ふるさと地盤診断ウォーク「亀の瀬地すべり」

2011.10.23 Sunday

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    五位堂から見る葛城山.jpg
    (その日、雨で中止かと思われたが……五位堂駅前から見る葛城山)


    地盤工学会関西支部主催の「ふるさと地盤診断ウォーク・亀の瀬コース」に参加した。
    発端は広陵町に住まいされる菅野耕三先生と知り合いになったことだ。知り合った頃、菅野先生は大阪教育大学名誉教授であり、広陵町立図書館の館長でもあられた。おりから地区の役員の仕事が順番で回ってきており、同じやるなら面白い仕事をしたいと「広報」に名乗りを上げた。そして今年1年は防災意識を高めるテーマに広報を発行することとなったが、その第1号の編集に際し、図書館長である菅野先生のお力をお借りした次第だ。
    菅野先生は、広陵町の図書館長というだけでなく、大阪教育大学の名誉教授で、地質学、層位・古生物学、地盤工学の専門家だった。その菅野先生が、所属しておられるのが、地盤工学会関西支部。そこで氏は、身近な地盤を「知ること」「楽しむこと」「親しむこと」「考えること」をテーマに、ふるさと診断ウォークを指導されている。我が町でも、11月には菅野先生に「地震の話」を地域住民に話してもらうことが決まっている。そんな経緯で、この「ふるさと地盤診断ウォーク・亀の瀬コース」に参加した次第だ。特に「亀の瀬」というところは、黒岩重吾さんの古代史小説にも「大和川の難所」としてよく登場するところだ。地区の用事と自分の趣味を兼ねての参加だったが、土木工学や地質学にはまったくの門外漢。果たして話が分かるだろうかと思いきや、菅野先生の話といい、大和川河川事務所の平松さんの話といい、非常に分かりやすい。そのうえ普通では入れない「亀の瀬地すべり」で埋もれてしまった旧鉄道トンネルにも入れるとあって、ワクワクしながらの参加だった。

    しかし、朝6時に起きると、かなり激しい雨が降っている。今日はてっきり中止だと思っていたが、中止の連絡のはいる7時を過ぎても電話連絡がない。ということは……外を見ると、あれほど激しく降っていた雨もやみ、晴れ間さえ覗いている。

    集合地点.jpg
    (集合地点 JR河内堅上駅の入り口に立てられていた案内板)

    午前9時50分、無事、河内堅上駅に到着した。お話によると定員は30名だったが、倍近い申込があり、抽選ということも考えられたようだが、地震等、自然災害に関する正しい知識を一人でも多くの人に知ってもらいたいと、全員受け入れることが決められたという。参加費は無料。そのうえ、専門家の解説が付くばかりか、貴重な資料までが無料で配布された。
    それというのも、自分一人にとどめず、多くの人に伝えてほしいという意図があるのだと思う。そこで、以下、現場現場で話されたことを、自分の理解の範囲内でお伝えしようと思う。

    まずは、大和川河川事務所「亀の瀬地すべり資料室」に到着するまでに、菅野耕三先生が道中で話されたことを要約しておく。

    地滑りの前兆を話す菅野さん.jpg
    (地すべり現象で石垣が、真ん中部分が膨らんできていることを指摘する菅野耕三氏)


    1.JR河内堅上駅から亀の瀬地すべり資料室へ向かう途中の道で

    東京都と大阪のみ大都市ということで時間雨量60ミリを想定して下水道がつくられた。奈良は30ミリ。30ミリという雨はバケツをひっくり返したような雨で、40年前には30ミリの雨というと、60年に一度起こるか起こらないかの大雨であった。最近では、60、80
    、場合によっては100ミリを超える大雨が降るようになった。そうすると何が起こるか、都会部では川が氾濫して水が来るわけでなく、下水道が満杯になり、マンホールの蓋を吹き飛ばして水が道路にあふれるようになる。そうなると水が濁っているため側溝も見えなくなるため、まずは道に水があふれないうちに逃げることが肝心。もし道に水があふれたら、建物の高いところに避難するようにしてください。水の表面は、空気抵抗があるため、緩やかに流れているが、中はもっと激しく水が流れているため、いとも簡単に人間は流されてしまう。2年前に兵庫県の佐用町で台風9号による水難事故が起こった。今、裁判になっているが、役場が、道に水があふれているにもかかわらず避難命令を出し、それに従って逃げた人が全部水に流されて死んだ。これは天災でなく人災だというので裁判となったという。どんな結果になるか分からないが、少しずつ自分で勉強し自分の身を守っていくことが大事。洪水の場合は、100ミリの雨が降っても、2階建ての2楷部分まで水が来ることはないので、道に水があふれていれば、外へ逃げ出すのでなく、建物の一番高いところへ避難するようにしてください。また、それ以前に「今日の雨は異常だ」と思ったら、避難命令が出る前に自主避難してください。こういう風に自分で自分の身を守ることを心がけてもらいたいと思っています。

    明神山.jpg


    2.明神山の前で

    前にあるのが明神山という山ですが、今から1700万年〜1300万年ぐらい前に、この付近に現在の瀬戸内海の原形、私達の言葉では第一瀬戸内海というのですが、そういった海がありました。そしてこの頃には、あちらこちらで海底火山が噴出してきたと言われています。二上山もそうですし、私が勤めていました大阪教育大学近くの寺山もそうですし、この明神山もそうです。二上山の場合は、マグマが上がってきた柱が二つあるので、お山も二つあるということです。明神山は一つでしたので、こんな形になっています。もちろん、人間はまだ誕生していませんし、ここは海底火山でしたので、噴火したとき、どんなお山だったかは分かっていません。
    昔は、活火山、休火山、死火山という分け方がありました。理科年表にも載っていますが、実は、休火山と死火山というのが分からないのです。現に、今から二十数年前になりますが、木曽の御嶽山が爆発したのです。その当時の考え方では、この山は死火山、二度と爆発することのない山として見られていました。しかも信仰の山ということで入山されている方もおられ、何人かが被害に遭われることとなりました。以来、死火山、休火山という分け方は分からないので、こういう分け方はやめましょうと言うことになりました。そのかわり、火山が噴火したときの姿が分かるような状態、原形をとどめているものを火山と言いましょうということになりました。すると、この明神山は、昔、火山であったことは間違いないのですが、もう1600万年前の海底火山ですから、もう噴火することも考えられず、火山から除外しましょうという訳です。かつて富士山が間もなく噴火するというような本を書かれ、噴火しなくて夜逃げした先生もおられますが、実際のところ、分からないのです。火山の一生は、人間のスケールではなく、何十万年という活動が続きます。
    阿蘇山というのは、七万年前に噴火したものが一番大きな噴火だったと言われますが、大阪湾をボーリングしますと、「阿蘇4」と言われる火山灰が出ます。厚さが40センチあります。今、地球はものすごく穏やかなんです。東北の大震災の陰に隠れて報道されていませんが、九州の新燃岳の噴火は今も治まっていませんし、雲仙普賢岳の噴火もたくさんの犠牲者が出て話題になりましたが、考えてみれば、そんな噴火でも、火山灰が関西に降るというようなことはありません。七万年前、九州阿蘇で噴火した火山灰が大阪で降ったわけです。また大阪の丘陵地をつくっている地層を調べていくと、今から87万年前の小豆(あずき)火山灰層という地層が出てきます。これは実は大阪周辺の地層でも1メーターあります。それから琵琶湖の堅田丘陵に喜撰川というのがありますが、その河床へ行くと4メーターあります。しかも一回の噴火で飛んできたということが分かっており、この火山灰がどこから飛んできたかというと、大分県から飛んできたということが分かっています。雲仙普賢岳にしても、今、活動をやめていますが、いつ活動をはじめるか分からない。火山というのは、そういうものだと思ってください。これから行く亀の瀬地すべり地も、二上山の火山活動で降った火山灰が悪いことをしているわけです。火山灰があるところが、大体、地すべりを起こすわけです。では先へ進みましょう。

    (次回は、大和川河川事務所の平松さんの話を中心に、「地すべり」と「崖崩れ」の違い、なぜ「亀の瀬」の地すべりが太古以来起こり続けているのか。また巨額な費用と年月をかけてこれを防止することの意味は何かということを紹介していきます。)


    (昭和初期、亀の瀬の大規模な地すべりで埋もれてしまった国鉄関西本線のトンネルが、平成21年に発見された。今回は、そのトンネル跡にも入ることが出来た。)

    我が町の地震の先生・菅野耕三さん

    2011.09.29 Thursday

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       菅野さんに最初にお目にかかったのは、地区の広報の取材で広陵町図書館を訪問したときのことだ。広報「ふれあい」で、広陵町図書館として「防災関係」の図書を紹介してもらえないかというお願いにあがった。本の紹介だけでなく、各冊ごとに、ちょっとしたコメントももらえないか……という虫の良い話だったが、そこで応対してくれたのが、当時、広陵町の図書館長をされていた菅野耕三さんだった。そのときは菅野さんがどんな方か、まるで分かっていなかった。
       菅野さんは、不躾な申し出にもかかわらず快く引き受けてくださり、担当の司書の方に引き合わせていただいた。司書の方々も、お忙しい中、本の選定からコメントの執筆まで、熱心に取り組んでいただけた。
       あとで知ったことだが、菅野さんは、広陵町の図書館長というだけでなく、大阪教育大学の名誉教授で、地質学、層位・古生物学、地盤工学の権威であるということだった。

       その菅野さんが、今年の8月に広陵町図書館の公開講座で、小学生を対象に「地震の話」をされた。また9月には、大人向けに「広陵町の自然災害」という話をされた。
       僕自身は、9月は仕事の関係で出席できず、8月の小学生向け講座「地震の話」を聴講させていただいたが、そこで、菅野先生の人柄の一端に触れることになった。
       終始ニコニコと興味深そうに話をされる。話をされているときは、偉い学者先生という風ではなく、好奇心にあふれた少年のような雰囲気をあたりに振りまかれていた。

       その教え方も、紙工作を使って、建築における筋交いが如何に重要かを子供たちに体験させたり、人間の目が如何に不正確かを、やはり紙工作の教材を与えることで体感させるというユニークなもの。「この目で確かめて」という言葉があるが、津波が襲ってくるまでの距離感や時間の感覚、「自分の目で確かめて大丈夫」と思う怖さを痛感させられる。
       では、「人間の目が如何に不正確か」、その教材になった紙工作を、この記事の最下段にに掲げておく。これを切り抜き組み立てたとき、平面であるドラゴンの顔が飛び出したり動かないはずの顔が動き出すように見えるかも知れない。ぜひ試してみられたい。
       (なお、以下のURLをクリックしていただければ、実寸大の画像にリンクしていただける。時間と興味のある方は、厚手の紙にカラー印刷したうえで試してみられたらと思う。)
      http://www.uta-book.com/dragon.pdf

       そんな菅野さんが、阪神大震災の直後、震災後の調査団の一員として現地の調査に当たられたことがある。そのとき、ある被災者の方から次のような厳しい言葉が返ってきたという。
       「あんたらは調査、調査というが、こうなる前に、何か私たちに話してくれたことがあるのか。地震に関する知識を知っていれば助かった者もおるはずや。」
       もちろん、この通りに言われたのでなく、菅野さんの話を僕が脚色している部分もあるが、大筋このようなことを言われ、以来、菅野さんは、地震のこと、防災のこと、防災知識のこと等々、話す機会があれば、どこへでも出かけていって話されるようになったという。広陵町図書館の司書の方々に、あんなに熱心に協力いただけたのも、菅野先生の影響があったからだと思えてならない。

       「地震は地球で生活する限り、どこでも起こり、災害は必ず起こる」、また「日本は地震大国、地震に遭遇することを想定して生きていかなければならない。災害に遭うことを前提に備えることで、より被害を少なくできる」とも菅野さんは言われる。

       では、私たちの暮らす広陵町はどうなっているのか? 以下、友人が取材してくれた「広陵町の自然災害」に関する講話内容を、箇条書き的に紹介することとする。

      ・広陵町での災害の恐れ
        奈良県内には京都府南部から奈良市〜天理市〜桜井市付近にわたり奈良盆地東縁断層がほぼ南北に延びている。この断層が動けば町内でも震度6強の地震の恐れがある。
       南海、東南海地震では奈良県内では揺れの恐れはほとんど無いと考えられる。
       D内の地震被害の恐れとしては、液状化現象と地面の陥没、隆起が考えられる液状化現象は、10世紀後半に広陵町でも起こっており危険地域である。(箸尾遺跡で液状化が起こった状況が解る)
       4丁目付近では、馬見北3丁目の調整池を埋立てた跡地の住宅地が液状化の恐れがある。
       液状化が起こり、建物が0.3%傾くと人間は生活できない(三半規管がおかしくなり感覚が麻痺)。
      地面の陥没については、真美ヶ丘ニュータウンは山を削った造成地であるので切土地、盛土地が存在するが、切土地は安全と考えられるが、盛土地は危険が予想される。特に切土地と盛土地の境界が一番危険が予想される。
       また道路については基礎補強などを施せないので、陥没や隆起の危険は大きい。
       た絣嘉の恐れとしては、奈良県の下水道は時間雨量30ミリを予想して作られているので、最近の80〜100ミリの雨量には対応できない。
       (40年前では時間30ミリの雨量でも100年に1度の雨量と想定されていた)

      ・災害への備え
       |録未起きると木造家屋では1階が潰されるので、2階の方が安全。
       一番安全な場所はトイレ(但し、ドアは開けておかないと閉込められる危険がある)。
       倒れそうな物の近くでは寝ない、倒れそうな物は固定する。
       2箸粒阿暴个襪箸は、絶対裸足で逃げない(ケガの危険が大きい)。
       て始に水が溢れた時は逃げずに家の一番高い場所で救助を待つ(道路が水に浸かると状況が解らず危険である。また水面は静かでも水中は流れが速く危険な場合がある。)
       ス埓の避難指示等は非常に遅いので、予め自主避難することも大事。
       θ鯑饐貊蠅詫修甞稜Г靴討く。
       避難の際は、最小限の物だけを持つ。
       津波の発生筒所近くにいた場合は、大阪市であれば地震発生から津波到達までは2時間近く時間があるので、慌てずに避難する。

      ・災害への考え
       )漂劼貌淡薬はない(自然災害は止められない)。
       減災を考えていく(少しの備えで大きく変わる)。
       災害にあう事を前提に生きていかねばならない。
       ぜ分の居住している場所のことを、よく知っておく。
       ィ海弔龍儀
        油断大敵(油断こそが災害の最大の敵)
        用意周到(事前の備えこそが最大の防備)
        自主連携(自助と共に共助(互助)が不可欠)

       人間は天・地・水の動きがある地球に養われている。
       地球からみれば災害も自然論理の一つである。

      大阪の便利なモノレール&レンタサイクル

      2011.09.03 Saturday

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        [モノレール路線図].jpg
        仕事で、モノレールを利用することがあった。目的の訪問先は、大阪空港と蛍池のちょうど中間。歩くと20分以上かかりそうだ。モノレール蛍池の改札を出ると、橋上駅舎だというのに自転車が何台か駐輪してある。見るとレンタサイクルのようだ。
        「お申込は改札口駅員まで」と書かれている。
        これは、確認しない手はないと、今通ってきたばかりの改札に舞い戻り、駅員さんに
        「自転車が借りたいんですが」と切り出した。
        「登録はお済みですか?」
        「いえ、まだ何も……まるっきり初めてなもので……」
        「じゃあ、この申込書に記入して、まず登録を済ませてください」という。
        登録料は無料。一度、登録すると、モノレールのどの駅でも使うことが出来、利用料金は一泊二日借りて200円だという。何というやすさ。これを過ぎると、つまり借りた日の翌々日から一日につき300円の超過料金が発生するという。これまた安い、しかも上に掲げたモノレールの駅ほとんどにレンタサイクルが置かれているという。ただし各駅に8台ぐらいと、そんなに台数は多くない。
        一つ注意するのは、必ず借りた駅へ返さねばならないということ。千里中央の駅で借りて、万博記念公園駅で返すことは出来ない。いや、出来るのだが、その場合は移送料として6,000円が必要となる。
        そのほか、30日過ぎて返されない場合は、日数分の超過料金+違約金10,000円が請求されることになる。これは当然のことだろう。

        今言ったような利用規約の説明を受け、身分証(運転免許証とか健康保険証とかパスポートなど)を提示すると、写真のようなレンタサイクル登録票というカードが支給され、以降は、このカードさえ出せば、モノレールのどの駅でも200円で自転車が借りられるという寸法。
        いやはや、何とも便利なシステムだ。
        今日はたまたま仕事での利用だが、このシステムをつかい、北摂の古墳めぐりや遺跡めぐりをするのもわるくないだろう。いずれ、ぜひチャレンジしてみたいと思う。

        ※モノレールの駅のこととて、駅舎はすべて橋上駅舎となる。その際、自転車を地上に降ろすのはエレベータを利用することになるが、エレベーターが小さく斜めにしか自転車を入れることが出来ない。無理をするとエレベーターや自転車を痛めることになるし、お年寄りや子供など、他にエレベーターの利用者がいるときは、急いでいても次を待つのがエチケットだと思う。老婆心まで……。

        以下は、各駅の自転車を地上へ降ろすための移動経路図。
        (ガリ刷りのプリントをスキャンニングしており、画像が不鮮明ですが、ご容赦を。)

        久米ひろみさん「中国人の使う中国語…」/紹介HPが中国国内で発禁か?

        2011.08.31 Wednesday

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            (2010年に開かれる上海万博を前に都市整備が進められる上海) 

          僕の若い友人に久米君なる人物がいる。知り合ったときは、大変な跳ねっ返りの青年だったが、その彼も今や堂々たる父親ぶり。
          これから話そうとするのは、その妹の久米ひろみさんの話。大変な才媛だが、一見ボーッとしていて、「能ある鷹は爪をかくす」を地でいったような女性だ。
          彼女と知り合ったのは、全くの偶然、久米君の妹さんと知らずに出会うことになった。
          当時、僕は政府刊行物サービスステーションという土俵で、知名度は低くても、これはという原稿を募集し、著者と一緒に読者探しをした上で出版に踏み切るという「オーダーメイド出版」をスタートさせていた。
          そこへ応募してきたのが、件の久米ひろみさんであった。彼女は中国留学から、同地で就職、結婚までしたが、出産にあたってSARSの大流行。子供は日本で育てたいと、ご主人ともども日本に帰ってくることとなった。
          日本でひろみさんは、中国で知り合った友人から、これから開く「中国語サロン」で教える中国語のエッセー風教材を作ってほしいと依頼される。
          そして出来上がったのが、この本の原稿。内容を見せていただいたが、堂々たる書きっぷり、しかもやたら面白い。中国の裏側を覗きながら知らず知らず中国語に親しめるという代物。
          これがなぜ商業出版物として通らないかと思うのだが、持っていった出版社では「関西弁を標準語に直してくれ」という。彼女は、それに応じない。確かに関西弁だからこそ、面白いし味のある原稿にもなっている。ひろみさんならずとも「それはないだろう」と思ってしまう。

          こんな訳で、私めが、この本を手がけることになった。私も学生時代、歴史学を専攻しており、中国語の文献を漢文としてでなく、中国語として読めたら素晴らしいだろうと、学業以外に「愚公会」という日中交流センターで中国語を学んでいた。女房との出会いも、この愚公会でのことだ。そんなわけで、出来はしないのに、中国語にはある種の思い入れがある。
          そこで、「中国語の箇所は、すべてピンインを打ちましょう」と提案をしてしまった。ピンインというのは中国語の発音記号で、これがついていないと知らない言葉に出くわしたとき、読めないで読書の流れが止まってしまう。
          ともかく中国語全文に正しいピンインを打つ。ところが、これが手間も時間もかかる大変な仕事。知り合いの京都国際交流センターのAさんに相談を持ちかけた。彼女は同センターで留学生の相談に当たっているが、彼女の知っている中国人留学生に、この仕事を手伝ってもらおうという次第。

          幸い、大学院卒業後も日本企業に就職が決まった優秀な中国人留学生を紹介してもらい、なんとかピンインの問題もクリアし出版に漕ぎ着けることが出来た。

          何度も言うようだが、この出版システムの特徴は、制作と同時に読者募集をかけるという点にある。本がないのに読者を募集するわけだから、詳しい案内ホームページが必要になってくる。このホームページで、この本が、従来の中国語テキストとどう違うのか、どれだけ内容が面白いのかをPRしないといけないわけだ。当然、ホームページづくりにも力が入るわけだが、あるとき、中国在住の日本の方だと思ったのだが、ホームページについて国際電話で問い合わせをいただいた。
          「中国でも、以前まで案内のホームページは見ることができたのですが、最近になって見ることができなくなりました。ホームページを止められましたか?」という問い合わせだった。
          もちろん、止めるわけがない。日本ではちゃんと見られるのに、中国では最近になって見られなくなったという。何度かやりとりしているうちに中国の政府機関に止められたという結論になった。
          問題は、同書ののコラム欄「すごいぞ中国人」の「北京編」「蘇州編」にあった。上海万博開催をひかえて、中国の素顔をさらけ出すのが憚られたのではないだろうか?!


            (問題のホームページ)

          では、本文から、「すごいぞ中国人」の北京編を紹介して、このブログを終わることにしよう。
          (なお、この「中国人の使う中国語 使わない中国語」は、著者のご厚意で、デジタル版を下記のサイトで全文無料公開しております。中国、中国語に興味のある方は、下記サイトからダウンロードのうえ、この本の面白さをご堪能ください。)
           iPadzine  http://www.ipad-zine.com/b/1259/
            paboo  http://p.booklog.jp/book/33289
            DEPデジタルライブラリー http://uta-book.com/dep/works00.htm



          「すごいぞ中国人」北京編

          ここでは北京の街角で見たすごい中国人を紹介。日本人から見れば「すごい……」と思えることも、中国ではごく普通のこと。

          ・ 白いワンピースに腋毛ボーボー
          故宮を観光し終わって、故宮北にある「景山公園」という小高い丘に登っていた時のこと。前から真っ白なワンピースを着た女性がやってきた。「わぁ、きれい!」と思った瞬間ゲンナリした。ノースリーブの下から腋毛がボーボーに生えてる!白いワンピースやから、それはもう目立つ!
          中国の女性は、腋の下の毛はそのままにしてることが多い。夏は気を使ってほしい。

          ・観光地でパジャマ
          北京の観光地に行ってよく見かけた中国人、それがパジャマを来て観光してる人。時々空港でも見かけたことがある。なんでパジャマなんか着てるんやろう……?

          ・観光地での写真撮影
          中国人は写真撮影に命を掛ける。グラビア写真のようなポーズを取る。例えば、湖のほとりに小さい岩があれば、どんな手段を使ってでも、何としてでもその岩に這い上がろうとする。そして、今まで必死に岩を這い上がってたくせに、カメラを向けられた途端、急にすごいポーズを作る。

          ・赤ちゃん丸裸、自転車の籠の中
          北京の夏は暑い。オーブンの中におるみたい。……かといって、赤ちゃんを丸裸にしとくことはないやろう。しかも驚いたのは、自転車の籠の中に丸裸の赤ちゃんをポーンと入れたまま自転車こいでる。

          ・赤ちゃん股割れズボン
          最近日本のテレビでも紹介されたけど、中国の赤ちゃんは股割れズボンを履いてる。大きい子なら、五歳くらいまでは股が割れたズボンを履いてる。見た目はごっついかっこ悪い。男の子やったら前から見たらおチンチン丸見えやし、後ろから見たらお尻が見えてる。でもこれが優れものと言われる訳は、用を足したくなったら、パンツを脱がんでもそこで屈むだけで用が足せるからや。
          中国におったら何度も目にするのは、スーパーとかお店の出入り口でシーッとおしっこをしてる子供がおること。どこでもかしこでも用を足してる。一番最悪やと思ったのは、北京そごうの店の中で用を足してる子供がおったこと。それも、エルメスという高級ブランドのブースのまん前で!ああ……

          ・スカーフを頭からすっぽり被って自転車運転
          北京や天津は黄砂がある。ひどい日になると、外で喋ることもできへん。いっぺんに口の中が砂だらけになってしまう。それほどひどい黄砂の中で、自転車を運転するのは大変や。そこで中国人が考えたのが、スカーフを頭からすっぽり被って首で巻き付け固定する技。スカーフは半透明やから、頭と顔をすっぽり覆っても前は見える。これはグッドアイディアや。黒っぽいスカーフやったら、一瞬銀行強盗かと思うけどな。

          ・公衆トイレ
          昔、中国の家にはトイレがないところが多く、北京やったらみんなが日常的に公衆トイレを使ってた。そんな街中にある市民の公衆トイレに入っていくと、大抵中は壁で仕切られてブースに区切ってないし、ドアも何もなくて、溝があるだけ。それも、一時間に一回水が流れるだけやから、前の人のものが残ったまま……。
          このトイレ様式にも驚くものがあるけど、トイレ文化にもすごいものがある。既に中で用を足してる最中のおばちゃんがおるのに、後から入ってきたおばちゃん、ズボンをずり下ろしながら入ってきた。そして二人で用を足しながら会話してる(彼女たちは知り合い)。中国人は人前で用を足すのは結構平気らしい。
          でも、最近の観光地とか百貨店とかのトイレは、ちゃんとブースがあるのでご安心を。(但し、鍵をかけないで用を足す人が多いので、ドアを開ける時は要注意。)

          ・男性のズボンまくり上げ
          夏のレストランでよく目にするもの。それが、男性がズボンを太ももまでまくり上げて食事をする姿。結構エリートそうなスーツを着た男性でさえ、ズボンをまくり上げてる。あと外でよく見かけるのは、Tシャツを胸まで捲り上げて、乳首が見えてる人。そんなんでええの?

          ・女性のパンスト
          中国のパンストは質が悪いからたるんでる(フィットしてない)。あと、くるぶしまでのパンストとか、膝までのパンストとか履いて、パンストの切れ目が見え見えや。スカート履いて、靴下的にパンスト履いてる。あれはごっつい格好悪いと思う。

          ・歩きながら本を読む学生
          大学のキャンパス内で、よく歩きながら本を読んでる学生を見る。そんな学生、日本では見たことがない。中国の学生はほんまによく勉強する。すごいと思う。
          なんで部屋とか図書館で勉強せんと、外で歩きながら勉強するんか? 最初は不思議に思ったけど、理由を知って、彼らのことをもっとすごいと思った。中国人の寮は、ものすごく狭い部屋に四人から六人がすし詰めにされてる。部屋にはベッドしかなくて、とても勉強するスペースはない。そしたら図書館はというと、席の空きがほとんどない。ほな、必然的に外で勉強するしかなくなってくる。今の日本では見られへん苦学生の姿や。

          ・国営百貨店、喋りながら仕事する店員
          客がおるのに、台に肘をつきながら喋ってる店員の何と多いこと。百貨店だけとちゃう。中国人は喋りながら仕事するのが普通と思ってる(現在の競争社会で、上海とかの大都会の若者は変わってきてるけど)。「私語」っていう感覚がない。昔、国営企業では個人の能力とか仕事量に関らず給料が一律やったから「サボった者勝ち」みたいな悪い習慣が根付いてた。そのなごりを国営百貨店の服務員の態度で見ることができる。

          ・乗客がおるのにガソリンを入れに行くバス
          バスが路線から外れたと思ったら、ガソリンを入れに行く。乗客はガソリンを入れてる間、ずっとバスの中で文句も言わんと待ってる。なんで乗客乗せる前に行っとかへんねん!でも、こんなバス、私は留学中に何回も乗った。今でもあるんやろうか……?

          ・よく故障するバス
          街でよく故障して止まってるバスを見る。私もたまに、乗ってるバスが途中で故障するのに遭遇したことがあった。黙ってバスから降りて故障を直しに行く運ちゃんもおれば、「お〜い、みんな乗り換えてくれ〜!」と言ってくれる運ちゃんもおった。「シャオフーズ!(兄ちゃん!)」と叫んで若者を外に出し、みんなでバスを動かす指揮を取った運ちゃんもおった。普通、客使うか?


            (陽朔のタクシー運転手のおばさんと一緒に……桂林)

          近江京(大津京)を訪ねて思うこと

          2011.08.11 Thursday

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            2011年8月某日、今日は孫たちの夏休みの話題づくりのため、滋賀県は大津のロイヤル・オークホテルに来ている。日中、孫たちはホテルのプールで水遊びに興じていたが、僕はどうしても行きたいところがあった。

            百済復興に失敗し、女帝斉明も九州で没し、中大兄皇子が遷都に踏み切った大津京の跡。住まいする奈良からも近く、行こうと思えばいつでも行けるようなものだが、仕事に追われ、なかなか足が向かなかった。
            大津市に来ていて行かない法はないだろうと、宿泊先のホテルに着くなり別行動に踏み切った。夕方5時に家族と落ち合うことを約束し、ホテルの送迎バスでJR石山駅へ向かった。石山駅からは、いったん山科駅へ戻り、湖西線に乗り換え大津京駅へと向かう。ここですぐ近くにある京阪皇子山駅に移動し、次の近江神宮前で下車する。

            いよいよ目的の大津京跡に到着だ。改札口には卒業したてだろうか、若い女性駅員が降車客から切符の回収にあたっている。僕はというと、すぐ近くに来ているのだろうが、地理不案内ということもあって、右へ行っていいものか左へ行っていいものか、どちらに行っていいのかまるで見当がつかない。そこで、この女性駅員に「大津京跡は、どちらの方角へ行ったらいいでしょうか?」と訊ねてみた。
            すぐに元気のいい返事が返ってくると思ったが、

            「えっ? 大津京の駅ですか」
            「いえ、大津京の駅から来たところなんです。行きたいのは、大津京の都の跡なんですが……」
            「都の跡……? すみません、分かりません」
            「……」

            一瞬、間違ってとんでもない場所へ来たのかと思ったが、そんなわけはない。間違いなくすぐ近くに来ている筈だ。何て言ったらいいのか、匂いというのか、その場所に自分は居るのだという実感のようなものがある。自分の勘を信じて歩いてみるしかない。
            しかし、少し歩いたところに付近の地図が掲げられてあり、自分の思いが正しかったことが証明された。

            地図の表示に従い5分も歩かないうちに、「史跡 近江大津宮錦織遺跡」という表示板が草むらに表れた。狭い草に覆われた一角にそれは立っていたが、あまりにも寂しい。
            「都としてわずか5年の寿命だったとはいえ、古代史に大きな足跡を残した大津の宮跡、それがこの状態か。若い駅員が分からないのも無理はないか。」
            そんなことを思って歩いていると、歩いて二、三分のところに、またも「史跡 近江大津宮錦織遺跡 第一地点遺構」の標識が出てきた。案内板によると、ここは「内裏の東南隅にあたり、右手に見える2列に並ぶ柱は内裏の入口から東にのびる回廊の一部と考えられ」「左手に見える一列に並ぶ柱は、回廊から北にのびる塀の一部」だという。さらにここから80メートルあまりのところに、今度は「史跡 近江大津宮錦織遺跡 第二地点遺構」として「内裏正殿の跡」が現れた。内裏正殿跡は道を挟んで第七地点、第九地点まで広がっているようだ。
            こうして歩き続けると、今度は「大津京シンボル緑地」に突き当たる。ここには、藤原鎌足や額田王(ぬかたのおおきみ)、さらには柿本人麻呂の歌碑が立てられているほか、「平家物語」の時代まで進み、僕の好きな平忠度の「さざ浪や 志賀のみやこはあれにしを むかしながらの山ざくらかな」の碑まで立てられた公園に行き当たる。この先は「近江神宮」があり、ここで道を川に沿って右折し折り返すと、最後は、「京阪近江神宮駅前」に戻ることとなる。しかも、駅建物のすぐ前に「史跡 近江大津宮錦織遺跡 第四地点遺構」という薄汚れた標識が立っている。何のことはない、先ほど若い女性職員が「分かりません」と答えた目の前に、寂れてはいるが「第四遺跡」は存在しており、そこには「南北に伸びる塀の柱跡三個が見つかり、柱の太さは直径30センチメートル、ほぼ2.6メートル間隔で並んで」いるとの説明が書かれていた。
            「分かりません」と答えた若い女性駅員を責めるつもりはないが、近江京がこの地に存在したという事実自体が稀薄になってきているのを感じる。

            では飛鳥から大津京あるいは近江京への遷都はなぜ行われ、なぜ5年の短期間で再び飛鳥へと都が移されたのか。難しい話は抜くとしても、その背景には東アジアの大変動、朝鮮半島における百済、続いて高句麗の滅亡があり、新羅が唐の力を借りて半島を統一したという歴史的事実がある。百済滅亡に伴い、斉明女帝は、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)と共に、唐・新羅を相手に「百済復興」をうたい軍を起こす。ここで有名な「白村江」における日本軍の大敗北があり、百済は滅亡ということになる。この辺りから、「大津京」が滅ぶ「壬申の乱」までを年表に整理してみると、東アジアの情勢の中での日本の動きがよく見えてくる。


            660年(斉明天皇6年)、唐・新羅連合軍の攻撃で百済が滅亡。

            661年、日本に滞在中の百済王の太子・豊璋を盟主に倭国による百済復興軍が組織されるが、斉明女帝、遠征先の九州にて病没。倭国軍は三派に別れ韓半島南部に上陸。
            中大兄皇子は、天皇位を継ぐことなく、称政、つまり天皇位に就かず政務を遂行する。

            663年、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功するも、その後、倭軍が白村江で大敗し、百済復興は失敗に終わる。
            同年、中大兄皇子、戦後処理のため、唐へ「倭」としてではなく「日本」として使節を派遣する。唐と戦ったのは「倭」であって「日本」ではないというつもりだろうか。それはさておき、ここではじめて「日本」という国号が対外的に使用されることとなる。
            この後、唐からは、使節・郭務悰をはじめとして2000人の兵が日本へ派遣されており、663年〜666年の3年にわたって日本に駐留する。 
            (使節としてはあまりに大規模な派兵であり、おそらくは戦後処理の威嚇的な派兵ではないかと思われる。核武装なくとも2000で戦後処理=核武装と郭務悰をかけているのですが……下手なシャレ、「お粗末さま」と後始末。)

            666年〜668年、唐と新羅が高句麗攻撃を開始。

            667年、劉徳高が戦後処理の使節として来日する。
            この年3月(天智6年2月)、大津京への遷都。

            668年2月(天智7年1月)、いままで称政を続けていた中大兄皇子が天智天皇として即位した。天智が即位することにより、東宮すなわち皇太子は、その弟・大海人皇子となる。しかし我が子・大友皇子に皇位を譲りたい天智と衝突。
            この年、高句麗が滅ぶ。新羅による韓半島統一。

            669年、韓半島の統一なるや、一転して新羅は高句麗の遺臣と力を合わせ、韓半島にとどまろうとする唐に対し蜂起をおこなう。
            この年、河内鯨を遣唐使として派遣。唐からは、使節・郭務悰が2000の兵と共に再来日。

            671年(天智10年)1月、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命する。
            この年10月17日、天智天皇は病が深くなり、病床に大海人皇子を呼び寄せ後事を託そうとする。これを罠と知った大海人は、自分には皇位を継ぐ意志はないことを明言、その場で出家し、吉野山へ下る。

            672年1月(天智10年12月)、天智天皇崩御。このあと大友皇子が即位したかどうか不明ではあるが、後継に立ったのは間違いがないであろう。
            この年5月 唐の使節・郭務悰が2000の兵と共に帰国。
            この年6月 大海人、吉野を脱出して美濃へ向かい、この地で挙兵する。
            この年7月 大海人は大友側に決戦を挑み、大友側を破り、大津京または近江京は崩壊。

            この後、天武の時代には、遣唐使の派遣はなく、新羅との友好関係を保持する。 

            ※唐側は、天智の在世期間、使節・郭務悰に2000の兵を預け、二度も日本に送っている。
            特に二度目は、天智の亡くなる3年前に日本側が遣唐使を送り、これを送るに当たって2000の兵がやってきている。しかも、天智が没し、次の大友が皇位に就いたことを見届け帰国している。そして大海人は、中国の使節や兵が引き上げた一ヶ月後に挙兵している。

            このことから妄想をたくましくしてみると、こんなことが言えるのではないだろうか。
            白村江の敗戦で、唐から郭務悰が2000の兵をひきつれて戦後処理にやってきた。天智=中大兄皇子は、逆にこれを国内統一の駒として使ったのでは。難波の宮遷都で、旧豪族勢力の地盤から離れ、さらに官位を制定することで天皇を中心とした律令体制へ移行しようと頑張っているが、やはり豪族の勢力は強い。そこへこの敗戦。天智としては「皆さん、そんなこといってる場合じゃないですよ。唐が本気で攻め込んできたら、日本なんてひとたまりもありません。従来の権益にしがみつくより、ここは力を合わせて強い国造りに励みましょう。唐のことはしばらく僕に任せてください。悪いようにはしません。」
            唐は唐で、韓半島の背後に同盟国・日本を持つことで力強いことかぎりがない。百済は滅んだものの、まだ高句麗という強敵がいる。前の隋などは高句麗に攻め込んだものの、さんざん手こずらされたあげく逃げ帰り、これがもとで国が滅んだようなものだ。新羅とは手を組んでいるものの、なかなか足並みもそろわない。いつ手のひらを返すか知れたものではない。ここは背後の日本を抱え込んでおくにかぎる。
            こうして、天智=唐の同盟が出来上がった。天智は唐の驚異を煽りたて、国内統一に励む。唐は唐で、天智のスポンサーよろしく、「いつでも困ったことがあったら言ってこい」なんて。

            二度目の中国兵2000名の派遣は、天智が後継者の問題で悩んでいるとき。大海人は人気がある。息子の大友に跡を継がせたいけど、大海人が黙っていないだろう。「なんとかならない」と、河内鯨を遣唐使として派遣し頼み込む。「よっしゃ」とばかりに、またも郭務悰さんが2000の兵を引き連れて、にらみをきかせにやってくる。
            この頃は、韓半島でも、高句麗が新羅・唐の連合軍に滅ばされ、新羅が朝鮮統一を果たしている。ところが、力を借りるだけのはずだった唐は、半島から動こうとしない。この機会に半島も我がものになんて考えている。そんなこというんならと、新羅としては、旧百済や高句麗の遺臣達と協力するする傍ら、背後の日本に目を向ける。唐は日本の天智を手なずけて、韓半島を挟み撃ちにしようと狙っている。
            じゃあ、天智の対抗勢力・大海人くんを応援しよう。「どう、一緒にうっとおしい唐をなんとかしない。このままほっといたら、好き勝手しほうだい。手を組みましょうよ」なんてことにならないか。

            つまり、壬申の乱というのは、天智=大友を唐が応援し、大海人を新羅や高句麗の遺臣、それに百済の遺臣たちが応援するといった、東アジア全体の「仁義なき抗争」ではなかったのかということだ。

            かくして大津の都は、5年間だけで滅び去り、1300年を経た今では、京阪電鉄の若手職員からも忘れ去られる存在となった。

            芭蕉ではないが、「夏草や 兵どもが 夢の跡」、汗とともにそんな言葉がこぼれた。

            工藤明子さん「18パターンの英会話」「NY古着屋物語」

            2011.08.10 Wednesday

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              (工藤明子さんの撮影したマンハッタン)

              工藤明子さんの新作の見本誌が送られてきた。
              題して「セックス.イン.ニューヨーク」、サブタイトルが「SATCの嘘とセックスと真実の恋」だという。テレビで評判になった『セックス・アンド・ザ・シティ』(Sex and the City、SATC)の解説本だという。本の冒頭にも、「この本は「セックス・アンド・ザ・シティ(以下SATC)」をより深く理解できるように詳細なストーリーラインに加えて、字幕には出ない場所や名前などの固有名詞を取り上げて説明しています。NY、引いてはアメリカ文化の勉強にもなる内容となっています。さらに、私自身のNYでの体験に加えてSATC流英会話まで学べるという、ファンに取ってはもちろん、まだファンでない方、ドラマを見ていない方でも楽しめる画期的なファンブック兼解説本です」と、うたわれている。
              そもそも、僕がこの本とかかわるようになったのは、彼女から「出版したいが出版費用がないので、印刷できるように組み版を助けて欲しい」と依頼があったからだ。
              彼女とは、ハリウッド映画を総なめにし、しゃれたジョークを拾い出した「18パターンの英会話」という本で初めて付き合うこととなった。その後、彼女のアメリカでの体験を綴った「ニューヨーク古着屋物語」を出し、かんぽうでの最後の仕事「ソウルフル! A列車に乗ってハーレムへ行こう」と3本の作品を助けることとなった。
              ニューヨークに魅せられ、アルバイトで金を稼いでは取材にNYへ飛んでいく。NYの何が彼女をそこまで惹きつけるのだろうか。僕自身も、彼女のNYへの思いの強さに惹かれ、彼女の出版を助けてきたようにも思う。そんな経緯もあって、今回も断ることは出来なかった。出版までは助けられないが、原稿が出来ているなら、それを本の形に組み上げる、いわゆる組み版という仕事はお手伝いしようということになった次第だ。

              そのとき、交換条件といっては何だが、かつて手がけた「18パターンの英会話」「NY古着屋物語」の2本を電子化させてほしい旨を打診した。
              かたい英会話本ではなく、彼女の体験談をまじえながら、NYへの思いが語られたり、しゃれた英語の使い方が語られていたり、英語がわからない僕も、思わず英語の世界へ引き込まれてしまう。
              特に「18パターンの英会話」、正式には、「誰も教えてくれなかった 日本一ぜいたくな 18パターンの英会話」というのだが、直木賞作家の常盤新平さんをして「映画のジョークをよくこれだけ集めたものだ」と舌を巻かせ、「著者はそれを分析分類して、英語や英会話を学ぶのが楽しくなる、じつに面白い本を書いた。繰り返し読む価値がある。ジョークを声に出して、何度も読んでみるといい」と言わせた、実に愉快な本だ。僕も、今回電子化に携わりながら、読み込んでしまったり、思わず大笑いしたり、苦笑いしたりと、映画ファン・英語ファンにはたまらない1冊となっている。

              「かんぽう」で出したときは、政府刊行物の肩書きが邪魔をして、本の面白さを伝えることが出来なかったが、電子の世界ではどうだろうか。ぜひ、試してみたい本であった。

              電子化に当たっては「無料」ということも考えたが、自分の場合をみても、安くても「有料」のものは最後まで読み通す。また、NYの取材費用で四苦八苦している著者に、少しでも還元できるかもしれない。そんな思いもあって有料とした。

              「18パターンの英会話」は、
              http://p.booklog.jp/book/32103

              「ニューヨーク古着屋物語」は、
              http://p.booklog.jp/book/32069

              どちらも「パブー」のサイトで公開しているので、英語と映画、それにNYに興味のある方はのぞいてほしい。ちなみに「18パターンの英会話」は、本文イラストと、表紙画は、当時、声優をしていた西前忠久さんにお願いした。彼は劇団前進座から声優への道へと進んだが、本来は画学生として「絵画」を志したこともあった。いずれ彼の描いた漫画「帰去来 −特攻に散った投手・石丸進一」(A5 全19ページ)もデジタルで公開したい。彼の許可が取れての話だが……。

              以上、宣伝臭くなったが、あとは工藤明子さんがNYで撮り続けてきた写真の一部をお楽しみください。

              伊勢に齋宮(いつきのみや)を訪ねる

              2011.07.27 Wednesday

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                齋宮跡.jpg

                伊勢に仕事で出かけることがあった。
                伊勢には何かひっかかるところがあって行きたいとは思っていた。ところがどこに行きたいのか自分でもハッキリしない。伊勢の内宮だろうか、それとも外宮だろうか。
                しかし、どちらもピンとこない。
                そう言えばまだ20代のころ(もう40年前のことになる)、PR映画の制作部におり、近鉄電車のPR映画「伊勢志摩」という作品に制作助手として関わったことがある。その頃は、映画の撮影が何か偉いことのように思えて、優越感一杯で、参拝客・観光客に「撮影中ですから」「撮影に入りますから」と、当然のように押しのけてきた。今も、町などを歩いていて撮影風景に出くわすことがあるが、若いスタッフが見物人の整理をしている姿を見ると、自分の若いころの傲慢さを見せつけられることがある。
                閑話休題(それはさておき)、やはり伊勢に行きたいと言うからには、昔行った「内宮」「外宮」なんだろう。ともかく、そこへ行ってみれば何か分かるような気がして、仕事を済ませた翌日、息子の運転する車で、まずは外宮へと向かった。
                前日は、松阪のビジネスホテルに泊まっており、そこを朝8時に出発した。外宮までは約40分の道のり。ゆっくり行っても9時までには外宮に到着するだろう。

                ところが、旧伊勢街道をドンドン走り、櫛田川を越えた辺りで「齋宮の森」「齋宮歴史博物館」「齋宮(いつきのみや)歴史体験館」を示す表示板に出くわした。表示を見るなり
                「ここだ、伊勢で行きたかったのはここだったんだ!」
                そんな思いが一瞬にしてわき上がってきた。キョトンとする息子に「悪いけど、ここへ寄ってよ」と、頼み込み、道を右折し、一路、齋宮の森を目指すこととなった。



                では齋宮(いつきのみや)とは何だろうか。一頃の僕は、近世の日欧交渉史に興味を抱き、キリスト教を中心とした文化摩擦のことばかりほじくり返していた。それも「孤児たちのルネサンス」を書き上げたことで、ひとまず自分の中では決着がつけられるようになった。そこへ登場したのが、関東から関西へ帰ってきて落ち着いた引っ越し先、「北葛城郡広陵町馬見」という場所であった。
                日本という国が成立した舞台、つまり欽明、敏達から推古を経て天武に至る古代史のまっただ中へ降り立った、そんな感じなのだ。散歩コースにある牧野古墳(ばくやこふん)は敏達の息子・押坂彦人大兄皇子の墓と言われている。同じく散歩コースの新木山古墳、その近くには十市皇女の墓があると言われる「赤部」、高市皇子の墓と言われる見立山古墳(見立山近隣公園)。行くところ行くところが、古代史の、しかも日本という国が成立した時代の舞台となった場所。法隆寺は自転車で30分、飛鳥は自転車で1時間半、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳や大神神社、それに元伊勢と言われる檜原神社へは自転車で1時間。二上山登り口へは自転車で30分。そんな場所にいて古代史に心が向かないわけがない。
                特に二上山と、そこに眠る大津皇子――個人的には二上山雄岳よりも麓にある鳥谷口古墳が、大津の墓だと思っているが――そんな大津皇子について語ろうとすると、どうしても出てくるのが、大津皇子とは同母の姉・大来皇女(おおくのひめみこ)。彼女も伊勢の斎宮であったが、大津皇子が謀反の罪で刑せられたため、斎宮の任を解かれた。そんな彼女が遠く伊勢の地で、刑死した弟を思って歌ったのが、「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」の歌。二上近辺には、この歌を彫った石碑がいろんな場所におかれている。

                齋宮跡石碑.jpg

                やっと斎宮との接点が出てきた。
                恥ずかしながら、斎宮については、皇室の女性が任じられるんだろうぐらいの知識しかなく、場所も漠然と伊勢神宮の中にあるんだろうか? そんな按配で、本当のところは何も知らないのが実情であった。そればかりか斎宮の名前すらも、それに対する思いも、いつの間にか意識の底のほうに深く沈んでしまっている状態だ。それが伊勢に来て、「斎宮の森」の標識に触れ、いきなり意識の表面に噴きあがってきた。

                左の写真は、斎宮跡に文部省が立てた説明表示。これによると、「斎宮跡は、斎王の御殿とその事務を取り扱った役所の跡」だといわれ、「その創設は遠く飛鳥・奈良時代」にさかのぼるらしい。
                では斎王もしくは斎宮と呼ばれるのはどんな役割で、どのようにして選ばれたのか。中野イツさん著すところの「斎宮物語」によると、「幼少の皇女から、うら若き皇女まで、六十有余人の高貴な媛君が、伊勢の海辺近くの、穏やかな風光の地において、ひたすら、神に奉仕する清浄な日々を送られた」という。
                つまり天皇に代わり、伊勢神宮に仕えるため都から派遣される未婚の皇女が、齋宮とか齋王と呼ばれる存在と言うことになる。
                斎宮制度は、先に登場した大津皇子の姉・大来皇女のときに確立し、それ以降、最後の祥子内親王までおよそ六百六十年間続いたと言われ、最年少が二歳、最年長が三十歳であり、内親王から選ばれるのが普通だが、内親王のない時には、親王の王女がなられたという。天皇が代わるごとに齋宮も交代するが、その多くは未婚の内親王または王女の中から占いに当たった方が齋宮となったようだ。齋宮に選ばれると、宮中の一箇所に初齋院が設けられ、ここで身を清め、齋宮にふさわしい知識を身につけることとなる。

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                見苦しくて申し訳ないのだが、上の写真が葱華輦(そうかれん)という輿(こし)で、齋王はこの輿に乗って、鈴鹿峠を越え、都から伊勢の地へやってきたと言う。
                齋王は、普通は天皇の代替わりで退下(たいげ)し都に帰るか、両親のどちらかが亡くなったとき「退下」し都に帰ることになるが、先に掲げた大来皇女(おおくのひめみこ)は、弟・大津皇子の罪により解任されている。このような場合「事故」として都に連れ戻されるのだが、齋王が男女関係を持ったときも、やはり「事故」として都に連れ戻されるようだ。
                歴史上「事故」として扱われた齋宮が三人おられる。
                一人は、先に掲げた大来皇女。また一人は欽明天皇の娘・磐隈皇女(いわくまのひめみこ)。彼女は、母が蘇我氏の出ということもあって、宮中でも夢皇女(ゆめひめみこ)と呼ばれ可愛がられた媛であったが、齋王になってから異母兄・茨木皇子に犯され「事故」として都へ連れ戻されることとなった。
                齋王が無事任務を終え帰るときは、「退下(たいげ)」といって伊勢に群行した道を行列を整え帰るのだが、「事故」で連れ戻される場合は、別の道を密かに帰らねばならなかったという。
                そして菟道皇女(うじのひめみこ)の場合も、池邊皇子に犯され事故として都に連れ戻された。彼女は敏達天皇と、その妃・廣姫に間に生まれたが、母・廣姫が亡くなり、無事「退下」出来るはずだったのだが、母の亡くなる二ヶ月前に、この「事故」が起こってしまったのだ。

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                上の写真は、復元された齋宮の10分の1模型。この齋宮から伊勢の外宮までは、車で15分〜20分あまり。この齋宮の中でも、内院は男子禁制の場所なのだが、ここで2件の「事故」は起こっている。ところで3件の「事故」だが、磐隈皇女は欽明天皇の娘、菟道皇女は欽明天皇の子・敏達天皇の娘、そして大来皇女は天武天皇の娘。要するに、大王の連合国家である「倭(やまと)」が、「日本」という統一国家として成立した草創期にかたまっている。この時期に「齋宮制度」も確立しており、3件の「事故」は、いずれもこの時期に起こっており、これ以降は、そのような事故が起こるようなこと自体、恐れ多い時代へと移っていくのであろう。

                熱海七湯めぐり

                2011.07.16 Saturday

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                  2001年11月、熱海のつるやホテルが閉館した。熱海温泉の中では「老舗中の老舗」と言える旅館だ。我々も関東方面でのセミナーでよく利用したが、その間、色んな思い出があった。夜間、子供たちの姿が見えないというので、ご両親と共に、車で熱海の町を探し回った。あげく見つかったのは熱海の突堤の上、釣りをしているうちに寝込んでしまったらしい。一歩間違えば海へ落ちていたかも知れない。かと思えば、セミナーが終了し、ホテルの裏口から機材を車に積み込んでいると、廃品回収の業者の方から「桐生さーん」と声をかけられた。見れば、以前お世話になっていたホテルの支配人だった。ホテルが潰れて、今はこの仕事をしているという。明るく快活で、以前知っていた方とは別人のようだ。「今は伸び伸びやっています」という言葉どおり、清々しい感じだ。たしかに暗く落ち込んでいるなら声をかけてもらえなかっただろう。声をかけてもらったこちらまでが嬉しくなった。
                  話しだせば、思い出話が後を絶たなくなるが、なかでも朝の散歩は楽しかった。上の写真は朝の散歩の時に撮った「ヤコブス・ラダー」という現象(チンダル現象ともいう)。雲から光の帯が無数に出来、ヤコブス・ラダー(ヤコブのハシゴ)のオンパレード。本当に別世界にいるようだった。
                  また朝の散歩で、熱海の源泉七湯めぐりをしたこともあった。パソコンで他の資料を探しているとき、その時に携帯で撮った写真が出てきた。懐かしさも手伝って、仕事の手を休めて写真整理を始めてしまった。以下の文章は、七湯の湯めぐりの現地に立てられていた案内板を書き写したモノ。

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                  ◇佐治郎(さじろう)の湯(目の湯)
                  佐治郎という者の邸内にあったことから「佐治郎の湯」といわれました。 また、この源泉は明治のころには上杉助七という者の邸内にあり、のち新かど旅館の所有になったので「新かどの湯」ともいわれました。
                  この湯は火傷にも良いが眼病にもよく効くといわれ、別名を「目の湯」ともいいました。


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                  ◇風呂の湯・水の湯
                  「風呂の湯」は、昔の坂町高砂屋の庭から湧き出ていました。 今の福島屋旅館の西側です。
                  この湯は外傷によいといわれ、また、湯気の上騰が盛んで饅頭を蒸したり酒を温めたりして販売していました。
                  「風呂の湯」の傍ら1.5メートルほど東のところに塩分のない温泉が湧き出ていました。
                  明治11年、大内青巒の熱海史誌には、淡白無味常水を温めるもののごとし、故に「水の湯」と名付くと記されています。


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                  ◇小沢の湯
                  沢口弥左衛門、藤井文次郎、米倉三左衛門の庭の湯を「平左衛門の湯」と称していました。また土地の人は小沢にあったので「小沢の湯」とも称しました。
                  「清左衛門の湯」と同様、人が大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。


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                  ◇大湯
                  古来からの間歇泉で世界でも有名な自噴泉でありました。
                  「大湯」の噴出は昼夜6回で、湯と蒸気を交互に激しい勢いで噴出し、地面が揺れるようであったといいます。 明治中ごろから次第に減少し末ごろには止まってしまいましたが、関東大震災のとき再び噴出しました。 しかし、その後も噴出回数は減少をつづけ、昭和のはじめついに止まってしまいました。
                  昭和37年に人工的に噴出する間歇泉として整備され、市の文化財として保存し現在に至っています。


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                  ◇野中の湯
                  野中山のふもとの、このあたりを野中といいます。
                  この辺一帯は、泥の中に湯がプクプク噴いて、杖で突くと湧き出したといわれています。また、このあたりの土は丹(赤色の土)のようで、壁を塗る材料にしました。
                  江戸時代までは、この「野中の湯」は湧き出るところが浅かったので、あまり入浴には利用されなかったようで、そのため、湯をためる湯桝をもうけなかったといわれています。

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                  ◇清左衛門の湯
                  昔、農民の清左衛門という者が馬を走らせて、この湯壺に落ちて焼け死んだので、その名が付いたといいます。
                  明治までは、昼夜常に湧き出て絶えることがありませんでした。
                  人が大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。


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                  ◇河原湯
                  このあたりを東浜といい、道もなく石のごろごろした河原で、温泉が絶えず豊富に湧き出ていて村人の入浴場でした。
                  湯治客は大湯の源泉が主に使われ、ほかの源泉も限られた家のみが使用するお湯で、熱海村の農民や漁師や近郷の人達が自由に入浴できるのは、この「河原湯」だけでした。
                  寛文6年(1666年)小田原城主稲葉美濃守が、村民のために浴室を設けてその屋根を瓦葺としたため、「瓦湯」と称したともいわれています。
                  この湯は神経痛やリューマチなどに効能があり塩分が多く、人が入ると透明な湯が白く濁るほどであったといいます。

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                  以上、熱海の七湯めぐりの紹介ですが、今はもう熱海に行くことも少なくなりました。
                  「つるやホテル」の消滅とともに、熱海は遠い世界になってしまったようです。
                  今は、熱海に二人の知人が居ます。一人は熱海を拠点に、アメリカのニューヨークに足繁く通い、ニューヨークをルポし続ける「工藤明子」さん。今一人は、熱海に居を構え、東京でジャズ活動を続ける傍ら、映画や出版活動を通して「孤児」の問題を訴え続ける「中塚睦子」さん。この二人の方が、僕を熱海につないでくれています。

                  広陵町図書館司書の方に選んでいただいた防災関係図書

                  2011.07.09 Saturday

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                                                 (広陵町立図書館)

                    町内の広報の仕事を仰せつかって、防災意識を高めるというテーマが今期一年間の編集方針ということととなった。そこで 広陵町図書館にご協力いただき、数ある防災関係の図書の中から、これはというものを選び、簡単なコメントを付けてご紹介いただくことにした。これだけ本が多くなってくると、何を読まばいいのか、本を選ぶこと自体が難しくなってきている。広陵町図書館館長、そして司書の方に意図を話したところ、お忙しい中、大変な仕事にもかかわらず快くお引き受けいただき、児童書から料理本まで、様々な分野から、これはという本をご紹介いただいた。広報だけに止めておくのも勿体ないように思い、このブログでも紹介させていただくことにした。 
                    図書04_公的支援が来るまでの200時間.jpg
                    大震災発生!
                    −公的支援がくるまでの200時間を生き延びる知識と知恵−

                    防災アドバイザー 山村武彦 著
                    ISBN4-09-387642-8
                    本体933 円 小学館発行
                    広陵町図書館記号  369.3 ヤ
                    資料コード 111746756

                    大地震が発生した場合、被災地に公的支援が行き渡るには200 時間がかかる。防災アドバイザーの著者が避難時の注意事項、避難生活と生活再建など、200 時間を自力で生き延びるための実践的防災対策を伝授。
                    日本の国土面積は世界の0.27%、しかし世界中で発生する地震の約20%は日本周辺で起きています。世界一の地震列島に住むからにはそこに住む作法(防災3原則)が必要です。

                     1. 加害者にならない
                     2. 傍観者にならない
                     3. 被害者にならない


                    図書01_地震の時の料理ワザ.jpg防災袋に必携!!
                    地震の時の料理ワザ
                    −電気が復旧するまでの1週間−

                    坂本廣子 著/まつもときなこ 画
                    ISBN4-388-06003-8
                    本体950 円 柴田書店発行
                    広陵町図書館記号 369.3 サ
                    資料コード 111749370

                    電気が復旧するまでの1週間を中心に、助かるための実践的工夫と体験的被災術を、食の分野から紹介。配給の食料や乾物をうまく使ったレシピなど。、防災時の料理本として類書のない貴重な1冊です。
                    日常の延長線上、普段の暮らしにちょっとした知恵と工夫を上乗せするだけで充分に備えに。(中略)あの阪神淡路大震災を体験して、分かったことがたくさんあります。助かるための実践的工夫と体験的被災術を、食の分野からご紹介します。




                    図書02_お金の防災マニュアル.jpg
                    お金の防災マニュアル
                     -Disaster Prevention-

                    鈴木雅光 著
                    ISBN978-4-7991-0028-8
                    本体1200 円 すばる舎発行
                    広陵町図書館記号 369.3 ス
                    資料コード 111997235

                    大災害に直面した時に備えて、水や食べ物を用意しておくのと同じように、当座を乗り切るための現金の確保やどうやって自分の財産を守るのかということもシュミレーションしておくべきでしょう。現金、住宅、車、生命&損害保険、株・債権……。災害への備えから被災時の対応、保険金請求までを解説した、震災で無一文にならないための最強バイブル。

                    どんなに非常事態下であっても、日々の生活は送っていかなければなりません。お金の問題は、今回災害に遭われた方々だけの問題ではありません。地震大国である以上、誰もが……



                    図書03_稲むらの火.jpg津波から人々を救った稲むらの火
                    歴史マンガ 浜口梧陵伝
                    クニ・トシロウ 作・画

                    ISBN4-89423-453-x
                    本体1200 円 文渓堂発行
                    広陵町図書館記号 289 ハ
                    資料コード 120665005

                    戦前・戦中、不朽の防災テキストといわれた「稲むらの火」のモデルとなった浜口梧陵。巨大地震によって引き起こされた大津波が村を襲ったとき、避難場所の目印にと、稲むらに火をつけ、多くの人々を救った浜口梧陵の生涯を描く。
                    読んで見て学ぶ「津波への備え」
                    近年、気象庁が津波警報や注意報を出しても、避難しないばかりか、かえって海岸に見物にいく人も多いとききます。正しい知識を持ち、ルールを守った行動が自らの命を守るのだという
                    ことを忘れないようにしましょう。




                    図書05_にいちゃんのランドセル.jpg
                    にいちゃんのランドセル
                    城島充  著

                    ISBN978-4-06-215919-7
                    本体1200 円 講談社発行
                    広陵町図書館記号 916 ジ
                    資料コード 120748058

                    1995 年1 月17 日の夜明け前、兵庫県南部を襲った阪神淡路大震災は、6434 人の尊い命を奪いました。あの日から15年、災害で長男と長女を亡くした家族の姿を通して、震災を語り継ぐ大切さを描いたルポルタージュ。
                    【あとがきより】
                    おとうさんとおかあさんから、英(はんな)ちゃんへ、そして……。
                    震災を語り継いでいく役割を、いずれは凛(りん)くんが受け継ぐ日がやってきます。
                    そしてそのとき、凛くんは、背中に感じたランドセルのぬくもりをいろんな人に伝えてくれるはずです。

                    京都大学屯鶴峰地震観測所を訪ねて

                    2011.06.29 Wednesday

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                      屯鶴峰地震観測所坑内.jpg

                      屯鶴峰地震観測所入り口00.jpg6月半ば、屯鶴峰にある京都大学地震観測所を訪ねた。正確には京都大学防災研究所屯鶴峰地かく変動観測所という。近々ここは規模を縮小し無人化するというので、以前から見学を希望しており、個人的ならということで便宜を図っていただいた次第だ。
                      そもそもなぜ縮小するかというと、地震予知が当たらないからだという。案内してくださった研究員の方は、「地震予知は難しい。何と言っても結果を出さないことには……」としみじみ言われた。
                      この方とは、屯鶴峰公園入り口で待ち合わせをし、山道の茂みをかき分けながら観測所への道を進んだ。茂みを突き抜けたところは、工事のため山が切り開かれたような空き地になっており、そのさき左手の茂みに観測所の入り口が白く顔を出していた。
                      もともとは本土決戦に備え防空壕があったところだという。防空壕というと小さな規模のものを想像しがちだが、防空壕というより地下要塞と言った方が当たっている。後で知ったことだが、朝鮮人兵士が厳しい条件で掘削にあたったと言われ、多くの犠牲者が出たようだ。このため、この辺りは心霊スポットになっているともいう。
                      また、この二上山周辺にはこの地下壕だけではなくさまざまな軍事施設が存在していたようである。高射砲台、機関銃座、燃料貯蔵用地下壕。いわば、この周辺が陸軍航空部隊・航空総軍の一大拠点となろうとしていたように思える。そして、屯鶴峯地下壕はこれらの施設を統括する拠点として建設されようとしていた。韓国最後の皇太子李垠(イ・ウン)も航空総軍の指揮官として、この屯鶴峯地下壕に滞在していていたことも間違いのない事実のようだ。
                      屯鶴峰地震観測所入り口.jpg
                      話がとんでもないほうに逸れてしまった。しかし、なぜ防空壕跡に地震観測所があるのだろうか? 案内いただいた研究員の方に訊いてみた。要は、坑の中は湿度も温度も一定なので、外気に影響されずに観測されるのだという。そうこう話しているうちに入り口へと着いた。入り口の事務所らしきところで懐中電灯を手渡され、坑道へつながる鉄の扉が開かれる。中からヒンヤリした空気が流れ出し、汗が引いていく。
                      ところで近畿には、この屯鶴峰の他、茨木・高槻にまたがる阿武山観測所、滋賀県大津市にある逢坂山観測所の3箇所の観測所がある。
                      阿武山が昭和5年に、屯鶴峯観測所は,大地震と地殻変動の関係を明ら屯鶴峰地震観測所機器.jpgかにし,地震予知の手掛かりを得ることを目的として昭和40年に、逢坂山観測所は、昭和45年に地震予知研究を目的として設立された。
                      ところで、この3箇所の観測所で2003年3月頃から地殻杯の顕著な変化が報告されている。2004年9月、2005年1月には、地下水位の急激な変化も観測されており、このことは近畿地方の地殻活動に変化が生じていることを表しており、規模の大きな地震が発生する可能性もあるという。現にこの現象は、阪神淡路大震災の数ヶ月前にも認められている。すわ大地震の前兆かと思われたが、この報告がなされたのが平成17年4月のこと。今現在、2011年(平成23年)になるが6年経っても、近畿で大きな地震は起こっていない。
                      このことについて、これから先近畿で大地震が起こる可能性があるのか、案内いただいた研究員の方に尋ねてみた。しかし、いけないことを訊いたようで、「これについては自分としては何とも言えない。分からないとしか答えられません」ということであった。

                      どちらにせよ、このような地殻変動が観測されているなら、用心に越したことはない。
                      千利休いわく「降らぬ間に雨の用意」。いたずらに恐怖心をあおるのでなく、今こそ防災意識を高め、何があっても気持ちだけは対処できるようにしたいものだ。