歴史紀行「平戸とリチャード・コックス」

2010.04.26 Monday

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    平戸河内浦埠頭跡
              (かつてオランダ船・イギリス船のマストが林立した平戸・河内浦の埠頭跡)

    ◇歴史紀行「平戸とリチャード・コックス」◇


    蘭・英、平戸で衝突
    平戸、全島面積約一六五平方キロメートル、その中でも我々が観光地平戸として知る部分は、港を中心としたほんのわずかな区域にかぎられている。しかし、この小さな区域内にかつてオランダ、イギリスという敵対する二箇国の商館が並び建っていた。
    今日、我々が平戸口からフェリーで平戸港に入ると、いやでもその右手に石積みのオランダ埠頭の跡が目に入る。さらに右手には、「常灯の鼻」と呼ばれるオランダ灯台の跡があり、今から三百年ばかり昔には、夜間はほのかな常夜灯が、昼には赤・白・青三色に染め分けられたオランダ国旗が風になびいてその所在を知らせていた。
    これに対してイギリス商館跡であるが、これは今となっては判然としない。それは営業不振のため、イギリスが意外と早く日本から手を引いたためであり、ただオランダのハーグ文書館所蔵「元和七年平戸古図」によって、今の親和銀行から平戸市役所にかけての一帯がそうではなかったかと推測されるのみである。
    ところで大航海時代の幕開けは、周知のごとくイベリア半島を地盤としたポルトガル、スペインという二大旧教勢力によって争われた。しかし十七世紀に入るや、新たな勢力オランダ、イギリスが台頭してきた。この新興二勢力は、株式会社の前身ともいえる東インド会社を結成し、組織的商業活動によって旧教勢力に挑んだ。初期資本主義の洗礼を受けたこの二国の前に、イベリヤカトリック王国は今や追われる者の立場に置かれたのである。
    東南アジア各地で熾烈な勢力争いが繰り広げられた。しかし、このオランダとイギリスは共通の敵と戦いながら、少なくともこの年、一六二〇年に至るまでは共に連合することがなかった。それどころか、互いに相手を敵としてしか意識しなかったのである。
    その二国が、この狭い平戸の中で顔を突き合せて暮していた。両商館の間は、現在我々がぶらぶら歩いたところで、十五分もかかるかどうかという位の距離である。まるで爆弾でも抱えているようなものであった。
    現に一六一九年には、オランダ艦隊がイギリス商船スワン号、アッテンダンス号二隻を捕獲し、これを引きずるようにして平戸へ入港した。この時である。オランダ船の捕虜となったイギリス人水夫数名が脱走しイギリス商館に救いを求めた。イギリス商館長リチャード・コックスは、オランダの行為を不当とし、領主松浦隆信に訴えた。さらに二代将軍徳川秀忠にまで上訴した。しかし、答えは常に同じであった。
    「外洋における争いには関知せず」、つまり、このイギリス商船捕獲が日本の領外で起った事件であるとして、幕府も平戸藩も介入を拒否したのである。
    やむなくコックスは、直接オランダ商館相手にその不当を抗議した。だが強気のオランダ側はこれを一蹴した。それどころか脱走したイギリス人捕虜の引き渡しを求め、オランダ人水夫六〇〇余名が徒党を組み一団となってイギリス商館を襲ったのである。記録によれば、その襲撃すること「日に三度におよんだ」と言われている。
    この時、平戸の住民はこぞってイギリス側に味方し、それこそ町中が蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。平戸藩主松浦隆信もさすがにこれには驚いた。こうなっては知らぬ顔もできず、自ら甲胄具足に身を固め人数を繰り出しやっとのことで双方を取り鎮めることができたのである。
    しかし、このような争いにも休止符のうたれる時がきた。一六二〇年七月、バタヴィア(現在のジャカルタ)から「蘭英同盟」成立の知らせがもたらされたのである。隆信も平戸の住民もホッと胸をなでおろす思いであった。だがこの知らせを誰よりも喜んだのは、平戸イギリス商館長リチャード・コックスではなかったろうか。日本へ来てすでに六年、イギリスの利益と名誉のために、彼はずいぶんと努力し働いた。にもかかわらず、イギリスの対日貿易は、軍事的にも経済的にも圧倒的優位を誇るオランダの妨害の前に、常に赤字続きという有様であった。本国にいる東インド会社役員の中には、本気で平戸商館閉鎖を考える者さえいたのである。
    そこへこの「蘭英同盟」成立の知らせである。コックスはさぞや思ったことであろう。「これですべてが好転するに違いない」と……。
    しかし、その喜びも束の間、この年八月、蘭英両商館存亡に関わる事件が発生した。
    俗に言う、平山常陳事件がこれである。

    平戸千里浜
                         (平戸 千里ケ浜)

    千里浜・鄭成功誕生地捕獲された常陳船
    車窓にひろがる西海の海と空を楽しみながら、平戸棧橋からおよそ十五分あまり、バスは鄭成功ゆかり(左写真は、鄭成功の誕生地)の千里ケ浜を抜け、寂れた川内の町並みへと入る。その町並みを抜け切ったところが川内浦の埠頭である。かつてオランダやイギリスが平戸港の副港として、船の補修や風待ちに利用したところだ。その入江の奥に立って海の方へ目を向けると、まるで湾を抱えこむかのように、丸山の丘が海に突き出して見える。かつてはこの丸山の地に、遠来の船乗りたちを迎えるべく酒楼が設けられ「絃歌頻りに起って歓楽境をなし」、真夜中となってもこの地だけは喧噪と灯りが絶えなかった。のちの話であるが、オランダ商館が長崎出島に移された時、この地の遊女らもその地名と共に移り、いわゆる「長崎丸山遊廓」名称の起りとなったと言われている。
    それはさておき、一六二〇年八月四日の早朝、この川内浦の沖に一艘のイギリス船が姿をあらわした。エリザベス号である。また英船ムーン号、蘭船トラウ号も、この日やや遅れて川内浦へと入港した。しかしそればかりではない。意外にもエリザベス号は、ルソンから帰港途上の平山常陳の朱印船を捕獲曳航していたのである。
    ところでこれら艦船は、同年五月、バタヴィアにおいて蘭英同盟に基づき、蘭船五隻、英船五隻から編成された連合防禦艦隊の一部であった。艦隊は三々五々バタヴィアを出港し、スペイン、ポルトガル船の捕獲を目的として各々中国沿岸を捜索したあと、平戸に集結することが命令されていた。しかし日本船および第三国船の捕獲は、五月三十日付防衛会議艦隊指令書によって厳重に禁じられている。ただマニラに向い、またマニラより還る中国ジャンク船に遭遇したる場合のみこれを奪掠の目的にて攻撃し得ることが例外として定められていた。
    おそらく平山船の捕獲は、この中国ジャンクと見誤ってのことだったのであろう。当時、海外渡航朱印船は和船は使われず、多くの場合、中国製ジャンク船が使われた。またシャム船、交趾船も使われた。西洋式造船術の導入に伴い、末次船や荒木船に見られるような、西洋式ガレオンと中国ジャンクの折衷といった様式まで登場した。しかし、その船体構造はどの場合をとっても基本的にはジャンクである。このため対日貿易に携わるイギリス人やオランダ人は、これら朱印船をも中国船同様「ジャンク」と総称したほどであった。しかもこのとき、平山船はスペイン領マニラからの帰港途上であった。エリザベス号がこれを中国ジャンク船と見間違え捕獲したのも、また無理からぬことであろう。
    総指令官ロバート・アダムス提督は言う。「我等は同船を獲得するを得べきや否やにつきて迷いつつあり」と。(大日本史料十二−三四)
    しかし、アダムス提督の迷いを一時に払拭させるようなものが平山船から発見された。船底に積み込まれた生乾きの鹿皮のあいだに、日本に潜入すべくスペイン商人に身をやつした二人の宣教師が潜んでいたのだ。アウグスチン会宣教師ペドロ・デ・ズニガ神父とドミニコ会宣教師ルイス・フローレス神父の二人であった。事態は一変した。今や平山船の捕獲は不当というどころか、日本の国禁を犯した犯罪人逮捕に協力したようなものであった。アダムス提督はついにこの捕獲を正当なものとみなし、平山船は蘭英共同の獲物とされ、平戸へ曳航されることが決定されたのである。

    やがて無数の櫓音がこの川内浦へと近付いてきた。これら艦船を平戸港へと導くべく、イギリス商館長リチャード・コックスによって派遣された小舟の群であった。「パーチャス廻国記」は記す。
    「我等はコチエ(川内)と呼ばるる平戸の港に到着せり、平戸の碇泊所より南方約四哩半に位す、火曜日なる七月二十五日(新暦の八月四日にして元和六年七月六日に当る)、キャプテン・コックスは、船側に数多のフネ即ち軽舟を派して、我等を助けたり、(神の加護によりて)午後に至りて、我等は平戸の港に到着することを得たり。」(大日本史料十二−三四)
    まるで当時の光景がよみがえってくるようである。だが往時マストの林で埋まったこの川内浦の埠頭も、今ではすっかり寂れてしまい、ただ申しわけ程度に残された石積みの埠頭の一部が、唯一、昔を偲ぶ手がかりでしかなかった。

    平戸イギリス商館跡英商館長コックスの苦悩
    川内浦から平戸への帰り道、千里ケ浜の裏の山手に「リチャード・コックス甘藷栽培の地」と伝えられる所がある。かのウイリアム・アダムス(三浦按針)が一六一五年、琉球から持ち帰ったものを、コックスがこの地で栽培を始めたのだという。コックス日記一六一五年六月十九日の条に言う。
    「今日庭づくりして、甘藷を植えた。苗は琉球から持ってきたもので、日本に植えたのはこれが初めてである。庭づくりに毎年一テイ、即ち五シリング払わなければならない」と。(皆川三郎 訳)
    以来、コックスの庭園づくりは平戸では有名となった。寺小屋の主人をはじめ平戸藩の家老や僧侶、中国人ら、彼を知る様々な人たちが、彼のために色々な苗木を贈った。みかん、桃、いちじく、ぶどう等々。たちまちコックスの庭園は豊かなものになったという。コックスの人柄が窺えるようでおもしろい。
    もちろん、人が好いばかりではない。彼の性格を特徴づけるいま一つの傾向は、祖国に対する愛国心の強さとそのプライドの高さであろう。イギリスの権益に関わる外部からの圧力には、たとえそれが領主であれ将軍であれ、堂々と意義を申立てた。また蘭人と共に対日折衝の場に立つ時は、必ずコックスが上座に着いた。それはオランダ商館長が、単に東インド会社の代表にすぎず、それにひきかえコックスは、イギリス国王ジェームズ一世より信任状を与えられた正式な国家代表であるという自負心から出た行為であろう。
    要するに、コックスは常にイギリスとイギリス国王の名誉を代表して行動した。しかし、その祖国への一途な姿勢が、かえってこのあと彼の不幸な死を用意する一因とさえなったのである。しかし、それはまだ後のことである。今はまず平山常陳事件についてさらに話を進めていくことにしよう。
    さて平山船拿捕に伴い、たちまち三つの勢力が動き始めた。一つはもちろんリチャード・コックス、ヤックス・スペックス(オランダ商館長)に代表される蘭・英二国の動きである。彼らは事件の有利な解決を望み、蘭人二名、英国人二名からなる使節団を江戸幕府へと派遣した。その言うところは、ルソン、マカオへ向かう日本船に対して、「陛下(徳川秀忠)が今後一切渡航許可証、即ち免許状を付与せざらんことを願う」というもので、その理由として暗に平山常陳事件を挙げ、かの地への渡航は、ポルトガル、イスパニアおよび一部日本人商人を利するにすぎず、それにひきかえ「陛下の国土都市の蒙るべき損害は大なるものあり。日本よりルソン、マカオへの渡航が継続する間は、陛下も承知せられる如く、如何に厳しく之を糾明し制禁せらるるとも、其地から伴天連を導き来ることは断絶すべきに非らず」と言うのである。(岩生成一 訳)
    つまり蘭・英側はこの平山常陳事件をテコに、スペイン、ポルトガルはおろか、最大の商敵である日本人朱印船貿易家にさえ致命的な打撃を与えようとしたのである。
    これに対し当然第二の勢力、長崎代官末次平蔵をはじめとする日本人貿易関係者たちが動き始めた。平蔵についてここで多くを触れる余裕はないが、末次家は元来博多の商人であって、それが平蔵の父興善の時代に南蛮貿易の利を求めて長崎に進出した。以来、平蔵の代になるや、長崎乙名として、また朱印船貿易家としてその活躍は目覚ましく、長崎貿易関係者の中心的存在となったのである。彼は自ら朱印船を派遣するほか、投銀と称しポルトガル商人相手に多額の貿易融資をも行い、いわばポルトガルとは利害を一にする存在でさえあった。その彼がポルトガルや朱印船貿易家を相手取った蘭・英の訴えに沈黙を守っている筈がなかった。
    彼はまず保釈中の平山常陳を伴い江戸へ上り、逆にオランダやイギリスを海賊として訴えさせたのである。これに伴い長崎奉行長谷川権六が平蔵の動きを助けた。権六はズニガ神父の顔を知っている。なぜなら、昨年ズニガ神父を捕らえマニラへ帰ることを説いたのは、ほかならぬこの権六だったからである。そのズニガ神父が日本へ再潜入しようとして捕らえられた。平戸のオランダ商館でズニガと再会した権六は終始初対面を装った。そればかりか、コックスやスペックスに対し、彼ら捕虜が宣教師である明らかな証拠を示すよう要求し、さもなくば彼らの逮捕が不当であるとみなし、「彼らの貿易を廃止すべし」と嚇しつけたのである。しかも、平戸へ向かう船中、宣教師であることを自白したズニガらは、今や前言を翻し、自分たちが単なるスペイン人商人にすぎないことを主張し続け、その上、平山船から発見された唯一の証拠品、アウグスチン会マニラ管区長の書簡でさえ、権六は頭から問題にしようとしなかった。
    このような状況の中で、第三の勢力スペイン系カトリック宣教師団が、二人の神父を救出しようと活動を開始した。コックスらにとって、真に一時たりとも気を許すことのできない日々の連続であったといえよう。
    ところでこの事件の真只中にあって、ついに最後まで動かなかった男がいる。平戸藩主松浦隆信である。この事件による彼の立場には実に複雑なものがあった。平戸の繁栄は一に蘭・英両商館の存在にかかっており、その点から言えば、彼は当然コックスらに味方するべきであろう。だがまた別な事実がある。隆信は長崎の末次平蔵らとも利害を一にする立場に立たされていたのである。それは幕府が西国大名の貿易介入を禁じているにもかかわらず、彼が豊後の松倉重政らと共に平蔵の朱印船に、資本投下しているという事実によっている。
    だが彼の動けない理由はそればかりではなかった。隆信の母、松東院メンシアの存在を忘れるわけにはいかない。彼女は切支丹大名大村純忠の第七子として生まれ、十二才の時、平戸松浦家に嫁いだ。以来三十余年、彼女は狂信的な真言宗徒である舅、松浦法印鎮信の圧力にも屈せず、その切支丹信仰を守り通した。現在、松浦資料館の東に「お部屋の坂」と呼ばれる坂道があるが、このあたりに慶長、元和の昔、隆信の母メンシアが屋敷を構え、一人切支丹の教えを守って暮していたのではないかと考えられる。
    平戸尾オランダ商館の壁しかし、この信仰堅固な切支丹夫人が、常陳事件に際しどのような態度を示したのか、残念ながら記録にはない。ただ鎮信の圧力にも屈しなかった夫人のことである。たとえ何らの動きは見せなかったとしても、彼女が存在するという事実だけで、その子隆信には無言の圧力となったであろう。
    このように隆信は、オランダ=イギリス、日本人貿易関係者、そして切支丹と、この三つの勢力の板ばさみとなり、前にも後にも身動きのとれない状態に追い込まれていたのである。このため二人の宣教師たちも平戸藩が預るのではなく、オランダ商館がその地下牢に幽閉することとなった。
    さて、わが敬愛するコックス商館長であるが、前述したようなさまざまな不利な状況の中で、次第にその人間味豊かな性格が損われていった。イギリスの利益と名誉を守るためには、何としても二人の囚人が宣教師であることを証明しなければならない。そのためには敢えて非人道的な手段もとられた。現在、史跡として残るオランダ塀のあたりを歩きながら、その塀の向こう側で行われた陰惨な拷問のことを考える時、そこに我々が知るコックスとは似ても似つかぬ別の男が浮び上がってくるのに気がつくであろう。
    それは一六二一年十月二日のことであった。この日、オランダ商館の一室で、コックスやスペックスの見守る中、ズニガ神父が引き出された。そのカルサン(袴下)のみの裸の身体には、ギリギリと絞めつけられた縄が食い込みあちらこちらから血が流れ出している。神父は十字架の形に台の上へとのせられ、次いでヒダの多い布が彼の顔に巻きつけられ、その上で咽喉が死なない程度に絞めつけられた。準備は終わった。スペックスの合図を皮切りに甕にあふれる何杯もの水が次から次へと神父の頭や顔に注がれ始める。水はすぐ咽喉へ入らず彼を何度となく窒息させる。刑吏はさらに、水で脹れた彼の腹をビシビシ撲り、そのつど口をはじめ身体中の穴という穴から血の混じった水を吐き出させる。コックスが叫んだ。「もし彼がヨハネ・ゴンザレスで、ペトロ・デ・ズニガでなかったら、私の首を切って貰いたい」と。(吉田小五郎 訳「パジェス・日本切支丹宗門史」)
    陽光あふれる平戸の風景とは、いかぬもそぐわない場面であった。拷問にかけられた神父は真に気の毒である。だが、あの気の好いコックスが、このような状況に追い込まれた信条を考えると、それ以上の同情を禁じえない。そればかりではない。コックスが事件解決に奔走している間に、彼の愛する妻マティンガ(お松)が不義を犯し彼の許を去った。このあと事件は幾多の紆余曲折を経て、ついには蘭・英の勝利を持って終わるが、この時期を境にして、コックスは急に無口な老人と化してしまったようだ。パスケ・スミス氏は言う。
    「コックス日記は、彼が年をとるにつれて冴えがない。心配ごとや健康の衰えが身に応えたのだろう」と。

    コックスの解任と死
    さて平戸イギリス商館であるが、蘭英同盟成立により一時の活況は呈したものの、一六二二年同盟条約廃棄により再び苦しい時代を迎え、翌年十二月ついに閉鎖のやむなきに至った。そしてコックスはバタヴィアへ召喚され、審問会において「経営能力の欠如」「無責任」「業務怠慢」さらには「彼自身の性格上のこと」についてまで非難が浴びせられ、あげくが商館閉鎖のすべての責任を負わされることとなった。
    確かにコックスは、管理能力や経営能力に欠けるものがあったかもしれない。だがその欠点を補うに足る豊かな人間性とやさしさを持っていた。しかし、これらを犠牲にしてまで尽くした彼の祖国イギリスは、財産没収と強制送還という形で彼に報いたのである。
    一六二三年二月二十四日、彼を乗せた三檣帆船アン・ローヤル号がバタヴィアを離れていった。しかし、コックスはついに祖国の土を踏むことはなかった。出帆後ひと月あまり経った三月二十七日、彼は船中で病没し弔砲の轟くなかインド洋に葬られたのである。
    平戸の埠頭に立って彼の生涯に思いを馳せていると、やがて対岸の平戸口を出たフェリーが新来の観光客を乗せてこちらへと近付いてきた。そろそろ私もあの観光客と入れ替わりに平戸を離れることとしよう。平戸大橋が完成した現在、バスでそのままJR平戸口へ行く便利な方法もあるが、平戸を離れるには、やはり船が一番ふさわしいように思われる。

    (新人物往来社「歴史研究」第二四九号掲載)桐生敏明 

    デウス号爆沈

    2010.04.24 Saturday

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      軟らかな話題が続いたので、そろそろ元の路線に戻してみたい。かといって紙幣の肖像の話題も、そろそろ飽きてきた。肝心の「聖徳太子」もまだ取り上げていないのだが、少しの間、休ませていただいて、しばらくは、昔、雑誌に投稿した歴史紀行の原稿を掲載していこうと思う。
      まずは1610年、長崎沖で有馬の水軍に沈められたポルトガル船「ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号、俗に言うマードレ・デ・デウス号事件の話題を取り上げる。
      もう今は廃刊となった「歴史と人物」(中央公論社刊)に掲載した原稿だ。


      『デウス号爆沈』

      デウス号搭載大砲

      デウス号大砲_砲尾火穴の部分長崎県庁の中庭に立って
      砲身の長さ約二三二センチ、口径約一二センチ、砲尾の最も太いところで外周約一三〇センチ、先端部の外周約八三センチ、砲身の中ほどよりやや後方に砲台に固定するための砲耳が突き出ており、砲尾火穴のすぐ上にERの刻字が認められる−。 
      上記は奈良天理図書舘正面入口を飾る大砲の諸測値であるが、実はこの大砲が一六一〇年、長崎沖にて爆沈したポルトガル船マードレ・デ・デウス号搭載の大砲であったという。
      ところで、いま私は長崎県庁の中庭に立っている。奈良天理図書館で初めてこのデウス号大砲を目にしてから、すでに三年近くにもなろうか。あのおり触れた冷たい鋳鉄砲の感触に魅せられ、以来デウス号事件に首を突っ込み、内外の資史料を読み漁ったあげく、とうとう今朝一番の全日空機でこの長崎までやってきてしまった。
      私がまっ先にこの長崎県庁に足を向けたのは、この地がイエズス会本部−日本人の言う岬の教会「被昇天の聖母」の建てられていた場所であり、デウス号長崎脱出劇の最初の舞台となった湯所だからである。
      現在の長崎港今でこそ長崎港の埠頭は、この県庁から西へ三〇〇メートル余りも後退してしまっているが、当時はこの県庁の地は小高い岬をなしており、イエズス会の教会がそびえ、その真下まで海がせまっていた。現在、県庁から北西に下る県庁坂がその地形的な名残りを留めており、その県庁坂を下ったところ、県庁三号館横手にポルトガル船来航波止場の碑が立てられている。
      さて、今から三七二年前(一六一〇年)の一月三日早朝、今私が立っているこの場所、つまり岬の教会に附属するイエズス会司教館に五人の男が集まった。イエズス会準管区長フランシスコ・パシオ、同プロクラドール(会計係)ジョアン・ロドリゲス、長崎奉行長谷川左兵衛藤広、長崎地方地方支配代官村山等安アントニオ、そしてデウス号事件の当面の主人公である肥前有馬日野江の城主ジョアン・プロタシオ有馬晴信の五名である。
      彼らはそれぞれの思惑を胸に、一人の男の到着を今や遅しと待ち釆ねていた。その男といぅのが、長崎港に碇泊するマードレ・デ・デウス号船長アンドレ・ペッソアであった。彼はただたんにデウス号船長といぅばかりでなく、カピタンモールとして、マカオ〜長崎間貿易の責任を負う者であり、またその任期中はマカオ市の軍事はおろか司法・行政をも支配する、言わばマカオ臨時総督のごとき権限さえ有していた。
      当時のポルトガル人の服装
      ところで、普通このカピタンモールの任期は、そのマカオ到着後、長崎との一航海が終了するまでの非常に短期間のことであるが、・ペッソアにとって不幸なことは、彼のマカオ着任以来二年にわたって長崎派船が中止され、異例なほどその在任期間が延長されたことである。
      この派船中止はオランダの妨害のためであった。スペインの支配から独立したオランダが、いよいよ東アジアに進出を開始し、武力でスペイン、ポルトガルの通商拠点を脅かし始めたのである。おかげでペッソアは足掛け二年にわたってマカオに留まり、この市を統治することとなった。そして、このことが却って彼の破滅の原因をも用意することとなったのである。
      事件は、ペッソアがマカオへ到着した翌年一六八〇年に発生した。有馬晴信派遣の朱印船が占城(チャンパ)からの帰途、風を失いこのマカオに寄港したのである。このときすでに同地には、東京(トンキン)からの帰途遭難し、中国船を略奪しこれに乗ってマカオに避難していた別の日本人の一団があった。
      二組の日本人グループは、ポルトガル官憲の制止をよそに、武器を携え市中を横行し、ついには日・葡商人間に商貨の買い上げをめぐって紛争を生じ、仲介に当たった陪席判事まで負傷させるという事件が起こった。いわゆる日本人騒擾事件の発端であるが、この暴動を徹底的に鎮圧したのが、ほかならぬアンドレ・ペッソアだったのである。彼は日本人暴徒の一団を一件の建物に追い詰め、火焔筒で火をかけ、逃げてくる日本人たちを次々と撃ち殺した。さらに彼は、首謀者と思われる日本人を捕えるや、後日の日本政府への弁解のため、この事件の原因がすべて日本人にあるという証言を強要し、そのあげく、男をその場で絞首刑に処してしまったのである。
      さて、そのペッソアがデウス号で長崎へ入港した。一六〇九年六月のことである。ポルトガル側の報告でこの事件を知った長崎奉行長谷川左兵衛や代官村山等安は、かねてよりマカオ〜長崎間貿易の主導権を、ぜひ日本人の手に握りたいと考えていた。
      当時、対マカオ貿易は常にポルトガル側が主導権を握り、日本の主要輸入品である生糸などは、仲介にあたったイエズス会宣教師の思惑でその価格が左右されるというありさまであった。このため日本側は、時々法外な糸値を吹っかけられたり、また望み通りの糸量を得られない場合もしばしばであり、次第にポルトガル側への不満が膨らんできていた。そこへこの事件である。左兵衛や等安が抛っておく筈がなかった。彼らは、マカオで部下を殺された有馬晴信を引き入れ、この事件を盾にデウス号の積み荷を日本側の言い値で買い取ろうと策したのである。
      長崎で、そして江戸で、虚々実々の駆け引きが繰り広げられた。しかし、二年間ポルトガル船の来航がなく、糸価が高騰しているおりである。いわば売手市場、ペッソアが応じようはずもなかった。
      あくまでその強硬な態度を崩そうとしないペッソアに対し、ついに晴信らはマカオ事件を家康に報じ、デウス号捕獲の許可を取り付けたのである。
      明けて一月三日、この日、両者の間に最後の会談が持たれるべく、イエズス会司教館に関係者が集まることとなった。しかし、ペッソアはついに現われなかった。それどころか、待ち惚けを喰わされた晴信らがイエズス会司教館のある「被昇天の聖母教会」の門を出ようとしたとき、彼らの眼に、デウス号が出港準備を急ぐ光景が飛び込んできたのである。

      事件当時のの長崎の町事件当時の長崎中心部
      長崎県庁を出ると真直ぐ北へ向う大通りがある。現在、県庁前大通りと呼ばれ市の中心をなしており、通りの両側には県警本部、法務局、電報電話局、市役所等々、市の中枢をなす建物が続いている。そしてこれら建物の一つ、電報電話局のあるあたりが、事件当時長崎奉行所の置かれていた場所であった。
      つぎに奉行所が面していた県庁前大通りを東に入ると、住友生命ビル裏手に法務合同庁舎がある。この地点が当時ミゼリ・コルディアの教会があったところだ。建物横手の道は、東へ急な石段の坂道となっており、この坂が大音寺坂で、禁教令によりミゼリ・コルディアが破壊された後、この地に大音寺が創建されたためこの名がある。そして、この大音寺坂から北へ二筋目にある坂道が巌流板で、坂を挟んで南北に小倉藩、長州藩の蔵屋敷があったところから、洒落てこの名がおこった。そして、この小倉藩倉屋敷跡が、事件当時村山等安の屋敷があった場所と考えられている。
      ところで、この巌流坂下の道に南北に走る堀跡の道がある。この堀跡は興善町の交差点を東へ下ったあたりから、桜町の勤労福祉会館のあたりまで続いている。
      この堀筋にかつては幾つもの橋が掛かっていた。その一つ、桜町のあたりに掛かる橋を渡れば、現長崎市公会堂の地点にあったと思われるサン・アントニオの教会へ行くことができたし、また南の方角、興善町あたりから橋を渡れば、現長崎相銀あたりにあったとされるサン・ティアゴの教会へ行くことができたであろう。
      堀跡といえば、桜町の交差点を東西に横切る巨大な堀跡を忘れてはならない。今ではこの堀底を市電が走っており、それとはなかなか気付かないが、これが内町・外町を区切る堀筋であり、先程の南北に走る堀筋と、この東西に走る堀筋、そして南側西側を囲む海が、長崎を完全な環濠都市もしくは要塞都市として特徴づけていた。
      さて、桜町の交差点を北へ進めば、すぐ左手に勝山小学校、かつてサント・ドミンゴ教会の在ったところであり、その小学校を過ぎて左へ折れれば県立美術館=山のサンタ・マリア教会跡へ出る。この道をさらに美術館のところから左へ折れ西へ向かえば西勝寺、このあたりにスペイン商人アビラ・ヒロンが、確か住居していたはずである。彼はその後半生を長崎で暮し、後には『日本王国記』の名で知られる長大な日本見聞記を著わした。彼はその中で、このデウス号事件についても、事件当時長崎に在ったヨーロッパ人の一人として、イエズス会士の記録とはまた違った、公平な立場の記録を今に残している。
      それはさておき、さらに西へ西へと、約十五分近く歩くと、道の右手に、日蓮宗本蓮寺が現われる。ここが聖ラザロ・聖ヨハネバプテスタ教会の在ったところだ。さて、この本蓮寺墓地の階段を上へ上へと上り詰めると、立山の項上に着く。これがまた階段で頂上まで、ほぼ一直線に上って行くというのだからかなり疲れる。しかし、なにはともあれ、これで事件当時の長崎中心部の景観を大まかにたどってきたことになる。
      一汗かいたところで、ホテル長崎の展望喫茶で一息……。眼下に拡がる長崎の夕景を楽しみながら、その風景の中に、ふとデウス号の姿を想像してみた。

      戸町の入り江謎の三日間
      話を戻そう。この日、一月三日の夕刻、北西の風に吹き煽られ、デウス号はまだ港内にいた。乗員が足りない。その多くがまだ陸に足止めされている。ペッソアの呼びかけにもかかわらず、長崎港封鎖以前にデウス号に戻ってきた者は、「以前に乗船していた者とあわせて僅か五十人余り」(『一六一〇年長崎沖におけるマードレ・デ・デウス号焼き打ちに関する報告書』五野井隆 訳)にすぎない。しかも、風は北西からの逆風が吹き荒れており、潮も満潮に向かって港内へ流れ込んできている。逆潮だ。ペッソアにとってなすべきことは、装備を整え、ただ待つこと以外なかった。
      しかし、その間、有馬軍は六艘の安宅型軍船を中心に無数の小舟を動員し、デウス号を包み込むかのように布陣を完了していた。
      やがて……(イエズス会の記録では午後八時頃だというが)、潮が引き初めた。
      デウス号の錨が揚げられる。斜檣帆(スプリットスル)が風をはらんで船の方向を変える。上檣(トップ)に白い帆がはためき、やがて風をとらえるや、潮流を利用しながらゆるゆると風上へ間切りはじめた。
      「デウス号が逃げるぞ!」
      包囲軍から声があがった。攻撃が開始される。第一陣には、三十数艘の小舟が三方から押し寄せ、てんでにデウス号に向け弓や銃を打ちかけた。
      デウス号からは、大砲五門からなる片舷斉射でこれに応じた。
      ……轟音のあとの静寂にシャラメラ(古オーボエ)の音が響いた。有馬の第一次攻撃軍は、この砲撃のため四散し、ある者は小舟の破片につかまりながら、デウス号から響く、この人を小馬鹿にしたようなシャラメラの音を聞いた。
      この戦闘のあと、デウス号は有馬軍の小舟と北西からの季節風に悩まされながら、必死で外洋を目指すが、その日のうちには「戸町という同じ港の入江の中にある小さな町より先には出られなかった。」(『日本王国記』佐久間正・会田由 共訳)
      そればかりか、デウス号はこの戸町の沖合に錨を下ろしたまま、まる三日間、ついにピクリとも動こうとしなかった。
      なぜだろうか……。
      翌日、私はバスで戸町を訪れてみて、やっとその理由がわかったような気がした。
      戸町のバス停から十五分ばかり歩くと女神の台場跡に出る。この地点は、手前に女神鼻、その対岸に神崎鼻が突き出ており、湾はここでこの二つの端(はな)に挾まれ、ちょうど巾着(きんちゃく)のようにくびれている。さらにその先には香焼島(今では深堀との間が埋め立られ陸続きとなっている)が、湾を蓋するかのようにドッカと腰をおろしている。

       デウス号の航跡

      つまり、神崎鼻を過ぎ外洋に出ようとする船は、この香焼島を左右どちらかに迂回しなければならない。しかし、島の左側は浅瀬や岩礁が多く、大型船の通行は不可能である。とすれば、神崎鼻を過ぎた船は、この香焼島の手前で進路を大きく右に、つまり北西の方角に取る必要がある。
      記録によれば、デウス号が戸町に錨をおろしていた三日間、北西からの強風が吹き荒れ止むことがなかったという。そこでデウス号の進路を今一度地図上でたどってみると、神崎鼻のあたりまでは湾は西南の方角に開いており、この地点までは、北西風に対しても何とか間切りながら進んでくることができる。しかし、神崎鼻と女神鼻の狭い水路を通過したあたりから、先の述べたような理由で、船は大きく北西に進路を取らなければならない。要するに北西の強風にまともにぶつかっていくのである。軽快な現代のヨットでさえ、風上への切り上がり性能は四十五度が限界だという。C・R・ボクサー教授によれば、デウス号は積載量八百トンにおよぶ当時としてはかなりの大船である。
      しかもこの地点は、ねずみ鼻、高鉾島、神ノ島、四郎ヶ島、中ノ島、松島等々、数多くの島々が点在し、神崎鼻の先には三ツ瀬、唐人瀬などの浅瀬も待ち受けている。とても風上へ切り上がって進める状態ではなかったのである。
      このため、デウス号は神崎鼻の手前で、北西風がおさまるまで、まる三日間、待機することとなった。
      もちろん、この間も有馬軍の攻撃は止むことがない。追撃二日目の一月四日、春信は潜水夫を使いデウス号の錨綱を切らせようとした。しかし、ペッソアもこのことあるを予想し、船尾の鷹砲(ファルコン)を船首に移しており、これを使い潜水夫を次々と撃ち殺したのである。
      さらに三日目、春信は日の暮れるのを待ち、デウス号に火船を流しかけた。しかし、これも潮の流れが思うに任せず、ついには何ら得るところがなかった。『藤原有馬世譜』に言う。
      「翌九日(一月五日)、長崎浦の漁船数艘に焼草を積み、民家をこほち萱を積み、火を付、風上より黒船に流しかけしかとも、思う侭に流れかゝらず、たまたまなかれよるは、船より大筒を放ちしゆえ、この術も行われず」と。
      やがて一月六日(公現の祝日)、今まで吹き荒れていた風が、この日、嘘のようにピッタリと止んだ。ペッソアはこの機を逃さず、数隻の小舟をおろしデウス号を曳航させた。無風状態の中、八百トンに及ぶ大船を曵くのである。なまじのことではない。数少ない乗員の中からボートの漕ぎ手に人数を割き、必死の悪戦苦闘が繰り返された。
      そして、今、巨大なデウス号がズルズルと引きずられるようにして動きはじめた。まるで刑場へでも引かれていくかのように……。

      ナオ型帆船の船首と船尾火縄銃と火焔筒の戦い
      午前六時起床。ビジネスホテルの簡単な朝食を済ませると、私は大波止から神ノ島へ向かう連絡船に飛び乗った。客は私一人だった。海上に出ると、吹き付ける風が刺すように痛い。
      北西風だ……。
      三百七十年前、デウス号に吹きつけたのと同じ風が、今、私の体に吹きつけてくる。
      船室には入る気になれず、鼻水をすすりながら最後まで甲板で頑張った。船の乗務員が不思議そうな顔でこちらのほうを見ている。
      船はやがて神崎鼻を過ぎると進路を右手に取り、皇后島(ねずみ島)と高鉾島の間を抜け神ノ島に着いた。所要時間約二十分である。
      ところで、神ノ島は、昔、全島キリシタンの島であった。今もほとんどがカトリックの信徒であり、船着場から左へ入った高台には、ドミニコ会の教会が港を見下ろして建っている。その教会の真下、どんくの鼻と言われる岩山に、やはり海を見下ろして立つマリア像の姿が見られる。その台座には、

      「聖フランシスコ・ザベリオ渡来四百年記念
      昭和二十四年六月五日建立
            神ノ島カトリック教会信徒一同
                   上田 十蔵 作」

      の文字が刻まれている。
      さて、この地点どんくの鼻からの眺望であるが、まず東側に目をやれば高鉾島が左に、今は香焼島と一つになった蔭ノ尾が右に、その間に土井首町毛井首町あたりにかけての小山が顔をのぞかせている。また南側に目をやれば、四郎ヶ島が背後の中ノ島と重なり合って見え、その向こうに松島を見ることができる。
      デウス号は、このパノラマの中を、ゆっくりと小舟に曳かれながら、東から西へと移動していった。
      記録によれば、デウス号は、このあと順風を得てわずかの距離を帆送している。しかし、風はすぐに途絶えた。
      と、その時である。背後から漕ぎ寄せてくるものがある。
      それは、十五端帆の船を二艘もやい、デウス号の高さまで井楼を組み上げた楼船であった。
      楼船は、デウス号の船尾に漕ぎ寄せると、須磨留(スマル)と呼ばれる投げ鈎によってデウス号の自由を奪った。やがておびただしい数の小舟の群れが、デウス号に漕ぎ寄せその周囲を取り囲んだ。
      ところでエピソードがある。出撃にあたって日本の一切支丹武将は、「黒船(ナオ)が捕獲されないときは、すべてのパードレが死ぬこととなる。キリスト教も根絶やしとされることであろう。パードレたちの死ぬことのないように兵士が死ぬことは、すなわち殉教である」と、部下の切支丹たちの士気を鼓舞したという。事件の複雑な一面を垣間見たようでおもしろい。
      さて、戦闘は熾烈を極め、夜の八時ころから十一時ごろまで、ほぼ三時間余にわたって繰り広げられた。日本の楼船からは五百発以上の火縄銃が発射され、銃兵たちは互いに交代しながら井楼の最上段に登り降りを繰り返し、続けざまに銃を撃ちまくった。また小舟からも無数の火箭、火縄銃が次々と射かけられる。
      これに対しデウス号では火焔筒を投げかけ応戦する。これは鉛などの金属製容器に炸薬を詰め、導火線によって点火し敵船に投げ込むという、いわば手榴弾のはしりのようなものであろう。大砲は極端な至近戦のため用をなさない。しかし、この火焔筒がデウス号にとって命取りとなった。一ポルトガル人兵士が投げようとした火焔筒に、一発の弾丸が命中した。容器は火を吹いて兵士の足許に散り、甲板に並べてあった他の火焔筒を炎上させた。火は燃え広がり、ついに尾帆(ラテンセール)にまで燃え移った。人員は絶対数が不足している。消火の手がないまま、帆は燃え落ち、火薬の詰められていた大箱を爆発炎上させた。船尾は今や火ダルマとなって燃え上がっている。
      ペッソアは覚悟を決めた。彼は、神に「すべてがこれをもって終わることを赦しておられる主よ、讃美せられ給え」と祈ると、火薬庫に火を放つことを命じた。
      やがて……
      大音響とともに真っ赤な火柱が上がり、デウス号は艫が真っ二つに切断され、ついに三十三尋の海底へと沈んでいったのである。
      アビラ・ヒロンはこのとき「この都市全体がしばらくゆれたほどであった」と、その凄まじさを『日本王国記』に記している。

      香焼島ところで、今、私はどんくの鼻をはなれ、海岸づたいに四郎ヶ島へとやってきた。現在、四郎ヶ島は神ノ島と突堤で結ばれ徒歩で渡ることができる。しかし、この日、北西の風が強く、突堤を渡るとき危うく海へ吹き落されるところであった。それでも何とかこの四郎ヶ島へ立つことができた。恐らくデウス号沈没地点にもっとも近い陸地であろう。火を吹いて沈んでいくデウス号の姿も、ここへ来て初めておぼろげながらも想像できるようであった。 
      (中央公論「歴史と人物」昭和57年4月号掲載) 桐生敏明

      紙幣から消えていった古代史の主役たち No.3 藤原鎌足

      2010.04.18 Sunday

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        藤原鎌足_明治24年100円札 

        藤原鎌足肖像紙幣

        凹版彫刻者

        発行年

        種類

        備考

         キヨッソーネ  明治24年(1889)  改造兌換銀券100円  めがね札
         大山助一  明治33年(1900)  甲100円券  裏紫100円 札
         加藤倉吉  昭和6年(1931)  乙20円券  藤原20円札
         昭和17年(1942)  丁200円券  藤原200円札

        藤原鎌足については、上記4種類の紙幣が発行されている。
        鎌足の出自については、『藤氏家伝』は大和国高市郡藤原(現 奈良県橿原市)をとっているが、最近は、百済出身の豊璋(百済王子)こそが藤原鎌足という説をよく耳にする。最近観た韓国ドラマ「三国記」では、舒明天皇に嫁いだ宝皇女(後の皇極天皇)は百済最後の王・義慈王の妹であり、その臣下であるカンダルが大和に付き従って、彼が藤原鎌足となるという設定になっていた。いずれも荒唐無稽な話と一笑に付すことは出来ない気がする。

        藤原鎌足のモデルとなった松方正義それはさておき、この藤原鎌足像についても、その元をつくったのは、イタリア人凹版彫刻家キヨッソーネである。他の紙幣肖像と同じように、彼が、自分なりの鎌足像の原型をつくるに当たっては、まず文献によってイメージを想像し、それに合致するモデルを選定する。
        では鎌足像のモデルとなったのは誰か? 当時の大蔵卿「松方正義」その人である。キヨッソーネは、松方正義をモデルとしながら、精悍で意志の強い「藤原鎌足像」を日本の紙幣の中に定着させていった。
        藤原鎌足_紙幣肖像画比較

        以降、後に続く大山助一も、加藤倉吉も、このイメージを踏襲しているが、他の作品と同じように、二人の場合、キヨッソーネのイメージをより日本人的に消化していると言える。
        左上の「松方正義」氏の写真は、国立国会図書館ホームページ「日本人の肖像」から利用させていただいたが、利用に当たっては、原画が右向きであったものを、紙幣の肖像と比べてみるため、同じ左向きに修整させていただいたことをお断りしておく。
        いかがであろうか。モデルにしているのだから似ているのは、当たり前だが、イタリア人キヨッソーネが見事に「藤原鎌足像」を日本に定着させてしまった。先ほど紹介した韓国ドラマ「三国記」でも、アン・スンブン演じる鎌足像は、このキヨッソーネがつくりあげたイメージを参考にしているように思えるのだが……。

        藤原鎌足_明治33年甲100円札
        上は、大山助一描くところの明治33年発行の甲100円券。彼は紙幣寮からアメリカに留学し、アメリカン・バンクノート社や財務省証券印刷局で修業し、アメリカ式彫刻技法を日本に持ち込み、その肖像表現方式に革命をもたらしたという人物である。なかでも、この藤原鎌足肖像は、「ビュランだけによる直刻凹版主体であり、シャドー部分は太い線、ハイライト部分は細い線で表現し、点による大小はなく、明暗は点の間隔によって表現しており、とても力強い彫刻画線が特徴である。」(植村峻「お札の文化史」NTT出版)
        ※ちなみにビュラン凹版とは、burinという鑿(のみ)の一種で版面に直接切り込みをつくり、できた線にインキをつめ、プレスして印刷する彫刻凹版をいい、細く明確な線の表現が可能なのが特色なのだそうだ。
        藤原鎌足_昭和6年乙20円札
        また上は、加藤倉吉作の、昭和6年発行の乙20円券。この鎌足像は、紙幣のほか国債証書等にも使用されたものだが、その後、戦災による物資や人手不足により、戦時中の紙幣、国債等の証券類は簡易な凸版やオフセット印刷になり、肖像も以前に使われたものを写真製版して再利用することになった。
        昭和17年(1942)には、やはり加藤倉吉の「藤原鎌足」像と「段山神社拝殿」の丁200円券が大蔵省告示で制定されたが、すぐには発行されず将来のインフレに備えて日本銀行に死蔵されていた。終戦を迎え、発行されるにはされたが、新円切替に伴い、発行から一年も経たない1946年3月2日限りで失効したという。これ以降、「藤原鎌足」像が紙幣に採用されることはなかった。

        「棉」と「綿」 崑崙人を祀る神社!

        2010.04.17 Saturday

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          決して珍しい話ではないのだが、僕自身は新鮮な驚きを覚えた話がある。そこで、今日は「紙幣の肖像」の話はお休みにして、この驚きが褪めないうちに「天竹神社」のことをブログに書き残しておこうと思った。 天竹神社……これで「てんじくじんじゃ」と読む。日本で唯一、崑崙人を祀る神社だというが、実を言うと、この神社、初めて知ったわけではない。
          昔、三河安城で、「心を学ぶセミナー」に女房と二人で参加したことがある。女房の運転で、僕がナビゲータをつとめて車で会場のホテルへ向かったのだが、近くまで来て妙な行列に足止めを食った。聞けば、近くの神社の祭りで船みこしが奉納されるのだという。それが、この天竹神社の秋の大祭「船みこしの奉納」神事だった。毎年、10月の第4日曜日に行われるという。
          なぜ今更というと、知人が仕事で愛知へ行き、得意先から「棉祖神 天竹神社」のパンフレットをもらってきたのだ。それを「おまえは歴史に興味があるだろうから」と、土産ともども届けてくれた次第。確かに興味を引かれた。天皇や日本神話の神様を祀るのでなく、1200年前、この地に漂着した崑崙人を祀っているという。そもそも崑崙とはどこなんだ?という話になり、調べると、どうも中国西部の山岳少数民族を言うらしい。
          六国史の一つである「日本後紀」巻八 桓武天皇(延暦十八年七月−八月)の条には、次のような記載がある。

          「是月。有一人乘小船。漂着參河国。以布覆背。有犢鼻。不着袴。左肩著紺布。形似袈裟。年可廿。身長五尺五分。耳長三寸餘。言語不通。不知何国人。大唐人等見之。僉曰。崑崙人。後頗習中国語。自謂天竺人。常彈一弦琴。歌聲哀楚。閲其資物。有如草實者。謂之綿種。」
          面倒くさいので、大意を書くと、是の月というのは八月のことだが、三河の国に一人の男が小舟で漂着した。背を布で覆い、犢鼻(とくび=褌のようなもの)を用い、袴は着けていない。左肩に袈裟のような紺の布を着け、年齢は二十歳ぐらいだろうか。身長は五尺五寸と言うから167センチほどだろう。耳の長さは三寸余りと言うから九センチほどになるか……かなり長い。言葉は通ぜず、どこの国の者かわからない。大唐(中国)の人たちがこれを見て、みんなが「崑崙人」だと言う。後に熱心に中国語を習い自らを「天竺人」だと言った。常に一弦琴を携え弾き、その歌声は哀調を帯びている。その携え来る物の中に草の実のようなものがあったが、訊けば綿の種だと言う。

          これが我が国に綿が伝えられた最初だと言います。「天竹神社」のパンフレットに依れば、その後の崑崙人は、当地の川原寺に住居して棉花の栽培を村人に教え、大変親しまれたと言います。またその後、勅命により翌年には、紀伊、淡路、讃岐、伊予、土佐及び太宰府などの温暖な土地に種が蒔かれたと『類聚国史』の記述にはあります。その後、非常な勢いで増加し、これが在来棉の起源となったということです。
          この崑崙人は、各地に棉栽培を伝えたあと、僧侶となり近江の国分寺に入ったと伝えられています。村人たちは、日本の綿業の繁栄をもたらした崑崙人の徳を偲び、棉祖の神として川原寺から遷された地蔵堂に産土神として、この崑崙人を祀るようになりました。その後、明治16年5月24日、地蔵堂隣接地に「天竹社」として本社殿を建築し、絹の「波陀(はた)神」に対し、新しい棉の神ということで「新波陀(あらはた)神」として祀るようになったということです。
          以来、「天竹神社」では、棉を尊ぶ祭事として、毎年10月第4日曜日に古式ゆかしい綿打ちの儀式「棉祖祭」が開かれるようになりました。この日には、古式の道具を用いて棉を打つ儀式の他、崑崙人が小舟で漂着した故事にのっとって「船みこし」も奉納されるということです。

          このパンフレットのおかげで、日本で唯一「崑崙人」(実際には本人が天竺人と言っているのですからインド人なのでしょう?)を祀る神社の由来が分かりました。また10年以上も昔の話になりますが、セミナーに向かう道すがら見た「船みこし」の由来も分かったというものです。さらに「棉」と「綿」の違いも、このパンフレットから教えてもらいました。
          「実」を収穫して種を取り除いた段階までが「」。打ってほぐしたものが「綿」というように区別するそうです。

            ◇名称/天竹神社 (テンジクジンジャ)
            ◇所在地/〒445-0051 愛知県西尾市天竹町池田 
            ◇交通/福地駅から車で
            ◇創建年代/不詳
            ◇TEL/0563-56-2111

          紙幣から消えていった古代史の主役たち/武内宿禰の追補

          2010.04.16 Friday

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            明治32年発行の「甲5円券」

            武内宿禰肖像紙幣

            凹版彫刻者

            発行年

            種類

            備考

             キヨッソーネ  明治22年(1889)  改造兌換銀券1円  漢数字1円札
             細貝為次郎  明治32年(1899)  甲5円券  中央武内札
             大山助一  大正5年(1916)  丙5円券  大正武内札
             大正5年(1916)  改造1円券  アラビア数字1円
             加藤倉吉  昭和18年(1943)  い1円券  中央武内札

            細貝為次郎実は、「紙幣から消えていった古代史の主役たち No.2 武内宿禰 」をアップした後、判明したというか、漏らしていたというか、武内宿禰の肖像を使った紙幣がもう一種類存在した。上の表、赤字の箇所がそれに当たる。キヨッソーネの愛弟子で細貝為次郎(右写真)なる彫刻技師がいる。キヨッソーネ退職後、大蔵省印刷局を代表する彫刻技師となったが、この「甲5円札(中央武内札)」を明治32年に発行後、まもなく病を得て退官した。キヨッソーネの「右配置、左向き」のレイアウト原則は、その愛弟子、細貝為次郎によって破られていたことになる。

            ※以上、重要な欠落があったことをお詫びし、細貝為次郎の「中央武内札」を追加させていただく。

            紙幣から消えていった古代史の主役たち No.2 武内宿禰

            2010.04.15 Thursday

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              武内宿禰肖像(明治22年発行)
               明治22年(1889)発行の改造兌換券1円札 肖像画の凹版彫刻者はキヨッソーネ
               

              武内宿禰肖像紙幣

              凹版彫刻者

              発行年

              種類

              備考

               キヨッソーネ  明治22年(1889)  改造兌換銀券1円  漢数字1円札
               大山助一  大正5年(1916)  丙5円券  大正武内札
               大正5年(1916)  改造1円券  アラビア数字1円
               加藤倉吉  昭和18年(1943)  い1円券  中央武内札

                    ※ 刷朝陽会発行『日本紙幣の凹版彫刻者たち』資料から作成

              武内宿禰像 比較明治20年頃、お札に使われる人物の肖像は、「帝王、大統領、宰相または国家有効顕著な者」であって、「人民をして愛敬心を生じさせる者」でなければならないとされ、閣議請議「兌換銀行券人物描出の件」で具体的な方針が決められた。この閣議でお札の肖像にふさわしいとされた7人の人物は、
               1、日本武尊
               2、武内宿禰
               3、藤原鎌足
               4、聖徳太子
               5、和気清麻呂
               6、坂上田村麻呂
               7、菅原道真
              と、いずれも天皇の家臣として活躍した人達で、「本邦上古から洪勲偉績があり、万古にわたって一般大衆の愛敬心が浅くはない」と、その選定理由があげられている。この7人のうち、坂上田村麻呂は、ついに紙幣の肖像として取り上げられることはなかった。その理由については不明。また、この決議では、前回紹介した「神功皇后」についても紙幣にふさわしい人物として挙がることはなく、以降、平成16年(2004)発行の5000円札(樋口一葉)に至るまで、女性が紙幣の肖像画になることはなかった。これについては、女性の顔が、偽造防止に利用される髭や顔の皺がすくないため版を起こすのに手間であるとか、凹版彫刻では、女性の柔らかな線を出すのが難しいなどの理由があげられている。

              さて、いよいよ「武内宿禰」について見ていこう。「天皇の家臣として活躍した」ということになると、この人の右に出る者は、まずいないであろう。なにせ、景行、成務、仲哀、応神、仁徳と、5代の天皇に棟梁之臣・大臣として仕え紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏など中央諸豪族の祖と言われる伝説的な人物である。景行天皇の治世が1世紀後半で、仁徳天皇の治世が4世紀中葉だから、ほぼ3世紀にわたって天皇を補佐したことになる。まさに化け物的存在である。
              神功皇后と同じく実在を疑う向きもあるが、最近は、日本国家誕生のフィクサーとして実在説が浮上し、仲哀天皇亡き後、神功皇后の実質的な夫として、応神天皇の父親にあたるのではないかとの説も出ている。
              そのことはさておき、紙幣の肖像にするにあたっては、「神功皇后」と同じく、大蔵省印刷局主任彫刻官キヨッソーネが、まず手を付けている。写実を心がけるキヨッソーネとしては、まず関係文献を収集し、どのような人物であったかを想像したうえで、その想像に似通ったモデルを使ってデッサンするという方法をとっている。では「武内宿禰」のモデルは誰かということになるが、「ひげの豊かな神田明神の神官」(「日本紙幣の凹版彫刻者たち」)という説もあるが、実は大蔵省印刷局の同僚「佐田清次印刷部長である」(「お札の文化史」)との説もある。

              紙幣としての「武内宿禰」は、冒頭の一覧表にあるように、各時代の凹版彫刻者が手がけており、いずれもキヨッソーネの作品がベースになっている。ただ、大正5年、この紙幣の記号番号表示を和数字から洋数字に改めるに際し、彫刻者・大山助一は、宿禰の表情が「外国人の老人のようであった」のを日本人らしく彫刻し直したという。キヨッソーネ版では、「目が窪み鼻筋が高く彫られているため、西洋の老人のように見える」。これに対し、大山助一版では、「目の凹みを少なくし、鼻を低く改め、頬の彫刻画線を改め」て、日本の老人らしく見えるようにしたという(左上に掲載した「明治22年」と「大正5年」発行の比較写真を参照)。
              武内宿禰肖像(昭和18年発行)
              武内宿禰 所応和18年部分さて
              最後の加藤倉吉の彫刻になる昭和18年発行の「い1円札」であるが、今までのものと大きく違う点がある。従来、紙幣の肖像画は「右配置、左向き」という原則がある。理由は不明だが、キヨッソーネがこのレイアウトを採用して以来、これが原則化したものだろうと言われている。
              ところが、この加藤倉吉版では、左向きの原則は踏襲されているが、右配置の原則は中央配置に変えられている。理由は不明。
              このほか、印刷方式が凹版から凸版に変えられている。その理由を『日本紙幣の凹版彫刻者たち』は、「戦争の激化に伴い、物資の不足や占領地の拡大に伴う軍票等の製造に追われた政府は、紙幣の用紙や印刷などの製造技法を簡略化し、1円券は凸版方式で印刷することになった。そのため、肖像の原板は凹版方式で彫刻され、これを凸版版面に直した武内宿禰の肖像が使われた」と、戦争による影響を述べている。
              そればかりではない。加藤倉吉版「武内宿禰」の肖像は、戦後も受難が続く。
              上部の一覧表にはあげていないが、「武内宿禰」が肖像として採用された「い500円札」が、昭和20年に発行を予定されていたのである。
              この辺の事情を、少し長くなるが、『お札の文化史』から引用しておくことにしよう。

              「第二次大戦の戦争末期から終戦直後にかけて、戦時インフレに対抗するために『非常時用券』の準備がなされ、そのうち粗末なオフセット刷りの『ろ十円券』と『ろ百円券』だけが発行された。また、同時に発行を準備していた『は十円券』、『い五百円券』、『い千円券』は昭和二十年九月から十一月にかけて製造が始まり、それぞれ二六〇〇万枚、二四〇〇万枚、四四〇万枚が印刷された。しかし、たまたま紙幣印刷工場を視察した大蔵大臣がこれらの印刷中のお札を眺め、あまりにも貧弱なお札であったため、かえってインフレ心理を煽り、日本の国力の衰退を大衆に印象づける恐れがあると判断し、その告示と発行をとり止めたのである。
              途中で製造中止となった準備中の『い五百円券』は、戦争の苦労で疲れたような表情の武内宿禰の肖像が描かれ、表面の肖像や主な図柄と地模様をオフセットの二色刷り、裏面はオフセットの一色刷りで印刷したにすぎず、しかも記号だけで番号は省略され、用紙は桐の紋様の白すかしの貧弱なもので、とてもお札とは考えられないような代物であった。また、日本武尊と建部神社の図柄を描いた『い千円券』も同様に簡易印刷であった。当時はすでに高額のお札にも、みつまた日本特有の三極の繊維を使わず、原料を木材パルプに替え、簡単な白すかしの模様となっていた。また、印刷も手間のかかる凹版印刷は中断し、簡便なオフセット印刷に変え、しかも色数を極端に減らした暫定緊急措置のお札で、版面もほかの証券から流用したものであった。このような粗末なお札では偽造券が発生しやすいが、当時は統制経済であったほか、極端な物資不足で用紙やインキも手に入らず、印刷機もほとんどない状態であり、贋札も出ないほど日本国中が極端な窮乏状態であった。」

              この発行停止後、「武内宿禰」の肖像は、二度と紙幣に登場することはなかった。日本古代史を動かした巨魁も、戦後の物資窮乏の前に、あっけなく討ち死にというところか。

              ※参考文献 植村峻著『お札の文化史』(NTT出版発行)
               お札と切手の博物館編『日本紙幣の凹版彫刻者たち』(印刷朝陽会発行)

               


               

               


               

              ◇ご案内

               

               

              「あなたの知らない奈良のかつらぎさん ―かつらぎガイドブック―」

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              2018年12月20日、この本の出版協力者の呼びかけが、クラウドファンディングでスタートしました。
              書店が良心的な「少部数出版物」と「読者」との出会いの場所でなくなった今、「本」と「読者」を結ぶ新しい試みだと思います。ぜひ、内容をご確認の上、ご協力をお願いいたします。

               

                協力の内容 1口 2,500円には

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                が含まれています。


              ご申し込みいただいた方は、上記タイトルの本を1冊送らせていただくほか、この「本」の巻末に「応募者の氏名と都道府県名」を、出版協力者として掲載させていただきます。例:「山田太郎 大阪府」「山本花子 奈良県」


              https://readyfor.jp/projects/katsuragi 

               

              表紙は、大阪芸術大学デザイン学科3回生 津村凪咲さん提供のものに決定しましたが、細部は変更になる可能性があります。

               

              紙幣から消えていった古代史の主役たち No.1 神功皇后

              2010.04.14 Wednesday

              0
                明治14年発行の「改造紙幣」1円券
                 明治14年発行の「改造紙幣」1円券 神功皇后の肖像が西洋人のように見える↑
                明治16年発行の「改造紙幣」10円券
                明治16年発行の「改造紙幣」10円券 顔立ちが日本人らしくやや改造されている↑

                神功皇后の肖像とそのモデルとなった印刷局女子職員斑鳩文化協議会主催「日本人は、なぜ、聖徳太子に魅かれるのか Part2」の第一回講座の中で、現行紙幣の肖像画の中から聖徳太子が消されてしまった話題がでた。そういえば聖徳太子ばかりでなく、日本の歴史を飾ったたくさんの人物が、ある時代の紙幣の顔として登場しては消えていった。
                そこで、今、僕が興味を持っている古代史に絞り、どんな人物が、紙幣の顔として登場し、消えていったのか、一度調べてみようと思い立った。幸い手許には、植村峻さんの「お札の文化史」(NTT出版発行)と、お札と切手の博物館編「日本紙幣の凹版彫刻者たち」(印刷朝陽会発行)という大変好都合な資料がある。この二つの資料とネットで拾った様々な情報をもとに、紙幣から消えていった古代史の主役たちを追いかけてみることにした。

                まず第一回は、架空の人物と歴史から抹消されながら、最近、またもやその実在が浮上してきた、まさに日本古代史上の「浮沈空母」とも言える「神功皇后」をとりあげてみよう。
                その前に、紙幣の図案に、なぜ人の顔が取り上げられるのかご存知だろうか。僕も偉そうなことは言えず、このことを調べてみようと思って、まず第一に浮かんだ疑問だった。
                植村俊さんの「お札の文化史」によると、一般に肖像が描かれる理由は、大きく三つあるという。まずは偽造防止対策。植村さんは言う。

                「第一は、偽造防止対策上の理由からである。紙幣の図柄にはいろいろな偽造防止対策が施されているが、その中で最も効果的なものが肖像である。
                紙幣の図柄において使われている偽造防止対策の例としては、複雑でこみいった唐草模様、機械彫刻による細かい複雑な凹版彩紋模様、色違いの複雑なカゴメ状の地紋模様、細い平行線の万線模様、色が次第に変化するレインボー模様、特殊な書体の記号と番号、複雑な国家または銀行の紋章、微細なマイクロ文字、動物、建物、風景、花、表裏刷合わせ模様の図柄、人間の肖像など盛りだくさんである。
                その中でも肖像は、最も効果的であるとされている。人間はつね日頃から、よく似た容貌でも見分けるように訓練されている。同じ人間でも、体調が不良だとすぐわかるなど、無意識のうちに優れた識別能力を備えている。したがって紙幣の図柄が本物に比べて若干でも異なっていると、おかしいと感じる。肖像以外の建物、風景、動物等だと、無意識のうちに大雑把に眺めているため、若干画線が違っていてもわからないのである。
                最近の銀行券は、偽造防止の観点から肖像を大型化し、その肖像を細かい線や点で緻密に描き、人々がいやおうなしに肖像に注目するように工夫しており、もし一本の線でも異なると、おかしいと感じるのである。(中略)
                第二は、デザイン上の理由からである。紙幣をひとつの美術作品として考えると、券面を引き締めるポイントとして肖像が不可欠である。美的感覚からも券面の中心となる大きな肖像が必要である。細かいごてごてした図柄だけでは画面構成が散漫になり、かえって偽造防止効果が薄れる。
                われわれはつね日頃から肖像入りの銀行券を見慣れているため、あまり肖像の意義を意識していない。しかし肖像なしの銀行券を眺めると、極めて物足りない感じがする。たとえば、戦後発行の肖像のない国会議事堂の図柄の『A拾円券』、彩紋模様の『A五円券』、昭和二年の金融恐慌時に発行した裏白の『二百円券』、さらに外国の肖像のない銀行券を眺めると、容易にそれがわかる。
                第三は、人々に親近感をもたせるという理由からである。紙幣にはその国を代表する国王、政治家、文化人、有名人等を描いているが、これは、その国民に肖像の人物の業績を再認識させ、親近感をもたせるためである。そのためには、ある程度、国民の間にその人物の業績等についての評価が定まり、コンセンサスが得られるような教科書に出てくるような人物、国民によく顔を知られた人物がよいことになる。」

                日本最初の近代的紙幣そこで、いよいよ神功皇后の肖像紙幣に話をもっていこう。
                神功皇后の肖像が掲げられた壱円札(明治14年発行 一番上の写真)は、近代的な紙幣として、初めて肖像が採用された紙幣となる。ちなみに日本で近代的紙幣の第一号は、「水兵札」と呼ばれる明治10年発行の壱円札(右上の写真)。第二号が「鍛冶屋札」と呼ばれる明治11年発行の五円札(右下の写真)。そして第三号が「神功皇后」の肖像が印刷された「神功皇后壱円札」となるわけである。
                このように肖像画が採用されるようになった第一号に「神功皇后」が採用されたわけだが、その経緯を「お札の文化史」から紹介してく。
                「明治から今日まで多く九〇種類ものお札が発行され、そのうち四六種類のお札に肖像が登場しているが、それは圧倒的に男性優位である。
                唯一の例外の女性像は、明治十四年から十六年までに発行された改造紙幣一円、五円、十円券に共通の肖像である神功皇后であり、しかもこの改造紙幣は近代的なお札として、初めて肖像を採用したお札であった。もっとも当時、女性を肖像に採用するという方針から神功皇后を肖像に選定したのではなく、明治天皇の身代わりとして選ばれたものであった。国立公文書館に保存されている資料では、当初、明治天皇の肖像を使う予定であったが、天皇自らの指示により、その代わりとして選ばれたものである。当時の資料によると、その昔、神功皇后の時代に朝鮮半島から初めてお金というものを受け取り、神功皇后が初めてその価値を知った人物であり、お金に縁があるという理由から選定されたものとなっているが、むしろ『古事記』、『日本書紀』の記述によれば強力な摂政として天皇制を支えた女傑であったため、天皇の代わりの人物として採用されたのであろう。」

                ところで、この紙幣の肖像画であるが、「毛彫り」というヨーロッパ式彫刻技法が採用されており、この技法を日本に伝授したのが、お雇い外国人である「エドアルド・キヨッソーネ」であった。
                「キヨッソーネは1833年イタリア・ジェノバの近郊アレンツァーノに生まれ、ジェノバの美術学校を優秀な成績で卒業後、イタリア国内で多くの優れた銅版画を制作、発表するなど、銅版彫刻師として活躍、若くしてアカデミア会員となった。
                その後1868年には、イタリア王国国立銀行が近代的な紙幣印刷工場の創設を実行するための要員として、キヨッソーネは嘱託員に採用され、多くの技術者とともに紙幣製造技術の優れたドイツ・フランクフルトのドンドルフ・ナウマン印刷会社に派遣された。
                ドンドルフ・ナウマン社で日本の新紙幣「ゲルマン紙幣」の図柄を彫刻したことが縁で、明治7年(1874)、41歳で大蔵省紙幣寮にお雇外国人彫刻師として雇用された。
                明治8年から24年まで17年間、キヨッソーネは明治新政府が近代国家確立のために必要とした全ての紙幣、銀行券の肖像彫刻を手がけたほか、公債証書、印紙、切手、その他の多くの証券類の凹版彫刻を担当した。
                そのほか、優れた肖像描写の特技を生かして、印刷局在職中に明治天皇をはじめ多くの元勲たちの肖像コンテ画、銅版画を制作し、明治初期の宮廷画家としての役割も果たした。明治24年(1891)には印刷局を退職し年金生活に入ったが、退職後にも明治天皇の御軍装の銅版画や元勲たちの肖像コンテ画を描いた。その後病を得て、鎌倉等で静養をしていたが、明治31年65歳で逝去し、東京青山の外人墓地に埋葬された。」(お札と切手の博物館編「日本紙幣の凹版彫刻者たち」印刷朝陽会発行)

                神功皇后の肖像画を彫刻したのも、もちろんキヨッソーネなのだが、彼は徹底した写実主義を採用し、このため彼の作品の多くは、モデルや写真が多用された。神功皇后の肖像画を彫刻するに当たっては、「日本書紀」などの文献を参考にしながら、印刷局(現 国立印刷局)の美人女子職員をモデルに使い(写真)、聡明で高貴な雰囲気を出すことが心がけられたという。ただし明治14年に最初に出された1円札は、どこか西洋人のような雰囲気が漂っている。その後、明治16年に出された10円札では、この点が改良され、幾分、日本人らしい肖像画となっているのが見て取れる。
                このようにして制作された「神功皇后札」だが、明治14年〜明治16年まで「一円札」「五円札」「十円札」として発行され、その後、「神功皇后」が紙幣の肖像として登場することは二度となかった。

                次回、「紙幣から消えていった古代史の主役たち」は、神功皇后の補佐役として活躍した「武内宿禰(たけのうちすくね)」を取り上げる予定です。

                「日本人は、なぜ、聖徳太子に魅かれるのか」第一回講座を聴講

                2010.04.11 Sunday

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                  斑鳩文化ホール「聖徳太子に、なぜ、魅かれるのか」Part2昨日、斑鳩文化協議会主催「日本人は、なぜ、聖徳太子に魅かれるのか Part2」(全6回講座)の第一回目の講座を聴講してきた。会場は「いかるが文化ホール」(斑鳩町興留10-6-43)。僕の住む広陵町からは自転車で約30分、大和川にかかる新御幸大橋を渡ってすぐのところだ。
                  ホールには開場の15分前に着いたが、すでに長い行列が出来ていた(写真)。

                  第一回講座は「聖徳太子信仰の変遷−法隆寺を中心として−」、講師は法隆寺長老の高田良信さん。実のところ僧侶の方はあまり好きではない。できれば遠慮したいところなのですが、日本の古代史に触れようとすれば、少なくとも神社・仏閣を嫌っていては一歩も前へ進めません。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とか、進むしかなかろうと意を決してやってきた次第。しかし講話を聞いていて思ったのは、高田さんは僧侶と言うよりも学者、それも歴史学者としては一級品。しかもお仕事がらだろうか話が滅法面白いのです。
                  まず面食らったのは、高田さんが「獅子狩紋錦」の袈裟を着用して登壇されたこと。法隆寺に伝わる「獅子狩紋錦」は有名ですが、実は僕の4月2日のブログ『弓矢の羽根はなぜ3枚か?』で、まさにこの「獅子狩紋」について掲載したところだったのです。そんなわけで、氏が「獅子狩紋錦」の袈裟を着用されて現れたことにまず驚かされてしまったという次第です。
                  講話の中では、最近放映された「大仏開眼」の吉備真備の「獅子狩紋」の装束にも言及され、「時代的にどうか?」という発言もされておられました。

                  いきなり話が余談になってしまいましたが、本論は、聖徳太子の死後、いかに太子が神格化され庶民信仰の対象となっていったか、また太子信仰が、時代により、地域により多様化していった様子を興味つきないエピソードをまじえながら話され、あっという間の2時間が過ぎていきました。
                  中でも興味深かったのは、聖徳太子一族の滅亡、つまり山背大兄王一族が蘇我入鹿に攻め滅ぼされた際の話です。
                  巨勢徳多(こぜのとこた)が蘇我入鹿の命で斑鳩宮を急襲したとき、山背大兄王は馬の骨を屋敷内に置き、宮を焼き払ったうえで吉野に逃げたといいます。徳多は、その馬の骨によって山背大兄王の死を確認し引き上げたというのですが、高田さんは「いくら何でも馬の骨を人間の骨と間違えるだろうか」と述べられます。僕も疑問に思っていたところで、まさに「どこの馬の骨」とも分からないものを「山背大兄王」の遺骨と間違うわけはないだろう、そう思っていました。氏はそれを「徳多が、蘇我氏側にありながらも山背大兄王に心を寄せていたのではないか」と推測されました。また、「あまり知られていない話ですが」とことわった上で、平安前期に書かれた「聖徳太子伝補闕記(ほけつき)」に、山背大兄王を襲った軍勢の中に「軽皇子(かるのみこ)」、後の「孝徳天皇」がいたことを指摘されます。
                  その後、山背大兄王は斑鳩に戻り一族すべてが自決するにいたりますが、その場所が、今の五重塔の辺りではなかったかと述べられ、その根拠として、この五重塔が、別名「現身往生の塔」と呼ばれているということを指摘されます。さらに孝徳天皇が、643年、太子一族の墓とされる御廟山古墳の麓に龍田神社を移した事実をあげ、さらに巨勢徳多をして再建なった法隆寺に「食封(じきふう)」を奉納された事実も紹介され、これらが孝徳天皇の太子一族に対する贖罪の行いではなかったかと述べられます。その際、巨勢徳多を使いにしたのも、彼が山背大兄王に心を寄せていた(内通していた)傍証と考えておられます。

                  このほか、法隆寺金堂の「釈迦三尊像の光背」の銘文や、中宮寺の「天寿国曼荼羅繍帳」の銘文、いずれも太子の死を悼んだものですが、これら銘文が太子への思いをありのままに表しているとされ、「日本書紀」に表れた太子への思いは、あまりにも神格化されているとして、ここから太子信仰がスタートするとも述べておられました。
                  このほかにも興味尽きない脱線話が数多くあったのですが、あげていたら切りがありませんので、最後に、開会の挨拶の際、斑鳩文化協議会会長・亀井龍彦さん(写真)が面白い企画を述べておられましたので、この企画を紹介して、この項を終わることにいたします。

                  「日本人は、なぜ、聖徳太子に魅かれるのか Part2」、これからの予定は、各月第2日曜日の14時から次のような内容で展開しますが、

                  5月講座「聖徳太子の斑鳩宮」−理想郷の夢−
                    国際日本文化研究センター名誉教授・奈良県立図書情報館長 千 田 稔
                  6月講座「再建法隆寺と資財帳」−古代の法隆寺金堂−
                    奈良大学 文学部教授 東 野 治 之
                  7月講座「推古朝から天文観測」−古代の日本天文学−
                    国立天文台 特別客員研究員 谷 川 清 隆 
                  8月講座「推古朝の国際交流」−倭国と東アジア−
                    東洋大学 文学部教授 森 公章

                  最後の9月講座は、「私の聖徳太子像」と題して受講者の発表時間が設けられます。
                  4〜5名の方が、約10分間(2000字)程度の発表をし、それに対し、国際日本文化研究センター名誉教授の千田稔氏がコメントし、ディスカッションしていくという、なかなか面白い企画になっています。発表希望者は、5月講座の際、発表内容のあらましを事務局に提出する必要があります。それによって発表者が決められるようですが、参加資格は受講会員となっていますので、我と思わん方は、講座を受講され申し込まれたらいかがでしょうか。

                  http://www4.kcn.ne.jp/~ikaru-i/spot10/nikonikozyuku10.html

                  「方丈記」/平家滅亡と天変地異 Vol.2

                  2010.04.07 Wednesday

                  0

                    治承の辻風

                    治承の辻風
                    また治承四年卯月(四月)のころ、中御門通りと京極通りの交わるあたりより、大きな辻風がおこり、六条あたりまで吹きぬけるようなことがありました。三四町も吹きまくる間に、大きな家も、小さな家も、一つとして壊れないものはなかった。ぺしゃんこに倒れたものもあり、桁、柱ばかり残ったものもあった。門が四五町も吹き飛ばされたものもあれば、垣が吹き飛ばされ、隣と一つになったものもある。家のうちの資材など、その多くが宙に舞い、檜皮(ひはだ)、葺板のたぐいも、まるで冬の木の葉が風に乱れるようであった。塵が煙のように吹き上げられ、目も開けられず、その鳴り響く音の凄じさに、もの言う声も聞こえない。彼の地獄の業の風なりとも、このようにひどくはないであろうと思われるばかりだ。建物ばかりでない。身を損ないカタワとなった人も数を知らない。
                    この風は、やがて未(南西)の方角へと移り、また多くの人を嘆かせることとなった。辻風は常に吹く物ではあるが、このようなことが今までにあっただろうか。ただごととは思われず、何かの警告ではないだろうかといぶかしがるばかりだ。(意訳)

                    長明はこのように異変を語っていますが、別の記録により補足すれば、これは四月二十九日午前四時頃のことであって、同じ頃、七条高倉あたりの人家には雷が落ち、白川方面では雹が降ったと言われています。陰陽寮では、さっそくその吉凶を調べ、朝廷に対し凶事であることが報告されました。
                    そして、この一ケ月後(六月二日)、焼けつくような炎天下、神戸福原への遷都が断行されたのです。


                    再び京都へ
                    あの異変以来でしょうか、長く雨が降っておりません。
                    それでも九月も後半に入り、うだるような暑さも何とかおさまりを見せはじめた九月二十二日、乾き切った福原の道を、砂ぼこりを巻き立てて平維盛率いる遠征軍が東国を目指して出発していきました。源頼朝挙兵の報が入ったのです。
                    しかし、源頼朝追討の宣旨が下ったのが九月五日、すでに二週間以上が過ぎています。あまりにも遅い対応と言えるでしょう。実は、長途の遠征にもかかわらず、この大軍を維持する兵糧が不足していたのです。収穫期を迎えても、農産物は旱魃のため全く収穫がなく、史上稀な凶作となったのです。
                    これに反し、源氏の根拠地である東日本では、「旱魃に不作なし」で、逆にこうした年こそ豊作となったということで、頼朝は、まさに、この東の豊作、西の凶作を背景に平家打倒の兵を起こしたとも言えるでしょう。
                    この差はたちまち現れました。平家側の意気は全く上がらず、脱走兵さえ出る始末で、十月二十日、富士川をはさんで対陣したときには、源氏側五万余騎の大軍に対し、平家側はわずか四千騎というありさまでした。このような状況を背景に、平家側が水鳥の音に狼狽し、戦わずして敗走するという、あの「富士川合戦」の屈辱が発生したということです。
                    そして、平家が富士川の合戦に敗れた翌月、平清盛は都を京都へ戻すべく、天皇に許しを乞いました。十一月二十二日のことです。あわただしく還都の準備が進められ、陸路と海路の両方から京を目指すことになりました。ところが、還都は寒風吹きすさぶなか行われ、福原を出港した多くの船が難破することになり、平家はまさに満身創痍のありさまで、十一月二十六日、京の都に帰り着いたのです。福原に都があったのは、六月二日の遷都以来、実に五ヶ月と二十日間という短い期間のことでした。


                    京の都
                    こうして再び都に返り咲いた京都ですが、繰り返される大火や気象異変、そして大飢饉のため、実に無残な状態になっておりました。
                    ここで話を進める前に、この頃の京の状態を大まかに見ておくことにしましょう。
                    平安京は、もともと南北に貫通する幅約八十五メートルの朱雀大路を中心軸にして東側に左京、西側に右京の二つの「京」よりなっておりました。左京・右京は、それぞれ条坊制というシステムによって、ブロックごとに区切られ、このブロックごとに区切るシステムの根幹となったのが大路小路であり、東西に走る大路は十三、小路は二十六、南北に通貫する大路十一、小路は二十二に達し、この大路には、すでに述べた約八十五メートル級の朱雀大路、続いて約五十メートル級の二条大路、さらに約三十六メートル級、約三十メートル級、最小でも約二十四メートル級のものが存在していたと言われます。
                    さて、左京・右京ですが、それぞれは中国の首都の名を取り、左京が「洛陽城」、右京が「長安城」と称されていたのですが、平安時代もこの頃になると、右京の衰退がはなはだしく、「東西二京を歴見するに、西京(左京)稀にして、殆んど幽墟に幾(ちか)し」(「池亭記(ちていき)」)という状況になっておりました。このため、平安京の呼称にも変化が現われ、左京の唐風ニックネームであった「洛陽」が堂々と使用されるようになり、「京」と「洛陽」の合成語「京洛」「京師」などの呼称が使われ、「洛中」「洛外」という言棄によって区分されるようになってきました。「洛中」はいうまでもなく、かつての左京を中心にした都市域部分を指し、「洛外」は、その外側、鴨川以東、および末雀大路(現千本通)以西、一条大路以北、九条大路以南ということになります。なお「京」という呼び名が一般的になるのもこの頃のことです。
                    今、右京の衰退ぶりを述べましたが、中心部である左京にしたところで、この頃には荒れるに任せ、朱雀大路の南、都へのメインゲートであった羅城門(今の東寺近辺)もこの頃には礎石しかなく、朱雀大路の終点である大極殿も安元の大火に焼失し、大路の両側に植えられた青柳も炎に炙られたまま無残な姿をさらし、その衰退ぶりを語っておりました。
                    その荒れた朱雀大路を、平家に反旗をひるがえした南都諸大寺を討つべく、平重衡率いる討伐軍が奈良を目指して出発していきました。こうして治承の年は、東大寺、興福寺の焼き打ちという血生臭い事件によって締めくくられたのです。十二月二十八日のことです。
                    明けて閏二月七日、平清盛が病死しました。

                    さて、この頃になると、飢饉の状況もひときわ深刻さを帯び、都のあちらこちらにも餓死者の姿が頻繁に見かけられるようになっておりました。あまつさえ、東国の合戦のため、京都への物資は途絶えがちになり、ますますその勢いに拍車を掛けることになります。
                    この年七月、元号が「養和」と改元されました。

                    餓鬼草紙と地獄草紙

                    養和の飢饉

                    方丈記は、この飢饉の模様を次のように述べています。

                    また、養和のころでしょうか。二年間というもの、世の中は飢饉のため悲惨な様相を呈しておりました。
                    春、夏、雨が全く降らなかったと思うと、秋には大風や洪水など、よくないことが打ち続き、五穀はことごとく稔らず、春に耕し、夏に植える営みも空しく、秋の収穫はまったく望めないありさまです。このため民は郷(くに)を逃げだし、あるいは家を捨てて山に住まいするありさま。さまざまの祈祷、さまざまな方法が行われましたが、よくなる兆しとてありません。
                    京に住む者にとっては、何ごとにつけても、田舎こそが頼みだというのに、絶えて上るものなければ、いつまでも平気な顔でいられるものでもありません。念じるような思いで、さまざまの財物を捨てるような値で食べ物に換えようとしますが、それとて顧みる人もなく、たまたま交換しようとする者も、金(こがね)を軽くし、粟を重くするありさま。都は今や、路には乞食があふれ、憂へ悲しむ声がそこかしこに充ち満ちております。
                    前の年は、このようにして辛うじて暮れました。あくる年には立ち直るかと思っておりましたが、あまつさへ疫病まで発生し、よくなるどころか、その惨状は目も当てられません。
                    世の人びとは、ただ飢え死ぬのを待つばかり。かと思うと、笠を着け、よい身なりをした者が、足を引きひき、ひたすら家ごとに乞い歩くありさまです。
                    また道には、惚けたような人々が、歩くかと見れば、すなはち倒れ、そのまま死んでまいります。このようにして築地や道のほとりには飢え死んだ人々が捨て置かれ、数も知れぬありさま。取り片づける者とてなく、都には死臭が充ち満ち、屍の変りゆくさまは目も当てられず、まして河原などは、馬車の行き交う道もないありさまです。(意訳)

                    鎌倉時代の後期に編纂された歴史書『百錬抄』(おそらく当時の貴族たちの記録を総合したものだと思われます)には、この養和の飢饉で、僧綱や有官の輩にも餓死する者が多く、「諸院の蔵人と称する輩」までが「多く以って餓死す」と、役人の中にまで餓死する者が多かったことをあげています。また、当時の京の様子を「近日嬰児を道路に棄つ。死骸は街衢(がいく)に満ち、夜々強盗あり、所々に放火あり」と、京の都が無法化しまさに百鬼夜行の世界が現出したことを語っております。


                    仁和寺仁和寺の僧、隆暁
                    そんな京の都を徘徊する異様な僧侶たちがおりました。鼻と口を布で覆い、屍を見つけては、のぞき込むように、その額に何やら文字を書いております。その横では別の僧が、その数を記しているのでしょうか、何やら記帳している様子であり、こんな組み合わせが、都のあちらこちらに出没しておりました。
                    彼らは、隆暁の呼びかけに立ち上がった仁和寺の僧侶たちであり、飢餓や疫病に死んでいく人々を哀れみ、せめてもの供養にと、屍の額に凡字の「阿」字を記し、仏と死者との結縁を取り持とうとしたのです。
                    次に「方丈記」のその下りを、意訳せず、そのまま掲載させていただきます。

                    仁和寺の隆暁法印といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬるる事を悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四五両月を数えたりければ、京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬるもの多く、又河原、白河、西の京もろもろの返地などを加へていはば、際限もあるべからず。

                    「阿」字ところで、「阿」字(左図参照)というのは、サンスクリットのアルファベットに相当する第一字母で、「阿」は梵字の音写であり、人生を含めたあらゆる事象を梵字の「阿」字に収め、あらゆるものがそれ自体において絶対であり、本来、生滅のないものであるとするもので、ことに密教僧たちは、万有一切を「阿」字であると感ずる観想によって仏の世界を知ろうとしたのです。
                    隆暁ら仁和寺の僧たちは、京の通りに散らばる屍の一つひとつの額に、この「阿」字を記し、死者と仏との結縁をはかろうとしたのです。
                    ところで、隆暁ですが、彼は平安末から鎌倉前期を生きた真言宗の僧侶です。源俊隆の子で、大僧正寛暁に密教を学び、建永二年(一二〇六)七十二歳で歿しました。ということは、この供養を思い立ったのは四十八才の頃になるでしょうか。
                    「方丈記」を読むかぎりは、隆暁一人でことをなしたかのように読めますが、「四部合戦状本平家物語・巻六」には、「仁和寺の隆暁法印と云ふ上人、上人を太多(あまた)語らひつつ、其の頭(こうべ)の見ゆる毎、額に阿字を書きて結縁の態(わざ)を爲(せ)らる」とあって、幾多の僧侶と語らってことをなしたことが記されています。
                    その回った範囲は、「京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとり」とありますから、先ほどにも紹介した京の市街地区域、「洛中」という区域に該当します。
                    現代の地域で言えば、北は一条通り(一条戻り橋の通り)から南は九条通り(東寺南側の通り)までの南北約五キロメートル、西は千本通り(JR山陰本線二条駅東側の通り)から東は寺町通り(寺町電化店街の通り)までの東西約二・五キロメートルの範囲を(森谷尅久氏の算出に拠れば、平安京全体の通りは、東西に走る大路十三、小路二十六、南北に通貫する大路十一、小路は二十二に達していた。とすると、平安京内の大路小路は、大路二四、小路四十八となり、全体で七十二本もの通りがあり、隆暁らが歩いたのは、このうち左京のみであるから、南北の通りを半分と見ても、五十を越える通りを)、四月、五月の二ヶ月間、屍と格闘しながら歩き回ったことになります。
                    その「阿」字を記した屍は、実に「四万二千三百余り」となり、中には腐乱した死骸や、犬に喰われた死骸もあるでしょうし、その死骸に顔を寄せ、震える手でその額に筆を走らせていた様子を想像するだけで、鬼気迫るものを感じ、身体中の震えが止まらなくなります。
                    ところで、この同じ時代に、「地獄草子」や「餓鬼草子」が生まれましたが、そこに描かれたおぞましい世界は、この養和の飢饉、いやそればかりではなく、この時代に生きた私たちの心そのものをを写し取ったものではないでしょうか。
                    次の年、寿永元年(一一八二年)になっても、飢饉は治まることがなく、生き残った人々も、多くが、食を求め都を捨てていきました。
                    世に言う「平家の都落ち」はこの翌年、寿永二年(一一八三年)七月二十八日のことです。

                    元暦二年の大地震

                    元暦の大地震
                    この後、文治元年(元暦二年でもあり、西暦一一八五年)三月二十四日、平家は壇ノ浦で滅亡し、源平の戦いは終わりを告げました。源義経らが捕虜となった平氏の一族を引きつれて京へ凱旋した、その同じ年の七月九日、突如、大地震が京都を襲いました。「理科年表」によれば、マグニチュード七・四の大地震で、近江・山城・大和・京都で被害が大きく、社寺・家屋の倒壊、破壊が多く、余震も三ヶ月にわたって続いたことが記されています。その元暦大地震を「方丈記」では、次のように記しています。

                    また同じころでしょうか、すさまじい大地震が起こりました。その様子は尋常ではなく、山は崩れて河を埋め、海は傾いて陸地に押し寄せる。地面は裂け、水が湧出し、大きな岩石は割れて谷に転げ落ちる。沖を漕ぐ船は波にただよい、道ゆく馬は足場を失い棒立ちとなる。都のほとりにある堂舎塔廟は、その多くが倒壊し、ひとつとして傷つかぬものはなく、その塵灰が立ち上るさまは、盛んな煙のようであった。
                    また地の動き、家の崩れる音は雷のようであり、家の内にいれば、家もろとも、忽ちに潰されてしまう。かといって慌てて走り出れば、地面が裂け逃げ場がない。羽でもあれば、空をも飛び、竜でもあれば、雲にでも乗り逃げるのだが。本当に地震ほど恐ろしいものはないとつくづくと思う。
                    このように激しく揺れることは、しばらくして止んだが、余震はなお続き、しばらくは驚くほどの地震が日に二、三十回も起こった。やがて十日、二十日が過ぎて、ようやく緩やかとなり、日に四、五回、または二、三回、もしくは一日おき、二、三日に一度など、おおよそ余震は三ヶ月ばかり続いた。

                    鴨長明また「平家物語」の記述も「方丈記」の記述と似通ってはいますが、「白河・六波羅は言うに及ばず、京中で地中に埋まって死んだ者は、数知れぬありさまであった」と、この地震の恐ろしさを語り、さらに続けて「安徳天皇は都を出て、西海に入水なさり、平家の大臣・公卿たちは捕虜となり、都に帰った。ある者は首を斬られて、その首が大路を引き回され、ある者は、妻子に別れ、遠国に流罪の刑に処せられた。平家の怨霊によって、この世が滅亡するのだと人々がうわさするので、心ある人々で嘆き悲しまぬ者はなかった」と、この地震を滅んでいった平家の祟りであったことを匂わせています。

                    「方丈記」/平家滅亡と天変地異

                    2010.04.05 Monday

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                      伴大納言絵詞(部分)
                      (『伴大納言絵詞』は、画家常盤光長が太郎焼亡の猛火を思い出し絵筆をとったといわれる)


                      知人との雑談の中で、どんなきっかけで話し出したのか「方丈記」の冒頭部分を語りだした奴がいる。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」という、あの名文句である。
                      しかし、後が続かない。試しに尋ねてみると、あの方丈記が、「平家物語」の時代を描いていることも、あの時代の天変地異の記録としての一面を持っていることも知らなかった。集まっている全員がそうだ。まさに書き出しの名文句だけが一人歩きしている感がある。
                      そこで今回は、「方丈記」の天変地異の記録としての面を取り上げてみたい。
                      まずは、この時代の天変地異の記録を列挙しておこう。赤字にしているのが、「方丈記」で大きく取り上げている部分である。


                      平家物語の頃の天変地異と飢饉

                      永万元年(1165)4月

                       近衛河原辺に異様な児が遺棄されていた。胸から上が二人の身体で、頭が二つ、手が四本、胸から下が一人の身体である。朝廷では諸道に命じ、和漢の例を調べさせる。
                      仁安三年(1166)2月13日
                       京都の町家から出火し、たちまち燃え広がり、六角から冷泉朱雀一帯が焼失。被災戸数は三千を越えると言われる。
                      承安元年(1171)冬
                       京都で奇妙な病気が流行る。人々はそれを羊病と呼んだ。
                       翌年になってからもいろいろな病が流行り、死ぬ人も多く、人々は六角堂や因幡堂に集まり病気を追い払う祈願をした。
                      承安二年(1172)5月
                       京都地方は長雨が続き、二十日には洪水が六波羅の人家を押し流した。
                      承安五年(1175)7月28日
                       疱瘡が流行し、諸国で苦しむ者多く、年号を安元元年と改める。
                      安元三年(1177)4月28日
                       京都、大火。大極殿をはじめ、内裏、八省の諸建物、関白はじめ公家の邸宅十四家、民家二万余家が焼失。死者数千人、焼けた牛馬は数知れず。これを太郎焼亡と呼ぶ。

                      治承二年(1178)4月
                       京都、大火。左京の七条・八条あたりが灰燼に帰した。次郎焼亡と呼ぶ。
                      治承三年(1179)4月
                       奇妙な童歌はやる。内容は「五月一日から空から悪虫が降ってくる。日蝕を見ると命が縮む。三百年に一度の天変だよ」というもの。
                      治承四年(1180)4月29日
                       京都、三条、四条辺りにつむじ風が起こり(治承の辻風)、多くの人家や樹木が転倒した。
                       また七条高倉辺りの人家には雷が落ち、白川方面では雹が降った。
                       6月2日
                       福原遷都。炎天下に行なわれた。
                       夏から全国的に雨が降らず、その年の農作物はひどい旱魃のため、全く収穫なし。平家の勢力範囲であった西日本では、旱魃の影響で史上稀な酷い凶作となったが、源氏の本拠地である東日本では、「旱魃に不作なし」で、逆にこうした年にこそ豊作となった。源頼朝はまさに、この東の豊作、西の凶作を背景に平家打倒の兵を起こしたのである。そして、この戦乱によって、飢饉はさらに悪化していくことになる。
                       8月17日
                       源頼朝、挙兵。九月下旬、平維盛以下の遠征軍発向。
                       10月7日
                       夜 空に異常な物体が流れていったのが見られた。形は大きな皿状のもので、京都郊外の人が見たところでは、紀伊国山中方面から上がり、福原東北の山中へ飛んでいき、見えなくなってからも、その辺りは明るく輝いていたという。人々は天が裂けたのかと気持ち悪がった。
                       10月20日
                       富士川の合戦。平家、戦わずして敗走。
                       11月22日
                       平清盛、天皇に対し還都を正式に請い、許され、京都へ都を戻す。還都は寒風吹きすさぶ中行なわれ、その風のため多くの船が難破したという。
                       年末
                       平重衡(たいらのしげひさ)を将とする南都追討軍が派遣され、興福寺、東大寺が焼き打ちされ、おびただしい犠牲者が出た。
                      治承五年(1181)2月下旬
                       清盛が発病、閏二月四日に病死。この年七月四日に養和と改元される。
                      養和元年(1181)
                       この年兵乱、旱魃、天下は飢饉、疫病、餓死多し。昨年に始まった飢饉は、全国に広まり、京都市中でも餓死する者が続出し、道路にまで死体があふれ出した。
                      寿永元年(1182)
                       飢饉と戦乱の影響で、京都の町内から食物や安全を求めて抜け出す者が多く、無人の家も多くなって、壊したり売却されたりする人家が増えた。十月には検非違使庁から制止されたが、打ち壊しは止まなかったという。
                      寿永二年(1183)7月28日
                       平家の都落ち
                      元暦元年(1184)1月20日
                       木曾義仲敗死。二月七日、一の谷の合戦。
                      文治元年(1185)3月24日
                       平家、壇ノ浦にて滅亡
                      文治元年(1185)7月9日
                       元暦の大地震。関東大震災クラスの地震と言われ、余震が三ヶ月程続いた。
                       


                      ではまず、「安元の大火」を「方丈記」ではどう描写しているのかを見てみよう。

                      安元の大火
                      去る安元三年四月二十八日のことでしょうか。ひときわ風のはげしい夜、戌の時(午後八時頃)ばかりに、都の東南より火災が発生するや、たちまち西北に燃え広がり、果てには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで燃え移り、一夜のうちに塵灰に帰してしまいました。火元は樋口富ノ小路近くの舞人を宿せる仮屋より出たものと思われますが、吹き迷ふ風に、とかく燃え移りゆく様子は、まるで扇を広げたかのように末広がりに燃え広がっていきました。
                      遠き家は煙にむせび、近きあたりは、ひたすら焔が地に吹きつけられ、空は灰に覆われ、火の光に映って真っ赤な中に、風に吹き切られた焔が、まるで飛ぶように一二町を越えつつ燃え移ってゆきます。
                      その中で人々は生きた心地もなく、あるいは煙にむせんで倒れ伏し、あるいは焔にまかれてたちまち死んでいきます。あるいは身ひとつで辛うじて逃れてみても、資財を取り出すこともならず、七珍万宝もさながら灰燼に帰し、その被害のほどは、どれほどのものになるか計り知れません。
                      今回の火災で、公卿の家でも十六が焼けました。まして、その外は数え知るに及びません。被害は都のうち三分の一に及んだようであり、男女の死ぬるもの数十人、牛馬のたぐいは辺際を知りません。(意訳/原文については、市古貞次 校注「新訂 方丈記」を参照ください。)

                      このようにして、火は二条大路から五条大路にかけて左京の大半を焼きつくし、町々百十余町を炎の中に呑みこんでしまった。当時の記録(清原季光の日記)によれば、焼失した官庁の建物の主なものは、大学寮、応天門と東西の楼、真言院・会昌門・大極殿・神祇官・大膳職・式部省・民部省・朱雀門。また、公卿の邸宅では、関白藤原(松殿)基房、内大臣藤原(近衛)基通をはじめとする十三家であったと言う。
                      京都の町は二十四メートルもの大路によって画され、これをさらに区切っている小路も十二メートルの幅がある。また、朱雀大路は道幅が八十メートルもあったといわれ、焔はこれら大路・小路を、あるいは東側から西側へと跳び越え、あるいは五十メートル幅の二条大路を南から北へと跳び越えて広がっていったという。
                      火災はこの翌年にも発生し、太郎焼亡で焼け残った、左京の七条、八条をも灰燼に帰した。世に次郎焼亡と呼ばれる。
                      なお、太郎焼亡で消失した大極殿はついに再建されることなく、これ以後の国家行事は、内裏の正殿であった紫宸殿でおこなわれることが慣例となった。

                      以降、「方丈記」の記述に沿いながら、平家の滅亡と京を襲った天変地異を振り返ってみる。中でも養和の飢饉の記述は凄まじいものがあるが、今回はここまで。