「トマス荒木を歩く」 vol.01

2009.11.28 Saturday

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    アヅチセミナリオ跡

    有岡城趾
    トマス荒木という人物がいる。十六世紀後半から十七世紀前半を生きた人物だ。
    彼は摂津を支配する荒木村重の一族として生まれた。と言っても、血筋がつながっているというだけで、ただ一族の端っこに名前を連ねていると言うに過ぎない。決して身分の高い家柄ではなかった。その主筋に当たる村重が信長に謀反を起こした。はっきりとした原因はわからない。信長個人への反感か、野心のためか、ともかくも村重は本願寺と手を結び信長に反旗を翻した。外面的にはどう見たところで本願寺への加勢としか見えない。
    村重の部下には一向宗徒が多い。と、同時にキリシタンも少なからずいる。それは、村重の右腕とされた高山右近からしてそうであり、その影響が大きく働いているからであろう。彼らキリシタンにしてみれば、邪教である本願寺に味方しての命のやりとりなど、いかに主命とはいえ本意ではない。ために落城を前に城を捨てた者が数多くあった。

    トマスの母は、夫と運命をともにする覚悟をした。かつて夫が敬愛する高山右近の結婚式に招かれ、そのときキリスト教が持ち込んだ一夫一婦制の慣習に触れた。戦国時代を生きる女が、はじめて子を産む道具や、政治の道具としてでなく結婚を考えることができると思った。以降、夫婦ともにクリスチャンとなり、はじめて本当の夫婦になれたと、そのとき感じたものだ。以来、この夫と何があっても添い遂げると、心に誓ってきた。といって幼い子供まで道連れにすることは出来ない。母はトマスを高山右近に預ける道を選んだ。
    「必ず迎えにくるから……」
    その日、トマスは母の声をおぼろに聞きながら、老いた叔父の冷たく固い甲冑の背に負ぶされ、城を落ちていった。トマス、三歳の頃であった。

    高山右近像と高槻城ところで、村重反乱に当たって、信長が真っ先に手を打ったのが、村重の右腕とも言える右近の懐柔策である。信長は右近の動きを封じるため、キリシタン宣教師を人質に取った。右近が村重に味方するようであれば、日本のキリシタンを根絶やしにするであろうと。言葉だけの男ではない。かと言って、村重のもとには二心なきことを誓うため、家族を人質に出している。どちらにも動けない右近であった。思いあまって、父ダリオ飛騨守は村重に味方し、右近はキリシタンとしてすべてを捨て出家する道を選んだ。
    信長にとってはそれで十分だった。出家し中立を守ろうとする右近を却って重く用い、その仲介に当たったイエズス会宣教師をも今まで以上に厚遇した。そうすることで籠城側に右近の寝返りを強く印象づけ、その士気を阻喪させることをねらったのである。
    やがて有岡城を包囲する旗印の中に、右近のクルスの旗印が翻ることになった。

    右近が寝返った……。
    少なくとも籠城側にはそう映ったし、結果として事実はその通りでもあった。もはや、落城は時間の問題である。

    ところで、トマスの母が右近を頼ったとき、右近は苦衷のまっただ中にいた。同じキリシタンとはいえ、村重の部下や一族のものを匿うわけにもいかない。ただ幼いトマスだけが、高槻の城に密かに匿われることとなった。
    そして、この高槻の地で、トマスは、三歳から六歳までを過ごすことになる。
    六歳になったとき、信長の城下安土にセミナリオが造られる。イエズス会巡察師バリニャーノ神父の働きによるもので、信長はこれを厚遇し、安土城天守ふもとの土地を与えたばかりか、大工などの手配から万事に至るまで全面的にこれを援け、安土城天守と同じ瓦の使用まで許したという。
    右近も、この工事を援けた。それは、ただ単に便宜を図る、経済的に助けるというばかりではない。毎日のように人夫に混じって材木を運ぶ姿は、まるで贖罪の苦行でも果たすかのようであったという。
    こうして出来たセミナリオに、その一期生としてトマスが預けられた。
    生徒は六歳のトマスが最年少で、最年長が十五歳、およそ十五、六名の生徒が集められた。多くは戦争で身寄りを亡くした戦国武将の子供たちや、熱心なキリシタン信徒の子弟たちで、なかには自ら望んで入学してきた者もいる。後のことになるが、秀吉の禁教政策に殉じ、二十六聖人の一人に列せられるパウロ三木も、この安土セミナリオの生徒として、この中にいた。

    アヅチセミナリオ跡信長の異国趣味がにわかに花開いた。
    巷では西洋風の衣装が取り入れられ、キリシタンでなくてもクルスをかけ、ロザリオを装身具のように扱うことが風潮となった。京都には三層の天主堂がそびえ、町の大通りには着物に首襟を着けた若者や、カルサンを袴代わりに履く人たちの姿が見られた。
    安土のセミナリオでも、西洋音楽を学ぶ子供たちの声やオルガンの音が絶えることなく、信長自身、セミナリオを訪ねてはその調べに耳を傾けた。ヨーロッパを吹き抜けたルネッサンスの光と闇が、この日本をもようやく覆い始めようとしていたのである。

    ところで安土セミナリオにとっての最大の不幸は、その最大のパトロンである信長が、セミナリオの出来た翌年、早くも亡くなってしまったことだ。いわゆる本能寺の変が起こり、信長は明智光秀によって京都本能寺に誅せられた。しかも争乱は京都だけにとどまらなかった。光秀は、本能寺を襲うと同時に、信長の本拠安土をも襲わせた。ために安土セミナリオまでが、このとき、灰燼に帰してしまったのである。
    安土セミナリオの校長であったイタリア人宣教師オルガンティーノは、生徒たちを連れ安土を脱出した。まず小舟で琵琶湖の沖の島(下の写真)へ渡り、そこからさらに対岸の坂本へと逃げる。坂本は言わずと知れた明智の本拠地……。そこでオルガンティーノ神父らは、キリシタンを味方にしようとする明智の手で却って保護され、争乱の中、その案内で京都南蛮寺へと落ち延びることができた。

    この時から、トマス荒木の長い彷徨が始まった。
    そのトマスの旅が、やがてローマへとつながり、キリスト教同士の凄絶な争いへとつながっていくことになろうとは……トマス自身、恐らく気付いていなかっただろうが。 

    沖の島全景

    「トマス−孤児たちのルネサンス」

    2009.11.22 Sunday

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      グーテンベルグ印刷機の実演
      復元されたグーテンベルグ印刷機の実演(慶應義塾大学 42行聖書購入時記念イベント)

      11月19日(木)
      日本橋を出て79日目、ついに京都へ着く。総歩行数900,909歩 総キロ数495.5km
      一日平均して11,400歩(6.27km)を歩いたということになる。ブログ自体が、万歩計を意識して「徒然漫歩計」とした。万歩計自体は、東海道が終わるや中山道に入ったが、ブログのほうは、京都到着を機に少し方向転換をしようと思う。

      大学時代に知り合って、未だに付き合っている人間が二人いる。
      一人は女房だ。大学時代に知り合い、学生結婚してもう35年が過ぎた。彼女と出会うことで、田池留吉という方とも出会うことができた。この人と出会うことで、大学時代に知り合ったもう一人の知り合いも確実に変わってきた。少なくとも自分はそう感じている。そのもう一人というのがトマス荒木(荒木了伯)という人物だ。大学の卒業論文に選んだテーマが「近世生糸貿易とキリシタン迫害の関係」。長崎代官職をめぐる朱印船貿易家・末次平蔵と村山等安の確執が中心的な材料になっているが、調べれば調べるほど予定外の人物の姿が浮き上がってきた。それがトマス荒木だった。イエズス会から破門され、体制側からもキリシタン目明かしとして利用されたあげく狂人として扱われ、事実上、歴史から抹消された人物。いつしか彼と彼の生きた時代、そして彼を取り巻く人たちを物語として紡ぎあげたいと思うよになった。そう思ってから、もう35年が過ぎた。
      その間、仕事の合間を見つけては取材活動を続けてきた。物語のテーマは田池留吉という人物と出会うことで大きく変わった。
      宗教に縛られる怖さ。自分自身を宗教に縛っていく怖さ。そして、その呪縛から自分を解き放とうともがき苦しむ姿。そんな彼を救ったのは、自分の中に眠る母親の記憶、そのぬくもりだった。当初「怒りと絶望」の物語だったトマスのお話が、「自己の解放」という方向へ自己修正を始めた。

      こうして「トマス−孤児たちのルネサンス」が何とか形をとりはじめ、僕は、この「トマス」の物語を自費出版しようと動いている。売ることを目的とするのでなく、受け入れてくれる図書館へ寄贈することが計画の仕上げになるだろう。
      これに伴い、ブログの方も、トマスの取材を中心とした「歴史紀行」にしていこうと思う。物語は「本」で、その楽屋裏は「ブログ」で紹介していく。僕の趣味の総仕上げといったところか……。 

      これに伴い、僕の仕事の方は、「UTA-BOOK営業日誌」として、ブログを立ち上げた。これも、とりとめのない 独り言のようなブログなのだが、興味があれば覗いていただきたい。
      http://uta-book.jugem.jp/


      キリシタン転び証文

      長崎県立図書館で、この「きりしたんころび書物之事」(キリシタン転び証文)を見たときから、トマスとの付き合いが始まりました。

      「奈良県」と「堺県」

      2009.11.18 Wednesday

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        今日は、母親の用事で1週間ぶりに堺の母親の家を訪れた。奈良と堺の間には生駒山脈や金剛山脈が横たわっており、僕たちがよく利用するのは、二上山を越える「竹之内街道」を走り大阪府へ出るコースだ。「竹之内街道」から「太子」へ出るコースは、古来からの官道ともいうべき道で、中国や韓国からの使節は、この道を通って飛鳥へ赴いたという。

        ところが、現在、電車等の公共交通権関を使って堺へ出ようとすると、いったん近鉄電車で大阪市内へ出て、そこから南海電車に乗り換え堺を目指すか、近鉄電車で何度か乗り換えをしながら府下「河内長野」へ出て、そこから南海電車で「堺」を目指す、この二つのコースしかない。要するに北へ大きく迂回していくか、南へ大きく迂回していくか、最短距離を結ぶ交通機関はないということだ。

        ところで「奈良県」という存在が、歴史上なくなった時期がある。「県」という行政区分は、ご存知のように江戸末期から明治にかけての「廃藩置県」で生まれた。実際に「奈良県」が誕生したのは、廃藩置県の3年前、1868(慶応4)年のことだという。ところが出来てすぐに「奈良府」と改称され、翌年にまた「奈良県」に戻った。その後、旧大和国内に15の県が乱立したが、3年後の1871年に、それらは奈良県に統合され、今の「奈良県」に近いかたちが出来上がったのである。

        ところがである。この5年後の1876(明治9)年、奈良県は隣県の「堺県」に併合され、奈良という地名が消滅することとなる。奈良一県では財政基盤が脆弱で「県」として成り立たないというのだ。こうして「堺県」は、河内・和泉・大和の三国を管轄する巨大県となった。このため行政事務がすベて堺に移り、奈良は火の消えたようになってしまった。火が消えただけならいいのだが、事務手続きの多くが、奈良で処理できず、奈良住民は何かあると堺へ出向かなければならないという事態が起こってきた。現代でさえ、奈艮から堺へ行くのは不便だというのに、交通未発達の時代では、泊まりがけでなけれ用が足せないという有様。堺へ出向くということは、多額な出費を伴い、住民の生活を圧迫する。一時、県庁を近くに移動する案が出されたが却下され、「堺県」からの分県も検討はされたが、これも実現されないまま、1881年「堺県」自体が「大阪府」に併合されてしまう。
        今回の併合は、悪化している「大阪府」の財政救済が狙いだというから、奈良住民の不満はおさまらない。かくして奈良住民は再三上京し、「奈良県」再設置の請願運動が繰り広げられる。この頃、東京の町は幕末に結ばれた不平等条約の改正案をめぐる反政府運動が盛んで、上京委員は反政府運動と同じでないことをまず証明しなくてはならなかったという。

        しかし、そんな苦労も甲斐なく、むなしく年月が過ぎ、大阪府からの独立が認められたのは、「堺県」に併合されてから10年後の1886(明治20)年のことだという。
        この年、「奈良県設置ノ件」の議案が内務省に出され、同年10月24日、閣議提出され了解されるに至った。

        1、大和の地勢や人情は摂津・河内・和泉と違い、当然経済面でも異なる。
        2、摂・河・泉の議員は治水のことに、大和の議員は道路のことに執着する。
        3、大和の税金は地元に還元されにくい。
        4、大阪府会における大和の議員は少ないから、議場ではいつも不利である。
        5、近ごろ大阪府の地租は減額となったが、大和には適用されず、それは地方税にはね返ってくる。
        6、もともと、大阪府は広すぎるので、大和を独立させてもおかしくはない。
        7、大和は災害も少ないから、将来あまり費用がかからないだろう。

        これを見るかぎり、ここに来て「奈良県」の再設置を認める必然というものがあまり感じられない。ダラダラと決定を延ばし、「そろそろ認めてもいいか」的な感じで認められた、そんな雰囲気である。「奈良県」の復活が、これほどまでに難航した背景には、幕末に朝廷側につくか、幕府側につくか、曖昧な態度をとったことが原因ではないかとする説もあるぐらいだ。

        参考文献
        奈良県発行「青山四方にめぐれる国 −奈良県誕生物語−」
        浅井建爾「知らなかった!驚いた! 日本全国『県境』の謎」

        ※「東海道53次」万歩計の状況=今日、「大津」を過ぎ、最終地「京都」へあと5キロ。

        乗馬の体験と馬の歴史

        2009.11.17 Tuesday

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          乗馬クラブの馬場

          何年か前の話だ。厩務員になりたいと思ったことがあった。
          のんびりと馬の世話でもしながら余生を……そんな思いがなきにしもあらずだが、人間のエゴをまともに受け、それでも人間のよき輩(ともがら)であり続けてきた「馬」の歴史を知ったからだ。
          罪滅ぼしではないが、馬のそばにいて、馬と一緒に「ひどい歴史だったね」などと共に語れたらと、何とも夢のようなことを考えていた。
          「乗馬体験」の案内が来たのは、そんなときだ。普段から、案内は来ていたのだろうが、そんなことを思っているときだから、目に留まり、ぜひ行ってみたいということになった。

          ところで、馬の家畜化が歴史の中に現れるのは、前3000年〜前2000年頃だという。最初は、飼い慣らすのが苦労でなかなか普及しなかった。それが全家畜動物の中で、馬が占める割合が20%近くになるのがこの時期だという。同時に、この時期、馬が戦いの道具として使われだした。車輪のスポークが考えだされ、戦いに「戦車」が登場するようになった。馬に牽かれ戦場を疾駆する戦車の姿は、見る者に恐怖を与えるに十分だった。人は、以来、「馬」を特別な目で見るようになった。

          敦厚石窟壁画に騎馬民族である「匈奴」の戦闘場面を描いたものがある。大阪の高島屋でシルクロード展があったとき、僕も、そのレプリカを見たことがある。匈奴の戦士たちが、馬から降り、地面に立て膝の姿勢で空に向け弓を構えている。鳥を狙っているわけではない。
          当時、「矢」には2枚の羽根が平行に付けられていた(平行翼)。これでは矢は真っ直ぐに飛ばず、放物線を描いて落ちるという感じになる。このため、敵に向かって矢を放つのでなく、一斉に空に向かって矢を放ち、敵の頭上から矢を落とすという形になってしまう。
          それを誰が発明したのか、3枚の羽根をロケットの羽根のように付けた矢というのが考えだされた。これなら矢を真っ直ぐ打ち出すことが出来る。つまり馬に乗ったまま矢を射る「騎射」という技術が発達することになる。正倉院の御物の中に、馬にまたがった公達が、振り向きざまに、鹿にめがけて矢を射てる図があったと思う。これが出来るためには、矢が「平行翼」から「ロケット翼」へ進化していなければならず、しかも鐙(あぶみ)や轡(くつわ)の発明も伴っていなければならない。
          鐙や轡が発明されるにおよんで「重装騎馬戦闘」が可能になった。馬上で槍を構えて敵にぶつかっていくという戦闘方法だ。これら武器や戦闘方法は、馬を戦闘の道具として、とことんまで進化させ尖鋭化していく。「水滸伝」に登場する「連環馬戦法」などは、その究極の戦闘隊形ではないだろうか。30騎の馬を鎖で横一列につなぎ、敵陣めがけて疾駆する。そのすさまじい破壊力は、敵の恐怖心をとことんまで煽りたてる。
          熱田神宮の斬馬刀これを破る方法は、「馬」を倒すしかない。「将を射んと欲せば、まず馬を射よ」という訳だ。「鈎鎌鎗法」は、槍頭に「鈎鎌」と呼ばれるフックをつけ、この鈎状の物で服や鎧、あるいは馬の手綱などを引っかけて引 きずり倒すという攻撃方法だ。日本でも「斬馬刀」という馬鹿でかい刀が登場し、これで馬の足を刈り取ってしまうという、馬にとっては、はなはだ残酷な戦闘方法が編み出されていく。
          僕も出張で熱田へ行った際、熱田神宮で、この「斬馬刀」の実物が展示されているのをみたことがある。こんなでっかい刀をどうして使うのかとビックリもしたが、何かの屏風絵で、足軽が数人がかりでこの刀を横に構え、馬に向かっていく図を見た記憶がある。一人でこれを振り回す豪傑もいたのだろうが、この方が自然だろう。

          ミルフィーユに乗るそれはさておき、人間は馬を家畜化し、次いで戦闘の道具として改良してきた。「人が馬に乗ったとき、世界は変わった」と言われるが、人間のエゴのため利用され犠牲になってきたのが、「馬の歴史」ではなかったろうか。

          その日、体験乗馬で、ある乗馬クラブを訪れた僕は、「ミルフィーユ」という馬に乗せてもらうことになった(写真)。やさしい馬で、こちらの思いを察して動いてくれる。こんな馬と一緒に居れたら……そんな思いにさせる馬だった。係の人に「厩務員」コースについて聞くが、厩務員になるには年齢制限があるためダメだという。「息子さんはおられますか。息子さんはどうですか?」と逆に聞かれる始末。
          また、馬をあつかう世界についても、甘い世界ではなく、今も「馬」の受難が続いていることを教えられた。曰く、競走馬の引退後は、みんながみんな「種馬」になったり、「乗馬クラブ」や「乗馬学校」で余生を送れるわけではないと言う。競走馬は気が荒くて、「乗馬クラブ」や「乗馬学校」には向いていない。そのうえ維持費も高く、とても引き取れないという。つまるところ、食肉用につぶされるか、ペット用の肉として加工されたり、動物園の虎とかライオンのエサになるのだという。

          こんな記事がある。「昭和48(1973)年6月25日の朝。前日の重賞レースで事故を起こしたハマノパレードという競走馬が痛みでもがき苦しむまま屠殺場に運ばれ、さくら肉にされた」というのだ。競走馬として人間に利用され、あげくが十数時間の苦悶の末に屠殺馬へ運ばれる。馬の受難の歴史は今も続いている。人間がこの世から消滅でもしない限り、この状況は変わらないのだろうか。

          乗馬クラブの体験乗馬は、結局、体験だけで終わった。費用が、庶民には高すぎるのだ。係の人の話では、馬の餌代等維持費がバカにならず、乗馬クラブを維持していくのは並大抵のことではないらしい。会費が高いのも無理はないとはいえ、庶民にはやはり高嶺の花。馬のお世話より、自転車の整備が向いてそうだ。

          ※「東海道53次」万歩計の状況=今日、「大津」に着く予定だったが、あいにくの雨天で十分に散歩が出来ず、後900メートルを残して「大津」到着ならず。

          我が町のお気に入り史跡10選 No.7 大中公園と静御前

          2009.11.16 Monday

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             大中公園野外能楽堂

            ◇大和高田市・大中公園
            広陵町中央体育館の東側を高田川が南へと流れているが、この高田川にに沿って自転車で6キロほど走ったところが大和高田市の大中公園だ。桜の季節には両岸がピンクに染まり、川岸は花見客で埋まる。桜の季節でなくても、早朝、この川岸を自転車で風を切って走ると、つまらない悩み事も風に飛ばされていくような心地がする。しかし、冬に向かうこれからの季節は少し厳しい。

            しかし、僕らが奈良へ越してきた当初は、この高田川もドブ川に近い状態で、桜はきれいだが匂いはたまらない、そんな有様だった。
            それが市政50周年を記念して1億円が市に寄贈されたという。その金で、大中公園に野外能楽堂「桜華殿」が池中に建てられ、同時に隣接する高田川も水辺プラザ整備事業と銘打って、川浚えがされ、“桜の名 所”として生まれ変わることとなった。公園の景観も、この浮舞台の竣工で様変わりしてしまった。

            きれいで気持ちよくなると、今まで気がつかなかったものが見えてきた。
            これまでにも建っていたはずだが、特に興味もないため見向きもしなかった石碑……なんだろうと自転車を止めてみると、それが「静御前の碑」だった。
            静御前の石碑
            「静御前は大和高田の宿の長者磯禅師の娘といわれる。京に遊んで歌舞の名手となり、立烏帽子に水干鞘巻を帯びたる麗姿は都人の賞讃をあびた かくて源義経と結ばれたが頼朝に追われ吉野山に義経と別れ捕えられた 鎌倉鶴岡八幡宮の社頭 頼朝政子の前に夫を想う曲を舞い 後許されて大和に帰り母子とも礒野の里におわるという ここに静御前の遺跡を示す村絵図により記念碑を建つ  昭和五十三年七月  高田川を美しくする会」

            「へえーっ、静御前って大和高田の生まれだったんだ。」
            でも、「許されて大和に帰り母子とも礒野の里におわるという」、これって違うよね。鎌倉へ連れてこられた静御前は、頼朝の妻、北条政子の口添えで助けられるが、身ごもっていた子供は、頼朝が「女の子なら助けるが、男の子なら殺す」と命じ、結局、男子を産んだため、その赤子は由比ヶ浜に沈められ殺されてしまう。その後、静御前の消息は不明というのが、僕らの知っているストーリー。
            でも、この碑には「許されて大和に帰り母子とも礒野の里におわる」と記されている。
            いったい、どっちが本当なんだろう。

            井園町の町並み「どうせ分からないだろうけど、静御前が住んでいた礒野っていうところへ行ってみよう」、そう思い、案内板を頼りに再び自転車を走らせる。人に聞きながら礒野町という古い町並み(写真)にでるが、何もめぼしいものは見つからない。小さなお寺があって境内を掃除している人が目についた。この人に聞いてみると、近くに「静御前の塚」というのがあるということだ。

            あった! 町の一角が囲われ、そこに「静御前の遺跡」という案内板と「礒野村古図」と題した2種類の説明書きが設置されていた。

            静御前の塚案内板◇「礒野村古図」と説明書き
            「左の写真は、宝暦年間に作られた礒野村の古図で、図の右側の川は旧高田川で、中央の左寄りに環濠のある礒野村が描かれている。現在も中世の防衛設備であった環濠の名残を礒野町の周りの水路に見ることができる。
            右の写真は、礒野村の北側に、田んぼの中に小さく描かれた静御前の塚である。三角形の小山の左側に「古来より、静御前の塚なりと」添え書きしてあり、今から250年以上前からの伝承が伺える貴重なものである。礒野村古図には、そのほかにも、現在の高田高校敷地内の静御前衣掛けの松や現在の春日町付近にあった笠神の社も描かれていて、静御前の古来よりの伝承を知ることができる。」

            ◇「静御前遺跡」という案内板
            「礒野村の古図に、静御前の遺跡が三ヶ所ある。衣掛けの松、住居の跡、静御前の塚が明示されている。衣掛けの松、住居の跡は、いずれもその跡をとどめないが、この一角だけは、静御前の塚として、現在も土地の人々の間で伝承されている。
            なお、大和高田市と、静御前の因縁を記念して、静御前の生涯を語る記念碑が、大中公園に建っている。」
            これですべて。
            後は、「文化財を大切にしましょう 大和高田市教育委員会」の文字があるだけ……。
            結局、何も残っていないし、何も分からないということ。暇が出来たら、高田市の教育委員会へ行って、どっちが本当か聞いてみよう。

            高田川と野外能楽堂

            空き缶工芸教室を見学

            2009.11.15 Sunday

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              子供たちの作品

              今日は、広陵町クリーンセンター(ゴミ処理場)で、自転車の部品無料頒布会があるというので、家族と一緒に出かけてみることにした。
              朝の散歩の時は、西の空はべったり厚い雲が覆っているのに、樹木の間からは朝日が射し込んでくる。かと思うと細かい雨が降ってきたり、実に定まらない空模様。昔、子供の頃、こんな「なぞなぞ」がはやった。「天に3つの廊下がある。それは何か?」 答えは「照ろうか、降ろうか、曇ろうか」……まさに、この「なぞなぞ」を地でゆくような空模様。案の定、雨は降らなかったものの、クリーンセンター会場に着いたときは身を切るような寒さ。会場では、その寒さにも負けず、子供たちの「空き缶蹴飛ばし大会」が開かれていた。孫たちも参加させようと思ったが、事前予約者だけという。
              赤坂かおりさんの作品仕方なく自転車部品の無料頒布会を覗いてみるが、これといった掘り出し物も見つけることが出来ず、北風に背中を押されるようにして屋内会場の「空き缶アート展」を覗くことになった。
              寒さからの避難のつもりで入った会場だが、これがすごい。空き缶で、こんなものが出来るのかと感心することしきり。他にも紹介したい作品がたくさんあるが、とりあえず空き缶の使い方がわかる「蜘蛛」という作品と、これでも空き缶細工かと思わせる「時計台」の二つの作品をのせることにした。作られた人は、赤坂かおりさんという奈良市在住の方。頂いた資料によると、1977年生まれで、京都教育大学を中途退学し、2001年から空き缶でキャンドルスタンドなどを作り始め、各地で展覧会などを開いておられるようだ。いらなくなったものにアートとして命を吹き込む。しかもハサミだけで子供たちにも簡単に楽しめるとあって、新聞やテレビでもよく取り上げられているという。聞けば、隣の会場で、子供のための「空き缶工芸教室」が間もなく開かれるという。「参加してみたら」と、女房と孫たちがお誘いを受けた。
              対象は小学生3・4年生だという。孫どもは、6歳と2歳、とても無理と一度はお断りをしたが、見学でもいいからとおっしゃっていただき、僕までが見せてもらうことになった。
              教室に入るや、同じならと、ハサミと空き缶の支給を受け、小学生に混じって作品づくりに挑むことになった。最初こそ空き缶で手を切らないかと、おっかなびっくりだったが、そのうち、だんだん大胆になり、切らないでいいところを切ったり、細く切りすぎて折れてしまったり……、どうなることかと思ったが、何とか初級レベルの「空き缶アート:顔缶バッジ」が完成した。(一番上の写真の中には、僕や孫の作品も、子供達の作品に混じってあります。どれでしょうか? どれも同じで分からない! 小学生のレベルと変わらないって……

              作品の出来はともかく、子供たちに混じって楽しい時間を過ごさせていただきました。赤坂さん、それに広陵町クリーンセンター・スタッフの皆さん、本当にありがとうございました。

              ※東海道53次万歩計の記録=今日「草津」に着いた。日本橋を出発して75日目

              幼稚園の参観に行く

              2009.11.14 Saturday

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                幼稚園参観

                歴史関係の散策・探訪は、得てして暗い話題が多い。歴史=人間の闇といっても過言ではない。歴史を探るということは、結局、人間の闇と出会うという行為に他ならないと思う。広陵町の史跡散策もまだ書きかけのままだが、今日は、孫が通う幼稚園の参観日。親を含めて家族は、家業でみんな忙しそうだし、一つ明るい話題でもと、幼稚園行きを買って出た次第。

                気象記号園に着くなりビックリ。先生、園児をはじめ、参加した親まで全員がマスクをつけている。マスクをつけていないのは私一人。着いてしばらくは疎外感との葛藤となる。事前にマスク着用については連絡があったはず。「娘のヤツ、こんな大事な情報を伝えないで送り出しやがった」と、胸の内は不満タラタラ……そのうち、マスクなんかつけていても「関係ない」「関係ない」と開き直りにかかったが、それにしても、どこを向いても、マスク、マスク、マスク……ちと異様な感じもする。
                奈良県のインフルエンザの発生状況を見てみれば、10月のはじめ601件だったものが、11月のはじめには1116件と、ほぼ培近くにふくれあがっているし、この幼稚園にしたところで、学級閉鎖ならぬ園全体の閉鎖が解除となったばかり。無理もない状況ではあるが……。

                園長の話が終わるや、園児との交流にと、父兄を交えてのゲーム大会。園児たちに教えている色々な記号を、父兄にクイズとして出すという遊びが始まった。まずは気象記号の問題だが、私はいきなり躓いた。上の写真の最初のカードを見ていただきたい。丸を白黒上下に塗り分けた記号だ。私はこれを「雹(ヒョウ)と答えてしまった。これが実は「雷」、続いて2番目の丸に黒の縦線は「晴れ」、最後の丸に黒三角が「雹(ヒョウ)」というわけ。物知りで通した祖父の面目丸つぶれという次第。
                悔し紛れに帰るなり、「気象記号」の検索を開始した。そして見つけた24の気象記号、さて、あなたはいくつわかるだろうか。江戸のかたきは長崎で……てな次第か。気象記号
                回答については、どなたか奇特な方が作られた「天気記号」のホームページを参照されたし。http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0130b/contents/2285-2.html

                続いて各教室に別れ、孫と一緒に夢中になったゲームが「豆つかみ」。箸を使って1分間に大豆をいくつ拾えるかというお遊び。煮た豆だと訳ないのだが、生の豆は滑ってなかなかつかみにくい。
                これが結構夢中になる。
                年甲斐もなく孫相手にムキになり、最後は孫とのチームプレイ、二人で51個をつかみ取り、めでたく表彰状を頂くことができた。
                ちなみにネット上で「豆つかみ」を検索したところ、結構、あちらこちらで、このゲームが行われているようで、次のような記事を見つけた。
                豆つかみ「俳優石原良純(47)が、小学生に完敗した。23日、都内で食品メーカー主催の「小学生豆つかみゲーム大会」にゲスト参加。「本気でやる。勝負は勝負。ボコボコにする」と本気になり、優勝した小学5年生の女の子とエキシビションで対戦した。1分間でおわんの上に何粒、割りばしで大豆を載せられるかを競い、24粒対29粒で敗れた。「ウオーミングアップしてなかったから。夏休みだし、子どもに嫌な思いをさせても。そういう顔は見たくない」と言い訳に終始。「来年やったら、ボコボコにします。大人げないと言われても」と、早くも雪辱を見据えていた。優勝者は本選で35粒を記録した。」
                優勝が35粒だというと、私単独で30粒は軽くいけるわけだから、石原良純におくれをとることはなさそうだ。

                二度とない人生最後は、園児たちがそろって「詩」の朗読をするのを聞いた。
                「二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛をそそいでゆこう 一羽の鳥の声にも 無心の耳をかたむけてゆこう
                二度とない人生だから 一匹のこおろぎでも ふみころさないよう こころしてゆこう どんなにかよろこぶことだろう
                二度とない人生だから 一ぺんでも多く便りをしよう 返事は必ず書くことにしよう
                二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう
                二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいのふしぎを思い 足をとどめてみつめてゆこう
                二度とない人生だから のぼる日 しずむ日 まるい月 かけてゆく月 四季それぞれの星星の光にふれて わがこころをあらいきよめてゆこう」

                教室の壁には、園児たちの朗読する、坂村真民さんの詩「二度とない人生だから」が貼られていた。しかし、教室に貼られてあるのは、これで終わっているが、このあと
                「二度とない人生だから 戦争のない世の実現に努力し そういう詩を一篇でも多く作ってゆこう わたしが死んだら あとをついでくれる若い人たちのために この大願を書きつづけてゆこう」という項が続くはずだが……。
                いずれにせよ、子供たちの朗読する明るい声が胸にしみこんでくる。

                我が町のお気に入り史跡10選 No.6 鳥谷口古墳

                2009.11.12 Thursday

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                   6.鳥谷口古墳

                  鳥谷口古墳

                  「奈良県指定史跡 鳥谷口(とりたにぐち)古墳
                   昭和62年3月10日指定

                   場所 當麻町大字染野字鳥谷口679番地(現 葛城市染野字鳥谷口)
                   時代 古墳時代末期(7世紀後半頃)

                  この古墳は約1300年前に築造された、一辺が7.6mの方墳です。
                  墓室は横口式石槨(よこぐちしきせっかく)という構造で、南側に開口部があり、二上山産出の凝灰岩が使用されています。また、底石や北側の側壁には家型石棺の蓋石の未製品を利用するなど、特異な石槨構造となっている。
                  鳥谷口古墳案内板の写真
                   平成7年3月 當麻町教育委員会

                  以上が、案内板の説明である。被葬者が誰であるか、ここには触れられていないが、写真のキャプションにもあげたように、大津皇子の墳墓ではないかという説がある。この説を打ち出したのは、『陰陽五行思想からみた日本の祭』で博士号を取った吉野裕子さん。彼女は、その著『持統天皇』の中で、大津皇子の墳墓について次のように述べておられる。

                  「つまり大津は二上山に移葬されたといわれるが、二上山は大和平野における東方の神の山、三輪山に対し、日没方向の西の山、死者の山である。
                  『易』の先天易において
                  ●東は『陽』の火を意味する『離』
                  ●西は『陰』の水を意味する『炊』で、『炊』は暗い穴である。
                  大津の死後の世界は時間的にも空間的にも徹底的に『地』、それも暗い穴に閉じこめられた永遠の闇なのである。
                  なお大津の墓は二上山山頂と伝えられ、現に大津はそこに祀られている。しかし考古学的にみて山頂に古墳の形跡はなく、また、西は易の炊卦を象徴するが、その『炊』の象徴は凹だから山頂ではあり得ない。
                  従って二上山といっても恐らくその東麓(大和からみて二上山の向側の西麓は落ちた陽が東から再び上ることが期待される地点だから、西麓に葬られるはずはない。こちら側の東麓と思われる)で、しかも沼などの畔りということになる。これらの條件をみたすものに最近、発見された鳥谷口古墳がある。この古墳は二上山雄岳の東麓、その石棺は家形、しかも奇妙なことに古い石材の寄せ集めから成り、いかにも刑死者にふさわしい粗末な出来である。
                  未だ確定はされていないが、二上山頂の陵墓比定地よりこちらの方が呪術的にはよほど理かなに適っている。」

                  以上が、鳥谷口古墳こそが大津皇子の墓ではないかという吉野裕子さんの論拠である。説得力もある上、妙に胸落ちするところがあり、まず間違いないのないところだと思う。
                  それにしても、反乱罪とはいえ、よくもここまで落とされたものである。そのうえ反乱罪と言うが、大津皇子は、すでに即位していたという説もある。即位していたとなると、自身が最高権力者の座にあるわけだから、誰に対しての反乱罪なのかという疑問が当然起こってくる。
                  大津皇子は、いったい何のために刑死しなければならなかったのだろう。


                  広陵町とその周辺・我が町のお気に入り史跡10選 vol.1

                  2009.11.11 Wednesday

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                     1.牧野(ばくや)古墳
                    牧野古墳

                    所在地:奈良県北葛城郡広陵町馬見北8丁目
                    「丘陵の南斜面に築かれた円墳で、径約55メートル、何面に横穴式石室が開口している。石室は巨大な花崗岩を使用して構築している。羨道(せんどう)は長さ10メートル、高さ2.0メートル、幅1.8メートル、玄室は長さ7.0メートル、幅3.3メートル、高さ4.5メートルに及ぶ。玄室内には刳抜家型石棺があり、また組合石棺もあったが完全に破壊されていた。当古墳は馬見丘陵では数少ない横穴式石室を有する古墳として重要であるばかりでなく、県下でも最大級の巨大な横穴式石室として学術上きわめて古墳である。なお古墳の被葬者は敏達天皇(538〜585 即位572〜585)の皇子、押坂彦人大兄王(おしさかひこひとおおえのおう)であろうとする説がある。」
                    以上が、左写真の案内板に書かれてある解説だ。

                    ここで気になるのは、被葬者が押坂彦人大兄王であるということ。彼は、蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、用明天皇の崩御(587年)後、厩戸皇子(聖徳太子)、竹田皇子と共に王位継承者として候補に挙がった人物である。しかし、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたという説もある。

                    これに対し、広瀬満さんという民間の研究者の方が、WEB上で大変魅力的な説を展開されている。結論だけ言うと、従来言われている説とはまるで反対の意見で、「押坂彦人大兄王」と「蘇我馬子」は同一人物だというのである。
                    一件、突拍子もない説に思えるが、その論旨を読むと、「なるほど」と頷かせる説得力がある。興味のある方は、彼のサイトhttp://www.ookuninushiden.com/newpage59.html(「日本神話と古代史」)にアクセスすることをお勧めする。
                    それにしても、蘇我馬子という人物、聖徳太子と同一人物説を説く研究者もいる程で、興味が尽きないというか魅力的というか、その反面、何か底の知れない薄気味悪さも感じる。この牧野古墳も「馬さん公園」という、何ともかわいい別名がついているが、行かれた方はわかると思うが、石室付近に近付くと、どんよりした薄気味悪い雰囲気が漂っている。
                    ただ、この古墳の頂きに立って眺める夕陽は、結構すばらしい。古墳の頂きを通って東側へおりる遊歩道があるので、散歩にはちょうどいいコースだが、頂きに立つと、西に二上山が見渡せ、そこに陽が落ちていく。この景色が素晴らしい。ただ、この時期は4時半頃にこの場所に立たないと日没は観賞できない。


                    2.百済寺


                    百済寺

                    所在地:奈良県北葛城郡広陵町大字百済1168
                    「『日本書紀』舒明天皇11年(639)12月の条に『是の月百済川の側に九重塔を建つとあり聖徳太子が平群郡熊凝(へぐりぐんくまぎ)に建てた熊凝精舎をこの地に移し、百済大寺と名付けたと伝えられる。
                    その後、火災にあうが皇極天皇の時に再建し、天武天皇の時に至って伽藍を高市郡に移し大官大寺と称したと伝えられるが明確ではない。現存している三重塔は鎌倉中期の建築(昭和5年解体修理)と考えられ明治39年国の重要文化財に指定されている。本堂は大職官と呼ばれ、方三間単層、入母屋造りで、内陣に本尊毘沙門天像がまつられている。』

                    以上が、百済寺の敷地にたてられた案内表示の全文です。
                    ただ「ウィキペディア」でも紹介されているように、『現・百済寺周辺からはその時代の古瓦は出土せず、官寺らしき寺跡もなく、当時の政治の中心であった飛鳥とも地理的に離れており、この地に「百済大寺」が所在したことは早くから疑問視されて』おり、今では桜井市吉備の吉備池廃寺こそが百済大寺だったのではないかと言われています。

                    それはさておき、僕が注目しているのは、建物よりも、この「百済」という地名。司馬遼太郎氏が言うように、日本中至る所に、この「百済」という地名はあるようですが、元をただせば朝鮮半島に存在し1500年前に滅んだ国のこと。それがなぜ、日本中至る所に、この地名が残っているのか。韓国語では「百済」は「ベクテェ」というらしく、「伯太」→「博多」も、「百済」ということになるらしいのです。
                    結論を言ってしまえば、日本の国自体が、1500年前に滅んだ「百済国」をそのまま承継しているのでは……ということになるのです。これも突飛な話ではなく、今では歴史学者や文学者をはじめ、かなり広い分野で指示されている説だと言うことです。天智天皇も百済の王族と言われており、なぜ、彼が蘇我氏を滅ぼしたのか……クダラないと一笑に付さず、頭の体操と思って、思いを巡らせてみてはいかがでしょう。違った日本の姿、違った日本の歴史が見えてくるのではないでしょうか。


                    3.南郷環濠集落


                    南郷環濠集落

                    所在地:奈良県広陵町南郷
                    広陵町役場のすぐ南側にある集落で、南北約700m、東西約550mの規模で南郷の村を環濠がめぐっている。環濠集落の一部は公園として整備されており、石畳に沿った水の流れが心地よい景観を作り出している。もともと南郷の地は、室町時代に形成された環濠集落で、環濠内に在地豪族南郷氏の居館南郷城が築かれていたという。その後、近世に入り徳川時代には、南郷は徳川幕府直轄領となり、関ヶ原の合戦の翌年、北見五郎左衛門が代官として代官陣屋を築き2万石を支配したという。環濠の南東角が、「城の内」と呼ばれ南郷氏の居館があったところで、現在、この一角に南郷城の石碑が建っている。



                    4.藤ノ木古墳

                    藤ノ木古墳
                    藤ノ木古墳石室見取り図
                    所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目

                    「藤ノ木古墳は、昭和60年の第1次調査により、未盗掘のくり抜き式家形石棺を有する6世紀後半の大型横穴式石室であることが確認され、さらに世界でも類例のない装飾性豊かな金銅製馬具が出土したことにより、一躍世界で有名となりました。また昭和63年には、第3次調査として石棺の開棺調査が実施され、石館内からは二体の被葬者とともに、金銅製履や冠に代表される豊富な副葬品が埋葬当時のままで発見されました。そしてその日々明らかとなる調査内容は、みなさんをテレビや新聞に釘付けにし、この現象は『藤ノ木フィーバー』と称され、世間の注目を浴びたところであります。」
                    (図は、斑鳩町教育委員会「国史跡 藤ノ木古墳」−整備事業完了記念図録ーから転載)

                    以上は平成20年5月、史跡藤ノ木古墳整備事業の完了に伴い、斑鳩町長 小城利重さんが「藤ノ木古墳 記念図録」の巻頭言に寄せた一文である。
                    ところが僕自身は、この時期、近世の海外交流史に夢中で、古代史には全く興味がなかった。藤ノ木フィーバーがあったことすら覚えていない。それが奈良に住むようになり、最近は、運動を兼ねて法隆寺まで自転車を転がすことが多くなった。自転車で片道40分程度の法隆寺は、朝の運動にピッタリだったのだ。そこで、聖徳太子に興味を持ち、そのブレーンだった秦氏に興味を持つようになった。世界観が変わった。この時代は、僕が考えているよりもっと国際性豊かな世界だったのだ。帰化人というと、漢字の名前が付いているため、みんな中国や韓国の人達だと思いがちだが、その中には秦氏のようにシルクロードの西から来た青い目の人たちも多くいたようなのだ。急に古代が身近な世界になっていった。そんななかで、この藤ノ木古墳のことを知った。斑鳩町教育委員会の人に話をお聞きし、調査資料や関係図録を分けていただき、俄然、藤ノ木古墳興味を持つようになった。
                    というのも、藤ノ木古墳が造営されたのは、6世紀後半、聖徳太子の時代とも重なる時代だということ。この時代は、「日本史」というより「東アジア史」と考えていいような時代。おまけに被葬者は2名。当初は男性2名と発表されていたが、2009年9月14日の朝日新聞に意外な記事が発表された。

                    記事の内容は、「透かし彫り入りの金銅製鞍(くら)金具など超一級の副葬品が見つかり、内外の注目を集めた奈良県の藤ノ木古墳。墓のあるじは、人骨を調べた人類学者の研究に基づき、『男2人』とされてきたが、考古学者の側から『遺物の特徴からみる限り、男女』との説が発表された。」
                    さらに「藤ノ木古墳の被葬者については、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)と、宣化天皇の皇子ともされる宅部皇子(やかべのみこ)とする説など様々な説があるが、これらは『男2人』という前提に基づいてのこと。男女であれば、論争は振り出しに戻ってしまう」と、結論のでないまま、このことで「人類学者と考古学者が、深く議論を交わすきっかけになれば」と締めくくっている。

                    未だ被葬者は定できないままだが、またもや蘇我馬子や聖徳太子が絡んでいそうな状況だ。古代史への興味は尽きることがない。
                    (写真のキャプションに「藤の木古墳」とありますが、「藤ノ木古墳」の誤りです。)



                    5.唐古遺跡

                    唐古移籍

                    唐古・鍵遺跡所在地:奈良県磯城郡田原本町大字唐古

                    「唐古・鍵遺跡の楼閣(復元)
                    平成3年秋、唐古・鍵遺跡の弟47次調査において楼閣の描かれた土器が出土し、古代建築史上、画期的な発見として大きく取り上げられました。この土器は弥生時代中期(紀元1世紀)のものです。すでにこの時代に大陸文化を取り入れた建築文化があったことを証明する資料となりました。1つの土器片には2層の屋根、大きな渦巻き状の棟飾り、3羽の鳥と考えられる波線が、また、もう1つの土器片には2本の柱と刻み梯子が描かれています。この建物の表現から、宗教的な建造物でないかと考えられています。また、魏志倭人伝(3世紀)には卑弥呼の宮室は『楼観(ろうかん)、城柵(じょうさく)をおごそかに設け…」と記されています。卑弥呼の住む邪馬台国にはこのような高い建物がそびえていたのでしょう。
                    この楼閣は、高さ12.5m、柱の間隔4×5m、柱の太さ0.5mの規模です。屋根は茅葺きで、藤蔓(ふじつる)製の棟飾り、窓はつきあげ窓、一枚板製の扉、刻み梯子などで復元しました。
                    平成6年4月1日 田原本町」

                    上の写真にある「案内板」には、このようなことが書かれてあった。更に調べてみると、遺跡面積は約30万平方メートルもあり、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、出土物から考え、全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。

                    実は、この唐古遺跡には、目的があって行ったのではなく、アマテラスに一歩近づいてみようと、田原本の「鏡作坐天照御魂神社」へ自転車で出かけたことがある。そして、その帰り道、道に迷って、この唐古・槍遺跡へ出てしっまたのだ。「唐古・槍遺跡」の表示に惹かれ、何だろうと溜め池沿いに自転車を進ませると、いきなり写真の楼閣が出現した。予備知識もなく対面したわけで、それだけに強烈な印象となって残っている。

                    新刊「お母さん、ごめんなさい」の“しおり”

                    2009.11.11 Wednesday

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                      新刊本の栞色鉛筆画「大槻ゆり展」―色鉛筆の世界―(2009.11.01)でご紹介した、大槻ゆりさんの次の「しおり」が11月末にできてきます。
                      これはUTAブックの次回新刊「お母さん、ごめんなさい」(2009.11.04のブログで紹介)に挟み込むためにつくられた「しおり」です。
                      大槻ゆりさんならではの、淡い透明感のあるタッチは、本ができる前から評判になっています。
                      もし、本の購入者でなくとも、ご希望の方がおられましたら、お一人20枚を限度としてプレゼントさせていただきます。

                      80円切手を同封の上、「必要枚数」「送付先住所」「お名前」を明示の上、「〒635-0831 奈良県北葛城郡広陵町馬見北9-11-24 A102/UTAブック」までお申し込みください。

                      ◇「お母さん、ごめんなさい」の著者 本田せつ子さんのプロフィール
                      昭和25年  函館市に生まれる
                      大学、大学院修士課程にて発達心理学、児童心理学を学ぶ。
                      昭和50年より平成8年まで約20年あまり保育専門学院講師、家庭児童相談室相談員、保健所発達クリニック心理相談などに携わる。
                      著書/「母親のぬくもり」「家族の風景」「幸せへの道が開かれて」

                      大槻ゆりさん プロフィール
                      大槻ゆりさん大洋美術展 神戸市教育委員会賞 奨励賞
                      滋賀県琵琶湖環境部林務緑政課コンテスト優秀賞
                      NHKきらっといきる NHK近江人街道出演他
                      ‘05初個展を皮切りにシィベルヘグナー社による色鉛筆イベントでの展示会、京都高島屋など京都、滋賀のギャラリーでの作品展多数
                      写真提供 朝日新聞週間情報誌「あいあいAI京都」