小説「トマスのものがたり」−孤児たちのルネサンスー

2009.12.08 Tuesday

0
    トマス荒木について、勝手気ままな紀行文(海外編)が一応終了した。国内編も書こうと思ったが、肝心の小説の原稿整理が進んでいない。一応、おおまかな形は出来ているのだが、紀行文を書きながら、小説のほうは「ここも変えたい」「ここもこうしたい」「ここは違うだろう」……そんな思いだけは浮かんでくるのだが、原稿に手を入れることは疎かになっている。
    それなら、と思いついたのが、このブログ。原稿整理を兼ねて、順次、ブログに「小説」自体も載せていったらいいのでは……。ブログ「トマスのものがたり」が完成したとき、「本」も完成するという次第。どうせ「売る」ことは、頭から考えていないのだから、隠すこともない。また、ここまで闇を出したのだから、恥も外聞もあるものかと、なかばやけくそ状態で、引き続き、このブログに小説も発表していくことにした。思いついたが吉日で、早速、今夜からでも、ツノだせ、ヤミだせ、ホコリだせ……と、人の迷惑顧みず、あることないこと書き散らかして、嘘八百つき放題、その中から一分の真実にでも巡り会えたら勿怪の幸い。

    そんなわけですから、心ある方は、読まないほうがよろしいかと心得ます。

    「トマス荒木を歩く」 vol.20  旅の終わりに

    2009.12.07 Monday

    0
      長崎のキリシタンからバチカンへの書状
           (1621年 長崎のキリシタンからバチカンへ迫害の窮状を訴える書状)

      穴吊りの図これでトマス荒木の足どりを追って、ローマ、フィレンツェ、マカオと歩いた旅の記録は終わりです。日本へ帰ったトマスは、四年間の潜伏活動の後、捕らえられ、拷問の末、棄教しました。そればかりか長崎の支配権をめぐる争いの中で、長崎代官である村山等安一家を陥れる駒として使われます。キリシタン追放令が出された際、村山一家は何人かの宣教師を洋上で奪取し、密かに日本に再潜入させ、折から大坂の陣において、大坂城に彼ら宣教師を送り込んだばかりか、大坂方の武器弾薬まで調達した疑いです。その証人として使われたのがトマスでした。

      トマスは、キリスト教を棄てることに何の負い目も感じはしませんでした。しかし、彼が妹のようにかわいがったマリアの夫や家族を死に追いやったこと、そのマリアさえも、一六二二年、長崎の大殉教の時、トマスの見守る中、殺されていき、結果として親しかった日本人キリシタンを死に追いやる片棒を担いだことが、彼の苦しむ原因となります。
      元和の大殉教当時の状況は、ただ彼一人がキリスト教を棄てて済む、そんな状況ではありませんでした。背教は裏切りを意味し、仲間の死を意味しました。彼に残された道は、キリシタン詮議役人の道しかなかったのです。
      やがてトマスの勧めでローマへ旅だったカスイ岐部神父が日本へと帰ってきます。彼は東北の水沢地区で潜伏活動中に捕らえられ、江戸のキリシタン屋敷で、役人となったトマスと再会することになります。彼の凄惨な殉教を目の当たりにしたトマスは、再び「自分はキリシタンだ」と言い出しますが、このときも穴吊りの拷問に堪えきれませんでした。
      監視された生活の中で、自分の人生について考え、神について考え、考えては苦渋の中ですべてを否定する生活が続きます。……が、最後の最後、病に倒れた中で、母の声を聞きます。本当の自分の声を聞きます。
      キリスト教でもなく、仏教でもなく、自分を生かす力、自分を自分たらしめるものの存在を、外にではなく自分の中に感じていきます。
      そのとき、トマスの口から、本当の神を求める言葉が口をついて出ます。役人たちは、このことを長崎奉行に伝えます。
      訳の分からぬ言葉を洩らすトマスを
      「老いて耄碌したのであろう。そのままに捨て置け。」
      こうして、トマスは狂人扱いされたまま、息を引き取りました。彼の最期を看取ったのは、ローマ以来、彼と行動を共にしてきた印刷業者後藤宗因の息子後藤ミゲル一人でした。一六四六年(正保三年)、トマス荒木、六十九歳を迎えた年のことです。 

      「トマス荒木を歩く」 vol.19  マカオ サンパウロ天主堂

      2009.12.07 Monday

      0

        サンパウロ砲台跡
                          (サン・パウロ要塞 砲台跡)

        サンパウロ天主堂とサンパウロ要塞その後、サン・パウロ天主堂へと向かった。
        外へ出れば、またも引いていた汗が吹き出してくる。回りを見れば、みんな涼しげに歩いている。私一人が汗みどろという状態だ。
        ……やっと見えてきた。長い階段の向こうに、焼け残ったサンパウロ教会の前壁がそびえている。追放された日本人の多くが、この教会に施された壁面の彫刻に携わったという。残された前壁の高みに残された彫刻、それを刻んだ日本人の手があった。天主堂は、一八三五年、隣にあったセミナリオから出火し、折からの台風のため飛び火し、前壁と階段を残して焼失してしまった。
        今は焼けてしまった、このセミナリオと教会に、日本から追放されたキリシタンたちが収容された。追放はマカオとマニラの二組に分けられ、総勢百四十八名に達したが、マカオ組は二十三人の神父と、その大半が日本人からなる二十九人の修道士、信者の世話を助けた五十三人の同宿、計百五名の多きに上った。収容しきれない人たちは、市内のポルトガル人商人の家に分宿したが、二台の印刷機については、セミナリオに運び込まれたことは間違いがない。追放キリシタンたちがマカオに到着したとき、トマスはすでにマカオにあって、これを迎えることとなった。
        この時、多くの再会と出会いがあった。グーテンベルグ印刷機との再会、天正遣欧使節の一人、原マルチノ神父との再会、将来、ローマへ向かうことになるカスイ岐部との出会い。
        トマスは岐部に、ローマへ行って教区司祭になる可能性を示唆した。ポルトガル人宣教師に不審の念を抱く岐部は、やがてマカオを脱出し、船員となったり、聖地を目指す巡礼の仲間になったりしながら、日本人として初めて聖地巡礼を果たした上、徒歩でローマへと入る。
        原マルチノは、日本の事情をトマスに伝える。天草のコレジオで指導を受け、印刷のことでは仲間でもあった原マルチノの口から、追放令のこと、そのとき長崎で起こった幕府への抗議デモの如き聖行列の模様、そこで活躍した一日本人婦人のこと。その婦人というのが、実は、天草のコレジオに末次興善に伴われ出入りしていた木村マリアであること。また追放される宣教師の何人かを洋上で救出し、再び日本に潜入させた時も、等安や徳安に混じってマリアが活躍していた……等々を、おもしろそうに語るマルチノだった。
        サンパウロ天主堂正面そういえば、当時、マリアはまだ十才だった。失敗した印刷物の断片を使ってはラテン語を教えた娘、そのマリアが、今では長崎代官村山等安の子、アンドレア徳安の妻として、キリシタンから頼られる女性に成長している。
        「絶対パードレになって帰ってきてね」
        「帰ってきたらマリアがお手伝いするからね……」
        マリアの幼い言葉がよみがえってきたとき、トマスの心にローマでの苦い思い出が込み上げてきた。
        「キリスト教に命を懸ける価値があるのか?」
        「みんな、ヨーロッパで起こっていることを知らない。キリシタン同士が殺し合っている事実。日本ではキリシタンが火炙りにされるが、ローマでは法皇の名の下に火炙りが行われる。」
        「日本へ帰って、俺はどうしたらいいのだ?」
        トマスの心の中で、マリアの幼い顔がいつまでも笑いかけていた。

        サン・パウロ教会の裏手にあるモンテの砦へと登った。間もなく陽が沈もうとしている。砦の入り口に記念品を売る事務所然とした建物があり、そこに、まるで番人のようなお婆さんがいた。閉まってはいけないと思い、「まだ大丈夫ですか」と声をかけた。「ああ、早く行ってきな」。言葉は聞き取れなかったが、そういうふうに自分の中では響いた。
        城壁に整然と並ぶ砲列。その向こうにマカオの海が広がっている。その海に、今、陽が沈もうとしている。この夕景の中で、トマスと岐部が語り合ったかもしれない。また、トマスと原マルチノが語り合ったのかも知れない。自分の中を陽が沈んでいくような感覚。トマスは、どんな気持ちで、この夕暮れを見ただろうか。
        ちょっと感傷的になりすぎたかも知れない。いつの間に来たのか、先ほどの老婆が横に立っていた。中国語で挨拶をすると、老婆は「中国語かい……」と、さびしそうに笑った。香港に次いで、マカオも何年か先には中国に返還されるが、決してそれを喜んでいる風ではなかった。
        老婆は、ポツリポツリと話しかけてくれる。内容も覚えていないような、たわいのない話ではあったが、そのときの様子が、心に焼き付いて離れない。そんな時間を、この老婆が運んできてくれた。
        明日の今頃は、東京へ向かう飛行機の中だろう。お婆ちゃんに、心の底から言った。
        「再見(ツァイチェン)……」 

        「トマス荒木を歩く」 vol.18  マードレ・デ・デウス号事件

        2009.12.07 Monday

        0

          マードレ・デ・デウス号搭載大砲
          (マードレ・デ・デウス号搭載大砲 砲尾にERエマニュエル・レックスと刻 天理図書館蔵)

          もう二十年も昔のことになる。ある事件の取材に奈良の天理図書館に通い詰め、長崎の街を歩き回ったことがある。その事件というのは、マードレ・デ・デウス号事件……徳川幕府がキリスト教を弾圧する引き金となった事件だ。
          事件の発端は、マカオで一六〇八年に発生した。有馬晴信派遣の朱印船が占城(チャンパ)からの帰途、風を失いこのマカオに寄港した。このときすでに同地には、東京(トンキン)からの帰途遭難し、中国船を略奪しこれに乗ってマカオに避難していた別の日本人の一団があった。
          二組の日本人グループは、ポルトガル側の制止をよそに、武器を携え市中を横行し、ついには日本・ポルトガル商人間に商貨の買い上げをめぐって紛争を生じ、仲介に当たった陪席判事まで負傷させるという事件が起こった。いわゆる日本人騒擾事件の発端であるが、この暴動を徹底的に鎮圧したのが、マカオ臨時総督(カピタンモール)アンドレ・ペッソアだったのである。彼は日本人暴徒の一団を一件の建物に追い詰め、火焔筒で火をかけ、逃げ出してくる日本人たちを次々と撃ち殺した。さらに彼は、首謀者と思われる日本人を捕えるや、後日の日本政府への弁解のため、この事件の原因がすべて日本人にあるという証言を強要し、そのあげく、男をその場で絞首刑に処してしまったのである。
          戸町の入り江翌一六〇九年六月、そのペッソアがマードレ・デ・デウス号で長崎へ入港した。有馬晴信はこれに対し、報復措置としてデウス号を長崎港に釘付けにし、その積み荷の差し押さえをはかる。ペッソアは身の危険を感じ、逆風を押してデウス号を長崎から脱出させようとする。日本側は、逃げるデウス号を小舟で包囲し、火船や櫓船まで用意し、デウス号拿捕をはかる。こうして三日間にわたる海戦の末、マードレ・デ・デウス号が戸町の入り江から動き出すや、香焼島を過ぎた辺りで有馬勢と海戦になり、遂に力つき自爆した。
          大音響とともに真っ赤な火柱が上がり、デウス号は艫が真っ二つに切断され、三十三尋の海底へと沈んでいった。長崎在住のポルトガル商人アビラ・ヒロンは、このとき「この都市全体がしばらくゆれたほどであった」と、その凄まじさを『日本王国記』に記している。

          デウス号撃沈までの航跡
                   (マードレ・デ・デウス号爆沈までの航跡  地図は桐生作成)

          問題はこの後に起こった。
          事件の論功行賞をめぐって賄賂事件が発覚したのだ。
          ことの詳細はこうだ
          有馬晴信が、このデウス号爆沈の戦功にと、かつて幕府に召し上げられた肥前三郡の返還を幕府に願い出たのである。これに応じたのが、幕府の重臣筆頭・本多正純の家臣岡本大八である。彼は、多額な運動費と引き換えに「旧領安堵」と認(したた)めた家康の朱印状を与えた。
          ところが、この朱印状──まっかな偽ものだった。
          朱印状は貰ったものの、いつになってもことが成就しないのに不審を抱いた晴信は、本多正純に事情を訴え出る。ここに岡本の欺計が発覚し、逆に晴信を恨んだ大八は、デウス号事件の際、晴信が意見の衝突から長崎奉行暗殺を企てたとの重大証言をすることになる。
          審議の結果、家康は、有馬晴信に切腹、岡本大八に火炙りの刑を命じたうえ、二人が共にキリスト教徒であることを問題にし、遂にキリスト教禁止を決意した。
          そして一六一二年三月二十一日、大八が三条河原に火炙りに処せられたその日、京・長崎・有馬に禁教令が発せられた。
          こうして日本のキリスト教徒にとっての平和な時代は終わったのである。勿論、幕府が禁教令に踏み切った背景には、オランダやイギリスが対日貿易を開始し、ポルトガル貿易だけに頼らなくてもよくなったという経済的な側面を無視することはできない。
          ……が、ここではそこまで立ち入っている暇はない。 

          17世紀のマカオ模型私は今、マカオ海事博物館にいる。ここには、十七世紀初頭のマカオの姿が模型として再現されている。そして、マードレ・デ・デウス号に積まれていた大砲の弾丸もあるはずだ。
          二十年前、天理図書館ではじめてマードレ・デ・デウス号搭載の大砲に出会った。図書館入り口に据えられた鋳鉄砲は、心ない客が、その砲身をごみ箱代わりにしていた。砲身の長さ約二三二センチ、口径約一二センチ、砲尾の最も太いところで外周約一三〇センチ、先端部の外周約八三センチ、砲身の中ほどよりやや後方に砲台に固定するための砲耳が突き出ており、砲尾火穴のすぐ上にERの刻字が認められる。おそらく、ポルトガル国王 EMANUEL REX の略であろう──これは寒い中、メジャーで大砲の諸測値を取ったものだが、今でも、その時の鋳鉄の冷たい感触が掌にはっきりと残っている。
          昭和初期、このデウス号の引き揚げ作業が、イギリス陸軍のC・R・ボクサー教授の陣頭指揮で行われた。ボクサー氏は近世海外交渉史の研究家でもあり、当時、日本陸軍に顧問として派遣されていた。
          この時の捜索では船体は発見されず、一部の貨物と積載大砲やその弾丸が引き揚げられたに過ぎないが、その大砲が、当時できたばかりの天理図書館に引き取られることになった。そして、その弾丸はマカオにある海事博物館へ……。
          いずれもボクサー教授の采配のもとに行われたことらしい。

          しかし、その弾丸が展示されていない。かつて調べた本には写真まで載っていたというのに……。入り口の受け付けのところへ戻って、そのことを聞いてみる。事務の人は若い学芸員らしき女性を呼んできた。そこにガードマンまで加わり、みんなが何事かと耳を傾ける。例によってあやしげな中国語や英語を交えて、デウス号に積まれていた弾丸について説明する。話が複雑になってくると、ノートを広げ筆談におよんだ。
          いつの間にか、自分の回りにちょっとした人だかりができている。大げさなことになったものだ。でも、ともかく、こちらの言わんとすることは理解してもらえた。だが、その学芸員の人は、「自分が来てからは、そんなものは見たことがない」と言う。
          みんな、ガヤガヤと話し始め、年輩の人が学芸員の女性に何かささやいた。彼女は私に「少し待つように」言うと、何人かの人を連れて奥へ消えていった。
          どれぐらい待ったろうか。その間、彼女は古い人に聞いたり、手がかりになるものがないか探したりしてくれたが、結局、わかったことは、その弾丸は、もうマカオにはなく、日本へ買い取られたらしいということ。
          (どうも、今は大砲と同じく天理図書館にあるらしい。)
          彼女はひどく残念がってくれ、「当時つくった対日貿易に関するパンフレットが残っているかも……」という他の館員の言葉を聞きつけ、そのパンフレットだけでも持って帰ってもらえたらと、事務所中を探し始めた。
          でも、結局、これも出てこなかった。
          彼女は若々しく「ぜひまた会いたい」と手を差し出した。
          本当に親切にしてもらった。大砲の弾より何より、彼女の好意が心にあたたかく残った。

          マカオ評議会図書室中庭
                           (マカオ 市評議会図書室の中庭)

          マカオでのいい思いではまだある。マカオの市評議会図書館でのことだ。ここには対日関係の資料が集められている。ここに来た目的は、印刷機がどうなったかを知るためだ。
          日本に禁教令が出された翌々年(一六一四年十月)、日本にいる外国人宣教師と主だった日本の信徒がマカオ、マニラへと追放された。その総数百四十八名という。マニラに追放された組の中には、高山右近夫妻や内藤如安兄妹がいたし、マカオへ追放された組の中には天正遣欧使節の原マルチノも含まれていた。人間ばかりか、天正遣欧使節と共にリスボンから日本へ来た二台のグーテンベルグ印刷機も含まれていたはずなのだ。
          ローマからマカオへと帰ってきていたトマス荒木は、この地で、彼らを迎えることになる。ローマでのキリスト教への幻滅、今また日本からのキリシタン追放、夢を託した印刷機さえ日本から追放されてきた。トマスは陸揚げされる印刷機を見つめながら、夢が終わったことを感じずにはいられない。しかし、彼にはマカオへ残ることは許されていない。日本へ潜入することが義務づけられている。追放されてきた信徒たちの期待の目が彼を縛りつけていた。そして、イエズス会の監視の目も……。
          マカオで、トマスは二重の挫折の中にいた。

          グーテンベルグ印刷機
                (日本に持ち込まれたグーテンベルグ印刷機の複製 天草コレジオ館蔵)

          しかし、マカオへ来た印刷機はどうなったのだろう。それがこの市評議会図書館を訪れた大きな理由だ。勿論、ポルトガル語の資料を読めるわけでもないのだが、でも来れずにはおれなかった。
          図書館の中はマホガニー材でできているのか、渋い光沢のある焦げ茶色のトーンで覆われていた。壁全体が本棚になっており、やはり茶色の皮で装幀された本の背中で埋め尽くされている。なつかしい、ホッとするような雰囲気だ。思わず壁を埋める本の一冊に手が伸びる。
          いきなり、若い女性の厳しい声が響く。「さわっちゃダメ!」と言っているのだ。ちょうどいい、この女性に聞こう。そう思ってマカオへ来た印刷機の話を聞いた。筆談を交えて話していると、奥から年の頃は五十才半ばだろうか、一人のポルトガル人女性が現れた。この図書館の館長だと言う。彼女は中国語のできる女性を呼び、事情を聞くや、係りの人に命じ事務所にあるパソコンを使っての文献探しが始まった。
          提供された資料その間、この本を読みなさいと一冊の本を持ってきた。論文のようだが、ポルトガル語で書かれている。ポルトガル語など分かるはずがない。そう言って断ると、読めなくてもいいから、この本とにらめっこしていればいいという。
          「あなたにこの場所を提供する。いつまで居てもいいから、この本をまずよく見ること、いろんなことが分かるはずだから。その間に、こちらで手がかりになるようなことを探してあげるから……」と言うのだ。
          えらいことになった。あまり時間もないと言うのに……。そう思いながらも彼女の好意がうれしくて、与えられた机に座り、差し出された文献を開く。彼女の言うとおり、分からないからとあきらめず、じっくり見ていると、次第にいろんなことが見えてくる。まず、この論文は、日本の幸田成友博士が一九三九年にポルトガル語で発表したものらしい。ポルトガル語はわからないものの、耳慣れた単語や書名がやたら出てくる。それを手がかりに約二時間、幸田論文とのにらめっこが続く。結果、アーネスト・サトウ氏の著した The Jesuit Mission Press in Japan を見れば、その後、印刷機がどんな経緯をたどったか分かるのでは……ということになった。
          となれば、日本に帰ったほうが文献がそろっている。原点史料となれば別だが、研究書や論文の類なら不慣れな外国で探すより、日本で探すほうが有利だ。そんなことを思っている間に、パソコンで検索してくれた結果も出たようだ。館長は、二冊の書名をメモに書き付け、渡してくれた。これらの文献に当たってみれば、印刷機がその後、どうなったか分かるのでは……という。どれもポルトガル語で書かれたものだ。しかも、この図書館にはないと言う。中国語の話せる女性が、もう一枚メモを書いてくれた。「荷蘭圃正街 塔石球場對面 中央図書館」──荷蘭圃正街は地図にあがっている。そこに野球場なのか何なのか塔石球場なるものがあって、それに向かい合って中央図書館があるというのだ。そこへ行けばHelena Cordeiro というドクターがいる。こちらから電話を入れておくから今からすぐタクシーで行けと言うのだ。
          ありがたくはあったが、時間もない。こちらにポルトガルの文献を読みこなすだけの力も準備もない。まして文献探しの旅と言うより、現地を歩くことで、いろいろ心に感じることを見つめてみたいという旅だ。まだ肝心な所にも行っていない。サン・パウロ教会とモンテの砦だ。
          その旨を話し、今回はここまでにしたいと話した。彼女は微笑みながら、一冊の本を取りだし手渡してくれた。見れば「耶蘇会士在亜洲図書目録展覧」とある。マカオに残るイエズス会関係の文献と史料の目録だ。プレゼントだから持っていけという。そのとき、ちょっとしたハプニングが起こった。司書補の女性が「それはもう在庫がないから、あげるのは困る」と言い出したのだ。館長は「私が上げると言っているのだから……」と、彼女の言うことを無視して私に押しつけた。すっかり恐縮した私がいくら断っても、また代価を払うと言っても、聞こうとしない。
          司書補の女性も、館長がそこまで言うのだからと、彼女の好意を受けるようにと勧めてくれる。ありがたく礼を述べて、評議会の建物を後にした。
          本当に変わった体験だった。マカオくんだりで、日本人の書いたポルトガル語の文献とにらめっこするようになるなどとは思っても見なかったし、それを勧めてくれた女性の館長にも、何か懐かしいものを感じる。
          結局、印刷機のその後は分からなかったものの、あの近世リスボンそのままの雰囲気の中で、たとえ二時間とはいえ、一つの机を与えられ、館長や職員の方と一緒に過ごせたことが本当にうれしかった。そのために、ここへ来たようにさえ思った。

          「トマス荒木を歩く」 vol.17  マカオへ

          2009.12.06 Sunday

          0

            マカオ サンマロ通り

            6月5日(木)朝7時10分、香港に到着する。
            空港にはベレー帽に自動小銃を抱えた兵士の姿が目立つ。いつもこうなのだろうか、それとも中国返還を目前に控えているから、警戒が厳重なのだろうか?
            大急ぎで入国審査を終えると、フェリー埠頭に行くべくバスに乗り込んだ。その途端、ザーッと雨が降りだしたが5分ぐらいで青空に戻った。と、思ったら、またも空が真っ暗に曇り、しのつくような大雨……。後で知ったことだが、この後、香港は雨の被害で大変だったようだ。マカオで見たテレビのニュース番組で、雨で川のようになった香港の街が映し出されていた。
            しばらく走るとバスは通勤客でいっぱい、バスの外も二階建てバスや乗用車でごったがえしている。香港返還まで後一カ月……でも街は何ら変わった様子もなく、忙しそうに動いている。活気があるというのか、忙しそうと言うのか、香港は本当にザワザワとした喧噪の中にあった。
            小一時間も走ったろうか、いつしか車中も静けさを取り戻し、フェリー埠頭へと到着した頃は乗客もまばらになっていた。
            フェリーの出発時間は9時15分だと言う。5分しかない。エスカレータを駆け上がり、桟橋へ出、走りに走って何とか時間までに滑り込んだ。2等船室に案内されると同時に、出発を知らせるサイレンが鳴った。これから、いよいよマカオへと向かう。
            おさまっていた雨が、またも降り出し、窓の外はみるみる真っ暗な海へと変わっていく。停船していた時は、あんなに揺れていたジェットフェリーだが、走り出すや、嘘のように揺れはなくなっていた。

            マカオに着きフェリーターミナルを一歩出るや、タクシーやペティキャブ(輪タク)の運転手たちが次から次と声をかけてくる。「足があるから歩くよ」「ウォーキング、ウォーキング」と叫びながら自分の脚を叩いて見せる。ペティキャブの若い運転手が笑って手を振ってくれた。
            ところが、いざ歩き始めたものの、その選択が間違いであったことを間もなく思い知らされた。
            ともかく暑い。カラッとした地中海性気候に馴染んだ身体に、マカオの気候は、何とも厳しいものがあった。少し歩いただけで、汗が溢れるように吹き出してくる。その上、道に迷ってしまった。
            若い女学生をつかまえて道を訊ねる。中国語が通じる。これが香港なら、こうはいかない。香港の人にはこちらの話を聞こうとする余裕がないのだろうか。広東語も、英語も話せない人間を完全に無視している。そうとしか思えない。中国語(普通話)を話しても、まるで聞こうとしてくれない。それが、ここマカオでは違う。こちらの言うことをじっくり聞こうとしてくれる。少なくとも、その思いが感じられる。だから広東語でなく、下手な片言の中国語でも通じる。それがうれしい。彼女もじっくり辛抱強く私の言うことを聞いてくれ、汗びっしょりの私の顔を見つめながら、歩くのは無理だからと、バス停まで私を引っ張ってきてくれた。
            しかし、バスは来ない。
            しかたなくタクシーを止め、彼女に礼を言って別れる。
            私はタクシーに乗り込むや、「ハイシー・ポウウークワン(海事博物館)」と行き先を告げた。だが、通じない。ショックだ。慌てて手帳に行き先を書き付け、差し出した。
            …………通じた。
            それから先は、何とか、片言でも話が通じるようになった。
            やがて最初の目的地である「マカオ海事博物館」へと到着した。
            タクシーを降りる時、運転手が笑いながら「留心(気をつけて)」と中国語で声をかけてくれた。 

            「トマス荒木を歩く」 vol.16  ローマの美貌の幽霊

            2009.12.06 Sunday

            0
              サンタンジェロ城壁の内側
                               (サンタンジェロ城壁 内側から)

              ベアトリーチェ・チェンチローマはサンタンジェロ橋に、薄幸の美少女の幽霊が出るという。小生は、なんとか無事イタリアを離れマカオへ向かう事となったが、ローマを離れる前に どうしてもこの人物のことを紹介しておきたい。人物と言うより幽霊と言うべきかも知れないが……。それはローマっ子なら誰でも知っているベアトリーチェ・チェンチという美少女。彼女もまた、トマスと同時代をローマに生き、父親殺しの罪で、ブルーノと同じサンタンジェロ牢獄に入れられ、ブルーノよりやや早く兄弟や継母とともに処刑された。
              トマスの物語では、重要な役割をはたす人物なのだが、これについては小説のほうで読んでいただくとして、ここではスタンダールの書いた「チェンチ一族」をもとに、事件の概略だけを紹介しておくことにしよう。
              右の写真は、グイド作「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」と言われる作品だが、最近はこれに対する疑問の声が起こってきている。グイドがローマへ来たのが、1600年に入ってからのことで、ベアトリーチェが処刑されたのが1599年秋のことだから、グイドはベアトリーチェのことを知らない。しかも、この肖像画は「女占い師」と呼ばれていて、シビラの神殿に仕える巫女を題材としたものだというのだ。勿論、これに反対する声もあるが、真偽のほどはともかく、この事件の悲劇性とベアトリーチェの美しさ故に、芸術家たちの想像力をかき立て、その都度、この絵がイマジネーションの源となってきた。

              パラッツィオ・チェンチのバルコニーベアトリーチェという少女の美しさは、当時の資料にくどいまでに繰り返されてきた。たとえば、彼女を助けようと、ローマ駐在の外交使節たちが、ローマ教皇宛て助命嘆願をおこなったり、サンタンジェロ牢獄の副所長が彼女の美しさに惹かれ、結局実行できなかったとはいうものの、彼女を脱出させる計画を練ったことを書き残しているし、彼女の死刑が行われたとき、ローマ市民の暴動さえ起こっている。各国外交使節に助命嘆願を出させ、ローマ市民に暴動をおこさせ、後世には文豪スタンダールをして「チェンチ一族」を書かしめたベアトリーチェ。彼女は一体どんな罪を犯したというのだろう。

              父親殺し……家族共謀しての父親殺しがその罪状である。
              ベアトリーチェの父クリストフォーロ・チェンチは女癖が悪く、後妻に迎えようとした女性も亭主のある身を強引に誘惑したと言われている。そのうえ家族への暴力も絶えない。娘のベアトリーチェさえ手込めにしようとした、そんな典型的な悪人。そんな父親を、継母や兄と共謀して殺害した、これがベアトリーチェの罪状である。しかし不思議なことがある。バチカン自ら調査に当たり、貴族には拷問が科せられない事になっているにもかかわらず、過酷な拷問が無実を主張するベアトリーチェや兄弟に科せられた。各国使節からバチカン宛ての嘆願書も、世論も無視し、強引に処刑へ持っていった、そんな感じがするのだ。口さがないローマっ子たちは、バチカンがチェンチ家の財産目当てに仕組んだことだと噂しあった。
              大いにあり得ることだが、まだ、もう一つの可能性がある。ベアトリーチェの父親がが、バチカンの秘密を握っており、その口封じに彼を暗殺し、その家族も父親殺しの罪を着せて葬り去った、そう考えることも、あながち突飛な推測ではないと思う。クリストフォーロは、シクストゥス5世の時、バチカンの事務に深く関わりを持っていたのだから……。もし彼がシクストゥス聖書の成立と、その抹消に関わる秘密を握っていたとしたら……。
              ローマ教皇は、カソリック教会のトップであり、どんな間違いがあってもならない。また聖書もおなじであり、これにどのような誤謬があってもならない。教皇と聖書に関するゴシップは、カソリック世界全体を揺るがす問題になりかねない。

              サンタンジェロ城とサンタンジェロ橋ともあれ、ベアトリーチェ等は、投獄から9ヶ月後、1599年9月11日の朝、サンタンジェロ城前の広場で処刑された。継母ルクレツィアは未亡人としての黒服、ベアトリーチェは対照的に白い衣装だったという。この時の様子をメディチ家の使者は、次のように記している。

              「少女の遺体は、市民たちの手によって、モントリオの聖ピエトロ教会に運ばれたが、市民たちはすっかり同情し、まわりを蝋燭の光で囲まれた死体にすがって、夜中までやってきては泣いていた。それは、彼女の証言に耳を貸さず、弁護しようともせず、死へと追いやった法王クレメンテに抗議し、神の復習を願いながらのものだった。彼女の死は、あまりにも神聖なる死だった」(島村菜津 訳)

              ところで中ほどに掲載した「パラツォ・チェンチのバルコニー」の写真は、同朋舎出版発行、地球・街角ガイド「ローマ」から掲載させていただいたものだが、その本文には、「この館は、魔術を使って非道な実父を殺したかどで、兄弟と継母とともに告発されたベアトリーチェ・チェンチの一家のものだった。彼女は死刑を言い渡され、1599年にサンタンジェロ橋で打ち首になった。現在の建物は1570年代に建て替えられたものだが、どことなく中世的な不気味さを漂わせている。プログレッソ通りに面する正面は半月の紋章で飾られ、反対側正面には美しいバルコニーがある。館のなかにはイオニア式涼み廊下を備えた伝統的な中庭があり、部屋の多くは、悲運のベアトリーチェが子どものころに親しんでいたであろう16世紀の装飾をいまでもそのままに残している」と、紹介されているが、残念ながら、この建物は現在非公開で、遂に覗くことが出来なかった。心残りではあるが、次の機会があればということで、マカオへ移動することにする。

              「トマス荒木を歩く」 vol.15 エレオノーラとビアンカ大公女

              2009.12.05 Saturday

              0

                フィレンツェ アルノ川
                                    (フィレンツェ アルノ川)

                コジモ1世その日、エレオノーラは許されて一人の客と面談した。姦通の罪で修道院に幽閉のように閉じこめられ、既に二十年が過ぎようとしている。
                その客とは、遙か日本から来たトマス荒木。二人は中庭をめぐる回廊を歩きながら話した。
                ロレンツォの時代から百年が過ぎ、共和制都市国家フィレンツェは解体し、トスカナ大公国として再生していた。一度はフィレンツェの街から追放されたメディチ家だが、今ではトスカナ大公国の君主として返り咲いている。しかし、メディチ家に往時の勢いはなく、むしろ熟れたザクロのごとく退廃の極みに達し、トスカナ大公国を興したコスモ一世(初代コスモとは別人)からして、自ら実の娘と実の息子を殺す羽目に陥り、自らの血が招いた忌まわしい出来事の連続に、英昧な領主の気性も失われ、次から次へと女性を漁る、さびしくも哀れな男になり果てていた。
                そんな父の摂政を勤め、やがて父の後を襲うフランチェスコ一世も、弟であるフェルディナンド一世に夫婦ともに毒殺される始末であり、まさにこの時代のメディチ家は地獄のまっただ中を漂っていた。
                ここにいるエレオノーラも、そんな男たちの犠牲者の一人だったのかも知れない。父親ほども年の違うコスモ一世に見初められ、その愛人となり、さらにはコスモの息子ピエロに犯され、その事実を隠すために、コスモの部下と結婚させられた。あげくは、その夫から姦通者としてこの修道院に幽閉された。
                ビアンカ大公女そんなエレオノーラを訪ねてくれる唯一の人物が、フィレンツェ大公女ビアンカ・カッペロであった。
                ビアンカは、ベネツィアの名家カッペロ家の令嬢だ。それが一介の銀行書記ピエトロと駆け落ちをした。ピエトロはベネツィアでも名うてのプレイボーイ。ビアンカは、その美貌とカッペロ家という家柄ゆえに、ベネツィア中の男性から熱い目で見られていた女性だった。
                女性の処女性が、政治や経済上の駆け引きにも高い商品性を持つ時代であり、ビアンカもいずれはヨーロッパの名家と縁組みする運命だったろう。その大事な駒を横手からかっさらわれたのだから、カッペロ家としては腹の虫がおさまらない。たちまちピエトロの首に懸賞金がかけられ、たくさんの刺客が二人の足どりを追った。
                捕らえられれば、ピエトロは即刻死刑、ビアンカは修道院に幽閉される。
                そんなピエトロが、ビアンカを連れ、逃げ込んだのが、フィレンツェの両親のもとだ。フィレンツェはベネツィアとは対抗関係にあり、常に熾烈な争いを繰り返している。それだけにビアンカの扱いも難しいわけだが、それ以上にフィレンツェの民衆は、この二人にやんやの喝采をおくった。
                二人の話題は、たちまちフィレンツェ中を駆けめぐる。フィレンツェの若い男たちは、命がけで深窓の令嬢を勝ち取ったピエトロに拍手を惜しまない。と同時に、垂涎の眼差しを隠そうともしなかった。当時はまだ摂政の地位にあったフランチェスコ一世も、ビアンカに興味を覚え、彼女を一目見ようと彼女の家をそっと訪れる始末だ。
                フランチェスコ1世将来フィレンツェの大公となるべきフランチェスコ一世がビアンカを見た。そのときから、またまたビアンカの運命が大きく動いた。フランチェスコはビアンカを見初め、彼女を愛人として自らの屋敷に迎え入れた。ピエトロにしても、彼女に飽きてきたところだ。フィレンツェでの貴族の地位と交換に、ビアンカをフランチェスコに譲ることになった。
                フランチェスコは、この時代、メディチの人間としては家庭的な人間だと思う。確かに、父のような英雄的で非凡な人間ではなかった。ただ彼は、ビアンカという一人の女を愛し続け、彼女もこれに応えた。
                ただ彼にはハプスブルグ家から嫁いできた妻ヨアンナがいた。妻ヨアンナにとっては悲劇だったに違いない。美貌、教養、やさしさ、どれをとってもビアンカにはかなわなかった。浮気ならまだ許せるだろうが、フランチェスコは、ビアンカしか目に入らなかった。どれだけ二人を呪ったかしれない。時にはビアンカに刺客を向けることもあった。……が、すべて失敗に終わり、あげくは自分の方が先に死ぬ羽目に陥った。
                こうしてトスカーナ大公女となったビアンカだったが、この時代、ヨアンナや自分をはじめ、たくさんの女の苦しみをその目にしてきた。エレオノーラにしてもそうだ。男の身勝手に振り回され、修道院に監禁同様の身の上……まかり間違えば、自分が修道院に幽閉されていたかも知れない。ビアンカは夫フランチェスコに何度、彼女の赦免を願い出たか知れない。
                それが叶わないと知った時、せめて彼女を慰めようとその修道院へ訪ねる日が多くなった。
                そんなエレオノーラが、唯一、修道院から出た日がある。
                遥か日本から四人の少年たちが、ピサの港に着いたときのことだ。ビアンカのたっての願いで、少年たちの歓迎パーティへの出席が認められたのだ。少年たちがローマ法王への宗教的な使節だったことが、修道女であるエレオノーラの参加をたやすくしたのかも知れない。
                エレオノーラにとっては夢のような毎日だった。ピサへの旅行。華やかな舞踏会の雰囲気。見たこともない東洋へのあこがれ。初めて踊るダンスに、ステップを間違えながらもぎこちなく最後まで踊った日本の少年たち、ビアンカの抱擁に耳まで真っ赤にした日本の少年……。
                そして、この翌々年、フランチェスコ一世とその妻ビアンカは、実の弟であるフェルディナンド枢機卿に毒殺され、もはやエレオノーラを訪ねてくれる人は誰もいなくなった。
                その後、エレオノーラは終生、修道院から出ることはなかったが、何かにつけ思い出すのは、あの歓迎舞踏会のことであった。

                フランチェソコ1世飛び安価の柩
                 (フランチェスコ1世と妻ビアンカがほぼ同時に死亡。弟フェルディナンド1世の毒殺説)

                そんなエレオノーラの前に、またも日本からの来訪者が訪れた。エレオノーラは、トマスを前に、驚きを隠そうとはしなかった。というのも、彼女の知っている日本の少年たちは、まるで人形のようにぎこちなく、神父たちの言いなりに動いているように見えた。しかし、今、目の前に立つ青年は、自分の意志で、とんでもないものを探そうとしている。
                「シクストゥスの聖書……」
                エレオノーラはビアンカ大公女を通じて、その間の事情をすべて知っていた。ノストラダムスによって知らず知らずユダヤ神秘主義の影響を受けたシクストゥス五世のこと、そしてその編纂した「シクストゥス聖書」のこと、この聖書を異端として秘かに回収処分し新たに改訂版を出したベラルミーノ枢機卿のこと、そして、ものの本質や、その存在の秘密を探り出そうとするユマニストたちとバチカンの対立のこと……。
                フランチェスコ1世の書斎フィレンツェは神秘主義研究の拠点であった。それはトスカナ大公国に変わってからも変わることがない。初代大公コスモ一世自体、ユマニストの擁護者であり、化学の研究者でもあり、出版事業のプロデューサでもあったのだから。
                トマスは彼女を通し、フィレンツェで神秘主義と出会い、大きくその影響を受けることとなった。そして、彼女の口から意外な事実を知る。ただ一冊、残された「シクストゥス聖書」の行方を知る人物がいるという。それもローマに……。
                その人物というのが、最後のユマニストと呼ばれたジョルダーノ・ブルーノであった。彼は、異端者として告発され、ヴェニスで捕らえられ、
                今はカステル・サンタンジェロの牢獄にいるという。彼に会えば、「シクストゥスの聖書」の行方もわかるだろうと……。
                トマスは、「シクストゥス聖書」もさることながら、それより何よりブルーノという人物に会ってみたかった。

                私は今、ロレンツィアーナ図書館の奥間で、メディチ家が集めた古文献の中にいる。今ではガラスケースの向こうにしか見ることができない数多くの資料。でも、あの紙の手触り、あの紙のにおい、大型本の頁をめくるときの音と感触が、自分の中でよみがえってくる。

                フ¥フィレンツェの城門
                                      (フィレンツェの城門)

                トマスはローマへ帰った。
                そして、カステル・サンタンジェロの闇の中で、ブルーノと出会い、カンポ・デ・フィオーレの青空の下、ブルーノの火刑に立ち会わされた。ブルーノの処刑に立ち会った五人の修道士──深々と顔を覆うそのフードの下に、一人の日本人の顔が隠されていたとしたら……。
                処刑後、呼び出された異端審問所で、トマスは神秘主義への関心を断ち切られた。と同時に、トマスは自らの心の底からキリスト教を閉め出した。日本へ帰る日まで、トマスはベラルミーノの監視下に置かれ、やがて教区司祭という形だけを引きずり日本への帰路についたのである。

                ホテルへ帰り着くと、キャセイ航空から香港へ帰る飛行機便が遅れる旨、連絡が入っていた。その便でOKなら連絡は不要だという。一抹の不安が残り、メモにある電話番号のところへ電話を入れるが、どうしてもつながらない。伝言を聞いてくれたフロントの男性もやってみてくれるが、それでもつながらない。彼は責任を感じたのか、フィウミチノ空港の電話番号を調べ、何とか連絡を取ろうとしてくれるのだが、それでもうまくいかない。面倒くさくなり、念のため、明日は早立ちすることに決め
                「明日は朝食はいらない」と伝え、部屋に入った。
                いよいよ明日はイタリアを離れる。一時退避のつもりで来たフィレンツェで長居してしまった。ローマでまだ行かなければならないところを残したままだ。でも、今のまま、またローマへ戻る気にはなれない。
                いつになるか、また日を改めることにしよう。
                明日は空港へ直行し、予定通り、香港を経由してマカオへと向かうことにする。明朝、ホテルのカプチーノが飲めないのも残念だが……。 

                「トマス荒木を歩く」 vol.14  サン・ロレンツィアナ図書館

                2009.12.05 Saturday

                0
                  花の聖母教会とロレンティアーナ図書館
                  (サンタ・マリア・デル・フローレ=花の聖母教会のドゥオーモとサン・ロレンツィアナ修道院)

                  サン・ロレンティアナの中庭と礼拝堂修道院の中庭を巡る回廊、その途中に二階へと上がる階段がある。二階にも同じように回廊があり、まずはこの回廊を一巡りしてみる。狭い窓から金網越しに書庫や資料室の様子がわずかながら窺える。中庭には、草花に埋まった花壇の中央に一本のミカンの木が植えられてある。そして回廊の屋根越しにサンタ・マリア・デル・フローレ(花のサンタ・マリア教会)の大きなドゥオーモが辺りを圧倒している。回廊を一巡し、階段の所へ戻るが、その右手にある大きなドアが図書室への入り口だ。
                  ドアを入ると、横手に大きなメディチ家の紋章が掲げられてあり、その反対側には、図書室入り口へ三方向から伸びる流れるような階段がある。まるで川の流れが、低い落差のところで三方向へ流れ落ちてでもいるかのような、なめらかで、それでいてリズム感のある曲線だ。聞けば、ミケランジェロの設計になる階段だという。
                  その曲線がやがて一つになり、直線となって上っていく。その頂点に図書室入り口がある。
                  正面からの階段を上がる。上がるに連れ、図書室の全貌がパースペクティブのように視界に広がってくる。入り口からまっすぐ奥へと走る豪華な絨毯。上には格子状の天井。両端にはメディチ家の紋章をあしらった窓。すべてが直線となって奥の一点に向かって走っている。そして、絨毯の両脇に並ぶ書見机の列、その数の多さ、そのあまりの整然とした様子、思わずその場に立ちすくんでしまう光景だった。
                  ミケランジェロの階段と閲覧室私の前を歩いている人が、絨毯からはずれ、書見机に手をふれようとした。いきなり係の女性が現れ注意を与える。ピーンと張りつめた空気が流れる。
                  ところで、その書見机をよく観察すると、側面に何か細かい文字の書かれたリストのようなものが貼られてある。リストは古い時代を誇るかのように、紙もインクの色も変色してしまっている。
                  係の人をつかまえ、これは一体なんなのかと聞いた。もちろん、すんなりと話が進んだ訳ではない。ポケット辞典を引きながらイタリア語の単語を並べ、時に英語になったり、もどかしくなって日本語が飛び出したり、あげくは図まで描きあっての大奮闘の結果、この書見机は書棚をも兼ねていることがわかった。今は、貴重な図書のため、すべて書庫へ引き上げられてはいるが、この書見机の正面下の部分が棚になっており、ここに側面リストに掲げられてある図書が収められていたという。資料を探そうとする人間は、一覧表とこの机側面のリストを手がかりに、目的の本が収められている書見机に行き、ここで本を閲覧するという次第だ。つまり本を机まで運ぶのではなく、人間がその書物の置かれてある机兼書棚まで行き、その場所で書を繙くというやり方だ。
                  ところで、この書見机のどれかにトマスは座ったろうか。この図書室でトマスが巡り合ったものは何だったろうか。かつて、この図書館は、メディチ家のカレッジの別荘と並んで新プラトン主義研究の一大拠点であった。メディチ家のコシモや、その子ロレンツォは、当時のキリスト教的常識を打ち破ろうとした。カソリック的迷信を排し、人間存在の本質を神秘主義の中に探ろうとした。だからこそ、ここにはカソリックが異端とする書が秘密裏に集められている。しかし、外見上はあくまで、キリスト教の探求を看板にしてはいたが……。
                  そして、この神秘主義研究の流れに歯止めをかけたのが、ローマン・カソリックだった。一時は、三位一体説まで、ユダヤ神秘主義カバラによって解釈しようとしたのだが、ローマの目をごまかし続けることはできなかった。
                  トマスが探していたもの、それはベラルミーノによって闇から闇に葬られた「シクストゥスの聖書」ではなかったか。トマスは日本語版聖書翻訳のテキストとなるべき「シクストゥスの聖書」を求めてローマを訪れた。しかし、彼に与えられたのは、誤植が多いという理由で、その後、ベラルミーノによって手の加えられた改訂版の「シクストゥス・クレメンタイン聖書」であった。おそらくテキストとしては、シクストゥスの勝手な思い込みが入っていない分、こちらのほうがより優れているであろうが、どうしてもトマスの心に釈然としないものがあった。
                  「なぜ、一冊も残っていないのか。いくら誤植が多いといっても、ローマ教皇が自ら編纂した『聖書』がバチカン図書館にさえ残っていない。」
                  トマスは日本へ持ち帰るべき書籍の文献目録をつくる傍ら、秘かに「シクストゥス聖書」の行方を探したのではないだろうか。このサン・ロレンツィアーナ図書館において、彼に何らかの示唆を与えた人物がいたに違いない。
                  トマスが座ったかも知れない書見机に手を触れてみたくなった。そっと手を伸ばしながら、横に立つ係の女性の顔を振り返ってみた。その女性は、「オーケーだよ」と言わんばかりに、やさしく頷いてくれる。
                  冷たい木の感触が伝わってくる。ほぼ四百年前、この書見机のどれかにトマスが座った。その思いは掌に伝わってくる机の感触に支えられ、いつしか確信へと変わっていく。指先から起こった痺れは全身へと広がり、体中の毛穴が開ききったかのような感じに襲われた。 

                  サン・ロレンツィオ図書館とサン・マルコ図書館

                  「トマス荒木を歩く」 vol.13  フィレンツェへ!

                  2009.12.04 Friday

                  0

                    鐘楼からの光景
                      (フィレンツェ ジオットの鐘楼からの眺め01 左手の6角形の建物はメディチ家洗礼堂)

                    イタリア国鉄のチケット1997年6月1日(日)
                    ローマ・テルミニ駅5時53分、今、フィレンツェへ向かう2等列車の中にいる。駅の売店で大声を張り上げ、なんとか朝食となるサンドイッチを手に入れた。駅の売店は朝のカプチーノを飲む客でごったがえし、上品にしゃべっていたら見向きもしてくれない。いきおい大声を張り上げることになる。
                    「わかった、わかった。あんたはこのサンドイッチとカプチーノが欲しいんだね……」と、やっとそんな感じで対応してくれた。
                    2等車の席に落ち着き、苦労の結晶であるサンドイッチにかぶりつく。そう言えば、昨日、フォロ・ロマーノで遅い昼食代わりのパンをかじって以来、何も食べていない。ホテルへ帰ってから夕食をとろうと思いつつ、帰り着くや、そのまま深夜まで寝込んでしまった。目が覚めてからは、自分の中の恐怖心との戦いだった。空っぽの胃に、熱いカプチーノとサンドイッチが流れ込んでいく。
                    まるで心まで癒されていくような感じだ。食べながら、なぜか涙がカプチーノの中へポタポタと落ちた。
                    腹がふくれるや、眠気が襲ってくる。たちまち眠りの中に落ちていく。
                    イタリアノテレホンカード
                    途中、賑やかな女性の声で目が覚めた。若いアメリカ女性の二人連れ。私の向かいの席に座った。軽く会釈を交わしただけで、後はまた眠りの中へ……。夢見心地の中で前の二人の会話が聞こえてくる。英語でしゃべっているのに、どういう訳か話の内容がわかってしまう。
                    「若そうに見えるけど、結構、年かもよ……」
                    「もしかしたら日本のタレントかなんかじゃない……」
                    その言いようが、あまりにも人をバカにしたように聞こえて、ぼんやりした夢の中で、一人、憤っている自分があった。
                    朝9時前、フィレンツェに到着、目が覚めたときには、二人の早口の会話は、もう聞き取れなくなっていた。列車を降りるや、いつでも日本に電話できるよう、まず駅の売店でテレフォンカードを購入する。その後9時になるのを待って、駅の両替所で日本円をリラに替えてもらう。難しく考えていた現地での両替も、意外と簡単に運び、結構、自信を持って駅を後にした。

                    サンタ・マリア・ノベッラ教会ところが、駅前にあるサンタ・マリア・ノベッラ教会(写真)にさしかかった時だ。一人のジプシーの母親が、十歳ぐらいだろうか、目鼻立ちの整った娘を連れ、黄色く焼けた新聞を広げ何か喚くようにこちらへ近づいてくる。「新聞を買ってくれ」とでも言ってるのだろうか。キョトンとしている間に、いきなりその母親が抱きついてきた。……と、一人の老婆が大声で何事かを叫びながら駆け寄ってきて、そのジプシーの女性を引き離した。
                    母娘のジプシーは逃げるようにして、その場から走り去った。
                    「大丈夫かい? ポケットの中を確認しな」「何もなくなっちゃいないかい」「財布に気を付けるんだよ……」
                    不思議に言ってることがわかる。でも、なんと答えていいかわからず、やっと「グラッツェ」とだけ答えを返した。
                    うれしかった。ジプシーの母娘を憎む気にもなれず、むしろ幼いジプシーの娘の顔がいつまでも目の裏に焼き付いている。こんなことがローマで起こったら、しばらく恐怖心でパニックになっていただろう。ところが、このフィレンツェでは、変に安心感がある。何があっても大丈夫だという思いがある。治安の面ではローマ以上に悪い。現に、一人になってしまうと、どこからか得体の知れない男が現れ、声をかけてくる。と、これまたどこから現れたのか、警官が近寄ってきて、男はすごすごとその場から離れていく。
                    そんなことが何度も起こった。その都度、警官と言わず、民間の人にまで助けられた。それでも、何が起こっても大丈夫だという思いは依然と強い。ローマでは気が狂うかと思ったのに、ここでは家に電話をかけるゆとりも生まれた。
                    このフィレンツェでは、一つの思いがいつも私を包んでいるようだった。
                    「この日本人をどんなことをしても無事に日本へ帰す……。」
                    そんな思いを、いつも感じていた。

                    メディチ・リカルディ宮やがて、その正体に気付いた。メディチ家だ。
                    街自体が、今もメディチ家という大きな意識の中にスッポリと包まれている。フィレンツェ中どこを歩いても目に付くメディチ家の紋章──パッレと呼ばれる六つの、時には八つの球で構成されたメディチ家の家紋──今も残るメディチ家の離宮で、初めてこの紋章に出会った時、この安心感の正体がわかった。その中庭に立って、周囲を取り巻く壁にメディチ家の紋章を見た時、なんとも懐かしい思いが、ある名前とともに噴き上げるように込み上げてきた。

                    ロレンツォ……。
                    この離宮の小さな一室が、今、一般公開されている。十人も入ればいっぱいになるような小さな部屋だ。その部屋に入るや、一つの視線にさらされる。壁を取り巻く極彩色の絵──東方の三賢者がベツレヘムで生まれたイエスに会うため、馬を進めている。その三賢者の一人ひとりを、メディチ家の当主の肖像として描いたのが、この壁の絵だ。なかでも目につくのが騎乗の少年像、きらびやかな衣装、そして、その斜め横に流した目線が、どこから見ても見る者をとらえて離さない。メディチ家最盛期の当主ロレンツォ・デ・メディチだ。イタリア・ルネサンスを支えた中心人物であり、新プラントン主義の名に代表される神秘主義研究(錬金術、占星術、暗記術、カバラ主義、グノーシス主義等々の総合研究)の最大のパトロンだった人物でもある。そのロレンツォの子供時代の肖像が、東方の三賢者の一人として描かれている。その眼差しが心をとらえて離さない。
                    ロレンツォ……。
                    ちなみに、フィレンツェでは宿泊するホテルが決まっていない。まずホテルを探さねばならない。そして見つけたのがホテル・ロンバルディだった。ヒューム通りにあって、一つ星のホテルということだから三流ホテルということになるのだろうが、これが非常に清潔で、若いスタッフの態度が実に気持ちがよい。おまけに主人が大変な親日家で、突然訪れた私を、安くて気持ちのいい部屋に案内してくれた。
                    東方の三賢者に模したロレンツォの肖像朝食付きで五千円位になるのだろうか。ベッドは大きく、部屋自体がどっしりした感じで、しかも清潔だ。たちまち、その部屋が気に入ってしまった。
                    ところが、その部屋に飾られているレプリカ(複製 写真)の絵が、先ほど見てきたロレンツォの肖像だった。それはベッドの横に飾られ、私のフィレンツェ滞在中、あの不思議な視線で絶えず私を包んでいた。それが妙な安心感につながっていた。
                    メディチ家の紋章のあるところ、メディチ家の息のかかったところなら、たとえ何があろうと大丈夫だ、そんな安心感が自信となった。ローマでのおどおどした感じに比べ、フィレンツェでは自由にのびのびと歩き回れる。
                    サン・マルコ修道院とその図書室、メディチ家の離宮、サンタ・マリア・デル・フローレ、ジオットの鐘楼、ヴェッキオ宮、サン・ロレンツォ教会、そしてウフッジ美術館、ベルベデーレ要塞と、どこにでもメディチ家の影が濃厚に残っていた。
                    観光客がまだ現れない早朝のフィレンツェを歩いていると、表現しようのない思い──懐かしい、うれしい、苦しい、悲しい、どれとも感じが違い、それでいて、そのすべてであるような──何とも言えない思いが堰を切ったようにあふれてくる。ローマでの重苦しい、絶えず緊張感の中にいるような思いとは、まるで正反対のような……。

                    フィレンツェの捨て子院

                    中でも心が惹かれたのは、サンティッシマ・アヌンツィアータ広場にある捨子院(写真)。ルネッサンスの陰で、人間の自由が叫ばれるのに比例して、孤児の数も急増した。ここへ子供を捨てにさえ来れば、誰に顔を見られることもなく、良心のとがめも少なく子供を捨てられた。余談だが、このような捨子養育院で、私たちが現在使っているような粉ミルクが考え出された。またヨーロッパを支える名も知れぬ人材がここから数多く生み出された。
                    ロレンツォは人材を愛した。彼を支えたブレイン、特にユマニスト(人文主義者、神秘主義研究者)たちの中に、この養育院出身の人材がいたとしても、決して不思議ではないだろう。
                    それはさておき、トマス荒木も、このフィレンツェを二度訪れている。一度は日本からローマに向かう旅の途中。そして今一度は、ローマ滞在中、キリスト教文献収集作業の過程において。時代はロレンツォの死から百余年が過ぎた一五九九年のこと。私はトマスが真っ先に足を向けたであろう、サン・ロレンツィアーナ修道院へ足を向けた。その図書館にはメディチ家が集めた膨大な文献がある。このサン・ロレンツィアーナ図書館こそ、トマスのもっとも行きたかった場所だったに違いない。ところが、行ってみると「日曜日は休館だ」と言う。やむなく宿を見つけ、フィレンツェに滞在することになった。そして見つけた宿というのが、先ほど話したホテル・ロンバルディという訳だ。
                    二日目の早朝、まだ街が観光客に埋まる前、ひっそりと静まり返ったフィレンツェの通りを歩いた。そして、ここかしこで、あふれてくる思いに何度も泣いた。泣きながら歩き回った。人が来れば顔を背け、何か建物でも探しているふりをした。ひとしきり歩き回り、ひとしきり泣いてホテルへ帰った。
                    朝食に出されたカプチーノが絶品だ。パンにベーコンエッグ、それにヨーグルト、オレンジジュース……こんなにゆっくりと食事するのは久しぶりだ。何年も逃げ回って、やっと家に帰ってきたという感じだった。腹ごしらえも終わり、いよいよサン・ロレンツィアーナ修道院の図書館へと向かう。 

                    ジオットの鐘楼からの眺め
                                    (フィレンツェ ジオットの鐘楼からの眺め02)

                    「トマス荒木を歩く」 vol.12

                    2009.12.04 Friday

                    0

                      サンピエトロのドーム
                           (サンピエトロ寺院のドーム部分までのぼり、ドーム内側を眺める)

                      二日目の夜を迎えた。
                      ローマへ来てまだ二日目だというのに、もう何カ月も過ぎたような感じがする。今日は、昨夜の睡眠不足も手伝い、ホテルへ帰り着くなりすぐに寝付いてしまった。ところが真夜中に目が覚め、それからはどうしても眠ることができない。真夜中、眠れずにベッドに横たわっていると、謂れのない恐怖心がムクムクと頭をもたげてくる。またまた昨日の繰り返しだ。
                      ドアが気になる。ドアに施錠されているのを確認し、今日はドアの前にベッドを動かしてみる。それでも恐怖心はおさまらず、紛らそうと、ベッドの上に地図やノートを広げ、今日の予定を立てようとするが、どうしても手に付かない。
                      イタリアへ来る前、女房が話していた雑談が妙に生々しくよみがえってくる。その話というのはこうだ。
                      イタリア観光に出た日本の若い女性グループの話。女性二人でショッピングに出たが、一人がブティックの更衣室に試着のために入った。ところがいくらたっても彼女は出てこない。実は、更衣室の床に細工がしてあったらしいが、そんなことは知らない連れの女性、いつまでも出てこないので心配になり更衣室を確認するが誰もいない。店員に訊くと、「お連れ様はもうお帰りになりました」という。
                      ところがホテルへ帰ってみても、彼女は戻っていない。ついに見つからないまま日本へ帰ることになった。ひょっとして日本へ先に帰ったのでは……との一縷の望みを抱いて。
                      日本にも彼女はいなかった。話を聞いた彼女の母親は、娘を捜しにイタリアへ飛ぶ。警察への届け出、ホテルや、消えたというブティックでの聞き込みなど、心当たりを探し回るが、空しく日が過ぎて行くだけ。一月も過ぎた頃だろうか、ふと目にした見せ物小屋の看板、両手両足のない日本人娘の見せ物。もしやと入ってみると、すでに気は狂ってはいたが、果たして自分の娘であったという。

                      外国旅行をする若い女性へのいましめか。事実のほどは明らかではないが、女房は「本当にあった話だ」という。その時は、「まさか!」という思いで聞いていたが、今、妙に生々しくよみがえってくる。そこに今日見てきたカステル・サンタンジェロの牢獄の様子、ブルーノの火炙りの様子がだぶり、思わず叫びだしそうになる。
                      ドアの向こうで誰かがこちらを窺っている気配……。
                      完全に被害妄想だ。
                      ベッドの上に座り込み丹田呼吸、次いで瞑想。次第に落ち着いてくる。そのまま瞑想を続ける……。
                      しかし、少し気を抜くとまた逆戻り、そんな繰り返しの中で、これが続いたら気が狂うと思った。もう限界だとも思った。
                      その時、奇妙なことが起こった。体はベッドに座って瞑想の姿勢のまま。と言っても、心は向いていない、向こうとしているのだが、恐怖心にがんじがらめという状態……その時、それは起こった。
                      膝の上に置いた掌から、何かが出ている。目に見えないが、両の掌から何か「気」のようなものが溢れるように流れ出ている。それが体全体を覆うように包んでいく。目にこそ見えないが、見える以上にはっきりと感じる。こんなことは初めてだ。
                      何てことだ。自分はパワーなど関係ないと思っていたが、恐怖心のあまり無意識とはいえ、自分から「気」が流れ出している、パワーを使っているんだ。落ち着いてから、そう思った。
                      もうイタリアを離れよう、日本へ帰ろうとも思った。
                      そして、荷物をまとめ始める。
                      荷物を整理しながら、「いや、もう少し踏みとどまろう、今空港へ行っても、日本へ帰れるかどうか……」と、そう思い直した。でもローマにはいたくない。やはり、もう我慢できない、ローマにだけはいたくない──そう思った。
                      「フィレンツェ、そうだ、フィレンツェへ行こう。」
                      そう思うと、少しホッとした気持ちになった。
                      「ローマを出ていこう、「ローマから離れさえすれば、なんとかなる。」 

                      今にして思えば、なぜフィレンツェなのか。なぜフィレンツェへ行けば大丈夫なのか。なぜベネツィアやナポリやジェノバではいけないのか……

                      サンピエトロのドームから下を見る
                                  (サンピエトロのドーム部分から下を眺めたところ)

                      ※現在「2012」という映画が公開されているが、映画では、サンピエトロのドームが崩れて粉々になるシーンがあるという。CGでつくり出された世界とはいえ、ぜひ見てみたいものだ。