空き缶工芸教室を見学

2009.11.15 Sunday

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    子供たちの作品

    今日は、広陵町クリーンセンター(ゴミ処理場)で、自転車の部品無料頒布会があるというので、家族と一緒に出かけてみることにした。
    朝の散歩の時は、西の空はべったり厚い雲が覆っているのに、樹木の間からは朝日が射し込んでくる。かと思うと細かい雨が降ってきたり、実に定まらない空模様。昔、子供の頃、こんな「なぞなぞ」がはやった。「天に3つの廊下がある。それは何か?」 答えは「照ろうか、降ろうか、曇ろうか」……まさに、この「なぞなぞ」を地でゆくような空模様。案の定、雨は降らなかったものの、クリーンセンター会場に着いたときは身を切るような寒さ。会場では、その寒さにも負けず、子供たちの「空き缶蹴飛ばし大会」が開かれていた。孫たちも参加させようと思ったが、事前予約者だけという。
    赤坂かおりさんの作品仕方なく自転車部品の無料頒布会を覗いてみるが、これといった掘り出し物も見つけることが出来ず、北風に背中を押されるようにして屋内会場の「空き缶アート展」を覗くことになった。
    寒さからの避難のつもりで入った会場だが、これがすごい。空き缶で、こんなものが出来るのかと感心することしきり。他にも紹介したい作品がたくさんあるが、とりあえず空き缶の使い方がわかる「蜘蛛」という作品と、これでも空き缶細工かと思わせる「時計台」の二つの作品をのせることにした。作られた人は、赤坂かおりさんという奈良市在住の方。頂いた資料によると、1977年生まれで、京都教育大学を中途退学し、2001年から空き缶でキャンドルスタンドなどを作り始め、各地で展覧会などを開いておられるようだ。いらなくなったものにアートとして命を吹き込む。しかもハサミだけで子供たちにも簡単に楽しめるとあって、新聞やテレビでもよく取り上げられているという。聞けば、隣の会場で、子供のための「空き缶工芸教室」が間もなく開かれるという。「参加してみたら」と、女房と孫たちがお誘いを受けた。
    対象は小学生3・4年生だという。孫どもは、6歳と2歳、とても無理と一度はお断りをしたが、見学でもいいからとおっしゃっていただき、僕までが見せてもらうことになった。
    教室に入るや、同じならと、ハサミと空き缶の支給を受け、小学生に混じって作品づくりに挑むことになった。最初こそ空き缶で手を切らないかと、おっかなびっくりだったが、そのうち、だんだん大胆になり、切らないでいいところを切ったり、細く切りすぎて折れてしまったり……、どうなることかと思ったが、何とか初級レベルの「空き缶アート:顔缶バッジ」が完成した。(一番上の写真の中には、僕や孫の作品も、子供達の作品に混じってあります。どれでしょうか? どれも同じで分からない! 小学生のレベルと変わらないって……

    作品の出来はともかく、子供たちに混じって楽しい時間を過ごさせていただきました。赤坂さん、それに広陵町クリーンセンター・スタッフの皆さん、本当にありがとうございました。

    ※東海道53次万歩計の記録=今日「草津」に着いた。日本橋を出発して75日目

    幼稚園の参観に行く

    2009.11.14 Saturday

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      幼稚園参観

      歴史関係の散策・探訪は、得てして暗い話題が多い。歴史=人間の闇といっても過言ではない。歴史を探るということは、結局、人間の闇と出会うという行為に他ならないと思う。広陵町の史跡散策もまだ書きかけのままだが、今日は、孫が通う幼稚園の参観日。親を含めて家族は、家業でみんな忙しそうだし、一つ明るい話題でもと、幼稚園行きを買って出た次第。

      気象記号園に着くなりビックリ。先生、園児をはじめ、参加した親まで全員がマスクをつけている。マスクをつけていないのは私一人。着いてしばらくは疎外感との葛藤となる。事前にマスク着用については連絡があったはず。「娘のヤツ、こんな大事な情報を伝えないで送り出しやがった」と、胸の内は不満タラタラ……そのうち、マスクなんかつけていても「関係ない」「関係ない」と開き直りにかかったが、それにしても、どこを向いても、マスク、マスク、マスク……ちと異様な感じもする。
      奈良県のインフルエンザの発生状況を見てみれば、10月のはじめ601件だったものが、11月のはじめには1116件と、ほぼ培近くにふくれあがっているし、この幼稚園にしたところで、学級閉鎖ならぬ園全体の閉鎖が解除となったばかり。無理もない状況ではあるが……。

      園長の話が終わるや、園児との交流にと、父兄を交えてのゲーム大会。園児たちに教えている色々な記号を、父兄にクイズとして出すという遊びが始まった。まずは気象記号の問題だが、私はいきなり躓いた。上の写真の最初のカードを見ていただきたい。丸を白黒上下に塗り分けた記号だ。私はこれを「雹(ヒョウ)と答えてしまった。これが実は「雷」、続いて2番目の丸に黒の縦線は「晴れ」、最後の丸に黒三角が「雹(ヒョウ)」というわけ。物知りで通した祖父の面目丸つぶれという次第。
      悔し紛れに帰るなり、「気象記号」の検索を開始した。そして見つけた24の気象記号、さて、あなたはいくつわかるだろうか。江戸のかたきは長崎で……てな次第か。気象記号
      回答については、どなたか奇特な方が作られた「天気記号」のホームページを参照されたし。http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0130b/contents/2285-2.html

      続いて各教室に別れ、孫と一緒に夢中になったゲームが「豆つかみ」。箸を使って1分間に大豆をいくつ拾えるかというお遊び。煮た豆だと訳ないのだが、生の豆は滑ってなかなかつかみにくい。
      これが結構夢中になる。
      年甲斐もなく孫相手にムキになり、最後は孫とのチームプレイ、二人で51個をつかみ取り、めでたく表彰状を頂くことができた。
      ちなみにネット上で「豆つかみ」を検索したところ、結構、あちらこちらで、このゲームが行われているようで、次のような記事を見つけた。
      豆つかみ「俳優石原良純(47)が、小学生に完敗した。23日、都内で食品メーカー主催の「小学生豆つかみゲーム大会」にゲスト参加。「本気でやる。勝負は勝負。ボコボコにする」と本気になり、優勝した小学5年生の女の子とエキシビションで対戦した。1分間でおわんの上に何粒、割りばしで大豆を載せられるかを競い、24粒対29粒で敗れた。「ウオーミングアップしてなかったから。夏休みだし、子どもに嫌な思いをさせても。そういう顔は見たくない」と言い訳に終始。「来年やったら、ボコボコにします。大人げないと言われても」と、早くも雪辱を見据えていた。優勝者は本選で35粒を記録した。」
      優勝が35粒だというと、私単独で30粒は軽くいけるわけだから、石原良純におくれをとることはなさそうだ。

      二度とない人生最後は、園児たちがそろって「詩」の朗読をするのを聞いた。
      「二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛をそそいでゆこう 一羽の鳥の声にも 無心の耳をかたむけてゆこう
      二度とない人生だから 一匹のこおろぎでも ふみころさないよう こころしてゆこう どんなにかよろこぶことだろう
      二度とない人生だから 一ぺんでも多く便りをしよう 返事は必ず書くことにしよう
      二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう
      二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいのふしぎを思い 足をとどめてみつめてゆこう
      二度とない人生だから のぼる日 しずむ日 まるい月 かけてゆく月 四季それぞれの星星の光にふれて わがこころをあらいきよめてゆこう」

      教室の壁には、園児たちの朗読する、坂村真民さんの詩「二度とない人生だから」が貼られていた。しかし、教室に貼られてあるのは、これで終わっているが、このあと
      「二度とない人生だから 戦争のない世の実現に努力し そういう詩を一篇でも多く作ってゆこう わたしが死んだら あとをついでくれる若い人たちのために この大願を書きつづけてゆこう」という項が続くはずだが……。
      いずれにせよ、子供たちの朗読する明るい声が胸にしみこんでくる。

      川口居留地跡から市岡高校へと歩く

      2009.11.10 Tuesday

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        土佐11烈士の墓

        ◇外国人居留地跡
        大阪町歩き「西九条を歩く」会に参加したことがある。自分の生まれた町、それも旅の途中で生まれたかのように、ほんの僅かしか滞在しなかった町、それが九条だった。
        その町がどんな町か、幾分、感傷的な思いにも引きずられての参加だった。
        前回掲載の、「安治川・川底トンネルを行く」では、河村瑞軒碑を訪ねたまでを書いた。
        その後、更に西へと歩き、大阪税関に着く。ここがかつての外国人居留地跡。外国人居留地がなぜ出来たのか、ここに登場するのが「堺事件」だ。(堺は、九条から大正区三軒家へ越した我が家が、次に引っ越した先が堺だった。……関係ないって!)
        では、先へ進みましょう。ことの顛末はこうだ。

        慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで、政権は幕府から朝廷への移行が決定した。こんな状況の中、幕府方であった堺奉行所の役人たちは、つぎつぎに堺から逃亡する始末。 その堺へ進駐したのが、土佐藩兵たちだ。しかも隊長の箕浦らは猛烈な攘夷派である。おりしも、すでに開港していた神戸・大阪から陸路で堺へと出ようとしていたフランス人一行があった。ディプレックス号の艦長・領事・通訳・日本側役人たちだ。彼らはこの堺から、沖に停泊するディプレックス号に帰艦しようとしていたのだ。それを土佐藩士たちは、大和川で待ち伏せし、追い返してしまった。そんなこととは知らず、堺港には艦長等を迎えるべくランチ艇が接岸し、フランス兵15人のうち2人が上陸、町の人たちと交歓しだした。「洋夷討つべし」の情熱に燃える土佐藩士たちは、町の人々とフランス兵の交歓はおもしろくない。たちまち丸腰のフランス兵2名を捕縛しようとする。……が、そのうちの一人がランチへ逃げ、離岸しようとした。これが引き金となって、土佐藩側の一斉射撃。アッという間にランチ乗艇の兵も含めて11人を死亡させてしまった。

        川口居留地跡これが世に言う『堺事件』である。フランス側は、日本に事件加担者20名を処刑するよう要請。これを受けて、11名の土佐藩士が堺・妙国寺で、フランス人立ち会いのもと切腹することとなる。 残り9名は、切腹のあまりの残酷さに、フランス側から中止要請が出されたという。立ち会ったフランス人たちは顔色もなく、結果、世界に日本の「ハラキリ」の残酷さを示すこととなった。この事件は、歴史小説の祖と言われる森鴎外が『堺事件』として小説化しており、また彼の民衆無視の姿勢に反発して、大岡昌平も、『堺港攘夷始末』の名で小説化している。

        これ以降、外国人と日本人を一緒に置くことの危険を考慮した日本政府が、外国人居留地をつくり、外国人と日本人が直接接触することのないようにしたというのである。


        川口教会◇川口基督教会
        そんな居留地跡に、今も川口基督教会がある。レンガ造りのいかにも往時を偲ばせる佇まい。でも、十字架がやたらと気になる……。教会の先端に掲げられた十字架が、普通の十字架でなく、円を上下左右に貫いているヤツだ。あれって「ギリシャ十字」って言うんじゃなかったのかなあ。どうも自信がないが、でもカソリックじゃない。カソリックはラテン十字、横木より縦木が長いシンプルなヤツだ。そういえばギリシャ十字って、縦・横同じ長さの算数の+(プラス)印みたいなヤツだったよな。じゃあ、あれはギリシャ十字じゃないか……。そんな案配で、十字架が 妙に気になって仕方がない。受付のところにいたおじさんに聞いてみると、
        「もとはカソリックだったんだけどね、カソリックから別れて、何でもありの教会になったんだよ」
        「…………?」
        私の不審気な思いを察してか、
        「あそこに水を撒いているおばさんがいるだろう。プール高校の先生だよ。物知りな方だから聞いてみたら……」
        早速、挨拶もそこそこに、「ここはカソリックじゃないんですか?」
        「アメリカ聖公会よ。もともとはイギリスでカソリックから別れて起こったものよ」
        「じゃあ、ヘンリー8世のときに出来たイギリス国教会ですか……」
        ピンポーン、大当たりだ。ちなみにフリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』には、『イングランド国王ヘンリー8世は、カトリック教会では認められていない、配偶者の生存中の再婚をしたために教皇クレメンス7世から破門を受けた。そのためヘンリー8世が、1534年に首長令により、イングランド国内の教会をカトリック教会から独立させ国教会派としたのが始まりである。国王を教会の首長とし、かつては王権神授説を認めていた。 聖公会は海外での別称』 とある。
        と、いうことは、あの十字は、ギリシャ十字ならぬ「ケルト十字」だ。
        十字架談義はここまで。スッキリしたところで、次へ行こう。


        松島遊郭◇松島遊廓と松島新地
        居留地には教会ができる。と、同時に遊廓もできる。
        九条と言えば、松島遊廓があまりにも有名だが、その遊廓、今も松島新地として活動していると聞いてビックリ。赤線廃止令が出た後、どうして活動できるのか? 答えは「自由恋愛」ということだそうだ。表向きは料理を食べさせる店。そこで出会って恋愛関係になり、その後、気に入らなくなったので別れる。つまりは「自由恋愛」だから取り締まれない……という仕組みらしい。

        その松島新地へ足を入れるなり、いきなり○に十の字の薩摩の紋章。さきほどの川口教会のケルト十字と言い、どうも今日はやたら○に十の字が気になる日だ。おそらく鹿児島出身者の経営する店なのだろうが、詮索は又の機会にしておこう。
        それより、この松島遊廓を舞台に、かつてこんな事件があった。

        明治17年(1884年)1月4日、一人の巡査が西区にあった松島遊郭を巡回していると、突然「生ぬるい雨」が降ってきた。何と、廓の二階から一人の兵士が巡査めがけて放尿していたのだ。
        「酔っていてわからない」とシラを切る兵士を、巡査が連行しようとしたところ、一緒に来ていた兵士たちが加勢してきた。危険を感じた巡査が応援を求める間に、正月休みで松島に繰り出していた大阪鎮台の兵士1400人が集まってきた。そこへ西署の警察官600人が駆けつけて睨み合いになる。
        いきり立った数人の兵士が抜剣したのをきっかけに、警官も剣を抜き、そこへ鎮圧のために出動した憲兵隊200人も巻き込まれ、死者2名を出す大乱闘となった。事件を聞きつけた予備役陸軍中尉の警部長(現在の府警本部長)大浦兼武が機転を利かせ、たまたま軍装であったのを幸い、そのまま馬に乗って松島に直行し、兵士の上官として、また警官の上司としてこの騒動を収めたのである。 世に言う「松島争闘」。陸軍省、内務省ともに主張を譲らず、司法裁判に付されることとなったが、後始末は陸軍側に有利なものとなったという。

        それからほぼ50年がたった昭和8(1933)年6月17日、 場所は大阪の天六交差点。ここでも「ゴーストップ事件」と呼ばれる、陸軍と警察が衝突する事件が発生した。読売新聞社 発行の「読む年表・20世紀と昭和天皇」には、
        「6月17日、大阪の天六市電交差点で、信号を無視して道路を横断しようとした第4師団の一等兵を曽根崎署の巡査がとがめたが、兵士は「憲兵ならともかく、巡査の指示は受けない」と反抗。巡査は派出所に連行すると乱闘になった。 陸軍は「軍服着用である以上、軍人として扱うべき」「陛下の軍隊を侮辱するのは不敬」と硬化。大阪府警は「公務外の外出であれば交通規則に従うべき」「警察官も陛下の警察官」と反発、大抗争に。5か月後、兵庫県知事の仲裁で解決するが、当時の軍の横暴ぶりを示すエピソードである 」と。 
         
        居留地が出来ると、遊廓もできると書いた。が、かつて、この遊廓の存在が、国際裁判で一大問題となったことがある。
        時は明治5(1872)年6月。横浜港に停泊中の帆船マリア・ルス号(国籍はペルー、350トン)から、ペルーへ売られる中国人苦力(クーリー)の一人が脱走し、近くに停泊していたイギリス軍艦アイアン・デュークに泳ぎ着き、保護を求めた。 英国側の要請を受けた日本側は、神奈川県権令(県知事)大江卓をして事情調査を行うこととなる。マリア・ルス号にはペルーへ売られる235人の中国人が乗せられており、やがて船内における中国人苦力の過酷な実体が明らかとなってくる。
        大江は、証拠調べは陸上で行うといって、船内の中国人全員を横浜市内の学校に収容したうえ、「中国人たちのマカオにおける契約は日本においては無効である」とする判決を下し、こうして中国人を解放するに至った。こう書くと、ことは簡単に進行したように聞こえるが、実際はさにあらず、裁判中、日本の処置に対して、 ドイツ、フランス、デンマーク、ポルトガル、イタリア等の領事が、日本側の処置に抗議を申し入れ、イギリス、ロシアのみが日本側の処置を支持したという。その抗議の要旨は、「船上における船長の行為は日本の管轄外であり、同船は奴隷貿易船ではなく、たとえそうだとしても国際法に違反するものではないし、現在進行中の糺断は違法である等を主張した。その中につぎのような主張がある。奴隷売買は日本の法律も慣習も禁ずるところではない。また清国人との間に結ばれた契約は、すべての国々で通常おこなわれているものである」と。
        ここで問題となったのが、日本の公娼制度であった。その言は「この契約は被傭者に酷だといっても、文面に関するかぎり、当時日本でおこなわれていた遊女等の奉公契約のほうが、はるかに苛酷だ」というのである。
        審理は8月16日から21日までおこなわれたが、その間、船長側の弁護人ディキンズは「この契約は日本の慣習では必ず強行されるであろう。というのは、日本ではもっと拘束的な実にいやな契約、すなわち娼婦契約ですら強行されているのだから」と指摘し、娼婦を拘束する契約の性質を明らかにするためにその契約書と横浜病院の医事報告書の写を証拠として提出したのだ。

        このように、マリア・ルス号の事件は諸外国の注視する中で事が進み、その中で日本の遊女等の人身売買の問題が表面にあがってくることになる。

        そんなことを思っていると、今まで興味を持って調べた歴史上のたくさんな人の思いが伝わってくる(実際には自分の思い入れが、そんな声を聞かせるのだろうが)。長崎遊廓の出で、シーボルトの日本人妻となったお滝さんのこと。その娘のお稲さんのこと。戦国時代が終わり、オランダやスペインの傭兵として、マカオやマニラへ出ていき、そこで各国の手先として、日本人同士争ったサムライたち。アンボンで、雇い主のオランダ人に恐れられ、あげく、スパイの嫌疑を掛けられ拷問死していった日本人傭兵たち。 安土桃山の繁栄をよそに、オランダやポルトガルに売られていった日本人女性たち。吉原遊廓の火災で死んでいった遊女たち……。苦しいような、もの悲しいような、叫び出したくなるような様々な思い。その思いに「つらかったネ、苦しかったネ」と心の中で話しかけると、自分の中から突き抜けるような衝撃がわき上がってきて涙が止まらなくなる。
        集団行動の中で、「これってやばい!」そう思うや、小さな公園の公衆便所へ逃げ込む。トイレに飛び込むや、自分の中から、「間違ってきた」という思いが突き上がってきて止まらない。何が間違ってきたのか? 「何が……」でなくて、みんな、全部、元から間違ってきた。間違った根本の上に、自分を正当化する生き方を求めてさまよってきた。そんな思いが止まらなくなった。


        市岡高校◇市岡高校
        みんなからかなり遅れて最後の目的地、市岡高校に着いた。僕に、人間は「肉体」ではなく「意識」だということを、本当の意味で教えてくれた田池さんが教頭先生をしていたところだ。陸軍予科士官学校から特攻隊の隊長となり、出撃を待たず終戦となり、以後、学校教師として人生の再スタートを切った。「カエル学級」とか「ゼロ学級」 とかを開き、生徒たちから慕われたという。それは、僕の仕事上の得意先に「柳々堂書店」という建築専門書の老舗があるが、ここの女社長から聞いたことだ。彼女は、かつて田池先生の教え子だった。
        思えば不思議な縁だと思う。僕の生まれたのが九条の本田。その後大正区の三軒家に移ったが、いずれの場所も田池先生の育った場所のすぐ近くであり、田池さんが先生をしていた市岡高校の近くでもある。その後、登美丘高校に移られたが、僕たちもその後を追うようにして三軒家から堺の福田へと引っ越した。そこは登美丘高校が近くにあり、僕自身は登美丘高校は受験で失敗したが、失敗して行った私学は、田池先生が住まいしておられた長居という場所にあるという具合だ。もちろん、その頃は、田池さんを知るわけもなく、まるで、知らず知らずに田池先生の追っかけをしていたみたいだ。市岡高校の正門前でそんなことを考えていた。 考えながら、またぞろ「みんな間違ってきた」「根本からすべて間違っていた」そんな思いに突き動かされる。
        「でも、何が間違っているんだろう?」
        小さかった頃、三軒家の電車道を一人で歩きながらよく思った。「死んだどうなるんだろう?」答えのでない思いに不安を感じた頃が、この場所にいるとよみがえってくる。そんな思いに終止符を打つ方法。「まだ先のことだ。今は楽しいことを考えよう」。

        町歩きは、ここで終点らしい。「何が間違っているのか」「すべてが間違っている」とはどういうことだろう。これから後は案内人はいない。 自分の内へつながる道は、自分で歩いていくしかないようだ。

        案内人の声「懇親会に参加される方は、ここに残ってください。行かない人はここで解散です。弁天町駅へと向かってください。」

        江戸時代、街道を行く旅人はトイレをどうしたか?

        2009.11.09 Monday

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          2009年9月2日に日本橋を出発し、今日11月9日、 69日かかって土山(滋賀県)に着いた。49の宿場を通過し、431キロを歩いたことになる。あとは水口、石部、草津、大津、京都と5つの宿場を残すのみとなった。

          あのーっ、本当に歩いたんじゃなくて、いえ、歩いたのは本当に歩いたんですが、「五街道を歩く」という万歩計の上での話なんです。歩くのに張り合いを付けたくて、今年の9月1日にこの万歩計を買いまして、まずは「東海道」からと挑戦したわけです。「今日は品川、明日は川崎……」と、そんなことを思いながら歩いていると、この宿場はどんなところだったのかと気になったり、昔の人は、1日どれぐらいの距離を歩いていたのか、下世話な話ですが、途中で排便の欲求に勝てなくなったらどうするのかとか、そんなことが急に気になってきて。そりゃあ、私たち庶民なら、立ち小便とか、草陰に隠れて用を足すとかするでしょうけど、参勤交代の大名行列の方々は一体どうされていたんでしょうか。
          そこで早速、調べてみることにしました。

          昔の旅人がどれぐらいの速度で歩いていたかとか、この宿場はどんな所だったのかとか、そんなことは意外と簡単に調べることが出来るんですが、用を足すなどという日常的で当たり前のことは、誰も記録に残していない。広重の浮世絵「東海道五十三次」など見たって、トイレや用を足してるところなんか描かれていませんしね(笑)。だから、この調べごとが、結構、厄介なんですよ。

          ところが、ところがです。これが当たり前でない人たちがいた。全く異なった文化圏に放り込まれた、あるいは自ら好んでやってきた人たちがいた……「外国人」あるいは「異邦人」と呼ばれる人たちです。彼らは、好奇心満々で、日本人の一挙手一投足に目を光らせました。そして、それを紀行文に書き残したんです。ケンペルしかり、ツンベリーしかり、シーボルトまたしかりです。今ならブログにでも書くんでしょうが……彼らは、それらのことを「江戸参府旅行日記」「江戸参府随行記」「江戸参府紀行」などの日記に書き残した訳です。どれをとっても、彼らのびっくりしたこと、困ったこと、感動したことが、生き生きと書かれています。勿論、旅先のトイレのことや、雨上がりの後のぬかるんだ街道を誰が整備したかまで、事細かに書いているんです。日本人の旅人にとっては、日常的なことで気にかけないことも、彼らにとってはサプライズなことだったのでしょうね。

          まずケンペルの「江戸参府旅行日記」を見てみましょう。彼は東海道の状況を、「木陰となる松の木が街道の両脇に狭い間隔で真っ直ぐに植えられてあり、降雨時のための排水口がつくられ、雨水は、低い畑地に流れ込むようになっており、みごとな土堤が築かれている」と、街道の状況を描写しています。このため、「雨天続きの時はぬかるんでいる」が、「普段は、旅行者は良い道を歩くことが出来る」ということも観察し記録ています。また、参勤交代などで、身分の高い人が通る場合は、街道は直前にほうきで掃除され、両側には数日前から砂が運ばれ小さい山がつくられます。万一、到着時に雨が降ったとき、この砂を散布し道を渇かすためだそうです。そればかりではありません。二、三里ごとに路傍に木葉葺きの小屋をつくり、その近くの目立たない側道との間を垣で仕切ります。その小屋は、大名や身分の高い人たちが、休憩したり用便したりするためのものだと言います。

          そして、これら道路整備やトイレ小屋の設置を誰がやっているかというと、近在の百姓たちだというわけ。百姓たちは、ボランティアでなく、自分たちの利益につながるとして、この整備をしているとも言います。まず、道路の清掃は、毎日落ちてくる松葉や松かさなど、焚き物として利用され、薪の不足を補い、ところかまわず落とされる馬糞は、百姓の子供が馬のすぐ後を追いかけ、まだ温もりのあるうちにかき集め、自分の畑に運んでいきます。すり切れ捨てられた人馬の草鞋は拾い集められ、ゴミとともに焼かれ、灰=カリ肥料として使われるのだそうです。

          ツンベリーは、このことを、より具体的な記事として書いています(「江戸参府随行記」斉藤信訳)。「ここでも他のいくつかの場所でも、街道では子供や老人が、旅の馬が落とす糞をせっせと入念に集めていた。彼らは、柄の先に付けた匙のような貝殻で、かがみこまないで器用に集めていた。そして拾い上げた馬糞は、左手に持った籠のなかに入れた」と……。

          さて、大名や高貴な人たちのトイレが、農民たちの手で、二、三里ごとに設けられていることは分かった。では一般庶民のトイレはどうだったのでしょう。ケンペルは、そういった庶民のトイレも百姓たちが自費でつくっていたと言います。それも競って、自分のつくったトイレを旅人に使ってもらおうとしたようです。特に女性用のトイレを小綺麗につくり、女性が安心して入れるトイレづくりを目指しました。女性が安心して使えるようなトイレは、利用者が増えるということらしいのです。当時の旅人の糞尿は、大切な肥料になります。旅人たちは、少なくとも自分たち百姓よりうまいものを食っている。ということは肥料としても価値が高いと言うことになるわけ。この糞尿を少しでも多く集め、灰などと混ぜ合わせて肥料にするという次第です。

          しかし、トイレは小綺麗でいいのですが、それを集めて蓄える肥溜めまでは、百姓たちも気がまわらなかったようです。ケンペルは、百姓たちのことを「欲得ずくで不潔なものを利用する」と評し、「田畑や村の便所のそばの、地面と同じ高さに埋め込んだ蓋もなく開け放しの桶の中に、この悪臭を発するものが貯蔵されている。百姓たちが毎日食べる大根の腐ったにおい(タクアンのことか?)がさらに加わるので、新しい道がわれわれの目を楽しませるのに、これとは反対に鼻の方は不快を感ぜずに入られないことを、ご想像いただきたい」と、冗談混じりに訴えています。

          これがツンベリーになると、もっと悲惨です。彼は、肥溜めを「穴」と称し、「その穴には農夫が根気よくせっせと集めた糞尿が蓄えられている。農夫は自分の耕地を肥沃にするためにそれを使う。しかしその多くは通行人が吐き気を催すような堪え難い悪臭を発する」と、その臭いに苦しめられ、「鼻に詰め物をしたり、香水を振りまいても、まったく無駄なくらい強烈である」と、ため息をもらしています。

          トイレに対する疑問は解決しましたが、話まで臭くなってきてしまいました。
          気分直しに、庶民が東海道五十三次を、どのようにして旅したのかを、最後に見ておくことにしましょう。まずは、どんな格好で旅をしていたのかということから。

          ◇旅装
          1.武士の場合=菅笠(すげがさ)、紋付羽織または野羽織(のばおり)、野袴(のばかま)、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、足袋、草鞋履き。刀には柄袋(つかぶくろ)を掛け、荷物は挟箱(はさみばこ)に入れて家来に担がせた。

          2.町人男子の場合=菅笠、着物(歩きやすいように裾をからげます)、手甲、股引(ももひき)、脚絆、足袋、草鞋履き、荷物は平行李(ひらごうり)や風呂敷に入れて振り分け荷物にし、肩に掛けます。道中差(どうちゅうざし)は慣れた人だけが腰に差して歩きました。

          3,一般的な男性の携帯荷物=着物、手ぬぐい、股引、脚絆、足袋、甲掛け、下帯、扇、矢立、鼻紙、財布、道中案内書、日記帳、巾着、指刀、耳かき、風呂敷、薬、針、糸、結髪道具、煙草道具、提灯、ろうそく、合羽、平行李、綱三本(宿で塗れた手ぬぐいを干すのに使うそうです)。

          4,町人女子=菅笠、着物、着物の上には上っ張りを着ます。着流しの着物の裾はからげます。手甲、脚絆、白足袋、結い付けの草履。

          ◇旅の日数
          1.徒歩=一日の歩行距離は、男子で平均10里(39.27km)、女子や老人で8里(31.42km)。晴天で川留(雨による増水で渡河禁止になること)なしと仮定して、江戸〜京都間を、男の場合で、13泊14日の旅程が一般的。この旅程での宿泊地は、戸塚、小田原、三島、蒲原、岡部、日坂、浜松、赤坂、宮(熱田)、四日市、亀山、土山、草津が一般的。
          江戸と京都間の距離は、126里6町(約496km)になるので、一日の歩行距離は35.4kmとなり、これって結構速い! 僕の場合、朝夕の散歩と日常の歩きで、少ないときで6km、よく歩いたと思うときで10km程度。勿論、比べられはしないが、10km歩いたときなど、脚がだるいと感じるから、昔の旅人というのは、健脚ぞろいだったのかも。


          2.駕籠(かご)=全旅程を駕籠というのは考えられないが、早駕籠といって、宿場の人足が、駕籠に急使を乗せて、宿場宿場を引き継ぎながら昼夜兼行で走るというのがある。勿論、公用に限られる訳だが、最高記録は、江戸から赤穂までの170里(約668km)を四日半で走ったというもの。赤穂の名が出て察しがつくように、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の江戸城内刃傷事件を知らせる早飛脚である。

          このほか、旅の費用であるとか、道中の人間模様とか、川渡りの模様であるとか、興味は尽きないが、調べだしたら際限がない。この辺で「東海道・道草話」はやめるとして、いつか万歩計でなく、実際に書店営業を兼ねて歩いたら面白いのではないか。そんな妄想にとりつかれている。

          (左図は、安藤広重「東海道五十三次」中、土山「春の雨」=「東海道中膝栗毛」が大ヒットし、東海道ブームが起こり、浮世絵も「役者絵」「美人画」から街道の風景を描いたものが流行るようになり、このブームにのって一躍有名画家となったのが、安藤広重。ゴッホにまで大きな影響を与えたという人物ですが、彼の「東海道五十三次」は、実は司馬江漢の「東海道五十三次画帖」を元画とした盗作ではないかということが、現在、世間を騒がせています。

           

           

           

           

           

           

           


           

           

           

          「あなたの知らない奈良のかつらぎさん ―かつらぎガイドブック―」

          ISBN978-4-909201-06-5 A5判 250ページ(オールカラー) 1,200円+税

           

          2018年12月20日、この本の出版協力者の呼びかけが、クラウドファンディングでスタートしました。
          書店が良心的な「少部数出版物」と「読者」との出会いの場所でなくなった今、「本」と「読者」を結ぶ新しい試みだと思います。ぜひ、内容をご確認の上、ご協力をお願いいたします。

           

            協力の内容 1口 2,500円には

            あなたにお送りする「本」1冊1,200円/図書館用に寄贈する「本」1冊1,200円/発送費 2件分500円

            が含まれています。


          ご申し込みいただいた方は、上記タイトルの本を1冊送らせていただくほか、この「本」の巻末に「応募者の氏名と都道府県名」を、出版協力者として掲載させていただきます。例:「山田太郎 大阪府」「山本花子 奈良県」


          https://readyfor.jp/projects/katsuragi 

           

          表紙は、大阪芸術大学デザイン学科3回生 津村凪咲さん提供のものに決定しましたが、細部は変更になる可能性があります。

          日の出ビューポイント Vol.2 ほのぼの公園

          2009.11.07 Saturday

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            ほのぼの公園の朝日

            ほのぼの公園とゴロ今朝の日の出は、本当にきれいだった。
            ただ広陵町ではなく、隣の河合町は「ほのぼの公園」での日の出ビューなのだが……。

            この「ほのぼの公園」、直線距離で行くと、ほんの500メートル強とすぐ近くなのだが、4世紀後半につくられた、この辺りでは最古の佐味田宝塚古墳があり、この古墳を迂回するように進むため片道1.7キロ近くを歩かねばならない。家を出発したのが6時10分、途中で陽が昇りはじめ、大急ぎで公園を目指した。
            この日は、朝から霧が深く「どうだろうか?」と心配しながら向かったのだが、着いてみると、公園前の池の面に霧が漂い、そこに朝日が映えて実に幻想的な光景をつくりだしていた(冒頭の写真)。
            カメラを向けるが、シャッターを切ろうとすると大きく手がぶれる。何かと思えば、ゴロとトマのリードを持ったままカメラを構えていたのだ。人の居ないのを幸い、面倒だとばかり、ゴロとトマのリードを離してやった。
            撮影の間中、2匹はのんびり散歩と洒落こんでいた。

            ゴロとトマの追いかけごっこ撮影も無事終わり、「帰るぞーっ」と2匹に声をかけ、リードを付けたまではよかったが、トマが降り立ったカラスを見つけ、リードを付けたまま一目散にカラスを追いかけ始めた。さすが猟犬の末と感心している場合ではない。ゴロまでがつられて、トマを追いかけだしたのだ。こちらもつい声が荒くなり「帰ってこい!」と叫び出す。こちらの剣幕にビックリしたのか、2匹は振りかえると尻尾を振りながら戻ってきた。まずは「めでたし、めでたし」というところで、今日のところは、これまでとさせていただきます。

            ゴロとトマはのんびり散歩
            ほのぼの公園の朝日

            ほのぼの公園から帰ろうとして振り返ったとき、あまりにきれいだったので、最後に撮った1枚です。一番のお気に入りの写真になりました。

             

            広陵町・日の出ビューポイント No.1 横峰公園

            2009.11.05 Thursday

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              横峰公園の日の出
              蛇松とゴロ
              サラリーマン生活をやめてからというもの、まるで絵に描いたような健康的生活をしている。夜はたいていは10時には寝てしまう。おかげで朝が早い。5時過ぎには目が開き、朝風呂と洒落込む。何をするでもなく、ただ湯に浸かり、考え事をしているような、していないような……。
              6時前には犬のゴロが散歩をせがむ。しかし、散歩の前の行事がある。バナナダイエットだ。一本のバナナをを、一人と三匹(犬のゴロとトマ子、それにウサギのキャロ)で分かち合いながらというか、ねだられながらというか、ともかくバナナを食わないことには、世界は動き出さない。
              こうして早朝6時、ゴロとトマを伴い、いよいよ散歩へ出発。
              だいたい万歩計で3500歩〜5000歩、距離にして2キロから3キロを歩く。すると、今頃の季節だと、6時半頃には太陽が昇りはじめる。最初は無意識に日の出を眺めていたが、そのうち、日の出が「絵」になる場所を意識的に探すようになった。
              写真の横峰公園もそうだ。最近の公園は、「犬を連れてくるな」という所が多い。全くけしからん話だが、この横峰公園だけは、それがない。そのため、夕方などは犬のたまり場となる。それでも早朝は、人も犬も少なく、ゴロもトマもノーリードで走り回ることができる。
              中央がグランドで、それを取り巻くように遊歩道があり、さらにその周囲に雑木林の中を散策できるコースがある。この雑木林の中に、僕が「蛇松」と勝手に呼んでいる松がある。幹が蛇が鎌首をもたげたような、はたまた龍が天に昇らんとするかのような風情であるが、あるとき、この松の向こうに日が昇っていく光景が見えた。
              写真に撮ってみたら、そんなにかっこよくなかったが(下の写真)、肉眼で見ているときは、何とも言えず荘厳だった。
              次の日、グランドを挟んで反対側から見たら、どんな雰囲気だろうと、この日もカメラ持参で日の出を見に来た。これがよかった。早朝、野球の練習を始めた子供が画面の下に写り、まだ薄暗いグランドと雑木林の向こうに太陽が昇っていく。これから一日が始まろうとする躍動感と静けさが絶妙のバランスで映し出されている。そんな自画自賛の一枚が、冒頭の写真である。自慢話がそろそろ鼻に突きだしたところで、今日はお開き。

              蛇松と日の出

              色鉛筆画「大槻ゆり展」―色鉛筆の世界―

              2009.11.01 Sunday

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                ミュージアムから琵琶湖を望む

                琵琶湖グランドホテルでの集まりの帰途、比叡山ガーデンミュージアムで開かれている大槻ゆりさんの個展に行ってきた。題して「色鉛筆の世界」……。
                曲がりくねった比叡山ドライブウエイを登りつめ、会場の比叡山ガーデンミュージアムに到着。印象画の絵画(レプリカ)が、庭園の花々と見事にマッチして、空気の透明さも相俟って、何とも言えない爽やかな空間がつくり出されている。まるで、下界の喧噪が嘘のような世界だ。
                大槻ゆりそのガーデンミュージアムの中ほど、ローズガーデンに個展会場はあった。バラに飾られた空色の階段に「色鉛筆画 大槻ゆり展 ―色鉛筆の世界―」の案内表示がつるされていた。
                会場へはいると、ガーデンミュージアムの透明感にもまさる、これが色鉛筆かと思えるような爽やかな作品が、気持ちよく展示されている。会場の入り口には、彼女が表紙画をてがけた本や、彼女の作品が紹介された雑誌が展示されていた。そのなかに、僕が彼女にお願いした本も2冊混じっていた。
                1冊は「続・意識の流れ」のホントビラの挿し絵。もう1冊は、政府刊行物時代につくった「スイス留学大作戦」の表紙カバー。
                感動して中にはいると、受付には、彼女にお願いした本の「栞」(なかよし小路)が、次のようなメッセージと一緒に積まれていた。

                本日はご来場いただきありがとうございました。“しおり”をよろしければお持ち帰りください。お一人さま一枚まででお願いいたします。UTAブック新刊「第二の人生」の中しおりとして出版されているものです。

                何より嬉しかったのは、みんなが喜んで「栞」を持って帰ってくれ、最初の200枚はすぐになくなり、追加分も、もう少なくなっているということだ。(この栞というのは、10月29日にアップした『塩川香世著「第二の人生」の編集を終えて』の中で紹介した「栞」のことだ。)

                ところで、大槻ゆりさんのことを知ったのは、「舫」」という1冊の雑誌を通してのこと。その表紙に大槻さんの画が使われており、作者の紹介のページに彼女が重症筋無力症だということが書かれていた。浅学なため、どんな病気は知らないが、文字や言葉の響きからおおよその見当はつく。そんな彼女が、一枚の紙の上に、こんな微妙で繊細な色合いの世界をつくり出していけるものだろうか。まず、そんな疑問が起こった。
                好奇心が先に立ち、web上を検索してみると、彼女自身が書いた次のような一文に行き着いた。

                大槻ゆりさん私は重症筋無力症、擬性バーター症候群という筋力の病気です。通常は健常者と同様に見えますが、突然症状が変化する為(日内変動)外出しづらく、生活圏が狭くなり、誤解をうける事も多くなりました。病気からくる心の不安は、視野を狭くさせ、別の病をつくります。人を疑うようになってしまった時に、病気を理解して下さる方と出会えた事は幸運でした。家にいながらも関心のキーを外に向けさせ、複視や眼瞼下垂で物が見えない時、見えなくても聞くことができる音読テープを教えて下さりました。情報を見るだけでなく聞く事も自信と心のゆとりにつながる事を知りました。そして、いざと言う時に助けて下さる方がたに出会えた事が、何よりの心の支えです。また、大好きだった絵が病気と、病気からくる心の病で描けなかった時に「頑張らなくて良い」といわれたことが救いになりました。障害を持っている以上、どんなに頑張っても健常者には追いつけない事があります。知らず知らずの間に無理をしていた自分に気付かされ気持ちが楽になりました。努力を忘れず、心意気をもちながら気負いすぎない自分を目指したいです。夢は絵本を出すことと自分のことが自分で出来るようになることです。そして人にも分けてあげられる様になることです。振り返った時、障碍が財産になっている、障碍を越えられるそんな人生が送れたら素敵だろうと思います。絵は言葉が要りません。言葉のないところから何かわずかな共感が生まれたらとても素敵だと思います。 大槻ゆり
                スイス留学大作戦
                その後、「続・意識の流れ」で、ホントビラの挿し絵をお願いし、政府刊行物時代には「スイス留学大作戦」という、幼年令留学をあつかった「本」の表紙画をお願いした。
                結果は大成功で、今現在は、UTAブックというシリーズ本の「栞」を、新刊が出る都度、提供いただいている。「栞」という4cm×12.5cmの小さな空間に、フワーッとした透明感のある色の世界が、本が出る都度、生みだされていく。僕の「本」を造るうえでの楽しみが、また一つ増えた。

                ◇追記
                比叡山ガーデンミュージアムのゲートを入ったところで、カレンジュラとエリカメランセラの苗を買い、事務所のプランターに植えることにしました。女房曰く、カレンジュラは「冬知らず」の別名があるほど寒さに強いということ。またエリカは小説『嵐が丘』の館の周囲に生えていたのもので英語ではヒースと呼ばれるモノです。
                でも「ヒースクリーフ、ヒースクリーフ」なんて呼び声が聞こえてきたら怖いかも……。

                カレンジュラとエリカ

                安治川・川底トンネルを行く

                2009.10.31 Saturday

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                  またまた個人的なことになるが、僕の生まれたのは大阪市西区の本田というところ。生まれただけで、間もなく大正区に移り、故郷という感覚はない。大正区にしたところで小学校に上がるや大阪府堺市に引っ越したため、愛着というモノがまるでない。両親にしたところで、夫婦そろって故郷と呼べるモノがない、いわば故郷喪失者……。
                  親父は新潟県北蒲原郡黒川村に生まれた。代々、庄屋の家柄で、土蔵には腰の大小はもちろん鎧兜まであったと言う。親父は兄嫁とそりが合わなかったこともあるが、閉鎖的な環境を嫌い、船乗りになるといって村を飛び出し勘当された。
                  以後、外国航路の貨物船の航海士となり、戦争では海軍に招集。重巡洋艦「利根」に信号兵として乗艦していたが、昭和20年、呉沖で撃沈され終戦を迎えた。戦後は瀬戸内航路の客船に乗っていたが、念願の一等航海士の免許を取った途端、僕が生まれた。戦後の給料遅配や関西汽船との合併騒ぎの中で、父は、海を捨てて銀行員となった。
                  安治川新旧地図母は山口県萩の出身だが、祖父の時代、なぜか一族あげて萩を捨て、大阪の大正区に移り住んだという。墓まで処分しての大移動。何があったのか今となっては謎という他はない。
                  大阪に移り住んでから祖父は大阪府警で剣術を教えていたというから、いかにも堅そうな人だったようだ。しかし、母の姉は花柳界で名をならした人だというし、その内縁の夫という男性も家に出入りしていたというから、それほどの頑固者でないのかも知れない。
                  ともかく私は本田に生まれた。父が船乗りだったため、港の近くがよかったのだろう。しかし母が病弱で、僕を産むなり病院暮らしとなった。船に乗るとき、父は生まれたばかりの僕を背負い、祖母の家のある大正区三軒家まで歩いてきたという。そして勤務が終わると、また祖母の家に行き、僕を引き取り本田の家に帰る。しばらくはそんな生活を続けていたらしい。
                  しばらく前のことだが、そんな本田を含む西九条のエリアを歩くという町歩きの集いがあった。僕の生まれたところがどんなところなのか、好奇心も手伝い、参加してみることになった。以下は、その時の覚え書きを編集したものである。


                  ■安治川・川底トンネル
                  九条駅で集合し、まず最初に行ったのが、この安治川トンネル。案内人の話によると、この地に安治川橋が架けられたのは、明治6年(1873)のこと、居留地の交通の便を図るためだという。この橋は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が 航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であり、当時の人々は、この旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。 ところが、この可動橋も明治18年(1885)大阪を襲った大洪水のとき、市内への洪水を防止するため、やむなく工兵隊により爆破撤去されてしまったという。
                  以降、 明治30年には、もと西九条側で施設の渡しを行っていた源兵衛という人が、九条新道の西端に渡しをつくった。これは 「安治川の源兵衛渡し」と呼ばれ、両岸の商人に大いに喜ばれたということだ。 この頃の安治川には、現西区内で七ヵ所の渡しがあったが、源兵衛渡しはもっとも利用者が多かったという。
                  安治川トンネル昭和に入ると、市中の交通量は増すばかり。そこで計画されたのが、安治川隧道(安治川トンネル)だ。 当時は、まだ、船舶の航行が優先される頃で、船舶航行の障害となる橋は認められなかった。では、上がダメなら下ではどうかの発想で、社団法人・土木学会関西支部に調査研究を委嘱し、昭和6年、市の技術者が実際の設計に取りかかり昭和10年に起工式を行ったという。
                  工事は、9年の歳月を要し、終戦を翌年に控えた昭和19年9月15日開通したが、その工法は、水底に溝を掘り、その上に鉄筋コンクリート製の箱を並べるという 「沈埋工法」によって作られた日本初のトンネルなのだそうだ。
                  疑問が残る。なぜ戦争中に、このような大工事が完遂されたのか、まさか人々の便宜のためでもないだろうに……。
                   
                   
                  ■安治川隧道と軍用道路
                  川底トンネルを渡り、エレベーターで地上へ出ると、戦時中使われていたエレベーターと、その上に「安治川隧道」と書かれた看板があった。ここに、先ほどの疑問に対する答えがあった。
                  トンネルを東へ行くと、なんと一本道で玉造訳まで辿り着くのだ。九条新道→千代崎橋→アメリカ村→谷町7丁目→真田山公園のルートだ。実はこの道路は兵器など軍事物資を運ぶために、軍事目的で昭和初期から通じたものだった。森ノ宮の砲兵工廠から貨物線で玉造訳まで運び、この道から川底トンネルを通り此花区の桜島ふ頭から、アジアの戦地へ運ぶ計画だったのだが、全ての道路が貫通するまでに終戦を迎えてしまったというお粗末。エレべータ横の閉鎮された扉は、昭和52年まで通行できた自動車用で、元々は軍用トラック用だったという。

                  安治川隧道データ/総工費は260万円(現在の金額で数十億円)
                  川底部の隧道延長は80.6メートル/中央部は
                  西側(川下)に幅2.4メートルの歩道部があり、東側には車道部(川上)4.5メートル2車線が設けられている。

                  トンネルの両側には
                   車用として3.0メートル×9.5メートル 高さ4mの昇降機を各2台(1時間15往復)、
                   人用として1.8メートル×2.3メートルの24人乗り昇降機を各2台(1時間35往復)を用意しています。
                   また、それとは別に人用の幅1.4メートルの階段があります。

                  時期がはっきりしませんが、使用料が徴収されていました。
                   貨物自動車/50円  普通自動車 40円
                   小型自動車/30円  荷車その他諸車 20円
                   (歩行者と自転車は無料)

                  このデータは、「回線問屋碇屋吉右衛門」のページから転載させていただきました。
                   

                  ■河村瑞軒と安治川竣工
                  トンネルを渡り、安治川の流れを見ながら、案内人の説明を聞く。「現在は安治川を境に西九条と九条に分かれていますが、1684年(貞亨元年)までは一つの島でした。この島は淀川の河口で水流の妨げとなり、幾度もの洪水で甚大な被害を受けました。そこで同年、河村瑞軒が九条島を切り開き水流を直接大阪湾へ通す工事に着手、その工法はまず中央に約15メートル幅の湾を掘り、淀川と大阪湾からの水流を防ぐため、両河口を残し土壁にする。涌き水は数百台の水車で汲み上げ、さらに1万ものハシゴを溝にかけ、土砂を人海戦術で遅び出す。このような溝を順次掘り続け、長さ約3キロ幅90メートルの川筋に広げていきました。 重機のない時代の大変な手作業には、加賀(石川県)など北陸地方の人々も多く採用しました。寒冷地の人々は忍耐強い気質だからです。こうして、わずか20日で工事を完了させたのです。完成の瞬間はのろしを合図に両土壁を撒去。その瞬間、淀川の水流がドーッ!と大阪湾に流れ込みました。川の名は「洪水よ安らかに治まって欲しい」の顧いを込め『安治川』と命名」したと言うことだ。
                  河村瑞軒碑さらに調べてみると、淀川と大和川は、現在でこそ、それぞれ独立して流れているが、かつては淀川下流部で大和川が合流していたという。合流付近には上流から大量の土砂がおし流され、多数の砂州(島)が形成されることになった。これら砂州の流域には低湿地帯が広がり、ひとたび長雨があればすぐに洪水や氾濫を招くようになる。万治・延宝年間(1658〜1680年)には数度にわたって淀川堤防が決壊し、特に延宝2年(1674年)の大雨では、北は枚方から南は生駒山麓、西は大阪にいたる広大な地域が、一面の泥海と化す大水害がおこった。 こうした水害を防ぐため、幕府は淀川改修に着手することとなり、天保3年(1683年)、稲葉石見守、彦坂壱岐守、大岡備前守の若年寄三名に調査を命じた。この時の随行員のひとりが河村瑞賢だった。彼は淀川河口の九条島が水流を妨げていることが洪水の最大の原因であると考え、その開削と、山地の砂防工事をあわせて上申することになり、こうして翌貞享元年(1684年)、九条島の開削から、上記のような工事はスタートすることになったと言う。
                  この川の完成によって、同じく西成郡九条村であった一部が分かれて、現在の西九条になった。右の写真にある河村瑞賢の紀功碑は、大正4年8月に建てられたものという。
                   
                  西九条という地域の基盤が出来たところで、今日はここまで。
                  次の機会には、川口居留地跡から松島遊郭までを紹介し、最後に市岡高校へたどり着いた時点で町歩きは終了となる。
                  市岡高校に着くまでの間、しばし、お付き合いを……。

                  讃岐神社と三吉石塚古墳

                  2009.10.15 Thursday

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                    まずは私自身のことについて記しておこう。 
                    自分の信条は、土地に縛られず、人に縛られず、立場に縛られない、そんな「自由人」が生きる上での指針だった。したがって、いわゆる「マイホーム」の夢など、微塵も考えつかないものだった。それが同志であるはずの妻が「家」を買いたいと、今の奈良の田舎に落ち着くことになってしまった。
                    結婚以来、「堺」に住み、「門真」に住み、「千里」に住んだ。仕事で関東へ移るや、神奈川県の「相模原」に住み、やがて神奈川、東京、山梨の接点とも言える「三ヶ木」という田舎に住むこととなった。
                    ここは400年前の隣組が、今も機能しているという大変なところだ。ある知人などは「嫁」に来て10年も立つというのに「よそ者」呼ばわり。我々に至っては「旅のもんだから仕方がねえ」ということになってしまう。土地の人の言葉通り、やがて関西へ帰ることになった。まさに「旅の者」に違いはなかった訳だ。(写真は、三ヶ木近くにある城山と城山ダム湖)



                    西暦1999年12月も押し詰まっての引っ越し、明けて2000年には、奈良県の住民として正月を迎えた。しばらくして、妻から「良いところがある」と連れて行かれたところが今の住まいだった。なぜかトントン拍子で話が進み、なぜか私もそこが気に入り、50年来の信条もあっさり捨てて北葛城郡広陵町を「終の住処」と決め込んでしまった。蛇足だが「終の住処」とは、「ついのすみか」と読み、最後に住むところ、落ち着くべき場所というほどの意味であるが、果たして本当にそうなるかは、これからのお楽しみと言うところ。
                    しかし、少なくとも私はここが気に入っており、定年退職後、住処ばかりか自分が運営する超零細出版社の倉庫兼事務所も、この地に決めてしまったという次第。

                    前置きが長くなったが、私の住む広陵町がどんなところか、愛犬GOROとの散歩コースから、その一端を紹介しておこう。

                    ◇讃岐神社と三吉石塚古墳
                    奈良に「讃岐神社」がある! まずは、この驚きから話を……
                    「よくある話で別に驚かない」って、それでは話が進まないので、ここは何がなんでも驚いていただくしかない。「讃岐(さぬき)」という地名はご存じのように、四国は今の香川県にあたる、それが奈良のどいなかに讃岐神社あるというのだ。
                    驚いていただいたところで、ある朝のこと、愛犬GOROと散歩に出かけ、「少し遠くまで歩いてみるか」とウロウロしているうちに行き当たったのが、この「讃岐神社」。そのときは「奈良に讃岐神社かよー。どうせ末社か何かだろう」ぐらいに思っていたが、実は、ここが「竹取物語」、つまり「かぐや姫」のお話の発祥の地ということと大いに関係があった。
                    境内を掃除しているおばさんに話を聞こうとしたが、鳥居の外に説明書きが出ているという。

                    讃岐神社境内

                    土地の古老に話を聞いたとなると、なにがしかロマンの香りがしようというものだが、掃除のおばさんにも振られ、しぶしぶ説明書きの掲示板に目を通したでは、いまいち情緒が出てこない。まあ、そこはしんぼうしていただいて、一緒に掲示板に目を通してみよう。

                    讃岐神社の説明

                    『「今は昔、竹取の翁(おきな)というものありけり……」で始まる「竹取物語」(平安時代、作者不詳)に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統〜文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族 齋部(いんべ)氏が大和の国広瀬郡散吉郷に移り住んだものとしている。翁の讃岐(さぬき)姓は。「和名抄」の大和国広瀬郡に散吉(さぬき)郷があり、「大和志」では、『散吉郷 廃存済恩寺(はいそん さいおんじ)村』として、現在の北葛城郡広陵町大字三吉(みつよし)の斉音寺集落付近に比定している。
                    またこの付近に「藪ノ下」、「藪口」、「竹ヶ原」という地名があり、真竹孟宗竹等の竹林が多数残っている。(後略)』

                    つまり、ここ三吉(みつよし)という地名は、昔、散吉(さぬき)と呼び、香川県から移住してきた竹細工の齋部一族が住み着いたところで、その長というのが「讃岐氏」だという。その讃岐氏が朝廷に「竹」やら「竹細工」を献上していたところから「かぐや姫」の物語は生まれたというのだ。

                    石塚古墳から見る落日

                    こればかりではない。この広陵町というところ、大和朝廷に刃向かい「土蜘蛛」と呼ばれた葛城一族の拠点だったところでもあり、蘇我一族のホームグラウンドでもあったところだ。
                    まだまだ面白いものに出会えそうだ。

                    その日の夕刻、再び愛犬GOROを伴い、讃岐神社の近くにある三吉石塚古墳を訪ねた。石塚古墳の話は後に譲るが、おりしも日没時、二上山に陽が沈んでいく。思わずGOROと共に陽が沈みきるまで、その場を動けなかった。

                    愛犬GORO、落日への感慨

                    (この写真、断じて「やらせ」ではありません。)