国友鉄砲資料館に遊ぶ vol.3 まとめ

2010.05.23 Sunday

0

    鉛玉ほか
        (鉛玉を作るための玉鋳型や玉鋳鍋、雷管入れ等々鉄砲を撃つための小物類)

    博物館へ行くと、学芸員の方や職員の方の手作り資料が置かれていることがよくある。昔ならガリ刷りのものが並んでいたり、今ならワープロで作られた資料が、自己主張することもなく、それとなく並べられていることが多い。見物客は、陳列されているモノの存在感に圧倒され、そんな慎ましい資料類の存在には気づかない場合が多い。そこにあるのが、あまりにも当たり前すぎて気にもとめられない存在……。しかし、この資料は、見物客の便宜や、展示物の代弁者たらんとする職員の人たちの努力の結晶であり、なかなか優れたものが多い。この資料を見逃す手はない。欲しいと思っても、もう一度、そこへ行かない限り手に入らないのが普通だ。だから、ぼくは女房から「紙くず集め」と呼ばれても、それら資料を一枚でも多く持って帰ろうとする。

    この「国友鉄砲の里資料館」でも、職員の方手づくりの何種類かの資料が用意されていた。
    まず目に付いたのが、『国友鉄砲の里資料館を見学して復習してみよう』というプリントだ。問題形式になっていて、このプリントとにらめっこしながら館内を回ると、効率よく、知識を吸収することができる。
    では、その問題と解答を紹介しておこう。

    鉄砲が伝来したのは何年で、どこからどこへ伝来しましたか。
    国友の火縄銃が一躍有名になつたのは何年で、どこの戦いですか。
    関ヶ原合戦は何年に始まり、誰と誰の戦いでしたか。
    淀君、秀頼が自害したのは何の戦いでしたか。
    火縄銃を作る鉄はどこから来ましたか。
    火縄銃の銃身はどんな道具で作られましたか。
    火縄銃の銃床に使われている木はどんな木ですか。
    火縄銃はどんな職人達で作られましたか。
    国友の火縄銃はどこの部分が優れていましたか。
    黒色火薬の材料は何ですか。
    発射して次の発射をするまでの時間はどの位ですか。
    6匁玉の殺傷距離は何メートルですか。
    国友鉄砲鍛冶師は全盛期には何軒ありましたか。
    江戸末期になり銃の需要が少なくなって、どんな職業がうまれましたか。
    国友の他に火縄銃の生産地はどこですか。

    土産物の砂鉄最後に「解答は事務室にあります」と印刷されているので、事務室へ向かうと「解答」ばかりか、「砂鉄ってなーに?」 というプリントを手に入れ、土産物として200円で売られている「砂鉄の瓶詰め」(写真)をゲットした。
    しかし、まずは問題の解答を掲げておく。

    解答
    1543(天文12)年・ポルトガルから種子島
    1575(天正3)年・長篠
    1600(慶長5)年・徳川家康・石田三成
    大坂夏の陣
    出雲
    シノ・フイゴ・槌

    鍛治師・台師・金具師
    ネジ
    硝石・硫黄・木炭
    15〜20秒
    300m〜50m以内
    70軒
    花火・彫金・錠前等
    根来・堺・日野

    『砂鉄ってなあに?』

    砂鉄(iron sand)は、岩石中の磁鉄鉱などが風化によって分離し一カ所に集まったものです。
    吉田村の砂鉄は、主に黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)の風化土から採取されていました。
    砂鉄にも様々な種類がありますが、たたら製鉄で使用されていたものは主として真砂(まさ)砂鉄、赤目(あこめ)砂鉄の二種類です。
    真砂砂鉄は、その化学成分がFeO・Fe2O3で、鉱物名を磁鉄鉱といいます。磁鉄鉱は天然磁石になるほど磁性が強く黒色または褐色で、ルーペでのぞくと正八面体をしています。一般に磁鉄鉱は風化に強く、比重が重いため一カ所に集まります。
    赤目砂鉄は、鉱物名を赤鉄鉱といい化学成分はFe2o3です。塊状のものは見た目には黒色ですが粉末にしたり、こすりつけてスジを引いてみると赤色をしています。粉末にしたものは、ベンガラという顔料(赤色塗料)にもなっています。

    ◇豆知識◇
    鉄の正字は「鐵」と書きます。この字は「金の王なる哉(かな)」とも読めるように、鉄が私たちの暮らしに欠くことのできない金属で文明の基幹を支えていることを物語っています。

    以上で、国友鉄砲資料館の紹介を終えることにします。
    最後の写真は、国友鉄砲鍛冶が明治24年に作った自転車の復元です。現物は、東京江戸博物館にあったものを国友鉄砲資料館の方が見つけ、「国友製」と記されているのに驚き、あわてて図面を送ってもらい国友村で復元したものだといいます。堺でも鉄砲鍛冶の技術が自転車に活かされ、明治23年、安全型自転車国産第一号車がつくられ「ミヤタ自転車」の誕生を見ることになったのです。

    鉄砲鍛冶の製作した自転車

    国友鉄砲資料館に遊ぶ vol.2 魔鏡とグレゴリオ式反射望遠鏡

    2010.05.21 Friday

    0
      1階展示室で不思議なものを見つけた。まずは「魔鏡」などという禍々しい名前に惹かれた。傍の説明表示の中には「魔鏡現象」などという言葉も出てくる。いったい何だろうと、受付の女性に聞くが、解ったようで、もう一つピンとこない。ここで学芸員の代わりをしておられる吉田さんという男性が呼ばれ、説明してくれることとなった。
      そこで吉田さんに聞いたお話や、その後、調べたことをもとに、魔境について、以下に記しておくことにする。
      まず「魔鏡」とは「神鏡」とも呼ばれ、太陽光に当てると、反射光の中に像ができる鏡のことをいうそうだ。原理は、、平面鏡の中に凸面鏡、凹面鏡が文様として組み込まれており(写真下段)、 日光を反射させると凸面鏡の部分では光が散乱し影に、凹面鏡の部分では収束し光の様な文様になる仕組みなのだそうだ。
      製作したのは、国友一貫斎という鉄砲鍛冶。彼は1778年、この国友村の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。9歳で父に代わって藤兵衛を名乗り、17歳で鉄砲鍛治の年寄脇の職を継いだと言われている。
      しかし、太平の世とて鉄砲だけでは難しい時代。技術的にも優れ、発明の才のあった一貫斎は、鉄砲鍛冶の技術を活かし、次々とおもしろいモノを考え出していく。この「魔鏡」もその一つだが、ただ一貫斎のオリジナルではない。
      隠れキリシタンのあいだで、この魔鏡にイエスやマリアの像を隠し、それを投射することで信仰の対象としていたことが知られている。ただ一般の魔鏡は裏面の模様と同じ画像が映るが、隠れキリシタンのものは異なる画像が映し出されるという。裏面にあるのは、松とか鶴とかの模様になっているのに、実際に投影されると、十字架に掛けられたイエス像だったり、マリア像だったりするという按配だ。これは、内部が二重構造になっており、キリスト像等の“しかけ”が隠し込まれているためだと言う。このほか、中国でも古代から「魔鏡」はあったと言われているが、古代の銅鏡は「鏡身が薄いのに対し、文様の浮き彫りが分厚い」ため、すべての銅鏡にこの魔鏡現象が起こるのでは……つまり、古代の銅鏡はすべて魔鏡ではなかったのか、そんな発想をもっておられる方もいるという。太陽光を反射することで映し出される映像。これによって吉凶を占ったのでは……大変おもしろく示唆に富んだ発想だと思う。

      反射望遠鏡

      それはさておき、一貫斎の場合は、この鏡を磨くという技術が、反射望遠鏡の製作へとむすびついていく。一貫斎が反射望遠鏡を完成させたのは天保5(1834)年のことだという。これが国産初のグレゴリー式反射望遠鏡であった。
      これまでの国産望遠鏡は、4枚の凸レンズを組み合わせた屈折望遠鏡で、紙筒を漆で固める伝統的な技法でつくられたものだ。これに比べ、一貫斎がつくったグレゴリー式反射望遠鏡は、筒の底にある凹面鏡(主鏡)と筒の中間に位置する小さな凹面鏡(副鏡)で反射し、像を映す仕組みのもので、屈折望遠鏡よりもはるかに高い倍率(40 〜50倍)を可能にしたのが特徴だ。このため月や太陽、惑星の詳しい観察に適しており、事実、一貫斎は、第1号機完成の翌々年、この望遠鏡によって158日に及ぶ「太陽黒点の観測」や「月面の観測」「星の観測」を行っている。

      太陽黒点観測図

      懐中筆国友鉄砲資料館の吉田さんは、「これは記録にはないのですが……」と断ったうえで、「一貫斎は、作った反射式天体望遠鏡の何基かを彦根藩に売っています。それで得た金を飢饉の救済に充てたということが、代々伝えられています」と、天体望遠鏡開発後の隠されたエピソードを紹介してくれた。
      第1号機が完成したのが天保5年、太陽黒点等の観測を始めたのが天保7年、この頃の飢饉といえば、江戸の四大飢饉のなかで最大といわれた「天保の大飢饉」のころだ。二宮金次郎が小田原藩の願いで飢民救済に奔走し、大坂では大塩平八郎が、役人の身でありながら「救民」を旗印に「大塩平八郎の乱」を起こした、ちょうどその頃にあたる。

      このほかに一貫斎の作ったものといえば、「気砲(空気銃)」、「玉燈(油ランプ)」や「ねずみ短檠(自動給油式灯台
      )」等の照明器具、それに飛行術の図面、万年筆の前身に当たる「懐中筆」等がある。ただ、「懐中筆」は墨が出過ぎたり、出にくかったりと、実用化には至らなかったようだ。

      しかし、吉田さんから、一貫斎が反射望遠鏡の代価を飢民救済に充てようとしていたらしいことを知り、彼の技術開発の背後に「経世済民の志」を垣間見たような気がした。

      国友鉄砲資料館の吉田さんそんな話をしている内にバスの時間となった。雨の中、吉田さんがバス停まで見送ってくれ、後ろ髪を引かれる思いでバスへと乗り込んだ。吉田さんが「僕はいつでもこの資料館にいますから」と言って手を振ってくれた。

      国友鉄砲資料館に遊ぶ vol.1 火縄銃の伝来

      2010.05.20 Thursday

      0
        初めて火縄銃を手にする管理人
                                        (火縄銃で遊ぶ僕(手前)とOさん)
        国友鉄砲の里
        昨日のことだ。仕事の相棒と連れだって、書店営業のため、長浜を訪れた。午前10時36分、長浜駅に降り立つと、長浜在住の読者の方が待ってくれていた。彼女は、地理不案内な僕たち二人を車に乗せ、目指す書店へと運んでくれた。
        おかげでスムーズに書店を回ることができ、老人営業マンの足になっていただいたお嬢さんにはお礼の言葉もない。
        3人で昼食をとった後、JR長浜の駅へ送っていただいたが、電車までかなり時間がある。
        なにげなく改札口の前にある観光案内所を覗いていると、「国友鉄砲資料館の」のリーフレットが目にとまった。もちろん国友の鉄砲鍛冶のことは知っていたが、実際に自分が営業のために足を運んだ「長浜」とは、ハッキリ言って結びついていなかった。それが「国友」の名前を見たとき、身体に電気が走ったようで、矢も盾もたまらず、相棒のOさんに、「少し寄り道しませんか。悪友を持ったと思って付き合ってください」と、スタスタ、タクシー乗り場を目指している自分があった。

        人の良いOさんは、折からの雨の中、嫌な顔一つせず、そんな僕に付き合ってくれ、二人してかつての国友村(今は長浜市国友町)へとやってきた。
        左の写真は、資料館から見える国友村のたたずまいだ。一番上の写真、道の突き当たりに見える家が、幕末の天才発明家・国友一貫齋の生家だという。彼については、このブログのvol.2で触れる予定だが、まずは資料館へ足を運ぼう。

        鉄砲の里案内

        司馬遼太郎文学碑資料館入り口には、「鉄砲の里 天領・国友」と墨書された大きな案内板が目に付く。ついで司馬遼太郎の文学碑がある。

        国友鉄砲鍛冶
        国友村に次郎助という鍛冶がいた。年の頃はわからないが、若者のような気がする。
        かれは螺子(ネジ)についてさまざまに想像し、試みに刃の欠けた小刀でもって大根をくりぬき、巻き溝つきのねじ形をとりだし、もう一度大根にねじ入れてみた。これによって雄ねじと雌ねじの理をさとり、老熟者に説明すると、一同、大いに次郎助をほめた。その名が「国友鉄砲記」にとどめられていることからみても、かれの名と功は感嘆されつつ伝承したものかとおもえる。  司馬遼太郎『街道をゆく』より

        日欧交渉史に興味を持つ身としては、1543年、種子島に鉄砲が伝来したという史実には興味もあり、また、それ以前に和冦によって火縄銃が伝えられていたという異説にも心を動かされるものがあった。そればかりか技術の伝播という面からも、銃底の工夫については、それを知ったとき、感嘆しきりだったのを覚えている。ただ鉄の筒をつくり、底を鋳付けて止めただけでは、火薬の爆発力で底が飛んでしまい使い物にならない。そこで螺子(ネジ)というものが考えだされた。弓矢の「羽根」を、2枚羽根から3枚羽根へと進化させた人間といい、ネジを考えだした人間といい、世の中には頭のいいヤツがいるものだと思った。
        ただ、この銃底のネジについては、ここに掲げられた国友鉄砲鍛冶の工夫以外に、種子島にも別の言い伝え(哀話)が残されている。

        銃底の雄ねじ種子島に鉄砲が伝えられたとき、種子島時堯は、数人の鍛冶匠に命じて鉄砲を模造させようとした。しかし、筒の部分は板状の鉄を巻いてできても、銃底を塞ぐ方法が分からない。ネジを作る技術も発想もなかったため、時堯に開発を命じられた刀鍛冶八板金兵衛は、自分の娘をポルトガル船の船長に与えて製法を聞き出そうとする。しかし果たせず船は娘を連れて出帆し、翌年、再び来航した南蛮船に乗っていた娘の導きでようやく製法を聞き出すことができたというのだ(「八板氏系図」)。

        果たしてどちらが本当なのか。それとも、どちらも本当なのか。
        ちなみに、資料館のおばさんに、この話をぶつけてみた。
        おばさん曰く「私には分かりませんが、女が犠牲になるような話は、嘘であってほしいですね。そんなことはあってはいけないです」と、きっぱりした口調で話してくれた。

        銃身部分の作り方

        資料館では、まず10分くらいのビデオを観、国友村の歴史的なアウトラインをつかんだ上で、2Fの主展示場に向かうことになる。圧巻は、火縄銃に触れ、自分で構えてみることができるコーナーがあることだ。持ってみるとかなり重い。左手で台木を支えるのだが、台木も真ん中あたりを持たずに根もと近くを持つと、重さに手がふるえて狙いが定まらない。国友町の青年だろうか、火縄銃を構えている写真があるが、かなり根もとのほうを左手で支えているが、軟弱な私がこんな真似をしたら、手がふるえて長く構えていられなくなる。情けない話だ。

        続いての見所は、「銃身」と「銃床(木製の銃身を支える部分)」に分け、その作成方法がイラストや写真でなく、現物で展示されていることだ。

        銃床部分の作り方

        狩猟用火縄銃との違い一通り、見終わって「魔鏡」という展示物のところではたと立ち止まってしまった。銅鏡なのだが、なぜ魔鏡というのか、魔鏡現象とはいったい何か、Oさんと二人して頭を抱えてしまった。あげくは受付のおばさんを質問責めにし、たまりかねたおばさんが一人の男性を連れてきた。吉田さんという土地の職人の方で、学芸員の代わりをしておられる。「魔鏡」については、次のvol.2のブログで触れることにし、吉田さんに教わった火縄銃のおもしろい話を紹介しよう。
        左の写真を見ていただきたい。銃身の先端に小さな突起がある。これを「先目当(さきのめあて)」という。銃身の中程には、「前目当(まえのめあて)」というものがあり、この前目当と先目当と標的が一直線になるように狙いをつけるという寸法。この先目当が、上の写真のものは角張ったままなのに、下の写真では斜めに丸みを帯びた金具が付いている。これは狩猟用の火縄銃、つまり猟銃なのだそうだ。鉄砲を抱えていて、銃の先が木々に引っかからないようにするための工夫だという。

        鉄砲というと、「国友」以外に「堺」が有名だが、「堺」の鉄砲鍛冶が特定のスポンサーを持たないのに対し、「国友」の鉄砲鍛冶は、関ヶ原の功績以降、幕府お抱えとなった。それだけに平和な時代になると、幕府の下請け的立場であり、買いたたかれる。これは今も昔も、下請けの宿命といえる。そこで食うに窮して、いろいろな付加価値を付けることで販売努力をする。鑑賞用の鉄砲として装飾に力を入れたり、この猟銃の「先目当」のように様々な工夫がされるという寸法だ。

        また、「確認事項ではないが」と断られたうえで、和歌山の「雑賀衆」(鉄砲集団)も、ただ単に鉄砲を得意とする傭兵集団というばかりでなく、鉄砲鍛冶でもあって、この雑賀衆を経て「堺」に鉄砲製造技術が伝わったというのだ。技術の伝播の道筋を考える上でおもしろい話だと思う。そういう意味では、和歌山の「根来衆」も注目に値する。なぜなら「雑賀衆」は「根来衆」から鉄砲の技術を伝えられたといわれているからだ。
        この技術の伝播に一役買っているのが、太平洋を流れる「黒潮」の存在。黒潮には「上り潮」と「下り潮」があって、この黒潮を使えば、和歌山港から、遣明貿易の拠点「種子島」まで四日で行けるという。根来寺の僧坊の一つ杉之坊の有力者・妙算の兄で、紀州小倉の豪族・津田監物が鉄砲伝来の情報に接するや即座に種子島に渡った。そして鉄砲製造の鍵となる螺子切りの技術や火薬などの製法をなどを学び、根来に持ち帰ったというのだ。

        ここでも「螺子切りの技術」が話題になる。というのは、これ以前、鉄砲はすでに見よう見まねで作られていたようなのだ。ただ、螺子切りの技術がないため、一発撃つたびに鉄砲の尾栓が飛んで使い物にならなかったという。つまり鉄砲自体は、和冦などを通して既に日本に伝えられており、1543年に伝えられたのは、鉄砲伝来というより、その銃底をふさぐ「螺子切りの技術」だったようだ。
        老婆心ながら、鉄砲資料館の吉田さんは、ここまでは言っておられない。吉田さんの「雑賀集は鉄砲を使うだけでなく作ってもいた」の話をヒントに、僕が資料等をあたってみて、「そうだろう」「そうに違いない」と思ったことを話しているだけである。間違っていれば、それは断じて吉田さんのせいではない。

        次回は、鉄砲の技術をもとに、様々な技術開発をおこなった幕末の天才・国友一貫斎の足跡を、この国友鉄砲資料館の陳列物に見ていくことにする。

        「歴史の中に見る死」 Vol.2

        2010.05.12 Wednesday

        0

          「歴史の中に見る死」が、そのままになっていた。続きを書かなければならないが、今にして思えば随分と杜撰な企画をたてたものだと思う。しかし、とりあえずは残る部分も掲げておくことにする。このなかで「トマス荒木」と「角倉素庵」については、すでにほかの箇所で取り上げ済みだが、とりあえずは昔書いたままで掲載することにした。


          第二章 生き地獄の中で
          1.鳥取の飢餓地獄−吉川経家−
          2.転び伴天連の死−荒木了伯−

          第三章 京の死、大坂の死(二人の文化人)
          1.天刑病を背負って(嵯峨野の死)−角倉素庵−
          2.民救済と一切経(なにわの死)−鉄眼道光−

          終章 鉄の柩の中で



          鳥取城跡

          吉川経家像◇吉川経家
          (きっかわつねいえ)
          天文十五年(1546)〜天正九年(1581)
          羽柴秀吉は、弟の秀長に但馬を経略させると、天正八年(1580)六月、因幡に出陣し、山名豊国の居城鳥取の攻略に着手した。九月十一日、秀吉は降伏を誘ったが、豊国の家臣中村春続、森下道誉らは、毛利氏の将吉川元春に援軍を要請、徹底抗戦に出た。毛利方が秀吉に対抗できる人材として選んだのが、石見福光城の城主吉川経安の嫡子経家だった。
          経家は天正九年三月十八日、四百余人の将兵を率い、死を覚悟し自ら首桶を背負っての入城だった。
          彼は千代川岸に丸山城を築き兵五百を配した。次に雁金山の砦を固め、さらに加露の浦に大船を常泊させ連絡回路の維持を図った。
          一方、秀吉は鳥取城の力攻めが困難とみて、兵糧攻めを策した。収穫期を前にした六月二十五日、秀吉は二万余の大軍を率い、姫路城を出発、但馬口より因幡国内に進入し、七月二十二日には鳥取城を包囲した。
          まず本陣を鳥取城が一望できる太閤ケ平に定め、ここより左右両翼と平地の三隊に布陣させた。包囲線は前後二段に兵を配し、堀には蝿網を張り、柵や矢倉を築き、土塁を重ね、夜間には篝火を焚いて警戒を徹底させた。さらに海上には、警固船を常駐させるという徹底ぶりであった。
          両軍最大の攻防は、九月十六日、丹後、但馬からの兵糧を輸送していた長岡藤孝、松井康之らの秀吉勢と、毛利水軍の衝突であった。この戦いで康之らは輸送船五隻を捕獲し、さらに伯耆の泊城を攻撃して毛利方の船六十五隻を奪い取った。
          一方で、包囲軍の宮部勢が鳥取城と雁金山砦の連絡を断ったため、鳥取城は完全に孤立、兵糧も枯渇するに至った。このため、鳥取城に篭城した老若男女の飢餓状態は凄惨を窮める。
          まず兵糧がつきると、食べられるものを手あたり次第に食した。はじめは五日に一度、鐘を合図に雑兵たちが一斉に柵ぎわまで飛び出し、木や草の葉を摘み、根を掘り出し、果実や木の皮、刈り田の稲株などを採集し城内に運び込んだ。次には、犬、猫、狸、狐、昆虫の類、さらに牛や馬まで食べるようになった。これもつきると、体力のない者から次々に餓死していく。
          餓鬼のように痩せ衰え、男女ともが危険を省みず、柵ぎわへ歩いてきてはもたれかかり、しきりに敵へ援助を求める。包囲軍がこれを射ち殺すや、まだ息があるにもかかわらず、この負傷者に群れ集い、手に手に刃物を携えてその肉を切り裂き、われさきにと口にした。とりわけ頭部は味がよいのか、頚を奪い合うこと凄じいばかりだったという。
          ここに十月二十四日、吉川経家はついに開城を決意し、一命と引き換えに他の者の助命を条件に和を請うた。秀吉は、彼の義士ぶりに感嘆し、彼の命をも助けようとしたが、経家はこれを潔しとせず、責任を取ることが将の道と主張して譲らず、十月二十五日、城内の真教寺で自刃した。
          ときに三十五歳であったという。

          「とつとりのこと よるひる二ひやく日こらえ候 ひようろうつきはて候まま 我一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきゝあるべく候  かしこ
           天正9年10月25日  つね家
           あちやこ かめしゆ かめ五 とく五 まいる 申し給へ」

          上記、辞世の言葉は、四人の子供にあてた遺書である。
          【参考文献】
          ■赤瀬川原平監修「辞世の言葉」−生きかたの結晶−(講談社刊)
          ■渡部昇一監修「心にしみる最期の言葉 39」−死の直前人は何を語りかけるか−(日本文芸社刊)
          ■「太閤記」(口語訳古典シリーズ)教育社
          ■「戦国武将の手紙を読む」角川選書 218
          ■瀬川秀雄編「吉川経家公事蹟」1931
          ■写真/フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
           『ザ登城』(http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/index.html


          ローマ法王庭園
                              (バチカン 法王庭園)

          ◇荒木了伯(トマス荒木)
          生年不祥〜正保三年(1646)?70歳前後
          荒木は洗礼名をトマスと言った。ためにトマス荒木と言われることが多い。生まれは恐らく天正年間のことであろう。史料等で確認することはできないが、天正九年(1581)、安土にイエズス会のセミナリヨができたとき、高山右近を通じて預けられたものと想像される。
          荒木はこれ以後、日本でのイエズス会の激しい動きの中で成長する。本能寺の変で安土のセミナリヨが焼かれるや、オルガンチーノ神父やパウロ三木(後に長崎で殉教した26聖人の一人)と共に滋賀を脱出。その後、セミナリヨの移動と共に、京都、高槻、大坂、有馬、長崎、加津佐などを転々とした。この間に不干斎ハビアンから日本文学や日本文化について教えられたと思われる。ラテン語はジョアン・ロドリゲスに教えられたのであろうか。
          荒木がいつ日本から離れたか不明だが、バリニャーノ神父の日本人神父養成策の一環として、恐らくバリニャーノ神父が第二回日本巡察を終えてマカオへ渡るとき(1592)、もしくは第三回巡察の後(1603)、ともに随行したものではないかと推察される。
          この後の荒木の動きは不明だが、1605年(慶長十年)にはローマへ到着し、聖アンドレア修道院に入り、コレジオ・ロマーノ(現在のグレゴリオ大学)で学んだ。ローマ留学中、ベラルミノ枢機卿から可愛がられ、一緒に聖務日祷を唱えたほどだという(普通、神学生と一緒に聖務日祷を唱えることは異例中の異例)。
          1612年(慶長十七年)、トマス荒木、ローマで司祭に叙階され、日本への帰途につく。そして1614年8月7日にはマカオへ到着し、日本へ潜入する機会を待つことになる(39歳位か)。この間、日本からの追放者(キリシタン追放令による)が同年11月17日マカオへ到着する。この中に、日本人が宣教師になれないことに不満を持つカスイ岐部(27)も含まれていた。荒木は岐部にローマへの行きかたやキリスト教世界のことなど、裏も表も、彼が知るかぎりのことを伝えたらしい。荒木の中には、イエズス会への不満や反発、殉教の理不尽さとそれへの恐怖が渦巻いていたようだ。
          元和元年七月(1615年8月)、トマス荒木、帰国する。その四年後の元和五年七月(1619)には長崎奉行所に捕らえられ、大村の牢に投ぜられるが脱走。四日後、コレジオ・ロマーノの制服を着て長崎奉行所へ出頭し、二十日後、棄教する。荒木、棄教が本物かどうか見るため、しばらく平戸の牢に留め置かれるが、その後、キリシタン代官である村山当安の取り調べの証人として、長崎奉行長谷川権六に伴われ江戸へ上る。
          江戸から帰ってからは、イエズス会士スピノラらが捕らわれている大村の鈴田牢へ入れられている。当時、蘭英側が告発した平山常陳事件のキリシタン側の対応を知るためにスパイとして入れられたのであろう。常陳事件というのは、朱印船貿易家平山常陳が、朱印船に宣教師を匿い日本に潜入させようとした事件であり、これによって蘭英は、幕府にポルトガル貿易や朱印船貿易が続く間は、キリシタンの潜入は阻止できないと訴えたのである。
          このとき、スピノラ神父の荒木に対する嫌悪感はかなりのものであり、同じ牢内のキリシタンが荒木と談笑しているのを非常に憤慨したり、荒木と同じ牢内に居るのさえ恐ろしいと役人に訴えたりしている。
          さて荒木を鈴田牢に入れたもう一つの目的は、揺れ動く荒木の心をハッキリさせるためでもあった。キリシタンに戻るなら「それでもよし」という態度が長崎奉行に見られる。しかし、トマス荒木は、スピノラらの態度に背教の決意をかためてしまう。常陳事件の取り調べの日、荒木は完全に背教者となった。
          これ以後、荒木のキリシタン詮議役人としての生活が始まる。常陳事件関係者の処刑、長崎の大殉教、江戸の大殉教、数々の血なまぐさい殉教を経て、キリシタン勢力は急速に衰えていった。そんなとき、マカオで別れた岐部がローマから宣教師となって帰ってきた。岐部は九州を避けて東北で活動し、寛永十六年(1639)、ついに水沢で捕らえられ、江戸へ送られた上、処刑された。このとき将軍家光は、酒井讃岐守の下屋敷で自ら取り調べに立ち会い、沢庵禅師や柳生但馬守まで動員しての取り調べであったが、とうとう埒があかず、岐部は井上筑後守のキリシタン屋敷預けとなった。ここで岐部は、かつての上司であり今は転び伴天連となったクリストバーノ・フェレイラと対決させられる。恐らくこのとき、荒木も同席したのではないだろうか。結果、岐部は穴吊り等、苛酷な拷問にも屈せず殉教していった。
          パウロ三木を始め荒木と共に学んだ多くの日本人が殉教していった。荒木に感化を受けたたくさんの名もないキリシタンも殉教していった。そして今、荒木の影響のもと、ローマへ留学した岐部も死んでしまった。
          この頃になって、荒木はまた自分がキリシタンだと口走るようになったようだ。奉行所は取り調べのため、彼を穴吊りの拷問にかけるが、彼はこのときも苦しみに耐えられなかったようである。
          以後、死ぬまでの六年間、荒木のキリシタン詮議役人としての仕事は続く。死ぬ前年、正保二年付けの「きりしたんころひ書物」には、九介夫婦が転んだことを証明する証人として、奥付に忠庵、了順、了伯の署名が見える。忠庵は沢野忠庵の略で、イエズス会宣教師クリストバーノ・フェレイラの転んでからの日本名。了伯は荒木了伯の略でトマス荒木の転んでからの名。了順については不明である。
          ところで、オランダ商館日記には、トマス荒木なる背教者が、臨終を迎えて再びキリシタンであることを再三申し立てたことが記録されている。しかし、役人たちは相手にせず、彼はそのまま病死したというのである。
          【参考文献】
          ■松田毅一・川崎桃太訳「フロイス日本史」五畿内編掘蔽羆公論社刊)
          ■ディエゴ・パチェコ著、佐久間正訳「鈴田の囚人」−カルロス・スピノラの書翰(長崎文献社刊)
          ■レオン・パジェス著、吉田小五郎訳「日本切支丹宗門史」上・中・下(岩波書店刊)
          ■高瀬弘一郎「キリシタンの世紀」(岩波書店刊)
          ■東大史料編纂所「長崎オランダ商館長日記」(東京大学出版会刊)
          ■窪田明治「切支丹屋敷物語」(雄山閣刊)
          ■H・チースリク「キリシタン人物の研究」邦人司祭の巻(吉川弘文館刊)
          ■姉崎正治「切支丹迫害史中の人物事跡」(同文館刊)
          ■沢野忠庵、ハピアン「顕偽録・破提宇子」日本古典全集刊行会


          嵐山角倉邸

          嵯峨野念仏寺◇角倉素庵
          (与一)
          元亀二年(1571)六月〜寛永九年(1632)六月
          角倉氏は、もと吉田の姓。嵯峨角倉に住したため角倉と呼ばれるようになったという。素庵の祖父宗桂は名医として知られ、明の皇帝にも薬を献じたほど。日本に帰ってからは、医師を営むと共に、副業に土倉業を営んでいた。その子が角倉了以である。彼は勉学に志し、医者でも土倉業でもなく土木工学の技術を研究した。そればかりか海外雄飛の夢を膨らませ、秀吉の時代、朱印状を得て、安南へ通商の船を出し巨富を収めたという。家康時代になっても、了以は朱印船貿易家として活躍しているが、いつも息子与一(素庵)と行を共にしてきた(慶長八年の第一回安南渡海のときから父と共に海外へ出る=素庵33歳)。それが慶長十四年、東京(トンキン)からの帰途、暴風雨のため遭難。この事件がこたえたのか、了以は隠居し、与一に家督を譲った。しかし了以は自由な気風を以て与一を育ててきたため、決して彼を家業に縛りつけようとしなかった。与一は本の虫であり、学者肌であったが、書斎人として生涯を過ごすには、父譲りの冒険心も旺盛であり過ぎた。ために以後の渡海朱印状は角倉素庵に与えられることになった。しかし、慶長十八年の朱印状は切支丹の取締の余波を蒙り無効となってしまったのである。
          ところで角倉親子は、海外渡航の合間を縫って、京都において一大土木工事に着手した。大堰川に舟を通そうというのである。今までこの丹波の水を利用して荷物を運ぶことを考えた人間はいない。山が険しく渓谷が深く、大石がごろごろしていたためである。このため丹後、丹波の産物は人の背を借りて山越えをしていた。それを親子は、川の岩を砕き、高瀬舟(平底の舟)を使って大堰川の舟運を考えたのである。慶長十一年三月、角倉親子は準備を進め、大堰川の開削に着手、これを成功させた。この成功により、幕府は富士川の舟運を開くことを了以親子に命じた。了以はこれをも成功させ、舟を見たことのない甲府の人たちを驚かせた。さらに豊臣秀頼の方広寺の再建に当たって、大木巨石の運搬のため、鴨川を舟を通せないかという依頼があった。了以は幕府の許可を得て鴨川疎通事業を起こした。人口運河の計画。はじめは伏見から五条付近までを、方広寺再建の資材運搬路として掘り、工事が終わると、この水路をもらい受けて、五条から二条まで延長させた。そこで西国の荷物が二条まで運び込まれるようになったという。これが完成した慶長十九年七月十二日、了以は六十一歳でこの世を去った。
          さて了以没後の素庵であるが、淀川過書船支配を命ぜられたり、江戸城改築のため富士山材木の採集運搬に当たったり、安南貿易を復活させたりと活躍していたが、晩年は学問に傾倒し、本阿弥光悦らと共に出版事業に着手する。世に嵯峨本と言われる。元和の頃、尾張候から書物の講話とその整理を依頼された素庵は、その往復の間に病をつのらせていったという。その病が癩病であることを知ったとき、素庵は家督を息子厳昭に譲り、財産挙げて宗族、親戚に分かち、自らは数千巻の蔵書と共に、嵯峨清涼寺の西隣に安居し身を閉ざした。寛永四年のことである。
          以後の生活は、藤原惺窩編するところの「文章達徳録」の研究、増註であったが、病が進み失明してからは、門人に口述して筆録させていたという。寛永九年(1632)三月になると、病勢はさらに進み、臥床の日々を送る。六月朔日、いよいよ重態となり、しばらくその状態を続けたが、その間にも輿で読書堂へ行き、病間に門人の和田宗允(後、姫路の儒者)を呼んで、宋の羅大経の著「鶴林玉露」を読ませたり、欧陽修や蘇東坡の文について「理と心と相通う」と歎賞したりしたという。
          ところで当時は、癩病と言えば、天刑病・業病とされ、「かったい」と呼ばれ乞食扱いされるのが普通であった。素庵にしてみれば、角倉家からこの患者を出したということ自体、家名を汚したということに繋がった。その自責の念と、懊悩が学問に逃げ道を見いだしたと言えないこともないだろう。
          素庵は、その家名のため、自ら角倉の菩提寺二尊院に葬られることを拒否し、中世以来の無縁墓所、仇野の三眛地に葬ることを希望した。
          いよいよ臨終が近付いた六月二十二日、二子と弟法眼長因を左右に呼んで、手を執って永訣したという。時に六十二歳であった。
          「我死せば、即ち西山の麓に葬り、〈貞子元之墓〉と書せ」(寛永九年三月、和田宗允をして訓戒をつくらせ、玄紀、厳昭の二子に遣わし命ず)。
          【参考文献】
          ■林屋辰三郎「角倉素庵」朝日評伝選19(朝日新聞社刊)
          ■林屋辰三郎ほか「光悦」(第一法規出版刊)
          ■小松茂美「光悦書状」


          鉄眼書状

          鉄眼と飢饉◇鉄眼道光

          寛永元年(1632)元旦〜天和二年(1682)三月
          ◎寛永元年(1632)元旦、肥後国(熊本県)に生まれる。十二歳の時、出家して仏道に入る。十六歳の時、豊前国(福岡県)小倉永照寺の西吟について大乗起信論の講義を聴聞する(西吟は永照寺の住持。京都の東福寺で臨済禅を学び、浄土真宗の宗学を究め、故郷に帰り、後進の指導、学問の伝授に当たった)。
          ◎明暦元年(1655)、京で学ぶ鉄眼の耳に明から渡来した隠元禅師(1654渡日)の噂が伝わり、鉄眼、即座に長崎へ渡り隠元の門に入る。鉄眼二十五歳の頃である。その後、隠元は摂津国普門寺に請われるまま赴くが、その間、鉄眼は、長崎福済寺で隠元の弟子木庵について参禅した。
          ◎万治元年(1658)六月、鉄眼、隠元禅師を追って長崎をたち、摂津普門寺を訪ねて参禅する。
          ◎寛文元年(1662)に入って、鉄眼、三十歳の頃、豊後国臼杵の多福寺に参り、賢厳禅師の楞厳経の講義を聞いた。多福寺で開かれる楞厳会は有名な集まりで、一定の期間修行僧が座禅し、楞厳経を唱えるというもので、この時、五百人あまりの僧が集まって楞厳経の講義を聞いたという。鉄眼はここで、彼の生涯の事業を助けることになる宝州、如空の二人とも知りあうことになる。鉄眼、この時、師に代わって講義をすることにもなる。
          この年、宇治に黄檗山万福寺開かれる。妙心寺住持龍渓が隠元禅師のため幕府と交渉、将軍家の賛同を得て、宇治の土地をもらい受けての建立。すべて明国様式でつくられ、教えも黄檗宗独自のものがあった。
          ◎この頃から、大蔵経(一切経)を印刷したいという志しが鉄眼の胸の中に湧く。大蔵経とは、釈迦の説いた教えである「経」と、教団の掟である「律」と、仏弟子や高僧の所説や解説である「論」の三蔵を網羅した仏教聖典の総称であり、日本にはその写しや、天海版の大蔵経も少しばかりは印刷されていたが、有名な寺に少しあるだけで、閲覧も容易ではなかった。そこで鉄眼は明国から大蔵経を買い求め、それを印刷して多くの人々の目に触れるようにしたいと考えたのである。
          ◎寛文八年(1668)春、鉄眼は難波の月江院(住吉区長居)に招かれ、大乗起信論の講演をした。この講演の後、鉄眼は長く暖めてきた、大蔵経開版に関する自分の決意を初めて公表し、寄捨を求めたのである。この時、妙宇という尼僧が一千両の寄付を申し出たのである。鉄眼の思いが形となりはじめる。
          ◎寛文九年、鉄眼、大蔵経開版の縁起をつくり、黄檗山の隠元禅師と木庵和尚に報告する。隠元は「また資金ができたら明国から完全なものを求めればよい」として、自分が明国から持ってきた方冊大蔵経の提供を申し出る。さらに黄檗山内に版木の集蔵庫の提供を受け、宝蔵院としてこれを開く。印刷所は京都に建て、そこで版木を彫ることになる。
          ◎同年七月、これら一切を宝州に任せ、鉄眼は、資金集めのため江戸へ向かい、浅草海雲寺で仏教と人生論の説法を行う。多くの武士や町民がこの講演を聞こうと列を成した。安穏と念仏を称え、経を上げるだけが僧だと思っていた江戸の人々は、鉄眼の体当たりの講演を聞いて感銘を受け、大蔵経開版のための資金づくりの話はたちまち江戸中に広まる。
          ◎寛文十年(1670)、難波の薬師寺が改修され瑞龍寺となり、鉄眼がその住持として招かれる(俗にいう鉄眼寺)。これ以後、鉄眼はこの地を足場に活動を展開する。宇治から京へは五里、大坂から京へは十三里、この間を鉄眼は、かごに乗り、あるいは淀川の舟に乗りと頻繁に往来することになる。
          ◎延宝二年、延宝四年に近畿地方に大洪水あり。
          ◎延宝六年(1678)、大蔵経開版事業の完成。
          ◎天和元年(1681)、版木の印刷も軌道に乗る。この年の暮れ、鉄眼は、印刷したばかりの大蔵経を携え江戸に向かい、幕府に献上するための手続きをとる。そんな鉄眼のもとへ、近畿地方の大飢饉の様子が報告されてくる(1682年の二月に近畿地方を襲った大飢饉)。江戸出発前から、その兆しがあり、鉄眼は難波や宇治、京都で飢民の救済活動をしてきたが、飢饉はひどくなる一方。弟子からの手紙には「小屋の中は骨と皮ばかりになった人間が五体を投げ出すように死んでおり、子を捨てる親も多く、淀川には芋を洗うように子供の頭が浮いている……」と飢饉の惨状が書き連ねてあった。鉄眼は幕府への献上手続きを延期し、江戸の親しい武家から金を借り集め大坂へと帰った。
          ◎天和二年、鉄眼の飢民救済活動、本格的に始まる。午前は、資金集めのための講演。昼から夜までは、瑞龍寺施行門に集まった人たちに米を与え、銭を与え、彼等の生きる道を開く。
          この瑞龍寺施行門に集まった人々は、二月十三日=二千人、十四日=六千人、十五日からは一万人余り、二十日ごろには二万人余りになった。長期の飢饉のため、多の寺の施行所に米や金がなくなったためである。
          鉄眼は、群がる人々のため、四ヵ所の施行門を六ヵ所に増やし、二十一日までは、一日ひとり十文ずつを施したが、より分けて紙に包む人数が足りず、二十二日からは米一合ずつを紙に包んで施した。その包をつくる作業も並大抵のことではなく、瑞龍寺の僧は夜も寝る暇がなかったという。
          ◎二月二十二日付け、鉄眼より江戸の山崎半右衛門宛の手紙
          「借屋の者終日夜通し飢餓にて泣き叫ぶと、大家もことのほか迷惑いたし候と承り候。拙僧の施行始まり候後は泣き叫びもいたさず候。しかれどもかように大勢にては、たとい淀川の水をくみ候て施し申し候とても続き申すことにてはこれなく、しかれども、二万余りの者迷い惑い、その過半は餓死いたすべくを見申しながらやめ申すことまかりならず候ゆえ……。拙僧施行やめ候えばことごとく餓死に及び申し候ゆえ、たとい指を刻み、骨を折りて施し候ともこの施行やめ申すまじく……」
          ◎二月二十九日、鉄眼、過労のため、病に倒れる。翌日、残っていた米と銭が施された後、瑞龍寺の六ヵ所の施行門は閉じられた。
          ◎三月二十二日、鉄眼、没する。
          【参考文献】
          ■高僧伝「鉄眼」仏教説話体系
          ■辻善之助「大日本仏教史」
          ■鉄眼寺蔵「天和二年二月二十二日付け鉄眼より山崎半右衛門宛の書状」
          ■赤松晋明「鉄眼禅師」教養文庫(弘分堂刊)
          ■赤松晋明「鉄眼」(雄山閣刊)

          ◇佐久間勉
          明治十二年(1879)〜明治四十三年(1910)
          日露戦争も終わった明治四十年(1907)、日本海軍は二隻の潜水艇を建造した。そして四十三年四月十五日、海軍大尉佐久間勉を艇長とする第6号潜水艇は途中訓練をしながら呉軍港へ帰るべく新湊を出港した。全長22.5メートル、排水量57トン、水上速力8ノット、水中速力3ノット、発射管一門という幼稚で貧弱な性能だったという。その鈍さから「ドン亀」と称された潜水艇は、やがてスピードアップと電力節約のため、ガソリン潜航に移り、艇を半分沈め一部を水上に出したまま航行することになった。ところが艇はそのまま潜航を続け、すべて海面下に没してしまった(午前10時10分)。しかも浮上予定が過ぎても上がってこず、午前11時10分、潜水母艇から異常発生の通知が呉の基地へ無線された。
          艇は捜索の結果、新湊から南々東一浬、水深十尋のところで翌十五日未明に発見された。引き上げ作業が開始され、十七日午前10時になってようやくハッチが開けられることになった。艇内に入った人がそこで最初に見たものは、艇長はじめ十四名の乗組員がそれぞれの部署についたまま、絶息死している姿だった。狼狽や混乱のあとはどこにも見られず、指令搭隅の机上からは水で膨らんだ艇長の手帳が発見された。そこには暗闇の中で、死の恐怖と闘いながら、沈没の原因などが記述されてあった。
          この遺書は、全文、四月二十日に国民に発表された。

          佐久間艇長遺言
          小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艦ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申訳無シ、サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ、我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レント雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ、希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲサスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ、
          沈没ノ原因
          瓦素林〔ガソリン〕潜航ノ際過度深入セシ為メ「スルイス」バルブ」ヲ締メントセシモ途中「チエン」切レ依テ手ニテ之ヲシメタルモ後レ後部ニ満水セリ
          約廿五度ノ傾斜ニテ沈降セリ、
          沈据後ノ状況、
          一、傾斜約仰角十三度位、
          二、配電盤ツカリタル為メ電燈消エ、電纜燃エ悪瓦斯ヲ発生呼吸ニ困難ヲ生ゼリ、
          十四日午前十時頃沈没ス此ノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニ力ム、
          一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ、燈消エゲージ見エザレドモ「メンタンク」ハ排水終レルモノト認ム、電流ハ全ク使用スル能ハズ、電液ハ溢ルモ少々、海水ハ入ラズ、「クロリンガス」発生セズ、残気ハ五〇〇磅〔ポンド〕位ナリ、唯々頼ム所ハ手動ポンプアルノミ、
          「ツリム」安全ノ為メヨビ浮量六〇〇(モーターノ時ハ二〇〇位)トセリ、
          (右十一時四十五分指令搭ノ明リニテ記ス)
          縊入ノ水ニ溢サレ乗員大部衣湿フ寒冷ヲ感ズ、余ハ常ニ潜水艇員ハ沈着細心ノ注意ヲ要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ムベカラズ、細心ノ余リ、畏縮セザラン事ヲ戒メタリ、世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ或ハ嘲笑スルモノアラン、サレド我レハ前言ノ誤リナキヲ確信ス、
          一、指令搭ノ深度計ハ五十二ヲ示シ、排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ、
          此ノ辺深度八十尋位ナレバ正シキモノナラン
          一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス、カカル時ニ困ル故、幸ニ本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽クセリ、満足ニ思フ、我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス、サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出ノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スル事言フ必要ナシ、田口浅見兄ヨ之レヲ愚父ニ渡タサレヨ)

          公遺言
          謹ンデ陛下ニ白ス、我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ、我ガ念頭ニ懸ルモノ之アルノミ、
          左ノ諸君ニ宜敷、
          (順序不順)
          一、斎藤大臣一、島村中将一、藤井中将一、名和少将一、山下少将
          一、成田少将一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラルゝ如キ感アリ)一、小栗大佐一、井手大佐一、松村大佐(純一)一、松村大佐(竜)
          一、松村少佐(菊)(小生ノ兄ナリ)一、舟越大佐一、成田鋼太郎先生
          一、生田小金次先生、
          十二時三十分呼吸非常ニクルシイ
          瓦素林ヲブローアウトセシ積リナレドモ、ガソリンニヨウタ
          一、中野大佐
          十二時四十分ナリ、
          【参考文献】
          ■別冊太陽−日本の心59−「日本人の辞世・遺書」(平凡社刊)
          ■赤瀬川原平監修「辞世の言葉」−生きかたの結晶−(講談社刊)

          黒死病とユダヤ人

          2010.05.08 Saturday

          0

            トゥルネーのペスト
                               (トゥルネーでのペスト流行の模様)

            一、ユダの火

            マルセイユの火祭り一九七八年のことです。教会側の働きかけによって、フランスはアルザス地方南部の小村ヴュー・タンから、伝統的なひとつの火祭りが姿を消しました。火祭りの名は《ユダの火》といわれ、ユダがイエスを裏切った故事に基づき、《ユダ》という名の藁人形が、大掃除で出たもろもろのガラクタと共に櫓の周りで燃やされるというものです。
            この火祭りは復活祭にともなって行われるもので、藁が、死や不吉、不作、病苦を象徴するものと考えられ、《ユダ》もまた一種の不吉なもの、あるいは悪の化身として焼き殺されるという設定になっています。そしてイエスの弟子である《ユダ》は、いつしかユダヤ人そのものを指すようになっていきました。
            この火祭りは、ヨーロッパ社会にあって、ユダヤ人たちがつねに排除の対象となってきた証しでもあり、そればかりか、伝統的な祝祭、特に火祭りが、いわゆる民衆文化のなかで「異端」を焼き殺してきた場所として利用されてきた証しでもあると言えるのではないでしょうか。そのことは、中世末期から近世にかけて、魔女を初め、ユダヤ人や異端者たちが、水刑や絞首刑といった一般罪人用の処刑ではなく、火炙りによって処刑されていたことからも窺い知れます。
            蔵持不三也氏は、その著「異貌の中世」の中で、ストラスブール北西約二十キロメートルのオアツェネムで、復活祭の火祭りが《ユダヤ人を焼く》という名で営まれていたとして、その祭りの模様を次のように紹介しています。

            復活祭主日二目前の聖金曜日、村の子供たちは木を集め、これを祝福されていない教会横手の墓地の一角に積み重ねる。彼らはまた手押車をひきながら村内を一巡し、各農家から薪を集める。一方、村人たちは犬に掘り出されて帰属の分からなくなった骨やゴミ、古い葬送品など、予めこの日のために取り集められていたものを火塚の上に乗せ、時には《ユダヤ人》と呼ばれる藁人形もそこに置く。
            火入れは土曜日の夜明け前に行われ、司祭がまず燧石で火をおこし、これを木炭に移して火塚に点火することになっていた。火の管理は子供たちに委ねられ、火が燃え尽きると、彼らは灰を墓地に撒き、さらに残り火で教会堂内のロウソクを灯した。
            戦後になると、火祭りの場所は墓地が手狭になったために教会堂の西側に移り、復活祭のロウソク点火も聖土曜日の夜に変わった。だが、火塚の火入れに先立って、司祭が子供組の最年少者たち(七〜八歳)に、《箱の鍵を捜してくるように》、と言って役場に行かせる慣行は維持された。「子供たちはこの箱の中にユダヤ人が閉じこめられていると信じていた。むろん役場に行っても、そんな鍵などあろうはずもなく、彼らが空しい気持で戻ってくる頃には、火塚はあらかた燃え尽き、残り火の間に僅かに《骨》(前述)がみられるばかり、となる。そこで、彼らは実際にユダヤ人が焼かれたと思い込んだという。

            また、同氏によれば、「一九七五年にストラスブール大学の人間科学部が調査・収集した民俗資料によれば、オアツェネムよりさらに九キロメートルほど西にあるリッテネムや十キロメートル南のウィウェルシェムでは、聖金曜日、子供たちに村中を引き廻された藁人形の《ユダヤ人》が、翌土曜日の早朝四時頃、教会前広場で、司祭の祝福を受けた火塚ともども焼かれたという」し、そのほかにも、アルザス中部リボーヴィレ周辺での《ユダ焼き》、ミュルーズ北西のアールマンスウィレーにおいては、主任司祭と他の聖職者たちが村人たちと共に火祭りを行い、その薪が《ユダヤ人たちを焼くため》のものだと言われている例などをあげ、その何れもが、燃え残った灰を「魔除け」や「災難避け」の護符として用いたことを紹介しておられます。
            以上、長々と「ユダの火」りについて紹介してきましたが、それは、ここに紹介された火祭りが、現在すべて中止されており、その消えていった祭りと、そこに隠された意味を少しでも残しておきたいと思うあまりで、また近世日本における「キリシタンの火炙り」と少なからず関係があると思うからなのです。そのことはさておき、私たちは、藁人形ではなく、実際に焼き殺されていった多くのユダヤ人について、以下に見ていくことにしましょう。特に、中世ヨーロッパにおいて、黒死病(ペスト)の恐怖から、信じられないほど多くのユダヤ人たちが焼き殺されていきました。そのおり使った私たちの心が、この機会に少しでも明らかになればと思います。


            二、ペストとねずみ

            ペスト流行の図一三三三年から一三三七年にかけて中国大陸を大飢饉が襲いました。長びいた旱魃に起因するものと思われ、広範囲にわたって死者が発生し、その数は、総計四百万人以上とする報告もあります。
            ところで異変は飢饉だけに止まらず、続く十年間に、飢饉後の体力減退と病気の状況下、「黒死病」として知られる腺ペストを発生させたのです。そして、このペストは、蒙古の国力を衰退させるばかりでなく、蒙古軍と共に移動するネズミたちによってヨーロッパへと広められていきました。より正確には、この大流行は、ペストが風土病となっている東アジア産と中央アジア産のアレチネズミ類によって、クマネズミが感染させられた結果、おこったものと思われます。
            そのために、なぜか古代以来ヨーロッパから姿を消していたクマネズミが、十字軍戦士の帰路の船によって再びヨーロッパに上陸し、ペストの仲介者の役割を果たすことになります。
            同じように、今日におけるペストの終結も、クマネズミがドブネズミによって駆逐されることによって達成されました。今まで言われているように、決して人間がペストに勝利したのではなさそうです。
            クラウズリー・トンプソンの『歴史を変えた昆虫たち』によれば、「一七二七年には、別の種、ドブネズミの大集団がロシアからヴォルガ川を泳いで渡り、西方へ移動しているのが見られた。一七一六年、ロシア艦隊によって〔ドブネズミの〕標本がコペンハーゲンにもたらされ、そののちヨーロッパ全土がドブネズミに占領され、二百年以内に先住者のクマネズミは大半追い出されてしまった。今日では、クマネズミは主として船や港で見かけられる。ドブネズミは下水や屋外に住み、その習性は人間と密接な接触をたもとうとしていない。このとき以来、ペストはヨーロッパでは激しい流行病としての役割を終えた」というのです。


            三、黒死病の恐怖

            ペスト医師ペストは、おそらく一三四七年から四八年にかけての冬に、シチリア、サルディニア、コルシカなどの島々やヴェネツィア、マルセイユを初めとする地中海沿岸都市に上陸し、一三四八年の十一月には北イタリアからスイスへ入り、翌四九年の五月にバーゼルおよびアルザス南部のスンゴー地方に、六月にはコルマールに、七月にはストラスブールヘと達しました。
            一三四九年の夏、フランドルのトゥールネにはじめてペストによる死者が出たとき、年代記作者ジル・リ・ミュイジスは、その模様を次のように報告しています。
            「毎日、死体が教会に運ばれた。五人、十人、十五人と。聖ブリス教区では、今日は二十人、次の日は三十人と。すべての教区教会で、副司教、教区付聖職者、鐘つき男が、報酬をたのみに、朝に夕に、そして夜に入っても、弔いの鐘を打ち鳴らした。この鐘の音が、男女を問わず、市の全住民の心を恐怖で満たしはじめた」と……。
            やがて弔いの鐘も禁止され、死者の家での集会も禁止されました。棺に付き添ってなく「泣き女」は失業し、墓地は市壁の外につくられ、あらゆる面で「死」と「生」が隔離されるようになったのです。6このペストの症状について、ボッカチオは「男のばあいも女のばあいも、まず病気が現われるのは股の付け根とか脇の下の腫瘍であり、その大きさは並のりんごほど、ないし卵ほど、大きいのも小さいのもある。民衆はこれをガヴォチオーロと呼んでいる。この死のガヴォチオーロは、このからだのふたつの部分から、方向を問わず、からだの各所に伝播し、ひろがりはじめる。そうなると病気の形態が変りはじめ、黒い、ないし青黒い斑点が、多くのばあい、腕とか股とか、そういったところに、あるいは数少なく大きく、あるいは小さく数多く現われる。ガヴォチオーロは近づく死の確実なしるしである」と述べております。
            その潜伏期間は一〜九日、死亡率は六〇〜九〇%にのぼり、教皇クレメンス六世が教皇庁の役人から受けた報告によれば、全世界でペスト禍に倒れた人間の数は、四二三八万六四八六人であり、ドイツだけでも一二四万四四三四人が倒れ、三年ないし四年の年月の間に、ヨーロッパ人口の三分の一から二分の一が失われることになったのです。これは三人に一人、あるいは二人のうちどちらかが死ぬという状況であり、恐らく人類が知った、もっとも激しい人口の大異変と言えるでしょう。
            ところが、この大異変を体験したヨーロッパの人たちは、勿論、その原因を知るよしもなく、その災禍は、激しい恐怖を巻き起こさずにはおきませんでした。そして、その恐怖の捌け口となるべき犯人捜しがはじまったのです。
            ペストの原因として、先ず人々が考えたのが、神の罰でした。次に毒物説。天体の異常現象によって起こったとする占星的原因説。そして大気汚染説……。
            その中で、誰かが毒を流したとするのが一番受け入れやすい考え方でした。その誰かがユダヤ人に結びつくのに、長い時間は必要ありませんでした。

            レマン湖とシオン城
             (レマン湖とシオン城 ※写真・動画共有サイト「フォト蔵」から転載させていただきました)

            四、レマン湖のほとりで

            スイスはレマン湖のほとり、シオン……。
            シオン城をその水面に写す風景は、絵はがきや観光写真の格好の材料であり、日本の我々にもなじみ深いものとなっています。そんなのどかな風景とは裏腹に、このシオンで、今からほぼ六百五十年の昔、目を覆うような凄惨な光景が繰り広げられました。
            この地区の人々は、実際にペストが来るよりも早く、ペストが毒物撒布によるものだという無責任な噂のほうに先に感染したのでした。
            一三四八年九月のことです。何人かのユダヤ人薬剤師が拷問にかけられ、その一人が井戸に毒を流したことを自白させられたのです。彼らがどのような拷問を受けたのかは分かりませんが、普通はまず、さまざまな拷問用具を見せたり、拷問を受けている者の苦痛の叫びや呻きを聞かせることからはじまります。それでも白状しない場合、水責めがあります。これは容疑者の手足を壁の金具に固定し、台の上にのせ、まず九リットルの水を飲ませ、それで駄目だと、また九リットルの水を追加します。次に足炙りの拷問、これは伸ばした両足を縄できつく縛り、足の裏や脇の下、頬、性器などを、油や硫黄を塗ったうえで火で炙って焦がすというものです。最も効果的と言われたのが「爪剥ぎ」の拷問です。これはとがった金具を爪の間に入れ、爪を引き剥がすというもの。この他、木片を脛にあてがって木の角と縄で絞め上げるという「足責め」、体を拷問台に縛りつけ、引き裂かんばかりに引っ張るという「肢体牽引」など、数え上げれば切りがありません。ただ言えることは、何れの拷問にしたところで、それが正確な情報を引き出すためにするのではなく、用意されたシナリオ通りの答えを引き出すためになされたということです。
            池上俊一さんの著した「魔女と聖女」は、このことに関し、次のような興味深い事例をあげておられます。

            たとえば、十七世紀のこと、バイエルンでリーダーマイジッヒ市長が拷問にかけられても、いっこうに自白する気配がなかった。そこで刑吏は言った。「なんでもいいから吐いておしまい。潔白であろうとなかろうと、あんたの破滅はもう決まっているんだから。われわれの仕事が早くかたづくように、なにか犯罪をでっちあげてくれ」と。

            「この哀れなユダヤ人薬剤師の場合も、自分が井戸に毒を流したという以外の答えは認められませんでした。そのことを自白するまで、拷問は執拗に繰り返されたに違いありません。
            結果、このユダヤ人は次のような自白をおこなったのです。すなわち、「フランス南部地方の同宗のユダヤ教徒のある者によって手のこんだ陰謀が進められ、蜘蛛、蛙、とかげ、人肉、キリスト教徒の心臓、聖餐式に供えられた聖体から毒物を抽出調剤し、この非道な調剤物から作られた粉末はユダヤ人集団に配布され、キリスト教徒が日常飲料水を取っている井戸に投げ込んだ」と……。彼の証言で、彼を含むユダヤ人居住区の全員が、恐怖の絶頂にあって皆殺しにされました。
            こうしてユダヤ人毒入れの噂はたちまちのうちに広がり、隣接するアルザス各地(火祭りのところで紹介)にも不穏な空気が漂い出しました。噂の真偽が検討され、衆議はユダヤ人犯人説で一致しました。これに勢いづいた反ユダヤ者たちは、ストラスブールに住む一八八四人のユダヤ人たちに改宗を迫り、二月十四日、これに応じなかった者約九百人が、「ユダヤ人の穴」と言われる穴で焼き殺されたのです。なお焼き殺されたユダヤ人の財産は、ストラスブールの行政当局が残らず没収することになりました。
            やがて、ユダヤ人が毒を撒いたという話は、スイス、フランスにとどまらず、ライン河に沿ってオーストリア、ポーランドまで、野火のように拡がっていきました。そして、長いユダヤ人殉教史上、かつてない大虐殺が相次いで起こり、六十の大ユダヤ人集団、百五十の小集団が絶滅されたのです。


            五、鞭打ち苦行者の群れ

            「毒物撒布説」と並んで説得力があったのが「神の怒り」説でした。教会側としても、「神の断罪としての黒死病」を最大限に利用しました。ペストから逃れるため、またペストに冒されたときのためにも、教会への寄進をはじめとする善行によって自らの罪を贖おうと言うのです。その希求心を煽るために、聖セバスティアヌス、聖ロクス、聖アントニウスなどがペストの守護聖人としてかつぎあげられました。
            これによって、教会がかなりの富を得たことは間違いなく、たとえば、イタリアは「シェナのピアッツァ礼拝堂」や、ドイツの「ウエルツェンにある使徒教会」などは、黒死病が去ってから間もなくして建立されていますし、アルザス地方でも、荒廃していたストラスブールの「サン・ピエール教会」と「サン・ニコル教会堂」が、まさにこの時期に改修されているのです。
            また、異教、異端の輩を排除するという、もう一つの贖罪の善行がありました。狂信的な人々にとって、ペストは、異教徒をそのままにしている自分たちへの「神の怒り」以外の何ものでもありませんでした。
            これ以前、中世の最も偉大な教皇と言われたインノケンティウス三世の主催による「第四回ラテラン教会会議」(一二一五年)は、異教徒であるユダヤ人に「差別バッジ」をつけさせるという苛酷な反ユダヤ人政策をうちだしました。このことは、大衆の反ユダヤ人感情を煽るのに大いに役立ち、やがてそれがペストの恐怖と結びついたとき、ペストの内に神の罰を感じた人々にとって、キリストを十字架にかけたユダヤ人の許容こそが罪であり、神の怒りをその血によって贖うべきだと容易に思ってしまうことになるのです。

            このころ、村や町の広場に、十字架を背負い、自らを鞭打つ苦行者の群れが頻繁に現われるようになりました。ときとすると、かれらは千人を越すこともあり、ふたりずつ並び、頭巾で顔をかくし、背と腹に赤い十字の印を縫いつけた粗衣をまとい、視線を地面におとし黙々と歩きます。
            彼らは村の広場に来ると、上半身、裸となり、われとわが身を鞭打ちます。鞭は杖の先端に三本の皮紐がさがり、大きな結び目がいくつかこしらえてあるもので、その結び目には、麦粒ほどの針のように鋭い鉄の釘が突き刺してあります。この鞭をふるって、自分自身の裸体を打つのですから、肌は青黒くふくれあがり、血が地面にしたたり、あるいは見守る村人たちの顔に飛び散ります。
            いつしか村人たちも、しだいに彼らの物狂いにひきずりこまれ、その間合いを見計らって、リーダーが叫ぶように演説をはじめるのです。
            「誰がキリストを十字架にかけた!」
            「誰が異端者に目をつぶっているのか!」
            「お前たちではないのか。お前たちがペストを招いているのだ!」
            「今こそ、ユダヤ人の血によって神の怒りを贖うべきときだ」と……

            ユダヤ人の穴この鞭打ち苦行団は、イエス・キリストの三十三年間の生涯にちなみ、三十三日の間、聖地を巡礼するというもので、堀越孝一氏によれば、一三四九年の三月にはボヘミアに、四月には北ドイツのリューベックに、五月にはアウクスブルクに、六月にはシュトラスブールとコンスタンツに、七月にはフランドルに姿を現わしたと言います。その内、コンスタンツには四万二〇〇〇の鞭打ち巡礼が入ったと言い、トゥールネには、二ヵ月半のあいだに五三〇〇人が入ったと言います。フランドルからネーデルラントにおもむいた彼らは、さらに海峡を越えて、九月にはロンドンを訪れたのです。
            そして鞭打ち苦行者によるユダヤ人虐殺は、ドイツにおいてクライマックスに達します。そのころ、フランクフルトにおいて、ユダヤ人は、もっぱら財政上の見地から国王カール四世によって庇護されていました。ところがペスト騒ぎの混乱に乗じ、鞭打ち苦行者の狂信的な集団がマイン川上流から現われ、市内に侵入したのです。
            苦行者たちは、ユダヤ人街を襲いました。警鐘により市民が武器を取り、彼らを撃退しましたが、ユダヤ人たちは虐殺され、放火により焼死し、その街は廃墟と化してしまったのです。近接する大聖堂も、内陣の屋根が炎につつまれました。鞭打ち苦行者は、黒死病を神罰と見なし、キリストを十字架にかけたユダヤ人の許容が罪であり、神の怒りをその血によって贖うべきだと説き、これによりフランクフルトにおけるユダヤ人団体は壊滅したのです。
            この大虐殺はドイツ・ユダヤ人にとって災厄の絶頂でした。彼らは二度と、かつての繁栄と人口を快復できなかったのです。

            鞭打ち苦行者の行き過ぎに、教皇クレメンス六世が禁令を発したのは、十月に入ってからのことでした。 

            「歴史の中に見る死」 Vol.1

            2010.05.06 Thursday

            0

              平等院鳳凰堂

               「歴史の中に見る死」、こんなテーマで本をつくりたいと思ったことがあった。そのために企画書まで用意したが、ついに形になることはなかった。
              今、ブログなるものをはじめ、せめて自分の書くブログの中に、その思いを残しておこうと思った。以下は、そのときに用意した文章である。

              一般には「死」という問題は忌み嫌われることが多いようです。最近になって、脳死や臓器移植の問題がマスコミで取り上げられるようになり、「死」という言葉自体、身近なものになりつつあります。それでも自分の死ということになると、誰しも触れたくないし、まだまだ自分とは関係ないことと思うのが常のようです。
              幼かった頃は、逆に「死」ということをよく考えました。「死ぬときは痛いんだろうか」「死んだらどうなるんだろうか」「眠ってしまって、このまま死んでしまったらどうしようか」等々。ところが成長するにつれて、「死」は遠いところへいってしまったようです。実際には近付いている筈なのに、なぜか自分とは関係ないもののようになってしまいました。
              でも私たちの心の中には「死」に対する様々な思いがつまっています。誰でもが経験しなければならない、そして、決して逃げることのできない「死」。この問題を前にしては、どんなことも意味のないように思えてしまいます。どうしてもこの「死」の問題を取り上げたいと思うようになり、いろんなアプローチの仕方を考えました。社会的な問題から「死」という問題にアプローチしていく方法。精神的な面から「死」という問題に迫っていくやり方。個人の体験から「死」という問題を浮かび上がらせていく方法。いろいろと考えては形にならずに消えていきました。そして、いつかこの問題も忘れていきました。
              ところがあるときから、この「死」という問題が、また自分の中でブスブスくすぶり始めたのです。この問題を整理していく中で、どうしても自分でやりたいことがあるのに気付きました。昔からずっとやりたかったことです。冗談混じりに話したことはありましたが、まともに人に話したことはありませんでした。「死」という問題を歴史の面からアプローチしてみたいということです。と言っても「歴史的に−死−にたいする思想がどう変遷してきたか」などと、そんな難しいことを語るつもりはありません。歴史の中で生きた人間が、どんな死を迎え、どんな思いを出してきたのか、どんな苦しみを抱えて死んでいったのかを見てみたかったのです。社会的な面でのアプローチは、近い将来形にしていくとして、どうしても、まずこのことを取り上げたいという思いがありました。
              方法は、歴史的な史資料を使って、その人の直面した死を浮き彫りにしていく。できるだけ一次史料(この場合は本人の書き残したもの、もしくは同時代に生きた関係者が本人の死について書き残したもの)が残されている人物を選ぶ。その中からさらに自分の心に響いてくる人物を選び。その死にざまを再現していく。有名度は無視し、「死」と直面したいろんなケースを取り上げ、そのときの苦しい思いを浮かび上がらせていく。史資料での再現の際、歴史論文ではないので、簡単な読みやすい物語的な表現にしていく。
              以上のようなことを思い、次にあげるような目次と、取り上げる人物の簡単な解説を用意いたしました。ぜひ一読いただけるようお願いします。


              『歴史の中に見る死』全体の構成

              第一章 末法の闇の中で
              1.蛇道に入った歴史家−阿闍梨皇円−
              末法を嘆き、弥勒の救済を願って入水自殺し蛇の化身となる
              「我等たまたま受けがたき人身の身を受けたと雖も、時はたまたま二仏の間であり、無仏の時代である。五十六億七千万年生きながらえ、弥勒の下生を待たんには……」
              2.阿弥陀の糸にすがって−藤原道長−
              自ら写教して埋経、弥勒の救済を願う=末法の恐怖と、痛みからくる苦痛の中で、阿弥陀仏の糸を握りしめながらの最期

              第二章 生き地獄の中で
              1.鳥取の飢餓地獄−吉川経家−

              「とっとりの事、夜昼二百日こらえ候。兵糧つきはて候まま、我ら一人御用に立ち、おのおのをたすけ申し、一門の名をあげ候。そのしあわせ物語、御ききあるべく候」
              2.転び伴天連の死−荒木了伯−
              殉教できなかった日本人宣教師の晩年と最期

              第三章 京の死、大坂の死(二人の文化人)
              1.天刑病を背負って(嵯峨野の死)−角倉素庵−
              京都の名門、嵯峨本の出版など文化事業に貢献、癩病を病んで嵯峨野ですべてを捨てた生活に入る。
              2.飢民救済と一切経(なにわの死)−鉄眼道光−
              一切経の版木づくりと飢民救済に奔走し死んでいった一生

              終章 鉄の柩の中で

              明治時代、日本初の潜水艇実験で事故死した艇長(絶息死までの30分間に記した手記)


              阿闍梨皇円
              生没年不祥(平安時代後期、天台宗の僧)
              皇円は法然の師である。関白藤原道兼四世の孫、三河権守(みかわごんのかみ)重兼の子と言われ、家門を捨てて比叡山に登り、椙生(すぎう)流の皇覚に就いて出家し、顕密二教を受学した。
              長兄の資隆が肥後守(ひごのかみ)であったため、阿闍梨となって以後は肥後阿闍梨と称した。
              久安三年(1147)、法然は比叡山の戒壇院で受戒してから、この皇円に就いて天台教学を学び、「法華教」「法華文句(ほっけもんぐ)」「摩訶止観」の天台三大部を究めたという。
              また皇円は、歴史に造詣深く、六国史以下の史籍、僧伝、社寺縁起などを参照、神武天皇から堀河天皇の嘉保元年(1094)までの編年体の史書「扶桑略記」30巻を編纂したと言われている。
              その死にざまは、末法にある己を恐れ、自力では救われぬことを苦しんだうえでの入水自殺であった。

              末法思想というのは、釈迦の入滅後、五百年間を正法時代と言い、釈迦の教えが正しく伝わる時代、その後一千年間を像法時代と称し、釈迦の教えは伝わるが、自力で悟ることは難しくなる時代だと言い、これ以降の時代を末法と呼んで、この時代に生まれた人間は、五十六億七千万年先の弥勒下生のときまで如何なる方法によろうと救われることがないという思想である。
              日本では後冷泉天皇の永承七年(1052)に末法時代に入ったと言われ、夏だというのに雪が降ったり、飢饉が起こったりで、いよいよ末法の到来だと、僧侶たちはその身を悲しみ、多くの者が自殺したと言う。
              俗伝によると、皇円も末法時代に生まれたその身を嘆き、嘉応元年(1169)六月、弥勒菩薩の下生に預って得道しようと願い、「我ら受けがたき人身の身を受けたと雖も、ときは偶々二仏の間であり、無仏の時代である。五十六億七千万年生きながらえ、弥勒の下生を待たんには。人身にてはかなわず……」と、遠江国笠原荘(今の静岡県浜岡町)桜池に入水自殺し、大蛇に化身したという。
              今も、秋の彼岸(9月23、24日の両日)には、お櫃納めの行事があり、赤飯を詰めた櫃を池の中央に沈め、皇円の魂を供養しようとしている……。

              江州睿山沙門皇圓傳
              (前略)未出生死。况在二佛中間。無由依怙。如是因循。輪囘三界。隔生即忘。失菩提種子。我聞諸趣之中。蛇趣長命也。不如捨此身入蛇道。待慈尊出世。受其摂化也。於是使弟子普相入定之攸。即至遠州笠原荘。乞郡守得櫻池。禅坐数日。及命終期。掬池水容掌中。安坐而寂。翌歳天久不雨。一日風浪激蕩。池水塵芥悉簸拂。郡守勘其日時。正當圓之寂日。爾来靜夜鈴聲音。隠隠聞於池中。於今忌日。郷民備盛饌。祭於池上云。
              圓有史才。釿明帝至堀川帝。五百五十年間。朝廷政蹟。釋氏之事。皆悉撰述。繋年月日。成扶桑略記三十巻也。(後略)

              未だ生死から解脱できず、釈迦と弥勒の二つの仏の間にあって、どちらに依ることもできず、ぐずぐずと三界を輪廻し、自分の本質をも見失ってしまった。(釈迦は過去に滅し、今や末法の世になり、次に弥勒が仏となって現れるのは五十六億七千万年先のことである。)聞くところに依ると、蛇は長命という。この上は、蛇道に入り、弥勒の現れるのを待って、その教えを受けようと。
              かくして入定の地を定めるべく弟子の普相を遣わすに、遠江の国、笠原荘に至った。そして、その地の郡守に乞い櫻池を最後の地と定めたのである。
              皇円は数日その地に禅坐し、命の終わるに当たって、池の水を掌に入れ、そのうえで座死したという。翌年、久しく雨が振らなかったが、ある日、風浪極めて激しく池の塵芥を悉く吹き飛ばしてしまった。郡守が思い当ったことは、その日が皇円の命日だったということである。それ以来、静かな夜は、池の中より鈴の音が聞えるという。今も、その忌日には村の人々が櫃に飯を盛り、池に供え祭るということである。
              また皇円は歴史に才能があって、釿明天皇から堀川天皇に至る五百五十年間の朝廷の事跡や仏教関係のことを悉く編纂し、「扶桑略記」三十巻を成したと言う。

              【参考文献】
              ■大日本仏教全書「本朝高僧伝66」−江州叡山沙門皇圓傳−(仏教全書刊行会)
              ■辻善之助「大日本仏教史」
              ■朧谷寿「王朝と貴族」日本の歴史6(集英社刊)


              藤原道長
              康保三(966)〜万寿四(1027)

              国宝 藤原道長金銅経筒皇円と同じく、藤原道長も弥勒の下生を待った一人である。自ら観音経や、弥勒経などを写経し、銅筒に入れた上、弥勒の浄土に日本で最も近いといわれる吉野の金峯山にこれを埋めた。もし、弥勒下生のおり、自分が苦界に沈んでいるようなことがあれば、写経の功徳で救ってもらおうというのである。五十六億七千万年先に自らの写経を残そうとした、いわばタイムカプセルのはしりと言えよう。栄華を究めた藤原道長にして、死後の世界への不安はどうすることもできなかったようである。寛弘四年(1007)道長、四十二才のときのことである。
              ところで、そんな道長の栄華は娘の婚姻政策によるところが大きい。まず長女彰子が長保二年(1000)、一条天皇の中宮になり、寛弘五年(1008)第二皇子敦成親王を出産(第一皇子は藤原道隆の子であり一条天皇の皇后貞子を母とする敦康親王)。ついで翌年、彰子は第三皇子敦良親王を出産している。
              さらに一条天皇の後を継いだ三条天皇にも、その即位前年に、道長は次女妍子(17才)を入れている。三条天皇にはすでに東宮時代に入内した藤原済時の娘、成子がいたが、彼は四歳年長の成子より、年下の妍子に心を移していった。
              しかし、三条天皇と道長の間はしっくりといかず、即位後三年にして目の病にかかり視力が衰え、長和四年(1015)秋ごろには遠近の区別も付かなくなり、道長に請われるまま譲位を決意した。こうして即位したのが、彰子の子敦成親王(第二皇子)=後一条天皇である。三条天皇はその交換条件として成子の子敦明親王(第一皇子)の立太子を道長に承諾させた。
              そして、寛仁二年(1018)道長の三番目の娘威子(20)が、その後一条天皇(11)の皇后(姉の子供と結婚したことになる)となり、道長は、五十三才にして、大皇太后(彰子)、皇太后(妍子)、皇后(威子)の三后をすべて自分の娘で独占したことになる。このとき道長は最高の権力に達した。なお道長は、第三皇子敦良親王のもとにも末娘嬉子を入れている。
              十月十六日、立后の儀を終え、この後、里第(道長の屋敷)たる土御門第で威子の祝の儀があり、道長は「此世をば我が世とぞ思う望月のかけたることもなしとおもへば」という有名な和歌を詠んだ。
              しかし、この頃から道長の健康状態おもわしくなくなる。まず眼病が進み、見えにくくなってきたところへ、十二月末には俄かに胸の痛みを訴え発熱。肺結核であったらしい。翌年一月十日、十五日にも胸の痛みを訴え前後不覚となっている。一月十七日には「胸病発動、辛苦終日」(御堂関白日記)ともある。この年、寛仁三年(1019)三月二十一日、道長、出家。法名は行観。六月十九日には法名を行覚と改め、病がいくぶんよくなるや、七月には無量寿院(法成寺)の造営準備を始める。さらに丈六金色阿弥陀仏像十体の造立を発願する。
              寛仁四年三月、無量寿院の落慶供養が終わるや、続いて無量寿院十斎堂、及び三昧堂の造作を開始する。金峯山詣でに見られるように、若い頃から道長の宗教活動は盛んであったが、身体をこわしてからは特に盛んとなったようだ。
              しかしその甲斐もなく、万寿二年(1025)以降、不幸が続く。末娘の嬉子がこの年八月に親仁親王を生んだ(8/3)後、急死(8/15)。十九才の若さであった。道長はこの娘の死後、急に心身ともに衰えていく。万寿四年に入ると道長の病状がおもわしくなく、二女妍子の病状も進む。九月四日、妍子危篤。十四日、崩御(34歳)。
              この妍子の崩御により、道長の病もつのり、十一月十日には重態。道長、念仏を始める。度者(受戒した僧の意?)千人を給わり、病気平癒がおこなわれる。二十一日には飲食も絶え、背に腫れ物もでき、医療も受けられない状態となる。二十四日には「心身不覚如酔人」とあり、道長入滅の誤報あり。人々が驚き駆けつけると、背中の腫れ物の毒のせいか、道長の身体に震えがあったという。二十五日には、西北院から阿弥陀堂に移り、二十六日に危篤となる。後一条天皇、法成寺に行幸、法成寺に対し、封戸五百戸を寄進。三十日、招魂祭行われる。十二月二日、背中の腫れ物に針を入れるが、膿汁、血など少ししか出ず。そして、四日、崩御する。
              仏の相好にあらずより外の色を見むとおぼしめさず、仏法の声にあらずより外の声を聞かんとおぼしめさず。御目には弥陀如来の相好を身奉らせ給、御耳には、かう貴き念仏をきこしめし、御心には弥陀如来の御手の絲をひかえさせ給て、北枕に西向きに臥させ給へり、十二月二日、常よりもいと苦しうさせ給へば、(中略)人々出して見奉らせ給に、あはれに悲しういみじうて、ほとほと御声をたてさせ給つべし。(中略)ついたち四日巳時ばかりにぞ失せさせ給いぬるやうなる。されど御胸より上は、まだ同じように温かにおはします。猶御口動かせ給は、御念仏せさせ給と見えたり。(中略)夜中過ぎてぞ冷え果てさせ給ける。(「栄花物語」より)

              【参考文献】
              ■山中裕「藤原道長」教育社歴史新書45(教育社)
              ■石田茂作、矢島恭介「金峯山経塚遺物の研究」(帝室博物館学報8)
              ■藤原道長「御堂関白日記」日本古典全集刊行会
              ■松村博司「栄花物語全注釈」(角川書店刊)
              ■朧谷寿「王朝と貴族」日本の歴史6(集英社刊)
              (続く)

              紙幣から消えていった古代史の主役たち No.4 和気清麻呂

              2010.05.05 Wednesday

              0

                和気清麻呂肖像紙幣

                 凹版彫刻者  発行年  種類  備考
                 キヨッソーネ  明治23年(1890)  改造兌換銀券10円  表いのしし札
                 細貝為次郎  明治32年(1899)  甲10円券  裏いのしし札
                 大山 助一  大正4年(1915)  乙10円券  左和気札
                 加藤 倉吉  昭和5年(1930)  丙10円券  第1次10円札


                和気清麻呂_キヨッソーネ
                木戸孝允肖像画今回取り上げるのは「和気清麻呂(わけのきよまろ)」だが、今の人にはなじみが薄いのではないでしょうか。僕にしたところで、名前は知っていますが、では何をした人かということになると、かなり考えないと出てきません。そこで、まずは彼について、大まかなことだけを紹介しておくことにします。
                和気清麻呂については、「道鏡事件」を抜きには語れません。「道鏡事件」というのは、神護景雲3年(769)、仏教政治の時流に乗って政界に入った道鏡が、孝謙上皇(後に称徳天皇)の寵愛を利用し皇位を望んだことに端を発します。その時、清麻呂は37歳、近衛将監で美濃大掾を務めていました。
                そしてこの年の5月、大宰主神である習宜阿曽麻呂が、「道鏡を天皇の位につければ、天下は太平になる」という宇佐八幡の神託を、朝廷に報告してきたのです。
                道鏡の差し金に違いありませんが、朝廷は混乱しました。臣下の身で皇位を窺うという、前代未聞の事態でした。
                そこで清麻呂に白羽の矢がたち、「汝よろしく早く参りて、神の教へを聴くべし」となったのです。
                この年の6月末、宇佐八幡の神託の真偽をたしかめるため、清麻呂は勅使として旅立ちましたが、そこで伝えられた神託は、「道鏡を皇位に即けよ」でした。
                しかし清麻呂が朝廷に戻り宇佐八幡の神託として報告したのは、「わが国家は開闢(かいびゃく)より以来君臣定まれり。臣をもって君となすこと、未だこれあらざるなり。天つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃い除くべし」だったのです。つまり、皇位をねらう道鏡を「朝廷から追い出してしまえ」との神託を報告したわけです。買収しているはずの宇佐八幡からの神託が思い通りのモノでなかったわけですから、道鏡は怒り狂い、清麻呂を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名の上、大隈国(鹿児島県牧園町)へ流刑にしました。しかし、神護景雲4年(770年)8月、道鏡を寵愛した称徳天皇が逝去し、道鏡は失脚します。これにより清麻呂も、光仁天皇により従五位下に復位されたということです。
                以上が、和気清麻呂と道鏡事件の概略ですが、このことにより清麻呂は勤皇の忠臣と見なされ、明治20年の閣議決定により、紙幣の肖像として採用されることになったのです。なお、清麻呂の姉、
                和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、日本で最初の里親制度はじめるなど孤児救済事業で知られていますが、これについては別の機会に……。

                いよいよお札の話ですが、和気清麻呂の肖像の原型をつくったのも、やはりイタリア人彫刻士キヨッソーネです。彼は、和気清麻呂に関する歴史資料をあさった上で、そのモデルに印刷局での彼の上司である「佐田清次彫刻部長」と、明治の元勲「木戸孝允」を選びました。佐田さんについては、写真資料がありませんが、木戸孝允については、キヨッソーネ自身が彼の肖像を完成させています。そこで、彼の描く「和気清麻呂」像と「木戸孝允」像を、上に並べてみました。比較に当たっては「木戸孝允」像が右向きに描かれていたため、「和気清麻呂」像と同じ左向きに修正してみました。まさに髭さえあれば瓜二つというところです。

                和気清麻呂_細川為次郎
                続いてキヨッソーネの愛弟子「細貝為次郎」の彫刻になる、明治32年発行の「甲10円札」。キヨッソーネのイメージを踏襲して、「護王神社の建物を追加し、裏面には勢い良く走るイノシシの姿を描いた」ものになっています。(お札と切手の博物館編「日本紙幣の凹版彫刻者たち」)

                和気清麻呂_大山助一

                これはマニア垂涎、日本で唯一といわれる「左肖像の紙幣」。アメリカ式直刻技法を印刷局に導入した大山助一彫刻士の作品。従来のイメージが損なわれないよう大山助一によって彫り直されたものと言います。

                和気清麻呂_加藤倉吉
                最後は、「若手の実力者・加藤倉吉が初めて本格的な肖像彫刻を担当した」昭和5年発行の丙10円券。「この作品により、加藤の彫刻者としての評価が固まり、その後の昭和初期の紙幣彫刻の殆ど全てを担当することになった」作品。(お札と切手の博物館編「日本紙幣の凹版彫刻者たち」)

                なお、この10円札(和気清麻呂肖像)は、戦時中、アメリカによって贋札が大量に作られたそうです。表(おもて)は和気清麻呂の肖像が描かれた精巧な10円札ですが、裏は投降を勧告する宣伝ビラになっていました。
                和気清麻呂も、戦争中は、アメリカ軍の心理作戦に協力させられたというお粗末。最後に、その写真を、植村峻さんの「お札の文化史」から転載し、この項を終わることにいたします。

                「紙幣から消えていった古代史の主役たち」、あと残るのは、「菅原道真」「聖徳太子」「日本武尊」の3人です。

                アメリカ軍が降伏勧告文を裏面に印刷した10円札 

                 

                 


                 

                ◇ご案内

                 

                 

                「あなたの知らない奈良のかつらぎさん ―かつらぎガイドブック―」

                ISBN978-4-909201-06-5 A5判 250ページ(オールカラー) 1,200円+税

                 

                2018年12月20日、この本の出版協力者の呼びかけが、クラウドファンディングでスタートしました。
                書店が良心的な「少部数出版物」と「読者」との出会いの場所でなくなった今、「本」と「読者」を結ぶ新しい試みだと思います。ぜひ、内容をご確認の上、ご協力をお願いいたします。

                 

                  協力の内容 1口 2,500円には

                  あなたにお送りする「本」1冊1,200円/図書館用に寄贈する「本」1冊1,200円/発送費 2件分500円

                  が含まれています。


                ご申し込みいただいた方は、上記タイトルの本を1冊送らせていただくほか、この「本」の巻末に「応募者の氏名と都道府県名」を、出版協力者として掲載させていただきます。例:「山田太郎 大阪府」「山本花子 奈良県」


                https://readyfor.jp/projects/katsuragi 

                 

                表紙は、大阪芸術大学デザイン学科3回生 津村凪咲さん提供のものに決定しましたが、細部は変更になる可能性があります。

                 

                長崎貿易関係者とキリシタン迫害

                2010.05.04 Tuesday

                0
                  平戸 焼罪(やいざ)/カミロ神父殉教の地(対岸は長崎の平戸口)

                        

                  この「長崎貿易関係者とキリシタン迫害」という雑文も、中央公論社「歴史と人物」に掲載した原稿なのだが、頂いた掲載誌が行方不明で、果たして何年の何月号に載ったものか分からない。テキストデータだけが手許に残っていたので、覚えのため、ブログに掲載しておくことにした。


                  長崎貿易関係者とキリシタン迫害

                  はじめに
                  近世初頭のわが国海外貿易について考えるとき、キリスト教布教活動の消長が、絶えず貿易とダブルイメージとなって現われる。わが国貿易関係者は、この貿易と布教、そして国内統一政権との間にあって、その時々の力関係に身をゆだねながら、貿易活動を維持し、その利益を享受してきた。
                  このため一六一二年以後、江戸幕府が禁教政策を国是とし、これを理由として海外貿易の大幅な統制にのり出すと、貿易関係者の中から多くの背教者や迫害者を生み出すに至った。
                  有馬の領主松倉豊後守重政(まつくらぶんごのかみしげまさ)、長崎奉行竹中采女正重義(たけなかうねめのしょうしげよし)、長崎代官末次平蔵政直(すえつぐへいぞうまさなお)、彼等はいずれも近世海外貿易に活躍した者たちであるが、また同時に日本キリシタン史に暗い陰を残す最も過酷な迫害者たちでもあった。
                  ここではまず、当時の全般的な状況を平山常陳(ひらやまじょうちん)事件の中にとらえ、さらに前記三人の迫害者に焦点を絞り、禁教時代の対外貿易とキリスト教との関わりについて若干の考察を加えていくこととする。

                  平山常陳事件
                  徳川幕府はキリスト教に対して、秀吉の政策を受け継ぎ、これを禁ずる方向をとった。すなわち一六一二年には、徳川幕府最初の禁教令が出され、家康の没した一六一六年には、これに加え、唐船以外の来航を、長崎・平戸に限定するという、さらに徹底した対キリシタン政策が打ち出されるに至った。
                  このように幕府が公然とキリシタン迫害に踏み切った背景には、オランダ・イギリスの対日貿易開始という事実を見逃せない。
                  ポルトガルの対日貿易はエンリケ皇子の精神を継承した、一方にキリスト教圏拡大という性質を有したものであり、これに対して新興国オランダ・イギリスは、プロテスタントとして宗教と貿易をまったく分離して考えるという性質のものであった。
                  このオランダが平戸に商館を設立したのが一六○九年、次いで一三年にはイギリスが同じ平戸に商館を開設した。ここに幕府はポルトガルの手を経ずとも対外貿易利益を手にすることが可能となったわけである。
                  しかし、この最初の禁教令の出される以前、すなわち一六○八年、ローマ法皇パウロ五世は、宣教師の日本渡航に関して、それまでイエズス会士がインド経由によってのみ日本に布教に行くことが許されていたのを、いかなる派の宣教師がいかなる地を経由しようとも、自由に日本に行けるようこれまでの制限を撤廃することを公布した。
                  これ以後、カトリック系宣教師たちは、度重なる禁令の公布にもかかわらず、あるいはマカオを経由し、またあるいはマニラを経由して、ときに商人を装い、ときに兵士を装って、あるいはイエズス会士が、あるいはフランシスコ会派宣教師が、次から次へと殉教の熱に燃えて潜入することとなったのである。
                  さて日本においては、迫害は日々に苛烈さを加え、殉教者は後を絶たず、日本人信徒たちは「自分たちの難儀と希望とを書き、慰安者として、また指導者として宣教師を要求した」。
                  ここに派遣されることとなったのが、ドミニコ会のフローレス神父とアウグスチノ会のデ・ズニガ神父である。彼等は一六二○年六月「ヨハキム・ディアスすなわち平山常陳という名の日本人キリシタンの船に乗って(マニラ)を出帆した」。
                  ところでこの前年、オランダとイギリスは東インドにおける植民地争奪の争いに一応のピリオドをうち、共通の敵ポルトガル・イスパニアにあたることとなった。一六一九年七月七日、ロンドンにおいてイギリス東インド会社とオランダ東インド会社の間に締結された条約がこれである。
                  話を戻そう。フローレス神父を乗せた常陳の船は、マニラを出帆後、嵐のためマカオを経由し、やがて台湾の沖へと出た。
                  「ときにマカオの沖を巡航してきた艦隊の派遣船でエリザベス号という船に出会った。」
                  このエリザベス号こそ、前条約のもとに編成されたオランダ・イギリス連合防御艦隊の一艘である。彼等は常陳の船に宣教師らしき人物を見つけるや、この船を捕獲し、宣教師たちはやがてオランダの手から幕府へと差し出され、一六二二年八月、常陳と共に火あぶりによって殉教することとなる。これが「阿蘭陀(オランダ)御忠節」として知られる平山常陳事件の概略である。
                  さてこの事件で最もうまく立ち回ったのがオランダであろう。オランダはこの事件を巧みに利用し、日本人朱印船貿易家とポルトガルに大きな打撃を与えた。
                  一六二〇年九月八日、オランダ・イギリス両商館員が連署して長文の訴状を幕府に提出した。その内容はルソン・マカオへ向う日本船に対して「陛下(将軍秀忠)が今後一切渡航許可証、即ち免許状を附与せざらんことを願う」と言うもので、その理由は彼の地への渡航はポルトガル・イスパニア及び一部日本人商人を理するにすぎず、それに反し「陛下の国土都市の蒙るべき損害は大なるものあり。日本よりルソン・マカオへの渡航が継続する間は、陛下も承知せられる如く、如何に厳しく之を礼明し制禁せらるるとも、其の地から伴天連(バテレン)を導き来ることは断絶すべきに非ず」と言うのである。このようにオランダ人がポルトガルや日本人貿易家を目の敵にするのにはそれなりの理由がある。
                  当時の対日貿易の実体はそのほとんどが中国の生糸貿易であった。この頃、日・中間は倭寇の跳梁のため交易は途絶しており、その間隙を縫って活躍したのがポルトガルであった。ポルトガル人は中国領マカオに基地を持ち、その地の生糸を日本に舶載し「毎年多少を平均して銀約二一〇万乃至一五〇万デュカツト」の利益を挙げ、その利益率は「百につき五十より少なきことなく、大概七十五を挙げた」といわれるほどの活躍ぶりであった。これに対し日本人貿易家はポルトガル商人に資本を託しマカオ貿易に参加するほか、自らは交址・ルソンをはじめ南洋各地に赴き、その地に乱立した日本人町と一体となって生糸・産物を独占し、何者であれ日本人の手を経なければ商品が入手できないという状況をつくりあげていた。
                  例えば交址に渡来する日本人についてオランダ人は「当地の貿易は甚だ不良である。けだしこれらの日本人が来ると市湯は悪化し、凡ての商品は騰貴した」と彼等の活躍を嘆いている。
                  このように、対日貿易に途中から割り込んできたオランダにとって、ポルトガル及び日本人貿易家は最大のライバルであり、この二つのライバルを除くために出されたのが、前述の幕府宛書状である。しかも平山常陳事件の発生はこの訴状の裏付けをなすものであり、この訴状が幕府の対外政策に与えた影響は少からぬものがあったと考えられる。
                  かつてポルトガル貿易全盛時代には、キリシタンであることが海外貿易の免許状であり貿易の利益を約束したが、今やキリシタンであることは日本人貿易家にとって致命的な打撃を被る原因とさえなった。
                  幕府は禁教を口実にポルトガルばかりでなく、日本人の貿易参与も大幅に制限を加えはじめた。しかし日本人貿易家の反鎖国意識は直接幕府に向けられることなく、オランダとキリシタンへと向けられた。キリシタンの脅威を背景に幕府に朱印船貿易の廃止を願うオランダは、彼等にとってまず倒さなければならない敵であったろう。
                  この朱印船貿易家とオランダ東インド会社の対立は、台湾における関税問題をきっかけとして末次平蔵とピーテル・ノイツの対立、すなわち台湾事件として表面化するに至る。そして禁教令にもかかわらず陸続として潜入してくる伴天運たちは、禁教を口実とする貿易統制が強化されるたびに、日本人貿易関係者の反感を煽ることとなったのである。こうして彼等の中から背教者が相次ぎ、その中には末次平蔵のような苛酷な迫害者が誕生するにいたった。
                  台湾事件に関する考察は別の機会に譲ることとして、次にこの反キリシタン感情と貿易についてさらに考察を続けていくこととする。

                  貿易と迫害
                  カルロス・スピノラ神父の殉教一六一二年一慶長十七年八月六日、徳川幕府最初のキリシタン禁教が公式表明された。
                  一、伴天連門徒御制禁也、若有違背之族は、忽不可遁其科事
                  さらに翌々一六一四年、キリシタン門徒はすべて長崎に収容され、十一月にはマニラ・マカオへと追放、長崎の諸教会もすべて破却されるにいたった。そしてこの時からキリシタン迫害の時代が始まるのである。常陳事件以後迫害は益々苛烈となり、常軌を逸した拷問や処刑が数多く行なわれた。とろ火の火あぶり、雲仙の地獄責め溺没、穴吊り、竹鋸挽き、数え上げれば際限がない。
                  ところで、この雲仙の地獄責めについてはライエル・ハイスベルツの詳細な記録がある。
                  夜間囚人たちは温泉の湿気をよく通す狭い小屋に閉じこめられる。「昼になると囚人を熱湯の傍に置き、小さな柄杓で熱湯を徐に全身に注ぎ、絶えず棄教するや否やを質問する」囚人が「衰弱すると、上手な医師にかけて治療を加へ、回復したと認めると再び前の様に呵責する。」この拷問を三日間忍び得る者は甚だ稀な事だと言われた。これを考えたのが松倉重政であり、彼は長崎奉行竹中重義にもこの地獄責めの使用を奨めている。
                  この竹中重義が長崎の新奉行として到着したのは一六二九年七月二十七日のことであり、彼はこれよりローマ派耶蘇教徒を根絶するためありとあらゆる苛酷な方法をとった。
                  「ある人日く、転宗は彼にとって大きな喜悦である。もし彼が一人の宣教師を捕らえ得たら、その者の転宗するまで彼は同様な方法で、呵責を継続したであろうと。」
                  この同じ年の五月、松倉重政は高来で七人の日本人キリシタンの頸や腕を竹鋸で挽き切らせた。キリシタン信徒の頸を竹鋸で挽くなどという事は恐らく重政が最初で最後であったろう。
                  さて、この松食重政も、キリシタンに対し最初の頃は、頗る同情的であった。例えば一六二一年、イエズス会の一神父が召捕らえられたとき「この召捕らえは秘密にしてあったので、天性やさしい有馬の新しい大名豊後殿は(幕府に)かくしおはせればいいと思った」さらに「彼は、神父の牢舎に宛てるために、よい家を準備させ、且つ神父がミサ聖祭をたて、キリシタンを接待し且つ告解を聴く自由をあたえた。」
                  このように天性やさしいと言われた重政が、雲仙の地獄責めを考え、キリシタンの頸を鋸で挽かせた。この両極端は何を意妹するものであろうか。パジェスは重政のキリシタンに対する同情的な態度について「何となれば、彼は、フィリピンとマカオの貿易を心がけていたからであった」と、貿易への志向がその原因であったと述べている。
                  禁教令発令以前、ポルトガル貿易におけるイエズス会の役割は大きく「ほとんど総ての日本人は、もし司祭がいないならば、日本人はポルトガルと取引が出来ない」と考えたほどであり、それゆえにこそ重政のキリシタンに対する同情的な態度も理解できるのである。
                  末次平蔵背教もこの同じ原因に根ざしている。平蔵の父コスメ興善は、ザヴィエルの宿主となった平戸の木村氏の出身であり、この一族からは日本人で最初の司祭となったセバスチァン木村も出ている。平蔵自身も当初はキリシタンでありジョアンの洗礼名を持つ。彼が棄数したのは長崎代官の職を得るためであり、このため前長崎代官村山当安と対立、彼をキリシタンとして告発し、自らは教を棄て、かえって迫害者となった。
                  これ以後「彼は修道士を逮捕すべく懸命に探索を開始し、破簾恥にも多数の修道会士を転ばせようと説得するに至った。」ドミニコ会士オルファネールは、長崎でおこなわれた多くの拷問、教会の破壊には「すべて平蔵が関係している」と、その迫害者ぶりを披露している。
                  このように貿易活動が布教活動と深く結びついている時、彼等はキリシタンに同情的である。しかし禁教の徹底が貿易の縮少をも意妹するようになると、彼等の姿勢は一変せざるを得ない。
                  「天性やさしい有馬殿」が雲仙の地獄責めを考え、ザヴイエル以来の名門キリシタン木村一族から、背教者末次平蔵政直を生み出す結果となるのである。

                  貿易の絆
                  末次船絵馬(模写)さて、未次・竹中・松倉の三氏は、これまで見てきたように、長崎地方におけるキリシタン迫害の元凶とも考えられる存在であった。しかし、また同時に彼等は長崎貿易の主役でもあり、その貿易を絆として各々が互いに深く結びついていた。彼等の関係については岩生成一博士が『朱印船貿易史の研究』で紹介された英・蘭側史料の中にいくつか見出すことができる。例えば英船ブルが日本からフィリピン島近海を経てバタビヤに帰航したときの航海記には「一六二二年三月二日、本日我々はマニラに航行せる長崎奉行豊後殿と平蔵殿に属する日本人のジャンク船にあったとあり、松倉重政と末次平蔵のマニラ渡航日本船の共同派船について述べている。
                  また竹中重義については、一六二九年十二月十四日付のオランダ平戸商館長の書簡に「此の船はカンボジアに向い出帆したが、世評によれば皇帝のパスを所持せず、唯々采女殿の許可証を携えていた」とあり、さらに一六三一年三月十五日付書簡にも「我々は平戸候の命によりパス一通を(長崎出帆の船に)与えたが同船は長崎奉行竹中采女殿のパスを携えていた」とあって、竹中重義が朱印状を有しない渡航船に密かに私的な貿易許可証を発給していた、つまりは密貿易に関与していたらしいという事が推測されるのである。
                  また同史料に依れば、平戸の松浦氏もこのことに関与していたらしく、さらに次の史料によって松倉重政もこの密貿易に関与していたことが明らかとなる。すなわち一六三〇年「十二月半頃ジャンク船二隻マニラに向い出帆したが、極めて稀な事である。……一隻のジャンク船は日本においてキリシタンの大迫害者と言われている有馬の殿(松倉重政)により艤装され、日本人が乗り組み、他は印度水夫、支那人や日本人五、六名乗り組んで長崎から出帆した。(中略)此等のジャンク船は亦他の総ての船と均しく将軍のパスを持たずに、他地方に赴く他の多くの船のように何れも采女殿のパスを携えて出帆したが、事件の成り行き如何は時が経てば判明することであろう。」
                  この派船は松倉重政のルソン島遠征計画に関しての派船であり、このことについては若干後で触れることになるが、とりあえずここでは竹中重義と松倉重政の関係に注意を払っておいていただきたい。
                  さてこれら迫害者を捉えた貿易の絆は、さらに上層部へとひろがっていく。江戸幕府の最高官僚である老中職−この中にも長崎貿易と結びついた閣僚がいた。末次平蔵の死に関してオランダ側史料は、幕府閣老に深い疑惑の目を向けている。

                   

                  末次平蔵の石棺(長崎市内唐土山 作事中、石から血が流れ出し中断された)

                  末次平蔵はその死に際して「閣老、平戸侯、有馬侯、その他大勢の高官を糾弾しつつ告白を始めた。(中略)彼はこれらの高官たちこそ、彼の破滅と、彼が行なった悪事の原因であり彼はただこの手段として用いられただけで、このため今神にひどく罰せられている、と甚しくかきくどいた。」このため幕府閣老は彼を狂人として幽閉させた。「この処置は、彼等の一味が疑いを受けたり、これにより皇帝のもとで面倒が起ったりしないためである。即ち皇帝は、閣老が貿易に少しでも介入したり、従事したりしてはならないと厳しく禁じているにも拘らず、故平蔵殿の所で行われていたように、年々これが秘かに行われているからである。」
                  この史料は直接密貿易のことについては述べられていないが、平蔵が松倉氏や松浦氏と関係を持ち、さらに幕府閣老とさえ、貿易を通じて関わりを持っていたことが推測される。
                  ところで、この同じ年(一六三〇年)の十二月、松倉重政が卒した。彼の発案になるルソン島遠征計画実現のため、軍事偵察船がフィリピンへ出発した直後のことであった。
                  ところでこの計画は、カソリック系宣教師を日本軍事侵略の尖兵として把え、対外的危機意識を煽り、キリシタンの根拠地ルソン島を攻略しようというもので、この事は見方を変えれば、鎖国の主要なる原因とされるキリシタンの根絶を謀り、この事によって当時鎖国に傾きつつあった幕政を対外伸張政策へ切り替えさせようとした、最後の試みであったともいえる。
                  つまりルソン島遠征は「貿易と迫害」、この二つの関係の当然行き着くところであったとも言えるのである。しかし前述したように重政が病死し、計画は宙に浮いた状態となり、ついに実現することなく鎖国の時代を迎えるに至るのであった。

                  一六三二年、日本の対外貿易は一つの画期を迎えた。
                  すなわち、この年秀忠卒し、大御所秀忠と将軍家光の二重権力構造が消滅した。そしてこのことは秀忠側近層の解体と家光側近層の台頭をもたらし、ここにこれまで紆余曲折してきた対外政帯は鎖国化へと一元化されることとなる。
                  一六三三年には第一回鎖国令が出され、これと前後して竹中重義が長崎奉行を解任され、翌三四年(寛永十一年二月)、長崎奉行在任中の不正を以て浅草海禅寺において切腹を命ぜられた。
                  このように海外貿易の表面に立って活躍した三人は、三人が三人共鎖国の完成を待つことなく卒した。そして彼等が残したものは、近世海外貿易にまつわる黒い疑惑と、キリシタン迫害者としての後世への汚名のみであった。 

                  葬儀に関する仏教の常識って? 「世尊布施論」が示すもの

                  2010.04.29 Thursday

                  0

                    ネパールでブッダの降誕祭を体験

                    仕事でネパールのパタンに出張したときのことです。到着して3日目に「ブッダ・ゼンティ」というお祭りを体験することとなりました。聞けばブッダの降誕祭だといいいます。予期せぬ成り行きでした。ブッダが悟りをひらいたというネパールですが、今ではヒンドゥー教徒が人口の82%と圧倒的に多い状態です。仏教徒はわずか8%に過ぎないのですが、それでも町中あげての盛大なお祭りとなります。それが日本と違い、やたらとにぎやかなのです。日本なら「しめやかに行われました」となるのでしょうが、ネパールでは派手なこと、この上ありません。部族ごとにパレードが町中を練り歩き、楽隊がラッパや太鼓を鳴り響かせる。その先頭を行く、青、赤、黄、白、茶のにぎやかな旗。ネパールの友人に「あの旗は?」と訊くと、すかさず「ブッダの旗!」と答えが返ってきました。民族性と言えば、それまでなのでしょうが、同じ仏教で「どうしてこうも違うのだろう」と思わずにはいられません。
                    ネパールで、もうひとつ民族性の違いによるショッキングな出来事に遭遇しました。ネパールの葬儀を遠望することになってしまったのです。寺院のような場所に遺骸が運び込まれ(下の写真)、その遺骸は持参した石油で、その場で火葬に付されてしまいました。友人に訊くと、遺骨は川に撒かれ、それっきりだといいます。仏壇に位牌を祀るとか墓がつくられることもないというのです。
                    ネパールは、ヒンドゥー教と仏教が混淆した文化だと言われますが、それでも葬送の儀式については、仏教的な要素が強いようです。しかし、日本では、「葬式は家族だけで行い、墓は作らない」などというと、仏教徒が墓を作らないのは常識知らずだと、責められることにもなりかねません。
                    いったい、どうしてでしょうか? そこで、墓をつくることが、果たして仏教徒としての常識なのか、歴史的な面を含めて考えてみることにしました。

                    ネパールで見た葬儀

                    はじめに
                    人の一生には様々な儀式がついて回る。
                    誕生に当たっては、まずは安産祈願。妊娠五ヶ月目に安産を祈って神社に詣で、腹帯とか岩田帯と呼ばれているものを授けられ、これを捲く。生まれたら生まれたで、七日目をお七夜と称し、この日に赤ちゃんの名前を付けるのが古来からの習わし。そして、この名前を命名書に書いて神棚にお供えする。
                    生まれて一月が過ぎると、初宮参りといって、男子は生後三十一日目、女子は生後三十三日目に神社にお参りする。
                    この後も、お礼参り、七五三参りと生まれてからしばらくは神社との縁が切れないようだ。
                    特に「氏神」だ、「氏子」だと意識しなくても、多くの人が、このように神社と関わり、当たり前のように正月には神社に初詣をする。結婚式も圧倒的に神式が多い。最近はクリスチャンでなくても教会で式を挙げる人も増えているが、葬儀となると、俄然、日本人は「自分は仏教徒」だという意識を強くするようだ。生まれるときは「神様」で、死ぬときは「仏様」となるのが日本人の普通の姿になってしまった。
                    ところが最近、葬儀についてのトラブルが後を絶たない。その多くがお寺、あるいは僧侶との関係にあるようだ。こんな中、「葬儀不要」「墓不要」「戒名不要」の声もにわかに勢いづいてきた。つい先だっても朝日新聞の朝刊に、シニアの三割が「葬儀を望まず」という記事が掲載された。
                    しかし、一方で「葬儀は仏教でし、僧侶にお経を上げてもらい、戒名を授かり、死んだら墓に入るのが常識」という感覚が根強くある。だがこの常識、一体どこまでがホンモノなのだろうか。
                    なぜ、こんなことを言うかというと、そもそも仏教に「墓をたてる」という思想がない。「死んで戒名をつける」という考え方も存在しない。仏陀自身は、「僧侶が葬式に関わるべきではない」とまで言っている。
                    こんなことを言うと、みんなから「ウソーッ」という声が返ってきそうだが、多くの仏教国で常識となっていることが、なぜ日本では「ウソーッ」と叫ばれるような状況になってしまったのか。
                    先日も、ある女性からこんな体験を聞いた。彼女も「葬儀不要」「墓不要」という考え方なのだが、ある時、知り合いの町会議員の方と話す機会があったという。話題は、息子さんの結婚式の話。ところが話すうちに、「うちの息子が、結婚式は外国で自分たちだけで挙げる。たくさんの人を招いて披露宴など挙げたくないと、バカなことを言い出しよった」と怒りだしたのだ。彼の立場上、そんなわけにもいかないらしく、それがもとで口喧嘩となり、あげくは、息子さん、「そんな体面ばっかりの儀式に縛られたくない。一番いい例が葬式じゃないか、あんな金ばっかりかかる葬式、ホンモノじゃないよ。必要ないんだ」と自分の思いをぶちまけたらしい。
                    これには議員さん、よっぽど腹が立ったらしく「近頃の若い者はけしからん、あんた、どう思う」と、彼女に同意を求めてきた。
                    それをよせばいいのに、「私だって、今の形の結婚式や葬式は必要ないと思っています。お墓だって必要ないですヨ。先祖や親を敬うっていう気持ちが、どれだけ大きな葬儀を挙げるか、どれだけ立派なお墓をたてるかにかかっているなんて、ナンセンスだと思います。せまい日本、そのうち墓だらけになってしまいますしネ。息子さんの言ってること、案外、筋が通っていると思いますけど……」と口が滑ってしまったからたまらない。
                    「葬儀がいらない! 仏教徒が墓をたてない! そんなバカな話があるか!」と、怒りの矛先は遂に彼女に向かい「わしは仏教徒だ。お釈迦様を敬い、先祖を敬っとる。仏教徒が墓をたてないなど聞いたことがない。家を建てなくても墓はたてるべきだ。墓を持たない家は、いずれ衰退していく。わしが死んだら、墓がいらんというあんたの人生、これからどうなっていくか、草葉の陰からじっくり見届けてやる」ときたのです。
                    このことをどうこう言うつもりはないのですが、私たちは、仏教徒だからこうしなければならないとか、お坊さんが言うからとか、常識だからとか言いますが、もし、この常識の根本が間違っていたらどうなるのでしょう。
                    ここでは「葬式が必要だ」とか「必要でない」とか、「墓がいる」とか「いらない」とか、そんな話をするつもりは全くありません。私たちが仏教で当たり前だと思っているもの、世間で常識だと思っているものに焦点を当て、本当にそれが仏教での常識なのかを考えてみたいと思うのです。

                    世尊布施論 全体

                    1.西本願寺に伝わる宝物「世尊布施論」って、どんなお経?
                    まずは上の写真をご覧下さい。これは西本願寺に伝わる『世尊布施論』という経典です。
                    写真撮影の許可を求めたのですが、「そんな経典は当寺には存在しません」と、あっさり断られました。それでもあきらめず問いつめると、「資料室に確認したのですが、確かに以前はあったようですが、現在は見つかりません」という答えが返ってきた。
                    しかたがないので、ケン・ジョセフ氏の著作から転載させていただくことにした。印刷物からのコピーのうえ、今では使われていないような漢字も交じっており、ずいぶん読みにくいのだが、でもよく見ると、どこかで聞いたようなフレームが並んでいる。例えばこの三行目に注目してみよう。

                    世尊布施論 部分01「始布施若左手布施勿令右手……」(左の写真)
                    どこかで聞いたことはないだろうか。
                    そう、新約聖書マタイ伝「山上の垂訓」に「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」、あの一説だ。
                    また一八行目の中程には「看飛鳥亦不種不刈亦無倉坑」(右下の写真)とある。まさに『山上の垂訓』にある「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません」、そのままです。
                    このほかにも、「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです」のフレーズや、「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい」などのフレーズが見つかるはずだ。
                    こうしてみていけば、親鸞が学んだという『世尊布施論』という経典、何のことはない『マタイ伝・山上の垂訓』そのままの漢文訳だった。漢文で書かれているため、今まで仏典として、また親鸞が学んだため、西本願寺の宝物として保存されてきたという。
                    日本在住のアッシリア人で景教(原始キリスト教)の研究家として知られるケン・ジョセフ氏は、この『世尊布施論』との出会いを次のように記している。

                    私は実際、西本願寺に行って、この『世尊布施論』について聞いたことがあります。寺の人に、「景教の書物がこの寺に保管されていると、本で読んだのですけれども、それはありますか。見せてもらえないでしょうか」と聞きました。しかし、何人かに聞きましたけれども、「いいえ、そういうものはありません」と言う。
                    世尊布施論 部分02「でも、こうやって写真まで出ているじゃないですか」と、私が持っていた本を見せました。それでも「知らない」と言います。そのうち、私がねばっていると、奥の方から責任者らしいおじいさんが出てきました。
                    「はい、たしかにあります」
                    と言ってくれました。「でも、大切にしまわれているものですし、古くて傷みやすい状態なので、普通はお見せしていません」とのことでした。「でも、どうしてもと言われれば、お見せすることもしていますが、それを撮影した写真がありますから、普通はその写真を見ていただいています」と。
                    それで、写真を見せていただきました。それは私の持っていった本のものと同じでした。こうして、西本願寺に景教の書物があるのは本当だと知ったのです。あの浄土真宗の開祖、親鸞が、これを何時間も読んで学んだということは、私にとっても感慨深いものでした。
                    (ケン・ジョセフ「〔隠された〕十字架の国・日本」徳間書店)

                    このことは一体何を意味するのだろうか。
                    私たちは、日本に初めてキリスト教が入ってきたのは、一五四九年、フランシスコ・ザビエルによってであると教えられてきた。それが親鸞の時代には、すでにキリスト教の教典が入ってきているというのだ。
                    驚いて調べてみると、高野山にも『景教伝達碑』なるものがあるという。
                    早速行ってみると、高野山一の橋から奥の院参道に入り、二手に分かれている道を右手にしばらく歩いたところに、それはあった。まず英文で書かれた『安住家』の供養塔が目に入り、その隣に『大秦景教流行中國碑』と頭に大きく三行に彫られた石碑がある。これがお目当ての『景教伝達碑』だという。
                    しかし『中國碑』とあるように、これはもともと中国は西安にあるもののレプリカ(複製)だという。では、なぜそのレプリカが日本の高野山にあるというのか。
                    そのことに触れる前に、まずはその本体である中国・西安にある『大秦景教流行中國碑』について、久保有政、ケン・ジョセフ、ラビ・マーヴィン・トケイヤーの三氏の共著になる『日本・ユダヤ封印の古代史−仏教・景教編−』から、その概要を見ておくことにしよう。

                    中国における景教の様子については、西安(旧・長安)で発見された有名な、「大秦景教流行中国碑」が物語っています。これは七八一年に建立されたものです。しかし、のちの迫害の時代に隠され、一六二五年になってイエズス会士が発見しました。
                    この景教碑や、中国における景教文書、遺物等の研究者として、佐伯好郎教授は世界的に有名です。景教碑の複製は、弘法大師・空海の開いた高野山と、京都大学文学部陳列館にもあります。
                    景教碑は、次のような神への賛辞から始まっています。
                    「大秦景教流行中国碑。中国における景教の普及を記念して。大秦寺僧侶・景浄(シリア名アダム)叙述。……見よ。真実にしで堅固なる御方がおられる。彼は造られず造る御方、万物の起源、私たちの理解を超える見えない御方、奇しくも永遠に至るまで存在し、聖なるものを司る宇宙の主、三位一体の神、神秘にして真実な主なる神である。……」
                    この「神」は、原文では「阿羅訶」(アロハ)という漢字です。これはシリア語またはヘブル語の「神」を意味するエロハに漢字を当てはめたものでしょう。
                    景教碑に記されたところによると、唐の皇帝は景教を重んじ、中国の一〇の省すべてに景教の教えを広めました。こうして国は、大いなる平和と、繁栄を楽しんだといいます。また景教の教会は多くの町々につくられ、すべての家庭に福音の喜びがあったと、景教碑は記しています。
                    王室の儀式、音楽、祭、宗教的慣例なども、ガブリエルという名の景教徒が担当していたと記録にあります。
                    当時の長安の都は、このように多分に、景教文明によるものでした。たとえば景教徒の自由と人権の思想は、中国社会に強い影響を与えました。唐の文学者・柳宗元(七七三〜八一九年)の文学の中に、奴隷解放思想などが現われるのも、この頃です。
                    唐の時代の中国は、中国史上、文化・文明の上でも最も栄えた時代となりました。佐伯教授は、唐の時代の中国は、景教の強い影響下にあったと述べました。その文化の中枢に、景教徒が入り込んでいたのです。この時代、日本は遣唐使を派遣して、使節を長安の都で学ばせました。つまり、遣唐使が長安で学んできたものの多くは、純粋に中国生まれのものというよりは、多分に景教の影響を受けて発展した中国文化だったと、佐伯教授は述べています。

                    このように遣唐使や留学生(るがくしょう)が中国からもたらした文化というのは、多分に景教(原始キリスト教)の影響を強く受けたモノらしい。
                    九世紀に留学生として唐にわたった空海。そのもたらした密教も、どうも景教の影響を強く受けたモノの一つらしいのだ。高野山の僧侶たちは、このことを否定しようとはしない。むしろ「うちは単なるグレた景教にすぎないのです」と冗談めかした話をする。また、密教で結ぶ「引」の中にも、キリスト教徒と同じ「十字」を切るという「引」が存在するというのだ。ケン・ジョセフ氏は更に言う。

                    空海はどうして、景教にふれるようになったのでしょうか。……。
                    空海は、唐の時代の中国にわたりました。けれども渡る前に、すでに日本で、古代基督教徒であった秦氏、あるいは景教の人たちと接触していたようです。
                    空海の出身地、讃岐(香川県)は、じつは秦氏の人々が多く住んでいるところでした。その地には景教徒も多かったでしょう。また、空海の先生であった仏教僧「勤操(ごんぞう)」(七五八〜八二七年)も、もとの姓を秦といいました。
                    空海は彼らのパワーに驚き、基督教、景教のことをもっと勉強しようとして、彼らの紹介で当時アジアの基督教の中心地であった中国の長安に行ったのだ、と述べる人々もいます。
                    そのとき、のちの天台宗の開祖・最澄も一緒に、唐にわたりました。最澄は日本に帰るとき旧約聖書を持ち帰り、一方、空海は新約聖書を持ち帰ったということです。ところがのちに、空海は最澄とケンカをしてしまいます。つまり二人は、景教徒たちが中国で漢文に訳した聖書を、分けて持ち帰った。じつは天台宗と真言宗の違いはそこにあるのです、と。──これは高野山のお坊さんから聞いた話です。また、岡山県の大学で教授をなさっていた岡本明郎先生も、これについて長年研究して、そうおっしゃっていました。
                    高野山では、空海の持ち帰った新約聖書が読まれていた、と聞きます。今も某所には、空海の持ち帰った『マタイの福音書』が保管されていると。こういったことを、当時ゴードン女史が熱心に調べて、その結果、今の高野山に景教の碑が立つに至ったわけです。
                    (ケン・ジョセフ「隠された十字架の国・日本−逆説の古代史−」)

                    これを読む限り、空海以前、景況は既に日本に定着していたようだ。
                    聖徳太子が、イエスと同じく厩で生まれたという「厩戸の皇子」伝説も、既にキリスト教が日本に入っていたとなると、「なるほど」と納得できる。
                    ところで、ゴードン女子のことだが、日本を愛したイギリス人女性エリザベス・A・ゴードンのことである。彼女は、キリスト教と仏教の根本同一を確信し、その研究のため中国・朝鮮を調査し、明治末期にはこの日本を訪れた。そしてまず目を付けたのが真言密教。調べるにつれ、そこに原始キリスト教の影響が深く影を落としていることに確信を持つようになり、その研究の一環として、『大秦景教流行中国碑』のレプリカをこの高野山に建てたのだという。
                    ちなみにゴードン女子は、残された人生のすべてを、この研究に捧げ、1925年、七十四才でこの世を去ったという。最期の地は京都であった。


                    2.お盆という行事も景教から

                    このように、日本人が仏教だと思っているモノの中には、原始キリスト教の影響が色濃く残っていることが浮かび上がってきました。
                    それは単に思想的な面にとどまるのでなく、行事や風習の中にこそハッキリと刻み込まれています。 次に、我々が今まで仏教的だと思ってきた様々な行事や風習について見ていきたいと思います。

                    ,盆と先祖供養
                    仏教にはもともとお盆という風習はありません。お盆は盂蘭盆(ウラボン)の略ですが、これは「死者の霊魂」を意味するペルシャ系のソグド語「ウルバン(URVAN)」からきたというのです(仏教学者・岩本裕博士の説)。
                    ソグド人には家に祖霊を迎え、供え物を共に楽しむという風習がありました。中国のお盆はこれを取り入れたモノだというのです。
                    また景教徒にも、「じつは先祖の霊魂の慰安を祈る風習」があったと言います。

                    ユダヤ人は昔から、死者の慰安のために祈る風習を持っていました。ラビ・トケイヤーにお聞きしたところ、今日でもユダヤ教においては、ユダヤ暦七月一五日の「仮庵の祭」のときをはじめ、年に数回、先祖の霊のために祈る特別なときがあるそうです(イズコル)。
                    じつは中国には、ソグド人や景教徒がやって来るまで、死者のために祈る盛大な行事としてのお盆の風習は、ありませんでした。意外に思われるかもしれませんが、インド仏教にも中国仏教にも当初、お盆や、死者のための供養の行事はなかったのです。
                    しかし、中国は祖先というものを大切にする所です。その中国において、景教徒たちは勢心に、神の憐れみに満ちた取り扱いが先祖の霊魂にあるように祈りました。そうやって先祖を大切にする景教徒たちの態度は、中国社会でたいへん歓迎されたのです。そのために景教は、非常な勢いで人々の間に広まりつつありました。
                    一方、仏教は「先祖や親を大切にしない教え」として、儒教徒などから攻撃を受けていました。仏教は出家王義ですし、もともと、親を捨てないと救われないとする教えです。また先祖に執着心を持っていては修行できないとする考えですから、先祖や親への孝行を説く儒教の人たちから、さんざんに非難を受けていたのです。
                    それで、仏教でも先祖や親を大切にする態度を見せる必要がありました。中国の仏教僧たちは、景教徒たちに対抗し、「彼らに負けないだけの死者を弔う行事を仏教でも持とう」、と計画しました。そうやって、景教徒が中国へやって来た七世紀頃から、中国や、また日本でも、お盆の風習が始まるようになったのです。
                    ソグド人とインド人の混血として生まれ、長安の都で景教教会のすぐ近くに住んでいた密教僧・不空金剛(アモガ・ヴァジラ)はまた、西暦七六六年に、仏教徒らを集めて盛大な「死者のための供養祭」を行ないました。七月一五日のことです。これは道教の「中元」の日でもあったからです。
                    彼らはこうして、様々な宗教概念を仏教的な概念に編成し直し、景教徒への対抗意識から、歴代の中国皇帝の慰霊のために祈りました。このようにして、中国における「お盆」の風習が、仏教行事として定着したのです。この風習は、さらに唐の時代の中国にわたった空海や最澄らを通して、日本にも輸入されました。日本でもこうして、今日見られるような「お盆」の風習が定着したのです。(『日本・ユダヤ封印の古代史2−仏教・景教編』)

                    戒名と洗礼名
                    次に戒名について見てみましょう。佐伯好郎教授によれば、この風習についても、もとは景教のモノだというのです。確かに仏教には、もともと死者に戒名を付けるなどという習慣も教えもありません。本来の意味から言えば、戒名とは、教えに帰依したときに付けられる名前です。キリスト教の洗礼名と非常に似通っています。
                    現に空海は、中国で密教に帰依したとき、灌頂(かんじょう)の儀式を受けています。この灌頂の儀式というのは、梅の木でつくった棒で人の頭に水滴を三度注ぐ儀式です。
                    そして、この儀式の後、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という灌頂名を授かっているのです。キリスト教の「洗礼式」と「洗礼名」、それに密教の「灌頂式」と「灌頂名」、非常によく似通っています。これに反し、これに少しでも似たような慣習は仏教にはありません。しかも、灌頂ということ自体、密教以前にはなかったといいます。水滴を三度注ぐというのも、特に理由はなく、父・子・精霊の三位一体の名によって三度水をかける、キリスト教の「滴礼式の洗礼」をまねたモノだろうと佐伯教授は言うのです。
                    そして戒名を書いた位牌。これについても佐伯教授は、本来景教のモノであると言います。景教徒は、死者を弔う際に、亡くなった日付と洗礼名を書いた二つ折りの位牌を用いたのです。同様にお墓をつくるという慣習も仏教にはなかったモノです。
                    アジアにある多くの仏教国にはお墓をつくるという習慣がありません。なぜなら人は死ねば、また次の人生を生きるために生まれてくるのです。悟るまでこれを繰り返し続けると言います。死後の世界、死後の生活があって、そこに止まるわけではないのですから、墓も供養も必要ないというわけです。
                    故人の思い出のために墓をつくるというのは、実は非常にキリスト教的な発想であり習慣であると言えるでしょう。

                    数珠と焼香
                    僧侶の必需品であり、私たち一般の者でも葬式には必ず持参する数珠、これもキリスト教のコンタツ(数珠)が元になっているようです。ケン・ジョセフ氏は「一般に、仏教における数珠の発案者は、中国、随・唐時代の僧、道綽(どうしゃく 五六二〜六四五)だったと言われています。しかし、これはちょうど中国に初めて景教が入った時代で、景教徒の風習であった数珠が、仏教にも取り入れられた」のだろうと述べておられます。
                    この時代、『大秦景教流行中国碑』にあるように、中国において景教が全盛であったことと考えあわせると、なるほどと頷けるモノがあります。
                    また、焼香という風習についても、仏教には元々なかったモノです。これについても、ケン・ジョセフ氏は、「じつは線香とか焼香の風習は、もともと仏教の風習と思うかもしれませんが、そうではありません。仏教にははじめ、そうした風習はありませんでした。一方、インドや中国、日本にやって来た東方キリスト教徒たちはみな、香炉などによって香をたく風習をはじめから持っていました。ユダヤ人も、礼拝のために香をたく風習を、モーセの「幕屋」(神殿の原型)の時代から持っていました。(中略)また、景教の教会では、ろうそくを立て、あかりを灯しています。祈りたい人はろうそくを買い、それをろうそく立てに立てて祈るのです。これも、仏教の寺院に同じ風習があります」と述べておられます。
                    このように、葬儀と供養という面から、日本の文化というモノをみてきましたが、仏教とは違う日本の顔が表面に浮かび上がってきました。
                    生活の面、言葉の面、また神道の世界からアプローチしていけば、我々が思いもつかなかった日本が浮かび上がってくるはずです。


                    まとめ

                    今、仏教でいう常識について、ちょっと偏った見方かもしれませんが、一つの観点をあげてきました。こういった作業を敢えておこなったのは、それは仏教がどうとかキリスト教がどうとかいう問題でなく、葬儀が必要なものかどうかという切り口から、自分にとって「死」とは何か、「生」とは何かということを自由に考えてみて欲しかったかからです。今まで纏っていた「宗教」とか「常識」とか「世間」とかいう鎧を脱ぎ捨てて、自由になって、この問題を考えてみて欲しかったからです。
                    「仏教では」とか、「キリスト教では」とか、「世間では」という発想ではなく、自分はどう思っているか、裸になって考えてみることから本当の答えが出てくるような気がしてならないからです。
                     

                    長崎貿易をめぐるイエズス会と村山当安

                    2010.04.28 Wednesday

                    0

                      イエズス会士とフランシスコ会士
                               (南蛮屏風に描かれたイエズス会士とフランシスコ会士)


                      長崎貿易をめぐるイエズス会と村山当安

                      イエズス会の経済活動

                      いわゆる大航海時代というものは、アジア及び新大陸に対し「富とキリスト教徒」を要求した。このためイエズス会の東洋に対する布教活動も、ポルトガル本国の政治的・経済的進出から切離しては考えることのできない性質を有している。イエズス会の布教活動は、ある場合には軍事侵略の良きパートナトーであり、またある場合には貿易活動の良きアドバイザーとさえなった。特に日本においては、イエズス会士の貿易活動がその顕著な傾向として特長づけられる。
                      ザビエルによって拓かれた日本布教の道は、その後継者達によって踏み固められていくこととなるが、彼等が布教拡大にあたって採った方法も、この貿易という手段を最大限に利用するということであった。それは海外貿易という餌によって西国大名達に領内布教を認めさせ、場合によっては大名達を信徒となし、上からの教化を推し進めようというものである。イエズス会士ペドロ・ダ・クルスは言う。「日本人をしてわれわれに連合させるための独特な手立がある」(1)。それは、ポルトガル国王が貿易船のカピタン達に対し「われわれ(イエズス会)に敵対する殿達や、その家臣でわれわれに敵対する者、あるいは自領にパードレを迎えたり改宗を許したりしようとしない者には貿易に参加させないように命ずることである」と(2)。
                      さてこういったイエズス会の貿易介入は布教活動が進展するにともない新しい展開を見せることとなる。これまでは貿易介入はあくまで信徒獲得の手段であったが、布教費用の増大に伴い資金の涸渇が問題となり、利潤追求のための貿易参加がおこってくる。これにはイエズス会が自己資金でマカオで買付け、日本で販売するという形以外に、依託貿易として資本を預り生糸貿易に介入し、利鞘をかせぐというブローカーまがいの事まで行われた。高瀬弘一郎氏の研究によれば、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、イエズス会の純然たる布教用年間経費は八〇〇〜一万二〇〇〇クルサド、これに対し貿易用資金としてマカオヘの送金額は九〇○○〜一万四〇〇○クルサド(3)、ほぼ両者の配分は一対一の割合であったようである。
                      このように日本イエズス会にとって貿易は布教活動のため、なくてはたらぬ重要な一事業となった。そしてこれに伴い、プロクラドールいわゆる会の財務担当係の職が、他の場所以上に、日本・マカオでは重要なものとなったのである。このため日本においては、かつてイルマン(助祭)がプロクラドールを務めていたものが、司祭却ちパードレがこの職を務める事となった。イエズス会では「本来プロクラドールには四盛式立誓司祭を起用しない」(4)事が定められていたにも拘わらずである。いかに日本においてこの職が重要視されたかが察せられるであろう。
                      ところでこのようなイエズス会の経済活動はさまざまな弊害をもたらした。その最たるものはイエズス会自体の宗教的堕落である。一五八三年十月五日付マカオ発カブラルの書翰には、マカオのプロクラドール事務所について次のように記されている。
                      「人々が教会の門を潜って、ミサにあずかるのと同時に、一方ではその傍の門から生糸や綿織物の梱が運びこまれ、良心問題や霊的な事柄のために来た人々がプロクラドールと一緒に、シナの財や商品を梱包しているのを眺める、というような事が度々起っている」(5)と。
                      ここにいたってイエズス会の経済活動は布教のためというよりも、利潤を追求する事に没頭したかの感がある。ところが、十七世紀に入るや日本イエズス会は経済的に破綻をきたし、布教資金にも窮するという事態に追いこまれた。それは新たな敵−オランダが東アジアに姿をあらわしたためであった。オランダ船は、いたるところでスペインやポルトガルの基地を攻繋し、また貿易船を襲った。対日貿易の拠点マカオもその例外ではない。
                      一六〇三年七月三十一日、マカオから長崎へむかう貿易船三艘がオランダ船によって襲われた。長崎へのポルトガル年航船がオランダの攻繋により中止となった最初の事例とされる(6)。更に一六〇四年六月、再びオランダ船によるマカオ攻撃が行われ(7)、ここに二箇年にわたり長崎貿易は麻癖するの止むなきにいたったのである。
                      この影響をまともに受けたのがイエズス会であった。先にも見た通り、イエズス会は資金の半分をマカオに送り、それを翌年商品(主に生糸)として長崎で受取り、これを売った金を布教資金と貿易資金に分け、その一半をマカオに送り商貨に投資する。ところが、マカオからの年航船が二年にわたって途絶え、ためにイエズス会の資金はマカオに凍結されることとなってしまった。しかもオランダ船の妨害はこれで終ったわけではなく、むしろこれから益々激しさを加えていくのである。

                      ジョアン・ロドリゲス

                      さて、この困難な時期にイエズス会日本布教管区の財務を担当したのが、ジョアン・ロドリゲス・ツーヅ(通事)であった。
                      彼は一五六一年、ポルトガル・ラメゴ司教区セルナンセレに生まれ、十四歳にして既にインドに渡っている。その彼が日本の土を踏んだのは十六歳の年、一五七七年のことであった。そして彼が日本イエズス会に入会を許されたのは一五八○年、ロドリゲス十九歳の時である(8)。以後豊後府内サン・パウロのコレジオを皮切に、ラテン語・哲学・神学と彼のイエズス会士としての研鑽と布教の生活がはじまる。その彼が近世日本史に大きな影響を与えるようになったのは、天正遣欧使節の日本帰還がきっかけとなってであった。このとき、印度副王の使節として巡察師、バリニャーノは二度目の来日を行ない、一五九一年、伊東マンショを始めとする遣欧使節を引率して秀吉に謁見した。この時通訳にあたったのがロドリゲスである。彼は既に滞日十四年に及び日本語に通暁し、のちには今日の日葡辞書の原形ともいえる『日本大文典』まで編纂した程である。そして彼は、その語学力と商才、つまりはポルトガル貿易の仲介者としての重要さの故に以後秀古の罷愛を得ることとなり、二十六聖人殉教のおりにも、秀古はロドリゲスの身の上だけは案じ保護したという。そして秀古臨終の十四日前、外国人としてはただ一人ロドリゲスにのみ最後の謁見が許されたのである(9)。
                      秀吉の死後、日本イエズス会はロドリゲスに家康への接近を命じた。また家康の方でもこれに応ずる姿勢を示した。というのも、当初家康は「貿易の局面から宣教師を排除するのでなく」(10)これを幕府の統制の及ぶところまで近づけ、商取引の円滑な運営のために宣教師を利用しようとしたのである。
                      一六〇三年マカオでポルトガル船がオランダ船に襲われ、イエズス会が財政困難に陥ったおり、ロドリゲスを通じ大幅な経済援助の手をさしのべたのは、ほかならぬこの家康であった。家康はイエズス会に対して「まずあいさつとして三五〇タエルを贈り、ついでイエズス会が頼みもしないのに、五〇〇〇タエルを貸しつけた」(11)のである。
                      更に家康は、ロドリゲスの讒言を入れ、非切支丹商人に与した長崎奉行寺沢広高をその職から排した。「(家康は)永年長崎を統治してきた寺沢を斥けて、その代りに村山当安ら五人のキリシタンに統治を委ね、重要な問題についてはロドリゲスとイエズス会の日本準管区長パシオに相談するよう」(12)命じたのである。つまりイエズス会は以後長崎の町政にまでその指導力を奮う事となったわけである。
                      さてこの年即ち一六〇四年、家康により糸割符の奉書が発せられた。幕府による貿易統制の第一歩といえよう。にも拘わらず、イエズス会の貿易の場における発言力は一向に衰えなかった。なぜなら貿易の場において、この糸割符を実際に取り仕切ったのは、なんとイエズス会プロクラドール・ジョアン・ロドリゲスだったのである。一六〇六年十月十八日附副管区長の書翰には、彼の活躍ぶりが次のように紹介されている。
                      「(ロドリゲスは)将軍から非常な寵愛を受けている。そうしてその御命令によって、ポルトガル人の商船に関する交渉に携わり、ポルトガル人と日本人との間に立って平穏和協裡に首尾よく処置することに努力している」「殊に本年の如きは、両国商人間の商談がほとんど絶望の状態に陥り(中略)、きわめて困難であったにも拘らず、ついに能くこれを成立せしめた」(13)と。
                      しかし、このような貿易の場におけるイエズス会の発言力の増大や、長崎町政への介入等は、日本人の間に大きな不満を引起す原因となった。そしてそれはやがて長崎代官村山当安と、イエズス会上ロドリゲスの対立となって表面化することとなるのである。

                      当安のイエズス会離反
                      当安とロドリゲスの関係はいつ頃から始まるのであろうか。一六〇三年、ロドリゲスは等安を伴い家康のもとを訪ね、秀吉以来の代官の職を当安に対し安堵してもらっている。しかしこれ以前、秀吉時代における村山当安の長崎代官就任も、このロドリゲスの力によるものと思われるふしがある。当安が長崎乙名達の依頼を受け、征韓のため肥前名護展に滞陣していた豊臣秀吉を訪ねたのが、一五九二年のことである。伝承によれば、この時出安は持前の機知と弁才によって秀吉に取入り、長崎外町の代官に任ぜられたという。ところがこの同じ年、イエズス会士ロドリゲスがやはり秀吉のもとを訪ねている。この年入港したポルトガル船々長を伴っての謁見であり、日本巡察師バリニヤーノの指図によるものであった。伴天連追放令以来、ポルトガル船の入港はなく、この度の入港は、イエズス会パードレの貿易の場における発言力を否応なく秀吉に認めさせたものであった。ポルトガル貿易にイエズス会パードレ仲介の不可欠を知った秀吉は、この時もロドリゲスを厚く遇した。そしてこの同じ年、イエズス会信徒である村山当安を長崎外町代官に任命しているのである。当安の長崎代官就任は、どうやら彼一人の力によるものではなく、その背後にイエズス会、特にロドリゲスの力が大きく働いているようである。イエズス会士フランシスコ・ヴィエイラは言う。
                      「長崎市に当安アントーニオと称するキリシタンがおりました。貧しい生まれではありましたが、秀れた能力とキリシタンらしい行ないをもっていましたので、イエズス会はこの者を庇護しました。彼はその援助によってこの市の主要なキリシタンたる代官の一人になるに至りました」(14)と。
                      当初イエズス会が当安に抱いていた期待の程が窺い知れる。しかし両者の蜜月期間は永くは続かなかった。当安はやがてイエズス会から離反していくのである。何故だろうか。ヴィエイラは、当安の道徳的堕落がその離反の原因であるとしているが(15)、ではイエズス会自体には原因がないのだろうか。前述したようにイエズス会は、日本とマカオの貿易のことに深く関わり、キリスト教布教団体としての枠を大きく踏みはずしてしまった。しかもイエズス会はこの貿易に関係する日本人の商業活動を、キリスト教という枠で大きく制限したのである。このため、その取引について「望み通りの生糸を入手出来ない」(16)日本商人達の不満が常に存したのである。しかも、このマカオ〜長崎間貿易の全般にわたって、日本人とポルトガル人の仲介にたち、終止大きな指導力をふるった、プロクラドール・ジョアン・ロドリゲスは、「しばしば法外な糸値段をつけたらしく、宣教師ですらそのやり方を適切でない」(17)と指摘した程であり、加うるにイエズス会は、長崎町政にまで関与しようとしたのである。
                      当安のイエズス会離反もこのようなイエズス会の商業活動に原因している。言わば商業ナショナリズムの台頭ともいえるものではないだろうか。ためにこれ以後当安は、イエズス会商業活動の中心的存在である、このロドリゲスの日本追放を画策するようになるのである。例えば当安は、ロドリゲスを貞潔の誓願を犯したと言いたてこれを陥れようとしているし(18)、またイエズス会を危険な存在として機会あるごとに、長崎の主要な人物や「王宮の重要人物たち」に説いてまわっている。
                      「諸パードレに騙されないようによく注意しなさい。そして神などは存在しないし、総ては生命と共に終ることは確かであると考えなさい。パードレが霊の救いがあるといってい
                      るのは全くの偽りであり、パードレ自身もそれを知っているが、この方法によって日本をイスパニア国王に服従させるため、彼らの教えに従うように説いているのである」(19)と。
                      このようにして当安とロドリゲスの対立は次第と根深いものとなり、ついに一六一〇年マードレ・デ・デウス号事件の発生をむかえて決定的なものとなるのである。

                      17世紀のマカオマードレ・デ・デウス号事件

                      デウス号が長崎へ入港したのは、一六〇九年六月二十九日のことである。これ以前一六〇七年、八年と二年続けてマカオからの年航船は中止されており、今回はその二年分の積荷を満載しての入港であった。当然この間、日本イエズス会は資金の涸渇に苦しんだ訳で、ついにはデウス号入港を予定して、その積荷を空売りしてしまった程である。
                      ところでこの前年、有馬晴信の占城(チャンパ)派遣朱印船が帰途順風を失いマカオに寄港した。おりから東京(トンキン)から帰航途上遭難した日本人達もまた中国ジャンクによって、このマカオに寄港していた。二つの日本人グループは合同してマカオ市中をポルトガル官憲の注意も聞かず、隊を組み弓矢・刀鎗・銃器等を携帯して練り歩いた。そのため中国人やポルトガル人の反感を買い、これを制止しようとしたポルトガル官憲と衝突、ついに武力沙汰となり、多くの日本人が殺され、捕えられるにいたった(20)。そしてこの日本人騒擾事件を鎮圧した張本人が、デウス号船長アンドレア・ペッソアだったのである。部下を殺された有馬晴信は、家康に願い、このぺッソアの処分を任された。明けて一六一〇年一月、有馬軍は長崎沖にマードレ・デ・デウス号を包囲した。戦闘は四日にわたって繰広げられ、ついに一月六日、最後を悟ったペッソアによって火薬庫に火がいれられ、デウス号は長崎沖に沈没するにいたったのである。
                      以上がこれまで多くの史書に記されてきたデウス号事件の概略である。しかしこれでは有馬晴信とペッソアの対立だけが中心に述べられており、この背後に隠された村山当安とイエズス会の対立が無視されている。
                      イエズス会士ロドリゲスが言うように、この事件の真因は、当安が長崎奉行長谷川左兵衛と組んで、デウス号積荷に対しイエズス会の仲介を排し、彼等の手で価格統制を行なおうとした点にある。このため生糸を中心とする積荷の多くが差押えられ、許可なく荷揚げをすることが禁じられた。しかしペッソアはあくまでこれに反対し、家康に直訴さえほのめかしたのである。ここにいたって当安らはマカオにおける日本人騒擾事件を利用、ペッソアの滅亡を計画したのである。
                      デウス号入港するや、マカオにおける事件はポルトガル使節マテオ・レイタンによって何より早く家康に報告されるはずであった。しかし当安や左兵衛は、あろうことかイエズス会をつかってその中止を説得させたのである。「マカオで殺された日本人たちのことを内府の耳に入れるのは絶対に適当ではない。非常な打繋をうけられ苦しまれるにちがいないし、内府様を納得させるに足る理由も弁明もあろう筈がない」(21)。更にこの事は「決してポルトガル人の利益にはならない」(22)であろうと。
                      こうしてマカオにおける事件はポルトガル人の口からは家康へは知らされないこととなった。それは結果として、ポルトガル人がこの事件を家康に対し、隠そうとしたかのような印象をあたえたのである。イエズス会は当安らに躍らされ同胞破滅の原因をつくり出してしまった。次に当安らば有馬晴信にゆさぶりをかけた。イエズス会土モレホンは言う。
                      「この策謀の張本人は左兵衛と等安であった。彼らは有馬殿をこの策謀に引入れるために、左兵衛は、もし貴殿が家来の殺されたことを遺憾に思わず同盟に加わらないならば、貴殿の家来が日本の外で犯した種々な問題について貴殿を訴えるといって嚇した」(23)と。
                      晴信はマカオより逃げ帰った部下を連れ、駿府へ赴き、マカオにおける事件の一切を報告するにいたった。ポルトガル側の報告は左兵衛や当安らによって阻止されており、有馬晴信の報告が一方的に受入れられ、怒った家康は、ポルトガル船の捕獲、ペッソアの逮捕を晴信に命じたのである。
                      ところで家康がポルトガルに対しこのような強硬措置に出たのには、それなりの理由があった。それはオランダの対日貿易参加である。家康がイエズス会を好遇したのは貿易の場にその仲介がぜひとも必要だったからで、キリスト教の教えを歓迎したためではなかった。むしろキリスト教思想は、家康の目指した中央集権体制とは相入れないものなのである。そこへ布教と貿易を切離したオランダがあらわれた。家康のポルトガルに対ずる風あたりが強く次るのも当然と言えるであろう。
                      とまれ事件はデウス号の爆沈という形で結末を見た。しかし当安のロドリゲスに対する闘いは終らなかった。家康の怒りを背景に、日本イエズス会の立退きをほのめかしたのである。そこで日本管区長パシオは、当安や左兵衛に和解工作を講じた。当安らは「ペソア来朝中の行動に関する責任をロドリゲスに帰し、ロドリゲスをマカオヘ追放すること、それはイエズス会の決議の結果によると家康に伝えること」(24)。この二つを条件にパシオの和解工作に応じたのである。
                      おさまらないのはイエズス会である。当安らにさんざんふりまわされた挙句、デウス号事件の責任をおしつけられ、ロドリゲスをマカオヘ追放しなければならなくなった。しかもこのデウス号沈没で、イエズス会は一万二〇○○ドゥカド相当の生糸を失い、莫大な負債をかかえこむこととなったのである。一イエズス会士は言う。
                      「われわれは想像も出来ない程みじめな状態に陥った。というのは、維持する財源をもたない許りか、既に二万二〇〇〇タエルの負債を負っておりしかも毎年さらに負債を重ねて行くことになろう」(25)と。
                      イエズス会の当安に対する反感は、この事件で決定的なものとなった。この後一六一四年、当安が切支丹として処刑された時、フランシスコ会やドミニコ会がその殉教を認めたのに対し、一人イエズス会のみが彼を「悪徳」の徒であるとし、殉教説を否定したのであった。
                      最後にこの事件以後、管区長パシオによりイエズス会宣教師の貿易介入が禁じられた事をつけ加えておくこととしよう。

                      (1)(2)高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」
                      (3)同「キリシタン教会の資金調達」
                      (4)(5)(6)同「キリシタン教会の財務担当パードレ」
                      (6)(7)C・R・ボクサー、小木曽福也訳「十七世紀初頭の日葡交通」
                      (8)(9)(13)(24)土井忠生「通事伴天連ロドリゲスの一生」
                      (10)(18)高瀬弘一郎「大航海時代とキリシタン」
                      (11)(17)朝尾直弘「鎖国」
                      (12)高瀬弘一郎「キリシタンと統一権力」
                      (14)(15)(19)アルバレス・タラドゥリース編註、佐久間正訳「村山当安に関するヨーロッパの史料(一)」
                      (20)「長崎市史・通交貿易篇・東洋諸国部」
                      (21)(22)(23)アビラ・ヒロン、佐久間正・会田由訳「日本王国記」
                      (25)高瀬弘一郎「キリシタン教会の資産と負債」

                      中央公論社「歴史と人物」昭和53年9月号掲載/桐生敏明

                      マカオ サン・パウロ砦
                                           (マカオ サンパウロ砦跡)