川口居留地跡から市岡高校へと歩く

2009.11.10 Tuesday

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    土佐11烈士の墓

    ◇外国人居留地跡
    大阪町歩き「西九条を歩く」会に参加したことがある。自分の生まれた町、それも旅の途中で生まれたかのように、ほんの僅かしか滞在しなかった町、それが九条だった。
    その町がどんな町か、幾分、感傷的な思いにも引きずられての参加だった。
    前回掲載の、「安治川・川底トンネルを行く」では、河村瑞軒碑を訪ねたまでを書いた。
    その後、更に西へと歩き、大阪税関に着く。ここがかつての外国人居留地跡。外国人居留地がなぜ出来たのか、ここに登場するのが「堺事件」だ。(堺は、九条から大正区三軒家へ越した我が家が、次に引っ越した先が堺だった。……関係ないって!)
    では、先へ進みましょう。ことの顛末はこうだ。

    慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで、政権は幕府から朝廷への移行が決定した。こんな状況の中、幕府方であった堺奉行所の役人たちは、つぎつぎに堺から逃亡する始末。 その堺へ進駐したのが、土佐藩兵たちだ。しかも隊長の箕浦らは猛烈な攘夷派である。おりしも、すでに開港していた神戸・大阪から陸路で堺へと出ようとしていたフランス人一行があった。ディプレックス号の艦長・領事・通訳・日本側役人たちだ。彼らはこの堺から、沖に停泊するディプレックス号に帰艦しようとしていたのだ。それを土佐藩士たちは、大和川で待ち伏せし、追い返してしまった。そんなこととは知らず、堺港には艦長等を迎えるべくランチ艇が接岸し、フランス兵15人のうち2人が上陸、町の人たちと交歓しだした。「洋夷討つべし」の情熱に燃える土佐藩士たちは、町の人々とフランス兵の交歓はおもしろくない。たちまち丸腰のフランス兵2名を捕縛しようとする。……が、そのうちの一人がランチへ逃げ、離岸しようとした。これが引き金となって、土佐藩側の一斉射撃。アッという間にランチ乗艇の兵も含めて11人を死亡させてしまった。

    川口居留地跡これが世に言う『堺事件』である。フランス側は、日本に事件加担者20名を処刑するよう要請。これを受けて、11名の土佐藩士が堺・妙国寺で、フランス人立ち会いのもと切腹することとなる。 残り9名は、切腹のあまりの残酷さに、フランス側から中止要請が出されたという。立ち会ったフランス人たちは顔色もなく、結果、世界に日本の「ハラキリ」の残酷さを示すこととなった。この事件は、歴史小説の祖と言われる森鴎外が『堺事件』として小説化しており、また彼の民衆無視の姿勢に反発して、大岡昌平も、『堺港攘夷始末』の名で小説化している。

    これ以降、外国人と日本人を一緒に置くことの危険を考慮した日本政府が、外国人居留地をつくり、外国人と日本人が直接接触することのないようにしたというのである。


    川口教会◇川口基督教会
    そんな居留地跡に、今も川口基督教会がある。レンガ造りのいかにも往時を偲ばせる佇まい。でも、十字架がやたらと気になる……。教会の先端に掲げられた十字架が、普通の十字架でなく、円を上下左右に貫いているヤツだ。あれって「ギリシャ十字」って言うんじゃなかったのかなあ。どうも自信がないが、でもカソリックじゃない。カソリックはラテン十字、横木より縦木が長いシンプルなヤツだ。そういえばギリシャ十字って、縦・横同じ長さの算数の+(プラス)印みたいなヤツだったよな。じゃあ、あれはギリシャ十字じゃないか……。そんな案配で、十字架が 妙に気になって仕方がない。受付のところにいたおじさんに聞いてみると、
    「もとはカソリックだったんだけどね、カソリックから別れて、何でもありの教会になったんだよ」
    「…………?」
    私の不審気な思いを察してか、
    「あそこに水を撒いているおばさんがいるだろう。プール高校の先生だよ。物知りな方だから聞いてみたら……」
    早速、挨拶もそこそこに、「ここはカソリックじゃないんですか?」
    「アメリカ聖公会よ。もともとはイギリスでカソリックから別れて起こったものよ」
    「じゃあ、ヘンリー8世のときに出来たイギリス国教会ですか……」
    ピンポーン、大当たりだ。ちなみにフリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』には、『イングランド国王ヘンリー8世は、カトリック教会では認められていない、配偶者の生存中の再婚をしたために教皇クレメンス7世から破門を受けた。そのためヘンリー8世が、1534年に首長令により、イングランド国内の教会をカトリック教会から独立させ国教会派としたのが始まりである。国王を教会の首長とし、かつては王権神授説を認めていた。 聖公会は海外での別称』 とある。
    と、いうことは、あの十字は、ギリシャ十字ならぬ「ケルト十字」だ。
    十字架談義はここまで。スッキリしたところで、次へ行こう。


    松島遊郭◇松島遊廓と松島新地
    居留地には教会ができる。と、同時に遊廓もできる。
    九条と言えば、松島遊廓があまりにも有名だが、その遊廓、今も松島新地として活動していると聞いてビックリ。赤線廃止令が出た後、どうして活動できるのか? 答えは「自由恋愛」ということだそうだ。表向きは料理を食べさせる店。そこで出会って恋愛関係になり、その後、気に入らなくなったので別れる。つまりは「自由恋愛」だから取り締まれない……という仕組みらしい。

    その松島新地へ足を入れるなり、いきなり○に十の字の薩摩の紋章。さきほどの川口教会のケルト十字と言い、どうも今日はやたら○に十の字が気になる日だ。おそらく鹿児島出身者の経営する店なのだろうが、詮索は又の機会にしておこう。
    それより、この松島遊廓を舞台に、かつてこんな事件があった。

    明治17年(1884年)1月4日、一人の巡査が西区にあった松島遊郭を巡回していると、突然「生ぬるい雨」が降ってきた。何と、廓の二階から一人の兵士が巡査めがけて放尿していたのだ。
    「酔っていてわからない」とシラを切る兵士を、巡査が連行しようとしたところ、一緒に来ていた兵士たちが加勢してきた。危険を感じた巡査が応援を求める間に、正月休みで松島に繰り出していた大阪鎮台の兵士1400人が集まってきた。そこへ西署の警察官600人が駆けつけて睨み合いになる。
    いきり立った数人の兵士が抜剣したのをきっかけに、警官も剣を抜き、そこへ鎮圧のために出動した憲兵隊200人も巻き込まれ、死者2名を出す大乱闘となった。事件を聞きつけた予備役陸軍中尉の警部長(現在の府警本部長)大浦兼武が機転を利かせ、たまたま軍装であったのを幸い、そのまま馬に乗って松島に直行し、兵士の上官として、また警官の上司としてこの騒動を収めたのである。 世に言う「松島争闘」。陸軍省、内務省ともに主張を譲らず、司法裁判に付されることとなったが、後始末は陸軍側に有利なものとなったという。

    それからほぼ50年がたった昭和8(1933)年6月17日、 場所は大阪の天六交差点。ここでも「ゴーストップ事件」と呼ばれる、陸軍と警察が衝突する事件が発生した。読売新聞社 発行の「読む年表・20世紀と昭和天皇」には、
    「6月17日、大阪の天六市電交差点で、信号を無視して道路を横断しようとした第4師団の一等兵を曽根崎署の巡査がとがめたが、兵士は「憲兵ならともかく、巡査の指示は受けない」と反抗。巡査は派出所に連行すると乱闘になった。 陸軍は「軍服着用である以上、軍人として扱うべき」「陛下の軍隊を侮辱するのは不敬」と硬化。大阪府警は「公務外の外出であれば交通規則に従うべき」「警察官も陛下の警察官」と反発、大抗争に。5か月後、兵庫県知事の仲裁で解決するが、当時の軍の横暴ぶりを示すエピソードである 」と。 
     
    居留地が出来ると、遊廓もできると書いた。が、かつて、この遊廓の存在が、国際裁判で一大問題となったことがある。
    時は明治5(1872)年6月。横浜港に停泊中の帆船マリア・ルス号(国籍はペルー、350トン)から、ペルーへ売られる中国人苦力(クーリー)の一人が脱走し、近くに停泊していたイギリス軍艦アイアン・デュークに泳ぎ着き、保護を求めた。 英国側の要請を受けた日本側は、神奈川県権令(県知事)大江卓をして事情調査を行うこととなる。マリア・ルス号にはペルーへ売られる235人の中国人が乗せられており、やがて船内における中国人苦力の過酷な実体が明らかとなってくる。
    大江は、証拠調べは陸上で行うといって、船内の中国人全員を横浜市内の学校に収容したうえ、「中国人たちのマカオにおける契約は日本においては無効である」とする判決を下し、こうして中国人を解放するに至った。こう書くと、ことは簡単に進行したように聞こえるが、実際はさにあらず、裁判中、日本の処置に対して、 ドイツ、フランス、デンマーク、ポルトガル、イタリア等の領事が、日本側の処置に抗議を申し入れ、イギリス、ロシアのみが日本側の処置を支持したという。その抗議の要旨は、「船上における船長の行為は日本の管轄外であり、同船は奴隷貿易船ではなく、たとえそうだとしても国際法に違反するものではないし、現在進行中の糺断は違法である等を主張した。その中につぎのような主張がある。奴隷売買は日本の法律も慣習も禁ずるところではない。また清国人との間に結ばれた契約は、すべての国々で通常おこなわれているものである」と。
    ここで問題となったのが、日本の公娼制度であった。その言は「この契約は被傭者に酷だといっても、文面に関するかぎり、当時日本でおこなわれていた遊女等の奉公契約のほうが、はるかに苛酷だ」というのである。
    審理は8月16日から21日までおこなわれたが、その間、船長側の弁護人ディキンズは「この契約は日本の慣習では必ず強行されるであろう。というのは、日本ではもっと拘束的な実にいやな契約、すなわち娼婦契約ですら強行されているのだから」と指摘し、娼婦を拘束する契約の性質を明らかにするためにその契約書と横浜病院の医事報告書の写を証拠として提出したのだ。

    このように、マリア・ルス号の事件は諸外国の注視する中で事が進み、その中で日本の遊女等の人身売買の問題が表面にあがってくることになる。

    そんなことを思っていると、今まで興味を持って調べた歴史上のたくさんな人の思いが伝わってくる(実際には自分の思い入れが、そんな声を聞かせるのだろうが)。長崎遊廓の出で、シーボルトの日本人妻となったお滝さんのこと。その娘のお稲さんのこと。戦国時代が終わり、オランダやスペインの傭兵として、マカオやマニラへ出ていき、そこで各国の手先として、日本人同士争ったサムライたち。アンボンで、雇い主のオランダ人に恐れられ、あげく、スパイの嫌疑を掛けられ拷問死していった日本人傭兵たち。 安土桃山の繁栄をよそに、オランダやポルトガルに売られていった日本人女性たち。吉原遊廓の火災で死んでいった遊女たち……。苦しいような、もの悲しいような、叫び出したくなるような様々な思い。その思いに「つらかったネ、苦しかったネ」と心の中で話しかけると、自分の中から突き抜けるような衝撃がわき上がってきて涙が止まらなくなる。
    集団行動の中で、「これってやばい!」そう思うや、小さな公園の公衆便所へ逃げ込む。トイレに飛び込むや、自分の中から、「間違ってきた」という思いが突き上がってきて止まらない。何が間違ってきたのか? 「何が……」でなくて、みんな、全部、元から間違ってきた。間違った根本の上に、自分を正当化する生き方を求めてさまよってきた。そんな思いが止まらなくなった。


    市岡高校◇市岡高校
    みんなからかなり遅れて最後の目的地、市岡高校に着いた。僕に、人間は「肉体」ではなく「意識」だということを、本当の意味で教えてくれた田池さんが教頭先生をしていたところだ。陸軍予科士官学校から特攻隊の隊長となり、出撃を待たず終戦となり、以後、学校教師として人生の再スタートを切った。「カエル学級」とか「ゼロ学級」 とかを開き、生徒たちから慕われたという。それは、僕の仕事上の得意先に「柳々堂書店」という建築専門書の老舗があるが、ここの女社長から聞いたことだ。彼女は、かつて田池先生の教え子だった。
    思えば不思議な縁だと思う。僕の生まれたのが九条の本田。その後大正区の三軒家に移ったが、いずれの場所も田池先生の育った場所のすぐ近くであり、田池さんが先生をしていた市岡高校の近くでもある。その後、登美丘高校に移られたが、僕たちもその後を追うようにして三軒家から堺の福田へと引っ越した。そこは登美丘高校が近くにあり、僕自身は登美丘高校は受験で失敗したが、失敗して行った私学は、田池先生が住まいしておられた長居という場所にあるという具合だ。もちろん、その頃は、田池さんを知るわけもなく、まるで、知らず知らずに田池先生の追っかけをしていたみたいだ。市岡高校の正門前でそんなことを考えていた。 考えながら、またぞろ「みんな間違ってきた」「根本からすべて間違っていた」そんな思いに突き動かされる。
    「でも、何が間違っているんだろう?」
    小さかった頃、三軒家の電車道を一人で歩きながらよく思った。「死んだどうなるんだろう?」答えのでない思いに不安を感じた頃が、この場所にいるとよみがえってくる。そんな思いに終止符を打つ方法。「まだ先のことだ。今は楽しいことを考えよう」。

    町歩きは、ここで終点らしい。「何が間違っているのか」「すべてが間違っている」とはどういうことだろう。これから後は案内人はいない。 自分の内へつながる道は、自分で歩いていくしかないようだ。

    案内人の声「懇親会に参加される方は、ここに残ってください。行かない人はここで解散です。弁天町駅へと向かってください。」

    江戸時代、街道を行く旅人はトイレをどうしたか?

    2009.11.09 Monday

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      2009年9月2日に日本橋を出発し、今日11月9日、 69日かかって土山(滋賀県)に着いた。49の宿場を通過し、431キロを歩いたことになる。あとは水口、石部、草津、大津、京都と5つの宿場を残すのみとなった。

      あのーっ、本当に歩いたんじゃなくて、いえ、歩いたのは本当に歩いたんですが、「五街道を歩く」という万歩計の上での話なんです。歩くのに張り合いを付けたくて、今年の9月1日にこの万歩計を買いまして、まずは「東海道」からと挑戦したわけです。「今日は品川、明日は川崎……」と、そんなことを思いながら歩いていると、この宿場はどんなところだったのかと気になったり、昔の人は、1日どれぐらいの距離を歩いていたのか、下世話な話ですが、途中で排便の欲求に勝てなくなったらどうするのかとか、そんなことが急に気になってきて。そりゃあ、私たち庶民なら、立ち小便とか、草陰に隠れて用を足すとかするでしょうけど、参勤交代の大名行列の方々は一体どうされていたんでしょうか。
      そこで早速、調べてみることにしました。

      昔の旅人がどれぐらいの速度で歩いていたかとか、この宿場はどんな所だったのかとか、そんなことは意外と簡単に調べることが出来るんですが、用を足すなどという日常的で当たり前のことは、誰も記録に残していない。広重の浮世絵「東海道五十三次」など見たって、トイレや用を足してるところなんか描かれていませんしね(笑)。だから、この調べごとが、結構、厄介なんですよ。

      ところが、ところがです。これが当たり前でない人たちがいた。全く異なった文化圏に放り込まれた、あるいは自ら好んでやってきた人たちがいた……「外国人」あるいは「異邦人」と呼ばれる人たちです。彼らは、好奇心満々で、日本人の一挙手一投足に目を光らせました。そして、それを紀行文に書き残したんです。ケンペルしかり、ツンベリーしかり、シーボルトまたしかりです。今ならブログにでも書くんでしょうが……彼らは、それらのことを「江戸参府旅行日記」「江戸参府随行記」「江戸参府紀行」などの日記に書き残した訳です。どれをとっても、彼らのびっくりしたこと、困ったこと、感動したことが、生き生きと書かれています。勿論、旅先のトイレのことや、雨上がりの後のぬかるんだ街道を誰が整備したかまで、事細かに書いているんです。日本人の旅人にとっては、日常的なことで気にかけないことも、彼らにとってはサプライズなことだったのでしょうね。

      まずケンペルの「江戸参府旅行日記」を見てみましょう。彼は東海道の状況を、「木陰となる松の木が街道の両脇に狭い間隔で真っ直ぐに植えられてあり、降雨時のための排水口がつくられ、雨水は、低い畑地に流れ込むようになっており、みごとな土堤が築かれている」と、街道の状況を描写しています。このため、「雨天続きの時はぬかるんでいる」が、「普段は、旅行者は良い道を歩くことが出来る」ということも観察し記録ています。また、参勤交代などで、身分の高い人が通る場合は、街道は直前にほうきで掃除され、両側には数日前から砂が運ばれ小さい山がつくられます。万一、到着時に雨が降ったとき、この砂を散布し道を渇かすためだそうです。そればかりではありません。二、三里ごとに路傍に木葉葺きの小屋をつくり、その近くの目立たない側道との間を垣で仕切ります。その小屋は、大名や身分の高い人たちが、休憩したり用便したりするためのものだと言います。

      そして、これら道路整備やトイレ小屋の設置を誰がやっているかというと、近在の百姓たちだというわけ。百姓たちは、ボランティアでなく、自分たちの利益につながるとして、この整備をしているとも言います。まず、道路の清掃は、毎日落ちてくる松葉や松かさなど、焚き物として利用され、薪の不足を補い、ところかまわず落とされる馬糞は、百姓の子供が馬のすぐ後を追いかけ、まだ温もりのあるうちにかき集め、自分の畑に運んでいきます。すり切れ捨てられた人馬の草鞋は拾い集められ、ゴミとともに焼かれ、灰=カリ肥料として使われるのだそうです。

      ツンベリーは、このことを、より具体的な記事として書いています(「江戸参府随行記」斉藤信訳)。「ここでも他のいくつかの場所でも、街道では子供や老人が、旅の馬が落とす糞をせっせと入念に集めていた。彼らは、柄の先に付けた匙のような貝殻で、かがみこまないで器用に集めていた。そして拾い上げた馬糞は、左手に持った籠のなかに入れた」と……。

      さて、大名や高貴な人たちのトイレが、農民たちの手で、二、三里ごとに設けられていることは分かった。では一般庶民のトイレはどうだったのでしょう。ケンペルは、そういった庶民のトイレも百姓たちが自費でつくっていたと言います。それも競って、自分のつくったトイレを旅人に使ってもらおうとしたようです。特に女性用のトイレを小綺麗につくり、女性が安心して入れるトイレづくりを目指しました。女性が安心して使えるようなトイレは、利用者が増えるということらしいのです。当時の旅人の糞尿は、大切な肥料になります。旅人たちは、少なくとも自分たち百姓よりうまいものを食っている。ということは肥料としても価値が高いと言うことになるわけ。この糞尿を少しでも多く集め、灰などと混ぜ合わせて肥料にするという次第です。

      しかし、トイレは小綺麗でいいのですが、それを集めて蓄える肥溜めまでは、百姓たちも気がまわらなかったようです。ケンペルは、百姓たちのことを「欲得ずくで不潔なものを利用する」と評し、「田畑や村の便所のそばの、地面と同じ高さに埋め込んだ蓋もなく開け放しの桶の中に、この悪臭を発するものが貯蔵されている。百姓たちが毎日食べる大根の腐ったにおい(タクアンのことか?)がさらに加わるので、新しい道がわれわれの目を楽しませるのに、これとは反対に鼻の方は不快を感ぜずに入られないことを、ご想像いただきたい」と、冗談混じりに訴えています。

      これがツンベリーになると、もっと悲惨です。彼は、肥溜めを「穴」と称し、「その穴には農夫が根気よくせっせと集めた糞尿が蓄えられている。農夫は自分の耕地を肥沃にするためにそれを使う。しかしその多くは通行人が吐き気を催すような堪え難い悪臭を発する」と、その臭いに苦しめられ、「鼻に詰め物をしたり、香水を振りまいても、まったく無駄なくらい強烈である」と、ため息をもらしています。

      トイレに対する疑問は解決しましたが、話まで臭くなってきてしまいました。
      気分直しに、庶民が東海道五十三次を、どのようにして旅したのかを、最後に見ておくことにしましょう。まずは、どんな格好で旅をしていたのかということから。

      ◇旅装
      1.武士の場合=菅笠(すげがさ)、紋付羽織または野羽織(のばおり)、野袴(のばかま)、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、足袋、草鞋履き。刀には柄袋(つかぶくろ)を掛け、荷物は挟箱(はさみばこ)に入れて家来に担がせた。

      2.町人男子の場合=菅笠、着物(歩きやすいように裾をからげます)、手甲、股引(ももひき)、脚絆、足袋、草鞋履き、荷物は平行李(ひらごうり)や風呂敷に入れて振り分け荷物にし、肩に掛けます。道中差(どうちゅうざし)は慣れた人だけが腰に差して歩きました。

      3,一般的な男性の携帯荷物=着物、手ぬぐい、股引、脚絆、足袋、甲掛け、下帯、扇、矢立、鼻紙、財布、道中案内書、日記帳、巾着、指刀、耳かき、風呂敷、薬、針、糸、結髪道具、煙草道具、提灯、ろうそく、合羽、平行李、綱三本(宿で塗れた手ぬぐいを干すのに使うそうです)。

      4,町人女子=菅笠、着物、着物の上には上っ張りを着ます。着流しの着物の裾はからげます。手甲、脚絆、白足袋、結い付けの草履。

      ◇旅の日数
      1.徒歩=一日の歩行距離は、男子で平均10里(39.27km)、女子や老人で8里(31.42km)。晴天で川留(雨による増水で渡河禁止になること)なしと仮定して、江戸〜京都間を、男の場合で、13泊14日の旅程が一般的。この旅程での宿泊地は、戸塚、小田原、三島、蒲原、岡部、日坂、浜松、赤坂、宮(熱田)、四日市、亀山、土山、草津が一般的。
      江戸と京都間の距離は、126里6町(約496km)になるので、一日の歩行距離は35.4kmとなり、これって結構速い! 僕の場合、朝夕の散歩と日常の歩きで、少ないときで6km、よく歩いたと思うときで10km程度。勿論、比べられはしないが、10km歩いたときなど、脚がだるいと感じるから、昔の旅人というのは、健脚ぞろいだったのかも。


      2.駕籠(かご)=全旅程を駕籠というのは考えられないが、早駕籠といって、宿場の人足が、駕籠に急使を乗せて、宿場宿場を引き継ぎながら昼夜兼行で走るというのがある。勿論、公用に限られる訳だが、最高記録は、江戸から赤穂までの170里(約668km)を四日半で走ったというもの。赤穂の名が出て察しがつくように、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の江戸城内刃傷事件を知らせる早飛脚である。

      このほか、旅の費用であるとか、道中の人間模様とか、川渡りの模様であるとか、興味は尽きないが、調べだしたら際限がない。この辺で「東海道・道草話」はやめるとして、いつか万歩計でなく、実際に書店営業を兼ねて歩いたら面白いのではないか。そんな妄想にとりつかれている。

      (左図は、安藤広重「東海道五十三次」中、土山「春の雨」=「東海道中膝栗毛」が大ヒットし、東海道ブームが起こり、浮世絵も「役者絵」「美人画」から街道の風景を描いたものが流行るようになり、このブームにのって一躍有名画家となったのが、安藤広重。ゴッホにまで大きな影響を与えたという人物ですが、彼の「東海道五十三次」は、実は司馬江漢の「東海道五十三次画帖」を元画とした盗作ではないかということが、現在、世間を騒がせています。

       

       

       

       

       

       

       


       

       

       

      「あなたの知らない奈良のかつらぎさん ―かつらぎガイドブック―」

      ISBN978-4-909201-06-5 A5判 250ページ(オールカラー) 1,200円+税

       

      2018年12月20日、この本の出版協力者の呼びかけが、クラウドファンディングでスタートしました。
      書店が良心的な「少部数出版物」と「読者」との出会いの場所でなくなった今、「本」と「読者」を結ぶ新しい試みだと思います。ぜひ、内容をご確認の上、ご協力をお願いいたします。

       

        協力の内容 1口 2,500円には

        あなたにお送りする「本」1冊1,200円/図書館用に寄贈する「本」1冊1,200円/発送費 2件分500円

        が含まれています。


      ご申し込みいただいた方は、上記タイトルの本を1冊送らせていただくほか、この「本」の巻末に「応募者の氏名と都道府県名」を、出版協力者として掲載させていただきます。例:「山田太郎 大阪府」「山本花子 奈良県」


      https://readyfor.jp/projects/katsuragi 

       

      表紙は、大阪芸術大学デザイン学科3回生 津村凪咲さん提供のものに決定しましたが、細部は変更になる可能性があります。

      日の出ビューポイント Vol.2 ほのぼの公園

      2009.11.07 Saturday

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        ほのぼの公園の朝日

        ほのぼの公園とゴロ今朝の日の出は、本当にきれいだった。
        ただ広陵町ではなく、隣の河合町は「ほのぼの公園」での日の出ビューなのだが……。

        この「ほのぼの公園」、直線距離で行くと、ほんの500メートル強とすぐ近くなのだが、4世紀後半につくられた、この辺りでは最古の佐味田宝塚古墳があり、この古墳を迂回するように進むため片道1.7キロ近くを歩かねばならない。家を出発したのが6時10分、途中で陽が昇りはじめ、大急ぎで公園を目指した。
        この日は、朝から霧が深く「どうだろうか?」と心配しながら向かったのだが、着いてみると、公園前の池の面に霧が漂い、そこに朝日が映えて実に幻想的な光景をつくりだしていた(冒頭の写真)。
        カメラを向けるが、シャッターを切ろうとすると大きく手がぶれる。何かと思えば、ゴロとトマのリードを持ったままカメラを構えていたのだ。人の居ないのを幸い、面倒だとばかり、ゴロとトマのリードを離してやった。
        撮影の間中、2匹はのんびり散歩と洒落こんでいた。

        ゴロとトマの追いかけごっこ撮影も無事終わり、「帰るぞーっ」と2匹に声をかけ、リードを付けたまではよかったが、トマが降り立ったカラスを見つけ、リードを付けたまま一目散にカラスを追いかけ始めた。さすが猟犬の末と感心している場合ではない。ゴロまでがつられて、トマを追いかけだしたのだ。こちらもつい声が荒くなり「帰ってこい!」と叫び出す。こちらの剣幕にビックリしたのか、2匹は振りかえると尻尾を振りながら戻ってきた。まずは「めでたし、めでたし」というところで、今日のところは、これまでとさせていただきます。

        ゴロとトマはのんびり散歩
        ほのぼの公園の朝日

        ほのぼの公園から帰ろうとして振り返ったとき、あまりにきれいだったので、最後に撮った1枚です。一番のお気に入りの写真になりました。

         

        広陵町・日の出ビューポイント No.1 横峰公園

        2009.11.05 Thursday

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          横峰公園の日の出
          蛇松とゴロ
          サラリーマン生活をやめてからというもの、まるで絵に描いたような健康的生活をしている。夜はたいていは10時には寝てしまう。おかげで朝が早い。5時過ぎには目が開き、朝風呂と洒落込む。何をするでもなく、ただ湯に浸かり、考え事をしているような、していないような……。
          6時前には犬のゴロが散歩をせがむ。しかし、散歩の前の行事がある。バナナダイエットだ。一本のバナナをを、一人と三匹(犬のゴロとトマ子、それにウサギのキャロ)で分かち合いながらというか、ねだられながらというか、ともかくバナナを食わないことには、世界は動き出さない。
          こうして早朝6時、ゴロとトマを伴い、いよいよ散歩へ出発。
          だいたい万歩計で3500歩〜5000歩、距離にして2キロから3キロを歩く。すると、今頃の季節だと、6時半頃には太陽が昇りはじめる。最初は無意識に日の出を眺めていたが、そのうち、日の出が「絵」になる場所を意識的に探すようになった。
          写真の横峰公園もそうだ。最近の公園は、「犬を連れてくるな」という所が多い。全くけしからん話だが、この横峰公園だけは、それがない。そのため、夕方などは犬のたまり場となる。それでも早朝は、人も犬も少なく、ゴロもトマもノーリードで走り回ることができる。
          中央がグランドで、それを取り巻くように遊歩道があり、さらにその周囲に雑木林の中を散策できるコースがある。この雑木林の中に、僕が「蛇松」と勝手に呼んでいる松がある。幹が蛇が鎌首をもたげたような、はたまた龍が天に昇らんとするかのような風情であるが、あるとき、この松の向こうに日が昇っていく光景が見えた。
          写真に撮ってみたら、そんなにかっこよくなかったが(下の写真)、肉眼で見ているときは、何とも言えず荘厳だった。
          次の日、グランドを挟んで反対側から見たら、どんな雰囲気だろうと、この日もカメラ持参で日の出を見に来た。これがよかった。早朝、野球の練習を始めた子供が画面の下に写り、まだ薄暗いグランドと雑木林の向こうに太陽が昇っていく。これから一日が始まろうとする躍動感と静けさが絶妙のバランスで映し出されている。そんな自画自賛の一枚が、冒頭の写真である。自慢話がそろそろ鼻に突きだしたところで、今日はお開き。

          蛇松と日の出

          本田せつ子著「お母さん、ごめんなさい」

          2009.11.04 Wednesday

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            今日、12月初旬に発行される「お母さん、ごめんなさい」の最終校正が終わった。
            いつもながらの断りだが、本の宣伝をするつもりはない。ただ、自分が手がけたものについては、何か一言しゃべってみたくなる。「こんないい本を作ったんだぞー」って自慢したくなる。
            いつまでも幼児癖が抜けないってことかも知れない。そこのところは、ご勘弁、ご勘弁……。

            さて、著者の本田せつ子さんだが、昭和25年に函館市で生まれた。小さな頃から精神世界に興味があり、「幽体離脱」等、いろんな霊体験もされているようだ。長じて「心理学」を志すようになり、大学や大学院で、「発達心理学」や「児童心理学」を学び、卒業後は、保育専門学院で講師をしたり、公の家庭児童相談室の相談員や、保健所発達クリニックの心理相談を担当したりと、少し前までは、心理学の立場から子供の心の問題に取り組んできた。

            そんな彼女が、チャネラーになってしまった。
            チャネラーって何かって? ウーン、一言でいえば、言葉を介さず他人の思いが分かる人ってことかなあ。僕たちって、言葉や時には身振り、つまり耳や目やそれに口も、要するに五感を使って情報を伝達し合っているだろう。これって便利だけど、本当いうと不正確だよね。だって口で「人間は心ですよ、心が大事ですよ」って言ったって、本当のところは分からない。内心は「金だ、金だ」って思ってるかも知れないじゃないか。ところが、人は言葉を発するだけじゃなく、「思い」というのも「波動」として出してるらしいんだ。その「思い」が伝わってきたら、これは、もう間違いがないよね。あくまで受けてのチャネラーに雑音がないとしての話だけど……。
            さて本田さんの話に戻ろう。彼女がチャネラーになってしまうと、どんなことが起こったか。
            相談に来る人たちは、子供の問題を通して、それぞれ自分の苦しい立場や思いを語ってくる。ところが、それと同時に問題を抱えている本人や子供たちの思いも同時に伝わってくるようになったんだ。そんな思いに耳を傾けていると、みんながみんな形を何とかすることばかり考えて、本当に大事なことは考えようともしない。本田さんは、「マニュアルどおりでは伝えられない、本当に伝えなければならないことは、こんなことじゃない」って思うようになった。でも、それって公の立場では言えないらしいんだ。そのギャップに苦しんで、本田さんはカウンセラーの仕事をやめた。
            少し長くなるが、ご本人の言うところを聞いてみよう。

            「私は今、五十歳半ばです。自分の小さい時、また学生時代を振り返っても、今とは全く様相が違います。いつの頃からか社会が大きく動き、人々の価値観も 変貌を遂げています。二十年あまり子供の問題についての相談業務に携わってきましたが、子供の問題も複雑化し、多様化していることに気付きます。相談内容にも大きな変化が見られるようです。公的な相談機関に勤務してきましたが、そこでは言葉や発達の遅れ、自閉症、学習障害、注意欠陥・多動性障害、ダウン症、また登校拒否、落ち着きのない子供、適応障害、非行などの子供を持つ親とのカウンセリングを主にしてきました。障害や問題を持つ子供の療育というよりも、障害や問題のある子供の親との心の触れ合いや交流を図ってきました。悩みを聞いて受け止め、アドバイスをしてきました。
            しかし、カウンセリングを行いながら、私はその当時学び始めた、「人間とは何か、人生の目的とは何か、人間の本質とは何か」を探求する上で、自分が心の中に見いだしてきた解答と、学問を基盤としたカウンセリングとの間のギャップに、戸惑いを感じるようになっていきました。言葉の遅れや発達の遅れは、親にとっては大きな問題です。だから、その対応は一応伝えます。でも私の本音は、そんなことは大して重要なことではない、それよりも、もっと大切にしていかなくてはいけないことがたくさんある。夫婦は仲良くしていますか、嫁姑の間はいかがですか、あなたは自分を大切にしていますか、あなたが子供に望んでいること、それは本当に大事なことですか、外に見える事柄よりも、もっと子供の心を大切にしてほしい、そのように伝えたい相談が山のようにありました。子供の能力を引き出すことも大事かもしれない。でも、それよりももっと大事なこと、私は親たちが一人ひとり、もっと自分の心を見つめていくということを伝えたくなりました。相談室には親は直接的な解答を求めてやってきます。しかしながら、家庭の歴史の中で培われてきた諸問題は、そう簡単には解決できません。それには親自身の意識の変化がどうしても必要になってきます。生活をしていく基盤、もっとはっきり言えば、生きていく基盤を変えていく必要があります。それを伝えるときに、私は公的な機関では無理があるということに、段々気付かされました。
            形の世界、また表面的な心の世界を変えていくということは、相談室でも伝えることはできます。でも、それは一時の変化です。本当に大切なことは、生きる基盤を変えていくということ、そして、それは肉的な幸せ、肉的な解決を求める心とは相容れない世界なのだということを、思い知らされました。
            親が不満を訴える、自分の心を語る、でも親自身の意識が真っすぐに私に伝えてくる思いとはかけ離れていても、親の心情を考慮したり、自分を守る思いから、それを指摘することも、本当の幸せについて語ることも十分にはできませんでした。それが段々苦しくなってきて、私は職を辞しました。
            子供の様々な問題を考えるとき、今、何が一番大事なのか、そして、なぜこのように様々な問題が引きもきらず次々と起こってくるのか、肉と意識の世界両面から子供の問題を語っていきたいと思うようになりました。」 

            こうして、2007年2月、「母親のぬくもり−子供の問題−」が書かれた。続いて同じ年の11月、「幸せへの道が開かれて−精神障害から喜びの世界へ−」が、翌2008年3月には、家族間での心の葛藤を取り上げ、本当の幸せは何かと言うことを考える「家族の風景」が書かれた。今度できる「お母さん、ごめんなさい」は、これまで取り上げた問題の上に立ちつつも、より具体的に「心を見る」ということの大事さを伝える、いわば、本田さんの総決算とでもいうべき1冊だ。

            あっ、これってやっぱり「本」の宣伝かなあ……? ま、いいかっ。

            ジャガイモの状況
            我が仕事場のジャガイモ君、11月1日の状況。地中の根から吸収された水分が、露となって葉の表面から排出されています。自浄作用が働いているのだそうです……感動してます。

            相撲の開祖 當麻蹶速(たいまのけはや)の塚を訊ねる

            2009.11.03 Tuesday

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              マイ自転車

              今日は、まず僕の奈良散策の大事なアシスタントを紹介しておきたい。
              1台目は、「グリーン」と名付けたMUGELLO-M700というイタリア出身の自転車。イタリア出といっても高価なものでなく、今の広陵町へ引っ越してきたとき通販で買った大衆車だ。一度、ひどい転び方をして前輪が歪んでしまったことがある。顔見知りの自転車屋で修理を頼んだが、国産のホイールでは合わずイタリアから取り寄せになるという。自転車屋は「高い買い物になるから、新しいモノを買った方が気が利いている」ともいう。しかし、この自転車、そのときだけ通販用につくられたモノらしく同じマシンは手に入らない。そこで無理を言って、なんとか修理できないかと頼み込んだところ、気がやさしい彼は、自分に言い聞かせるように「お孫さんの自転車も買ってもらってるし……」というと、丸二日間かかって、曲がったホイールを真っ直ぐにし、スポークを一本一本はずして、これも歪みを直したうえで組み立てなおすという荒技をこなしてくれた。さぞ高い修理代を言われるかと思ったが、「タイヤのチューブを換えたから、チューブ代だけ頂きます」と、修理代は決して受け取ろうとしなかった。今時、こんな青年がいるのかと感動したものだ。

              コシモ・デ・メディチところで、なぜ、この自転車に、ここまでこだわるかというと、その名前のせいだ。MUGELLO……おそらくメーカー名だと思うのだが、マニアでもない僕には、いいのか悪いのかも分からない。ただイタリアのMUGELLO(ムジェロ)という地名には大いに興味がある。フィレンツエの北およそ30kmの地点にあるムジェロ、今ではサーキット場があることで有名だが、実はルネッサンスを支えた金融資本家メディチ家の出自と大いに関係があるようなのだ。ある文献は、「メディチ家は13世紀に入るや、フィレンツェ社会の中で急速に頭角をあらわしてくるが、それ 以前のこととなるとまるで分からない。一説にムジェッロで炭焼きをしていたと言われており、それがなぜフィレンツェ社会でどのようにして身を起こしたのか、まるで中世 の霧の中から忽然と現れてきたとしか言いようがない」と、メディチ家の出自がムジェロにあることをほのめかしている。
              真偽のほどはともかく、メディチ家に興味のある僕としては、偶然通販で買った自転車のフレームに「MUGELLO-M700」とプリントされているのを知り、まるで運命の出会いのように思ったものだ。

              2台目の自転車「イエロー」は、DOPPELGANGER-CROSS。これも名前が気にいって1年前に購入した。ドッペルギャンガーといえば、普通は「自己像幻視」と訳される心霊的な現象のことを言う。自分は別の場所にいるにも関わらず、他人が違う場所で自分を見たとか、自分が違う自分と出くわした等という現象のことをいうらしいが、ドイツ語でdoppel(英語ではdoubleになるが)というと、自分と瓜二つではあるが邪悪なものだという意味を含んでいるらしい。自分で、この現象を体験したら死ぬ前兆だという伝承さえあるという。そんな現象名を、自転車のメーカー名に付けている。そのことににまず惹かれた。メーカーのホームページを開いてみると、DOPPELGANGERをいい意味で「自分の分身」ととらえ、持ち物はその人の分身だから……というような感覚らしい。
              どちらにせよ気に入った。邪悪なものをも包み込んだ自分という存在に気づかせてくれるような名前だ。河内山の台詞ではないが「悪に強けりゃ善にもと……」というところか。

              古風な交番とサンドバギー愛車の紹介も終わったところで、早速、奈良散策に出かけてみよう。今日は我が広陵町の隣町に当たる当麻町、目指すは相撲の開祖といわれる「當麻蹶速(たいまのけはや)」の塚、お供はイエローことDOPPELGANGER-CROSS。
              まずは近鉄下田駅まで南下し、大和高田バイパスへと出、ここを右に二上山を見ながら当麻の交差点まで走る。交差点には「右、当麻寺」の標識がある。これを反対の左へ折れると「相撲館けはや座」の幟が迎えてくれる。角には古風な交番が、レトロな雰囲気を醸し出しているが、いきなり妙な乗り物が飛びだしてきた。農耕用トラクターではない、サンドバギーだ。古い町並みに、妙にマッチしているから面白い。
              それはさておき、この古風な交番の向かいが「葛城すもう館 けはや座」だ。館内には本場所の土俵や桟敷が再現されているほか、江戸時代の番付表など相撲資料が数多く展示されている。
              そして、この建物の隣が、當麻蹶速(たいまのけはや)塚ということになる。
              塚の横には、當麻蹶速についての説明書きが金属板に彫られて展示されている。まずは一緒に読んでみることにしよう。

              当麻蹶速について相撲開祖 當麻蹶速の塚
              日本書紀によると「當麻の村に、大変勇ましく強い人がいてその名を當麻の蹶速という。その性格は大変な怪力で、動物の角を引き欠いたり曲がっている鉄の筒を引き伸ばしたりします。そして、いつも人に語るのに、日本の国ひろしといえども、とうてい自分の力にかなう者はあるまい、なんとかして力の強い者にあって、命がけで力比べをしたいものだ、と語っていました。」このことを天皇がお聞きになり、臣下に仰せられた。「もし誰かこの男にかなうような強い者がほかにはいないだろうか」と。すると一人の臣下が進み出ていうのに、「私は出雲の国に野見の宿禰(のみのすくね)と言う力の強い人がいると言うことを聞いています。それでこの人をよびよせて蹶速と力比べをさせてみてはどうか」と言った。そこで、垂仁天皇の七年七月七日を期して、當麻の蹶速と野見の宿禰とに日本国技として初の天覧相撲を取らせることになった。二人は互いに向かいあって立ち上がり、おのおのの足を高くあげて蹴り合い、力闘の末、當麻の蹶速は野見の宿禰にあばら骨を踏み折られ、またその腰を踏み折られてしまい、敗者となってしまった。當麻の蹶速は高慢な人のようですが、実際には都ずれしない素朴で野性的な性格のため、朝廷の人々と相いれなかったと想像されます。そのため、当地の人々からはかえって親しみをもたれた。石塔は田畑の中に鋤かれることなく、現在まで貴重な遺跡として残されているのです。

              要は、当麻に“けはや”という勇ましい人物がいた。彼は自分ほど強い者はないと思っているような高慢ちきな男で、天皇はそれが気に入らない。なんとか“けはや”の鼻をくじく者はいないのかと探していると、出雲に“野見のすくね”という力自慢の者がいるという。では、というので、天覧相撲とあいなり、天皇の期待通り、“けはや”はあばらや腰の骨を踏み折られ亡くなってしまうという筋書き。
              しかし、この解説を書いた人物も、何かおかしいと思っているようだ。“けはや”のことを都ずれしない素朴な性格のため、朝廷とは相いれなかったが、土地の人々からは慕われていたと付け加えている。

              けはや記念碑03

              そこで違った見方をしてみよう。
              葛城氏や當麻氏は、大和朝廷からみれば被征服民族であり、いずれも、まつろわぬ人々だったわけで、“けはや”というのは、そんな一族のリーダー的存在だったのではないか。しかも征服されたとはいえ、大和朝廷に対し決して従順ではなかった。何かあれば反旗を翻しかねない、そんな火種を抱えていたのではないだろうか。出雲族も同じように、大和朝廷に支配されたとはいえ、鬱々としたものを抱えていたのではないだろうか。しかも葛城・當麻・出雲は元々同族の可能性も指摘されている。當麻氏は葛城氏に属するわけだが、その葛城の地には、出雲の神々が多数祀られているのだ。
              つまり垂仁天皇は、同族同志を争わせ、その牙を抜いておこうとしたのではないだろうか。その象徴的な話として「歴史上初の天覧相撲」があるのではないか。

              他にも、岡山の吉備氏と奈良の葛城氏の関係を巡って、雄略天皇が横やりを入れたことが「日本書紀」にあがっている。吉備氏のリーダーである吉備田狭(きびのたさ)が、「自分の妻ほど美人はない」と自慢しているのを、雄略天皇が知り、彼を朝鮮半島の任那に派遣してしまい、その留守中に、彼の妻稚媛を自分の妃にしてしまったのだ。その稚媛というのが葛城氏の娘だった。
              要するに、雄略は稚媛を奪うことで、葛城=吉備連合に楔を打ち込んだことになる。

              葛城=出雲連合が、「當麻蹶速事件」でつぶされ、葛城=吉備連合が、「稚媛強奪事件」でつぶされた。いずれも大和朝廷の統一政権確立の中でおこった出来事と考えても決しておかしくはないだろう。
               (写真は、相撲開祖 當麻蹶速の塚)

              色鉛筆画「大槻ゆり展」―色鉛筆の世界―

              2009.11.01 Sunday

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                ミュージアムから琵琶湖を望む

                琵琶湖グランドホテルでの集まりの帰途、比叡山ガーデンミュージアムで開かれている大槻ゆりさんの個展に行ってきた。題して「色鉛筆の世界」……。
                曲がりくねった比叡山ドライブウエイを登りつめ、会場の比叡山ガーデンミュージアムに到着。印象画の絵画(レプリカ)が、庭園の花々と見事にマッチして、空気の透明さも相俟って、何とも言えない爽やかな空間がつくり出されている。まるで、下界の喧噪が嘘のような世界だ。
                大槻ゆりそのガーデンミュージアムの中ほど、ローズガーデンに個展会場はあった。バラに飾られた空色の階段に「色鉛筆画 大槻ゆり展 ―色鉛筆の世界―」の案内表示がつるされていた。
                会場へはいると、ガーデンミュージアムの透明感にもまさる、これが色鉛筆かと思えるような爽やかな作品が、気持ちよく展示されている。会場の入り口には、彼女が表紙画をてがけた本や、彼女の作品が紹介された雑誌が展示されていた。そのなかに、僕が彼女にお願いした本も2冊混じっていた。
                1冊は「続・意識の流れ」のホントビラの挿し絵。もう1冊は、政府刊行物時代につくった「スイス留学大作戦」の表紙カバー。
                感動して中にはいると、受付には、彼女にお願いした本の「栞」(なかよし小路)が、次のようなメッセージと一緒に積まれていた。

                本日はご来場いただきありがとうございました。“しおり”をよろしければお持ち帰りください。お一人さま一枚まででお願いいたします。UTAブック新刊「第二の人生」の中しおりとして出版されているものです。

                何より嬉しかったのは、みんなが喜んで「栞」を持って帰ってくれ、最初の200枚はすぐになくなり、追加分も、もう少なくなっているということだ。(この栞というのは、10月29日にアップした『塩川香世著「第二の人生」の編集を終えて』の中で紹介した「栞」のことだ。)

                ところで、大槻ゆりさんのことを知ったのは、「舫」」という1冊の雑誌を通してのこと。その表紙に大槻さんの画が使われており、作者の紹介のページに彼女が重症筋無力症だということが書かれていた。浅学なため、どんな病気は知らないが、文字や言葉の響きからおおよその見当はつく。そんな彼女が、一枚の紙の上に、こんな微妙で繊細な色合いの世界をつくり出していけるものだろうか。まず、そんな疑問が起こった。
                好奇心が先に立ち、web上を検索してみると、彼女自身が書いた次のような一文に行き着いた。

                大槻ゆりさん私は重症筋無力症、擬性バーター症候群という筋力の病気です。通常は健常者と同様に見えますが、突然症状が変化する為(日内変動)外出しづらく、生活圏が狭くなり、誤解をうける事も多くなりました。病気からくる心の不安は、視野を狭くさせ、別の病をつくります。人を疑うようになってしまった時に、病気を理解して下さる方と出会えた事は幸運でした。家にいながらも関心のキーを外に向けさせ、複視や眼瞼下垂で物が見えない時、見えなくても聞くことができる音読テープを教えて下さりました。情報を見るだけでなく聞く事も自信と心のゆとりにつながる事を知りました。そして、いざと言う時に助けて下さる方がたに出会えた事が、何よりの心の支えです。また、大好きだった絵が病気と、病気からくる心の病で描けなかった時に「頑張らなくて良い」といわれたことが救いになりました。障害を持っている以上、どんなに頑張っても健常者には追いつけない事があります。知らず知らずの間に無理をしていた自分に気付かされ気持ちが楽になりました。努力を忘れず、心意気をもちながら気負いすぎない自分を目指したいです。夢は絵本を出すことと自分のことが自分で出来るようになることです。そして人にも分けてあげられる様になることです。振り返った時、障碍が財産になっている、障碍を越えられるそんな人生が送れたら素敵だろうと思います。絵は言葉が要りません。言葉のないところから何かわずかな共感が生まれたらとても素敵だと思います。 大槻ゆり
                スイス留学大作戦
                その後、「続・意識の流れ」で、ホントビラの挿し絵をお願いし、政府刊行物時代には「スイス留学大作戦」という、幼年令留学をあつかった「本」の表紙画をお願いした。
                結果は大成功で、今現在は、UTAブックというシリーズ本の「栞」を、新刊が出る都度、提供いただいている。「栞」という4cm×12.5cmの小さな空間に、フワーッとした透明感のある色の世界が、本が出る都度、生みだされていく。僕の「本」を造るうえでの楽しみが、また一つ増えた。

                ◇追記
                比叡山ガーデンミュージアムのゲートを入ったところで、カレンジュラとエリカメランセラの苗を買い、事務所のプランターに植えることにしました。女房曰く、カレンジュラは「冬知らず」の別名があるほど寒さに強いということ。またエリカは小説『嵐が丘』の館の周囲に生えていたのもので英語ではヒースと呼ばれるモノです。
                でも「ヒースクリーフ、ヒースクリーフ」なんて呼び声が聞こえてきたら怖いかも……。

                カレンジュラとエリカ

                安治川・川底トンネルを行く

                2009.10.31 Saturday

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                  またまた個人的なことになるが、僕の生まれたのは大阪市西区の本田というところ。生まれただけで、間もなく大正区に移り、故郷という感覚はない。大正区にしたところで小学校に上がるや大阪府堺市に引っ越したため、愛着というモノがまるでない。両親にしたところで、夫婦そろって故郷と呼べるモノがない、いわば故郷喪失者……。
                  親父は新潟県北蒲原郡黒川村に生まれた。代々、庄屋の家柄で、土蔵には腰の大小はもちろん鎧兜まであったと言う。親父は兄嫁とそりが合わなかったこともあるが、閉鎖的な環境を嫌い、船乗りになるといって村を飛び出し勘当された。
                  以後、外国航路の貨物船の航海士となり、戦争では海軍に招集。重巡洋艦「利根」に信号兵として乗艦していたが、昭和20年、呉沖で撃沈され終戦を迎えた。戦後は瀬戸内航路の客船に乗っていたが、念願の一等航海士の免許を取った途端、僕が生まれた。戦後の給料遅配や関西汽船との合併騒ぎの中で、父は、海を捨てて銀行員となった。
                  安治川新旧地図母は山口県萩の出身だが、祖父の時代、なぜか一族あげて萩を捨て、大阪の大正区に移り住んだという。墓まで処分しての大移動。何があったのか今となっては謎という他はない。
                  大阪に移り住んでから祖父は大阪府警で剣術を教えていたというから、いかにも堅そうな人だったようだ。しかし、母の姉は花柳界で名をならした人だというし、その内縁の夫という男性も家に出入りしていたというから、それほどの頑固者でないのかも知れない。
                  ともかく私は本田に生まれた。父が船乗りだったため、港の近くがよかったのだろう。しかし母が病弱で、僕を産むなり病院暮らしとなった。船に乗るとき、父は生まれたばかりの僕を背負い、祖母の家のある大正区三軒家まで歩いてきたという。そして勤務が終わると、また祖母の家に行き、僕を引き取り本田の家に帰る。しばらくはそんな生活を続けていたらしい。
                  しばらく前のことだが、そんな本田を含む西九条のエリアを歩くという町歩きの集いがあった。僕の生まれたところがどんなところなのか、好奇心も手伝い、参加してみることになった。以下は、その時の覚え書きを編集したものである。


                  ■安治川・川底トンネル
                  九条駅で集合し、まず最初に行ったのが、この安治川トンネル。案内人の話によると、この地に安治川橋が架けられたのは、明治6年(1873)のこと、居留地の交通の便を図るためだという。この橋は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が 航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であり、当時の人々は、この旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。 ところが、この可動橋も明治18年(1885)大阪を襲った大洪水のとき、市内への洪水を防止するため、やむなく工兵隊により爆破撤去されてしまったという。
                  以降、 明治30年には、もと西九条側で施設の渡しを行っていた源兵衛という人が、九条新道の西端に渡しをつくった。これは 「安治川の源兵衛渡し」と呼ばれ、両岸の商人に大いに喜ばれたということだ。 この頃の安治川には、現西区内で七ヵ所の渡しがあったが、源兵衛渡しはもっとも利用者が多かったという。
                  安治川トンネル昭和に入ると、市中の交通量は増すばかり。そこで計画されたのが、安治川隧道(安治川トンネル)だ。 当時は、まだ、船舶の航行が優先される頃で、船舶航行の障害となる橋は認められなかった。では、上がダメなら下ではどうかの発想で、社団法人・土木学会関西支部に調査研究を委嘱し、昭和6年、市の技術者が実際の設計に取りかかり昭和10年に起工式を行ったという。
                  工事は、9年の歳月を要し、終戦を翌年に控えた昭和19年9月15日開通したが、その工法は、水底に溝を掘り、その上に鉄筋コンクリート製の箱を並べるという 「沈埋工法」によって作られた日本初のトンネルなのだそうだ。
                  疑問が残る。なぜ戦争中に、このような大工事が完遂されたのか、まさか人々の便宜のためでもないだろうに……。
                   
                   
                  ■安治川隧道と軍用道路
                  川底トンネルを渡り、エレベーターで地上へ出ると、戦時中使われていたエレベーターと、その上に「安治川隧道」と書かれた看板があった。ここに、先ほどの疑問に対する答えがあった。
                  トンネルを東へ行くと、なんと一本道で玉造訳まで辿り着くのだ。九条新道→千代崎橋→アメリカ村→谷町7丁目→真田山公園のルートだ。実はこの道路は兵器など軍事物資を運ぶために、軍事目的で昭和初期から通じたものだった。森ノ宮の砲兵工廠から貨物線で玉造訳まで運び、この道から川底トンネルを通り此花区の桜島ふ頭から、アジアの戦地へ運ぶ計画だったのだが、全ての道路が貫通するまでに終戦を迎えてしまったというお粗末。エレべータ横の閉鎮された扉は、昭和52年まで通行できた自動車用で、元々は軍用トラック用だったという。

                  安治川隧道データ/総工費は260万円(現在の金額で数十億円)
                  川底部の隧道延長は80.6メートル/中央部は
                  西側(川下)に幅2.4メートルの歩道部があり、東側には車道部(川上)4.5メートル2車線が設けられている。

                  トンネルの両側には
                   車用として3.0メートル×9.5メートル 高さ4mの昇降機を各2台(1時間15往復)、
                   人用として1.8メートル×2.3メートルの24人乗り昇降機を各2台(1時間35往復)を用意しています。
                   また、それとは別に人用の幅1.4メートルの階段があります。

                  時期がはっきりしませんが、使用料が徴収されていました。
                   貨物自動車/50円  普通自動車 40円
                   小型自動車/30円  荷車その他諸車 20円
                   (歩行者と自転車は無料)

                  このデータは、「回線問屋碇屋吉右衛門」のページから転載させていただきました。
                   

                  ■河村瑞軒と安治川竣工
                  トンネルを渡り、安治川の流れを見ながら、案内人の説明を聞く。「現在は安治川を境に西九条と九条に分かれていますが、1684年(貞亨元年)までは一つの島でした。この島は淀川の河口で水流の妨げとなり、幾度もの洪水で甚大な被害を受けました。そこで同年、河村瑞軒が九条島を切り開き水流を直接大阪湾へ通す工事に着手、その工法はまず中央に約15メートル幅の湾を掘り、淀川と大阪湾からの水流を防ぐため、両河口を残し土壁にする。涌き水は数百台の水車で汲み上げ、さらに1万ものハシゴを溝にかけ、土砂を人海戦術で遅び出す。このような溝を順次掘り続け、長さ約3キロ幅90メートルの川筋に広げていきました。 重機のない時代の大変な手作業には、加賀(石川県)など北陸地方の人々も多く採用しました。寒冷地の人々は忍耐強い気質だからです。こうして、わずか20日で工事を完了させたのです。完成の瞬間はのろしを合図に両土壁を撒去。その瞬間、淀川の水流がドーッ!と大阪湾に流れ込みました。川の名は「洪水よ安らかに治まって欲しい」の顧いを込め『安治川』と命名」したと言うことだ。
                  河村瑞軒碑さらに調べてみると、淀川と大和川は、現在でこそ、それぞれ独立して流れているが、かつては淀川下流部で大和川が合流していたという。合流付近には上流から大量の土砂がおし流され、多数の砂州(島)が形成されることになった。これら砂州の流域には低湿地帯が広がり、ひとたび長雨があればすぐに洪水や氾濫を招くようになる。万治・延宝年間(1658〜1680年)には数度にわたって淀川堤防が決壊し、特に延宝2年(1674年)の大雨では、北は枚方から南は生駒山麓、西は大阪にいたる広大な地域が、一面の泥海と化す大水害がおこった。 こうした水害を防ぐため、幕府は淀川改修に着手することとなり、天保3年(1683年)、稲葉石見守、彦坂壱岐守、大岡備前守の若年寄三名に調査を命じた。この時の随行員のひとりが河村瑞賢だった。彼は淀川河口の九条島が水流を妨げていることが洪水の最大の原因であると考え、その開削と、山地の砂防工事をあわせて上申することになり、こうして翌貞享元年(1684年)、九条島の開削から、上記のような工事はスタートすることになったと言う。
                  この川の完成によって、同じく西成郡九条村であった一部が分かれて、現在の西九条になった。右の写真にある河村瑞賢の紀功碑は、大正4年8月に建てられたものという。
                   
                  西九条という地域の基盤が出来たところで、今日はここまで。
                  次の機会には、川口居留地跡から松島遊郭までを紹介し、最後に市岡高校へたどり着いた時点で町歩きは終了となる。
                  市岡高校に着くまでの間、しばし、お付き合いを……。

                  東和温泉と銀河鉄道始発駅

                  2009.10.30 Friday

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                    超零細な出版社を運営している関係で、地方へ出張する機会が多い。
                    出版社という以上、本屋さんに本を置いてもらわないことには話にならない。しかし、出版業界全体が、今、大きな課題を抱えている。それは返品率を下げるという大問題だ。
                    出版というのは、業界全体が大きな「どんぶり勘定」で動いている。出版という行為は、発注がまずあるのでなく、「これは売れるだろう」というものを見込み生産してしまう。それを委託という形で卸屋さんを通し書店に並べてもらう。買い取りではなく、委託という形だから売れないものは返品される。この返品が多くなると、流通コストの問題とかが絡み業界全体が危なくなる。
                    かつては「本」さえ造ってくれれば、どんな本でも流しましょうという時代があった。
                    しかし、今それををやっていれば、自分の首を絞めることになってくる。
                    いきおい売れるものだけが主流を占めてくるようになる。そこで宣伝力もなく売れ行きのにぶい「小出版」の本は、流通のコンベアに乗りにくくなってくる。しかも、この返品率を下げるためには、委託の大原則の上に立ちつつも、書店に対し、できるだけ返品を規制する以外に方法はない。特に小出版や地方出版の本は返品が規制される。これでは書店としては、返品が難しい本は扱いたくないということになってくる。
                    この問題をカバーするためには、出版社は取次店の自動配本に任せるのでなく、出版社がこまめに営業に回ることで書店とのパイプをつくっていくしか方法がない。このため、どうしても地方の書店回りが必要になって来るという次第だ。

                    東和温泉前置きが長くなったが、「出版業界の危機」等という暗い話はしばし忘れ、東北は岩手へへ出張した時のちょっと楽しい話を紹介しよう。
                    花巻駅から列車で20分位の所に「東和温泉」(写真)がある。まず、この「東和」という地名に惹かれた。昨日も、岩手の支援者というか読者の方と昼飯を一緒に食ったが、そのおり、岩手在住の作家、高橋克彦氏の話が出た。「火炎」や「血涙」等々、東北の蝦夷を題材にした歴史小説を多く書いている。
                    一人の方が「高橋さんなら知ってるわよ」と言う。聞けば、岩手には「盛岡文士劇 なるものが、毎年上演されているという。岩手県や盛岡市にゆかりのある作家や文化人が大挙して出演するそうだ。高橋克彦さんは、その常連で、「盛岡の人間なら誰でも知ってるわよ」という次第。その高橋克彦氏の作品「火怨―北の燿星アテルイ」の舞台となっているのが東和の里だ。地方へ行くと、なぜか奈良と縁の深い場所に出くわすことが多い。この話になると、またぞろ横道へ逸れてしまうので割愛するが、この東和も奈良とつながっている。かつて仏教が日本に入ってきたとき、蘇我氏と物部氏の間で、その受容を巡って激しい戦いがあった。今の大阪府八尾市が、その決戦場となったが、若い厩戸皇子(後の聖徳太子)が戦勝祈願し、蘇我氏に勝利をもたらしたという。
                    破れた物部氏は出雲へ逃げ、そこから九州は福岡へ下った一族と東北へ移動した一族があったようだ。物部氏は製鉄に通じ、東北の蝦夷に採掘技術や冶金術等の製鉄文化を伝えたばかりか、金鉱脈の開発にも力を注ぎ、後の奥州藤原氏繁栄の基を築いたというのだ。
                    高橋氏の小説では、蝦夷の英雄・阿弖流為(アテルイ)を物部氏が援け、朝廷に反旗を翻したことになっており、やがて坂上田村麻呂との対決へと話が進んでいく。歴史ファンなら、ここまで来たら、東和と名の付く所へ行ってみたい。
                    そこで足を伸ばしたのが「東和温泉」。ここなら花巻駅から釜石線に乗り換えて、20分ほどで土沢駅に着く。そこからタクシーで10分程度の所に「東和温泉」がある。東和の里へ行って史跡巡りをする時間はない。せめて東和という名の付く所へ宿を取ってみようと言うわけだ。
                    でも心残りでタクシーの運転手さんに聞いてみた。
                    「東和の丹内山神社は遠いんでしょうか。」
                    東和の里の、物部氏の拠点となったところだ。
                    「タクシーで往復二時間はかかるなあ。バスも電車も走ってない山の中だからなあ。」
                    未練は消えた。とても足を伸ばしてみる時間的余裕はない。またの機会はないだろうが、あきらめるしかなさそうだ。
                    銀河ステーションその日は、東和温泉にゆっくり浸かり英気を養った。
                    翌朝、雪景色の中をタクシーで土沢駅に向かう。駅について驚いた。昨日着いたときは、もう陽も落ち、駅前といっても田舎のこととて街灯もほとんどなく、タクシーをつかまえるのがやっとで分からなかったが、ここ「土沢駅」は銀河鉄道の始発駅だという。
                    小さな駅舎の前に青い看板が立てられ、そのことを語っている。
                    「“銀河ステーション” ここ土沢駅は宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」の始発となった駅(岩手軽便鉄道)です」と。
                    今思えば、どうということもない気もするが、その時は、
                    「おーっ、ここが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や『冬と銀河ステーション』の舞台になったところか!」と感極まったものだ(写真)。感極まったあげく、駅舎やホームを走り回り、通勤客の迷惑を顧みず写真を撮り回った。列車が動き出しても、窓にしがみつきシャッターを切っていた。

                    旅先でのハプニングは、妙に楽しいものだ。後日、営業で九州は宮崎のイオンモールを訪ねたときのことだ。宮崎駅からイオンモール行きシャトルバスに乗ったが、降りるとき、運転手さんの名前が張り出してあるのが目に留まった。
                    墨で黒々と「物部……」と書かれている。
                    「おーっ、物部さんだ。」感極まって尋ねてみた。
                    「お名前、物部さんと言われるんですね。宮崎には多い名前なんでしょうか?」
                    「僕は宮崎でなく、福岡から越してきたんですよ。」
                    な、なんと! 出雲から福岡へ下ってきた物部氏の末裔だった。(本当のところはどうだか定かではない。でも、そう考えた方が浪漫があるというものだ。) 

                    塩川香世著「第二の人生」の編集を終えて

                    2009.10.29 Thursday

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                      栞のイラスト少し重い話題が続いたが、ここらで僕の仕事について書いておこうと思う。
                      自己紹介のところで少し触れたが、僕自身は62歳で少し強引にではあるが定年退職し、今、第二の人生を、小さな出版活動を通し、本当のことを伝えていけたらと、そのことに人生の意味を見いだそうとしている。
                      30代も中盤にさしかかった頃、ある高校の校長先生に出会った。それが田池留吉氏だった。彼は「人間は意識ですよ、その肉体があなたじゃないですよ。肉を中心とした生き方は間違っていますよ。」と、学校の休みの日は、そんな話をいろんな場所で話されていた。彼の話を聞くため、我が家の女房まで、日曜ごとに足を運ぶ始末。
                      僕はそれが許せない。「女房たるもの、日曜日は家にいて亭主や子供の面倒を見るべきだ。校長先生だかなんだか知らないが、今はやりの新興宗教に違いない」と、田池氏の自宅を調べだし、単身、適地に乗り込む勢いで、田池氏の家に殴り込みをかけた。
                      こう書くと威勢がいいように聞こえるが、威勢のいいのは最寄り駅まで。近くに来ると、「留守に違いない、またの機会にしよう」と急に心が萎えていく。
                      用もないのに近くにある太子廟を訪ね、「耳に良し、書きてなおよし、和すことの、行うことの難しきかな」等と、歌をつくって時間つぶしをしたり……どうにも情けない自分に嫌気がさし、留守だったら本当にこのまま帰ろうと、田池氏の家に電話を入れてみた。
                      期待に反し、氏は在宅した。
                      「女房がお世話になっています。」
                      田池氏に発した第一声がこれだ。(おいおい、言いたいことがあったんだろう!)
                      こちらの思いを察したのか、「大阪の北の端から南の端までわざわざやって来たんだ。何か言いたいことがあるんだろう。あがって話して行きなさい。」
                      これが始まりだった。ここで何があったか、想像にお任せするが、教化されたとか、洗脳されたとか、そんな類のことでは絶対にない。ただ本物に出会った。そんな感想しかなかった。

                      それから二十余年、今、僕は退職後、田池氏の言う「人生の本当の目的」を伝えるため、本を造っている。その第2冊目の本が、塩川香世著「第二の人生」だ。(右のイラストは、「第二の人生」のためにつくった「栞」のイラスト。この絵は、重筋無力症(ぎせいバーター症候群)という難病と向かい合いながら絵を描き続ける画家、大槻ゆりさんが提供してくれた。栞の裏面には「立派な人物にならなくてもいいのです。自分自身が生まれてきた本当の意味を、心で知っていくひとになってください。」のフレーズが印刷されている。)

                      塩川香世ってどんな人かというと、まず1959年3月大阪市に生まれた。
                      1991年3月に税理士試験に合格し、以来、税務関係業務に従事し、現在に至っている。
                      税理士であるという以外、別にどうという経歴ではないのだが、
                      著書をあげると、「ありがとう」「意識の転回」「母なる宇宙とともに」機↓供 岼Δ隼爐凌深臓廖屬△覆拭△海里泙淹爐鵑任い辰討いい里任垢」がある。どうみても税務関係の本じゃないよね。
                      どれも「人生の本当の意味」について書かれているんだが、この本の作り方が実にユニークだ。ぼくが本を書こうとすると、まず取材活動がある。人に会い、話を聞き、文献を漁り、それら材料に、自分の思いや意見を挟み込みながら、一冊の本を仕上げていく。いわば頭と足を使って「本」を仕上げていく。
                      彼女の場合は、このプロセスを一切踏まない。頭も足も介在しない。
                      ただ心を向け、伝わってくる思いを、どんどん文字にしていく作業だけがある。
                      「自動書記と同じ」だって? そうかも知れないが肝心の所が違うと思う。世の中にチャネラーとか霊媒師とかいう人はごまんといるが、みんな立っている基盤が肉中心なのだ。今の肉の人生が豊かになるよう、肉が満足するよう、すべてこの基盤に立っている。この基盤に立っているから人から受け入れられやすいし、分かりやすいわけだが、これでは本当のことは分からない。いわば暗い世界に通じるチャネラーや霊媒師でしかない。
                      話が逸れそうなので元へもどすが、こんな本の造り方で出来たのが「第二の人生」というわけ。今は、編集も終わり、「本」という形になって、小さな流れだが、市場へ流れ出している。
                      この流れが、いつか大きな流れになり、みんなが外の世界でなく、自分の中を見直す時代が来れば、そんなことを思っている。人間に残された最後のフロンティアは、宇宙でも、深海でもなく、自分の心だと思う。

                      最後に、少し長くなるが「第二の人生」から好きな一節を紹介しておく。
                      決して買ってくださいと言っているわけではない。でも読んでほしいとは思っている訳で、どこかの図書館で、またはどこかの書店で「第二の人生」を見つけたら、立ち読みでもいいから読んでみてください。


                      1. 人生の前半部分の後始末を…

                      人間は誰しも、何時か、どこかで、自分の間違いに気付くチャンスを用意しています。
                      自分の間違いとは、道義的な間違いというのではなく、自分を知らずにきたことを言います。
                      自分を知らずに、つまり、自分が流し続けてきたエネルギーに頓着せずにただ目先のことばかりにとらわれて、そこだけに執心して生きてきた間違いは、何時か、どこかで正していかなければならない、いいえ、正していくようになっています。
                      自分達の本質である意識、エネルギーと、自分達がこれまでに流し続けてきたエネルギーの差異は、大きいです。
                      大きな隔たりであればあるほど、苦しみという形で、目の前に現象化されていきます。
                      大きく隔たっているからこそ、色々な人達や、周りの様々な出来事が伝えてくれるのです。
                      あなたが流し続けてきたエネルギーを知ってくださいと。
                      オギャーと生まれて、物心がついて、そして、ある程度の年齢に達し、ある程度の生活を確保するまでは、みんなそれぞれの立場で、一生懸命に頑張ると思います。一般的にはそうです。
                      中には、ガムシャラに生きてきた人だってあるはずです。
                      その時に使ったエネルギーは、凄いでしょう。
                      人が生きていくためには、生活をしていくためには、そうです、凄いエネルギーを消費していくのです。
                      人生の前半、いわゆる第一の人生においては、それは、仕方がないことだと思います。
                      エネルギーを出すことに必死で、そのエネルギーを検証する余裕などなくて当たり前です。
                      むしろ、人の一生の中には、そのような時期がなくてはならないと思います。
                      一昔前に言われた無気力、無関心、無責任を決め込んで、何もしないから、エネルギーを出していないのかと言えば、決してそうではなくて、得てして、そのような人達は、中にエネルギーを溜め込んでしまって、ある時、あるきっかけで、それが飛び出していきます。
                      それよりも、たとえ、凄いエネルギーを外に撒き散らしても、勉強に、仕事などに、目いっぱい頑張って、若さの特権を十二分に活かしていけばいいのです。
                      少々、羽目を外しても、失敗しても、若気の至りとして大目に見てもらえるだろうし、その気さえあれば、充分にやり直しができる時間もあります。
                      躓いたり、転んだり、寄り道や回り道は、第一の人生に付き物です。色々悩んで迷って苦しんで、そういうものだと思います。
                      しかし、もう、あなたは、第二の人生の時期にさしかかっている人です。
                      この時期に、第一の人生と同じように、ただエネルギーを撒き散らしていくだけでは、どうもいただけません。
                      同じように、悩み、迷い、苦しみながらも、今はもう、自分が出してきた、流し続けてきたエネルギーを検証していくべき時期なのです。
                      現実は、そうではないでしょう。
                      豊かなセカンドライフにするためにと、あの手この手のお誘いがあります。
                      そういう世間の波に乗っていけば、豊かで楽しい晩年、余生が約束されるかのようですが、人生の前半部分の後始末をしないで、そういうことは有り得ないのです。
                      人生の前半部分の後始末とは、繰り返しあるように、これまでに本当に凄いエネルギーで生きてきた自分の、そのエネルギーの検証です。
                      そして、その検証の方法は、「母親の反省」と「他力の反省」にあるのです。
                      自分が生きてきたことと、それらの反省とは、一見すれば何の関連もないようですが、このことは、あなたが実践されていけば、あなたの心で分かります。
                      二つの反省をすることにより、自分は、凄いエネルギーを流し続けてきたことが、あなたの頭ではなくて、心に響いてきます。
                      凄いエネルギーに突き動かされてきたことが分かるのです。
                      形の世界を本物として、その中に、喜びや幸せ求めてきた思い、エネルギーは凄いことが、段々と分かってきます。
                      あなたに用意された第二の人生の時間を、自分の検証に費やしていきましょう。その時間があって、しかも、そうできるあなたは、幸せ者です。
                      人生の前半部分の後始末をすることによって、豊かな晩年になっていくはずです。
                      晩年よければすべてよし。
                      私達人間の生涯は、晩年わびしければ、やはり哀しいものです。
                      日の出の勢いだった頃を、未練たらしく振り返り、命の灯が消える寸前まで、この世に執着していく人達の心の世界を思う時、ああ、その人達も、ほんの少しでも、真実の世界に触れることができていたらと思わざるを得ません。(塩川香世著「第二の人生」から抜粋)