孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.10

2009.12.11 Friday

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    安土パウロ三木殉教碑
              (安土セミナリオ跡 パウロ三木殉教碑の除幕式)

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     トマスは有岡城落城後、高槻の高山右近のもとでほぼ三年間を過ごしている。そして六歳になったとき、信長の城下町安土にセミナリオが造られ、ここに預けられることとなった。
     セミナリオの創設は、イエズス会巡察師バリニャーノ神父の働きによるもので、まずは九州有馬に開校し、翌年、信長の許しによって安土に開校される運びとなった。
     信長は荒木攻めに果たした高山右近の働きを高く評価し、キリスト教をあつく保護するとともに、セミナリオ建設のため、安土城天守ふもとの土地を与えたばかりか、大工などの手配から万事に至るまで全面的にこれを援け、安土城天守と同じ瓦の使用まで許したという。
     右近もこの工事を援けた。
     それは、ただ単に便宜を図る、経済的に助けるというばかりではない。毎日のように人夫に混じって材木を運ぶ姿は、まるで贖罪の苦行でも果たすかのようであった。
     この時期、右近はラテン語を学ぶようになる。キリストの教えを本当に伝えるためにはヨーロッパの言葉を知らねばならないと言い出し、そして幼いトマスにもそれを勧めた。
    「私は西洋の言葉を学ぶには歳を取りすぎた。トマス、おまえはパーデレ様の国の言葉を学び、イエス様の教えを、この国の言葉として伝えていってほしい。」
     こうしてやがて出来た安土セミナリオに、その一期生としてトマスが預けられたのである。
     校長は、トマスに洗礼を授けたイタリア人宣教師オルガンティーノ神父。生徒は、六歳のトマスが最年少で、最年長が十五歳、およそ十五、六名の生徒が集められた。多くは戦争で身寄りを亡くした戦国武将の子供たちや、熱心なキリシタン信徒の子弟たちで、なかには自ら望んで入学してきた者もいる。後のことになるが、秀吉の禁教政策に殉じ、二十六聖人の一人に列せられるパウロ三木も、この安土セミナリオの生徒として、この中にいた。
     信長の異国趣味がにわかに花開いた時代であった。
     巷では西洋風の衣装が取り入れられ、キリシタンでなくてもクルスをかけ、ロザリオを装身具のように扱うことが風潮となった。京都には三層の天主堂がそびえ、町の大通りには着物に首襟を着けた若者や、カルサンを袴代わりに履く人たちの姿が見られた。
     安土のセミナリオでも、西洋音楽を学ぶ子供たちの声やオルガンの音が絶えることなく、信長自身、セミナリオを訪ねてはその調べに耳を傾けた。
     しかし、トマスにとって、信長の来訪は恐怖以外の何ものでもなかった。信長は感情を表さず、ただ生徒たちの弾く西洋の調べにじっと耳を傾けている。その表情を盗み見るとき、七松で聞いた銃声や断末魔の悲鳴が、トマスの頭の中でよみがえってくる。
     ──信長様はあの銃声や悲鳴を聞くときも、あんな表情だったのだろうか──。
     トマスの頭の中によみがえった銃声や悲鳴は、次第に実体を持ち、トマスの頭からあふれ、次第に辺りを七松の処刑場へと変えていく。思わずトマスの口から悲鳴が洩れそうになったとき、母の「生きていれば必ずそなたを迎えにまいります」という声がよみがえってきた。
     そしてトマスは、その声にしがみつき必至に恐怖に耐えた。

     やがて、トマスにとって恐怖の象徴とも言える信長が死んだ。
     セミナリオの出来た翌一五八二年、いわゆる本能寺の変が起こり、信長は明智光秀によって京都本能寺に誅せられたのだ。天正遣欧使節の少年たちが旅立って間もなくのことだ。
     しかし争乱は京都だけにとどまらなかった。光秀は、本能寺を襲うと同時に、信長の本拠安土をも襲わせ、このため安土セミナリオまでが、このとき、灰燼に帰してしまうことになる。
     安土セミナリオの校長であったイタリア人宣教師オルガンティーノは、生徒たちを連れ安土を脱出した。まず小舟で琵琶湖の沖の島へ渡り、そこからさらに対岸の坂本へと逃げる。坂本は言わずと知れた明智の本拠地……。そこでオルガンティーノ神父らは、キリシタンを味方にしようとする明智の手で却って保護され、争乱の中、その案内で京都南蛮寺へと落ち延びることができた。
     トマスは、年長のパウロ三木に手を引かれ山中峠を越えた。途中、何度も何度も安土の方角を振り返った。なぜかセミナリオを離れたら最後、母親も、母親の思い出も大事なものがすべて消えていってしまうような……そんな気がして仕方がなかったのだ。
     母が死んだことは分かってはいるのだが、トマスは母を待つということで自分を支えてきた。いや、待つという行為の中に母を感じようとしていたのかもしれない。だから、どことも知れぬ場所へ移動することが不安でたまらない。高槻を離れ安土へ来たときも、この不安を抱えたままやってきた。今また安土を脱出するに当たって、自分の中にポッカリ空洞ができてしまったような不安定さに戸惑い、いたたまれずにいる。
     トマスは自分の記憶の中に母の声を探した。
    「生きていれば必ずそなたを迎えにまいります……」
     その記憶の中に母の声と思いをよみがえらせることで、トマスは自分の不安を癒そうとした。
     しかし母の声が思い出せない。心の中を必死になって探しまわり、やっと母の声に行き着くことが出来た。その時だ。
    「トマス、モウスグデス。モウスグ京都デス。大丈夫デスカ?」
     オルガンティーノ神父の励ましの言葉が、トマスを現実の世界へと引き戻した。



    「十一人のうち一人トマスといふ疑ひびとあり、ゼスス来たり給ふ折節漏れられけるに残りのヂシポロ(弟子)おん主を見奉ると申されければ、トマス御手の疵を見、釘の御痕に指をさし御右の疵に手を入れずばヒイデス(信仰)に受くべからずと申されけるなり……」
     千代は目の前のトマスを拒むかのように、二人に背を向け、自分の中に今までため込んできた日本語教理書をつぶやくように吐き出していた。
     イエスの十二使徒の一人トマスは、ほかの弟子たちが口にする主の復活を最後まで信じようとしなかった男だ。
    「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」
     そんなトマスの前に復活したキリストが姿をあらわし、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
     イエスはまた、トマスがカイサリア市にいたとき、再び彼の前に姿をあらわし、インド王グンドフォルスのもとへ布教に行くことを命じた。殉教の覚悟がなくてはインドへは行けない。
     イエスは、ためらうトマスに「トマスよ、行きなさい。怖れてはならない。私があなたを見守っています。そして、あなたがインドの人々を改宗させたならば、殉教者の棕櫚をもって私のそばに来るのです。」
     こうしてトマスはインドへ赴き、インドで最初の殉教者となった。トマスの伝説は、新約聖書外典「トマス行伝」や十二世紀に成立した「黄金伝説」にも収録され、一五九一年に日本で出版された「サントスの御作業」の中にも収録された。
     今、千代の口から漏れる言葉は、その「サントスの御作業」の一節に違いない。トマスを兄とも慕った千代が、まず最初に覚えたのがこの一節だった。

     ……サントウメ(聖トマス)いかに御主、いづくいかなる所に遣わさるるとも、南蛮に至っては御免なされかしと辞退申さるれば、ゼスキリスト汝ともに我も行きて、力を添ゆべきなれば、恐るることなかれ。かの人々をキリシタンになして後、汝はマルチル(殉教者)の位を以て、我が所に来たるべし……

     了伯は千代の声を聞きながら思った。
     右近様はこの聖トマスについて知っておられたのだろうか。知っておられて、この洗礼名を私に名付けられたのだろうか。もちろんオルガンティーノ師はご存じだったろうが、しかし、キリスト教会が異端として避けた「トマス福音書」の存在についてはどれだけご存じだったろうか。聖トマスと言われながら、一方で異端として避けられた男の本当の姿を、あの方はどれだけご存じだったろうか。
     私に名付けられたトマスという洗礼名にどれだけの意味があったのだろうか……。
     トマスの心に、異端審問所の牢獄で聞いたジョルダーノ・ブルーノの言葉がよみがえってきた。

    「トマス……不可解な名だ」
    「君はいったいどのトマスになるつもりだ……」
     

    孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.09

    2009.12.11 Friday

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      伊丹荒木軍記
                     (「伊丹荒木軍記」 伊丹市立博物館蔵)



       信長の苛酷な戦後処理が開始された。
       信長は「不憫(ふびん)ながら荒木摂津守や久左衛門を懲らしめるためには致しかたなし」と、生き残った者全員の成敗を命じた。右近にはその忠節を試すかのように猪名川沿いの七松において、名ある武士の妻女とその子供、更には非戦闘員である召使いや若党夫婦まで処刑することを命じた。
       一度、権力者に屈すると、妥協が妥協を生んで際限がない。すべてを捨てて出家する道を選んだはずが、信長に仕えることを承知したばかりに、主筋に当たる村重を攻めるはめとなり、今度は、生き残った者たちの処刑を命じられることとなった。
       これに対し右近が裏切った村重は、人質として差し出した右近の子供や妹を遂に殺しはしなかった。それがキリシタンである右近を苦しめた。キリストの教えを奉じる自分は潔癖でなくてはいけない。戦国という時代が、自分の最も望まぬ方向へ自分を運んでいく。それが結果として、自分の最も忌み嫌う「偽善者」というレッテルを自分に貼ることになる。周りの者も口には出さずとも思っている。「右近は口では立派なことを説くが、いざとなると自分は安全な場所に逃げ込む卑怯者だ」と……。
       その通りだと思った。処刑の日も、右近は、塚口砦に作った仮の茶室へと逃げ込んだ。そして、何かに耐えるように、ただ処刑が終わるのを待っていた。そのそばではトマスが、外から聞こえてくる銃声や悲鳴にじっと耳を傾けている。

       七松の処刑場は凄惨を極めた。
       猪名川を舟で運ばれてきた囚人たちは、母は子の手を引き、まだ幼い子供たちは牛車に乗せられて整然として処刑場に向かう。
       ……竹矢来が組まれた刑場に入ると、そこには何十本かの杭が打たれていた。足軽たちが、到着した女や子供たちを無造作にその杭に縛っていく。まだ幼い子供は、杭に縛られた母に抱かせる。
       やがて………
      「撃てーッ!」というかけ声と共に一斉に銃撃が開始された。
       刑場は一瞬にして、悲鳴と念仏と血しぶきに覆われた。
       足軽たちが、まだ硝煙の漂う刑場を杭に駆け寄り、死体を杭からはずすと引きずるようにして、大八車へ放り込んでいく。まだ死にきれない女は足軽が槍や刀で殺していく。死体の始末が終わると、次の女や子供たちが引き出され、足下に血だまりのできた杭に縛られる。処刑場のあちらこちらで、この行為が散発的に繰り返され、最初、子供の健気(けなげ)な様子に涙したり、好奇の目で見ていた観衆も、やがて血のにおいに飽き、気分が悪くなって吐く者もあちこちで現れはじめる。
       こうして朝から始まった処刑は昼過ぎまで続いたが、この時処刑された女や子供は、実に百二十二名に及ぶと言われる。
      『信長公記』は、この時の模様を、「この光景を見た人は、その後二十日、三十日の間はその面影が目について忘れることができなかった」と言い、あるいは「人々はすっかり肝をつぶしてしまい、目を覆い二度と見ようとする人はいなかった」と言う。

       右近は、茶室の中に聞こえてくる銃声や悲鳴にじっと耐えていた。そんな右近の手を握ってくる小さな手があった。
       トマスだった。見ればトマスは、声を押し殺し、恐怖に体を震わせて泣いていた。右近は、トマスを抱きしめてやった。右近の腕の中でふるえる小さな温もりが愛おしく、右近はトマスを慰めることで、まるで自分が癒されていくようにも感じた。
       が、処刑はこれで終わった訳ではない。昼からは有岡城で働く五百名に及ぶ召使いたちが四軒の農家に閉じこめられ、戸を釘付けにされたうえで焼き殺された。
       またこの三日後、京都六条河原では、村重の妻だしをはじめ、荒木一族がことごとく処刑されたという。この中には、荒木久左衛門の幼い息子自念も含まれていた。
       しかし、トマスの父や母の姿はどこにもなく、恐らくは有岡城最後の戦いの中で命を終えたものと思われた。

      孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.08

      2009.12.11 Friday

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        カトリック高槻教会と高山右近像
                           (高槻カトリック教会と高山右近像)



         トマスは生まれた時からキリシタンだった。
         父、荒木忠通は摂津を支配する荒木村重に仕えていた。同じ荒木姓と言っても血筋がつながっているわけではない。元は池田姓を名乗っていたが、祖父久左衛門のとき、荒木村重に望まれて有岡城の家老となった。その折り、荒木姓まで賜ったということだが、池田家二十一人衆の筆頭だったという実力と、その温厚実直な性格のためか古参の家臣衆の嫉妬をあおることもなかったという。
         トマスの父忠通は、そんな久左衛門が、若い頃、池田の百姓の娘に生ませた子供だという。
         父忠通がキリシタンとなったのは、同じ荒木家配下にある高槻城主高山右近の影響によるものだった。忠通は、同じ年輩ながら右近を自らの茶の師と仰ぎ、築城術の達人と賞賛し、その潔癖さがやや煙たくはあるものの右近の人となりにかねてより敬服していた。
         その右近から、自らの婚姻の儀式に立ち会ってほしいと、忠通ばかりか妻の時子までが招待された。結婚の相手は古田織部の妹ジュスタ。織田信長の薦めを荒木村重が取り持っての話であり、いささか政略的なにおいもないではないが、それより何よりジュスタが熱心なキリシタンであることが右近の心を動かしたようだ。婚姻の秘蹟は新たに完成した高槻の天主堂で行うという。
         教会といっても、当時は神社や仏寺をそのままキリスト教に転用する場合が多く、そんな中にあって高槻天主堂は小規模ながらも、右近と飛騨守父子が心血を注いだ司祭館まで備えた本格的天主堂だった。しかし忠通は天主堂よりも、右近の修築した高槻城に興味があった。高槻城は久米路山に築かれた城だ。久米路山と言っても小さな丘のような小山で、平城にも等しく守るに難しい城である。右近は修築に際し、この欠点を濠を深く広くすることによって解決した。そればかりか内濠外壕のまわりにまだ一つの壕を巡らし、まるで湖に浮かぶ島のような城に仕上げてしまった。
         人は、右近とキリシタンの関係から、それを南蛮わたりの技術であるかのように思う。が、実際は右近が堺に滞在中、上泉秀綱に教授された築城術に依っていた。
         右近にはこういった誤解がつきまとう。右近と付き合っていれば、南蛮の技術や産物、いや何かの折りには南蛮の援助さえ得られるのでは……そんな思惑から右近に接近する者も多くあった。主筋にあたる荒木村重しかり、織田信長またしかりである。右近を友とも師とも思う忠通にしてからが、右近を見る目にそういう思いがないとは言い切れなかった。
         忠通は、右近の説くキリシタンの教えは「たしかに道理にかなっている」とは思うのだが、自ら進んでキリシタンになる気はない。特にキリスト教の説く一夫一婦制、しかも一度娶れば離縁できないという教え……このことだけは日本にはあわないと思う。道義的な意味からばかりでなく、政治的にも子孫を残すことを、すべてに優先させなければならなかった時代なのだ。
        「右近の説くキリストの教えとやらは潔癖に過ぎる。これではわしのような男は近づくこともできん。」
         しかし、高槻を訪れこの思いが一変した。理屈ではなかった。思想でもなかった。今まで目や耳にしたことのない、南蛮の色彩と音に包まれ、キリスト教に魅了されてしまったというのが本当のところであろう。
         一五七四年(天正二年)の暮れ、右近とジュスタの結婚の秘跡が高槻の天主堂で厳かに執り行われた。新築された天主堂の祭壇。オルガンティーノ神父の深紅のマントの鮮やかさ。純白の打ち掛けに身を包んだジュスタの清楚さ。黒いアビタ(修道服)に身を包んだ右近の凛々しさ。オルガンの響き……そこへ賛美歌がかぶさり、やがてよく通るオルガンティーノ神父のラテン語が響きわたる……忠通等夫婦ばかりでなく、列席者のすべてが体験する初めてのキリシタンの結婚式であった。ラテン語の意味は分からなくとも、その簡素さと厳粛さに列席者は感動しため息をついた。特に政略の道具として扱われてきた女たちにとって、キリスト教の示す夫婦の姿は、まさに彼女らが渇望して止まなかったものであったに違いない。
         そんな雰囲気に飲まれるように、忠通夫婦はキリシタンとなった。右近の結婚から一月後のことである。そしてその半年後、忠通夫婦に待望の男児が生まれ、高槻の天主堂で洗礼が施された。
         洗礼名はトマス、名付け親はジュスト高山右近、洗礼をほどこしたのは、後に安土セミナリオの校長となるイタリア人ニエッキ・オルガンティーノ神父だった。
         キリスト教に改宗してからというもの、忠通にとってすべてが順調に進んだ。織田信長はキリスト教を厚く遇した。村重もまたキリスト教を厚遇し、キリシタンに改宗した忠通を重く用いた。村重の場合、それはただ単にキリスト教に利用価値を見いだしたというばかりでなく、高山右近を押さえておくというさし迫った問題を抱えていたからでもあった。このため忠通は、何かにつけ高槻の右近のもとへ使いに出された。右近を友とも師とも仰ぐ忠通にとって、それは願ってもないことであったが、その裏に隠された村重の意図に気付くことはなかった。
         村重は、信長への謀反の思いを心の奥に秘めていたのだ。その思いが一五七八年(天正六年)秋、具体的な形となった。村重が突如、石山本願寺や毛利勢と通じ、信長に反旗を翻したのである。
         トマスが三歳を迎えたばかりの頃であった。
        「村重謀反」の報に接するや、右近は直ちに有岡城へ赴き、村重に対し、何よりこの戦いが不正であり忘恩であることを弁じ、その不利と無謀さを説いた。そのうえで信長への赦しを請うべきだと主張したのだ。右近はこの時、二心なきことを誓うため三才になる一人息子を人質として村重に差し出した。この右近の誠意に村重は動かされた。たしかに信長自身、この時期、腹背に敵を有しており、摂津という重要な地点を敵に回すことはできない。右近の主張には説得力があり、説得は効を奏したかに見えた。しかし村重は、謝罪に安土へ赴くという土壇場になって「信長が自らへの反逆を赦すはずがない」という恐怖感にとりつかれ、強硬派中川清秀に勧められるまま、有岡城へと帰城してしまったのだ。
         こうして、右近も村重と共に信長と戦う羽目に陥った。
         村重謀反の報を受けるや、信長は、まず高槻に兵を進めた。しかし高槻城を一目見るなり、その堅固さに驚嘆すると共に、この城をここまでにした高山右近という人物に驚嘆した。まともに攻めれば攻める側にも莫大な損失を覚悟しなければならない。それにもまして戦いが長期化すれば、こちらの自滅にもつながりかねない。本願寺攻めにも、西国の動きを牽制するにも、摂津はその要となる重要な地点である。
         信長にとって、早期の紛争解決こそが最重要課題であった。
         このため信長が真っ先に手を打ったのが、右近の懐柔策である。信長は右近の動きを封じるため、キリシタン宣教師を人質に取った。右近が村重に味方するようであれば、「日本のキリシタンを根絶やしにする」と脅しつけたのだ。言葉だけの男ではない。
         かと言って、村重のもとには二心なきことを誓うため、自ら息子と妹を人質に出している。どちらにも動けない右近であった。思いあまったあげく、父ダリオ飛騨守は村重に味方し、右近はキリシタンとしてすべてを捨て出家するという捨て身の道を選んだ。
         信長にとっては、それで十分だった。出家し中立を守ろうとする右近を却って重く用い、その仲介に当たったイエズス会宣教師をも、今まで以上に厚遇した。そうすることで荒木側に右近の寝返りを強く印象づけ、その士気を阻喪させることをねらったのである。
         信長は、高槻城に次いで茨木城を守る強硬派中川清秀を懐柔するや、いよいよ有岡城への総攻撃を開始した。降伏の勧告はなく攻撃は熾烈を極めた。それだけに守り手も死に物狂いで防戦につとめ、堅固な城塞と相まって、寄せて側に多大な被害を与えた。
         信長は持久戦への変更を余儀なくされた。兵糧攻めにしようという作戦だが、町屋までも城郭に包み込んだ有岡城は兵糧攻めに強く、籠城戦は長期にわたる様相を呈し始める。そんな中、高山右近も封鎖網の一翼を担わされることとなり、やがて有岡城を包囲する旗印の中に、右近のクルスの旗印が翻ることになった。
         右近が寝返った……。少なくとも籠城側にはそう映ったし、結果として事実はその通りでもあった。有岡城を守る側にもかなりの数のキリシタンがいる。そして、そのほとんどが右近の勧めで教えに入った者たちだ。
         右近が包囲網の一翼を担ったのは昆陽口の砦であり、有岡城からは北西の方角に当たるが、この一角に翻るクルスの旗を見たとき、忠通は何を思ったろうか。「右近だけは」と信じていた思いがぐらつきはしなかったろうか。この戦いへの疑問を大きくふくらませはしなかったろうか。この戦いは本願寺に加勢しての戦いである。キリシタンにしてみれば異教徒に加勢しての戦いであり、戦いの義が立たない。聞けば右近は、宣教師やキリシタン信徒たちを守るために信長側に寝返ったという。しかし、なぜか釈然としない……
         右近は、すべての立場を捨てキリスト教に生きようとしたのではなかったのか。武士というしがらみを捨て、信長にも村重にも組みしない道を選んだのではなかったのか。その男が、なぜ、信長の一武将としてこの有岡城を包囲するのか。
         俺はいったい何のために戦っているんだろう。そんな思いに責めさいなまれる日が続いた。そんな矢先、今度は、城主村重が逃走した。「夏には……」と言っていた毛利の援軍は十月に入っても来る気配はない。「かくなるうえは」と、村重自ら「毛利へ救援を求めにいく」と有岡城を脱出したのだが、その村重も尼崎城に逃げ込んだまま動こうとしない。聞けば村重の大事にしていた名物茶器がすべて有岡城からなくなっている。「青磁の花入れ」「高麗茶碗」「立桐筒」「小豆鎖」……何一つ残っていない。
         村重に戻ってくる気はなかったのだ。
         十月も終盤に入るや、荒木側には裏切りや逃亡が相次いだ。最前線の上臈塚砦も、中西新八郎や宮脇平四郎の裏切りのため、寄せ手の滝川一益の軍兵を戦わずして迎え入れた。
         ほぼ一年にわたって頑強な抵抗を示した防衛線も、一角が崩れるや一気に崩れ始める。町に火がかけられ、各砦は本城との連絡が絶たれ混乱に陥る。降伏は赦されず、惨酷な殺戮が繰り返され、悲惨な報せだけが次々と有岡城へ押し寄せてくる。
         こうして三の丸までが信長勢の手に落ちてしまった。
         そんな頃、包囲軍の一翼を担う高山右近から忠通へ秘かに一通の書状が届けられた。
         忠通とその家族に有岡城脱出を勧める書状であった。
         それによれば、村重が尼崎城に逃れたことにより、包囲軍もその半数が尼崎城に振り向けられ、右近も信長の命により、尼崎城を望む塚口の砦へ移動したという。村重の城抜けにより、信長の怒りは並々ではなく、今降伏しなければ、信長は誰一人として生かしておく気はないだろう。こうなったからには、せめて奥方とトマスだけでも脱出させるようにというのだ。
         幸い明日は、忠通の父荒木久左衛門に率いられた一隊が、尼崎にいる村重を説得し、尼崎・花隈城を開城させるとの条件で降伏勧告のため城を出ることが許されている。その間は、織田勢の攻撃もストップされるばかりか、久左衛門率いる一隊に注意が注がれ城内の味方の監視さえ手薄になるだろう。この混乱に乗じてトマスと時子を猪名川から舟で逃がすように……猪名川の警戒は右近の手の者が行っているので、舟で迎えに出るというのだ。
         その夜、忠通は二人の部下を伴い、時子のもとを訪ねた。
        「俺は、明日、親父殿について尼崎城へ向かう。荒木の殿を説得し、尼崎、花隈の城を明け渡して降伏し、残された者たちの命乞いをしていただくためだ。もし、かなわぬ時は、荒木の殿と戦うことになるやも知れぬ。また逆に荒木の殿に合して戦うことになるやも知れぬ。そうなれば、信長殿はこの城に残された者たちを赦しはしないだろう。どんな苛酷な刑を科してくるか知れたものではない。俺はキリシタンである前に武士だ。今となっては、どのような立場におかれようと見苦しくない死だけを願っている。ただトマスやそなたには、自分に果たせなかったキリシタンとしての一生を全うしてもらいたい。」
         忠通は、妻時子と三才になるトマスを部下に託した。

         翌早朝、久左衛門らが大手口に集結した。降伏勧告の使者として尼崎城へ向かうためだ。その数は三百におよんだと言う。その三百に及ぶ一隊の周囲を見送りの家族たちが取り囲んでいる。
         忠通は久左衛門の隣にあって、幼い弟の自念が乳母に連れられ見送りに出ているのに気が付いた。忠通にとっては腹違いの弟に当たる。そっと父の横顔を見た。父久左衛門が幼い自念をどんなに可愛がっているかよく知っている。父はその幼い息子を残して出発しようとしているのだ。久左衛門にしても残された者の運命を考えると、できるものなら連れていきたいに違いない。しかし人質として残していく部下の家族たちのことを考えると、それだけはどうしてもできることではなかった。
         そんな父の気持ちを思うと、忠通の心に、何か後ろめたいものが走った。
         (時子やトマスは無事に城を抜け出したろうか。)
         やがて大手門が開かれ久左衛門に率いられた一隊が、尼崎城へ向けて整然と出発していった。出発していく久左衛門と、自念の眠そうな目が合った。父久左衛門は何も言わない。苦渋に満ちた顔を背けると、まるで未練を振り切るように黙々と歩を進めていった。
         外は嘘のように静まりかえっている。銃声も、雄叫びも、死を前にした男たちの叫び声もない。ただ一隊の行方を、敵と味方の眼差しだけが執拗に追っていた。
         そんな有岡城を後目に、猪名川を舟で下る三つの人影があった。真ん中にはトマスを抱いた時子の姿があり、その後ろには甲冑に身を固めた老武者が刀を抱えてすわっている。そして舟の舳先では野良着に身を包んだ若い武者が棹をとっていた。

         久左衛門らの一隊は、やがて尼崎の城へと到達した。しかし村重は、降伏を進める久左衛門等を前に、城の門を閉ざして出てこようとしない。そればかりか執拗に降伏を迫る一行にいきなり銃撃を開始したのだ。こうなっては逃げるしかなかった。久左衛門の一隊は、尼崎城を前に蜘蛛の子を散らすように四散していった。これを見守る織田勢も咄嗟のことで何が起こったのか分からない。見る間に久左衛門の一隊は散り散りに消えていった。
         そしてこの後、ある者は淡路島に、ある者は高野山へ逃れ、一人の男を除いて有岡城へ帰った者はいなかったという。
         一説には、この逃走劇は、荒木家再興のため、毛利の援軍が来るまで荒木勢の主だった者を温存しておこうという村重と久左衛門が共謀して打った大芝居だという。しかし、その見返りは大きかった。怒った信長の戦後処理は苛烈を極め、有岡城にとどまった者は、男女子供の区別なく、非戦闘員である賄いの女性に至るまでことごとく殺戮されてしまった……。

         話を戻そう。
         尼崎城を背景にした村重と久左衛門のやりとりに周りの目が集まっている時、トマスを乗せた舟は、猪名川を塚口近くまで下って来ていた。……と、その時だ。
         棹を取る若者が注意を促した。あわてて筵をかぶり身を隠す二人。と、前方の薄もやの中から一隻の小舟が近づいてくる。若者は、すわ敵かと身がまえたが、こちらの様子を察したのか、いきなり一人の武将が白地に黒のクルスの旗を高々と掲げた。
        「おお、右近様の迎えの方々だ!」
         張りつめた気持ちが一気にゆるんでいく。
         やがて二隻の舟は岸に接岸した。クルスの旗を持った男が岸に着くのを待ちきれずに舟を下り、こちらへ向かってくる。
         男はクルスの旗を傍らの者に手渡し深々と頭を下げた。
         見れば、それは高山右近自身であった。
         時子は驚いた風もなく、右近に深々と頭を下げると、
        「右近様のお導きで、私たち夫婦は短い間でしたが、真(まことの)の夫婦としてよみがえることができました。夫忠通は、今朝、久左衛門様と共に尼崎へ向かいましたが、本心は有岡城へ戻るつもりでございます。トマスを右近様に託しました上は、この私も有岡の城へと戻り、夫と最後まで生死を共にし、夫への愛、ひいてはデウス様への愛を全うしとう存じます。つきましては、この子のことのみが気がかり。厚かましゅうはございますが、トマスのことくれぐれもお頼み申します。」
         時子は、老武者に手を引かれて立つトマスの首に漆細工の小さな聖画入れをかけてやった。かけながら背をかがめると、
        「母は、やはりそなたの父上の許へ帰ります。もし、生き長らえるようなことがあれば必ずそなたを迎えにまいります。……が、もう会えないかもしれませぬ。そのことは覚悟しておくのですよ。この中にはマリア様のお姿が描かれています。さびしくなったら、これを母と思うて生きていってくだされ。」
         それは黒漆に金蒔絵で十字が描かれた楕円形の容器であり、蓋を開けると、中に小さな聖画が入っていた。そこには幼子イエスを抱くマリアの優しい姿が描かれていた。

         やがて時子を乗せた小舟が有岡城へ向かい帰っていった。
         トマスは、右近の手をにぎりながらその姿を見送った。
         その胸に、「生きていれば必ずそなたを迎えにまいります」という母の言葉がいつまでも残った。

         

        孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.07

        2009.12.11 Friday

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          どちりなきりしたん
                           (どちりなきりしたん 東京大学蔵)



          「お久しぶりです」
           男は静かに二人の前に座ると、千代を見つめ深々と頭を下げた。
           千代は、頭をあげようとする男の顔を覗き込むように見つめた。七十近くにもなるのだろうか、真っ白になった髪は後ろで束ねられ、ひどく老い込んではいるが、穏やかな眼差しにたしかに見覚えがある。右のこめかみに残る引きつったような傷痕は、かつて穴吊りの拷問にかけられたことを物語っている。
           穴吊りとは、身体をぐるぐる巻きに縛り付け、汚物を入れた穴に頭を下に吊り下げるという拷問だ。その際、こめかみや耳の後ろに刀で切り傷を付け、血が鬱血して死なないようにする。井上筑後守がキリシタンを転ばすために考え出した責め方で、これにかけられると全身の血が頭に下がり、次第に意識が朦朧とし、やがて頭が割れるように痛みだす。意識が混濁し正常な判断が下せなくなる頃を見計らって、穴の上では鉦を叩くなど大きな音を立て、「転べ」「転べ」とがなりたてる。
          「この拷問にかかって転ばなかったやつはおらんぞ。」
          「おまえが転んだところで、誰も意気地なしだとは思わん。」
          「身体を揺すれ、さすればここから上げてやるぞ。身体を揺さぶるだけでいい。それが転んだ合図じゃ!」
          「揺すれーッ、揺すれーッ……」
          「転べ、転べーッ」

          「トマスさまですか……?」
           その声に、おぞましい記憶がぬぐい去られ、了伯はハッと我に返った。あれ以来、昼といわず夜といわず、あの穴吊りの様子が浮かんできては了伯を苦しめる。
          「はい、そう呼ばれたこともございました。……が、今では荒木了伯と呼ばれております。」
          「了伯さま……?」
          「如何にも、転び伴天連の荒木了伯でございます。」
           三十年まえ、千代に、「死ぬことだけが教えを貫く道ではない、生きて為すことがあるはずです……」と、形だけでも絵踏みをするよう勧めた日本人宣教師、それがトマス荒木であった。
           あれから千代の苦しみが始まった。千代は、父やコレジオの人たちが出版したキリスト教書物の何冊かを暗んじていた。「どちりなきりしたん(公教要理)」「サントスの御作業」「ぎゃどぺかどる(罪人の導き)」「こんてむぷつすむんぢ(世のさげすみ)」……私が死ねば、これら本と共に、この日本からキリストの教えは絶える。隠れとして生きる人たちは、私が諳んじる教えを必要としているのだ。
           そのことが千代を支えていた。でも自分は、ただ命が惜しかっただけではなかったろうか。それを──生きて教えを伝える──そんな使命感でごまかしてきただけではなかったろうか。その思いにどれだけ悩まされたか知れない。捕らえられた時、「やっと苦しみから解放される」、だから、今度こそ決して転ぶまいとかたく心に決めていた。
           千代の表情が思わず厳しくなった。
          「トマス様は生きて教えを伝えるよう私を諭されました。教えに殉ずる道は死ぬことだけではないと……。トマス様は一体どのような道を見つけられたのでございますか?」
          「…………」
          「千代、了伯殿が選ばれた道だ。私たちがそれをどうこう言うべき筋合いではない。」
           九介があわてて千代をたしなめようとする。
           そんな千代と九介の前に、了伯は黙って重そうな油紙の包みを置いた。千代が驚いたように了伯の顔を見る。了伯は大きくため息を付くと、静かにその包みをほどきにかかった。何重にも包まれた油紙がほどかれると、中から大きな文字で「BIBLIA SACRA」と記された一冊の本が現れた。それは、九介の店の屋根裏から見つけだされたラテン語聖書だった。
          「千代殿は憶えておいででしょうか。四十七年前、私がローマへ渡った目的の一つが、このシクストゥス聖書を日本へ持ち帰ることでした。」
           天正遣欧使節の少年たちがヨーロッパから持ち帰った二台のグーテンベルグ印刷機。以来、この印刷機は、最初は加津佐のコレジオに、後には天草のコレジオに置かれ、この印刷機によって、日本語に訳されたキリストの教えが、またパードレたちの日本語の学習用にと「平家物語」や「太平記」などの日本の古典が、次々とローマ字印刷物として世の中に送り出されていった。やがてローマ字ではなく、日本の文字そのものを活字にしようという動きが、コレジオの教師や印刷に携わる日本人学生たちの中から起こった。
           日本語の複雑さ故に活字化は無理だとするポルトガル人やイタリア人宣教師たちの忠告をよそに、日本人スタッフやコレジオの学生たちは必死になって、この目論見にのめり込んだ。
           印刷機を持ち帰った遣欧使節の面々、なかでも原マルチノ、中浦ジュリアン、それにローマで金属活字の製造を学んだドラードが懸命に日本語で神の言葉を伝える重要性を説いた。そして西洋印刷物の美しさに魅せられ、コレジオに通い詰め、その習得に当たった千代の父、後藤宗因が中心となってその開発に心血を注いだ。彼らに従う学生の顔ぶれの中に、トマス荒木がいた。千代の兄ミゲルもいた。学生ばかりでなく、日本語と日本文学の教師である不干斎ファビアンや、ポルトガル人修道士ベレイラもいた。
           ベレイラは人一倍トマスをかわいがった。トマスには、彼がまだ五十を越えたばかりだというのに、もう七十過ぎの老人のように見えた。日本人より巧みに日本語を話すと言われた人物で、子供の頃、リスボンの捨て子院から、東方布教に働くパードレの雑務を助けるためインドへ送られた孤児の一人だった。
           ベレイラは、刷りあがった印刷紙片を整理しながらトマスによくその時のことを話して聞かせた。リスボンの港に、見送る孤児たちが一列に並び、インドへ旅立っていく仲間のためにわずかな楽器を奏でつかの間の別れを惜しむ。送る者も、送られる者も、二度と会えないことは分かっていた。分かっていながら、「無事に帰ってこいよ」と、秘かに言葉を交わしあった。
           ベレイラは、「今でもあの光景がありありと目に浮かぶ」と、よくトマス相手に語った。そして、その話をするとき、いつも涙ぐんでいた。その後、急に「いかん、こんなことをしている暇はないぞトマス。ラテン語じゃ、おまえはラテン語を覚えねばならん。日本人の誰より、いや世界中の誰よりうまくラテン語を話すようにならねば……」
           いつも、こうして唐突にラテン語の個人教授が始まった。活字を拾いながら、また印刷紙片を整理しながら……。トマスが仲間の誰よりラテン語に通じていたのも、このベレイラの教えがあったからだし、その結果として、日本語版のテキストを収集する目的も兼ねて、トマスがローマへ送られることとなったのだ。
           彼らは日本語の活字化を模索しながら、日本語に翻訳するためのテキストとなる原本を求めていた。その第一番は、なんと言っても「聖書」である。彼らは、原マルティノや中浦ジュリアンを通じ、ローマで完全なウルガタ聖書(ラテン語聖書)の改訂が行われていることを知っている。シクストゥスの聖書だ。これを日本語に訳し、日本人の手で造った活字で出版する。
           夢は膨らんでいく。
           が、イエズス会自体は、このことに対し消極的と言うより否定的でさえあった。日本人の能力を評価し絶賛したザビエルやバリニャーノの時代は終わろうとしていた。むしろ日本人を油断できない野蛮人とする見方がイエズス会の主流となりつつあった。日本人は宣教師とするより、イルマン(同宿)として教会の下働きをさせることが向いている。彼らは野心的でキリストの教えを自らの出世のために利用する。宣教師になりたがるのもそのためであり、彼らには高邁なキリストの教えを理解できない。むしろその奥義を教えれば、野心的な彼らは、キリストの教えをゆがめ伝え、別の宗旨を創りだすことであろう。
           これは極端な考え方であり、一方でイタリア人宣教師に見られるように日本人への好意的な態度もあるにはあるが、イエズス会日本布教区自体が日本人への厳しい風潮の中にあり、日本人会員の不満が常に存在し、ポルトガル系会員と日本人会員の間に軋轢があったことも、また事実である。
           したがって彼らの夢に一役買ったのも、イエズス会ではなく裕福な日本人信徒の一人であり、長崎の朱印船貿易家でもある末次興善だった。彼は、ヨーロッパでの情報収集とその情報提供を条件に、イエズス会ではなく、末次家として、ローマへ私費留学生の派遣を申し出たのだ。

          「私と、あなたの兄上ミゲル殿が、ローマへの留学生として選ばれました。私はラテン語に精通しているという理由から、ミゲル殿は、お父上から印刷術を習得しているという理由からです。
           中浦ジュリアン殿は私に言われました。何としてもシクストゥス教皇様の聖書を日本に持ち帰ってほしいと。」
          「……ひょっとして、今まで何も分からずお預かりしておりましたが、これがその聖書でございましょうか?」
           今まで黙っていた九介が口をはさんだ。
          「そうです。私と、千代殿の兄上がローマへ渡った目的の一つが、このシクストゥス聖書を持ち帰ることでした。しかし、それは嫌でもキリスト教世界の現実と向き合うことを意味していたのです。」
          「……トマス様、ご自分の弱さを、キリスト教世界のせいにされるおつもりですか。トマス様の信は、そのようなものに動くような浅いものだったのですか。」
           千代の言葉が急に厳しいものに変わった。
           やがて長い間、諳んじてきた教理入門書「ドチリイナキリシタン」の一説が、涙と共に彼女の口からこぼれ始めた。
          「デウスパーテレの真の御子にておはします神の子、貴きビルゼンマリアの御胎内において、我らが肉体に変わらざる真の色身と、真のアニマ(魂)を受け合わせ給いて、真の人となり給うといえども、デウスにておわします御所は、変わり給うことなく、いつも同じきデウスにておわします也。このビルゼンサンタマリアより生まれ給うを名付けてゼズキリシトと申し奉る也。またこの御出世は人の業をもてのことにあらず。ただスピリツサント(聖霊)の御奇特をもて計らいたもうことなればスピリツサントより宿され給うと申し奉る也……」
          「神の子」であると同時に「人の子」でもあるイエスの誕生こそ、「父」と「子」と「聖霊」の三位一体というキリスト教独自の教義の根拠であり、これを過去のこととしてでなく現在の指針として思い浮かべ自分の生活の根拠とすること、そこからキリスト教の信仰は始まる。それはキリスト降誕を紀元〇年とし、彼の殉教と復活を通して「最後の審判」に至る世界観と時間的観念を受け入れることに他ならなかった。この思想を定着させるために、「言葉によって伝えられる教義」が必要とされ、「降誕祭(クリスマス)」や「復活祭」さらには「洗礼」や「告悔」という儀式が必要とされた。

           トマスいや了伯は、千代の声を聞きながら母を思った。母に連れられ行った高槻の教会を思った。そして自分にとってキリスト教とは何だったのかと思った。
           

          孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.06

          2009.12.11 Friday

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            長崎西勝寺
                 (キリシタン転び証文の原本が保存されている長崎市上町の西勝寺)


               第二部




            一六四五年 長崎
             九介は不思議に思った。捕らえられてもう一月になるというのに、ろくに取り調べもされない。捕らえられてすぐ絵踏みの場に引き出されたものの、絵踏みをさせられたわけでもない。
             事の発端は、長崎で一人の盗賊が捕らえられたことから始まった。男は観念したものか、四年にわたって重ねてきた盗みの数々を神妙に答えはじめた。記憶は驚くほどに鮮明で、どこで何を盗んだのか、細かな明細まではっきりと覚えており、取り調べの人間が舌を巻くほどだった。そんな盗みの記憶の中に、南蛮菓子を商う店から盗み出した奇妙な本の記憶があった。屋根裏に隠されていた包みを、何かいわく付きのお宝だと盗み出したまではよかったが、開けてみれば南蛮文字が描かれた分厚い本。
            「あれは南蛮の伴天連のもんに違いなか。どだい、あげなもんを盗んだのが間違いのはじまりじゃった。」
            男は伴天連の魔法をおそれ、処分に困って諏訪大社へ捨てた経緯をことこまかに語った。
             この申し述べによって、詮議は、男が盗みに入った南蛮菓子屋「加津佐」におよび、店の主人九介と、その妻千代がキリシタンの疑いで捕らえられるに至ったのだ。

             お白州では、ぐるぐる巻きに縛られた九介と妻の前に、一枚の銅板が置かれた。そこには、幼な子イエスを抱くマリアの姿が彫られている。その時、九介は、
            「これで終わった。もう逃げ隠れしなくてもいいんだ」と腹をくくった。
            「お姿を踏めない以上、どんなきびしいお取り調べを受けるか知れたものではない。自分にどこまで耐えられるか分からないが、女房と共に、頑張れるだけ頑張ってみよう……」
            そう思った。
             ところが不思議なことに、その日は絵踏みを強要されることもなく、そのまま牢へと移された。それも桜町の牢屋敷ではなく、立山役所の座敷牢に二人して入れられたのだ。きっと他の囚人に教えを説くのを警戒しているのだろう、それぐらいに思っていたが、あれから一月あまり、ずっとそのままなのだ。役人が取り調べに来るわけでもなく、朝夕二度の食事が運ばれてくる以外は、接触してくる者とてない。
             自分でも張りつめた気持ちが次第にゆるんでくるのが分かる。もしや、捕らえられたこと自体何かの間違いではなかったのか……。
             しかし、妻は言う。
            「お役人方は、こちらの気持ちのゆるむのを待っておられるのです。安心させておいて、急にきついお取り調べをされるに違いありませぬ。おまえ様、何があっても教えを捨ててはなりませぬぞ。夫婦して見事こらえきり、共にパライソへ参りましょうぞ。」
             こんな話をするとき、妻の口調はいつになく厳しくなる。
             九介は南蛮菓子を作らせれば、長崎でも彼の右に出る者はいない。長崎代官村山当安の家に奉公していた頃、当安から戯れにカステラづくりを教えられた。
             村山当安と言えば、持ち前の機知と南蛮菓子いわゆるカステラづくりの技で、肥前名護屋滞陣中の秀吉に取り入り、長崎外町代官の地位まで手に入れた男だ。九介は、そんな当安から手ほどきを受け、持ち前の器用さも幸いして、たちまち南蛮菓子づくりに精通するようになった。以来、当安からも重宝がられ、当安の肝いりで店を構えるまでになった。
             その時、「一家を構えるのに女房なしでは」と紹介されたのが、今の妻というわけだ。名は千代、洗礼名をカタリナという。彼女を慕う信徒衆は、「カタリナ様、カタリナ様」と、彼女のことを呼びならわしたものだ。しかし、九介にはそれが何か面はゆく、今も「千代」としか呼ばないし、自分のことも「ドミンゴ」などと呼ばれるのを嫌う。
             彼女の父は後藤宗因、町年寄り後藤家の縁戚に当たる。キリシタン全盛の頃は、南蛮渡りの印刷術を習得し、長崎にキリシタン版の印刷所を開いていた。あの頃は、長崎外町の代官から内町の乙名衆まで、町中こぞってキリシタンという状態だったが、それだけにキリシタン版の印刷をしているということで、人からは一目置かれていた。それもイエズス会の宣教師たちが、その複雑さゆえにあきらめたという日本語の活字化を、日本人の手で成功させたというのだから、いきおい宗因に長崎中の熱い目が向けられたのも当然のことだった。娘の千代も、幼い頃からキリスト教に親しみ、日本語版の「ドチリナキリシタン(公教要理)」や「サントスの御作業」などは空で暗じているほどで、このため禁教令以降は、ある日本人パードレの薦めもあって殉教の道を選ばず、夫婦共々に隠れとして密かに教えを説いた。
             九介は、そんな千代を嫁にしたのだ。後藤家という名家の出の上に、菓子屋の女房にしておくにはもったいないような美人だった。今でも五十を越えたというのに、何か若やいだ空気を漂わせ、生活を感じさせるところがない。家柄を笠に着ることもなく、普段は至って慎ましやかな質だが、ことキリシタンの教えのことになると人が変わったようになる。このことに関しては九介も頭が上がらなかった。
             たしかに千代の言うように、井上筑後守様が宗門改め役となって以来、キリシタンに対しても、かつてのような目を覆うようなお仕置きはなくなった。パードレが捕らえられても、奉行所では拘禁するだけで好きにさせておくという。殉教を覚悟していたパードレたちも次第に気がゆるみ、「ひょっとして助かるのでは」、そんな希望さえ持つようになる。そんな折りを見計らい責められると、人というものは弱いもので、少しの拷問でもまいってしまう。
             千代のいうように、二人を自由にさせているのも、そのためかも知れない。キリシタンに関しては、殉教者をつくらないこと、それこそ井上筑後守様が長崎奉行所に与えた最優先にするべき方針だった。
            「心しなければ……」と、九介は思った。

             そんなある日のことだ。役人が二人の着替えを持参し、「後刻、迎えにくるので着替えておくように……」という。
             やがて、町着に着替えた二人は牢から出され、役人に導かれるまま、奉行所の裏門を出、近くにある西勝寺という寺へと連れてこられた。役人は若い僧に二人を託すと、あろうことか奉行所へ引き返していってしまった。その僧も、事態が飲み込めず唖然としている二人を庫裡へ案内すると、「しばらくここでお待ちなされ。後ほど、了伯殿からお話があるそうです」と、言い置き去っていった。

             

            孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.05

            2009.12.10 Thursday

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              聖ペテロの墓所
               (聖ペテロの墓所/ここを囲むように歴代教皇の地下墓所や改築前の聖堂の遺構がある)



               ローマのもう一つの顔をご存じだろうか。
               我々がカソリックの聖地として、円形闘技場に代表される古代ローマの遺跡都市として、 はたまたファッションやショッピングの聖地として知る以外に、ローマは、その地下にとんでもない世界を抱えている。
               たとえば「ローマの休日」で有名な「真実の口教会」。その前柱廊壁に紀元前四世紀頃の下水口の蓋と思われるものが埋め込まれている。このレリーフの顔は、嘘をついた人間の手を噛み切るといわれ、中世に、妻や夫の貞節を試すために使われていた。
               正式には、サンタ・マリア・イン・コスメディアン教会というが、この地下に古代ローマの地下遺跡が広がっている。もともと地下にあったのでなく、古い都市の上に新しい都市が造成されたため、時代が層を成すことになってしまった。
               コロッセオの西に位置するサン・クレメント教会に至っては、その地下が三層になっており、下へ降りる都度、時代も下っていくという。
               まるで歴史の百貨店──地下二階はミトラ教神殿跡および古代住居跡、地下三階は、ネロ皇帝によって放火されたローマの都市跡でございまーす、と言ったところか。
               ローマには、我々が知らないそんな地下世界が無数に広がっており、そのいくつかが公開されているが、むろん観光ガイドには紹介されていないし、その全貌が明らかになっているわけでもない。
               ローマで地下鉄工事が進められないのは、このためだといわれているし、工事の際に、そんな遺跡にポッカリ出くわすこともあるという。
               ローマの地下迷宮、それは空間的な迷宮を意味するだけでなく、時間的な迷宮を意味するのかもしれない。
               康男が迷い込んだのも、そんな時間の迷宮だったのかも───。

              ────金縛りから解放された康男は、思わず闇雲に走り出してしまった。
              (あれは何だったんだろう。)金縛りで身動きのとれなくなったとき、まるでモザイクがかかったような映像が、康男の心の中をぎこちなく動いていった。
               棺をこの地下墓地へ運び込んでくる人たちの行列。
               聖職者と思われる人たちが、両脇に並んだテーブルに向かい合って座っている。
               顔は見えないのだが、なぜか日本人と分かる子供たちの顔。
               そんな映像が、因果関係もなく、康男の脳裏をフラッシュしていく。
               意味のない恐怖が康男にのしかかってくるのだが、身体は硬直状態で逃げることもできない。
               だから、金縛りが解けたとき、何の考えもなく思わず走り出してしまった。
               どれぐらい走ったのか分からない。
               思わず何かにつまずいた。
               低い仕切状の塀にぶつかり、その向こう側に転がり落ちたようだ。
               そこで我に返った。
              (落ち着こう。こんな闇の中を走り回ったら、どこへ行ってしまうか分からない。)
               康男は、しばらく動かずその場に座り込んでいたが、
               やがて、仕事用にとペンライトを持ち歩いていることを思い出した。
               胸ポケットへ手をやるが──
              (ない! どこへ行ったんだろう。)
               転んだとき、落としたに違いない。康男は手探りで当たりを探すが、見つからない。
               次第に焦る気持ちが高じ、またパニック状態に陥ろうとしたとき、手が小さな冷たい感触を探し当てた。
               ペンライトがこんなに明るいと思ったことはなかった。
               しかし、そのペンライトの明かりに照らし出された世界は、さきほどの観光客のために明るく装われた地下通路とは一変していた。
               そこは、地下牢のような閉ざされた空間──正面に、腐りかけた木の扉。右手横に、石の階段が上へと延びている。
               階段を上ってみると、石畳の狭い空間がひろがっており、階段はそこから直角に曲がる格好で更に上部へとつながっている。
               どうしてこんな空間に落ち込んだのかは全く見当がつかないし、つじつまも合わない。でも、この階段を上がっていきさえすれば、なんとか地上へ出られそうだ。
               そう思って上り詰めた石の部屋には、やはり、重い木の扉が立ちふさがっていた。
               押してみた。引いてみた。叩いてみた。
               そして、叫んでみたが、扉はビクともせず、当たりは物音一つせず静まりかえっていた。
               いや、違う。耳を澄ますと、かすかに水の流れる音がする。
               康男は、水音に誘われるように、最初の部屋まで降りてきてしまった。
               音は、あの腐りかけた木の扉の向こう側から聞こえてくる。
               近づいてみると、木の扉には引き手もついていない。中から開けるようにはできていないようだ。指の差し込める隙間はないかと探すのだが、
               ──あった。
               扉の一番下の角が腐っていて、そこから手を差し込める。手を差し込んでおいて、指をかけ、引っ張ってみた。力を更に入れると、バキッと音がし、いきなり扉が内側に開いた。
               水音がいきなり大きくなった。
               下水道だろうか。水が流れる片側に一人がやっと通れるような狭い通路が付いている。
               康男は、ためらいがちに、その通路を水の流れる方向に沿って歩き始めた。
               水はテヴェレ川に向かって流れていると思った。なぜか、テヴェレ川に出る直前に地上へ出られるような気がしたのだ。



               シクストゥスは新教皇就任に際し、日本の使節たちに拝謁を許し、その席上、日本の教会に対しては全面的な援助を約束した。これによってイエズス会総長アクアヴィーバやメスキータ神父の危惧は、ようやくその一端が拭われたことになる。
               四人の使節はローマの市民権を与えられ、その日の午後には教皇から勲章をいただく叙勲式も無事終了した。
               そしてローマを離れる前日、教皇への暇乞いの謁見が許された。
              シクストゥスは、使節に対し、金銀仕立ての刀剣やビロード制の帽子等の贈答品と共に大友・有馬・大村の九州諸大名への正式返書を託し、更に二十年に限り日本の教会やセミナリオに、年額六千クルザードの援助を約束した。
               いよいよ別れ際になって、日本の少年たちを代表して伊東マンショが教皇の数々の好意に礼を述べると共に、リスボンから持ち帰る印刷機と活字セットのことを語った。
              「教皇様、おかげで、私たちは印刷機を手に入れることが出来そうです。また仲間の者がリスボンで印刷術も修得しました。これで神の言葉を日本に広めていきます。いつか日本の言葉で、聖書を──イエス様の御生涯を伝えられればと思うのです。」
               その言葉が、シクストゥスの心に一つの衝撃となって走った。
               少し前まで、「聖書」はラテン語以外の言葉に翻訳されてはならなかった。それどころか、聖職者以外の者が「聖書」を書き写すことさえ禁じられていた。
               それが宗教改革を経て、ルターをはじめとするプロテスタントたちによって、「聖書」はドイツ語に翻訳され出版された。一部の人にしか伝わらないラテン語でなく、誰にでも分かる母国語で書かれた「聖書」──この「聖書」の翻訳によって、「聖書」が誰にでも読まれるようになったことはもちろんだが、それはドイツ語自体の完成にもつながっていった。
               これに引き替え、カトリック側のラテン語聖書、つまり「ウルガタ」と呼ばれる聖書は、写字生たちの誤写や写し漏れが積み重なり、それが改善されないまま今に至っており、プロテスタントたちへの対抗上からも、早急に改訂版の発行が要求されていたのだ。
              しかし他国語への翻訳ということになると、まだまだ抵抗は多い。そんな中で、シクストゥスは、少年たちの言葉から神の声を聞いたように思った。日本の少年たちの印刷にかける夢を聞きながら、シクストゥスには、その言葉の中に自分のなすべき使命を見いだせたように思えた。
              「君たちは神の言葉を日本の言葉に移したいという──
               立派な志だ。世界に神の言葉を伝えるためには、神の言葉をいつまでもラテン語だけの世界に縛っておいてはいけないのかもしれない。
               しかし、だからこそ、その元となる立派なラテン語の聖書を、今こそ完備しなければならない。完全な聖書を世に残しておくことこそ、私に与えられた仕事のように思う。
               君たち日本の少年が、その使命に気付かせてくれた。」
               そう言ってシクストゥスは、少年たちを一人ひとり抱きしめ、必ず立派な聖書を完成させることを約束したのだった。
               こうして使節一行はローマを離れた。

               それからのシクストゥスは、無我夢中だった。まるで自分の中にある何かの影を追い払うかのように、必死で働いた。
              (私は神に選ばれたのだ。ノストラダムスに選ばれたのではない──。)
               シクストゥスは、五年間という在位期間に、サンピエトロ大寺院のドーム建設を完成させ、数百人もの人足を使いオベリスクを現在のようなサンピエトロ広場の中央に移動させ、バチカン図書館を建て、更にはローマの町への給水のため、はるか二十マイルものかなたから谷と丘を抜ける水道を建設するなど、五十年分の仕事をしたと言われている。
               その中で最大の仕事が、ウルガタ聖書、つまり教会が拠り所とするラテン語版聖書の改訂作業であった。
               四世紀、ヒエロニムスの労作とされるウルガタ聖書は、時代が下るにつれ、写字生の写し違い、読み違いが増え、印刷機が登場すればしたで、印刷するごとに、版を重ねるごとに誤字誤植が多くなってきた。宗教改革が始まるや、プロテスタントは自らの改訂版聖書を持つようになり、カトリックにとっても、信頼に値するウルガタ聖書を持つことが至上命令となっていたのである。
               これをたった一人で行おうとしたのが、このシクストゥスだった。
               在位三年目、学者たちが提出した決定稿が気に入らず、シクストゥスは三百語からなる勅書を発し、学者たちを退け
              「教会が拠り所とすべき聖書に関する問題を決定するにふさわしい唯一の人間は、教皇、すなわち私である」と宣言した。
               要は学者たちの仕事が気に入らず、シクストゥスは、ほとんど一人でこの仕事に没頭し、わずか八ヶ月で改訂版を仕上げてしまった。
               こうしてできた初稿だったが、フォリオ版(全紙二つ折り版)の初校を受け取った教皇は愕然とした。今までより誤植が多くなり、しかも、聖書の章と句の配列において、おそらく不注意から、すべての章句を落としてしまっていたのだ。
               シクストゥスは時間の浪費を避けるため、みずから訂正作業にとりかかった。インクで小さな紙切れに訂正個所を書き付け、誤植の上に貼り付けていく。印刷業者は次から次と出てくる訂正に、夜を日に継いで働く竜巻スタイルを余儀なくされ、初稿完成から更に六ヶ月を要してこの聖書の改訂作業は一段落を見た。
               シクストゥス五世の大勅書は言う。
              「充溢せる使徒の力により、ここに宣告し、宣言する。この版は──主からわれわれに与えられた権威によって認可されたものであり、したがって真実かつ合法的なるものとして受け入れられねばならず、公共的ならびに私的な論争、説教、解釈において、疑問の余地なく拠り所とされねばならない」と。

               こうして聖書が完成した四カ月後の一五九〇年八月二十七日、シクストゥスは、カピトールの丘の鐘に送られ、この世を去った。天正遣欧使節の少年たち(もう少年とは言えないだろうが)が長崎に帰着した一月後のことである。
               その夜、ローマの町の人々の多くは、突然巻き起こった猛烈な嵐に、眠れぬ長い一夜を明かしたという。まさに、つむじ風と呼ばれた教皇にふさわしい幕切れではあった。 

              孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.04

              2009.12.10 Thursday

              0


                            (ローマ法王に選出されたシクストゥス5世の行列)


                 四月も後半にかかろうというのに、ローマはまだ冷たい空気に包まれていた。コンクラーベ(枢機卿会議)の会場に向かう枢機卿たちの列から白い息が立ち上っている。
                 九日間にわたる葬儀が終わり、それに引き続き新教皇を決めるための枢機卿会議が開催されようとしている。会場となるシスティナ礼拝堂に、教会の高位聖職者である枢機卿たちが集められ、枢機卿間の選挙によって新教皇が決められるのだ。会場となるシスティナ礼拝堂は新教皇が決まるまで封印され、誰一人として会場への出入りは許されない。この間バチカンは、自国の枢機卿を新教皇にという各国の思惑や個人の野望が入り乱れ、祈りの場から政治的掛け引きの場へと一変する。

                 この日、アレッサンドロ枢機卿も、コンクラーベ会場に入ろうとする枢機卿たちの列の中にいた。
                 彼が会場へ入ろうとした時だ。目の前で一人の老枢機卿が激しく咳き込み、思わず扉の前でしゃがみこんでしまった。アレッサンドロはその老人の背中を撫でながら、
                「モンタルト様、しっかりしてください。死ぬには早すぎますぞ。」
                 老人は、アレッサンドロに顔を振り向けると、苦しそうに、
                「おー、アレッサンドロ殿か。やさしいお言葉じゃが、ご覧のとおり、もういつお呼びがかかっても不思議はない状態でな。また準備もできております……」
                 老いたモンタルトには、それだけ言うのがやっとだったのか、そこまで言うと、また苦しそうに咳き込み始めた。
                 コンクラーベに集まる投票権のある四十二名の枢機卿のすべてが、この様子を見ていた。そして、皆が皆、彼が今にも血を吐いて倒れしまうのでは……そんな思いを持った。と同時に、ある一つの思いを胸に抱いた。グレゴリオ十三世の死があまりにも急すぎたのだ。日本の少年使節たちの謁見──ローマはその行事に沸きかえり、教皇は、あの華やかさ、あの明るさを、まるで一人で享受しているような喜びようだった。それが、こうもあっさり死んでしまうとは……。各国の思惑も、個人の野望も、形にするには今少しの時間と調整とが必要だった。そこで誰もが思った。
                「モンタルトなら、もう永くはないだろう。政治的な色も背景もなく、時間稼ぎには格好の存在だ……」と。

                 教皇選挙が開かれている間、サン・ピエトロ広場は新教皇の誕生を待つ人々であふれかえる。そこには会場内を支配したと同じ野心や思惑があり、少しの毒を含んだ無責任な好奇心があり、そして大小さまざまな信仰心があった。そんな中に、メスキータ神父に率いられた日本の少年たちの姿もあった。
                 メスキータは思う。最悪の場合、この選挙の結果で、イエズス会のこれまでの努力が水泡に帰すかも知れない。イエズス会の東洋布教独占に対する他修道会の批判の声は高い。特にフランシスコ会やドミニコ会の修道士たちは、布教権をめぐって何かとイエズス会と対立するところが多い。もしフランシスコ会やドミニコ会の人間が新教皇に選出された場合、イエズス会の東洋布教独占にヒビが入ることは間違いないだろう。
                 そんなメスキータの思惑をよそに、「教皇様はどんな風に選ばれるんだろう」「会場の中はどうなっているのだろう」「どんな方が教皇様に選ばれるんだろう」と、五人の少年たちの心の中は、そんな素朴な好奇心で溢れかえっていった。
                 少年たちの物問いたげな眼ざしに押され、ため息とともに、メスキータ神父が口を開いた。
                「教皇様の選挙では、枢機卿お一人お一人が一票の投票権を持ち、投票用紙に思い思いの名前を書かれます。記入された用紙は、会場の前に置かれた投票壷の中に入れられます。得票数が三分の二になるまで投票は繰り返され、その都度、投票用紙は暖炉にくべられるのです。決まらなかった場合は黒い煙を、新教皇様が決まった場合には白い煙が……ほら、あの辺りに煙抜きがあって、そこから出るように工夫されているのです。」
                 メスキータ神父の指さす方向を見ながら、
                「アレッサンドロ様も、あの会場の中におられるのですか?」
                 唐突に、中浦ジュリアンが口を開いた。教皇葬儀の時、病を押して密かに参加したジュリアンをかばい、誰にも知られることのないよう、馬車でイエズス会まで送るよう手配してくれたのがアレッサンドロ枢機卿だった。騒乱の引きがねにもなりかねなかったのに、そのことをとがめる訳でもなく、表ざたにする訳でもなく、ただ「体を大事にするように」と熱に震える体にローブを羽織らせてくれた。
                「もちろん、アレッサンドロ様もおられます。」
                「新しい教皇様には、アレッサンドロ様になってほしいなあ。」
                「ジュリアン……それは神様の決められることですよ。」
                 その時だ。「メスキータ様、メスキータ様」と呼ぶ声がある。声のほうを見ると、一人の修道僧が一通の手紙を手に「メスキータ様、リスボンのロヨラからです。リスボンからです……」と、人ゴミをかき分けながら近づいてくる。
                 手紙は、リスボンにあるサン・ロケ修道院から、日本人修道士ロヨラにより出されたものだった。
                 ロヨラも天正遣欧使節の随員としてヨーロッパの土を踏んだのだが、彼には使節の少年たちとは別の役割があった。リスボンにとどまり、その地で印刷術を習得すること。それと共に、日本へ持ちかえるべき印刷機の選択に当たること、それがロヨラに与えられた役割だった。
                 メスキータ神父が封を開けると、印刷術習得の成果を示すべく、日本語をローマ字に置き換えて印刷したロヨラの手紙が出てきた。恐らくは練習のために組んだ版を刷り上げたものだろう。
                「これはロヨラさんが印刷したものです。」
                 メスキータは、それを広げてみんなに見せた。
                 みんなは、呆然としてそれを見つめた。有馬のセミナリオでローマ字は習ったものの、それを同じ仲間が、自分の伝えたい思いを活字として印刷している。
                「なんて書いてあるんですか?」
                「マルチノ、読んでごらんなさい。」
                 メスキータの差し出す手紙を、原マルチノが受け取った。

                 読み進めるにつれてマルチノの目が輝きだした。
                「マルチノ、なんて書いてあるんだ。早く話せよ。」
                「印刷機購入の目処が着いたようです。手紙によると、商売がうまくいかずリスボンを逃げ出した印刷商がいるようで、その残された印刷機を安く買うことができるようになったとあります。それも二台、おまけに活字のセットまで三セットも手に入るようです。」
                「もう手に入ったのか?」
                「まだのようです。裁判所の手続き的なものがあるようで……それでも、私たちがリスボンに帰ってくるまでには何とかなりそうだって……。」
                「俺にも見せてくれよ。」
                 千々石ミゲルが手紙を取ろうとした時だ。あたりが騒然とし、集まった人々の中から喚声があがった。
                「白い煙が上がっています。」
                「新しい教皇様が決まったんだ……!」

                 リスボンの印刷業者は、商売がうまくいかず逃げ出したわけではなかった。異端の密告で工房が捜索され、印刷原稿の中からルターの著「キリスト者の自由」のラテン語原稿が発見されたのだ。七十年前、宗教改革の発端となった問題の書であり、このため印刷の親方や逃げ遅れた職人たちが捕らえられ、厳しい拷問の末、異端のかどで火あぶりにされた。
                 ところで日本の少年たちが喜んでいる問題の印刷機は、この時、工房から没収された印刷機で、親方や職人たちと共に燃やされる筈だったのを、イエズス会の働きかけで日本に渡ることになったものだ。
                 もちろん日本の少年たちは、そんなことは知るよしもない。今の少年たちにとって大事なことは、一体、誰が新教皇としてあのバルコニーに顔を出すのか……そのことだけだった。サン・ピエトロ広場に集まった人たちの好奇心の渦の中では、それ以外のことはすべてが無意味に思われた。

                 しかし、煙が出始めてもう一時間近くにもなるというのに、中央バルコニーはまだ固く閉ざされている。あの煙は間違いだったのか。ひょっとして黒い煙が光の加減で白く見えただけなのかも。
                 長い一日が終わろうとしている。陽もようやく翳りだし、同じように人々の好奇心にも陰りが差しだした頃、やっとサン・ピエトロ大聖堂の中央バルコニーの窓が開かれた。
                 皆の視線が中央バルコニーに集まる。
                「アレッサンドロ様だ!」
                 中浦ジュリアンが、うれしそうに声をあげた。
                 バルコニーに現れたのは、アレッサンドロ枢機卿だった。彼は集まった人たちを見渡し静寂が訪れるのを待つ。
                 やがて静まり返ったサン・ピエトロ広場に、アレッサンドロのよく通るラテン語の声が響き渡った。
                「良い知らせがあります。第二二七代の教皇が生まれました。」
                 その瞬間、座っていた人々は立ち上り、拍手がわき起こった。修道女たちは互いに喜びの抱擁を交わし、歓声が広場いっぱいにこだました。そして七時二十三分、赤いマントをまとった枢機卿団と、儀典長の司教に付き添われて、新教皇がバルコニーに姿を現わした。
                 フランシスコ会のモンタルトだ。
                 今にも死ぬかと思われていたモンタルトが新教皇に選ばれた。時間稼ぎに選ばれたことは誰の目にも明らかだった。ところが……である。新教皇に選ばれた瞬間、今にも死にそうに腰を屈めていたモンタルトが、背筋を伸ばし大きな声を張りあげ「テ・デウム」を唄い神に感謝しはじめた。先程までの様子とは打って変わって、水を得た魚のように、死にそうなはずのモンタルト枢機卿が、活力に満ちあふれた新ローマ教皇としてよみがえったのだ。
                 集まった枢機卿たちは思った。モンタルトにいっぱい食わされたと……。

                 真新しい白の帽子と白のマントも鮮やかに、モンタルトは、新教皇シクストゥス五世として、やさしい微笑を浮かべながら集まった人々に教皇として最初の祝福を与えた。大聖堂の鐘が鳴り始め、それを合図のようにローマ市内の約四〇〇近くの教会の鐘がいっせいに喜びを知らせ、祝った。
                 聖なるつむじ風と呼ばれたシクストゥス五世の改革が、今、始まろうとしていた。



                 あれはモンタルト(シクストゥス五世)が、まだ二十二才の頃だ。彼がシチリアの田舎道を、他のフランシスコ会士たちと列をなして歩いていると、正面から一人の男が近づいてくる。男は列をかき分けるようにして進んでくると、いったい何事かといぶかるモンタルトの前にひざまずき、
                「あなたは、フェリーチェ・ペレッティ・ダ・モンタルト、アンコー村の近くで生まれ、羊飼いをしておられた方……」
                 モンタルトは、男が、てっきり自分の子供の頃を知る故郷の人間だと思った。
                「どなただったでしょうか? でも、どなたにせよ、まずは自分のような若輩の修道士にひざまずくのはやめてください。」
                「いいえ、聖下の前ではひざまずかないわけにはまいりません。あなた様は、やがてローマ教皇の座にお就きになる方……」
                「………………」
                「いぶかるのもごもっともです。私の名は、ミッシェル・ド・ノストラダムス、やがてわが名も聖下の御前に届くでありましょう。」
                 男は、それだけ言うと、うやうやしくその場から離れていった。
                 ノストラダムスが、トゥールーズの異端審問所からの出頭命令を無視し、フランスからイタリアへと放浪している最中(さなか)の出来事であった。これが、ノストラダムスとシクストゥスの、最初で最後の出会いである。
                 ……が、この日から、モンタルトの心に大きな野心の灯がともることとなり、その野心が疼くたびにノストラダムスの顔が浮かび上がってくることともなった。
                 一つの予言によって、モンタルトの心の中にノストラダムスが住み着いてしまったのかも知れない。
                 そして今、その野心がかなえられた。
                 ノストラダムスの名もまた、世に現れ始めていた。メディチ家からフランスへと嫁いだカトリーヌ・ド・メディチスの信任あつい予言者として……。

                 戴冠式も無事終わり、今日は日本の少年たちが別れの挨拶にくることになっている。シクストゥスは思った。
                「こうしてローマ教皇になれたのは、この私が神に選ばれたからだ。決してあの男の予言のせいなどではない。神が私を必要としたからこそ、私は、ローマ教皇の座に就いた。まして異端の臭いをぷんぷん漂わす、あのノストラダムスとは関係のないことだ」と。
                「私は神に選ばれたのだ。神は、私に仕事をせよとおっしゃっている。おまえにしかできない仕事をやり遂げるのだと語っておられる。神が私を必要としておられるのだ……」

                「教皇様」
                「…………」
                「教皇様、日本の使節たちが別れの挨拶に参上いたしました。」
                 侍従の言葉が、シクストゥスの思いに終止符を打った。 

                孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.03

                2009.12.09 Wednesday

                0

                  スイス衛兵隊
                    (ミケランジェロ デザインのユニフォームに身を固めた教皇庁常備軍 スイス衛兵隊)



                  一九六八年四月 ローマ
                   後ろの席に座っている藤プロデューサーが体を乗り出し、康男をつついた。
                  「オイ、日本語の説明がついてるはずじゃなかったのか!」
                   バスの前では、明るい紺のブレザーを着込んだ青年が、陽気な英語を振りまいている。
                   時折起こる笑い声。康男の回りでは日本人ガイドだけが笑っている。
                   康男と藤プロデューサーが同時に日本人ガイドを睨み付けた。
                   日本人ガイドは、肩をすくめるばかり。
                  「なにせ、イタリアは日本のようにきっちり行きませんので……」
                  「次の停車地で確認してよ。日本語のガイド付きは、英語の倍額料金だよ。」
                   康男がブツブツ言う。藤プロデューサーも何か言いかけたが、軽い舌打ちだけを残して自分の席に戻った。

                   やがてバスはサン・ピエトロ寺院へと到着した。

                   バスがバチカンの専用駐車場に停車するや、康男は日本人グループの先頭をきって降りたった。
                   と……いきなり後ろから
                  「日本語コースの方ですね?」という女性の声が追いかけてくる。
                   振り向くと、陽気そうなイタリア人女性がこちらに近づいてくる。
                  「あなた方、間違えました。イングリッシュコースのバスに乗りました。」
                   そして後ろのバスを指さし「これからは、あのバスに乗ってください。ほら、日本語でローマ・バチカンコースとフロントガラスに張り紙がしてあるバスです。」
                   達者な日本語だ。
                   彼女の背後には、新婚旅行だろうか、若い日本人カップルや、勇敢な日本のおばさんたちのグループが、しっかりと固まって控えている。
                   なるほど、これで一つ問題が解決したわけだ。
                   早速、康男等は、その女性の案内に従ってサンピエトロ寺院のエレベーターに乗り屋上まで上がった。サンピエトロからローマの街を一望すると、その景観にクリスチャンならずとも胸が熱くなる。中へ入れば入ったで、ミケランジェロからベルニーニに受け継がれ完成したドゥオーモ内陣の迫力に直撃される。そのあまりの存在感の前に、ガイドの説明も薄っぺらに聞こえる。
                   上を見れば巨大なドゥオーモが覆い被さり、下を見れば広大な礼拝堂を、豆粒のように見える観光客の群が行き来している。
                  (ローマだ、俺は今、かつての世界の中心にいるんだ!)
                   康男はドゥオーモを囲む回廊を一巡すると、クラクラする頭を一振りし、高ぶる心に突き動かされるままに、遙か下に広がる礼拝堂に向かって駆け降りていった。

                   いち早く下へたどり着いた康男は、礼拝堂の片隅に小さな入り口が開いているのを見つけた。見れば地下へ降りていくコースのようで、先ほど一緒だったアメリカ人観光客たちが、整列して中へと吸い込まれていく。
                   ローマ教皇たちが眠るバチカンの地下墓地へとつながっているのだ。
                   康男は、その光景に足がすくむ思いがした。
                  (これって何だよ。イヤだよ、行きたくないよ。まるで夢と同じじゃないか。行きたくないよ。)
                   康男の足は、彼の思いとは裏腹に、アメリカ人観光客の後ろに付くや、地下墓地へと向かって早くも歩き始めていた。

                   降りきったところから、かつて、このバチカンの主であった教皇たちの石棺が通路の片側脇に続いている。康男にはどれが誰のものなのか分かる術もない。中に眠る教皇の姿を蓋にレリーフした豪華な石棺があるかと思えば、飾りも何もない粗末な石棺もある。石壁には、ここがかつてローマの闘技場であったことを示す表示があり、ところどころ、その当時のままの石壁を残して展示している箇所もあった。

                   いきなり照明が消えた。
                   キャーッという叫びは、アメリカ人女性だろうか。別な方角からは「ドントムーブ!」とか、「ステイクール!」というアメリカ人男性の声が響いてくる。
                   ……停電だろうか。
                   しかし、こんな闇は初めてだ。墨を流したように、まるで何も見えない。
                  「ドントムーブ」なんて言われなくたって、こんな地下迷宮で灯りを奪われたら、動こうにも動けるわけがない。動くこと自体が恐怖なのだから……。
                   康男は金縛りにでもあったように、ひたすらじっとしていた。動けば、自分も含めて何もかもが消えてしまうようで、訳もわからず怖かったのだ。

                   どれぐらいそうしていただろうか。
                   気が付けば、いつの間にか、ざわめきが消えている。
                   光と一緒に音までが深い闇の底に引きずり込まれてしまったかのようだ。
                   音ばかりか、周りからは人の気配までが消えてしまっていた。
                   闇の底にただ一人取り残されたような感覚。
                  ──怖い、本当に怖い。
                   声を出したいのに、喉がカラカラに干上がったみたいで声を出すことも出来ない。
                   こんなことなら、おとなしくみんなと一緒にいれば良かった。

                   ……その頃、上の礼拝堂では(と言っても、三八〇年前のことだが)、グレゴリオ一三世の葬儀の準備が着々と進んでいた。


                  一五八五年四月 サン・ピエトロ寺院
                   教皇の遺体は、教皇庁式部官の指示で、サラ・デル・パパガッロ(おうむの部屋)と呼ばれる一室に移された。遺体は、ここで近侍の人たちの手で洗われ、香り高い香水で清められる。ついで高価な香油と香膏とが塗られ、そのうえで、教皇の喪服である赤い祭服が着せられる。肩には、パリウムといわれる、権威のシンボルである黒い十字架の付いた白い麻布の肩かけ。頭にはミトラをかぶり、三枚の赤い枕が使われる。すべての準備が整うと、遺体は、棺台に載せられ、教皇礼拝堂に運ばれる。礼拝堂では、参集した聖職者たちによって祈祷が捧げられ、その後、さらに大きな行列がつくられ、遺骸は盛儀を尽くしてサンピエトロ寺院へ移されるのだ。
                   ここでも祈祷や行願の儀が行われ、遺骸は、中央祭壇の前に柩から出されて安置される。一般の人々に、拝謁し、恭敬し、接吻することを許すためだ。そして、この日から九日間、サンピエトロ寺院は、あらゆる場所が、グレゴリオ十三世の紋章で飾り立てられる。寺院内には、故人を顕彰する祈念碑のような墓標が建てられ、その周囲には、式部官および一般の官職人が、長い大礼服や喪服を着用して立つ。そのほか、参列するすべての人々に、真っ白な蝋で作られた炬火が配られ、灯がともされる。葬儀は、すべてが厳粛で粛々として進められ、その様子は神秘的ですらあった。
                   しかし、見かけとは逆に、関係者たちの心は、これからの九日間を思うと一時たりとも休まることがなかった。たまりたまった民衆の不満がいつ爆発するか、その時、民衆は暴徒と化し、バチカン宮殿の略奪者となるだろう。聖職者たちは、ただひたすら事なきを念じながら、式を進行することとなる。

                   葬儀の第一日目、教皇の崩御以来、スイスの衛兵に守られ閉じられてきた大聖堂の扉が、一般告別のために開けられた。
                   青・黄・赤のユニフォームを着用し、まるでおとぎ話の中から抜け出てきたかのようなスイスの衛兵達の表情がこわばる。彼らは、その見かけとは逆に、世界でもっとも獰猛と言われた傭兵集団だ。スイス傭兵の残忍さは、たとえば腕輪を強奪するのに、相手を脅して腕輪をはずさせる等という回りくどいことをせず、いきなり相手の腕ごと切り落としてしまう。そんな噂が立つほど、スイス傭兵のやり口は荒っぽかった。国の貧しさから来るものだろうが、またそれだけに勇猛で命を惜しむことがない。この勇猛さが買われ、ユリウス二世の頃からヴァチカンの衛兵に採用され、以来代々、スイス傭兵が、教皇の身辺警護の任に当たることとなった。ちなみに、その派手な制服はミケランジェロによってデザインされたもので、制服の青・黄・赤はメディチ家の色を表していると言われている。
                   しかし、そんなスイスの衛兵たちも、この日ばかりは浮き足立って見え、合唱隊の歌声も心なしか駆け足気味に聞こえる。

                   やがて、一人の枢機卿が中央祭壇に立った。
                   グレゴリウス十三世の追悼演説を行うためだ。
                   彼の名は、アレッサンドロ・オッタヴィアーノ・デ・メディチ──この時、四十九才。初代フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の子と言われるが、父に似ずその闊達な性質は、むしろ大叔父にあたるロレンツォ豪華王を思わせるものがある。特に外交に力を発揮し、グレゴリオ十三世の時代、ローマ駐在フィレンツェ大使としてフィレンツェとバチカンを結ぶ絆として活躍したばかりか、グレゴリオの教皇特使として新旧キリスト教の対立に揺れるフランスに派遣され、ローマ教会の秩序を回復することに力を注いだ。この時、同じメディチ家出身のフランス皇后カトリーヌ・ド・メディチの信任を得た。
                   やがてバチカンに戻ってきた彼の存在は、いわば片方に大国フランスの思惑、片方に都市国家フィレンツェの意向を受け、本人の意思に関わらず、陰に陽に教皇庁に大きな影響力を持つ存在となっていた。

                   アレッサンドロは思った。
                  「随分と集まったものだ。しかし、ここに教皇の死を悲しんでいる人間がどれほどいるだろうか。教皇に近い人間は、野心や保身の心を隠しこの葬儀に参列しているし、教皇から遠い民衆は、何か事の起こるのを心待ちにしてここに集っている。」
                   彼は、グレゴリオの事績を語りながら参列者の顔ぶれを見渡した。今朝ほどまでがらんとしていたサン・ピエトロの巨大な空間が、今やおびただしい人の波で埋め尽くされている。まず式部官はじめ各国使節や貴族たちの見知った顔ぶれが占め、次第に名も知らぬ民衆がそのかたまりに混じり、後ろのほうは顔も判然としない人の群が、聖堂内から扉の外のサンピエトロ広場へと溢れだしている。
                   アレッサンドロは参列者席の前方に目をやった。そこには正装した日本の少年たちの姿があった。少年たちはメスキータ神父に伴われ、ちょうど式部官たちの列から使節団の列へと移っていくあたりに沈鬱そうな表情で直立していた。
                  「少なくとも、教皇の死を悼む人間がここにはいた……」
                   アレッサンドロは思った。そう思って四人の少年たちのうち一人が欠けていることに気付いた。
                  「ジュリアンは、まだよくないのだろうか?」

                   彼が最初に日本の少年たちと出会ったのは、フィレンツェの名門メディチ家が、少年たちの歓迎舞踏会を開いたその席上だった。
                   少年使節の一行がヨーロッパの土を踏んだのは一五八四年八月のこと。二年半に及ぶ旅程を経て、使節一行はリスボンに第一歩を記し、その後、各地で歓迎を受けながら陸路イベリア半島を横断、アリカンテからは船で地中海を越え、八五年三月、ようやくイタリアはリボルノ港へと上陸した。
                   ところで当時イタリアは、北にベネツィア共和国とミラノ公国、南にナポリ王国とローマ教皇領、そして、その中央にフィレンツェ=トスカナ公国が位置しており、フィレンツェの地理的な位置は、そのまま政治的な位置を表していた。イタリアにおける都市国家間の対立は、スペインやフランス、それにイギリスという大国の出現で緩和に向かっていたとはいえ、イタリアにおけるフィレンツェは、北と南のそれぞれの「扇の要」とも言える役割を果たしており、そのフィレンツェを動かしているのが他ならぬメディチ家であった。
                   かつてコジモ・デ・メディチによって隆盛を見たフィレンツェとメディチ家であったが、数々の政変を経て、今やフィレンツェ共和国もトスカナ公国となり、その君主もメディチ家直系からコジモの弟脈へと移っていた。
                   アレッサンドロは、そんなトスカナ公国が生まれようとする激動期、初代フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチの私生児として生まれた。母親は分からず、父は独裁と性的乱行の末に暗殺された。アレッサンドロの私生児たちを引き取ったのは、ハプスブルグから嫁いできたマルガレーテ公妃だが、彼女は未だ十六才で未亡人となり、やがて父カルル五世に言われるまま、オッタビアーノ・ファルネーゼと再婚するに至った。
                   その際、前夫アレッサンドロの残した何人かの私生児を教会に預けたのだが、まだ二才になったばかりの彼だけは、アレッサンドロ・オッタビアーノ・デ・メディチというたいそうな名前と共にフィレンツェの育児院に預けられることとなった。彼の素性を表す名前を与えること、それが、十六才の少女に唯一できる愛情であった。
                   そして今、トスカナ公国はフランチェスコ一世の時代を迎え、アレッサンドロも枢機卿として、ローマとフィレンツェの橋渡しをする存在となっている。
                   この時期、少年使節一行がイタリアに上陸したのだ。
                   使節一行はリボルノへ到着するや、このフランチェスコ一世によってピサに招待された。バリニャーノ神父は、使節一行が教会以外の施設に泊まることを堅く禁じていたが、フランチェスコ一世はそれを認めず、自らの宮殿に少年たちを宿泊させ、
                  「かくのごとき日本のプリンス、かくのごときキリスト教徒をイタリア全王侯中で最初に迎え得ることは、デウスの格別の恩寵である」と、自ら宮殿の階段を中程まで降りて出迎えるほどの歓迎ぶりであった。あげくは歓迎の舞踏会やら、歓迎の鷹狩りやらと、「ローマへ一刻も早く」という教皇の意向に反し、ピサに五泊、フィレンツェに七泊という思わぬ長逗留となってしまった。その際、アレッサンドロは、ローマ教皇とフランチェスコ一世、両方の意向を受け、ピサでの歓迎舞踏会に出席することになったのだ。

                   今、グレゴリオ一三世の葬儀の席で、こうして少年たちの顔を見ていると、あの舞踏会のおり、ビアンカ公妃のリードで顔を真っ赤にして踊った少年たちの顔が思い出される。アレッサンドロは、口許がゆるむのを隠すかのように、グレゴリオ一三世がいかに東洋への布教に力を注いだかを説き、「その努力の初穂こそ、ここで教皇の死を悼む純粋な日本の少年たちなのです」と、改めて少年たちを聴衆に紹介し、言葉を結んだ。
                   と、その時だ。聖堂の入り口で小さないざこざが認められた。
                   アンブロンシェと呼ばれる黒の喪服にすっぽりと身を包んだ、いかにも不気味な二人連れが、何とか聖堂内に入ろうとして、前にいた職人風の男と諍いを起こしたようだ。職人風の男は、激しく抗議するが、二人の男には聞こえないのか、それとも意味が分からないのか、顔を見合わせるばかり。男は無視されたと思い、声を荒げ、腹立ちまぎれに一人の頭巾を外そうとした。男は必死で頭巾を押さえた。
                   ……が、一瞬、頭巾の下に見慣れぬ東洋人の顔が現れた。
                   驚いた職人の動きが止まった。
                   それは修道院で休んでいるはずの中浦ジュリアンとドラード少年の二人だった。ジュリアンには教皇の死も、葬儀のことも伏せられていた。知ればどんな無理をしてでも参加するに違いない。少年たち一行は、幸い熱のため寝込んでいるジュリアンを残し、葬儀の席へと赴いたのだった。
                   しかし、まわりの様子から、ジュリアンはおおよそのことを察していた。察していて気づかない振りをしていた。みんなに自分のことで煩わせるのを極力避けたかったし、メスキータ神父に話しても反対されるのが分かっていたから……。
                  「ジュリアン、最後まであなたの身体を案じていたグレゴリオ法王様の気持ちをどう考えているのですか。そんな身体で無理に葬儀へ出ることが法王様の心にかなうことでしょうか?」
                  「僕は侍だ。グレゴリオ様のご恩には、自分の命に代えても応えねばならない。メスキータ様には、侍の心が分からないんだ。」
                   ジュリアンは、みんなが出かけてしまうと、看病のため残ったドラードを問いつめ葬儀のことを確認した。
                  「ドラード、お願いだ。僕をサン・ピエトロへ連れていってほしいんだ。どんなことをしても僕はグレゴリオ様の葬儀には出なければいけない。メスキータ様には分かってもらえないと思うけど、同じ日本人の君には分かるはずだ……」
                   ドラードは、葬儀のため人気のなくなったイエズスス会本部を探し回り、聖具室から二着のアンブロシェ(顔まで覆う黒の喪服)を見つけてきた。おそらく宗教劇にでも使うために用意されたものだろう。これに身を包めば、日本人だということは分からない。ドラードは、足取りのおぼつかないジュリアンを抱えるようにして、この葬儀場に望んだのだった。
                   サン・ピエトロの入り口は人であふれかえっていた。ドラードは何としてもジュリアンを聖堂の中へ入れてやりたかった。死に神を思わせる黒い二つの塊が、必死でサン・ピエトロの入り口を目指す。そんな不気味な二人連れに恐れをなし、人々は道をあけ、大慌てで十字を切った。こうして二人は何とか聖堂の中へと入ることができたのだが、そのとき、この事件は起こった。

                   あわてて頭巾をかぶり直したジュリアンは、ドラードと二人してその場から離れようとする。
                   それをつかまえようとする男。
                   頭巾の中に隠された幼い顔に安心したのか、同情したように人々が叫ぶ。
                  「放してやれーッ」
                   別の声が上がった。
                  「何が不謹慎だ。利いた風なこと言いやがって!」
                  「グレゴリオの野郎こそ不謹慎だよ!」
                  「そうとも、あんな教皇死んじまってサバサバするよ。地獄に堕ちりゃいいんだ。客取らずに、あたいらにどうして生きろって言うんだよ。教会の奴ら、陰でコソコソあたいらのこと抱くくせに……何が不道徳だよーッ」
                  「そうだ、そうだ……」
                   ジュリアンのことが引き金となり、サンピエトロの入り口付近が騒然としはじめた。あわや暴動に発展しかねない勢いだったが、しかし、それも一時のことだった。アレッサンドロ枢機卿の手配により、教皇常備軍であるスイスの衛兵が随所に配置され、騒ぎの原因となった人物はたちどころに隔離するよう手配が取られていた。
                  「騒ぎを大きくしてはならない。」
                  「騒ぎを起こした者、騒ぎを煽動しようとする者は、すぐ他の参列者から切り離すこと。」
                   それが、アレッサンドロ枢機卿がスイス衛兵隊に与えた指示だった。そのために衛兵たちは聖堂内の側廊や四十五カ所に及ぶ祭壇ぞいに配置され、聖堂内のどこで騒ぎが起こっても、すぐに対処できる手はずになっていた。
                   アレッサンドロ枢機卿の手配が功を奏し、この小さないざこざを除いて九日間の葬儀期間中、ついに暴動らしい暴動も起こらず、グレゴリオ一三世の遺体は、無事サンピエトロの地下埋葬所へ安置された。またスイス衛兵隊に保護されたジュリアンとドラードの二人は、アレッサンドロ枢機卿の配慮により、イエズス会修道院へ無事戻され、すべてがなかったこととして処理された。そればかりか、ジュリアンの気持ちを察し、グレゴリオ一三世の葬儀には、日本からの使節全員が参加したことが、公式記録にしたためられた。
                   
                   事件のあった夜、ドラードはジュリアンにそっと囁いた。
                  「ローマの人は、教皇様を信じちゃいないんだね……」

                  その頃、グレゴリオ一三世の棺が、この地下墓所に運び込まれ、身動きのとれない康男の前を音もなく通り過ぎていった。

                   

                  孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.02

                  2009.12.09 Wednesday

                  0

                    人文学者と研究室
                                  (人文学者−ユマニスト−と、その研究室)



                    一五八五年 ローマ
                     この年の四月、バチカンは教皇宮殿の最上階で、一人の老人が息を引き取ろうとしていた。老人は思った。
                    「……八十四年か、思えばよく生きたものだ。ローマ教皇となって十三年、神の僕(しもべ)として、またキリスト教世界の頂点に立って、自分なりにやることはやったと思う。だが本当にこれでよかったのだろうか……。」

                     教皇は、枕許に集まった枢機卿たちを前に、か細いがしっかりした声で、「自分のようなか弱い人間が、この重任を帯び、今日の今日まで心が揺れない日はなかった。ここに集まった枢機卿の方々にお願いしたい。どうか、自分に対して何か気に障ることがあっても、すべてを心底からぬぐい去り、死を相手に最後の戦いに苦しむ私のために祈ってほしい……」。
                     そして最後に、キリスト教共和国を枢機卿らに託した。
                    「私が息を引き取った後は、どんな場合にもその職責を全うするような人間を教皇に選んでほしい」と。
                     こうして老人は、苦しいながらも、なんとか教皇としての最後の役割を果たし終え、安心したかのように静かに目を閉じた。
                     その二時間後、グレゴリウス十三世の崩御が伝えられた。教皇は最後に「日本の少年たちはどうしているだろう」と、実子ソリア公につぶやくように囁き、息絶えたという。老人は、十三年にわたるローマ教皇としての役割から、ようやく解放されたのだ。

                     教皇が崩御された。控えの部屋に詰めかけた関係者たちにそのことが伝えられるや、人々の心の中に様々な思惑が駆けめぐった。その多くは次の教皇が誰になるかということに関係していたが、中でもイエズス会総長アクアヴィーバの思いは複雑だった。
                     彼が三十七才でイエズス会総長となり、その就任挨拶にローマ教皇を訪ねたとき、グレゴリオ十三世は叫んだ。「若すぎる」と。
                     これに対しアクアヴィーバは答えたものだ。
                    「聖下、ご安心下さい。その点に関しては一年ごとにあらためていきます」。
                     グレゴリオはアクアヴィーバの機知を愛した。以来、教皇のイエズス会に対する態度は前にも増して好意的なものとなった。そして四年、日本からの少年使節を迎えるに当たって、教皇のイエズス会への期待と信頼はピークを迎え、この年の一月には、イエズス会に日本布教の独占が許されるに至った。
                     そのグレゴリウス教皇が、あっけなくこの世を去ってしまった。

                     日本から来た子供たちを葬儀に立ち会わせるかどうか。
                     伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。それに付き添いのドラード少年。
                     アクアヴィーバの心の中に、五人の少年たちの顔が浮かんだ。長旅の疲れから病に臥せっている中浦ジュリアン、その看病をしているドラード少年。また今頃は、メスキータ神父に引率されローマの七つの聖堂を巡歴しているだろう三人の少年たち。彼らはこの訃報をどうとらえるだろうか。

                     少年たちは、遠く日本からメスキータ神父に率いられ、日本の使節団としてこのローマへとやってきた。もっとも、使節と言うより、イエズス会が東洋布教の成果をアピールするために仕組んだ一大デモンストレーションと言ったほうが適切ではあったろうが……。
                     当時、日本にはまだ統一政権が確立していない。名門ではあるが、落ちぶれた大名の子供たちを日本の貴公子に仕立て上げ、日本にヨーロッパの文化とその力を紹介するとともに、ローマに対しては、イエズス会の東洋での布教活動の成果を認めさせ布教のための資金援助をあおぐ。
                     天正遣欧使節は、イエズス会日本巡察士バリニャーノ神父によって、このようにして計画され、大友宗麟ら九州諸大名を名目人に、当時、ようやく日本の中央を制圧した戦国大名織田信長の支援を得て実行に移された。
                     ローマのアクアヴィーバ、日本のバリニャーノ、この二人の働きにより計画は見事に成功した。教皇グレゴリウス十三世は、日本での初穂にことのほか満足し、少年使節たちを公式謁見し、その席上、日本布教に対する全面的援助を約束した。そればかりか、病に倒れた副使・中浦ジュリアンの身体をことのほか案じ、彼だけを非公式に謁見し、その労をねぎらったほどである。
                     が、その喜びもつかの間、教皇が危篤に陥り、あっという間に他界してしまった。
                     次の教皇は誰か? 次教皇が誰になるにせよ、果たしてイエズス会の日本布教に対し同じような援助を取り付けることができるかどうか。イエズス会が日本布教を独占していることに批判の声も強い。これを機に、他修道会が動き出すことは間違いないだろう。しかし、いずれにせよ少年使節たちを葬儀に列席させることは、教皇庁の日本への布教援助を再確認してもらう意味からも、必要なアピールには違いない。
                     しかし一方で、日本布教区と少年たちのこれからを思えば、参加させるべきではない──そんな思いも出てくる。バリニャーノ神父がメスキータに厳しく注意したことも「見るべきものだけを見せよ。好ましくないものは見せるべきではない」とのことであった。 この葬儀、何が起こるか知れたものではない。
                     アクアヴィーバの不安は、故なきものではなかった。

                     この頃、ローマは反動宗教改革のまっただ中にある。かつて、ルネッサンスという巨大なうねりが、ヨーロッパ中を飲み込み、神に頼るしかなかった中世の無力な人間が、やがて、人の力を信じ、その力を誇るようにさえなった。神の荘厳を現せるのは、他ならぬ人間の力だと、建築や芸術に力を競い、あげくは自然の神秘を探り、その中に神の秘密をも解き明かそうとした。結果、占星術や錬金術、魔術の研究が盛んとなり、人々はギリシャの哲学を求め、貪欲にユダヤやエジプトの神秘主義をも吸収しようとした。
                     俗に言う人文主義者(ユマニスト)たちの登場である。
                     この人文主義の流れから、やがて宗教改革が芽を出すに至る。教会の腐敗を攻撃し、人は教会によってではなく、神の言葉「聖書」によってのみ救われるのだと、当時発明された印刷機と印刷術によって、ルターはその主張を展開していった。宗教改革が、カソリック側からの弾圧を弾き返し、当時のヨーロッパ世界に浸透していった背景には、この印刷術の普及を無視することはできない。もし印刷機が発明されていなければ、ルターは早晩、異端者として火炙りになっていたことであろう。
                     さて、カソリック側からも、この宗教改革に対抗する、いわば反動宗教改革ともいうべき動きが起こってくる。ルネッサンス時代のローマ教皇や枢機卿たちの中には、ルネッサンス芸術の愛好家やパトロンが数多く存在し、ユマニストを自称する研究者たちさえ存在した。それが十六世紀なかば、反動宗教改革の時代を迎えるや、一転して暗い色調が漂い始める。
                     一五五五年ローマ教皇となったパウルス四世から始まり、ピウス四世、ピウス五世、そしてグレゴリウス十三世と、どの教皇をとっても、厳格にして頑固、生真面目な正当信仰の遵奉者であり、ローマ異端審問所の絶対的な支持者たちばかりだ。
                     なかでもパウルス四世は、「美よりも徳こそが教皇たる者の関心事であるべきだ」として、その治世には、性的不行跡はこのうえない残忍さで罰せられ、男色者は生きながら焚刑に処せられた。この厳格さが、ローマの市民たちにひどく嫌われ、死去に際しては、教皇の彫像は頭部が叩き落とされ街路を引きずり回されたあげく、テヴェレ川に投げ込まれたという。また、異端審問の行き過ぎを非難されていたドミニコ修道会は凶暴な群衆によって襲撃を受けた。
                     後に続く教皇たちも似たり寄ったり、ピウス五世は無神論者の追及と処罰に熱心で、ローマ異端審問所の大審問官から教皇に就いた人物で、彼の教皇就任後、異端審問所の権限は増大、その活動範囲は拡大して、その支配がおよばないところは皆無となった。
                     幸い、ピウス五世の葬儀は事なきを得たものの、ローマ市民の不満が、いつ、はけ口を求めてあふれ出すか知れたものではない。彫像が破壊されるなどましなほうで、遺骸を放り出された教皇さえいたぐらいだ。
                     そこでグレゴリウスはといえば、一五八二年のグレゴリオ暦の制定や、また教会の世界的伝道の功績者(ローマ学院の創立)であったとはいえ、パウルスに勝るとも劣らない正当信仰の遵奉者ぶりであり、決して市民の評判は芳しくない。それより何より、ピウス四世以来二十五年間、何もなかったことのほうが不気味なのだ。
                     今回の葬儀では、何が起こるか知れたものではない。その席へ日本の少年たちを立たせて、その席上でもし不測の事態が起これば……アクアヴィーバは思った。日本の少年たちを、この時期、ヨーロッパに連れて来たことが果たしてよかったのかどうか。宗教改革を巡ってヨーロッパは揺れに揺れている。新教側はカソリック教徒を火炙りに、カソリック側はプロテスタントを火炙りにする。フランスではユグノー教徒の大虐殺(聖バルテルミーの虐殺)が起こり、グレゴリウスなどは、それを記念してメダルまで出し、大声でテ・デウム(感謝の聖歌)まで歌い出す始末。そんな中、ローマの市民たちは、宗教的正義などというものは、端から信じていない。厳しすぎる教皇庁に対し不満や反発を募らせるばかりだ。
                     少年たちを葬儀の場に立たせることは、一歩間違えばキリスト教世界が抱える矛盾に、少年たちを直面させることになるかも知れない。バリニャーノは言った。
                    「見るべきものだけを見せよ」と……。 

                    孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.01

                    2009.12.08 Tuesday

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                      ポポロ広場
                                       (ポポロ広場 オベリスク台座と噴水)

                      ■ プロローグ

                       一六四一年長崎
                       男の額にふわりと一片の雪が舞い降りた。雪は、淡く冷たい感触だけを残し消えていった。
                       男はふと足を止め、小脇に油紙の包みを抱えたまま夜空を見上げた。深夜のこととて人影もなく、すべての音や気配も絶え、墨を流したような空に、白い小さな点が次第に数を増してくる。目をこらしてじっと見ていると、まるで雪が落ちてくるというよりも、自分が夜空に吸い上げられていくような感覚にとらわれる。

                       どれくらいそうしていただろうか……。
                       こうしていると、すべてがとるにも足らぬ心配事のように思えてくるのだが……
                       しかし、この包み、いったい、どう処分したものだろう。
                       男の心の中にいつの間にか、ちっぽけで卑小な現実がムクムクとわき上がってくる。

                       男が盗みの罪で壱岐へ島流しとなったのは、もう十年も前のことだ。それがこの秋、将軍家光に世継ぎが生まれたということで御赦免となった。幼名竹千代、後に四代将軍となる家綱の誕生である。
                       おかげで長崎に帰ることができたとはいうものの、まっとうな職にも就けず、年越しをひかえ、喰うに窮して本博多町で「加津佐」という南蛮菓子を商う一軒の菓子舗に目を付けた。地味な店構えにしてはよく繁盛しており、どこかおおっぴらで、警戒心がないというのか、要は盗みに入りやすい店のように思えたのだ。
                       男は「これを最後に」と自分に言い聞かせ、「加津佐」に盗みにはいることを計画した。

                       ねらい通り仕事は難なく終わった。
                       ……が、盗み出した品物の中にとんだやっかいなものが混じっていた。
                       屋根裏に大事そうに油紙で包(くる)まれた、訳ありげな包み。てっきり大事なお宝だと思ったのだが、持ち帰り開けてみればどうも「ご禁制のキリシタン」臭い。持っているわけにもいかず、かといって、燃やそうにも何かの祟りがあるようで、どうにも薄気味が悪い。思い悩んだあげくに、「あそこなら……」と思いついたのが諏訪大社の境内……お諏訪さんは長崎の氏神だ、境内のどこかへでも捨てておけば、伴天連の魔法や祟りも封じられるに違いない。

                       あそこなら大丈夫だ。男は心を決めると、降りだした雪に震えながら諏訪大社への道を急いだ……。



                       翌朝、諏訪大社の禰宜(ねぎ)の一人が、本殿賽銭箱の上に白い雪のかたまりが乗っているのを見つけた。
                       手でそっと雪を払いのけると、油紙にまれた四角い包み。不審に思い社務所へ持ち帰り開けてみれば、何重にも包まれた油紙の中から一冊の奇妙な本が現れた。

                       表紙には「BIBLIA SACRA」という南蛮文字が記されていた。 



                      第一部




                      一九六八年四月 ローマ
                       オレンジ色の市電が通り過ぎてしまうと、カメラはその向こうにポポロ門の姿をとらえた。
                       ポポロ門、正式にはフラミニア門という。その昔、北ヨーロッパからローマを訪れる巡礼たちはフラミニア街道を通り、このポポロ門からローマへ入ることになる。今ではポポロ門を一歩出れば市電やタクシーが行き交い、往時の面影はないが、かつて北イタリアの田園風景の中を旅してきた巡礼は、このポポロ門にたどり着き、門の向こうに広がるローマの偉容に「神の国に来た!」という感慨にひたることになる。
                       カメラはさらにポポロ門へと進み、その三つあるゲートの中央アーチをくぐり抜けポポロ広場へと出る。 広場の中央には、エジプトから運ばれたというオベリスクがそびえ、その向こうには双子教会のドームと、巡礼たちをバチカンへ導くための三本の通りが、絵はがき的な均衡を作り出している。
                       カメラが、オベリスク横手に造られた噴水にズームインすると、若い男が噴水の縁に上ってカメラを構えている。オベリスクの台座には所在なく腰を下ろす若者たち。噴水の周囲には手を取り合うアベック。
                       ……と、広場の路面にポツンと大きな雨粒がはじけ、黒いシミを作った。そのシミがアッという間に広がり、昼のように明るいローマの夕暮れが、にわか雨によってたちまち真っ暗となっていく。
                       ポポロ門の三つのゲート、双子教会のそれぞれの柱廊、そしてポポロ教会の入り口と……、雨をよけられるわずかな場所を探して、観光客やローマの市民が走る。カメラはその中から若い日本人女性にズームアップする。彼女はムダと知りつつもデイバックを頭にかざし、浅い水たまりとなった路面に水しぶきを上げながら、走る、走る……
                       彼女は、やがて自分の選択が間違いだったことに気づく。
                       とっさに目指したポポロ教会の入り口に、雨を避ける廂(ひさし)らしいものはなかった。ポポロ門を目指すか、双子教会を目指せばよかったのに……。彼女は扉のわずかなくぼみに張り付いて、少しでも雨から身をかばおうとする。
                       ……と、その背中が、思わず扉を押し開いた。
                       中に入るや、激しい雨音がぴたりとやんだ。
                       そこは暗くて狭い空間、横手にはもう一つの扉がある。ためらいがちにその扉も開けてみた。広い静かな空間に広がる夕べのミサの祈り。ラテン語の響きが、静けさをいっそう際だたせている。
                       その静けさに異議でも唱えるかのように、彼女のお腹の虫が……「クーーッ」と鳴った。
                       参拝者たちは、広い礼拝堂の前の方の席に固まっている。静けさを破る無粋な音に気づいた人たちはいないようだ。それとも聞こえない振りをしているのだろうか。
                       彼女は空腹に耐えかねたのか、ソーっと抱えたデイバックの中を物色する。
                       ガサガサ、ガサガサ……それでも参拝客には聞こえない。
                       やがて、チョコレートの銀紙をめくる音……まだ参拝客には聞こえないようだ。
                      (大丈夫みたい、神様だってこれくらいなら許してくださるわ!)
                       自分に言い聞かせながら、ソーっと口許へチョコレートを運ぶ。
                       口許のアップ。
                       その途端、いきなりチョコレートを噛み割る甲高い小気味よい音……
                       参拝者の顔が一斉に振り向く。そして一斉に人差し指を口に当て
                      「シーーッ」
                       そこへ、チョコレートのアップと商品名のクレジットが挿入される。
                       クレジットの後は、彼女を中心に参拝客や神父までが雨上がりのポポロ広場に集まり、笑いながらチョコレートをかじる記念写真風カットで締めくくる。
                       背後の虹は合成するしかないだろう……。

                       のしかかってくるような不安に苛(さいな)まれ、康男は、真夜中に目を覚ました。
                       時計を見ると、まだ午前二時。引き続き眠ろうとするのだが、目は冴えるばかりで、どうしても眠りに落ちることができない。
                      (撮影は順調に終わったというのに。何だろう、この不安は……)
                       康男は、不安の正体を探ろうと、眠れぬままに今日一日のCM撮影の流れを頭の中で反芻してみた。

                       当時としては異色の企画だった。ローマといえば、誰もが抜けるような青空を連想する。多くの写真や映画が、そんなローマを紹介してきた。オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」、あの白黒の画面にさえ、多くの観客が抜けるような青空を感じたことだろう。それをこのCMでは、ローマの雨をテーマにするという。しかもCM音楽の類は最後のシーンまで使わず、雨の音と、チョコレートをかじる音、荷物をまさぐる音、そして静けさという……そんな効果音だけで構成するという。
                       確かに面白いと思うし、ローマが観光シーズンに入る三月の空模様は、ローマっ子と同じで大変移り気だ。今晴れていたかと思うと、突然、土砂降りの大雨が駆け抜ける。山本ディレクターは、おそらく新婚旅行でこの経験をしたに違いない。それをCMに取り込もうというのだが、今は四月、そんなに都合良く雨が降ってくれるだろうか。一部のカットは人工雨でごまかせるだろうが、ポポロ広場の全体をとらえる雨のカットとなると……この撮影、下手をすると、天気待ちならぬ雨待ちの長丁場になるかも知れない。でも海外ロケでそれは許されない。CMには予算というものがある。スポンサーがこの企画が気に入ったからといって、制作費をいくらでも使いなさいということではないのだ。
                       そんな心配をよそに、撮影初日から「好天」ならぬ「にわか雨」に恵まれた。
                       その日は、ポポロ教会内部の撮影許可の関係で、どうしても午後四時までに内部の撮影を終えてしまわないといけない。そこで、エキストラの揃う十時までは、ポポロ広場の外のカットを念のために押さえておこうということになった。
                       もちろんディレクターは、「いくら日の暮れるのが夜の八時過ぎになるローマだといっても、朝の光と夕方の光は違う」と譲らない。しかし、プロデューサーやスポンサーの意向を汲む制作進行としては、やはり少しでもカメラを回してほしい。
                       そこで、本番は内部の撮影が終わった後にし、「あくまでもテストカットや予備カットを押さえておく」ということで納得してもらった。
                       このことが幸いした。カメラマンが、重い三五ミリカメラを肩に乗せている最中に、突然、にわか雨が降り出したのだ。こうなったら朝の光もヘッタクレもない。スタッフ一同(用のない藤プロデューサーまでが)、無我夢中で雨の中をかけずり回った。
                      「雨が上がる前に」「雨が上がる前に……」
                       こちらの焦る気持ちを察したのか、雨は上がる気配もなく降り続いた。
                       しかし、撮影が終了して時計を見ると、なんと三十分しかたっていない。まるで二、三時間が過ぎたような感じだった。スタッフの顔にも、スポンサーの顔にも、びしょ濡れになったモデル嬢の顔にも自然と笑みがこぼれ、不思議な一体感に包まれた。
                       こうなったら言葉はいらない。まるで何かに取り憑かれたかのように、みんなが一つになって動き、雨の部分を除いて二日半を想定していた撮影が、まる一日で終わってしまった。しかも一番心配していた、ローマの雨までカメラに納めて……。

                       何も心配することはない。みんなうまくいった。まる一日の撮影で、ローマロケは完了してしまった。ディレクターの山本さん、カメラの広瀬さん、ライトの奥田さん、それに鬼フジの異名を持つプロデューサーの藤さんまでが、「今回の制作進行はよくやってくれた」と、天候に恵まれたことまで制作の頑張りみたいに褒めちぎってくれる。
                       しかし、日本へ帰る飛行機は、一番早い便で明後日まで待つしかない。カメラマンも撮影結果には自信を持っており、ディレクターも撮り足しや予備カットは必要ないという。藤プロデューサーが大英断を下した。
                      「明日はローマ観光だ!」
                       夜八時、ガイドと相談したところ、グリーンラインツアーズは八時四十五分までやっているという。撮影終了後、みんなが解放感と充足感に満たされてイタリアの夕食を楽しんでいる間、私は日本人ガイドと二人で、ファリーニ通りにあるグリーンラインツアーズを訪れた。
                       ここもOK! ガイドを含めて十名なら、マイクロバスを出さなくても、明日の正午に出る定期観光バスに乗れるという。

                       すべてがトントン拍子だった。やることなすことうまくいく。
                       喜んでいいはずなのに、何か不安でたまらない。どうしても眠ることができない。

                       康男の身に異変が起こりだしたのは、彼がこの撮影の制作進行に選ばれ、ローマロケが決定した頃からだ。
                       康男としては大乗り気だった。
                      (これで近世日欧交流史のメイン舞台を覗くことができる。)
                       彼は大阪のCMプロダクションで働くかたわら、ある夜間大学の史学部に籍を置いていた。その卒業まであと半年。卒業後は、契約ではなく、晴れてこのプロダクションの社員として迎えられるだろう。後は卒業論文を完成させるだけだ。
                       彼が卒論に選んだテーマは、『近世長崎における朱印船貿易とキリシタン迫害』。江戸時代初頭、日本におけるキリスト教の盛衰を、宗教史としてではなく、経済史の側面から捉えようという試みだ。
                       その調査の中で、浮かび上がってきた一人の人物──トマス荒木──日本人としてローマへ留学し、パードレとなって日本へ戻ったものの、帰ってきた頃には日本はキリシタンは禁止。彼も例外に洩れず捕らえられ拷問にかけられるが、多くのキリシタン信徒がヒステリックな拷問に屈せず殉教していった中、彼だけはキリスト教を捨て、逆にキリシタン詮議役人として生きる道を選んだ。しかも詮議役人となってからもキリシタンに立ち返ろうとしたが、この時も穴吊りの拷問に屈し、再度キリスト教を捨てた。
                       キリスト教を捨てることを「転ぶ」というが、二度も転んだのは、おそらく、このトマス荒木ぐらいのものだろうか。
                       彼が卒論で展開しようとする論旨とは直接関係ないのだが、このトマスのことが妙に気になって仕方がない。また、こんな男のことなど触れたくなんかないと思う。ところが、そう思えば思うほど、再三再四、調べている資料の上にこの男が表れてくる。資料に表れるたびに、また自分の意識にのぼってくるたびに、康男は、トマスを否定し続けてきた。
                      「この男だけはイヤだ、こんな人間だけにはなりたくない」「こんな男のことなど考えたくもない」
                       トマスの弱さが苦しかった。そのトマスの弱さを非難するたびに、まるで自分自身が非難されているような後ろめたさを感じた。「自分はちがう」、そう思おうとすればするほど、ますますトマスという人間が嫌いになった。許せなくなった。
                       康男はトマスを否定することで、自分はちがう、トマスのような人間ではないと思おうとしたのかもしれない。
                       ローマロケが決まった頃から、康男はよく金縛りにあうようになった。ウトウトしかけたとき、何かが身体の上に覆い被さってくるような感覚におそわれ、急に身動きができなくなる。もがこうとしてもどうにもならず、やがて映像までが浮かんでくる。
                       薄暗い石造りの地下牢のようなところに一人の男が蹲っている。ヨーロッパ人のようだ。男は落ちくぼんだ目で、じっと康男のほうを見ている。
                       同じような金縛り状態に何度かおそわれた。やがて夢にまで現れるようになった。夢の中で、康男はいろんな町をさまよっている。それはヨーロッパの町並みだったり、中東の乾いた土壁の町並みだったりするが、共通しているのは、どれも無人の町だということ。その町並みをさまよいながら、康男はいつの間にか、地下室へ下りる階段を見つけ、「行きたくない」「行きたくない」と思いながらも、身体は、あの地下牢へと向かっていく。あの男が待っている地下牢へ……。そして、寝汗ぐっしょりとなって目が覚める。
                       ローマへ来て、仕事の忙しさから、そんなことはみんな忘れていたのだが、今日、ポポロ教会内部の撮影のとき、教会側廊の柱の影に一人の少女の姿を見た。まるで中世の絵画の中から抜け出たような出で立ち。垂れ頭巾が頭を覆い、その白い覆いが整った顔立ちをいっそう引き立てている。
                       どこかで会ったような、どこかで体験したような感覚。
                       既視感とでもいうのだろうか。ともかく、あの少女を見てからというもの、またぞろ、あの不安感が再燃した。