである」と。
          このようにして当安とロドリゲスの対立は次第に根深いものとなり、ついに一六一〇年マードレ・デ・デウス号事件の発生をむかえて更に決定的なものとなるのである。
          一六〇九年(慶長十四)夏、長崎に入港したポルトガル船マードレ・デ・デウス号に対し、長崎奉行長谷川左兵衛と代官村山当安はその積荷に厳重な統制を加えようとした。積荷の目録を呈出させ、その商品に対し価格の面その他において、日本人官憲の指揮権を発動しようとしたのである。それはイエズス会の貿易介入を排し、ポルトガル貿易の主導権が日本人にある、という意志の表明でもあった。このため生糸を中心とする積荷の多くが差し押えられ、許可なく荷揚げをすることが禁じられた。しかし船長アンドレア・ペッソアはあくまでこれに反対し、家康に直訴さえほのめかしたのである。
          ところでこの前年、マカオにおいて有馬晴信の部下とポルトガル官憲との間に武力衝突がおこり、日本人は暴徒として鎮圧され、その多くが殺されまた捕えられるという事件が発生した。そしてこの事件の鎮圧にあたったのがほかならぬこのペッソアだったのである。
          さて当安らは積荷に関する種々の統制が拒否されたと知るや、このマカオにおける日本人騒擾事件を利用して、ペッソアを陥れる事を画策した。ポルトガル側は、マカオにおけるこの事件を長崎入港後何より早く家康に報告する筈であった。しかし当安や左兵衛は、あろうことかイエズス会を使ってその中止を説得させたのである。
          「マカオで殺された日本人たちのことを内府の耳に入れるのは絶対に適当ではない。非常な打撃をうけられ苦しまれるにちがいないし、内府様を納得させるに足る理由も弁明もあろう筈がない」。更にこの事は「決してポルトガル人の利益にはならない」であろうと。
          こうしてマカオにおける事件はポルトガル人の口からは家康へは知らされないこととなった。それは結果として、ポルトガル人がこの事件を家康に対し、隠そうとしたかのような印象をあたえたのである。イエズス会は当安らに躍らされ同胞破滅の原因をつくり出してしまった。次に当安らは有馬晴信にゆさぶりをかけた。イエズス会士モレホンは言う。
          「この策謀の張本人は左兵衛と等安であった。彼らは有馬殿をこの策謀に引入れるために、左兵衛は、もし貴殿が家来の殺されたことを遺憾に思わず同盟に加わらないならば、貴殿の家来が日本の外で犯した種々な問題について貴殿を訴えるといって嚇した」と。
          晴信はマカオより逃げ帰った部下を連れ、駿府へ赴き、マカオにおける事件の一切を報告するにいたった。ポルトガル側の報告は左兵衛や当安らによって阻止されており、有馬晴信の報告が一方的に受け入れられ、怒った家康は、ポルトガル船の捕獲・ペッソアの逮捕を晴信に命じたのである。事件は既に周知のごとく、デウス号の爆沈という形で結末を見た。しかし当安のイエズス会に対する攻撃は終らなかった。彼は家康の怒りを背景に、日本からイエズス金の立退きをほのめかしたのである。そこで日本管区長パシオは、当安や左兵衛に和解工作を講じた。当安らは「ペソア来朝中の行動に関する責任をロドリゲスに帰し、ロドリゲスをマカオヘ追放すること、それはイエズス会の決議の結果によると家康に伝えること」。この二つを条件にパシオの和解工作に応じたのである。
          おさまらないのはイエズス会である。当安らにさんざんふりまわされた挙句、デウス号事件の責任をおしつけられ、ロドリゲスをマカオへ追放しなければならなくなった。しかもこのデウス号沈没で、イエズス会は一万二〇〇〇ドゥカド相当の生糸を失い、莫大な負債をかかえこむことになったのである。一イエズス会士は言う。
          「われわれは想像も出来ない程みじめな状態に陥った。というのは、維持する財源をもたない許りか、既に二万ニ〇〇〇タエルの負債を負っており、しかも毎年さらに負債を重ねていくことになろう」と。


          ◇平蔵とポルトガル貿易

          マードレ・デ・デウス号事件の影響は大きかった。イエズス会内部でもこの事件を機に宣教師らの貿易介入批判の声がおこり、一六二一年、パシオによってイエズス会服務規定の中にハッキリと禁止措置をとることが明示された(ただし守られはしなかったが)。
          しかし最も大きな影響を蒙ったのは日本人それもポルトガル貿易と密接にむすびついた長崎在住の貿易商人達ではなかったろうか。
          この頃ポルトガル船は一六〇七年、八年と日本への渡航はなく、一六〇九年やっと渡来したマードレ・デ・デウス号も前述の如く爆沈し、このためさらに一六一〇年、一一年とポルトガル貿易は空白状態が続く事となる。
          ポルトガル貿易によって利益を得ていた者たちにとっては、その痛手はいかばかりであったろうか。
          ところで長崎という町の性格を考えるに、それは海外貿易−それもポルトガルとの貿易のためにイエズス会が中心となって開いた町であった。一五八八年(天正十六)秀吉によって公領になったとはいえ、ポルトガルとの関係は鎖国まで続く。しかもその貿易量は鎖国間際までオランダ・中国を凌いでいたのである。そしてこのポルトガル貿易を背後から支えたのが長崎銀主の存在であった。彼らはポルトガル船に多額の投融資を行い、ポルトガル商人らと利害を一にしていた。ボクサー氏によれば、ポルトガル人の日本人に対する貸借関係は既に十六世紀中に始まっていたと考えられ、「十七世紀の初二十五年間」はその最盛期に達したといわれている。
          例えば『バタヴィア城日誌』一六三四年二月十九日の条には、「日本の商人達は(中略〕ポルトガル人に迫り、委託金および貸渡金として長崎において払い渡したる金額を精算してことごとく払い戻すことを請求せり」とあって、長崎の銀主が鎖国の完成を目前にして、ポルトガル人負債者にその返済をせまった事が記されている。そしてこの長崎銀主の中に内町乙名・ジョアン末次平蔵がいた。彼は朱印状を得て自ら「安南」や「東京」更には「交址」「高砂」へと貿易船を派遣するほか、このポルトガル船に対しても多額の投融資を行い、言わば長崎貿易全般にわたって大きな発言力を有する存在であった。
          さて、この平蔵とポルトガル人との関係は極めて緊密で、台湾事件で平蔵とオランダが衝突した際も、オランダ人達は彼の背後にポルトガル人が在るのではないかと勘ぐった程であり、またボクサー氏も平蔵とポルトガルの関係について、「この平蔵は葡萄牙人からは、彼等の最も有力な支持者の一人であると思はれていた」と、両者の親密な関係を指摘しておられる。
          次の事実は両者のこのような関係をすこぶるよく反映していると言えよう。それは一六三八年八月二十三日のことである。二隻のポルトガル船が長崎に入港した。
          「之等の船には、三百四十人の人々が乗組んでいて、中九十人が白人であった。然るに彼等は僅に二百三十ピクルの生糸を持って来たが、その中百五十ピクルは長崎代官平蔵の為に持って来たもので、残る八十ピクルが葡萄牙人自身のものであった」と。
          つまり、このポルトガル船のほとんどが平蔵の資本で賄われていたのである。平蔵がいかにポルトガル貿易と密着していたかが察せられるであろう。
          これとほ逆に、長崎代官村山当安はポルトガル貿易の主導権を奪おうとして、イエズス会と対立し、あまつさえポルトガル船から一種の関税を強要し、挙句はマードレ・デ・デウス号焼打に見るような強硬措置に出るにいたった。当安の一連の行動は、見方によれば外国資本に対する商業ナショナリズムの萌芽として捉えることができるかもしれない。しかし現実の問題として、当安の動きはかえってポルトガル貿易で利益を挙げている日本人資本家をも締めつけることとなり、ひいては平蔵の当安に対する敵対感情を生み出す一因ともなったのである。
          さてポルトガル貿易をめぐって生じた、この当安と平蔵の対立関係は、これを核として、当時長崎が有していた様々な矛盾を吸着し、長崎全市を包みこむ複雑な様相を呈しはじめた。しかも、このことは逆に当安と平蔵の関係にも反映し、二人の対立を更にのっぴきならぬところまで追いこんでいくのである。アルバレス・タラドゥリース氏は言う。
          「末次平蔵対村山当安の争いは、おそらく個人的闘争ではなく、外町と内町即ち長崎の新市内と旧市内の乙名たちの間のー宗教問題を多分に含んだー競争心の集積であった」と。
          つまり二人の対立関孫の背後には、内町と外町の対立があり、更にイエズス会=ポルトガル系対フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスティン会=スペイン系の対立関係が存在したのである。イエズス会はザビエル以来約半世紀にわたって対日布教権を独占してきたが、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、フランシスコ会などスペイン系修道会が盛んにその不当を攻撃し、ついに一六〇八年、ローマ法皇パウロ五世によって全面的にイエズス会以外の他修道会にも日本布教が公許されたのである。このため日本布教の入口ともいえる長崎は、このイエズス会とスペイン系修道会の対立の中心となった。そしてイエズス会と衝突した村山当安は、このフランシスコ会と結び、ポルトガル貿易と密着した平蔵は当然イエズス会に協力したのである。しかも二人はそれぞれ外町と内町を代表する人物であった。ー当安は外町代官として、また平蔵は内町乙名(町年寄)として。
          ところで、当時長崎の町政は、外町については長崎代官が、また内町については「町年寄の合議」に依っておこなわれていた。しかもこの二つを統轄すべき長崎奉行は未だ長崎に常駐せず、従って長崎奉行といっても「行政の監督機関でありながら、町政面に於ける行政司法権さえ具備していないというような状態であった。つまり長崎は、内町乙名・外町代官という、二つの頭を有する一つの自治都市ともいうべき存在であって、互いに他に対しその指導力をおよぼそうと競い合っていたのである。このため次のような関係が成立するにいたった。平蔵=内町のグループをイエズス会が支持し、当安=外町のグループをフランシスコ会をはじめスペイン系修道会が支持するというような。次の事実はこのような関係を非常によく反映していると言えるであろう。
          一六一四年(慶長十九)、即ち切支丹大追放の年であるが、この年長崎では禁教令に対抗するかのように連日贖罪の行列が町をねり歩いた。このおりスペイン系修道会とその信徒達の行列は凄惨を極め、五月十九日には「三千人以上の血の贖罪者の行列が出た。彼らはかつてみたこともない程惨たらしく互いに鞭うっていた」。
          そしてこの行列には長崎代官村山当安が家族ぐるみで公然と参加していたのである。これに対しイエズス会の行列は、かなり見劣りのするものであった。アビラ・ヒロン『日本王国記』は記す。
          「行列の歩き廻った距離は極く短いものだったが、それは町の年寄らが、あの悪魔のような敵がこの上怒らないように、パードレたちに行列を通りへ進ませないでくれと頼んだからであった」と。
          つまり幕府に気兼ねした内町乙名達がイエズス会に行列を目立たぬようにと依頼し、イエズス会はこれに応じた訳である。二種類の聖行列を見くらべる時、内町=イエズス会と外町=スペイン系修道会のそれぞれの連繋がそこにあらわれているように思われるのだが。


          ◇禁教令と村山当安

          マードレ・デ・デウス号事件は長崎の町を真っ二つにわける対立のきっかけとなった。しかしそればかりでなく、別の面でもこの事件は日本に大きな波紋を投げかけることとなったのである。それは切支丹迫害の開始であった。
          さてデウス号を爆沈させた有馬晴信は、その恩賞として「先祖の失った土地、肥前の藤津・彼杵・杵島の三郡」を取り戻せはしないかと、本多正純の家臣岡本大八に相談をもちかけた。大八はこれに対し、本多正純に取次ぐとして運動資金を要求し、これを騙しとったのである。一向に事の進展しないのに業を煮やした晴信は本多正純に報じた。しかし正純はこの事を知らず、晴信は、はじめて己が騙されていたことを知ったのである。事は家康の耳に入り、岡本大八は駿河の阿倍川原で火刑に処せられた。しかし大八も逆に晴信を訴えていた。デウス号焼打のとき、晴信が長谷川左兵衛(長崎奉行)と衝突し「左兵衡を斬り、長崎を火の海にして自殺する」と洩らした言葉がとがめられたのである。このため晴信も甲斐に流されたのち死罪となった。問題はこのあとである。家康はこの二人が共に切支丹であった事を知り「日本人には為し得ないようなことをキリシタンは敢えて行なう」と、切支丹への不信を高めた。更に調べるうち、家康をとりまく側近や侍女の中にさえ切支丹が発見されたのである。オルファネールは言う。「それゆえ、皇帝は大八の死後、キリスト教に対する迫害を公然と開始した」と。
          事の真偽の程はともかく、デウス号事件にまつわる「岡本大八一件」が切支丹迫害のテコとして家康に利用されたのである。時に一六一四年、諸国の切支丹は長崎に集められ、この地からマカオ・マニラへと追放される事に決した。
          「遂に暴君はこの意図を実行に移す事に決意し、修道士ばかりか古くからのキリシタン、敬虔で熱心な協力者、背教したがらぬ日本生まれの女たちまで日本国内にとどまらぬよう命じた。彼らの名前は、ことに都や大坂では名簿に記されていた。その後日本国中のあらゆる資格、身分、地位の殿たちに、都市であれ町であれ村であれ、領地内にパードレがいたり、その消息がわかったりしたら、ただちに長崎に送るようにとお触れがまわった。殿たちは一言も抗わず、疑いもさしはさまず、防害も反対もせず、その命令を見てから慶長十九年の正月というその年の第一の月までにその命令を完遂した」。
          さて長崎代官村山当安にとっても、この一六一四年という年は一つの転換期であった。これまでの当安の生活はと言えば、道徳的に堕落したおよそ切支丹にはあるまじきものであり、イエズス会から離反した原因の一半もやはりこの事によっていると言わねばなるまい。アビラ・ヒロンによれば、当安は一六一二年女性問題のもつれから一人の若者を殺しており、「その後若者の義父母、妻、十人以上の親族を次々と殺した」と言われ、さらに「しばらく後、何人かの家来たちが彼に悪事を働いたため、七、八人を宮刑に処しその他の者を殺し(中略)また、もう一人の女のことで彼は妻や息子たちと激しく争った」と言われている。彼の妻は「前述の女を力ずくでものにしようとする等安に抗ってかばったのだった」。
          彼の荒みきった生活が目に浮かぶようである。女のことで部下を殺し、家族と衝突する。およそ彼の生活は、切支丹とは名ばかりのものであったようだ。その当安が徳川幕府の切支丹迫害に対し公然と反抗の気構えを見せたのである。先にも述べたように、一六一四年、全国の重だった切支丹達は長崎に集められ、その地よりマカオ・マニラへと追放されることとなった。この事態に直面した当安は、「良心のつまずきになるすべての女たちを、結婚してきちんと暮せるだけの金を与えて家から出し」「家の中の秩序を整え、悔い改めと深い悲しみの心を示して告解し、家に戻って妻や息子たちと和解し」、前述のように家族ぐるみで贖罪の行列に参加したのである。
          「彼はおとなしく謙虚で以前とは別人のようにみうけられたから、我々は感嘆し、かくも力強く憐れみ深くまします我等の主に感謝を捧げた」。
          このような変化がどのようにして現われたのかはわからない。ただ、長男トクアン・アンドレスを始め、彼の家族の切支丹としての優れた行ないが確かに当安に影響しているだろう事がほぼ推測されるのみである。
          同じ年の十一月、約百名近い宣教師及び日本人信徒がマカオ・マニラへ向けて追放されていった。しかしオルファネールによれば、この内四十一名の多きが日本残留に成功したという。この中には当安の子フランシスコも含まれていた。つまり当安は、このフランシスコを始め九人の司祭を長崎沖で小舟に収容し、再び日本へ潜入させたのである。
          だが事件はこれで終った訳ではない。再潜入したフランシスコは、大坂の陣に際し秀頼方に与し、切支丹浪人の慰安にあたることとなった。ー秀頼はキリスト教の自由布教を約束していたのである。このため、当安もその事に関わり、武器・弾薬を大坂方へ運びこんだといぅ。しかし大坂方は破れた。
          当安のこの切支丹としての一連の行動は、徳川幕府への反抗であり、その発覚は村山一族の滅亡を意味した。当安は幕府への忠節を証明するため、また自らの地位を高めるため、日・中出合貿易の拠点を確保すべく、自費で台湾遠征を試み、更に遣明使節の派遣を計画したのである。しかし事はいずれも失敗に帰し、今や徳川幕府への功労者としての面は全くなく、禁制の切支丹、しかも大坂方に与した反逆者としての事実のみが残されたのであった。


          ◇末次平蔵の背教

          一六一八年(元和四)長崎内町乙名末次平蔵が長崎代官村山当安を幕府に訴え出た。「年頁納入の不正の件」とも「旧債返還要求」についての告発とも言われるが、ことここにいたって両者の対立は項点に達したかの感がある。長崎関係の旧記にはこの争いの原因を、成り上がり者村山当安の驕慢に対する平蔵ら内町乙名の反発とみるものが多い。川島元次郎氏もこの説を踏襲して「事実は感情の衝突にすぎず、当時の人々も東安の驕愉を憎み、其の滅亡を以て天罰に出づ」と、この事件を単なる私怨として片付けておられる。確かに当安の長崎代官就任後の行状には目にあまるものがあった。明人・董伯起が当安に宛てた書翰にも、

          人啓レ寡?自受2悪名1。執事今日富己極矣。譬如2累レ棋極高必墜1。此堆2於レ起無1レ與、然蒙レ恩送帰。莫レ盡2其忠言1也。

          とあって、当安の驕慢に対してその反省を促している。
          しかし両者の対立は今まで見てきたように単にそれだけのものでは決してない。その背後にはイエズス会とスペイン系修道会の対立が隠されているし、また内町と外町の対立が隠されている。次の事実を参考にされたい。
          長崎内町乙名高木作右衛門と町田宗加は、イエズス会のために一つの証言を書いた。一六一八年三月二十一日の日付を持つこの証言書には、平蔵と当安の争いに関しイエズス会が一切関わりを持たなかったことが証言されている。即ち「イエズス会の諸パードレが当安アントーニオに不利になるように金銭によって平蔵ジョアンを援助し助言を与えた」という中傷は、「事実に全く反」していると。しかし逆に考えれば、このような証言書を必要とした裏に、イエズス会と平蔵=内町グループの緊密な関係が一層感じられるのではないだろうか。
          また、この訴訟事件の期間中、「平蔵を支持する旧長崎(内町)の人々は二〇〇〇両および将軍、重臣への贈物を無理して」出していると言われるし、外町の人々も「(平蔵が)当安から支配権を奪うことを許可しないよう」「署名を付して将軍に訴えた」と言う。
          次に事件の経過を金井俊行氏の『長崎叢書・増補長崎略史』によって見ておくこととしよう。
          「嘗て東安の長崎に来るや落魄し未次興善に頼る 代官となるに及ひ又興善と快からす 元和二年(四年の誤)興善の子平蔵其旧債を責む 東安顧みす終に官に訴へ皆江戸に召さる 對審に及ひ平蔵辞屈す 即ち東安か大坂に通したる密事を告く 初め東安か子某天主教を修むるに坐し阿媽港(マカオ)に放たる 東安中途に於て窃に之を奪ふ 又去年之を大坂に篭城せしめ又玉薬を輸送せり 是を以て東安は江戸に斬せられ一家十三人は長崎常盤崎に磔せられ家亡ふ」
          ここで興味深いことは、追いつめられた平蔵が、当安が切支丹である事、大坂の陣で豊臣氏に荷担した事等を訴えその巻き返しを計ったことである。平蔵は平戸の木村氏を祖とする、いわばザビエル以来の名門切支丹であり、イエズス会との関係も深い。しかし、にもかかわらず平蔵は当安を訴えるに、切支丹であることをもってその主な訴因とした。当安を切支丹として訴える事は己れの背教をも意味し、それはキリスト教界に対する裏切りをも意味する。事実平蔵は、この事件以後、苛酷な迫害者としてイエズス会をはじめとする日本キリスト教界の前に立ち塞がったのである。ここにイエズス会=末次平蔵・内町の連繋は断ち切られた。イエズス会にとってはまさに青天の霹靂、信ずべからざる事であった。現にパードレ・コーロスなどは平蔵の背教を信じようとせず、一六二〇年五月、平蔵が自分を捕らえようとした時、初めて彼の棄教を認めた程であった。
          ではこの裏切りの原因は何か。ただ一つ考えられる事は、ジョアン平蔵入信の目的が宗教問題にはなかったということである。つまりイエズス会が牛耳っていたポルトガル貿易への参加が入信の原因ではなかったか、ということである。一六一二年(慶長十七)禁教令が発せられ、一四年には切支丹大迫放がおこなわれ、長崎の諸教会が悉く破却された。当然、その裏にはオランダ・イギリスの対日貿易開始という事実を見逃す訳にはいかない。このため従来イエズス会がポルトガル貿易の仲介者として大きなウェイトを占めていたものが、禁教令によってその役割が著しく軽減した。平蔵はポルトガル貿易と結びついていたのであって、イエズス会との関係はいわば方便であった。イエズス会の貿易に占める役割が低下し、切支丹であることが却って不利ということになれば、必然的に背教ということになるのも当然すぎることかも知れない。
          ところが当安の場合、逆にキリスト教への肩入れが激しくなった。公然と贖罪行列に加わり、追放切支丹を救出する。挙句はキリスト教の自由布教を約束する秀頼(大坂)方に荷担するという有様である。仮にも長崎を代表する代官が御禁制の切支丹であり、幕府への反逆者であるとしたら、その発覚は一人当安が罰せられるだけでは収まらないであろう。長崎自体にあたえる影響も大なるものがあると考えられる。これを防ぐためには道は一つ。幕府に露見する前に、内町の乙名達の手で当安を訴える事である。彼を切支丹として、また反逆者として告発する事は、彼らが幕政の忠実な実行者として幕府に迎えられることであり、対立する外町の行政権を獲得することでもあった。
          ここに内町乙名末次平蔵と外町代官村山当安の間に公事が取結ばれることとなり、この訴訟の一件は村山家の没落をもたらすこととなったのである。
          当安と平蔵の訴訟事件は、これまで見てきたとおり幾つかの要素が絡みあって発生してきている。それはポルトガル貿易をめぐる二人の対立であり、その背後に内町と外町の確執があり、また布教をめぐるポルトガル=イエズス会とスペイン系諸修道会の対立があった。これら要素が時々にその側面を顕わし、この事件の様相を複雑なものにする。しかし要は長崎という町の徳川政権に対する同化の過程であったと言えるのではないだろうか。
          これは体制側から見れば、禁教を通じて長崎が幕府の統制下にさらに緊密に結びつけられるようになったことを意味する。幕府は禁教を公式表明しその追放を実施したとはいえ、ポルトガル貿易を意識し、長崎に潜伏した切支丹に対してはその徹底的迫害を差し控えていた。それがこの事件によって、まずイエズス会と内町乙名の連繋が断たれ教会の経済的背景が断ち切られた。これと共に背教者平蔵が新たに長崎代官に任じられ、長崎潜伏切支丹の徹底的迫害が命じられたのである。


          ◇おわりに

          長崎市夫婦川町に唐土山と呼ばれる山がある。今から三七〇年ばかり昔、この麓にはトードス・オス・サントスというイエズス会の教会が聳えていた。唐土山の名もこの教会の名に由来する。現在この教会跡には奉徳寺という禅宗寺院が建っているが、ここに末次氏の墓所がある。墓石は今ではすっかり磨滅して判読も困難であるが、明治の末、川島元次郎氏が解読したところによれば、一基は「永安院殿通玄宗徹居士」すなわち春徳寺創建の功労者である末次平左衛門茂貞のものであり、また一基は「瑞光院殿壽嵒浄永大姉」すなわち平左衛門茂貞の妻のものである。つまり平蔵政直の息子夫婦の墓である。では残る一基が茂貞の父末次平蔵政直のものであろうか。しかしこの一基は当時においてさえ磨滅が甚だしく、今となっては誰のものであるか明らかにはし得ない。そのかわりと言ってはなんだが、この平蔵の石棺であったというものが不気味な伝説と共に長崎に残されている。この春徳寺の裏の山道を登りつめると、そこが唐土山の項である。そこは巨岩林立する奇景をなしており、その中に一つとりわけて奇妙な岩のかたまりがある。それは縦に細長く刳られており、中には不動尊が詞られている。これが平蔵の石棺となるべき筈の岩塊であった。石工達はこれに「雲證院殿華嶽浄皎居士」すなわち平蔵の戒名を刻した。ところが、その刻字から血が滲み出したというのである。石工達の恐れる事甚だしく、作業は中止され、その跡が今に残されたと伝えられている。当時のイエズス会信徒達に言わせれば、それは背教者であり迫害者となった平蔵に対する「神の懲罰」の奇併ででもあったろうか。
          今この石棺の前に立ち、血を流したというその戒名を捜そうとするが、これも磨滅のためか遂に発見することが出来なかった。平蔵の名はこの石のかたまりからも拭いさられていたのである。今や不動の祠と化しその不様な姿を長崎の海にむけて立ちつくしているその岩塊は、神に呪われ今なお暗い海原を漂い続けるという、あの幽霊船船長「さまよえるオランダ人」−そのふてぶてしささえ感じさせるようであった。(了)


          〈注〉
          (1)井手勝美訳「オルファネール・日本キリシタン教会史」
          (2)一八六七年七月七日、教皇ピオ九世によって福者として発表されたのは、一六一七年から一六三二年にわたる十六年間、二〇五名におよぶ日本教会の殉教者であったという。ディエゴ・パチェコ著、佐久間正訳「鈴田の囚人」
          (3)アルーペ神父・井上郁二共訳「聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄」下巻
          (4)レオナルド木村は一六一九年十一月十八日に、アントニオ木村も同年十一月二十七日に、またセバスチャン木村とマリーア木村デ村山については一六二二年九月十日にそれぞれ長崎において、火刑もしくは斬首によって殉教したことが伝えられている。
          (5)H・チースリク著、高橋憲一訳「キリシタン人物の研究・邦人司祭の巻」
          (6)浦川和三郎訳「元和五・六年度の耶蘇会年報」
          (7)前掲「日本キリシタン教会史」
          〔8)「元和五・六年度の耶蘇会年報」
          (9)J・L・アルバレス・タラドゥリース編註、佐久間正訳「村山当安に関するヨーロッパの史料」
          (10)(11)「村山当安に関するヨーロッパの史料一」
          (12)「キリシタン人物の研究・邦人司祭の巻」
          (13)「村山当安に関するヨーロッパの史料一
          (14)松田毅一・川崎桃太訳「フロイス・日本史2」によれば一五九〇年十二月「善良なコスメ・コーゼンは七十歳を越している」とあることから、ザビエルが平戸を訪れた一五五〇年には彼が三十歳前後であった事が推測される
          (15)ルイス・フロイス著、柳谷武夫訳「日本史3・キリシタン伝来のころ」
          (16)「日本史4・キリシタン伝来のころ」
          (17)(18)「日本史5・キリシタン伝来のころ」
          (19)松田毅一・川崎桃太訳「フロイス・日本史2」
          (20)「村山当安に関するヨーロッパの史料一」中、アルバレス・タラドゥリース氏はその(註)において彼興善に関し「各地に多数の家を有し」「また堺にも家があり、その地で彼の数寄屋は有名であった」と述べておられる。
          (21)田辺八右衛門茂啓編輯「長崎実録大成 正編」第十二巻日本ヨリ異国渡海之部
          (22)興善がいつ長崎へ進出したかは明らかではない。ただ、長崎が開港したのが一五七一年であり、秀吉が長崎を収公したのが一五八八年、恐らく興善の長崎進出はこの二十年たらずの間のこと、しかもかなり早い時期のことであったと考えられる。何故なら秀吉が長崎を天領とした時、既に市街を形成している二十六町に対し地子を免除したが、この中に興善町もまた含まれていたからである。金井俊行編「増補長崎略史」第十巻
          (23)「村山当安に関するヨーロッパの史料」「鈴田の囚人」などにより、当安の誕生が一五六二年、また平蔵の誕生が一五七三年である事が知れる。
          (24)「長崎根元記」巻一には「生所芸州村山安東」とあり、また「長崎縁起略」には「生国尾張名古屋の者」とある。更に長崎在住のスペイン商人アビラ・ヒロンはその著「日本王国記」(佐久間正・会田由訳)に彼の出生の地を「筑前の国、博多の市」であると紹介している。何れが正しいかは不明。
          (25〕当安は「等安」とも「東安」ともまた「東庵」とも書かれるが、岩生成一氏は中国側史料に「等安」と記されることが多いことを述べ「当時一般に等安なる文字を充てゝ常用し、恐らく彼自身も此の署名を用ひた」とされている(「村山等安の台湾遠征と遭明使」)。
          これに対しアルバレス・タラドゥリース氏は、イエズス会トレード文書館第九九一束、第十四葉裏に「村山当安安当仁与 Murayama Toan Antonio」と自筆の署名があることから「当安」の文字を妥当として採用されている(「村山当安に関するヨーロッパの史料」).
          (26)大日本史料十二篇の三十二「長崎縁起略」
          (27)海表叢書第二輯「長崎根元記」
          (28)(29)土井忠生著「吉利支丹語学の研究」所収「通事伴天連ロドリゲスの一生」
          (30)「村山当安に関するヨーロッパの史料」
          (31)「通事伴天連ロドリゲスの一生」
          (32)高瀬弘一郎「キリシタン教会の財務担当パードレ」
          (33)朝尾直弘「鎖国」
          (34)高瀬弘一郎「大航海時代とキリシタン」
          (35)「村山当安に関するヨーロッパの史料一」
          (36)(37)アビラ・ヒロン著、佐久間正・会田由訳「日本王国記」
          (38)「通事伴天連ロドリゲスの一生」
          (39)高瀬弘一郎「キリシタン教会の資産と負債」
          (40)同「キリシタン宣教師の経済活動」
          (41)この欠航はオランダ船の妨害によるものであった。この頃オランダ船はマカオ近海に出没しポルトガル船の攻撃・捕獲と盛んにその交易活動を妨害した。その最初の事例とされるのは一六〇三年七月三十一日のマカオ攻撃であり、この時ポルトガル側は一四〇〇ピコルもの生糸をオランダ船に奪われたという。更にこの翌年六月にもオランダ船によるマカオ攻撃があり、このため、この時も二年続けて長崎年航船が欠航することになった。C・R・ボクサー著、小木曾福也訳「十七世紀初頭の日葡交通」
          (42)岩生成一「朱印船と日本町」
          (43)C・R・ボクサー著、吉田小五郎訳「寛永時代葡人の日本貿易について」
          (44)村上直次郎訳「バタヴィア城日誌一」
          (45)国史大系「徳川実紀」第一編及び第二編、村上直次郎校註「増訂異国日記抄」、岩生成一「朱印船と日本町」
          (46)(47)「寛永時代の葡人の日本貿易について」
          (48)岩生成一「村山等安の台湾遠征と遣明使」には林羅山が記したと言うマカオ諸老宛の書簡を引用し「長崎奉行の長谷川左兵衛と代官村山等安の両人が貿易の要衝に在って、ポルトガル商人より賄賂、言はゞ一種の関税を強要したこと」が論述されている。
          (49)「村山当安に関するヨーロッパの史料二」
          (50)海老沢有道「日本におけるカトリックの教階制」、高瀬弘一郎「大航海時代イベリア両国の世界二分割征服論」
          (51)(52)三宅英利「長谷川左兵衛論考」
          (53)オルファネール著、井手勝美訳「日本キリシタン教会史」
          (54)「日本王国記」
          (55)(56)(57)佐久間正「南蛮人のみた日本」
          (58)「日本キリシタン教会史」
          (59)(60)(61)(62)「日本王国記」
          (63)「村山等安の台湾遠征と遣明使」
          (64)川島元次郎「朱印船貿易史」
          (65)「村山等安の台湾遠征と遣明使」
          (66)「村山当安に関するヨーロッパの史料一」
          (67)「日本キリシタン教会史」J・D・ガルシアの註。
          (68)金井俊行「増補長崎略史」第十六巻
          (69)「村山当安に関するヨーロッパの史料一」
          (70)この事件により村山当安は一六一九年十二月一日、江戸にて斬首され、その子供達もアンドレス徳安をはじめとしてそのほとんどが切支丹として処刑されるにいたった。「村山当安に関するヨーロッパの史料二」九一頁、朝尾直弘「鎖国」一五三頁所載の図表を参照のこと。
          (71)「朱印船貿易史」所収「未次平蔵」

          (新人物往来社「歴史読本」昭和54年4月号掲載

          天明の浅間焼けから鎖国の崩壊へ

          2010.02.05 Friday

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            浅間噴火図

            天明三年(一七八三年)七月、浅間山が大噴火を起こしました。同時期に起こった北欧ラキ山の噴火と相俟って、世界の気象に影響を及ぼし、天明の大飢饉はおろか、間接的にはフランス革命の原因にさえなったと言われる、噴火史上、まれに見る大規模な噴火であり、日本における直接の死者は二万人におよぶと言われています。 
            まずは「浅間焼け」と呼ばれる浅間山大噴火の模様を、手許にある「浅間山天明噴火史料集成 日記編」から紹介しておくことにします。

            浅間噴火図七月四日=浅間山付近の土地、はげしく震動する。村人はあまり戸障子がガタガタ揺れるので、避難を真剣に考えるようになる。震動は激しくなる一方で、頑丈な家も傾き、建具もまがり、家屋はいつ屋根が崩れてくるかわからない状態となり、恐怖に襲われた村人は、広い野原や森林へ避難しはじめる。なかには、大地の裂けることを予想し、竹林を切り払って仮の住居を作り、幼児を背負い、老人をかばいながら、家財道具を運び出すなど、上を下への大騒ぎとなる。事態の普通でないことに気付き、家族を上州や武州に避難させる人もいた。

            七月五日=夜九時頃から、昼夜をとわず大地が震動し、小さな家は倒壊した。このため負傷者が続出し、村人は老若男女の区別なく、二、三里も駆け足で逃げなければならなかった。しかし浅間山から二、三十里四方は皆同じ状態だったという。村人たちは何とか命だけは助かりたいと、泣き叫ぶ声が村々に響いた。

            七月六日=朝、河川の堤防が決壊し、付近の民家は、倒壊したまま濁流に押し流された。やがて、小さな砂岩が多量に降りはじめた。浅間山を見ると、山は黒雲と黒煙で覆われ、昼なお暗く、山上からは、青や赤色の炎が二筋、三筋と吹き出していた。そうこうする内、何かわからないが、浅間山の方向にドウドウという大きな音がして、黒い雲が頭上に覆いかぶさり、山や谷や森林を包み込んで、あたりは真っ暗闇となった。続いて浅間山頂から熱湯が怒涛のように押し寄せ、村人たちは「今度は、水でなく湯が流れてきた」と半死半生のありさまで、小高いところへ逃れる者もあり、木の上へはい登ってようやく命拾いをする人もいた。また逃げ足の遅い人は、熱湯で足を火傷し、四つばいになって逃げた。また、老人や子供は、この熱湯で多数火傷して死んだという。
            そのうえ、大石や大木が噴火の炎に焼け、大木は根元からスッポリと抜けたまま、二つ、三つに折れて空中より落下した。この火に全身を焼けこがして逃げる人もいた。あたり一面真っ暗になったけれども、大石や大木の焼けて落下するときは、まるで真昼のような明るさとなった。村人たちは、この火を避けるため、鍋や釜を頭にかぶって逃げたが、着物の襟や懐に火が入り、暑くて我慢できず、着物を脱ぎ捨てて裸で逃げ回ったという。
            とっさの騒動のため、各家とも、牛や馬を引き出す暇がなく、打ち捨てたり、追い払ったりしていたが、これら多数の牛馬が、焼け石に打たれて、死にもの狂いになって駆け回る。ただでさえ東西南北も分からず逃げ回っている中へ、牛馬が乱入し、当たるを幸い薙ぎ倒し、角でぶつかりしたため、ここにもまた多数の死者を生じることとなった。
            また野獣たちも多数逃げ出し、火と煙に包まれ、怒り狂い、人を蹴倒し、あるいは食いつき、このためまた死人が続出した。
            やがて、一丈四方もあろうかと思われる大岩が、一面に火の塊となって落下してきた。これに触れた人は、あっと言う間もなく死亡した。
            こうした危険なありさまに村人たちは上を下への混雑となり、あるいは踏み潰され、あるいは突き転ばされて死ぬ者も多く出た。真っ暗闇の中を無我夢中で三、四里も走り、沓掛(中軽井沢)まで逃げ、やっとのことで命拾いをした人もいる。

            七月七日=前日までの百倍も大きいかと思える山鳴りと、千倍も激しく伝わってくる地揺れの中で、ついに火口から溶岩がほとばしり出た。火災流は六里ケ原を焼き山頂から八キロほどのところで止まった。この日、伊勢崎あたりでは、真っ暗な日中、稲妻が走り、雷鳴が絶えない。

            七月八日=久しぶりに晴れる。浅間は相変わらず火を吹いているが、誰もがほっとひと息ついた。鎌原村では、朝から村人たちが、畑に飛んできたままになっている石を片付けたり、早い昼寝を楽しんだりしていたが、午前十時ごろ、ひときわ激烈な鳴動が地底から突き上げてきた。鎌原火災流の発生。火口壁をほとばしり出た火災流は十分ほどで鎌原村に達し、村の九十三件の家はすべて火災流の下に埋められた。五百九十七人の村人のうち、たまたま用があって村にいなかった者と、一部の幸運な人々(火災流の中央でなく縁側にいた人々が、丘の上の観音堂へ逃げた)を除いて、四百六十六人が瞬時に死んだ。二百頭いた馬も、百七十頭が失われた。
            火災流の流入により吾妻川が氾濫。逆水によって上流に洪水をもたらす。家や死体などが利根川へと押し流されていく。鎌原村を襲い、吾妻川に流入した火災流の総量は、一億立方メートル、二億トンにのぼると見積もられている。流失した家屋、一千個を下らず、死者は最も少ない記録で千百二十四、多い場合で千六百二十四にのぼる(鎌原火災流の際)。
            浅間山は、これだけの火石を吐いたあとも、この日の内にさらに新しい溶岩を押し出す。前よりも粘性が高く、流れにくい性質のもので、鎌原火災流の西端と重なり合う形でやはり北麓へと流れ、火口から六キロのところで止まった。鬼押出と呼ばれ、溶岩流出はこれを最後に止まった。噴煙、鳴動もこの日をピークに鎮静化に向かいはじめたが、なお浅間山は十月末まで黒い噴煙とともに砂と灰を降らせ続けた。

            浅間噴火被害者

            ところで、昭和五十四年から五十六年にわたって、この浅間山の麓にある鎌原村の発掘調査が三度にわたって行われました。写真の遺体も、そのとき、鎌原観音堂石段から発掘されものです。現在、鎌原観音堂石段は上部十五段のみが残されていますが、実際は百五十段が有り、その五十段附近に折り重なるようにして二人の親子と思われる女性の遺体が発掘されたのです。二人の頭蓋骨は、東大名誉教授鈴木尚氏により復顏されましたが、おそらく母親を背負って観音堂へ逃げ上がろうとした途中、熱泥流に呑み込まれ死亡したものと思われます。
            僕自身も、嬬恋資料館(下の写真)で、復顔されたこの母子と対面しましたが、土地のお百姓さんの顔というより、どこか都人のような上品な雰囲気で、何か妙な違和感を覚えたのを記憶しています。
            後のことになりますが、この娘さん(向かって右)の顔が、僕のよく知っている方の顔とそっくりで、写真を整理していて、「あれ!?」と吃驚してしまいました。

            嬬恋郷土資料館

            そのことはさておき、同じ時期、北欧のラキ山も大噴火を起こしました。

            1783年6月8日、朝九時頃、おびただしい雷が一度に落ちたような巨大な音がし、二十本を越える火柱が噴出した。ラキ山を中心に南西方向へ延長十数キロメートルの間に、五十ほどのクレーター(噴火口)が行儀よく一列に出現する。どのクレーターも巨大なニキビのように数十メートルの高さに円形に盛り上がり、その半数は中心から火を吹き上げ、残りは煙を吹き上げたり、水蒸気を噴出したりしていた(ただし、ラキ山そのものは何も噴出していない)。
            噴火が始まって間もなく、地震がおさまるのと引き換えのように、クレーター群から溶岩が流れはじめた。何千年、凍ったままの氷河が溶け、おびただしい水となって川床を下り、やがて洪水となって下流の村村を襲った。
            また溶岩流そのものも、煙を立てながら氷河や川を下り、ついにはあふれて周りの農場や村を焼き払い押し流し、野は火の湖となった。
            二十一の村が、溶岩、あるいはその先触れとして起きた洪水で全滅し、三十四が農場や住宅の一部を失った。七つの教会と二つの礼拝堂が失われた。
            ラキ山から南へ八十キロ、あと少しで大西洋へ達するあたりで、ようやく溶岩の流れは止まった。先端は扇状に広がり、その幅は二十キロにも達した。堆積した溶岩の高さは数メートルから十数メートルに及び、歴史時代に入って、人類が接した最高量の溶岩噴出であった。
            押し寄せる溶岩に逃げ場を失った者は二百二十人、洪水で死んだ者は二十一人であったが、この犠牲者の数は、これから起こる被害に比べればほんの序章にすぎなかった。
            地表へ大量の溶岩を吐き出したクレーター群は、一方で、すさまじい噴煙を空中へ噴き上げた。島の上空は、六月八日以降、何日も続けて真っ暗で、昼なのか夜なのかも見分けがつかず、あたりには硫黄の臭いがたちこめ、気管の弱い老人や子供が倒れはじめる。
            やがて降り出した雨は、硫黄くさく黒っぽいタールのようなものが大量に混じっており、これにあたると、顔や手足にこびり付き、ただれを起こした。雨から逃れるすべのない家畜は、皮膚をやられもだえ死んでいった。
            噴煙は島の周囲の海面までベットリとおおいつくし、何も見えず、舟はいつ岩に衝突するかわからず、方角さえ見定めることができなかった。
            来る日も来る日も灰は島に降り積もり、木を枯らし、農場を埋め、地形を変えていった。灰から逃れることは不可能で、太陽のない暗黒の日々が続いたために、季節はずれの雪が降り、雹が降った。雹はオレンジほども大きな塊が大量に叩きつけ、農作物を根こそぎ倒し、逃げ惑う家畜を殺した。(上前淳一郎「複合大噴火」1989年刊)

            日本と北欧、この二つの地域でほぼ同時に起こった大噴火により、北半球を微粒な火山灰が覆い、地球規模で農産物の不作という現象がおこりました。日本では天明の大飢饉となり、フランスでは穀物の値上げが引き金となってフランス革命へと結びついていきます。上前氏の言うように、様々な要因が絡んでおり、そんな短絡的なものではないでしょうが、それが引き金になったことは十分推測されるのではないでしょうか。

            話をもっと短絡的にしますと、浅間山の噴火とラキ山の噴火がフランス革命のひきがねとなり、それがまたナポレオン戦争を生み出し、結果、オランダという国が地図の上から消えることとなりました。ナポレオン戦争に敗れ、オランダ国王ウイルレム5世がイギリスへ亡命したのです。当時、オランダは、オランダ海上帝国と呼ばれるように、東南アジアから東アジアを支配していました。その植民地が宙に浮いてしまい、イギリスとフランスが、ヨーロッパばかりか、東南アジア、東アジアでも覇を競うことになっていくのです。
            江戸幕府が鎖国体制を維持できたのも、世界的視野に立ってみれば、オランダという傘の下にいたからこそできたことです。そのオランダの勢力が衰えると、日本近海がやたらと騒々しくなってきます。そこに起こったのが、「フェートン号事件」というわけです。イギリスのジャワ総督ラッフルズの「日本貿易計画」に対し、オランダ長崎商館長ヅーフが立ちはだかることになるわけです。

            大阪に残されたオランダの息吹

            2010.01.30 Saturday

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              オランダのチューリップに触れたついでに、大阪にあるオランダがらみの場所を紹介しておきたい。
              古い話で恐縮だが、平成3(1991)年10月10日の産経新聞朝刊に「住友銅吹所遺構」と題して次のような記事が掲載された。

              産経新聞画像「鼓動図録」オランダ商館の医師として長崎に着任し、鳴滝塾を開いて高野長英らに医学を教えたシーボルトが住友銅吹所を訪れたのは、文政9年(1826)6月21日だった。
              「オランダや中国の商館に銅を供給している商人(住友家)のもとへ赴き、そこで粗鉱から延棒に鋳込むまでの製銅法の全行程を見た。このたいへん裕福な男はわれわれを全くヨーロッパ風にもてなし、そのうえオランダの食器さえ持っていた。またオランダ人のファンであるこの人物は、製銅法を簡単に記した本と、粗鋼から精製した銅の延棒までを順序よく取り揃えた立派な標本を私に贈ってくれた」と当時の日記「江戸参府紀行」に記している。
              シーボルトに贈られたのは、住友銅吹所が見学者や取引先のために制作していた色刷りの小冊子とみられ、今でいえば会社案内のパンフレット。
              当時、銅は日本で最も重要な輸出品で、幕府の統轄下に置かれていた。このため、精錬は一部の特例をのぞいて大阪以外では行えず、最盛期には大阪に十七カ所の銅吹所が置かれていた。住友銅吹所はその中心的な存在で、最大の生産量を誇っていた、という。
              当時の作業員は約百人。約四千平方メートルの銅吹所の中では、炉に空気を送り込むふいごの音が響き、直径一メートル以上もある釜の中で煮え立つ湯、鋳型に流し込まれる銅の熱気が充満している。その中で半裸の男たちが、汗を流して働く…。シーボルトが見たのはそんな光景だったに違いない。
              鉱山から運ばれてくる銅鉱石には銀が含まれており、その含有量と銀を取り出す費用とのコストバランスで精錬の作業工程を変えていた。
              銀含有量の多い粗銅の場合は、炉の中で銀と結びつきやすい鉛を混ぜ、銀を取り出しながら銅を精製する。住友銅吹所は、効率よく銀を取り出して銅を精製する「南蛮吹き」の技術を持っていたことから、最大の作業所にのし上がったといわれる。こうして、銅だけでなく銀でも巨額の富を蓄えたことが、後に住友銀行を中心とする一大コンツェルンを築く足がかりとなった。
              江戸時代、銅は貨幣の原料でもあり、大阪だけの特権となっていた銅の精錬が経済効果を生み、天下の台所の活気を支えていた。

              銅会所跡 現愛珠幼稚園以上が産経新聞の記事なわけですが、では、この銅がどれぐらい重要であったかというと、江戸時代、国内での銅の産出量はピーク時で6000トン、そのうち5400トンが、やはりピーク時には輸出されたと言います。この数字は、銅の産出については、世界的にも日本がトップということになるらしいのです。
              記事では「住友銅吹所」と言っていますが、当時は「泉屋銅吹所」といい、鰻谷にありました。現在の住所では大阪市中央区島之内1-6-7に、この遺跡跡があります。この銅吹所で、国内流通用は「円銅」といって円盤形に、輸出用は「棹銅」という棒状に精製され、北区中之島にある「銅会所」に運ばれます。
              ここから土佐堀川を大阪湾へ、そこからさらに瀬戸内海、下関を越えて長崎に運ばれ、オランダや中国へ輸出されていくという寸法です。
              この銅貿易がいかに儲かったか、長崎の「犯科帳」に面白いエピソードが紹介されています。
              小規模な密輸出の事例ですが、長崎の町人が体中に、この棹銅を巻き付け、役人の目を盗んで沖合に停泊するオランダ船に泳ぎ渡ろうとしたのです。この結末は、銅が重すぎて溺れ死に、死体が発見されて事件が発覚したという次第です。

              オランダ家庭料理の店アウデ・カースこんな小規模な密輸事件から、豪商末次家の密輸事件まで、鎖国下という状況の中で、長崎は唯一世界に開かれた窓として、貿易を巡る事件が相次ぎ、途絶えることがありませんでした。
              次に紹介するのは、イギリスという大国が、日本の鎖国を脅かした密輸事件の顛末です。
              首謀者は、イギリスのジャワ総督ラッフルズ……シンガポールのラッフルズホテルに名前を残しています。一方はオランダ出島商館長のヘンドリック・ヅーフ。ナポレオン戦争でオランダ国王がイギリスに亡命し、事実上、オランダという国が消滅しましたが、長崎出島にだけは、このヅーフ商館長のもと、オランダ国旗が翻っていました。先に紹介した愛珠幼稚園から東へ5分ばかり歩いたところに、緒方洪庵の適塾があり、その一室が「ヅーフ部屋」として、そこに彼の残した初めての蘭日辞書「ヅーフ・ハルマ」が展示されています。
              事件の顛末は、次回に譲り、まずは淀屋橋から堂島川を北に渡ったところにあるオランダ料理店「アウデ・カース」で休憩と洒落込みましょう。
              味音痴の私ですが、ここのコーヒーだけは本当においしく、一飲の価値ありと思い、お勧めする次第です。日本で唯一、オランダの家庭料理が味わえるところで、聞くところによるとオーナーシェフの富岡さんは、若い頃、世界を放浪し、気に入って落ち着いたところがオランダ、そこで料理の修行を積んで日本に帰ってこられたということです。
              店のホームページによれば、「オランダの家庭料理は素朴であきのこない味」だと言います。僕のお気に入りは「子牛のカツレツ」と「ベーコンとゴーダチーズのパンネクーケン」ですが、確かにパンネクーケン(パンケーキ)は、軽くて癖になりそうな味です。今は奈良に落ち着いてしまい、行く機会は少なくなりましたが、大阪に務めていた頃は、アウデ・カースへ行く都度、パンネクーケンを注文していました。
              以下は、アウデ・カースのホームページ・アドレスです。
              http://restaurant.gr.jp/oudekaas/
              気になる方は、一度覗いてみてください。次回は対日本貿易を巡る蘭・英の駆け引きをめぐって、大阪の適塾から、天明の浅間山噴火遺跡、長崎出島を紹介していきます。

              「奈良県」と「堺県」

              2009.11.18 Wednesday

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                今日は、母親の用事で1週間ぶりに堺の母親の家を訪れた。奈良と堺の間には生駒山脈や金剛山脈が横たわっており、僕たちがよく利用するのは、二上山を越える「竹之内街道」を走り大阪府へ出るコースだ。「竹之内街道」から「太子」へ出るコースは、古来からの官道ともいうべき道で、中国や韓国からの使節は、この道を通って飛鳥へ赴いたという。

                ところが、現在、電車等の公共交通権関を使って堺へ出ようとすると、いったん近鉄電車で大阪市内へ出て、そこから南海電車に乗り換え堺を目指すか、近鉄電車で何度か乗り換えをしながら府下「河内長野」へ出て、そこから南海電車で「堺」を目指す、この二つのコースしかない。要するに北へ大きく迂回していくか、南へ大きく迂回していくか、最短距離を結ぶ交通機関はないということだ。

                ところで「奈良県」という存在が、歴史上なくなった時期がある。「県」という行政区分は、ご存知のように江戸末期から明治にかけての「廃藩置県」で生まれた。実際に「奈良県」が誕生したのは、廃藩置県の3年前、1868(慶応4)年のことだという。ところが出来てすぐに「奈良府」と改称され、翌年にまた「奈良県」に戻った。その後、旧大和国内に15の県が乱立したが、3年後の1871年に、それらは奈良県に統合され、今の「奈良県」に近いかたちが出来上がったのである。

                ところがである。この5年後の1876(明治9)年、奈良県は隣県の「堺県」に併合され、奈良という地名が消滅することとなる。奈良一県では財政基盤が脆弱で「県」として成り立たないというのだ。こうして「堺県」は、河内・和泉・大和の三国を管轄する巨大県となった。このため行政事務がすベて堺に移り、奈良は火の消えたようになってしまった。火が消えただけならいいのだが、事務手続きの多くが、奈良で処理できず、奈良住民は何かあると堺へ出向かなければならないという事態が起こってきた。現代でさえ、奈艮から堺へ行くのは不便だというのに、交通未発達の時代では、泊まりがけでなけれ用が足せないという有様。堺へ出向くということは、多額な出費を伴い、住民の生活を圧迫する。一時、県庁を近くに移動する案が出されたが却下され、「堺県」からの分県も検討はされたが、これも実現されないまま、1881年「堺県」自体が「大阪府」に併合されてしまう。
                今回の併合は、悪化している「大阪府」の財政救済が狙いだというから、奈良住民の不満はおさまらない。かくして奈良住民は再三上京し、「奈良県」再設置の請願運動が繰り広げられる。この頃、東京の町は幕末に結ばれた不平等条約の改正案をめぐる反政府運動が盛んで、上京委員は反政府運動と同じでないことをまず証明しなくてはならなかったという。

                しかし、そんな苦労も甲斐なく、むなしく年月が過ぎ、大阪府からの独立が認められたのは、「堺県」に併合されてから10年後の1886(明治20)年のことだという。
                この年、「奈良県設置ノ件」の議案が内務省に出され、同年10月24日、閣議提出され了解されるに至った。

                1、大和の地勢や人情は摂津・河内・和泉と違い、当然経済面でも異なる。
                2、摂・河・泉の議員は治水のことに、大和の議員は道路のことに執着する。
                3、大和の税金は地元に還元されにくい。
                4、大阪府会における大和の議員は少ないから、議場ではいつも不利である。
                5、近ごろ大阪府の地租は減額となったが、大和には適用されず、それは地方税にはね返ってくる。
                6、もともと、大阪府は広すぎるので、大和を独立させてもおかしくはない。
                7、大和は災害も少ないから、将来あまり費用がかからないだろう。

                これを見るかぎり、ここに来て「奈良県」の再設置を認める必然というものがあまり感じられない。ダラダラと決定を延ばし、「そろそろ認めてもいいか」的な感じで認められた、そんな雰囲気である。「奈良県」の復活が、これほどまでに難航した背景には、幕末に朝廷側につくか、幕府側につくか、曖昧な態度をとったことが原因ではないかとする説もあるぐらいだ。

                参考文献
                奈良県発行「青山四方にめぐれる国 −奈良県誕生物語−」
                浅井建爾「知らなかった!驚いた! 日本全国『県境』の謎」

                ※「東海道53次」万歩計の状況=今日、「大津」を過ぎ、最終地「京都」へあと5キロ。