「トマス荒木を歩く」 vol.11

2009.12.03 Thursday

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    コレジオ・ロマーノ裏手

    カンポ・デ・フィオーレの賑わいをあとに、重苦しい気持ちを抱えたまま、イエズス会本部へと向かう。どうしてもイエズス会本部と、トマスが学んだコレジオ・ロマーノだけは、この目で見、この足で踏みしめてみたかった。
    カンポ・デ・フィオーレの人混みからヴィットリオ・エマヌエーレの大通りへ出る。この大通りを東へ東へと歩くこと十分、路が東南へ別れる小路と出会うそのちょうどそのY字のところにイエズス会本部はあった。
    路を右へ折れ、正面入り口へと回る。……が、鍵がかかっていて入れない。見ると、右横手に事務所風の小さドアがある。

    マメルティーノ牢獄入ってみるが、誰もいない。
    「ボンジョールノ」と大声を上げると、奥から警備員と思われるがっしりした男性が現れた。ミスクゥイージ(すみませんが……)と声をかけてはみるが、あとが続かない。参考書片手に英語混じりのあやしげなイタリア語で意志疎通をはかること約十分、やっとわかったことは、今は休憩中で夕方四時半にならないとオープンしないこと、それだけだった。
    現在時刻は二時を少し回ったところ。近くに聖ペテロが捕らえられていたという地下牢(マメルティーノ牢獄)があるはずなので、これを見学に向かう。おりしも、その地下牢遺跡の上に建てられた教会(サン・ジュゼッペ・デイ・ファレニャーミ教会)で結婚式があった。暗い地下牢を見終わって、初夏の日差しの中へ出てくると、ちょうど、その花嫁の写真撮影の場に出くわした。純白の花嫁衣装が抜けるような青空にまぶしい。今、感じてきた湿った冷たい地下牢の感触と、いかにもちぐはぐで、何か不思議で白昼夢のような感じさえした。
    その後、フォロ・ロマーノで屋台のパンをかじり、古代遺跡を眺めながらの遅い昼食……。
    一息ついて、グレゴリア大学へと向かう。何かの本で、現「グレゴリア大学」こそ、かつての「コレジオ・ロマーノ」、つまりはトマスの学んだところだと聞いたからだ。その本には「コレジオ・ロマーノ(現グレゴリア大学)」と、確かに書いてあった。
    ところが……である。
    やっとたどり着いたグレゴリア大学、写真まで撮って、感慨に浸っていたというのに、写真を撮らせてほしいと頼んだ事務の人に「ここがコレジオ・ロマーノだったんですよね」と(こんなにすんなりと訊いたわけではないが、気持ちだけはこういう気持ちで)、念押しに尋ねたところ、「ノン」という返事が返ってきた。係りの人は、私の地図を取り上げると、その太い指で地図の一点を指し示した。
    確かに、その指の先に「Palazzo del Collegio Romano」とある。しかも、今訪ねてきたイエズス会本部の近くだ。とんだ笑い話だ。訊かなければ、今でもグレゴリア大学をコレジオ・ロマーノと信じ、勝手な絵を思い描いていたことだろう。ともかく急ごう。もう五時近くだ。
    これから教会が閉まるまでの約二時間、イエズス会本部とコレジオ・ロマーノを大急ぎで見て回った。
    イエズス会本部ジェス教会イエズス会本部では、やたらリアルな「ベラルミーノ枢機卿の胸像」や「ザビエルの右腕のミイラ」に出会い、コレジオ・ロマーノでは、建物の中で迷ってしまい、観光客の入ってこないひっそりと静まった学校の廊下のようなところに出てしまった。倉庫代わりにでも使われているのだろうか、学生たちが「聖劇」の上演にでも使ったのか、結構大きな看板状のものを見つけた。高さは一メートル半ぐらい、横は二メートル半ぐらいもあるだろうか。ベニヤ板に紙を貼り、額状の縁取りの中にラテン語(?)で説明文が書かれている。
    その一行目に、大きく「ROBERTVS  BELLARMINO(ロベルト・ベラルミーノ)」とある。学生たちがベラルミーノ枢機卿を取り扱った芝居でも上演したのだろうか。それとも、何かの展示の時にでも出された説明文か。わからないまま、写真を撮っておく。いつかわかる人に読んでもらおうと……。
    ところで、イエズス会本部で見たベラルミーノの胸像は、いかにも穏やかそうな容貌と異常な頑固さを合わせ持つ、そんな感じを持つ老人に仕上がっていた(左下 拡大写真)。これと非常によく似たタイプの人と、かつて一緒に仕事をしたことがある。某国で果樹の栽培指導をしている日本の老人だ。この人の書いた本をボランティアで編集することになったのだが、初め会った時の好々爺然とした印象は、仕事を進めるごとに変わってくる。
    ベラルミーノの胸像ともかく頑固の一語に尽きた。自分の思ったことは、周りにどんな影響を与えようが、どんな迷惑を与えようが、決して折れることをせず、それが正しいかどうかは二の次で、自分の言うことを認めさせるまで、執拗に攻撃を繰り返して飽くことがない。
    もし形が内面を映し出すのであれば、ベラルミーノという枢機卿も、そういう類の人だったのだろうか……。そう思わせるほどに、二人の容貌はあまりにもよく似ていた。
    この顔こそ、ブルーノを裁き、トマスを裁いた顔だ。
    あの事件以後、トマスは、このベラルミーノの監視下に置かれた。そして、苦しい心を抱えたまま、禁教令の布かれた日本へと帰ったのである。しかしトマスの心には、すでにキリスト教への信はなかった。

    コレジオ・ロマーノで見つけた画と看板コレジオ・ロマーノを出ようとした時、不思議な絵を見つけた。それは観光客の入らない、奥まった人目に付かない場所に飾られていた。相当年代物の油絵だ。絵の全面を、時代という埃が幕のように覆っている。破れも目立ち、そんなに大事に保管されていないことが一目見てわかる。
    絵には、神父の前に跪く一人の青年の姿が描かれていた。服装こそ、西洋風の衣装だが、彼の前に日本刀が置いてある。
    日本人だ! 天正遣欧使節の少年の一人だろうか。でも、それならもっと大事に保管されていてもよさそうだし、他の少年たちの姿が描かれていないのが不思議だ。カスイ岐部神父だろうか? それともトマス荒木だろうか? 通りがかった神父に尋ねてみた。
    日本人だということは肯定するのだが、それが誰かということになると、肩をすくめるばかりだった。
    午後七時十五分──閉館の時間だ。 

    「トマス荒木を歩く」 vol.10

    2009.12.03 Thursday

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      サンタンジェロ橋からカンポデフィオーレ
       (サンタンジェロ橋からカンポ・デ・フィオーレへ。この道をブルーのは引き回されていった)

      サンタンジェロからフィオーレサンタンジェロの屋上テラスはカフェテリアになっている。
      そこでは、軽い食事をとったり、飲み物を飲んだりしながら、ローマの街を一望できるようになっている。左手には、テーヴェ川に沿ってバチカンの最高裁判所が見え、その右手、ちょうど正面真下にはサンタンジェロ橋がテーヴェの流れをまたいでおり、さらに右に向きを振ると、バチカン回廊の向こうにサンピエトロ寺院の優雅な姿が見える。
      正面に向きを戻そう。
      これから向かおうとしているのは、この真下、サンタンジェロ橋の向こう岸である。露店でにぎわう橋のむこうに真っ直ぐ伸びる路……。路は途中から右手の方に入っていく狭い石畳の路に枝分かれしている。
      この路地が、ブルーノが処刑場へ引かれていった路だ。そして、私がこれから歩こうとする路だ……。

      狭い路地、長い年月にすり減り、無数の凹凸ができた石畳の路に雨上がりで、いくつもの小さな水たまりができている。この路を歩いていると、石畳の一つひとつがいとおしく、人さえいなければ、路に倒れ込み、その石の一つひとつに口づけしたい衝動に襲われる。
      その路地を抜けたところが、カンポ・デ・フィオーレ、日本語で言う「花の広場」だ。ローマで最もにぎやかな場所……いつ行っても露店と観光客でひしめいているところだ。かつて、この広場を取り囲む宿屋の多くを、一人の女性が所有していた。ローマ教皇アレッサンドロ六世の愛人であり高級娼婦であるヴァンノッツア・カタネイ。
      フィオーレ広場のブルーノ像かつてはそんな娼館だったのだろうか。今では薄汚れてしまった、そんな建物の壁々が、それでも賑やかに露店や観光客を取り囲んでいる。
      そんな賑やかさとはかけ離れて、広場の真ん中にたった一つ、青灰色の陰鬱な像が空にそびえて立っていた。この広場で火炙りとなったジョルダーノ・ブルーノの像(写真)だ。彼は、サンタンジェロから、私が今歩いてきた路を引かれ、この広場に着いた。
      そして、「魔術や占術に没頭し」「輪廻説を信じ」「マリアの処女性を信じず」「神を罵り」「聖像礼拝や法王を非難し」「カトリック教会に反する意見を抱いた」……等々、二十四項目にわたる罪状によって火炙りとされた。ブルーノがヴェネツィアで捕らえられてから、実に七年におよぶ審議の末の火刑であった。
      たまたまローマを訪れていたドイツ人学生ガスパール・ショップが、この火刑に遭遇し、そこで見聞した一部始終を細々と書きとめ、故郷の家族に送っている。彼の受けた衝撃は、ただ単に火炙りを目の当たりにしたというにとどまらず、むしろブルーノの死に直面しての神をも恐れぬ態度に強く打たれたかのようだ。そこで、彼の言葉によって、我々もブルーノの火刑に立ち会うことにしよう。
      トマスが彼の死に立ち会ったように……。

      広場の中ほどには、今まさに火を放たれようとする薪が堆く円形状に積まれ、その中央には、ポンペイ劇場を背にして高く立てられた一本の十字架に、痩せ細った裸の男が口に舌枷をはめられて括りつけられている。
      火は放たれ、毒蛇の舌のように薪を嘗めまわり、やがて紅蓮の炎となって十字架を呑みつくし、邪宗徒の肉体とともに渦巻く煙を噴き上げながら広場の空へと消えていった。
      (さらにガスパールは続ける)
      火炙りという過酷な刑罰もこの男の精神にいささかの怯みも与えることができなかった。それどころか処刑を宣告する者に向かって、「宣告を受けている自分よりも、宣告を下している君たちの方が、真理の前にもっと恐れおののいているではないか」と公言してはばからなかった。
      そして今、神の宥しを乞う最後の機会を与えてやろうと、立ち合いの司祭が差し伸べた十字架に対しても、侮蔑の一瞥をくれただけで、つと顔を背け、無言の抗議を棄てようとはしなかった。肉を爛れ焦がす炎にも呻き声一つ上げなかった。まるで自らの魂が煙とともに昇天してゆくことを固く信じきったもののように、従容として死の痛みに耐えたのである。

      トマスはどのような思いでブルーノの死を見守ったのか。どのような経緯で、サンタンジェロに忍び込んでまで彼の話を聞こうとしたのか……。
      鉛でも飲み込まされたような重苦しい疑問だけが残った。
      ともあれ、このようしてヨーロッパで最初に宇宙の無限を唱えたユマニスト(人文主義者)ジョルダーノ・ブルーノが焼き殺された。
      そして人々は、彼の死をもってルネッサンスの終わりととらえた。 

      フィオーレ広場に立つブルーノ

      「トマス荒木を歩く」 vol.09

      2009.12.03 Thursday

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        異端審問の部屋裁きの天使
         (サンタンジェロ城内 異端審問に使われた部屋の壁に「裁きの天使」が描かれている。)

        トマス荒木や後藤ミゲルがローマを訪れたのは、ちょうど、そんな事件も片づき、バチカン政庁が一息ついた頃のことであった。
        ローマでの彼らの目的は、一つはコレジョ・ロマーノで日本の教区司祭となるため学ぶこと、そして、もう一つの目的は、日本におけるキリスト教出版物のテキストとなるべき文献を収集し持ち帰ることであった。
        特に日本語版聖書のテキストとなるべき「ウルガータ聖書」を持ち帰ることが、二人に期待されていた。そう、シクストゥス五世が日本の少年たちと約束し、今はベラルミーノによって異端として処理された例の「シクストゥス聖書」のことである。
        そして、この二人の日本人の、文献収集面での相談役を買って出たのが、他ならぬベラルミーノ枢機卿であった。イエズス会、いやキリスト教世界が認める最高の知性ベラルミーノが日本の青年たちに尽くす姿は、周りには異例のこととして映った。ベラルミーノは、文献収集面ばかりでなく、二人の学習についても心を配り、二人がサンタ・マリア・マジョーレ教会で司祭に叙せられたとき、もっとも喜んだのは、このベラルミーノではなかったろうか。
        教皇に、ローマの市民に、そしてヨーロッパの人々に、極東でのイエズス会の働きを強く印象づけねばならない。日本での修道会間の対立、日本人とヨーロッパッパ人イエズス会士の対立、日本市場への新教国オランダ・イギリスの参入……様々な問題を抱えている今だからこそ、人々が感動し、心を一つにする材料が必要なのだ。少なくとも、トマス荒木と後藤ミゲルの二人は、その役割を果たしつつある。聖書を日本語に訳して何が悪い。むしろ翻訳する人間を育てねばならない。「聖書」を教会に閉じこめ、教会が「聖書」を独占する時代は終わった。
        ベラルミーノはそう思った。
        むしろ喜ばしいことだ。日本や中国を中心に、アジアの地にキリスト教が広まっていく。日本にいるヨーロッパ人イエズス会士の言うことなど些細なことだ。日本司教区は、バリニャーノ師の言ったように、日本人に任せるのが一番よいのではないだろうか……。
        ロベルト・ベラルミーノは、この面で実に進歩的であった。しかし、ある面では頑固という言葉が生ぬるく感じるほど頑なであった。それはキリスト教の正当性の問題である。
        今も一人の人間が、サンタンジェロの地下牢に閉じこめられている。キリスト教の正当性を脅かす人間、ジョルダーノ・ブルーノ……。彼は若くしてドミニコ会に学び、トマス・アクィナスに傾倒しながらも、その教えにもの足りず、ユダヤ神秘主義や自然魔術にも心を向け、あらゆる知識・学問を総合し、ヨーロッパ人として初めて「宇宙の無限」を唱えるに至った。そして、彼の取り調べに当たったのが、カソリックを代表する知性、ベラルミーノ枢機卿であった。

        バチカン秘密の回廊
             (バチカンとサンタンジェロを結ぶ秘密の回廊 映画「天使と悪魔」にも登場した)
        バチカン秘密の回廊
        そうだ、ブルーノに会わなければならない。
        サンタンジェロの地下牢に行かなければ……。
        急に沸き上がってきたその思いに急き立てられるように、サン・ピエトロの寺院見学も早々にカステル・サンタンジェロへと向かうことにする。
        今、このサン・ピエトロの屋上に立って見渡す光景の中に、サン・ピエトロから延々と続く回廊がある。その回廊の行き着く先に、目的のカステル・サンタンジェロがある。サン・ピエトロにいざ事が起こった場合、この回廊を使って、教皇がサンタンジェロ城へと避難した。回廊はいわば教皇の逃げ道のようなものだ。サンタンジェロ……もとはハドリアヌス帝の廟として建設された。それが何度かの拡張を経て、城門には数々の火器を備え、ついには今見るような鉄壁の要塞へと変身した。
        あの回廊をたどってサンタンジェロに向かおう。
        はやる心をおさえ、「ローマ教皇の棺が安置されているサンピエトロの地下遺跡だけは見ておこう」と、大急ぎで見学をすませる。次いで回廊の出発点とおぼしき地点へと向かった。そこにはみやげ物を売る小さな一角があって、その背後に高々とそびえるサンピエトロの一角が見える。そして、そこから少し下るような形で回廊への出口らしい部分が突き出し、その先には城壁のような回廊が延々と続いている。
        この回廊の先に、目指すカステル・サンタンジェロがあるはずだ。
        ……………………………………
        回廊をたどって十五分ばかりも歩いたろうか。突然、道が開け、巨大な石の固まりとも見えるサンタンジェロ城が姿を現した。すごい存在感で見る者を圧倒する。まさに鉄壁の要塞という感じだ。
        構造は、土台とも言える石を積み上げた巨大な固まり(日本の城で言えば石垣の部分に当たる)の上に、新たに建て増された建造物が載っている。この下部の城壁部分に地下牢があったと言う。
        早速、入場券を求め、ポッカリと開いた闇の中へ身を滑り込ませていく。

        サンタンジェロ城
                              (サンタンジェロ城)

        サンタンジェロ城地下の闇石に囲まれた通路を幽かな灯りが照らし出し、辺りは異様な雰囲気に満ちている。入ってくる者を締め付けるような闇と灯り。他に観光客がいなければ、とてもこの感覚に耐えられそうもない。幾度、人影が途絶え、叫び出しそうになったか知れない。仄かな灯りを照り返す土の道は、いつしか石畳へと変わり、ゆるくゆるく、回るように上へ上へと向かっていく。
        やがてゆるやかな上り坂は石の階段へと変わり、踊り場を経て直角に折れ曲がる。
        と……、曲がり角の左手石壁の上方に、鉄格子のはまった窓のようなものがあった。それは背伸びしても届きそうにない高さのところにあって、内部の様子を見られることを拒んでいる。さらにその先には釘付けにされた木製の扉があり、鉄製の頑丈な鍵がかけられていた。
        どうやら、ここが牢獄に使われていた場所のようだ。扉の下の隙間から手を入れ、中を探ってみる。乾いた土の感触が返ってくる。
        この他にも、壁や扉こそなくなっているが、それらしい横穴がいくつか見つけられた。だが、説明文らしいものはどこにもない。観光客の中で、ドイツから来たと思われる少年たちがペンライトを持っていたので、一緒にその暗闇に首を突っ込んでみる。部屋のようだが、闇が深すぎてよくわからない。
        木製の扉の前へ戻ってくる。
        他に誰もいないのを確かめ、前の石段に腰を落とす。

        この扉の向こうにブルーノが閉じこめられていた。トマス荒木は、ここで、こんなふうにこの木製の扉に寄りかかってブルーノの話を聞いた。なぜか、そう感じて仕方がない。根拠もないのに、その思いはいつしか確信となっていく。体中を流れる感覚……噴き上げてくる訳のわからない思い。少し気を許せば、叫び声となって身体からあふれ出ようとする。屈み込み、口だけ大きく開け、声にならないよう、うめき声を出している自分。
        間違いない。トマスはブルーノと出会った。
        この扉を挟んで、彼はブルーノの語る言葉の一言一言に耳を傾けた。
        トマスはブルーノを通して、カソリックが異端とした「神秘主義」や「自然魔術」の思想に触れていった。
        ジョルダーノ・ブルーノそして、ブルーノが焼き殺されるのをその目で見た。

        階段はまた直角に折れ曲がる。いきなり、まぶしい陽の光が射し込んでくる。出口だ。城塞の胎内を抜けきったという訳だ。今度は、その上部に建てられた建造物の部分に移っていく。
        教皇たちの住まいした部屋は、今では数々の美術品や宝物の展示場と化している。そんな展示室から展示室をつなぐ通路のような部屋に出た。部屋の両脇に展示ケースを並べているため、通路のような感じを与えるが、よく見ると、正方形に近い部屋で、ショーケースの後ろを覗き込んでみると、時代物の大型銃や小型砲が整然と並んでいる。それだけでも結構な見ものになると思うのだが、なぜかショーケースで隠してしまい、部屋全体をわざと目立たないようにしてしまっている。部屋自体が、まるで、「自分はただの通路ですよ、早く次の部屋へ移ってください」と言っているかのようだ。私もあやうく通り過ぎてしまいそうになったが、ふと後ろを振り返ったとき、愕然とした。
        「裁きの天使だ!」
        背後の壁に、その周囲こそ剥がれてしまってはいるが、間違いなく「裁きの天使」のフレスコ画が、この部屋全体を支配している。振り返って、このフレスコを中心に部屋全体を見るとき、今までの目立たなかった部屋が急にある色調を帯びてくる。
        異端審問という、どんよりした色調を……。
        何の説明がなくても、ここは間違いなく異端審問が行われた部屋だ。記録には、この城の中で異端者を取り調べた部屋には、「裁きの天使」のフレスコ画が掲げられてあったという。

        「おまえがどんなに明るく取り繕おうと、どんなにただの通路を装おうと、俺は覚えている。高い威圧的な窓。その高い狭い窓から射し込んでくる陽の光。テーブルの冷たい感触。あの小柄なベラルミーノ枢機卿が、そびえ立つように大きく見えた。冷たく哀れむように俺を見おろしていた。」

        この部屋で、トマスもベラルミーノの取り調べを受けた。
        ベラルミーノは、トマスに「裏切られた」と言った。「フィレンツェに行かせたのが間違いだった」とも言った。そして、「今は何も話すことはない。ブルーノの処刑に立ち会ってもらう。その後、もう一度、この場所で話し合うことにしよう。」
        そう言って、ベラルミーノ枢機卿はこの部屋から出ていった。 

        「トマス荒木を歩く」 vol.08

        2009.12.02 Wednesday

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          サン・ピエトロ寺院
                              (バチカン・サンピエトロ寺院)

          1997年5月31日(土)
          午前七時、ホテルを出る。まずはバチカンを目指そう。そこから第一の目的地であるカステル・サンタンジェロへ行き、異端審問所の牢獄として使われた地下牢を確認する。そして、そこに捕らわれていたブルーノが火刑に処せられるために引かれていった道をカンポ・デ・フィオーレ(処刑場)まで歩き、さらにイエズス会本部、それにコレジオ・ロマーノへと足をのばそう。昨夜来の恐怖は、まだ頭の隅に残ってはいるが、朝の空気に触れ、少しはゆったりとした気分になっていた。時間はかかるが、バチカンのサンピエトロ寺院までは歩いていくことにする。
          そう思って歩き出したとたん、あの事件が起こった。
          またもやオーストラリアから来たという旅行者に声をかけられてしまったのだ。ただし、昨日の人物ではない。今度は丸顔の、いかにも人の良さそうな人物だ。半ズボンにウエストポーチを巻き、地図を小脇に抱えて、これではどこから見ても立派な旅行者である。
          その男がサン・ピエトロ寺院への道を訊いてきた。
          私は黙って地下鉄の入り口を指し示す。男は歩いて行きたいのだという。自分自身、地図を頼りに歩いていこうと思っていたところだ。そんな気持ちを感じ取ったのか、すかさず、男は小脇に抱えた地図を広げだした。
          そのとき、一人の若い男が飛び出してきて「警察だ」と手帳を見せ、まずオーストラリア人だという男を調べ、今度は私の身体をチェックし、「麻薬を持っていないか」と訊いてくる。続いて私のパスポートをチェックするや、今度は所持金を見せろという。
          男は財布の中味をチェックすると、他に日本円は持っていないかと言いながら財布を返してくれる。ところが持った感じが違う。財布が薄くなったような感じなのだ。あわてて中味を調べると、十万リラあまりが少なくなっている。
          「足りない」と問いつめると、男は肩をすくめ、足下を見た。札が落ちている。男は、「調べているとき落ちたのだ」と言わんばかりに作り笑いを浮かべ、札を財布に入れ返してくれた。「日本円は?」と重ねて訊いてくるので、別に隠していた財布を取り出す。男は中味をあらためたうえで、すぐに財布を返してくれる。
          まただ、また持った感じが違う。再度、財布の中を調べると、やはり少ない。「足りない」と言いながら足下を見ると、やはり落ちている。こうなったら怪しいどころではない。こいつらはぐるだ。金をだまし取ろうとしている。
          私は日本円を拾い財布に入れると、〈なんとか人目につく場所へ出よう〉〈何か怪しげなことをすれば大声を出してやろう〉と身構える。男はあわてて「サンキュー」「グッバイ」と言い捨てると、その場を急いで離れていった。
          「……………………」
          ほっと一息つくや、急に冷や汗がにじみ出し、またも訳の分からない恐怖が堰を切ったように噴き出してきた。何が何か訳もわからず逃げた。すれ違う人間がみんな敵意を持っているように感じられる。電話ボックスを見つけ飛び込む。夢中で日本大使館に電話を入れる。ここから動けそうもない。事情を話して迎えに来てもらおう。どんな事情……何者かに狙われている。物盗りを装って俺を狙っている奴がいる。そんな恐怖心が妙な実感を持って迫ってくる。
          しかし電話には誰も出ない。呼び出し音が繰り返されるばかり……。少し落ち着いてくると、自分のしていることがバカバカしく思えてきた。気分を落ち着かせ、電話ボックスから出ると、回りに目を配りながら歩き出す。
          やはりバチカンへは地下鉄で行こう。
          ところで地下鉄の切符を買うべくリラの入った財布を取り出してみると、あれだけ調べ、取り戻したはずのリラが、ちょうど十万リラ(一万円足らず)少なくなっていた。幸い、日本円に被害はなかったが、一体、どんな風にして抜き取ったのだろう。まるで手品としか言いようがない……。 

          ポポロ教会のオベリスクバチカン博物館の前に長い行列ができていた。
          地下鉄オッタビアーノ駅で降り、観光客らしい人の流れについてここまで来たが、この行列にはどうしても加わる気がしない。行列から離れ、サンピエトロ寺院に向かう。バチカン博物館は日を改めて行くことにしよう。
          さてサン・ピエトロ広場に入ってまず目につくのが、ローマ時代、エジプトから運んでこられたオベリスク……ローマでは至るところで、このオベリスクが目につく。昨日だけでも、サンタ・マリア・マジョーレ教会前のオベリスク、スペイン広場のオベリスク、ポポロ広場のオベリスクなどが既に目にとまっている。
          なかでもポポロ広場のオベリスクは、ラムセス二世とその息子ネルメブタの二代のファラオがへリオポリスの太陽神殿の前に建造したものであり、ローマのアウグストゥス帝が大競技場のためローマに運び込ませたものである。
          そんなオベリスクの多くを今あるような景観に移動することに力を注ぎ、懸賞を出してオベリスクの移動競争まで実施した人物がいる。「聖なるつむじ風」と呼ばれたローマ教皇シクストゥス五世である。そして建築家たちは、このエジプトから運ばれたオベリスクを一つひとつ違った手法で取り込み、魅力的な広場を造りだすことに精を出した。
          このサン・ピエトロ広場のオベリスクも、その時、今の場所に移されたものだという。活力にあふれたシクストゥス五世の息吹きは、都市計画推進者としてオベリスクばかりか、今のローマの町並みにもその影を残し、アクア・フェリーチ水道の放水口としてつくられた噴水にもその名をとどめ、今見上げているサン・ピエトロ寺院のドームやバチカン図書館……と、彼の業績は時を越えて現代に残され、ローマをバロックに変えた教皇として知られるに至った。
          ただ一つ、ヒエロニムス以来の「聖書の改訂」という大事業は、形としてはついに現代に残されることはなかった。
          彼のことを思いながら、バチカンのドームへのぼり、クーポラ内側を巡る回廊を歩いてみる。ミケランジェロが設計し、ルネッサンスとバロックの偉大な芸術家たちのほとんどが、このドームの建設に関わった。その鑑賞に遅々として進まない観光客に続きながら、壁画を鑑賞するわけでもなく、「シクストゥスの聖書」に思いを寄せている自分があった。
          あの聖書を、教皇の死後、異端の書として秘かに回収し、闇から闇に葬った男がいる。……イエズス会の良心と呼ばれたベラルミーノ枢機卿だ。果たして二人の間に何があったのか、また、日本から来たトマス等はそのこととどう関わっていったのか。

          トマスたちが日本を離れる少し前、シクストゥス五世が崩御した。ウルガタ聖書の完成を急ぎに急ぎ、聖書学者たちを排して、自ら陣頭指揮に立った。教会の権威である聖書を、教会のトップである教皇がつくるのは当然とばかり、自らの思いを次々と聖書に反映させていった。教会の良識と言われたベラルミーノ枢機卿さえも、これに異を唱えたことで教皇から排斥されることとなった。
          誰にも意義を挟ませない独善体制のもと、ウルガタ聖書は完成した。
          「この聖書に異を唱える者はカトリック教会に反する者である」。
          そんな注意書きまでが付けられ、聖書は完成し、その完成を見てシクストゥスは死んだ。シクストゥスは自分をカトリックの代表選手、カトリックの護持者、カトリックに命を捧げた者と思っていた。いや思おうとしていた。思おうとして必死に力をふるった。ローマの町を整備し、法を整え、聖書を整え、五年間の在位期間では考えられないようなことをしてのけ、「聖なるつむじ風」と呼ばれて死んだ。
          しかし、自分でも気付かぬうちにユダヤ教的な神秘主義思想がシクストゥスの中に忍び込んでいた。
          かつてイタリアを中心にヨーロッパ中に広まったルネッサンス文化。そのきらびやかな輝きの影で、ギリシャ思想ばかりでなく、ユダヤ教のカバラやグノーシス主義、あげくは回教的な考え方まで取り込み、現象世界の背後に隠された真なるものを探ろうとする動きが起こった。
          ユマニスト(人文主義者)と呼ばれる研究者たちの登場である。
          メディチ家紋章それはギリシャ古典への回帰を看板にしてはいるが、「神秘主義」とか、時には「自然魔術」と呼ばれる動きを伴っている。このことは、結果として、知識を追求し自然の神秘を追求することによって、がんじがらめのキリスト教的な制約から、自分たちを解放しようとする動きへとつながっていった。
          その中心となったのが、ナポリ大学であり、フィレンツェのメディチ家(写真はメディチ家の紋章)である。
          そして、この動きに油を注いだのが、一四九二年のグラナダ陥落である。
          かつてスペインの地は、キリスト教、ユダヤ教、回教が共存する多宗教共存の可能性を探る実験場のような場所となっていた。経済優先の国では、宗教的に寛容となる場合が多く、たとえばヴェネツィアがそうであるし、一昔前の南フランスのトゥールーズがそうであったが、スペインの場合は少し事情が異なる。スペインでは技術的にも経済的にも、キリスト教世界は回教世界の前にあくまでも後進国であり劣等国である。このことはスペインのみに限らず、西欧世界全体に言えることであるが、スペインの場合はイベリア半島という限られた地域に三つの文化が同時にあるため、どうしても後進国であるキリスト教世界が、回教世界の風下に立たされる。この位置関係をレコンキスタ(失地回復運動)という旗印の下に、軍事行動によって一挙にひっくり返し、キリスト教世界がスペインの覇者になろうとしたのである。その永年の努力が、グラナダ陥落という結果となって現れた。
          いまやキリスト教世界がスペインの覇者となった。スペインにおける多宗教共存は、文化的にも経済的にも優れていると自他共に認めた回教世界が見せた懐の広さであった。それが劣等感の固まりのような、カソリック世界が覇者になった。スペインを解放したと信じるイザベラ女王は、自らをキリスト教世界の代表選手と信じ、非キリスト教世界の追放に情熱を注ぐことになる。
          その結果がスペインからのユダヤ教徒の追放であり、回教徒の追放である。
          カソリックに改宗することを拒んだユダヤ教徒や回教徒がスペインから逃れヨーロッパへと散らばっていった。そして、彼ら優れた人材を吸収していったのがイタリアであった。
          ナポリに、フィレンツェに、回教徒の高度な技術や情報、ユダヤ教徒の神秘主義的思想(カバラ)が植え付けられていった。
          ルネッサンスという形を取って現れたこのような考え方は、芸術活動と相まってまたたくうちにヨーロッパ中に広まっていく。結果、キリスト教の三位一体をもカバラ的に解釈しようとする試みが、カソリック教徒の間にさえ広まっていく。
          代々、ドミニコ会と共に異端審問官を出し続けてきたフランシスコ会士にさえ、カバラ的神秘主義の研究に走る者が出てきている。また、ノストラダムスのように隠れユダヤ教徒(マラーノ)として、ユダヤ人をカソリック世界の迫害から守るため、カバラの思想をキリスト教世界に積極的に忍び込ませようとする人間さえいた。その一つの形が、フランシスコ会士の一人を選び、カバラの予言によってローマ教皇とすることであった。ノストラダムスの選んだ人物、それがモンタルト、後のシクストゥス五世であった。
          彼のカソリック教徒としての苦悩は先に述べたとおりである。
          自然魔術やカバラに関わった人間たちは、多かれ少なかれ、知識を追求することによって、頑迷なキリスト教世界からの自己の解放を目指しているところがある。それをカソリック世界が異端としないわけがない。ただシクストゥスの悲劇は、彼が自らをカソリックの擁護者と信じながらも、自ら気付かぬうちに、当時の人文主義者と呼ばれた人たちの思想の影響を受けていた点にある。
          それは、彼の改訂した「聖書」にさえ反映していた。
          このことを指摘したのが、イエズス会のベラルミーノ枢機卿であった。彼は「教皇」と「聖書」の絶対的な擁護者である。「教皇」は絶対的に正しいし、「聖書」に書かれていることも、また絶対である。ベラルミーノはこれを守る立場にあった。しかし、教皇が異端であった場合、どうなるか。「教皇」と「聖書」を否定することは、カソリックを土台から揺さぶることになる。かと言って、異端的思想を教会の拠り所とする「聖書」に残しておくことは、それ以上に危険なことになるかも知れない。
          ベラルミーノは、シクストゥス五世の存命中にこのことを示唆したに違いない。だからこそ、シクストゥスは、ベラルミーノを排した。逆にベラルミーノが異端視されかねない。ベラルミーノはイギリスに避難せざるを得なくなった。
          シクストゥス・クレメンタイン聖書邪魔者のいなくなったローマで、教皇は思いのままの「聖書」をつくりあげ、そして死んでいった。この独裁者が死んだとき、周りの者たちすべてが、ほっと一息ついた。
          そして避難していたベラルミーノもローマへと帰ってきたのである。
          ローマに帰ったベラルミーノが最初に手がけた仕事が、「シクストゥス聖書」の回収であった。何があっても「教皇」が間違いを犯してはならない。各国の異端審問所に指令が出され、秘かに「シクストゥス聖書」の回収が行われた。その上で、誤植が多いという口実のもと、「シクストゥス聖書」の更なる改訂版「シクストゥス・クレメンタイン聖書」が、前教皇と現教皇の共同の名のもとに急速に出版される運びとなった。
          「つむじ風」の尻拭いは、それ以上のつむじ風の中で行われた。
          かくして、つむじ風のように表れた「シクストゥス聖書」は、瞬く間にヨーロッパ世界から抹殺され、幻の聖書となった。

          「トマス荒木を歩く」 vol.07

          2009.12.02 Wednesday

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            写字生の実演  
                     (写字生の実演風景/今回のブログに対応する写真がないので…)

            トマスやペレイラの夢に心を馳せている間に、いつしか夜の七時を回っていた。
            見れば、ミサはまだ続いていた。音を立てないようそっと席を立ち、二重になっているドアを開けて外へ出た。
            薄暗い教会の中にいたせいか、外はまだ昼のように明るく感じられた。
            ポポロ広場からスペイン広場を抜け、ホテルを目指そうとするが、また、あの迷路の中にはまりこんでしまったようだ。地図とにらめっこしながら進むのだが、違う場所へ、違う場所へと出てしまう。とうとう地図を見ることをあきらめ、自分の思うままに歩き始めた。ポポロ広場を離れてそろそろ一時間が過ぎようとしている。露店がひしめくごみごみした場所に出る。
            被害妄想だろうか。みんなの目がこちらを窺っているように見える。何とかこの場所を離れなければと、気ばかりが焦り出す。広い通りへ、広い通りへと思って進むのだが、ますます抜けられなくなってくる。狭い通りのあちこちにうさんくさげなグループがたむろしており、その前を通らなければならない。
            全身の神経が研ぎ澄まされたようになっているのを感じる。
            「何をビクビクしている」「死んでもいいと思ってローマへ来たんだろう」
            「……そうだ、丹田呼吸をして落ち着こう」
            自分に言い聞かせながら、一歩一歩進む。

            ああ、やっと広い通りへ出た。
            急に肩から力が抜けていく。と、一人のきっちりした身なりの紳士が声をかけてきた。ホテルへの道を聞いているらしい。こちらもたどたどしい英語で、「今日、ローマへ着いたところで分からない」と答えると、急に自分自身のことについて語りだした。その話によると、彼はオーストラリアから仕事で来ているという。近づきのしるしに軽く一杯飲もうとも言う。飲めないからと断っても、なんだかんだと言ってついてくる。「そこまで」「そこまで」と言いながら離れようとしない。

            男が急にローマの石畳の話をはじめた。
            「この石畳はローマの昔から変わらない……」
            そんなことを言っているのだと思う。なるほど、いつの間にか路は石畳の坂道になっている。相手の英語を聞こう聞こうと、そちらに気を取られているうちに、石畳の狭い路地裏へと、また入り込んでしまっていたのだ。急に恐怖感がおそってくる。相手は人気のないところへ引っぱり込もうとしていると思った。
            そう言えば、オーストラリア人にしては妙な訛りの英語だ。こいつはイタリア人だ。「だまされた!」と思った。
            話を聞いている振りをして、隙を見ていきなり逃げ出した。いったん走り出せば、もう何が何かわからない。ただ恐怖に背中を後押しされながら、走りに走った。
            いつの間にか大通りに出ていた。
            でも安心できない。見れば地下鉄の降り口が見える。後ろを見る。誰も追いかけてこないのを確認し、一気に駆け下りる。券売機に駆け寄り切符を買おうとするがうまくいかない。焦るばかりで何度やってもダメ、あきらめかけたところに若い女性がやってきて、私からコインを受け取り代わりにやってくれる。
            その態度があまりに自然で何の抵抗も感じさせない。
            なんなく切符が吐き出された。
            渇き切った喉から、やっとの思いで「グラッツィェ」という言葉が出てきた。彼女は「プレゴー(どういたしまして)」と笑顔を残して、改札口へと消えていき、張りつめた心が少しゆるんだ。
            それでも地下鉄のホームへ降り立つと、またまた追われるスパイのような感覚になっていた。自分ながら針の落ちる音まで聞き分けられそうな精神状態だと思った。そんなことを考えているところを見ると、まだまだ余裕があるということだろうか……。
            とにもかくにも地下鉄をB線に乗り換え、やっとカブールの駅にたどり着いた。時計は十一時近かった。地下鉄カブール駅から細い裏道をホテルへと向かう。ところがホテルの入り口は鍵がかかってしまっている。あわてて呼び鈴を押す。誰も出てこない。急に後ろが気になる。
            真っ暗な路地を睨みながら、「早く出てくれ」と呼び鈴を押し続ける。……やがて若い男性がいかにも面倒そうに現れ、鍵を開けてくれた。
            「ミスクージー」と謝った上で名前を告げると、110の番号の付いた鍵束をくれた。案内してくれるものとばかり思っていたが、男はそのまま奥へ引っ込んでしまおうとする。
            「ドンデ(何処)?」と大声を出すと、面倒くさそうに外を指さす。まさか、外へ行けというのか? 戸惑ったまま、そこへ立ち尽くしていると、仕方なさそうに戻ってきて説明してくれる。お互いがおぼつかない英語でやりとりした結果、宿泊棟は外の建物のようだ。鍵束は一本が建物全体のキイー、一本は二階入り口のキイー、最後の一本が部屋のキイーのようだ。試してみると、果たしてその通りであった。
            しかし、こんなに時間をかけてやりとりするぐらいなら案内してくれた方が早いのに……と、ついつい愚痴の思いが出てしまう。
            玄関を入ると、右側にドアがある。ドアに鍵はかけられていない。開けてみると、隣の教会の礼拝堂へとつながっていた。貧乏旅行で、いよいよ金がなくなったら、教会の巡礼用施設にでも泊まろうと思っていた。出来すぎだと思った。安いと思ったら、ここは教会が経営でもしているのだろうか。それとも、ただ単に同じ建物の一角を教会として使っているだけだろうか。
            音が響かないよう、そっとドアを閉め二階へと上がる。上がりきったところに鍵のかかったドアがあった。鍵を開け中に入ると、真ん中に廊下が走り、その両脇に各部屋が並んでいる。入り口から二つ目の右側の部屋が110号室であった。
            部屋の入り口に置かれた布袋の像が笑っている。
            不気味なその像を横目に、部屋の鍵を開ける。
            部屋は狭い縦長の部屋で、入ってすぐの所にベッドがある。その奥右手にシャワー室があって、突き当たりの所には、開ければベランダもなく外の空間に直接つながるドアがある。危険なのか、さすがにドア全体は開かず、上の窓部分だけが開くようになっている。開けて外を確認する。狭い猫の額のような空き地があり、その空き地を取り囲むような建物の造りになっている。
            右斜め下の部分が先ほど覗いた教会の壁のようだ。見れば、小さな張り出し屋根があって、何かあれば一階までは、あの屋根をつたって逃げられそうだ。
            そんなことを考えていると、急に入り口のドアが気になり出した。
            あわてて机を動かし、ドアの前に置く。これでもしドアの鍵が破られても、入ってくるまでの時間稼ぎになるし、机を動かす音で目が覚めるだろう。今にして思えばずいぶん滑稽な話だが、その時は、本気でそんなことを考えていた。不安と訳の分からない恐怖に凝り固まって自分でもどうしようもない状態だった。
            しかし、少なくとも目が覚めるかどうかの心配は不要だった。午前二時に目が覚め、それからというもの、いくら寝ようとしても、恐怖心いという感覚をむき出しにされたようで、遂に眠れなかったのだから。

            午前四時、まだ暗い内からゴソゴソと今日一日の用意をする。
            何かしていないと、おかしくなってしまいそうだったから。それに、いつでもこのイタリアから逃げ出せるよう、手帳にJALのローマ支店の電話番号を控えておく。さらに日本大使館の電話番号、警察の外国人用緊急電話、おまけに日本人スタッフが常駐するというJCBのローマ事務所……これだけ電話番号を控えておけば安心だろう。ホテルに置いておく荷物は、どうでもいい着替えだけにし、他は何があっても大丈夫なよう、すべて身に着けておく。
            後は陽がのぼるのを待つだけだ。 

            「トマス荒木を歩く」 vol.06

            2009.12.01 Tuesday

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              グーテンベルグ聖書

              秀吉が「二十六聖人殉教」という大花火を打ち上げての禁教令も、ポルトガル商人の対日貿易ボイコットの前に、最初の勢いもどこえやら、次第にトーンダウンしていく有様である。

              ローマ字で印刷された「平家物語」ともあれキリシタンに一時の平和が戻った。トマスのいる加津佐のコレジオでも、ポルトガルから持ち帰った印刷機が活動を開始する。宣教師が日本語と日本の文化を学ぶためのローマ字印刷物、「平家物語」「太平記」「伊曽保(イソップ)物語」……。日本人信徒がキリスト教を学ぶための「ドチリナ・キリシタン」「サントスの御作業の内抜書」「コンテムス・ムンヂ」……。なかでも「ドチリナ・キリシタン」は、日本で初めて、日本語の鉛活字を鋳造し印刷したものである。イエズス会宣教師たちが、日本語の複雑さ故に不可能であるとした日本語の活字化を、日本人たちが成し遂げた。
              後藤宗因がその中心となって開発に当たった。それに不干斎ファビアンをはじめとするコレジオの日本語教師たち、天正遣欧使節の随員として印刷術を学んだドラード、イタリア人欧文印刷技師ジョアン・バブチスタ・ベッセ、そこへトマス荒木や宗因の息子トメイをはじめとするコレジオの修練生等々が頭を寄せあった。ポルトガルの孤児院から日本に送られ、四十年以上を日本の布教のために過ごしたギリエルモ・ペレイラも相談役のようにして、いつもトマスを見守っていた。また時には正式使節としてローマに渡った伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルらも顔を見せる。

              加津佐のコレジオに次第に出版を通して一つのグループが形成されつつあった。彼らは日本語の活字化を模索しながら、日本語に翻訳するためのテキストとなる原本を求めた。その第一番は、なんと言っても「聖書」である。彼らは、伊東マンショを通じて、ローマで完全なウルガタ聖書の改訂が行われていることを知る。シクストゥス五世の聖書がそれだ。これを日本語に訳し、日本人の手で造った活字で出版する。夢は膨らんでいくが、イエズス会自体は、このことに対し消極的と言うより否定的でさえあった。
              日本人の能力を評価し絶賛したザビエルやバリニャーノの時代は終わっていた。むしろ日本人を油断できない野蛮人とする見方がイエズス会の主流となりつつあった。日本人は宣教師とするより、同宿として教会の下働きをさせることが向いている。彼らは野心的でキリストの教えを自らの出世のために利用する。宣教師になりたがるのもそのためであり、彼らには高尚なキリストの教えを理解できない。むしろその奥義を教えれば、野心的な彼らは、キリストの教えをゆがめ伝え、別の宗旨を創りだすことであろう。
              これは極端な考え方であり、一方でイタリア人宣教師に見られるように日本人への好意的な態度もあるにはあるが、イエズス会日本布教区自体が日本人への厳しい風潮の中にあり、日本人会員の不満が常に存在し、ポルトガル系会員と日本人会員の間に軋轢があったことも、また事実である。
              したがって彼らの夢に一役買ったのも、イエズス会ではなく裕福な日本人信徒の一人であった。

              加津佐のコレジオ跡

              加津佐のコレジオに、暇を見ては、はるばる長崎から孫娘を連れてやってくる老人がいた。名を末次興善という。ザビエルの宿主となったこともある名家で、平戸の木村氏の出であるが、その木村氏からは、日本人として初めて宣教師となったセバスチャン木村を出している。長崎においては、商売としてキリシタンにつながる者にも、また純粋に信仰としてキリスト教を求める者にも、そのどちらにも柱石的な存在として頼りにされている老人である。貿易商として博多から長崎へ移り名を成し、今は息子平蔵に家督を譲り悠々自適の生活を送っている。

              中世の印刷風景その興善に、加津佐のコレジオをつないだのが、ポルトガル人修道士ペレイラである。孤児としての自分の身の上をトマスにだぶらせ、彼を実の弟のようにかわいがっている人物だ。四十年以上を修道士として日本で過ごしながら、遂に成ることの出来なかったパードレ(司祭)への夢。ポルトガルの孤児院時代から話に聞き、夢に見ていたローマのサンタ・マリア・マジョーレ教会。
              その夢を日本人孤児トマスに託した。
              自ら行くには、ペレイラは老いすぎていた。まだ五十を過ぎたところだというのに、もう七十過ぎの老人に見える。目を瞑れば、まだ見ぬサンタ・マリア・マジョーレの華やかで荘厳な礼拝堂が浮かんでくる。あの礼拝堂で、司祭に叙階される。何度も夢に描いた光景、その夢をトマスにかなえてほしい。高槻の教区で出会い、以来、長い旅を共にしながらペレイラは、ラテン語を、ポルトガル語を教えながら、その夢をトマスに語り続けた。
              今、その機会がやってきた。加津佐で芽を出した出版の夢。その夢をペレイラが興善に取り次いだ。興味深げに話を聞いていた興善は、ある日、ひょっこりと孫娘を連れ、加津佐のコレジオを訪ねてきた。孫娘マリアは平戸の木村氏の出自だが、両親を亡くし、興善が息子平蔵の養女として末次家に迎えた。
              「ドチリナキリシタン」以来、月に一度、興善のコレジオ通いが始まる。本を造る費用にと、来る都度、多額な金子を寄付し、新しい本が出来る度に目を細め、喜んでいる。マリアもコレジオがすっかり馴染み、来る都度、トマスをはじめ、たくさんの修練生からかわいがられた。そうこうするうち、マリアは印刷の試し刷りの紙切れをもらっては、それを教材にローマ字やラテン語を学ぶようになっていく。
              「次の本は?」「次の本は?」と、来る都度問いかける興善に、聖書を日本語で出版する夢が、自然の勢いで語られてゆく。そして出てくるのが、ローマで、教皇シクストゥス五世が自ら改訂したという「ウルガタ聖書」の存在……。
              シクストゥスが日本の少年に託した夢が、ローマからはるか離れた加津佐の地でくすぶりはじめる。そして、そこにトマスをローマに行かせ、彼の地でパードレに叙階させるというペレイラの夢が重なる。

              こうして末次家の援助のもと、二人の青年が留学生としてローマへ渡ることになった。その目的は、コレジオ・ロマーノで学びパードレとなること。その間、学びながら、日本に持ち帰るべきキリスト教をはじめとする文献の目録をつくり、その収集に当たること。なかでも日本語版聖書出版のため、そのテキストとなる「ウルガタ聖書」を持ち帰ることが大きな目的とされた。
              その費用は、イエズス会ではなく、末次家が負担する。派遣される修練生は、トマス荒木と、その補佐として後藤ミゲルが選ばれた。トマスが選ばれたのは、勿論、興善の古き良き友であるペレイラの薦めで、そのラテン語の才能を買われたがためであり、また後藤ミゲルが選ばれたのは、日本語活字の開発に当たる後藤宗因を父とし、日本における次世代のキリシタン出版をになう者として注目されたからである。  

              「トマス荒木を歩く」 vol.05

              2009.12.01 Tuesday

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                サンタマリア・デル・ポポロ教会

                この辺で言い訳をしておかなくてはならないだろう。
                このブログは、トマス荒木の足跡を追いかける紀行文という形で書かれている。しかし、それはあくまで、僕の紡ぎあげた物語「トマス−孤児たちのルネサンス−」というお話に基づく紀行文である。ここでは、いろんな面で断定的な書き方をしているが、そこには僕の「推測」や「思い」というフィルターが介在しており、資史料に基づく史実の描写ではないことをお断りしておく。
                では、トマスの足取りを追う旅を続けていこう。

                フラミニア門(ポポロ門)ポポロ門、正式にはフラミニア門という。北ヨーロッパからローマを訪れる人間はフラミニア街道を通り、このポポロ門からローマへ入ることになる。今ではポポロ門を一歩出れば市電が走り往時の面影はないが、かつて北イタリアの田園風景の中を旅してきた旅人は、このポポロ門にたどり着き、門の向こうに広がるローマの偉容に「ローマに来た!」という感慨にひたることになる。
                トマス荒木も、このポポロ門からローマへと入った。私もポポロ広場からいったん門の外に出、トマスにならい、あらためてポポロ門から城内へと入る。教皇ピウス四世によって十六世紀に建設されたポポロ門の頂には、なぜかメディチ家の紋章が置かれ、ローマへ入る人々を見下ろしている。
                その下を、ポポロ門からポポロ広場に足を踏み入れるや、やるせないような懐かしいような思いがこみ上げてくる。門を越えてすぐ左側に、サンタマリア・デル・ポポロ教会がある。教皇パスカリ二世が、一〇九九年にネロの亡霊が住み着いているというクルミの木を切り倒し、その跡に建てさせたものだ。
                二重になった木製ドアを開け、中に入るや、ちょうど夕べのミサの真っ最中で、薄暗い礼拝堂の中に静かな神父の声だけが響き渡っていた。床に描かれた骸骨の絵を踏まないように避けながら、そっと一番後ろの椅子に腰を下ろす。ふと肩の力が抜ける。と同時に、またまた苦しさと懐かしさがない交ぜた何とも言えない思いがこみ上げてきた。必死で平静を装う。
                でもトマスは、なぜローマに来たのだろうか?
                話を十六世紀末の島原へ戻そう。

                一五九〇年七月、天正遣欧使節が日本に帰った。信長すでに亡く、天下人となった秀吉は、バテレン追放令を発し、それがただ単なる脅しではないと言わんばかりに、イエズス会、フランシスコ会を含む神父、信徒二十六名を長崎西坂で磔刑に処した。イエズス会のセミナリオ、コレジオも、そんな秀吉の目を盗むように島原半島を転々としており、伊東マンショら天正遣欧使節の帰国も、そんな秀吉の顔色を窺いながらの帰国であった。
                日本の統一を目指す秀吉にとって、意のままにならぬイエズス会の勢力はまさに目の上の瘤、支配下に置くことが出来ねば追放するしかない。しかし、それを大々的に手を着けることができないのが秀吉の現状であった。追放令を発し、二十六人を西坂に誅したものの、その見返りはポルトガル商人の対日本貿易ボイコットとなって現れた。

                26聖人レリーフ

                当時、日本国内では中国産生糸の需要が爆発的に伸び、糸の値段が物価を左右し、景気の動向を支配した。国内産生糸は、この時期まだまだ量的にも質的にもその需要を賄えるほどではない。かと言って中国側は、和冦対策と称し、日本に対し海禁令を敷き、貿易の門戸を開こうとしない。
                その需要の伸びは、日本人朱印船貿易家や中国側の冒険的商人の非合法的活躍だけではどうしようもないところまで来ていた。いきおいマカオに拠点を置き、日本に中国産生糸を持ち込むポルトガルに頼らざるを得ない。そして、その貿易を実質的に牛耳っていたのが、イエズス会である。
                イエズス会の斡旋がなければ、ポルトガル人商人は日本人に生糸を売ろうとしない。このため、生糸貿易から上がる莫大な利益を目指し、多くの日本人商人がキリシタンとなった。また、その経済力、軍事力を頼り、戦国大名でもキリシタンとなる者があった。長崎を支配していた土豪長崎甚左衛門もそんな一人であった。イエズス会に長崎の地を寄進し、貿易の利を目指す多くの日本人商人を長崎に集めた。
                教会を建て、堀を巡らし、港を整備し、日本の地に、貿易とキリスト教が支配する自治都市が出現した感があった。秀吉がまず目指したのも、貿易をキリスト教から切り離すことであった。そこで長崎を直轄地として接収し、イエズス会から取り戻した上で、バテレン追放令を発しキリシタン勢力の日本からの閉め出しをはかった。
                「ただし、ポルトガルの商人はこの限りではない。安心して今まで通り商売に励むように……。」
                こんな秀吉の政策に、マカオのポルトガル側は、日本向けに貿易船を出さないことで対抗した。二十六聖人の殉教事件が起こるや、ポルトガル船の来航がピタリと停止した。糸価が暴騰し、日本の経済は混乱した。そんな経済制裁の前で、秀吉も方針を変更せざるを得ない。キリスト教に対しては、見て見ぬ振りをする。それが秀吉の新しい方針であった。
                マカオとの貿易が再開された。再開第一号のポルトガル船に乗って、マカオで待機していた天正遣欧使節の一行が、ポルトガル国王の親書を携えて帰国した。いわば秀吉は、キリスト教抜きでポルトガル貿易は持続できないことを再確認させられたわけである。
                結果、秀吉は使節の一行を伏見聚楽第で謁見し、使節の奏でる南蛮音楽に耳を傾けこととなった。ただし、一旦出したバテレン追放令を取り下げることはしなかったが……。

                天正遣欧使節が持ち帰った楽器と印刷機天草を訪ねたおり、河浦町で洋服店を営む松崎さんという方と知り合った。松崎さんは、天正遣欧使節が持ち帰った楽器を復元し、中世ヨーロッパ音楽を演奏する会を主催しておられる。その松崎さんに無理を言い、使節たちが秀吉の前で演奏した楽曲を聴かせてもらえないかとお願いしたことがある。その時は時間もなく、そのままになっていたが、しばらくして一本のテープと次のような手紙が届いた。

                「桐生様/拝啓、秋空の美しき星月夜が続き、一ぴきのコウロギが草むらで美しいメロディを奏でており、何とも言えぬ気持ちがなごむ毎日であります。先日の件ですが、遅れて申し訳ありませんが、ここに練習での演奏でありますが、8曲ほどテープに収めてみました。
                帰国した天正少年の四使節が秀吉に謁見し演奏した曲と言われている「千々の悲しみ」という曲も入れてあります。謁見した四人は、その足で天草河内浦のコレジオにて3〜4年間を過ごすことになるのであります。ここに資料も入れておきましたので、ご参考になればと思い、あしからず。よろしく!! ありがとうございました。」

                (以下のURLで、松崎さんグループが演奏した「千々の悲しみ」を聴いていただけるようにしました。http://uta-book.com/tijinokanasimi.mp3

                「トマス荒木を歩く」 vol.04

                2009.11.30 Monday

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                  フォロ・ロマーノ
                                         (フォロ・ロマーノ)

                  1997年5月30日(金)
                  現地時間で早朝6時15分、ローマのフィウミチノ空港へ到着。香港からはイタリア人老夫婦と同席だった。降りるとき、荷物を降ろしてあげると、狭いシートから立ち上がり、大きな体を精一杯広げ、「サンキュー」「ブラボー」「ワンダフル」……と、知ってる限りの英語で感謝を表してくれる。
                  あげくは拍手まではじめる始末で、恥ずかしさのあまり、こちらの顔がカーッと熱くなってくるのがわかる。おおあわてで逃げるようにして飛行機のタラップを降りた。

                  ローマへ到着してまず出会った試練が、国鉄の自動券売機だった。
                  空港からローマの市内へは国鉄と地下鉄を利用していくことになるが、切符を買おうとしても自動券売機しか見つからない。そこで冷や汗を流しながら機械とにらめっこする羽目になる。誰か他の人が利用するのを見ていて要領をつかもうとするが、朝も早いせいか誰も来ない。
                  それでも券売機の前で五分ばかりもたたずんでいると、今まで見えていなかったものが見えてくる。ENGLISH(英語)というボタンがあるので、それを押し、後は画面の指示に従って行き先を指示し紙幣を入れると……大成功、チケットと釣り銭が小気味よい音と共に吐き出されてきた。以後、地下鉄の乗り継ぎもなんなくクリアーし、大いに自信を持ち、ローマはカブールの駅にその第一歩を印すこととなった。
                  しかし、これからが大変だった。降り立った地下鉄カブール駅周辺は、まるで路地裏の迷路のよう。この付近に今日宿泊するHOTEL・IVANHO(ホテル・イワノー)があるはずだが、なぜか、どうしても見つからない。地図をたどって探してみても、同じ所をぐるぐる回るばかり。婦人警官に聞いても、学生に聞いても、一向に要領を得ない。そのうち、リュックが肩に食い込んでくるし、うさんくさげに見つめる人の目が気になり出す。
                  二時間近く探し回り、やっとこの地区の地図がわかりはじめた頃、親切な老婦人の道案内で、なんとか目的のホテルのフロントに立つことができた。片言の英語で三日間の宿泊を予約し、荷物を預け、午前十時いよいよ最初の目的地サンタマリア・マジョーレ教会へとへ向かう。

                  サンタマリア・マッジョーレ教会内陣
                  (サンタ・マリア・マッジョーレ教会の内陣)

                  トマス荒木のローマ滞在中の記録はほとんどないと言ってよい。それに比べ、トマスのあとローマを訪れた日本人カスイ岐部神父の記録は多い。それはトマスが裏切り者の背教者であり、岐部神父が凄絶な拷問に耐えイエスの教えに殉じた殉教者であるからだろうか。
                  ともあれカスイ岐部神父は、このサンタマリア・マジョーレ教会において副助祭に叙せられた。記録こそないが、トマス荒木もこの教会で副助祭もしくは司祭にに叙せられたのだろう。教会の床も壁も、そしてそびえ立つ天井も、おそらくは当時のままであろう。トマスの見たものを、今、この目で見ているに違いない。しかし感動はない。懐かしいという思いもない。かといって苦しくもなく、ただ無味乾燥で、「ともかく来たなあ」ぐらいの思いしか湧いてこない。

                  このマジョーレ教会一つ探し出すにも、ずいぶん苦労した。見つけてしまえば、こんなわかりやすい場所はないと思うのに、見つけるまで一時間は歩き回っただろうか。
                  ホテルと言い、このサンタマリア・マジョーレ教会と言い、まるで私を避けているかのようだ。おまけに市内観光を予約しているバスの待ち合わせ場所までが見つからない。半日は観光バスでローマの概略をつかんでおこうと予約したものだが、マジョーレ教会のすぐそばにあるはずが、まるで見つからない。パトロールの警官に聞いても、教えてくれはするが、その場所に行ってみると違う場所だったりする。
                  歩き回っていて意味のない恐怖感におそわれる。闇から闇に葬られる恐怖感……いきなり拉致され、抹殺されるのでは……。ありそうもない想像が頭を駆けめぐり、次第に現実感を帯び、急に周りの人間が気になり出す。道の向こうで公衆電話に向かう女性、電話が長すぎる。そしらぬ振りでこちらを見張っているのではないか。
                  そういえば、このローマでは私がここにいることは誰も知らない。私という人間さえ知られていない。このまま行方不明になっても、なにもなかったように誰も探す者さえいないだろう。たとえ日本から家族が探しに来ても、手がかり一つ残されていない。
                  闇から闇に葬られていく恐怖……。

                  やっと見つかった。何とか観光バスの出発時間に間に合ったようだ。またも一時間以上歩き回り、探し当てた場所は、サンタマリア・マジョーレ教会から歩いて五分もかからない場所であった。バスを待つ顔の中には日本人カップルの顔も見える。一安心だ。
                  係の人に聞けば、バスは遅れていると言う。バスを待つ間、近くのピッツェリアでコーラ片手にピザを頬張る。四分の一を注文したのだが、これがなかなかのボリュウム。腹がふくれるや、あの言いようのない恐怖感もどこかへ行ってしまったようだ。

                  サン・パウロ教会とスペイン広場ところが、とんでもないことが起きた。やっと乗り込んだ観光バスの中に日本人が一人もいない。アメリカ人とヨーロッパ系の人たちばかり、日本語のガイドも乗り込んでいない。一安心したはずが、またもや不安の坩堝の中へ真っ逆様だ。

                  ………………ヴェネツィア広場、フォロ・ロマーノを経て、サンパウロ教会でバスが止まる。ガイドの人に教会の中へ導かれ説明を受ける。ローマで唯一ビザンチン様式を残した教会だそうだが、十九世紀にその三分の二が焼失し、かろうじて内陣部分の三分の一が残されているという。不得意な英語を必死で聞いていると、いきなり後ろから「日本の方ですか」と声をかけられた。懐かしい日本語に振り返ると、声の主はスペイン系の女性だった。彼女の言うには、何らかの間違いでイングリッシュコースのバスに私を乗せてしまったらしい。自分は日本語コースのガイドで、これからは私のバスに乗ってくれと言う。見れば、先ほど見かけた日本人カップルの若々しい顔も見える。ホッとしてそのカップルに声をかけてみた。
                  聞けば、新婚旅行にこのローマに来ているという。なぜか気が合い、観光バスを降りてからも一緒に付き合うことになった。スペイン広場へ行き、一緒に写真を撮り合う。ご主人はパナソニック映像事業部のディレクターで、奥さんは薬剤師をしているという。夫婦して写真きちがいで、三人してスペイン広場を探し回り、写真を撮りまくる。
                  元気のよすぎる奥さんは、ワンツウースリーの気合いもろとも、欧米人の記念写真まで気安く引き受け撮りまくるという有様。ご主人もすぐ悪のりするタイプで、三人してマンホールの蓋に足を置き、「足写真」を撮ろうなどと言い出す。何をするのかと思いきや、マンホールに片足ずつをのせ、上からカメラでマンホールをバックに足の集合写真を撮るというもの。カメラを構えたご主人は、並んだ足に向かって一言
                  「撮りますよ、いい顔をして……」
                  突然のジョークに、私の足も、どんな表情をすればよいのか戸惑ってしまい、幾分不安げにひきつったような笑いを浮かべていた。
                  楽しい一時が過ぎ、別れるときが来た。住所を交換し、それぞれの写真を送り合うことを約して別れた。二人はショッピングに。私はローマへの入り口であるポポロ門へと。 

                  「トマス荒木を歩く」 vol.03

                  2009.11.29 Sunday

                  0

                    バチカン図書館

                    トマスの旅は、セミナリオの移動と共に始まった。
                    戦国の動乱を縫うように、セミナリオは京都、高槻、大坂と転々と畿内を移動し、最後には九州有馬のセミナリオ、コレジオと合流し、やがて加津佐へと移動していく。
                    ところで、トマスの旅を追いかける前に、もう一つの旅を見ておこう。
                    信長が本能寺の変に倒れる前、天正遣欧使節の一行がローマを目指して旅立っていった。使節一行は、表向きは、九州の三大名、大村、大友、有馬氏のプリンスとなっているが、それぞれ血筋こそつながってはいるものの、ほとんど戦災孤児と言っていいような子供たちであった。
                    それを巡察師バリニャーノが、日本布教区の発展をローマに印象づけるため、まるで日本を代表するかのような使節に仕立て上げてしまった。
                    しかし信長はこの企画を歓迎し、これを全面的に支援した。日本の甲冑や、信長が狩野永徳に描かせた「洛中洛外図屏風」「安土城下図屏風」がローマへの土産としてバリニャーノに下賜され、日本の文化を、そして自分の名をヨーロッパへ伝えようとしたのである。
                    三年の年月をかけ、一五八五年三月、使節の一行はローマへ到着した。マカオからマラッカ、ゴアを経由、そして喜望峰を回り、リスボンに上陸したのは一五八四年八月のことである。
                    ところで、これより三十三年前の三月十日、このリスボンの港に一六〇名あまりの孤児たちが集まった。ペドロ・ドメネク神父の孤児院から集まった子供たちだ。彼らは孤児院からインドへと送られる仲間の少年たち九名を見送るため、この港へと集まったのだ。九人の少年たちは三人ずつ三隻の艦隊に分乗し、東洋での布教に従事するため、現地でイエズス会の教育を受けることになっていたが、この九名の中に、ギリエルモ・ペレイラ少年がいた。
                    彼はインドのゴアで短期の教育を受けた後、日本布教区へ派遣され、一六〇三年に死亡するまで四十五年間、日本の各地を巡回し、ついにリスボンに帰ることはなかった。彼は日本語がよくでき、まるで日本人のように話したと言われる。そのペレイラが、晩年、九州で関わり合ったのがトマス荒木だった。ペレイラは自分と同じ境遇のトマスをまるで実の弟のようにかわいがり、まだ見ぬローマへの思いを彼に託した。

                        (写真は、『天正遣欧使節謁見記』)
                    天正遣欧使節謁見記しかし、これはまだ後の話である。今はまだ、トマスに先立ってローマを訪れた天正遣欧使節の少年たちと、一人のローマ教皇との関わりについて話さなければならない。そのローマ教皇とは、「聖なるつむじ風」とあだ名されたシクストゥス(シスト)五世のことである。
                    使節一行がローマに到着したとき、ローマ教皇はまだグレゴリウス十三世であった。日本人にはグレゴリオ暦を制定した人として知られているが、この教皇は日本からの使節をことのほか喜んだ。一行がローマに到着したのが、三月二十二日の夜、その翌日には早くもグレゴリウス十三世に謁見を果たしている。その謁見から二十日も経たないうちに、教皇は極東での初穂に満足しながら息を引き取った。四月十日のことである。
                    悲しみもそこそこに、あわただしくコンクラーベ(教皇選出会議)が開かれる。集まった枢機卿たちは、新教皇を選出するまで、この会議場という密室に閉じこめられる。やがて新教皇が選出されるや、煙突から白い煙が立ち上り、サン・ピエトロ広場に集まった人たちにそのことが知らされる。コンクラーベの期間、外界から閉ざされていた会議場の扉が開かれ、次々とコンクラーベに集まった枢機卿たちが退出していく。やがて広場に面した大きな窓がいっぱいに開かれ、先任枢機卿が現れるや新教皇の名を発表した。
                    「モンタルト……!」
                    どよめきが起こった。
                    そのどよめきには、「意外な」という驚きと、「なるほど」という納得の響きが入り交じっていた。フランシスコ会枢機卿モンタルトと言えば、棺桶に片足を突っ込んだような老人として、皆に知られていた。あるイギリス人は彼のことを「かつて暖炉に宿ったもっとも背骨の折れ曲がった慎ましい枢機卿」と評しているし、ある枢機卿は、肺病の末期症状のような咳を繰り返すモンタルトに「死ぬには早すぎますぞ」と励ましの言葉を贈っている。
                    そんなモンタルトの教皇選出は、彼が間もなく死ぬであろうことを見越しての、一時しのぎであることが、誰の目にも明らかであった。
                    ところがである。その今にも死にそうな教皇が、五年もの間、その座にあり続け、どの教皇よりも精力的な活躍をした。サン・ピエトロ大聖堂のドームの完成、オベリスクの移動、バチカン図書館の建設、はるか二十マイルの彼方から谷と丘を抜ける水道を建設し、ローマに吸水した。そして教会が拠り所とするブルガータ聖書の改訂。まさに「聖なるつむじ風」とあだ名されるにふさわしい働きではあった。彼の伝記を書いたレティは記している。
                    「モンタルトは投票を勝ち取るとすぐ、背筋をしゃんと伸ばし、松葉杖を放り投げ、叫んだ。『さあ、これでわしは皇帝だ』そして雷のような声を張り上げて<テ・デウム>をがなり立てたという。」
                    モンタルトを知る誰もが思った。「だまされた」と……。
                    新教皇シクストゥス五世の誕生である。

                    ノストラダムス胸像ところでシクストゥスをこのように駆り立てたものは何だったのだろう。
                    彼がまだ若い頃、他のフランシスコ会の仲間と共にシチリアを旅していた頃のことだ。一人の男と出会った。その男とはミッシェル・ノストラダムス。「ノストダムスの大予言」で有名な、あのノストラダムスである。ミッシェルはミカエルであるし、ノストラダムスはノートルダム、つまり聖母の意味であるから、名前を見るかぎり、どこに出しても恥ずかしくないカソリックだ。ところが実際は、彼はマラーノ、つまり隠れユダヤ教徒であった。この時も、異端審問所の呼び出しから、フランスを逃げ出しての旅の途上であった。
                    そのノストラダムスが若いフランシスコ会士、モンタルトに接近した。ユダヤ教神秘主義「カバラ」の予言をもって……。
                    ノストラダムスは、モンタルトを見るなり、その場にひれ伏した。
                    「あなたは、将来、ローマ教皇になるべき人だ」と……。
                    以来、彼はこの予言にとりつかれてしまった。たとえノストラダムスがユダヤ人であったとしても、また異端審問所から追われる異端者であったとしても、一度、ノストラダムスによって火をつけられた野心は抑えるべくもなかった。
                    シクストゥス5世モンタルトは、秘かにノストラダムスなる人物のことを調べだした。彼がその後、フランスへ帰り、カトリーヌ・ド・メディチの信望を得たこと。彼の予言が次々と成就したこと。そんな噂を耳にするにつけ、野心はますます大きく膨らんでいく。と同時に、ノストラダムスの考え方を知るにつけ、その底に流れるユダヤ教的な神秘主義に異端のにおいを感じずにはいられない。そして、その予言を信じる自分の思いを見たとき、カソリック教徒として、自分がおぞましくもあり、後ろめたくもあった。
                    予言が成就し、新教皇シクストゥス五世となった今、どんなに「自分の力だ」「ノストラダムスとは関係ない」と思おうとしても、絶えず彼の影がつきまとった。彼を意識せずにおれなかった。その影を振り払うように、モンタルトは身を粉にして働いた。彼はシクストゥス五世として、カソリックの擁護者であり、カソリックの代表選手でなければならなかった。

                    さて日本から来た少年たちも、新教皇誕生の現場に立ちあうこととなり、四月二十六日には、グレゴリウス十三世に引き続き、新教皇シクストゥス五世とも謁見することとなる。伊東マンショをはじめとする少年使節たちは、新旧二人の教皇に謁見できたことを喜び、自分たちが選ばれた使命の持ち主であるという自負を大きくした。
                    リスボンでは使節に同行した日本人ロヨラ老人が印刷術を学びながら、日本に持ち帰る印刷機の手配に追われている。この印刷機で、キリストの教えを日本の言葉で日本に広めたい。少年たちは、その夢を教皇に語ったのだろう。
                    シクストゥスの中にひらめくものがあった。
                    「そうだ、聖書を完備しなければ。教会の唯一拠り所とする完全なウルガタ聖書を整え、世界へ布教していく礎としなければならない。」
                    教皇は、少年たちに日本布教の援助を約した。と同時に、四世紀のヒエロニムス以来の、「聖書改訂」という大事業に手をつけることを決意した。
                    こうして二人の教皇との謁見を果たした使節一行は、一五八五年六月、ローマを出発し、一五九〇年七月二十八日、八年ぶりに日本へと帰り着いたのである。 

                    「トマス荒木を歩く」 vol.02

                    2009.11.29 Sunday

                    0

                      香港夜景

                      1997年5月29日(木)
                      トマス荒木の足取りを追ってみたくて、この旅を計画した。何年にもわたってあたためてきた思いだ。ローマへ行き、バチカンを歩き、カステル・サンタンジェロ、イエズス会本部、コレジオ・ロマーノ、そしてアンドレア修道院…… と、この目で見、この足で歩き、この身体で感じたい。心に響いてくるものを確認したい。
                      トマスが感じたものを、少しでもこの心で感じられたらと思う。

                      成田からローマまでの航空券今、香港に向かう飛行機の中にいる。返還前の香港でローマ行きの便に乗り継ぎ、帰路はまた香港経由でマカオへ足をのばす予定だ。近世、日本から西回りでヨーロッパを目指す場合、行きも帰りも、必ずマカオがその拠点となった。トマス荒木も、このマカオにとどまりリスボンに向かう船便を待ったし、帰路は帰路で、このマカオで不安に震えながら日本潜入の機会をうかがった。すでに日本ではキリシタンの迫害が開始されていたのだから……。
                      思えば、トマスとの付き合いもずいぶん長いものになった。末娘の愛子との付き合いよりも長い。自分で意識せず関わっていた頃から数えれば、もう二十年以上の付き合いになるだろうか。ほぼ長女の奈津子の歳と同じ年数を彼と関わり合ってきたことになる。
                      学生結婚した頃の私は、江戸時代初頭の海外交流史に夢中だった。新婚旅行の行き先からして、妻を口説き長崎・平戸へ行くという有様であり、奈津子が生まれた頃は、卒論の取材と言っては足繁く長崎へと通っていた。その頃は、朱印船貿易家末次平蔵の足取りを追いながら、知らず知らずトマス荒木の足取りを追いかけていたように思う。
                      たとえば滋賀の安土セミナリオ跡、京都の南蛮寺跡、大坂天満の細川越中守屋敷跡、大村鈴田のキリシタン牢跡、長崎西勝寺、平戸松浦屋敷……今にして思えば、どれもトマス荒木とゆかりの深い場所ばかりだ。それと知らず、「日本転びバテレン了伯(トマス荒木の背教後の名)」の署名の入った転び証文さえ写真に撮っていた。
                      卒業論文を書いているとき、そして郷土史研究賞に応募するための原稿を書いているとき、いつもトマスが耳元で語りかけていた。叫び続けていた。ひもとく資史料の隙間から必死になって訴えていた。でも、その都度、無視した。
                      「いやな奴だ、こんな人間にだけはなりたくない……」
                      それが、ここ七、八年、特にこの学びを始めてから、彼の名をしばしば耳にするようになった。営業で入った書店で見つけた本の中に、また編集用の資料として借り出した図書館の本の中に……。これがNHKの大河ドラマで取り上げられたりとか、今、話題になっている人物ならわかる。ところが「トマス荒木」となると、あまりにもマイナーな人物だ。日本中の本屋をかけずり回って探しても、彼のことを書いた本など、そうそう見つかるものではない。それがまるで資料が追いかけてくるように、目の前に突きつけられてくる。
                      こうなってくると、もう腹を決めるしかなさそうだ。同じ逃げられないならと、本気になって彼のことを調べていくと、なんのことはない、先ほども言ったように、今まで自分が取材だと歩き回ってきたところは、全部が全部と言っていいほど、トマス荒木のゆかりの土地であった。

                      火災で焼け落ちたザビエル記念聖堂以来、今度は私がトマス荒木を追いかけだした。山口へ行った。秋月へ行った。島原へ行った。そして天草へ行った。
                      そこで「平家物語」や「ドチリナ・キリシタン」等、キリシタン版と言われた数々の印刷物と出会った。初期の活版印刷術やグーテンベルク印刷機と出会った。そうしたら、あの時代、トマス荒木の描いた夢がおぼろげながら浮かび上がってきた。キリスト教に託した様々な思いが伝わってきた。加津佐のコレジオで、天草のコレジオで、熱っぽく語り合った当時の若者たちの夢が自分の中でよみがえってきた。
                      その夢に火をつけた人たちの思い、その発火点となったローマ教皇シクストゥス五世の思い……完全なラテン語聖書の完備と、それが日本でも流布されていくことへの夢。教皇が天正遣欧使節の少年たちに抱いた夢が、日本でキリシタン版の印刷に関わった人たちへと伝わっていく。その夢の担い手としてローマへ渡ったトマス荒木……。
                      私は今、その夢が挫折したローマへ行こうとしている。

                      現地時間21時26分、香港到着。窓ごしに香港の夜景を見る。