仇野の三眛地で、ものを思う

2009.10.26 Monday

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    ◇仇野の三眛地に立って角倉素庵に心を向ける◇

    波の音が聞こえる。
    風を感じる。潮の匂い、カモメの鳴き声……。
    ああ、もう一度、海へ出たい。
    こんな化け物のような身体になって……化野(あだしの)とはよく言ったものだ。化けものような俺が、一生を終わるに相応しい。
    崩れた顔、崩れた手、この嵯峨野では、すき間から吹き込む風さえ血膿(ちうみ)の匂いがする。
    なぜ、こんな病に……? なぜ俺がこんな病にかかる。いや、人を恨むまい。人を呪うまい。俺の運命(さだめ)だ、受け入れよう……そう自分に言い聞かせ、ただただ学問に熱中する。学問だけが救い、学問だけが、俺に逃げ道をつくってくれる。
    そう自分に言い聞かせ、今日も弟子の音読する「文章達徳録」に耳を傾ける。
    異臭を放つ自分の身体。包帯を通して血膿の匂いを放つこの身体。俺の身体が生きながら死臭を放っている。こんな、こんなことがあっていいのか。しかし、そんな不快感より何より、人を呪う思い、世の中を恨む思い、そんな思いの渦の中に身を任せるのが恐ろしい。
    身体ばかりか心までが腐っていくようだ。恨み辛みに心をとらわれれば、心までが悪臭を放ち出す。弟子はこの匂いを感じているのだろうか。いや気付かれてはならない、病に冒されても俺は立派であらねば、そうだ背筋を伸ばせ、毅然としろ。おまえには「文章達徳録」の校注という仕事がある。
    のめり込むんだ、学問にのめり込んで行くんだ。そうすることで、この運命を乗り越えていくことができる。それでこそ「俺」という人格を全うすることができる。

    暗闇の中に弟子の声が聞こえる。一点の明かりさえ感じさせない暗闇が俺を包んでいる。その暗闇の中に弟子の音読する声……闇の中に次から次へと文字が浮かんでは消えていく。まるで闇から浮かび上がり、また闇へと吸い込まれていくようだ。
    そんな文字の向こうから、時に、潮の匂いが流れてくることがある。波のざわめきが聞こえることがある。そのざわめきに心を集中すると、やがてカモメの鳴き声さえ聞こえてくる。
    腐った身体に潮風が心地よい。
    海へ出たい。もう一度、海へ出たい。父と共に渡った安南の地……言葉の違う国、着るものの違う国、風習の違う国、ここには何か人を解き放つようなやさしさがあった。そこには格式張った家という概念からも、日本という国からも、もつれ合った人間関係からも、俺はすべてから自由だった。
    「船」という、閉鎖され隔絶された世界が……そして果てしなく広がる海が、俺を日常から切り離してくれる。そして、そんな海での暮らしの向こうに、別の世界が開けている。航海という閉鎖された時間を経て、その先に心を解放してくれる別な世界が広がっていた。
    今の俺はどうだ。病に視覚を奪われ、動くこともままならず、ただただ、この身が朽ちていくのを待つばかり。感じるものは深い闇と、自分の身体の腐っていく匂いだけ。弟子の声だけが、辛うじて自分を学問という逃げ道へ誘ってくれる。
    師、光悦の文字が踊る。暗闇の中に光悦の文字が浮かび上がる。闇に、まるで蒔絵のように散りばめられた金粉が綺羅星のように輝き、その中に光悦の文字が踊る。宗達の意匠の見事さはどうだ、この本の見事さはどうだ。これが刷られたものと思えるだろうか。この筆の運び、この筆の勢い、これが彫られた文字だろうか? 
    この本は生きている。俺の身体は朽ちていくが、この本は生き続ける。俺たちが作り上げた「嵯峨本」と呼ばれた数々の出版物……文字を活字として写すだけでなく、俺たちは、俺たちの命を、そこに刷り込もうとした……。

    潮の匂いが消えた。
    波のざわめきが消えた。
    残されたのは、深い、深い、闇…… 


    ◇角倉素庵(与一)という人◇
    <彼は、元亀二年(1571)六月から寛永九年(1632)六月までを生きた。>

    角倉素庵角倉氏は、もと吉田の姓。嵯峨角倉に住したため角倉と呼ばれるようになったという。素庵の祖父宗桂は名医として知られ、明の皇帝にも薬を献じたほど。日本に帰ってからは、医師を営むと共に、副業に土倉業を営んでいた。その子が角倉了以である。彼は勉学に志し、医者でも土倉業でもなく土木工学の技術を研究した。そればかりか海外雄飛の夢を膨らませ、秀吉の時代、朱印状を得て、安南へ通商の船を出し巨富を収めたという。家康時代になっても、了以は朱印船貿易家として活躍しているが、いつも息子与一(素庵=左写真)と行を共にしてきた(慶長八年の第一回安南渡海のときから父と共に海外へ出る=素庵33歳)。それが慶長十四年、東京(トンキン)からの帰途、暴風雨のため遭難。この事件がこたえたのか、了以は隠居し、与一に家督を譲った。しかし了以は自由な気風を以て与一を育ててきたため、決して彼を家業に縛りつけようとしなかった。与一は本の虫であり、学者肌であったが、書斎人として生涯を過ごすには、父譲りの冒険心も旺盛であり過ぎた。ために以後の渡海朱印状は角倉素庵に与えられることになった。しかし、慶長十八年の朱印状は切支丹の取締の余波を蒙り無効となってしまったのである。

    角倉船絵馬

                        (上の写真は角倉船の絵馬)

    ところで角倉親子は、海外渡航の合間を縫って、京都において一大土木工事に着手した。大堰川に舟を通そうというのである。今までこの丹波の水を利用して荷物を運ぶことを考えた人間はいない。山が険しく渓谷が深く、大石がごろごろしていたためである。このため丹後、丹波の産物は人の背を借りて山越えをしていた。それを親子は、川の岩を砕き、高瀬舟(平底の舟=右下写真は高瀬川一の舟入))を使って大堰川の舟運を考えたのである。慶長十一年三月、角倉親子は準備を進め、大堰川の開削に着手、これを成功させた。この成功により、幕府は富士川の舟運を開くことを了以親子に命じた。了以はこれをも成功させ、舟を見たことのない甲府の人たちを驚かせた。さらに豊臣秀頼の方広寺の再建に当たって、大木巨石の運搬のため、鴨川を舟を通せないかという依頼があった。了以は幕府の許可を得て鴨川疎通事業を起こした。人口運河の計画。はじめは伏見から五条付近までを、方広寺再建の資材運搬路として掘り、工事が終わると、この水路をもらい受けて、五条から二条まで延長させた。そこで西国の荷物が二条まで運び込まれるようになったという。これが完成した慶長十九年七月十二日、了以は六十一歳でこの世を去った。
    高瀬舟一舟入さて了以没後の素庵であるが、淀川過書船支配を命ぜられたり、江戸城改築のため富士山材木の採集運搬に当たったり、安南貿易を復活させたりと活躍していたが、晩年は学問に傾倒し、本阿弥光悦らと共に出版事業に着手する。世に嵯峨本と言われる。寛永三筆の一人、本阿弥光悦の書いた文字を単語ごとに一つの木版を作り、活字のようにそれを組み合わせることで一つの版を組んでいく。そこには、「トマス荒木」の項であげた「キリシタン版」の影響が表れていると指摘する人もいる。ともあれ、「嵯峨本」は角倉素庵がプロデュースし、本阿弥光悦が筆を執り、その意匠を俵屋宗達が手がけるという、出版史上、画期的な文化事業となった。
    内容そのものも、「平家物語」「太平記」など、「キリシタン版」と重なるものが多いのも興味があるが、それ以上に「王朝文化」の再現と言った趣を持ち、「文芸復興」と呼ばれた西洋ルネッサンスの影響さえ見え隠れしていることにも、当時、日本に流れ込んだヨーロッパの匂いを感じ取られる。
    さて、その後、元和の頃となって、尾張候から書物の講話とその整理を依頼された素庵は、その往復の間に病をつのらせていったという。その病が「らい病」であることを知ったとき、素庵は家督を息子厳昭に譲り、財産挙げて宗族、親戚に分かち、自らは数千巻の蔵書と共に、嵯峨清涼寺の西隣に安居し身を閉ざした。寛永四年のことである。
    当時「らい病」は「天刑病(天の刑罰の病)」と呼ばれ、これにかかること自体、家の名誉を汚すこととされた。このことを恥じた素庵は、角倉の家督を譲り、自らは、すべてを捨てて嵯峨野の奥に身を隠したというのだ。
    以後の素庵の生活は、嵯峨野の奥で弟子相手に、藤原惺窩(ふじわらせいか)編するところの「文章達徳録」の研究、増註がすべてであった。病が進み失明してからも、門人に口述して筆録させていたという。寛永九年(1632)三月になると、病勢はさらに進み、臥床の日々を送る。六月朔日、いよいよ重態となり、しばらくその状態を続けたが、その間にも輿で読書堂へ行き、病間に門人の和田宗允(後、姫路の儒者)を呼んで、宋の羅大経の著「鶴林玉露」を読ませたり、欧陽修や蘇東坡の文について「理と心と相通う」と歎賞したりしたという。
    先ほども述べたように、「らい病」と言えば、天刑病・業病とされ、「かったい」と呼ばれ乞食扱いされるのが普通であった。素庵にしてみれば、角倉家からこの患者を出したということ自体、家名を汚したということに繋がった。その自責の念と、懊悩が学問に逃げ道を見いだしたと言えないこともないだろう。
    しかし、これについても、実は「らい病」ではなく「梅毒」という見方もできる。「梅毒」は、スペインがキューバあたりからヨーロッパへ持ち込み、瞬く間にヨーロッパ中を席巻した。それをポルトガルが日本へと持ち込み、桃山から江戸時代初期にかけて日本でも爆発的流行を見る。うがった見方かも知れないが、もし、彼のかかった病が「梅毒」であるとするなら、それを「らい病」とした、素庵の道徳観や素庵の弱さ、苦しさが窺えるのではないだろうか。もちろん、証拠はない。ただ、そう感じるだけの話でしかないのだが……。
    ともあれ、素庵は、その家名のため、自ら角倉の菩提寺二尊院に葬られることを拒否し、中世以来の無縁墓所、仇野の三眛地に葬られることを希望した。
    いよいよ臨終が近付いた六月二十二日、二子と弟法眼長因を左右に呼んで、手を執って永訣したという。時に六十二歳であった。

    「我死せば、即ち西山の麓に葬り、〈貞子元之墓〉と書せ」(寛永九年三月、和田宗允をして訓戒をつくらせ、玄紀、厳昭の二子に遣わし命ず)。

    【参考文献】
    ■林屋辰三郎「角倉素庵」朝日評伝選19(朝日新聞社刊)
    ■林屋辰三郎ほか「光悦」(第一法規出版刊)
    ■小松茂美「光悦書状」

    精神病と宗教

    2009.10.25 Sunday

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      ある「本」の取材のために沖縄を訪れた。
      「精神病」とは一体なんだろうというテーマの本だ。
      「精神病」と「沖縄」がなぜ結びつくのかって……。私も最初そう思ったが、調べていくうち、県外に比べ沖縄に精神病患者が多いのは、「宗教」と「精神病」というものが密接な結びつきにあり、そのことと関係しているらしいということがおぼろげながら見えてきた。
      つまり沖縄という宗教的な土壌は、霊的に過敏な女性たち、巫女的な人たちを多く生み出してきた。そんな霊的に敏感な人たちが多く存在するということと、いわゆる精神病といわれる人たちが多く存在するということが比例しているのが沖縄という精神風土のように思われる。ただ「沖縄海洋博」が開催されるまでの沖縄では、精神的に不安定な女性たちを特別視したり、隔離したりするということがなく、集団の中でごく普通に生活し、普通に治癒していく人も多かったということのようだ。
      それが沖縄海洋博が開かれるということになり、皇太子が沖縄を訪問されるということが決まったときに事情が変わってきた。今まで小集団の中で生活していた、そういう精神的に不安定な人たちが、「このままではまずい」と、精神科のある病院に収容されることになったらしい。今ある病院だけでは足りないので、新設の精神病院が数多く誕生したとも言われている。(また取材の中で得た情報によると、沖縄の精神科には「宗教外来」を設けている所があるという話を耳にしたが未確認である。)

      しかし、これは沖縄だけの問題ではないと思う。神懸かりとか、宇宙的なパワーだとか、巫女のように霊界と交信できたり、人の心が読めたり、予知能力があったりとか……それは特殊な人間だけの問題ではなく、我々の中にもある潜在的な願望とも結びついている気がする。人は知らず知らずのうちに、強いか弱いかの違いはあっても、そういう能力を欲するものだとも思う。それがどんな世界とつながっているのか……たとえば欲望という暗い世界とつながったとき、どんな心の動きが起こってくるのだろう。主人や恋人は、あるいは上司や商売敵は一体何を考えているのか。日常生活の中でも、ふっと、こんなことが出来たら、こんなことが分かったら、と思うことはないだろうか。自分が出来ないからと、宗教者や超能力者、霊能力者に頼り、状況を改善しようとすることは、別に珍しいことではない。そんな心の動きが、どんな意識の世界をつくっているか考えたことがあるだろうか。
      理由なき殺人、あんな大人しい人が、と言われる事件……狂った事件や世相は、そのまま私たちの心の現状のように思えてならない。
      「精神病」「超能力」「霊的パワー」「狂った世相」、そんなキーワードは、自分の心と向かい合わないかぎり、何も解決されないことを示唆しているようにも感じる。「心」の問題は、「昔」のように観念論やきれい事ではすまされない時代を迎えているように思えてならない。

      パートナー紹介

      2009.10.24 Saturday

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        空飛ぶキャロ今日は、散歩の相棒たちを紹介します。と言っても人間ではないのですが……
        3匹のウサギと2匹の犬、それに2台の自転車、これが僕の散歩の相棒です。まずは、我が家の古株、ロップイヤーウサギの「キャロ」、続いてゴールデンとラブラドールのミックス犬「ゴロ」、それに新参のトイプードルの「トマ子」。
        自転車に移って、まずはmugello がつくったシティサイクルM700、これは車体が緑色なのでグリーンと命名。2台目はDOPPELGANGERのクロスバイク、これは車体が黄色なのでイエローと命名。以上が、僕の散歩の相棒たち。

        では、それぞれについて、さらに詳しく紹介していきます。

        ◇ロップイヤー兎のキャロ
        キャロが来た頃彼女は、僕たち夫婦が、関東から奈良へ帰ってきた同じ年に長野からやってきました。
        2000年7月、長野に住む友人が、兎の子供が産まれたので1匹をくれるといいます。ではというので早速引き取りにいくことになりましたが、友人も途中まで連れてきてくれるというのです。奈良と長野の中間……ならば関ヶ原がよかろうということになり、関ヶ原のインターをおりたところで落ち合うこととなりました。無事、受け取りの儀式も終了し、さあ帰る段になってからが大変。車の振動がやけに気になり、兎が大丈夫だろうかと気が気でない状態が家まで続きました。最初は気軽につれて帰れる積もりだったのですが、まるでニトログリセリンでも運ぶような気分で、ジョルジュ・クルーゾーの「恐怖の報酬」(映画)を地でいくような有様でした。

        右の写真は、我が家へ来てすぐに撮った写真です。名前は、昔、息子の可愛がっていた兎の人形がキャロと言ったので、そのまま「キャロ」と名付けました。
        当時は、奈良の団地住まいでしたが、桜の季節になると「キャロ」を連れて、近くの公園に花見によく行きました。その頃の写真が残っていますが、まるで「幸せになれますように」などとお祈りでもしているかのようなポーズです。ついでながら、一番上の写真は、孫とキャロが段ボールの上で遊んでいるのを写真に撮り、団地の上空を飛んでいるかのように加工したものです。自己満足ながら、ちょっと楽しい。

        キャロの花見02

        そのキャロも、今では9歳。人間で言うと70歳のお婆さんだそうです。でも、仕草や表情は、まだまだ子どものよう。聞けば、彼女のお母さん兎も、長野でまだピンピンしているということでした。


        ◇GORO(ゴロ)
        言葉で「ゴロ」と発音すると、なぜか聞く人が「ゴロー」と語尾に長音をつけて聞いてしまい、「五郎」となってしまいます。彼は「五郎」ではなく、ゴロゴロッとしている「ゴロ」なのです。ゴロゴロするということは、普段セカセカしている私の希望でもあるのです。
        だから、彼は私の希望を具現した存在なのですが……。
        しかし現実は、部屋の中を、テーブルがあろうがなかろうが、お構いなく全速力で走り回る、超イソガシ犬でありました。我が家へ来た経緯も、前は若い夫婦に代われていたようですが、あまりの悪童ぶりにとうとう飼いきれず、ブリーダーへ戻されることになったという次第。
        このままでは、買い手もつかず保健所行き間違いなし。話を聞いた女房の妹が、「すわ一大事」とばかり、「ねぇちゃんの家で飼ったげてーッ」とSOSを送ってきました。自分で飼えば良さそうなものですが、彼女の家には犬ばかりか猫までがそれも複数で暮らしており、とても引き取れる状態ではないということです。
        かくして我が家で引き取ることとなりましたが、連れに行った車の車内はボロボロに、付き添いに乗っていった娘は生傷だらけになって帰ってくるという始末。
        見れば首の回りにスパイク状の金具を付けられています(写真)。
        引き渡されるとき「悪さやから、取ったらあかんで!」とブリーダーの人に申し渡されきたという代物らしいのです。しかし、なんぼなんでも、あまりにかわいそう。家長の権限で、痛そうな金具をはずしてやったまではいいのですが、話しに聞いた以上のいたずらぶり。新たにつくったデッキはボロボロにされるわ、部屋の中は全力疾走するわ……ついに堪忍袋の緒が切れて拳を振り上げ、ゴロの頭をボカン!
        しかし、何という石頭……殴った私の手の方が骨折してしまいました。
        そのゴロも、今では3歳になり、すっかり落ち着いて、私の散歩の最高のパートナーになっています。

        ゴロの散歩



        ◇トマ子
        トマ最後にトイプードルの「トマ子」。これは娘がペットショップで買った犬です。一緒にホームセンターに行った日、娘に犬の売り場へ連れて行かれ、いきなりその子犬を抱かされてしまいました。これがいけませんでした。顔をねぶり回すやらじゃれつくやら、「連れて行って」「連れて帰って」と、言葉こそ発しないものの、可愛いくも強引な態度で押しまくってきます。「ゴロがいるから」と、言い訳が通じるような状態でもなく、何より、これだけ頼られて、このまま見捨てて帰るわけにもいきませんでした。
        かくしてトマ子(娘と孫の命名)も、私の散歩のパートナーとなりました。大型犬と小型犬、大小2匹の犬と同時に散歩するには、最初こそ抵抗がありましたが、小さなトマ子は、どうしてどうして、かなりなタフガール。小一時間の散策でゴロがハアーハアー言っていても、トマは何食わぬ顔でチョコチョコついてきます。ただゴロともども、食い物にいやしいのが難点と言えば難点。いくらエサをたっpり食べていようと、夜中、部屋のゴミ箱あさりだけは欠かさないと言う有様。「癒し犬」ならぬ「いやしい犬」のお粗末でした。

        ゴロとトマ02

        まずは時間がよろしいようで。自転車については、次の機会に、乞うご期待……。

        事務所の庭にジャガイモを植える

        2009.10.23 Friday

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          事務所の庭が荒れている(写真下)ので、耕して植物でも植えようと思った。
          同じ植えるならと思いついたのが、甘藷(サツマイモ)。これなら素人でも失敗はなさそうだし、甘藷には、ある種の思い入れがある。

          耕作前の荒れ放題の庭

          16〜17世紀初頭にかけて、大航海時代の息吹きが日本にも及び、イエズス会をはじめ海外からたくさんの異邦人達が、この国を訪れた。その一人に英国人リチャード・コックスがいる。
          1613年、平戸に開かれたイギリス東インド会社の商館長として赴任した彼は、足かけ10年にわたり日本に滞在し、日本商館不振の責任を負わされバタヴィア(ジャカルタ)から本国へ送還される途中、三檣帆船アン・ローヤル号の中で病没した。

          平戸イギリス商館跡

          そんなコックスのことを調べるべく、平戸へ取材旅行に出かけたことがある。
          そのおり平戸港からバスに乗って河内浦へと出かけた。今は寂れた漁港となっているが、往時はオランダやイギリスの帆船で賑わったところだ。近くに丸山という外国人相手の遊郭跡もある。後のことだが、この丸山が鎖国後、長崎に移り、所謂「丸山遊郭」の起こりとなった。
          その川内浦へ向かう途中、千里ヶ浜という美しい海岸線を通る。ここには近松門左衛門の「国姓爺合戦」で有名となった日中混血の英雄「鄭成功」が生まれたという「児誕石」がある。母親である田川松が、この場所で産気づき、後の鄭成功となる田川福松を産み落としたというのである。そういえば「松」さんと言えば、コックスの日本人妻も、彼がマティンガと呼んだ「松」さんだった。

          平戸千里が浜

          川内浦から平戸への帰り道、丸山から千里ヶ浜(写真上)へと歩いたが、その千里ヶ浜の裏の山手に「リチャード・コックス甘藷栽培の地」と伝えられる所がある。かのウイリアム・アダムス(三浦按針)が1615年、琉球から持ち帰ったものを、コックスがこの地で栽培を始めたのだという。コックス日記1615年6月19日の条に言う。
          「今日庭づくりして、甘藷を植えた。苗は琉球から持ってきたもので、日本に植えたのはこれが初めてである。庭づくりに毎年1テイ、即ち5シリング払わなければならない」と。(皆川三郎 訳)
          以来、コックスの庭園づくりは平戸では有名となった。寺小屋の主人をはじめ平戸藩の家老や僧侶、中国人ら、彼を知る様々な人たちが、彼のために色々な苗木を贈った。みかん、桃、いちじく、ぶどう等々。たちまちコックスの庭園は豊かなものになったという。
          コックスの人柄が窺えるようでおもしろい。
          コックス甘藷栽培の地

          このとき調べたことは、「平戸とリチャード・コックス」というタイトルで、新人物往来社「歴史研究」に発表したが、そんなことを思い出し、庭いじりしようと思い立ったとき、どうしても「甘藷」を植えたくなったという次第だ。

          ところが……である。サツマイモの植え付け時期は5月〜6月だという。思い立ったのは9月! 時期的にサツマイモは諦めざるを得ない。では何を植えようかと調べたところ……秋植のジャガイモがあった。ジャガイモならピッタリだ。育てやすい上に、コックスともつながる。そもそもジャガイモの名前の起こりは、やはりこの時代、バタヴィア、いわゆるジャガタラ(ジャカルタ)からもたらされた「芋」という意味でジャガイモと呼ばれるようになった。イギリスの日本貿易の拠点がバタヴィアであることを考えると、ジャガイモにこだわっても故ないことではないだろう。

          「きーめたッ!」とばかり種芋探しを始めるが、どこのホームセンターでも売り切れて今後入荷する予定はないという。諦めきれず、詳しい人に訊ねると、元気そうな芋を選んで、適当な大きさに切り、切り口に灰をまぶしたうえで二〜三日、日陰で干して種芋として使えば良いと教えてくれた。そうかと合点したものの、「灰」がない。子どもの頃は「灰」など、どこの家にでもあったものだが、いざとなるとこれが見つからない。やむなく切り口を干すだけでチャレンジすることとなった。

          耕作を開始する

          土壌の酸性土をチェック

          2009年9月14日、土のペーハーを測り、石灰を混ぜたり、肥料を混ぜ込んだりしながら、なんとか2畝を耕し、9月16日には種芋の植え付けへと漕ぎ着けた。
          続いてリンゴの木と柿ノ木を植え、さらに花壇づくりに挑むことになるが、これはまたの機会に……。

          それから毎日、事務所へ出勤して最初にする仕事は、ジャガイモと九条葱(ジャガイモと一緒に植えることにした)への水やり。こうして10月の2週目を迎えた頃、待望のジャガイモの芽が顔を出した。以来、ジャガイモはメキメキと成長し、参考書にある「芽かき」の適期を迎えてはいるのだが、可愛くて、なかなか勢いのよい芽を残して他を抜くなどということが出来ないでいる。

          ジャガイモの発芽

          讃岐神社と三吉石塚古墳

          2009.10.15 Thursday

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            まずは私自身のことについて記しておこう。 
            自分の信条は、土地に縛られず、人に縛られず、立場に縛られない、そんな「自由人」が生きる上での指針だった。したがって、いわゆる「マイホーム」の夢など、微塵も考えつかないものだった。それが同志であるはずの妻が「家」を買いたいと、今の奈良の田舎に落ち着くことになってしまった。
            結婚以来、「堺」に住み、「門真」に住み、「千里」に住んだ。仕事で関東へ移るや、神奈川県の「相模原」に住み、やがて神奈川、東京、山梨の接点とも言える「三ヶ木」という田舎に住むこととなった。
            ここは400年前の隣組が、今も機能しているという大変なところだ。ある知人などは「嫁」に来て10年も立つというのに「よそ者」呼ばわり。我々に至っては「旅のもんだから仕方がねえ」ということになってしまう。土地の人の言葉通り、やがて関西へ帰ることになった。まさに「旅の者」に違いはなかった訳だ。(写真は、三ヶ木近くにある城山と城山ダム湖)



            西暦1999年12月も押し詰まっての引っ越し、明けて2000年には、奈良県の住民として正月を迎えた。しばらくして、妻から「良いところがある」と連れて行かれたところが今の住まいだった。なぜかトントン拍子で話が進み、なぜか私もそこが気に入り、50年来の信条もあっさり捨てて北葛城郡広陵町を「終の住処」と決め込んでしまった。蛇足だが「終の住処」とは、「ついのすみか」と読み、最後に住むところ、落ち着くべき場所というほどの意味であるが、果たして本当にそうなるかは、これからのお楽しみと言うところ。
            しかし、少なくとも私はここが気に入っており、定年退職後、住処ばかりか自分が運営する超零細出版社の倉庫兼事務所も、この地に決めてしまったという次第。

            前置きが長くなったが、私の住む広陵町がどんなところか、愛犬GOROとの散歩コースから、その一端を紹介しておこう。

            ◇讃岐神社と三吉石塚古墳
            奈良に「讃岐神社」がある! まずは、この驚きから話を……
            「よくある話で別に驚かない」って、それでは話が進まないので、ここは何がなんでも驚いていただくしかない。「讃岐(さぬき)」という地名はご存じのように、四国は今の香川県にあたる、それが奈良のどいなかに讃岐神社あるというのだ。
            驚いていただいたところで、ある朝のこと、愛犬GOROと散歩に出かけ、「少し遠くまで歩いてみるか」とウロウロしているうちに行き当たったのが、この「讃岐神社」。そのときは「奈良に讃岐神社かよー。どうせ末社か何かだろう」ぐらいに思っていたが、実は、ここが「竹取物語」、つまり「かぐや姫」のお話の発祥の地ということと大いに関係があった。
            境内を掃除しているおばさんに話を聞こうとしたが、鳥居の外に説明書きが出ているという。

            讃岐神社境内

            土地の古老に話を聞いたとなると、なにがしかロマンの香りがしようというものだが、掃除のおばさんにも振られ、しぶしぶ説明書きの掲示板に目を通したでは、いまいち情緒が出てこない。まあ、そこはしんぼうしていただいて、一緒に掲示板に目を通してみよう。

            讃岐神社の説明

            『「今は昔、竹取の翁(おきな)というものありけり……」で始まる「竹取物語」(平安時代、作者不詳)に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統〜文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族 齋部(いんべ)氏が大和の国広瀬郡散吉郷に移り住んだものとしている。翁の讃岐(さぬき)姓は。「和名抄」の大和国広瀬郡に散吉(さぬき)郷があり、「大和志」では、『散吉郷 廃存済恩寺(はいそん さいおんじ)村』として、現在の北葛城郡広陵町大字三吉(みつよし)の斉音寺集落付近に比定している。
            またこの付近に「藪ノ下」、「藪口」、「竹ヶ原」という地名があり、真竹孟宗竹等の竹林が多数残っている。(後略)』

            つまり、ここ三吉(みつよし)という地名は、昔、散吉(さぬき)と呼び、香川県から移住してきた竹細工の齋部一族が住み着いたところで、その長というのが「讃岐氏」だという。その讃岐氏が朝廷に「竹」やら「竹細工」を献上していたところから「かぐや姫」の物語は生まれたというのだ。

            石塚古墳から見る落日

            こればかりではない。この広陵町というところ、大和朝廷に刃向かい「土蜘蛛」と呼ばれた葛城一族の拠点だったところでもあり、蘇我一族のホームグラウンドでもあったところだ。
            まだまだ面白いものに出会えそうだ。

            その日の夕刻、再び愛犬GOROを伴い、讃岐神社の近くにある三吉石塚古墳を訪ねた。石塚古墳の話は後に譲るが、おりしも日没時、二上山に陽が沈んでいく。思わずGOROと共に陽が沈みきるまで、その場を動けなかった。

            愛犬GORO、落日への感慨

            (この写真、断じて「やらせ」ではありません。)