「トマス荒木を歩く」 vol.04

2009.11.30 Monday

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    フォロ・ロマーノ
                           (フォロ・ロマーノ)

    1997年5月30日(金)
    現地時間で早朝6時15分、ローマのフィウミチノ空港へ到着。香港からはイタリア人老夫婦と同席だった。降りるとき、荷物を降ろしてあげると、狭いシートから立ち上がり、大きな体を精一杯広げ、「サンキュー」「ブラボー」「ワンダフル」……と、知ってる限りの英語で感謝を表してくれる。
    あげくは拍手まではじめる始末で、恥ずかしさのあまり、こちらの顔がカーッと熱くなってくるのがわかる。おおあわてで逃げるようにして飛行機のタラップを降りた。

    ローマへ到着してまず出会った試練が、国鉄の自動券売機だった。
    空港からローマの市内へは国鉄と地下鉄を利用していくことになるが、切符を買おうとしても自動券売機しか見つからない。そこで冷や汗を流しながら機械とにらめっこする羽目になる。誰か他の人が利用するのを見ていて要領をつかもうとするが、朝も早いせいか誰も来ない。
    それでも券売機の前で五分ばかりもたたずんでいると、今まで見えていなかったものが見えてくる。ENGLISH(英語)というボタンがあるので、それを押し、後は画面の指示に従って行き先を指示し紙幣を入れると……大成功、チケットと釣り銭が小気味よい音と共に吐き出されてきた。以後、地下鉄の乗り継ぎもなんなくクリアーし、大いに自信を持ち、ローマはカブールの駅にその第一歩を印すこととなった。
    しかし、これからが大変だった。降り立った地下鉄カブール駅周辺は、まるで路地裏の迷路のよう。この付近に今日宿泊するHOTEL・IVANHO(ホテル・イワノー)があるはずだが、なぜか、どうしても見つからない。地図をたどって探してみても、同じ所をぐるぐる回るばかり。婦人警官に聞いても、学生に聞いても、一向に要領を得ない。そのうち、リュックが肩に食い込んでくるし、うさんくさげに見つめる人の目が気になり出す。
    二時間近く探し回り、やっとこの地区の地図がわかりはじめた頃、親切な老婦人の道案内で、なんとか目的のホテルのフロントに立つことができた。片言の英語で三日間の宿泊を予約し、荷物を預け、午前十時いよいよ最初の目的地サンタマリア・マジョーレ教会へとへ向かう。

    サンタマリア・マッジョーレ教会内陣
    (サンタ・マリア・マッジョーレ教会の内陣)

    トマス荒木のローマ滞在中の記録はほとんどないと言ってよい。それに比べ、トマスのあとローマを訪れた日本人カスイ岐部神父の記録は多い。それはトマスが裏切り者の背教者であり、岐部神父が凄絶な拷問に耐えイエスの教えに殉じた殉教者であるからだろうか。
    ともあれカスイ岐部神父は、このサンタマリア・マジョーレ教会において副助祭に叙せられた。記録こそないが、トマス荒木もこの教会で副助祭もしくは司祭にに叙せられたのだろう。教会の床も壁も、そしてそびえ立つ天井も、おそらくは当時のままであろう。トマスの見たものを、今、この目で見ているに違いない。しかし感動はない。懐かしいという思いもない。かといって苦しくもなく、ただ無味乾燥で、「ともかく来たなあ」ぐらいの思いしか湧いてこない。

    このマジョーレ教会一つ探し出すにも、ずいぶん苦労した。見つけてしまえば、こんなわかりやすい場所はないと思うのに、見つけるまで一時間は歩き回っただろうか。
    ホテルと言い、このサンタマリア・マジョーレ教会と言い、まるで私を避けているかのようだ。おまけに市内観光を予約しているバスの待ち合わせ場所までが見つからない。半日は観光バスでローマの概略をつかんでおこうと予約したものだが、マジョーレ教会のすぐそばにあるはずが、まるで見つからない。パトロールの警官に聞いても、教えてくれはするが、その場所に行ってみると違う場所だったりする。
    歩き回っていて意味のない恐怖感におそわれる。闇から闇に葬られる恐怖感……いきなり拉致され、抹殺されるのでは……。ありそうもない想像が頭を駆けめぐり、次第に現実感を帯び、急に周りの人間が気になり出す。道の向こうで公衆電話に向かう女性、電話が長すぎる。そしらぬ振りでこちらを見張っているのではないか。
    そういえば、このローマでは私がここにいることは誰も知らない。私という人間さえ知られていない。このまま行方不明になっても、なにもなかったように誰も探す者さえいないだろう。たとえ日本から家族が探しに来ても、手がかり一つ残されていない。
    闇から闇に葬られていく恐怖……。

    やっと見つかった。何とか観光バスの出発時間に間に合ったようだ。またも一時間以上歩き回り、探し当てた場所は、サンタマリア・マジョーレ教会から歩いて五分もかからない場所であった。バスを待つ顔の中には日本人カップルの顔も見える。一安心だ。
    係の人に聞けば、バスは遅れていると言う。バスを待つ間、近くのピッツェリアでコーラ片手にピザを頬張る。四分の一を注文したのだが、これがなかなかのボリュウム。腹がふくれるや、あの言いようのない恐怖感もどこかへ行ってしまったようだ。

    サン・パウロ教会とスペイン広場ところが、とんでもないことが起きた。やっと乗り込んだ観光バスの中に日本人が一人もいない。アメリカ人とヨーロッパ系の人たちばかり、日本語のガイドも乗り込んでいない。一安心したはずが、またもや不安の坩堝の中へ真っ逆様だ。

    ………………ヴェネツィア広場、フォロ・ロマーノを経て、サンパウロ教会でバスが止まる。ガイドの人に教会の中へ導かれ説明を受ける。ローマで唯一ビザンチン様式を残した教会だそうだが、十九世紀にその三分の二が焼失し、かろうじて内陣部分の三分の一が残されているという。不得意な英語を必死で聞いていると、いきなり後ろから「日本の方ですか」と声をかけられた。懐かしい日本語に振り返ると、声の主はスペイン系の女性だった。彼女の言うには、何らかの間違いでイングリッシュコースのバスに私を乗せてしまったらしい。自分は日本語コースのガイドで、これからは私のバスに乗ってくれと言う。見れば、先ほど見かけた日本人カップルの若々しい顔も見える。ホッとしてそのカップルに声をかけてみた。
    聞けば、新婚旅行にこのローマに来ているという。なぜか気が合い、観光バスを降りてからも一緒に付き合うことになった。スペイン広場へ行き、一緒に写真を撮り合う。ご主人はパナソニック映像事業部のディレクターで、奥さんは薬剤師をしているという。夫婦して写真きちがいで、三人してスペイン広場を探し回り、写真を撮りまくる。
    元気のよすぎる奥さんは、ワンツウースリーの気合いもろとも、欧米人の記念写真まで気安く引き受け撮りまくるという有様。ご主人もすぐ悪のりするタイプで、三人してマンホールの蓋に足を置き、「足写真」を撮ろうなどと言い出す。何をするのかと思いきや、マンホールに片足ずつをのせ、上からカメラでマンホールをバックに足の集合写真を撮るというもの。カメラを構えたご主人は、並んだ足に向かって一言
    「撮りますよ、いい顔をして……」
    突然のジョークに、私の足も、どんな表情をすればよいのか戸惑ってしまい、幾分不安げにひきつったような笑いを浮かべていた。
    楽しい一時が過ぎ、別れるときが来た。住所を交換し、それぞれの写真を送り合うことを約して別れた。二人はショッピングに。私はローマへの入り口であるポポロ門へと。 

    「トマス荒木を歩く」 vol.03

    2009.11.29 Sunday

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      バチカン図書館

      トマスの旅は、セミナリオの移動と共に始まった。
      戦国の動乱を縫うように、セミナリオは京都、高槻、大坂と転々と畿内を移動し、最後には九州有馬のセミナリオ、コレジオと合流し、やがて加津佐へと移動していく。
      ところで、トマスの旅を追いかける前に、もう一つの旅を見ておこう。
      信長が本能寺の変に倒れる前、天正遣欧使節の一行がローマを目指して旅立っていった。使節一行は、表向きは、九州の三大名、大村、大友、有馬氏のプリンスとなっているが、それぞれ血筋こそつながってはいるものの、ほとんど戦災孤児と言っていいような子供たちであった。
      それを巡察師バリニャーノが、日本布教区の発展をローマに印象づけるため、まるで日本を代表するかのような使節に仕立て上げてしまった。
      しかし信長はこの企画を歓迎し、これを全面的に支援した。日本の甲冑や、信長が狩野永徳に描かせた「洛中洛外図屏風」「安土城下図屏風」がローマへの土産としてバリニャーノに下賜され、日本の文化を、そして自分の名をヨーロッパへ伝えようとしたのである。
      三年の年月をかけ、一五八五年三月、使節の一行はローマへ到着した。マカオからマラッカ、ゴアを経由、そして喜望峰を回り、リスボンに上陸したのは一五八四年八月のことである。
      ところで、これより三十三年前の三月十日、このリスボンの港に一六〇名あまりの孤児たちが集まった。ペドロ・ドメネク神父の孤児院から集まった子供たちだ。彼らは孤児院からインドへと送られる仲間の少年たち九名を見送るため、この港へと集まったのだ。九人の少年たちは三人ずつ三隻の艦隊に分乗し、東洋での布教に従事するため、現地でイエズス会の教育を受けることになっていたが、この九名の中に、ギリエルモ・ペレイラ少年がいた。
      彼はインドのゴアで短期の教育を受けた後、日本布教区へ派遣され、一六〇三年に死亡するまで四十五年間、日本の各地を巡回し、ついにリスボンに帰ることはなかった。彼は日本語がよくでき、まるで日本人のように話したと言われる。そのペレイラが、晩年、九州で関わり合ったのがトマス荒木だった。ペレイラは自分と同じ境遇のトマスをまるで実の弟のようにかわいがり、まだ見ぬローマへの思いを彼に託した。

          (写真は、『天正遣欧使節謁見記』)
      天正遣欧使節謁見記しかし、これはまだ後の話である。今はまだ、トマスに先立ってローマを訪れた天正遣欧使節の少年たちと、一人のローマ教皇との関わりについて話さなければならない。そのローマ教皇とは、「聖なるつむじ風」とあだ名されたシクストゥス(シスト)五世のことである。
      使節一行がローマに到着したとき、ローマ教皇はまだグレゴリウス十三世であった。日本人にはグレゴリオ暦を制定した人として知られているが、この教皇は日本からの使節をことのほか喜んだ。一行がローマに到着したのが、三月二十二日の夜、その翌日には早くもグレゴリウス十三世に謁見を果たしている。その謁見から二十日も経たないうちに、教皇は極東での初穂に満足しながら息を引き取った。四月十日のことである。
      悲しみもそこそこに、あわただしくコンクラーベ(教皇選出会議)が開かれる。集まった枢機卿たちは、新教皇を選出するまで、この会議場という密室に閉じこめられる。やがて新教皇が選出されるや、煙突から白い煙が立ち上り、サン・ピエトロ広場に集まった人たちにそのことが知らされる。コンクラーベの期間、外界から閉ざされていた会議場の扉が開かれ、次々とコンクラーベに集まった枢機卿たちが退出していく。やがて広場に面した大きな窓がいっぱいに開かれ、先任枢機卿が現れるや新教皇の名を発表した。
      「モンタルト……!」
      どよめきが起こった。
      そのどよめきには、「意外な」という驚きと、「なるほど」という納得の響きが入り交じっていた。フランシスコ会枢機卿モンタルトと言えば、棺桶に片足を突っ込んだような老人として、皆に知られていた。あるイギリス人は彼のことを「かつて暖炉に宿ったもっとも背骨の折れ曲がった慎ましい枢機卿」と評しているし、ある枢機卿は、肺病の末期症状のような咳を繰り返すモンタルトに「死ぬには早すぎますぞ」と励ましの言葉を贈っている。
      そんなモンタルトの教皇選出は、彼が間もなく死ぬであろうことを見越しての、一時しのぎであることが、誰の目にも明らかであった。
      ところがである。その今にも死にそうな教皇が、五年もの間、その座にあり続け、どの教皇よりも精力的な活躍をした。サン・ピエトロ大聖堂のドームの完成、オベリスクの移動、バチカン図書館の建設、はるか二十マイルの彼方から谷と丘を抜ける水道を建設し、ローマに吸水した。そして教会が拠り所とするブルガータ聖書の改訂。まさに「聖なるつむじ風」とあだ名されるにふさわしい働きではあった。彼の伝記を書いたレティは記している。
      「モンタルトは投票を勝ち取るとすぐ、背筋をしゃんと伸ばし、松葉杖を放り投げ、叫んだ。『さあ、これでわしは皇帝だ』そして雷のような声を張り上げて<テ・デウム>をがなり立てたという。」
      モンタルトを知る誰もが思った。「だまされた」と……。
      新教皇シクストゥス五世の誕生である。

      ノストラダムス胸像ところでシクストゥスをこのように駆り立てたものは何だったのだろう。
      彼がまだ若い頃、他のフランシスコ会の仲間と共にシチリアを旅していた頃のことだ。一人の男と出会った。その男とはミッシェル・ノストラダムス。「ノストダムスの大予言」で有名な、あのノストラダムスである。ミッシェルはミカエルであるし、ノストラダムスはノートルダム、つまり聖母の意味であるから、名前を見るかぎり、どこに出しても恥ずかしくないカソリックだ。ところが実際は、彼はマラーノ、つまり隠れユダヤ教徒であった。この時も、異端審問所の呼び出しから、フランスを逃げ出しての旅の途上であった。
      そのノストラダムスが若いフランシスコ会士、モンタルトに接近した。ユダヤ教神秘主義「カバラ」の予言をもって……。
      ノストラダムスは、モンタルトを見るなり、その場にひれ伏した。
      「あなたは、将来、ローマ教皇になるべき人だ」と……。
      以来、彼はこの予言にとりつかれてしまった。たとえノストラダムスがユダヤ人であったとしても、また異端審問所から追われる異端者であったとしても、一度、ノストラダムスによって火をつけられた野心は抑えるべくもなかった。
      シクストゥス5世モンタルトは、秘かにノストラダムスなる人物のことを調べだした。彼がその後、フランスへ帰り、カトリーヌ・ド・メディチの信望を得たこと。彼の予言が次々と成就したこと。そんな噂を耳にするにつけ、野心はますます大きく膨らんでいく。と同時に、ノストラダムスの考え方を知るにつけ、その底に流れるユダヤ教的な神秘主義に異端のにおいを感じずにはいられない。そして、その予言を信じる自分の思いを見たとき、カソリック教徒として、自分がおぞましくもあり、後ろめたくもあった。
      予言が成就し、新教皇シクストゥス五世となった今、どんなに「自分の力だ」「ノストラダムスとは関係ない」と思おうとしても、絶えず彼の影がつきまとった。彼を意識せずにおれなかった。その影を振り払うように、モンタルトは身を粉にして働いた。彼はシクストゥス五世として、カソリックの擁護者であり、カソリックの代表選手でなければならなかった。

      さて日本から来た少年たちも、新教皇誕生の現場に立ちあうこととなり、四月二十六日には、グレゴリウス十三世に引き続き、新教皇シクストゥス五世とも謁見することとなる。伊東マンショをはじめとする少年使節たちは、新旧二人の教皇に謁見できたことを喜び、自分たちが選ばれた使命の持ち主であるという自負を大きくした。
      リスボンでは使節に同行した日本人ロヨラ老人が印刷術を学びながら、日本に持ち帰る印刷機の手配に追われている。この印刷機で、キリストの教えを日本の言葉で日本に広めたい。少年たちは、その夢を教皇に語ったのだろう。
      シクストゥスの中にひらめくものがあった。
      「そうだ、聖書を完備しなければ。教会の唯一拠り所とする完全なウルガタ聖書を整え、世界へ布教していく礎としなければならない。」
      教皇は、少年たちに日本布教の援助を約した。と同時に、四世紀のヒエロニムス以来の、「聖書改訂」という大事業に手をつけることを決意した。
      こうして二人の教皇との謁見を果たした使節一行は、一五八五年六月、ローマを出発し、一五九〇年七月二十八日、八年ぶりに日本へと帰り着いたのである。 

      「トマス荒木を歩く」 vol.02

      2009.11.29 Sunday

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        香港夜景

        1997年5月29日(木)
        トマス荒木の足取りを追ってみたくて、この旅を計画した。何年にもわたってあたためてきた思いだ。ローマへ行き、バチカンを歩き、カステル・サンタンジェロ、イエズス会本部、コレジオ・ロマーノ、そしてアンドレア修道院…… と、この目で見、この足で歩き、この身体で感じたい。心に響いてくるものを確認したい。
        トマスが感じたものを、少しでもこの心で感じられたらと思う。

        成田からローマまでの航空券今、香港に向かう飛行機の中にいる。返還前の香港でローマ行きの便に乗り継ぎ、帰路はまた香港経由でマカオへ足をのばす予定だ。近世、日本から西回りでヨーロッパを目指す場合、行きも帰りも、必ずマカオがその拠点となった。トマス荒木も、このマカオにとどまりリスボンに向かう船便を待ったし、帰路は帰路で、このマカオで不安に震えながら日本潜入の機会をうかがった。すでに日本ではキリシタンの迫害が開始されていたのだから……。
        思えば、トマスとの付き合いもずいぶん長いものになった。末娘の愛子との付き合いよりも長い。自分で意識せず関わっていた頃から数えれば、もう二十年以上の付き合いになるだろうか。ほぼ長女の奈津子の歳と同じ年数を彼と関わり合ってきたことになる。
        学生結婚した頃の私は、江戸時代初頭の海外交流史に夢中だった。新婚旅行の行き先からして、妻を口説き長崎・平戸へ行くという有様であり、奈津子が生まれた頃は、卒論の取材と言っては足繁く長崎へと通っていた。その頃は、朱印船貿易家末次平蔵の足取りを追いながら、知らず知らずトマス荒木の足取りを追いかけていたように思う。
        たとえば滋賀の安土セミナリオ跡、京都の南蛮寺跡、大坂天満の細川越中守屋敷跡、大村鈴田のキリシタン牢跡、長崎西勝寺、平戸松浦屋敷……今にして思えば、どれもトマス荒木とゆかりの深い場所ばかりだ。それと知らず、「日本転びバテレン了伯(トマス荒木の背教後の名)」の署名の入った転び証文さえ写真に撮っていた。
        卒業論文を書いているとき、そして郷土史研究賞に応募するための原稿を書いているとき、いつもトマスが耳元で語りかけていた。叫び続けていた。ひもとく資史料の隙間から必死になって訴えていた。でも、その都度、無視した。
        「いやな奴だ、こんな人間にだけはなりたくない……」
        それが、ここ七、八年、特にこの学びを始めてから、彼の名をしばしば耳にするようになった。営業で入った書店で見つけた本の中に、また編集用の資料として借り出した図書館の本の中に……。これがNHKの大河ドラマで取り上げられたりとか、今、話題になっている人物ならわかる。ところが「トマス荒木」となると、あまりにもマイナーな人物だ。日本中の本屋をかけずり回って探しても、彼のことを書いた本など、そうそう見つかるものではない。それがまるで資料が追いかけてくるように、目の前に突きつけられてくる。
        こうなってくると、もう腹を決めるしかなさそうだ。同じ逃げられないならと、本気になって彼のことを調べていくと、なんのことはない、先ほども言ったように、今まで自分が取材だと歩き回ってきたところは、全部が全部と言っていいほど、トマス荒木のゆかりの土地であった。

        火災で焼け落ちたザビエル記念聖堂以来、今度は私がトマス荒木を追いかけだした。山口へ行った。秋月へ行った。島原へ行った。そして天草へ行った。
        そこで「平家物語」や「ドチリナ・キリシタン」等、キリシタン版と言われた数々の印刷物と出会った。初期の活版印刷術やグーテンベルク印刷機と出会った。そうしたら、あの時代、トマス荒木の描いた夢がおぼろげながら浮かび上がってきた。キリスト教に託した様々な思いが伝わってきた。加津佐のコレジオで、天草のコレジオで、熱っぽく語り合った当時の若者たちの夢が自分の中でよみがえってきた。
        その夢に火をつけた人たちの思い、その発火点となったローマ教皇シクストゥス五世の思い……完全なラテン語聖書の完備と、それが日本でも流布されていくことへの夢。教皇が天正遣欧使節の少年たちに抱いた夢が、日本でキリシタン版の印刷に関わった人たちへと伝わっていく。その夢の担い手としてローマへ渡ったトマス荒木……。
        私は今、その夢が挫折したローマへ行こうとしている。

        現地時間21時26分、香港到着。窓ごしに香港の夜景を見る。 

        「トマス荒木を歩く」 vol.01

        2009.11.28 Saturday

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          アヅチセミナリオ跡

          有岡城趾
          トマス荒木という人物がいる。十六世紀後半から十七世紀前半を生きた人物だ。
          彼は摂津を支配する荒木村重の一族として生まれた。と言っても、血筋がつながっているというだけで、ただ一族の端っこに名前を連ねていると言うに過ぎない。決して身分の高い家柄ではなかった。その主筋に当たる村重が信長に謀反を起こした。はっきりとした原因はわからない。信長個人への反感か、野心のためか、ともかくも村重は本願寺と手を結び信長に反旗を翻した。外面的にはどう見たところで本願寺への加勢としか見えない。
          村重の部下には一向宗徒が多い。と、同時にキリシタンも少なからずいる。それは、村重の右腕とされた高山右近からしてそうであり、その影響が大きく働いているからであろう。彼らキリシタンにしてみれば、邪教である本願寺に味方しての命のやりとりなど、いかに主命とはいえ本意ではない。ために落城を前に城を捨てた者が数多くあった。

          トマスの母は、夫と運命をともにする覚悟をした。かつて夫が敬愛する高山右近の結婚式に招かれ、そのときキリスト教が持ち込んだ一夫一婦制の慣習に触れた。戦国時代を生きる女が、はじめて子を産む道具や、政治の道具としてでなく結婚を考えることができると思った。以降、夫婦ともにクリスチャンとなり、はじめて本当の夫婦になれたと、そのとき感じたものだ。以来、この夫と何があっても添い遂げると、心に誓ってきた。といって幼い子供まで道連れにすることは出来ない。母はトマスを高山右近に預ける道を選んだ。
          「必ず迎えにくるから……」
          その日、トマスは母の声をおぼろに聞きながら、老いた叔父の冷たく固い甲冑の背に負ぶされ、城を落ちていった。トマス、三歳の頃であった。

          高山右近像と高槻城ところで、村重反乱に当たって、信長が真っ先に手を打ったのが、村重の右腕とも言える右近の懐柔策である。信長は右近の動きを封じるため、キリシタン宣教師を人質に取った。右近が村重に味方するようであれば、日本のキリシタンを根絶やしにするであろうと。言葉だけの男ではない。かと言って、村重のもとには二心なきことを誓うため、家族を人質に出している。どちらにも動けない右近であった。思いあまって、父ダリオ飛騨守は村重に味方し、右近はキリシタンとしてすべてを捨て出家する道を選んだ。
          信長にとってはそれで十分だった。出家し中立を守ろうとする右近を却って重く用い、その仲介に当たったイエズス会宣教師をも今まで以上に厚遇した。そうすることで籠城側に右近の寝返りを強く印象づけ、その士気を阻喪させることをねらったのである。
          やがて有岡城を包囲する旗印の中に、右近のクルスの旗印が翻ることになった。

          右近が寝返った……。
          少なくとも籠城側にはそう映ったし、結果として事実はその通りでもあった。もはや、落城は時間の問題である。

          ところで、トマスの母が右近を頼ったとき、右近は苦衷のまっただ中にいた。同じキリシタンとはいえ、村重の部下や一族のものを匿うわけにもいかない。ただ幼いトマスだけが、高槻の城に密かに匿われることとなった。
          そして、この高槻の地で、トマスは、三歳から六歳までを過ごすことになる。
          六歳になったとき、信長の城下安土にセミナリオが造られる。イエズス会巡察師バリニャーノ神父の働きによるもので、信長はこれを厚遇し、安土城天守ふもとの土地を与えたばかりか、大工などの手配から万事に至るまで全面的にこれを援け、安土城天守と同じ瓦の使用まで許したという。
          右近も、この工事を援けた。それは、ただ単に便宜を図る、経済的に助けるというばかりではない。毎日のように人夫に混じって材木を運ぶ姿は、まるで贖罪の苦行でも果たすかのようであったという。
          こうして出来たセミナリオに、その一期生としてトマスが預けられた。
          生徒は六歳のトマスが最年少で、最年長が十五歳、およそ十五、六名の生徒が集められた。多くは戦争で身寄りを亡くした戦国武将の子供たちや、熱心なキリシタン信徒の子弟たちで、なかには自ら望んで入学してきた者もいる。後のことになるが、秀吉の禁教政策に殉じ、二十六聖人の一人に列せられるパウロ三木も、この安土セミナリオの生徒として、この中にいた。

          アヅチセミナリオ跡信長の異国趣味がにわかに花開いた。
          巷では西洋風の衣装が取り入れられ、キリシタンでなくてもクルスをかけ、ロザリオを装身具のように扱うことが風潮となった。京都には三層の天主堂がそびえ、町の大通りには着物に首襟を着けた若者や、カルサンを袴代わりに履く人たちの姿が見られた。
          安土のセミナリオでも、西洋音楽を学ぶ子供たちの声やオルガンの音が絶えることなく、信長自身、セミナリオを訪ねてはその調べに耳を傾けた。ヨーロッパを吹き抜けたルネッサンスの光と闇が、この日本をもようやく覆い始めようとしていたのである。

          ところで安土セミナリオにとっての最大の不幸は、その最大のパトロンである信長が、セミナリオの出来た翌年、早くも亡くなってしまったことだ。いわゆる本能寺の変が起こり、信長は明智光秀によって京都本能寺に誅せられた。しかも争乱は京都だけにとどまらなかった。光秀は、本能寺を襲うと同時に、信長の本拠安土をも襲わせた。ために安土セミナリオまでが、このとき、灰燼に帰してしまったのである。
          安土セミナリオの校長であったイタリア人宣教師オルガンティーノは、生徒たちを連れ安土を脱出した。まず小舟で琵琶湖の沖の島(下の写真)へ渡り、そこからさらに対岸の坂本へと逃げる。坂本は言わずと知れた明智の本拠地……。そこでオルガンティーノ神父らは、キリシタンを味方にしようとする明智の手で却って保護され、争乱の中、その案内で京都南蛮寺へと落ち延びることができた。

          この時から、トマス荒木の長い彷徨が始まった。
          そのトマスの旅が、やがてローマへとつながり、キリスト教同士の凄絶な争いへとつながっていくことになろうとは……トマス自身、恐らく気付いていなかっただろうが。 

          沖の島全景

          「トマス−孤児たちのルネサンス」

          2009.11.22 Sunday

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            グーテンベルグ印刷機の実演
            復元されたグーテンベルグ印刷機の実演(慶應義塾大学 42行聖書購入時記念イベント)

            11月19日(木)
            日本橋を出て79日目、ついに京都へ着く。総歩行数900,909歩 総キロ数495.5km
            一日平均して11,400歩(6.27km)を歩いたということになる。ブログ自体が、万歩計を意識して「徒然漫歩計」とした。万歩計自体は、東海道が終わるや中山道に入ったが、ブログのほうは、京都到着を機に少し方向転換をしようと思う。

            大学時代に知り合って、未だに付き合っている人間が二人いる。
            一人は女房だ。大学時代に知り合い、学生結婚してもう35年が過ぎた。彼女と出会うことで、田池留吉という方とも出会うことができた。この人と出会うことで、大学時代に知り合ったもう一人の知り合いも確実に変わってきた。少なくとも自分はそう感じている。そのもう一人というのがトマス荒木(荒木了伯)という人物だ。大学の卒業論文に選んだテーマが「近世生糸貿易とキリシタン迫害の関係」。長崎代官職をめぐる朱印船貿易家・末次平蔵と村山等安の確執が中心的な材料になっているが、調べれば調べるほど予定外の人物の姿が浮き上がってきた。それがトマス荒木だった。イエズス会から破門され、体制側からもキリシタン目明かしとして利用されたあげく狂人として扱われ、事実上、歴史から抹消された人物。いつしか彼と彼の生きた時代、そして彼を取り巻く人たちを物語として紡ぎあげたいと思うよになった。そう思ってから、もう35年が過ぎた。
            その間、仕事の合間を見つけては取材活動を続けてきた。物語のテーマは田池留吉という人物と出会うことで大きく変わった。
            宗教に縛られる怖さ。自分自身を宗教に縛っていく怖さ。そして、その呪縛から自分を解き放とうともがき苦しむ姿。そんな彼を救ったのは、自分の中に眠る母親の記憶、そのぬくもりだった。当初「怒りと絶望」の物語だったトマスのお話が、「自己の解放」という方向へ自己修正を始めた。

            こうして「トマス−孤児たちのルネサンス」が何とか形をとりはじめ、僕は、この「トマス」の物語を自費出版しようと動いている。売ることを目的とするのでなく、受け入れてくれる図書館へ寄贈することが計画の仕上げになるだろう。
            これに伴い、ブログの方も、トマスの取材を中心とした「歴史紀行」にしていこうと思う。物語は「本」で、その楽屋裏は「ブログ」で紹介していく。僕の趣味の総仕上げといったところか……。 

            これに伴い、僕の仕事の方は、「UTA-BOOK営業日誌」として、ブログを立ち上げた。これも、とりとめのない 独り言のようなブログなのだが、興味があれば覗いていただきたい。
            http://uta-book.jugem.jp/


            キリシタン転び証文

            長崎県立図書館で、この「きりしたんころび書物之事」(キリシタン転び証文)を見たときから、トマスとの付き合いが始まりました。