クジラ・イルカ紀行 vol.008 / 能登島のミナミバンドーイルカ

2018.04.04 Wednesday

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         NHK「ニッポンの里山 イルカが暮らす里の入江」

    NHKの朝の番組に全国各地の里山を紹介する「ニッポンの里山」という長寿番組があります。そのシリーズの中で「海の里山」として紹介された二つの場所、それが熊本県の天草と石川県の能登島です。

    2013年 1月28日に放送された「イルカと生きる里の海(熊本県天草市)と、2014年9月29日放送された「イルカが暮らす里の入り江」(石川県七尾市)が、それです。

    そして、この二つの地域をつないでいるのが、天草のミナミバンドウイルカなのです。

     

    ところで、石川県の能登島にイルカが住み着いていると言えば、本来は「カマイルカ」のことだと思ってしまいます。ところが、この北の海に住み着いているのは意外なことに「ミナミバンドーイルカ」の群れなのです。

    ミナミバンドーイルカについては、従来、バンドーイルカの亜種であるとされていましたが、2000年の国際捕鯨委員会 (IWC) 科学委員会により別の種とされました。

    そして、その生息地の北限が、石川県七尾市能登島の七尾湾ということになるそうです。

    さらに驚くことには、この七尾湾のイルカ、もとは天草沖合に2000頭以上のミナミバンドーイルカが暮らしていますが、その中の2頭のつがいが移り住んだものだといわれています。

    ちなみに天草市五和町から七尾市能登島まで、およそ1000キロメートル。その距離を2頭のイルカ夫婦が北上し、能登島で新たな群れの始祖となったという次第です。

    大克丸と大橋克礼船長(石川県七尾市能登島)

     

    上の写真は、僕が能登島に、南バンドーイルカの取材に訪れた際、ウォッチングの船を出してくれた大橋克礼船長と、その持ち舟・大克丸です。大橋船長は、もともとはこの能登島で郵便局に勤めておられました。それが定年退職後、退職金で、この大克丸を手に入れ、イルカのウォッチングと釣りイカダのレンタルを生業とするようになりました。大橋船長は、ミナミバンドーイルカが、この七尾湾に住み着くようになってこのかた、イルカ夫婦が一族をなしていく変遷を垣間見てこられた方なのです。

    その大橋船長に、「本当に天草のバンドーイルカなのですか」と尋ねてみました。

    船長が言うには、七尾湾にイルカが住み着くようになって騒がれ出した頃、長崎大学の水産学部の先生が調べに来られ、間違いなく天草のイルカだと断定したというのです。というのも、長崎大学水産学部では、長年、天草のミナミバンドーイルカの個体識別をおこなっており、背びれや尾びれの形、胴体の傷や特徴から、天草のイルカは、ほぼ特定できるようになっているのだと言うことです。

     

    沖合でなく沿岸部まできて遊ぶ南バンドーイルカの群れ

     

    さて、このイルカのことで、「まだ面白いことが……」というか、わからないことがあります。

    それはイルカ社会がメス社会で、一夫一婦制ではないということです。クジラの仲間で、一夫一婦制なのはシャチだけだと言われています。シャチは夫婦の絆が強く死ぬまでともに暮らすと言われています。これに反しイルカはオスは種付けをするだけで群れには残りません。そうして生まれてくる子も、メスならグループに残りますが、オスの子は成長すると群れを離れていきます。こうしてイルカグループは、大お婆さんをリーダーとして、その娘、そのまた娘とが連なりグループを形成していくというわけです。グループに子供が生まれると、メス同士が助け合って育てていきます。もし子育て中の親子イルカを見ることがあっても、二頭のイルカは夫婦でなく、お母さんイルカとそれを助けるおばさんイルカというわけです。

    それが意外なことに、天草から遠く離れ、石川県は能登島の七尾湾まで旅をしたイルカ夫婦なのですが、大橋船長が言うに、今も夫婦で、オスはグループに残っていると言うのです。七尾湾で新たに生まれた子供たちは、ルール通りオスの子は群れを離れていっているようです。ところが、群れの始原の二頭は、今もオスがグループにとどまっていると言うことです。

    ことの真偽を確かめるべく、長崎大学水産学部の天野教授へ電話を入れたところ、大橋船長の話は間違いなさそうです。不思議に思い「どうしてこんなことが起こるんですか? イルカ社会はメス社会で、オスは離れていくと、どのイルカの解説書にも書かれているんですが……」

    「そんなことを言っても、現にあるんやからしょうがない!」

    これは当事者である能登島のミナミバンドーイルカ夫婦に訊いてみるより仕方がなさそうです。

    イルカが話せたら、いったい、どんなロマンスを語ってくれるのでしょう?


    さて次回は、この七尾湾のイルカ夫婦のふるさと「天草」を紹介させていただきます。

    「石川」と「熊本」、1000キロ離れた北と南の二つの海域には、いったい、どのような共通点があるのでしょうか? 人間と自然、その関係に新たな視点を見つけることが出来るのかも知れません。

     

    クジラ・イルカ紀行 vol.007 / 壱岐・辰の島「デクスター・ケイトの決断」

    2018.03.07 Wednesday

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      デクスター氏が壱岐に滞在中、宿泊した「ふくや荘」

       

       デクスター・ロンドン・ケイトさんについては、グリーンピースの運動家ということ以外、あまり分かっていません。

       壱岐イルカ事件当時(1980年)は36才と言いますから、生きておられれば、今年で74才になられるのでしょうが、事件後、ダイビングの事故で亡くなられたと聞いています。

       ケイトさんが最後に壱岐へ来られたときは、奥さん子供連れで、壱岐の「ふくや荘」に泊まられたようです。僕も、壱岐の辰の島取材のおり、辰の島への渡船や遊覧船のガイドをしておられるMさんから、ケイトさんが泊まられたのが「ふくや荘」だということを教えていただきました。

       辰の島取材の後、その足でふくや荘を訪問させていただいたのですが、あいにく、この日は島をあげての運動会の日、旅館はもぬけのカラという状態。近所の方が見かねて「呼んできてあげましょうか?」と、親切に声をかけていただいたのですが、せっかくのお孫さんの運動会を邪魔する訳にもいかずお断りした次第です。

       

      壱岐から辰の島への渡船場/観光船「KATSUMOTO」/船長(上)とガイドのMさん

       

       ところで、辰の島取材に当たっては、壱岐市役所観光課を通して「当時の模様を知る人に」ということで取材の申込みをしていました。取材当日は、今は勝本町漁港で観光船の船長をしておられる方が話してくださることになっていたのですが、やはりお孫さんの運動会ということで、辰の島へ渡る船が出るまでの時間、大急ぎで次のようなことを話してくれました。

      「イルカを追い込んだのは昭和52年と53年のことで、2000頭ちかくを辰の島海水浴場に追い込んで網で囲ったんですよ。それを聞いた愛護団体のケイトという人が夜中に網を切って、約300頭ほどを逃がし、それが裁判沙汰になったんですよね。

       でも、これが爆発したのは一日や二日のことではないんですよ。何年も何年もかかって、あげくの果ての爆発なんですよ。

       ここ勝本はイカやブリを獲って生活しておったんですよ。それをイルカが食べに来るんですよね。だから何年も何年も、どうしたらよいか、どうしたらよいかと悩んだあげく、仕方なく、昭和52年と昭和53年に追い込みに踏み切ったわけです。

       殺生は、しとうなかとですもん、どうしても生活がかかっとりますもんね。

       イカ漁というのは、油代が一日何万もかかるんですよ。イルカは頭が良いけん、集魚灯を焚いて、高い燃料代つこうて、イカが寄ってきたと思う時分にやってくるですもんね。そうなると、その日はまるまる赤字――それが一年や二年やないんです。何年も何年も続いてきたとですよ。悩んだあげくに殺すことになったとです。」

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      「お客さん、辰の島へ渡る船が出るけん……」

       女性の受付けの方が、船の出航を知らせに来てくれた。このあとは、船のガイドをしているMさんという男性が、船長に引き続き、当時の話や案内をしてくれることになった。

       

      辰の島へは、壱岐の勝本漁港を出港して10分あまりで到着。

       

       イルカの大量屠殺で問題となった壹岐の無人島、辰の島へ到着です。

       船長から話を引き継ぎ、辰の島を案内してくれるのは遊覧船でガイドをするMさん。
       Mさんは、事件当時は中学生で、イルカの屠殺にアルバイトとして駆り出された一人です。今から40年近く前の話ですが、このアルバイト、時給800円の高額バイトだったそうです。

       そのMさんの言うには、

      「浜辺に並べられたイルカが涙流すんよ。」

       さらに聞くと、涙を流すだけでなく、声を上げて泣くのだともいいます。

      「叫ぶような、助けを求めているような、あの声を聞くと切のうてたまらん……」

       

      事件現場で、当時のことをつらそうに話してくれるMさん

       

       Mさんの話では、今もときどき沖から2〜3マイルの所にイルカの群れがあらわれるときがあるそうです。

      「そのときはどうするのですか」と聞いてみると、「爆弾で追い払うんよ! 殺すんやないよ、追っ払うんじゃ」との答えが返ってきました。

       あとで調べたところでは、これは「爆弾」ではなく「爆竹」で追っ払っているということらしいです。

       このあと、迎えの船は、辰の島周辺の蒼く澄み切った海を遊覧し、勝本漁港へと帰ることとなりました。

       

       

       

       さて、辰の島の取材を終えるに当たって、最後に、デクスター・ケイトさんの人となりを「ふくや荘」のご主人や奥さんの証言を紹介しておきたいと思います。僕自身は、ふくや荘の方々とは、ついにお会いすることができませんでしたが、川端裕人さんの著書「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」(2010年刊)から引用させていただきます。

       デクスター・ケイトはひょろりとした長身の白人で、髪を後ろに束ねたヒッピー風の風貌だった。物腰が柔らかく優しい目をしていた。肉食をきらい、魚を喜んで食べた。
      「動物好きで、穏やかな人だった。子どもにも人気があった。息子ともよく遊んでくれた」
       ケイトの最後の壱岐訪問の際、例の事件が起こるまでの一週間、彼は毎日何をするでもなく過ごしていた。つれづれなるままに、近所の子どもたちとよく遊んだ。イルカが出てくる映画を見せてくれて、子どもたちが喜んだり、宿の主人もおばさんも、動物が好きでわざわざここまでやってきた人として、好意すら抱いていたという。
       ある朝、漁協から電話がかかってきた。
      「そっちのガイジンさんどうなってる。いるか?」と聞かれ、
      「ああ、いるよ」と答えた。朝食前の時間である。当然、いると思ったのだという。
       ところが部屋を訪ねてみると、奥さんと子どもしかいない。言葉が通じないから分からないが、奥さんもなにか慌てている。そうこうするうちに、刑事がやってくるやら、漁協の幹部がやってくるやらで、大変なことになった。
       前夜のうちにケイトは単身、辰ノ島に渡ってイルカの囲い網を切ってしまったというのだ。

       ケイトは、今までの努力がすべて無駄だったと悟りました。

       後は実力行使あるのみ。ケイトは、せめて今囲い込まれているイルカだけでも救おうと、皆が寝静まるのを待ってゴムボートで辰の島を目指したのです。

       ケイトは、無事、囲い込みの網は切ったものの、折からの春の嵐に遭遇しゴムボートでは勝本へ戻れなくなってしまいました。そこでケイトは、網を切り、イルカたちを逃がすだけでなく、今度は浜にあげられたイルカたちを、一頭一頭引きずり、海へ戻す作業を始めたのです。

       夜が明けて、イルカの処理作業に戻ってきた漁師たちは、網を切り、浜のイルカを引きずるようにして海へ戻しているケイトを見つけたのでした。

       ケイトは「威力業務妨害」の罪で逮捕され、これより6回にわたって「動物の権利」が法廷で論議されることになりました。しかし、ケイトの思いは無視され、結局、ケイトの国外追放で、壱岐イルカ事件は幕を閉じたのです。

       後日談ですが、漁獲量減少の張本人とされたイルカも、この海域には来なくなったのですが、それでも漁獲量が回復することはありませんでした。イルカの食害があったには違いありませんが、それ以上に乱獲による資源の枯渇が、問題の根本にあったようです。

       

       次回は、この問題に別の取り組みをする「天草」に渡り、ミナミバンドーイルカと人間の関わりを取材します。

       さらに北の海を目指したミナミバンドーイルカのカップルを追って、石川県能登島へと向かいます。

       

      天草のミナミバンドーイルカ

      クジラ・イルカ紀行 vol.006 / 壱岐・辰の島「イルカ受難」

      2018.03.06 Tuesday

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         動物に育てられたり、動物と一緒に暮らしたりした人間の子供の話をよく耳にします。実話だったり、お話しだったりしますが、そのいずれもが猿だったり、オオカミだったり、ヒョウだったりと陸上のほ乳類に限られています。変わったところではニワトリ小屋に閉じ込められ、ニワトリと一緒に育った子供の話が紹介されたりもしました。しかし、海洋生物となるとなかなか難しいものがあります。ザトウクジラやイルカは「母性愛」が人間以上に強い動物だと言われています。以前にも紹介しましたように、子クジラをおとりに母クジラを仕留めるという捕鯨の方法があるくらいで、母親クジラは自分の生命が危険にさらされても、決して子供のそばを離れようとしません。母性愛ではありませんが、ザトウクジラは、危険に陥った違った種類の生きものさえ助けようとします。タイガーシャークに囲まれた水中カメラマンを、ザトウクジラが助けた話。シャチに狙われたコククジラの子供を、ザトウクジラが助けた話。シャチに襲われたアザラシをザトウクジラが助け、胸びれに乗せて海岸まで運んだ話。

         しかし、如何に同じ「ほ乳類」とはいえ、水中で暮らす彼らが人間の子供を育てられるはずはありません。

        「イルカは人間の赤ちゃんにおっぱいをあげられるか?」

         いま書こうとしている「石鏡ものがたり」では、刃刺しの銑吉が、自ら定めた禁を破り、子クジラをおとりに母親クジラを仕留めます。その直後に起こった宝永地震と大津波によって石鏡(いじか)の浦は壊滅しますが、母親クジラを殺した後悔に苛まれていた刃刺しの銑吉には、この地震も、津波も、自分の過ちにあたえられた罰のように感じてしまいます。その矢先に子供をかばって死んだ母親の遺がいを見つけてしまうのです。津波で崩壊した浦で、自分には育てられないと分かっていながら、銑吉は、母親の遺がいが発する思いに呼び止められ、その思いに背けず、子供を拾い上げてしまいます。自分が殺した母クジラに、この子どもを託されたように感じたからなのです。

         乳児を連れ、小舟で石鏡の浦を離れる銑吉。小舟の上で腹をすかせ泣き叫ぶ子供。

         その声に惹かれるようにしてイルカの母親があらわれ小舟の周りを回り出します。

         

        鳥羽水族館でたまたま見かけた色分けイルカの授乳風景

         

         イルカは海で暮らすほ乳類です。したがって、えら呼吸でなく、肺呼吸をするわけで、酸素の取り入れ口である鼻が頭の上に着いています。

         イルカは水中で出産しますが、子供を産むと、すぐに、その子を下から持ち上げ海面へ押し上げます。呼吸することを教えるのです。授乳は水の中です。左上の写真は、和歌山マリンランドのバンドーイルカさんに、おなかを見せてもらったときのものです。下腹のあたりに中央に生殖腺があり性器が納められています。メスの場合は、その左右横手に乳腺があり、おっぱいが納められています。速く泳ぐため、邪魔なものはみんな内部に納められています。

         子どもにおっぱいを飲ませるときは、子どもが舌先を丸め、お母さんイルカの先ほどの溝に突っ込み、おっぱいを、その舌先にとらえます。するとお母さんイルカは、ミルクを搾るように押しだすという寸法です。

         下の写真や右横の写真は、鳥羽の水族館でたまたま見かけた色分けイルカの授乳風景です。泳ぎながら子どもイルカが上手におっぱいを飲んでいます。そのとき、勢いよく出たおっぱいが口からあふれ、白いもやのように水中を漂っています。

         さて銑吉と母性愛の強いお母さんイルカが、いかにしてお腹をすかせた人間の赤ちゃんにおっぱいを与えるかは「石鏡ものがたり」の完成を待っていただくとして、そのイルカと人間との関係が悪化し、1000頭近いイルカが、一時に殺戮されるという事件が壱岐で起こりました。

         俗に「壱岐イルカ事件」と呼ばれる一件です。では、その事件の起こった「壱岐郡・辰の島」という無人島へ、皆さんをご案内させていただきましょう。

         

        無人島・辰の島の砂浜。夏は海水浴場としてにぎわっている。


         事件の顛末はこうです。

         今手元に勝本漁港の石井敏夫さんが書かれた「勝本港の『みなと文化』」という小冊子があります。勝本漁港と言えば、まさに「壱岐イルカ事件」の当事者そのものの存在。右の写真も、その「勝本港の『みなと文化』」から転載させていただきました。

         まずは事件の顛末を、この小冊子から一部抜粋させていただきます。

         「ルカが壱岐海区で急増し、漁業被害が続発したのは昭和40年頃からである。当時イルカの生態調査が行なわれ、その結果2月〜3月にかけて壱岐近海には30万頭のイルカが回遊していると発表された。イルカの被害というのは、漁船が操業している漁場にイルカが回遊して来ると魚群は逃げてしまい、釣り上げ途中の魚は横取りされ、漁具は傷められ、イルカが漁場に滞在している間は漁獲ゼロの毎日が続く。
         そこで漁業者は団結して、イルカが多量に勝本近海に近づいた時には、約500隻の漁船が操業中止して円陣を幾重にも描き、船腹に取り付けた鉄筒の発音器をハンマーで叩きながら、海岸に追い込む捕獲作戦を行なうが、当初は途中で逃げられて失敗の連続であった。その後、水中花火が考案されイルカの群れの一部を追い込むことに成功した。
         昭和53年1回で約1,000頭のイルカを追い込んだ時、動物愛護団体の外国人がきてイルカ囲い網を切断し、一部のイルカを逃がした事件もあった。
         現在では、極少量のイルカが現れる程度で、あれ程いたイルカが何処で回遊しているのか七不思議の現象である。」

         

         文中、「動物愛護団体の外国人」というのが、もう一方の当事者である「デクスター・ロンドン・ケイト」さん。彼はハワイのヒロ市から、「動物の権利擁護」という新しい倫理観をひっさげてやってきました。

         「動物愛護」とは違います。「動物愛護」には人間優位の姿勢が示されています。しかし「動物の権利擁護」とくると、動物に対しても人間と同じ権利を認め、それを擁護していくという姿勢となり、当時は(今も)あまり知られていない概念でした。それだけにケイト氏の言い分は、勝本漁民には、突拍子もない言いがかりに聞こえたことでしょう。

         「ああ、あいつね、あの時、オレは漁協の青年部長だったんだ。あいつのおかげで大迷惑だ。まったく気でも違っていたんじゃないのかね。」(川端裕人「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」)

         当時、壱岐の勝本町ではブリ漁、イカ漁が盛んでしたが、イルカの回遊時期になると、イルカがやってくるだけで、イカもブリも漁場から姿を消してしまいます。そればかりか夜中に仕掛けたイカ釣りの仕掛け、そこにかかった獲物を、人間が回収するより早く、イルカの群れが食い散らかしてしまいます。

         これでは勝本の漁民の生活が成り立たなくなります。そこでイルカを駆除すべく、和歌山県の太地や静岡県の富戸(ふと)の漁民に教えを請い、追い込み漁が開始されるに至りました。

         ではケイトさんの言い分に耳を傾けてみましょう。

        ^躊瑤竜師たちが自分のものだとする漁場は、何千年もの間、イルカのエサとり場だった。人間が後からやってきて、イルカを邪魔者扱いすることはおかしい。

        漁獲量の減少はイルカのせいではなく、漁場自体が乱獲により貧しい海域になってきている。

        イルカは利口な動物で、人間と共生することが可能。うまくリードすれば、イルカも人間も、モーリタニア沿岸の例にあるように共同作業をして、ともに獲物を得ることが可能となる。

         一時は漁師たちもケイトの熱意に動かされ、イルカとの共同作業に臨むべく船を出しましたが、当のイルカたちがその時はおらず、二度の試みも結局は失敗に終わりました。

         残された最後の手段とばかり、ケイトは、イカ漁、ブリ漁に代わる「養殖漁業の育成計画」や、痩せた漁場を復活させるため「ブリ資源の増殖計画」などを提言しますが、こと既に遅く、最後に壱岐を訪問したときは、すでにイルカの追い込み漁が開始されていたのです。

         辰の島の浜辺には2000万円以上する巨大なイルカ粉砕機が据え付けられ、既に稼働を始め、壱岐の海はイルカの血で真っ赤に染まったといわれています。

         (次回、クジラ・イルカ紀行 vol.007 / 壱岐・辰の島「デクスター・ケイトの決断」に続きます。)

         

        当時、高校生でイルカ処理のアルバイトに参加したMさんが、今回、僕の辰の島行の案内をしてくれた。

         

        湾がくびれ一番狭くなっている箇所。イルカを追い込んだ後、ここから対岸まで網が張られた。

        クジラ・イルカ紀行 vol.005 / 沖縄県座間味島「メイティングポット」

        2018.03.03 Saturday

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           三度目の座間味、今日が最終日となります。

           昨日はレンタサイクルで稲崎の展望台まで出かけたものの、午後からの大雨でずぶ濡れ状態。

           実は、あんな大雨にならなければ、昨夕4時出船のエスコート号に乗せてもらうことになっていたのですが、昨夕のホエールウォッチングは中止となり、僕は今日の10時に出るクィーン座間味に乗船して那覇へ帰ることになっています。それを佐野船長の計らいで、早朝7時に、臨時でエスコート号を出してもらえることになりました。これならホエールウォッチング終了後、予定通り、座間味10時発のクイーン座間味で、そのまま那覇港を目指すことができます。何ともお礼の言いようがありません。

           とはいえ、昨夜の荒天でウォッチング船が出せるのかどうかが、まず心配の種。さらにエスコートが無事出船できたとしても、ザトウクジラと出会えるかも、これまた心配の種。

           港で佐野船長と落ち合うや、船長からのゴーサイン! しかも早朝から回遊くんが稲崎展望台へ出張りザトウクジラの位置を確認してくれているといいます。

           その回遊くんが稲崎から車で駆けつけ、いよいよ出船の運びとなりました。

           港を出て10分近く走ったでしょうか、早くもザトウクジラのブロー(潮吹き)発見! 現場へ駆けつけます。エンジンを止めるや、クジラの「キリキリキリッ」というクリック音や「ウォーンッ、ウォーンッ」という啼き声が海中から響いてきます。

           一頭ではありません。船長の話では二頭のオスと一頭のメス、それに子クジラのあわせて四頭がいるといいます。

           

          (ザトウクジラのテールがあがる。現場を目指すエスコート号と佐野船長。)

           

           ザトウクジラは、一夫一婦制ではありません。一頭のメスがめでたく出産を終えると、続いて、そのメスの二番手のハズバンド(エスコートという)の座をめぐってオス通しの争いが起こります。その争いの現場をメイティングポットと呼ぶのですが、めでたくエスコートの座を獲得したオスクジラは、このメスと結ばれるまで、この親子を助けていく役割を担うことになる訳です。

           メイティングポットでは、船がそばにいようが関係なしで、オス同士、何も目に入らないかのように争いに夢中となります。派手なアクションが続くので、ホエールウォッチングの最大の見せ場なのですが、こんな現場に出くわすのは稀と言ってもよいらしいのです。

           「桐生さんの思いの強さが呼び寄せたんでしょうね!」

           佐野船長がうれしいことを言ってくれますが、こちらはそれどころではありません。吠え声、ブロー、船の揺れ。騒然とした中でクジラがどこへ上がってくるのか。右に出たかと思うと、次は左にと、間断なくクジラが荒れ回り動き回ります。この際、言葉は不要で、まずは写真を見ていただくことにしましょう。

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           写真でも何が何だか分かりませんが、ともかく激しいことだけはお分かりいただけたかと思います。

           最後の写真は、負けた一頭が遠ざかっていくところですが、僕も、この航海を終えて那覇へ帰り、そこからさらに大阪へと帰ることになります。

           三度の座間味滞在中、出会った方々にはご迷惑のかけっぱなしでお礼の言葉もありません。次はいつ座間味へ訪問できるか分かりませんが、またよろしくお願いいたします。

           最後に、僕のわがままに最後まで付き合い、ザトウクジラを体感するという大きな機会を作っていただいた佐野船長および奥さん、クルーの回遊くん、本当にありがとうございました。

           下記のサイトで、素人のビデオで見苦しくはありますが、座間味でのホエールウォッチングの模様を動画でアップしておりますので、興味のある方はご覧ください。

           

          https://youtu.be/vz5x5EpCfZU?list=LLZWgXZUlFUA0qBzt7LieuGw

           

          なお次回からは、不幸な壱岐イルカ事件を追って、壱岐の無人島「辰の島」取材の模様をお届けします。

           

          クジラ・イルカ紀行 vol.004 / 沖縄県座間味島「エスコート号」

          2018.02.26 Monday

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            (稲崎の見張り台からの情報で、ザトウクジラを目指して進むホエールウォッチングの船団。右端が佐野船長のエスコート号)

             

             座間味でのウォッチングは二年にわたって三度挑戦しましたが、最初の二回はザトウクジラは見ることが出来たものの、遠望するという感じで、クジラを体感するまでには至りませんでした。

             佐野船長の奥さん優美さんは言います。

            「私たちはホエールウォッチングをご案内する上で、座間味を訪れた方々に、ありのままを見てほしいと思っています。ウォッチングの船を出していると、どうしてもお客様に、派手なクジラのアクションを見せてあげたいと思ってしまい無理をしがちになります。

             でもクジラは自然です。いつもいつも、派手な動きに出あえるとは限らないのです。クジラを見られないときだってあります。自然を演出するのでなく、ありのままを見てほしい、ありのままを感じてほしい、そう思って皆様をご案内しています。」

             たしかにホエールウォッチングという時間は、クジラに出会えようが出会えまいが、茫々たる海原に船をはしらせ、太陽を感じ、風を感じ、海を感じ、自然と一体になる、そんな至福感に包まれる。何よりの贅沢な時間だと思います。

             しかしです。僕は、クジラやイルカに取材した「ものがたり」を生み出したいのです。クジラを間近に見、クジラの息吹きを感じ、クジラを体感したいのです。

             こんな次第ですから、佐野船長には無理を言って、三回目のウォッチングのときは、前日が土砂降りの雨で当日もウォッチングがあるかどうかも分からない状態でしたが、佐野船長は、通常のウォッチングよりも早い時間帯に、乗客は僕一人という状態で船を出してくれました。

             乗組員は、佐野船長のほかに「回遊くん」も乗り組んでくれました。

             ところで、僕が彼に「回遊くん」と名付けた経緯ですが、彼は神奈川の出身なんですが、クジラが大好きで、冬はこの座間味へ来てホエールウォッチングの船に乗り組み、シーズンが終わると、ザトウクジラと同じように北の海を目指し沖縄を離れます。

             北の海ってどこかって? 

             ―――― 知床です。

             冬は沖縄の座間味でウォッチング船に乗り組みザトウクジラを追いかけ、夏は知床でヒグマやマッコウクジラのガイドをしているという寸法です。まるでザトウクジラの回遊そのものです。

             これが、僕が彼を「回遊くん」と呼ぶ所以であります。

             

             

             前回、座間味の宿泊事情についてお話ししましたように、座間味島では土地者以外が島で働くのをいやがります。にもかかわらずです。僕が座間味へ来て関わった人たちは、全部が全部と言っていいほど、内地の人間が多いのです。

             見るからに沖縄の人って感じの佐野船長ですが、実は鹿児島県人であります。琉球大学を出て一般会社へ就職しましたが、大学時代、シーカヤックにはまり、会社を辞めて座間味の「ハートランド」というマリンショップで働き出しました。

             

             

             そこへ同じく奥さんの優美さんが、この店の募集に応募してやってきたという次第です。

             優美さんは名古屋でバスガイドのお仕事をされていましたが、慶良間の海にあこがれ、ダイビングの資格を取って座間味に渡ってきたと言います。そこで佐野さんと知り合い結婚の運びとなりました。

             その後、お二人で独立し「ネーチャーランド・カヤックス」のお店を持たれるようになり、ホエールウォッチングのための船「エスコート号」も持つことができるようになったと言います。

             

            (佐野優美さんとネーチャーランド・カヤックス)

             

             優美さんに、ザトウクジラに関し、何かおもしろい話題がないかせっついてみました。

             すると言ってみるものですね。とてつもなく素敵なエピソードをお聞かせいただくことになりました。

             お二人には「あゆみちゃん」というお子さんがおられますが、そのあゆみちゃんが生まれるのと前後して、ご主人の佐野船長が、座間味の海で、ザトウクジラの赤ちゃん誕生を目撃されたのです。

             このクジラの赤ちゃんにも「あゆみ」という名前が付けられました。

             ところで、このクジラの「あゆみちゃん」には大きな特徴がありました。背びれがなくツルンとしているのです。ですから、「あゆみ」が北の海から座間味の海に帰ってくるとすぐに分かるわけです。

             でも、なぜか3年続けて帰らないときがありました。それがひょっこり帰ってきたときは、座間味の人たちが「あゆみが帰ってきた」と大喜びになりました。

             座間味の人たちがザトウクジラに向ける温かい思いが感じられる、本当に素敵なエピソードです。

             

            (ザトククジラの背びれ、あゆみは、この背びれがなく背中がツルンとしている。)

             

             さて座間味にもうひとり、忘れてならない名古屋人がいます。

             座間味ホエールウォッチング協会立ち上げ時からの猛者、大坪弘和さん。彼はクジラ好きが昂じて座間味島に渡り、ここで様々な仕事を経ながら、ホエールウォッチング協会の立ち上げに参画した人物です。座間味ホエールウォッチング協会の責任者であるとともに、日本クジライルカウォッチング協議会の副会長でもあります。

             座間味で出会った人の紹介が終わったところで、次回は、いよいよ僕の座間味での三度目のウォッチングについて話させていただきます。

             

            (ウォッチングを始める前、乗客に注意事項やクジラの解説をする大坪さん)

            クジラ・イルカ紀行 vol.003 / 沖縄県座間味島「慶良間ブルーの海」

            2018.02.23 Friday

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              (Chin Music Pr 発行 「Are You an Echo?: The Lost Poetry of Misuzu Kaneko」から転載させていただきました)

               

               最近、金子みすゞさんの詩が英訳された本と出会いました。タイトルも、みすゞさんの「こだまかな」が英訳された「Are you an Echo? 」。みすゞさんの心地よい言葉の響きが英語に置き換えられ、英語がからっきしダメな私ですが、そんな私でさえ声に出して読んでみたい本に仕上がっていました。

               その本の中に、前々回のブログで紹介した「くじら法会」も掲載されていました。残念ながら「鯨捕り」については掲載されていませんでしたが、

              「海の鳴る夜は 冬の夜は、栗を焼き焼き 聴きました。むかし、むかしの鯨捕り、ここのこの海、紫津(しづ)が浦。海は荒海、時季(とき)は冬、風に狂うは雪の花、雪と飛び交う銛の縄。岩も礫(こいし)もむらさきの、常は水さえむらさきの、岸さえ朱(あけ)に染むといふ。厚いどてらの重ね着で、舟の舳(みよし)に見て立つて、鯨弱ればたちまちに、ぱつと脱ぎすて素つ裸、さかまく波にをどり込む、むかし、むかしの漁師たち……」

               あのワクワクするような語り口、英語ではどんな響きになるのだろうと、聞こえぬ英語の響きにもどかしさを覚えます。

               英語のことはともかく、「鯨捕り」に語られる昔の捕鯨とはどんなものだったのでしょう?

               

              (長門市通浦鯨組捕鯨の図 長門市「くじら資料館」)

               

               前回および前々回にご紹介した長門市の「くじら資料館」に、この写真のような、古式捕鯨の様子をビジュアル化したものが展示されています。右上および左下に赤の丸で囲った部分に注目してください。幟が翻っているのがおわかりでしょうか。ここが「山見」と言われ、古式捕鯨の見張り台および司令塔になります。鯨が発見されるや、この「山見(見張り台)」に山旦那(総司令官)や山見番の人たちが詰め、船団に幟で鯨の種類や、鯨の進路を伝え、網船に網を張る位置を指図します。その張られた網へ目指して、舟べりを叩き、鯨の嫌う音を立てながら、勢子舟の船団が鯨を追い込んでいきます。網をかぶった鯨は動きが封じられますが、一度ではとてもかなわず、何度も何度も網が張られ、追い込みをかけ、銛を打ち込み鯨を弱らせていくのです。

               弱り切っていよいよと見切ると、刃刺しが、勢子舟から海に飛び込み、絡めた網を手がかり足がかりに鯨の背によじ登ります。そして鼻切りをし、鯨が二度と海に潜れないようにしたうえで、鼻腔に綱を通し、二艘の持左右舟(もっそうぶね)が鯨をはさみ、その綱に棒をわたして鯨を港まで曳航することになります。

               これが水軍方式による古式捕鯨のあらましです。捕鯨は舟軍(ふないくさ)です。水軍の末裔が、生活の糧に捕鯨を始めたところがほとんどです。

               ところで、このような古式捕鯨のやり方を取り入れホエールウォッチングをしているところがあります。

               本州から遠く離れた沖縄の慶良間諸島。その中心となる島が座間味島ですが、この座間味の海に12月から3月にかけてザトウクジラの群れが繁殖に訪れるのです。

               

               

              (上:慶良間の海と座間味の船着き場/下:稲崎展望台の鯨監視員) 

               

               写真上、左端に見える船着きが座間味港です。那覇からの高速船やフェリーが入ってくる座間味島の玄関口になります。そして、この港の待合に座間味島ホエールウォッチング協会があり、ホエールウオッチングの際の司令所になります。

               座間味島には、高月山展望台、チシ展望台、稲崎展望台の三つの展望台があり、この展望台がホエールウォッチングの季節には、鯨の見張り台になるわけですが、その最も主要な見張り台が、この写真の「稲崎展望台」になるわけです。この見張り台から、監視員が鯨の動きを無線で司令所に知らせ、司令所からホーエールウォッチングの船に指示が出されるという寸法です。

               港近くのレンタサイクルの店で、電動アシストの自転車を借り、稲崎展望台に見学にやってきました。展望台には若い青年が二人詰めていました。展望台に着いてしばらくするや、バケツの底が抜けたような大雨になりいっこうに止む気配がありません。鯨の見張りもこれまでとばかり、黄色のパーカーを着た青年を一人残し、見張り員の一人が引き上げていきました。

               こちらも雨に降り込められ、身動きがとれず、黄色のパーカーの青年と二人きりになってしまいました。

               青年はマグロの遠洋漁業の船に乗っていたと言います。それが、腰を痛め、船を下りることになり、その際、鯨の監視員にスカウトされたのだそうです。身の上話は止みましたが、雨は止む気配がなく、無線で今日の監視作業は中止の連絡が入りました。

               青年は車に乗っていくようにすすめてくれましたが、自転車を置いていくわけにも行かず、「雨上がりを待って帰ります」と断りました。でも、この判断は間違っていました。雨はひどくなる一方、夕暮れも近づいてきます。山道に灯りもなく、切り立った崖のところもあります。濡れる心配より、命の心配です。

               結局、暗くなる前にと、雨の中を自転車を走らせる結果になりました。稲崎の岬を下りきって港に着いたときはずぶ濡れ状態。通りがかりの観光客にじろじろ見られながら、なんとかホテルへ帰り着いた次第です。

               

               

               ところで座間味島には大きなホテルやリゾートがありません。個人経営のレストハウスやゲストハウス、民宿がほとんどです。エレベーターがあるホテルは慶良間ビーチホテルのみ。というのも座間味島民の生活を支えるのは、夏はマリンスポーツ、冬はザトウクジラのホエールウォッチングと、観光客だけが座間味島の支えなのです。

              リゾートホテルの計画があっても、島民の反対で実現には漕ぎ着けません。それだけに泊まり客に対しても人情深いところがあって、毎年、同じ宿泊先を使うという旅行者も多いようです。

               私などは、いろんな所を体験したいものですから、三度、座間味を訪問しましたが、それぞれ違う場所に泊まりました。最初の訪問時は、レストハウスあさぎ。このオーナーと厨房のシェフは、夕食時、料理ばかりでなく沖縄の歌や三線まで振る舞ってくれ、あげくはこちらまで踊らされる始末。楽しい思い出を作ってくれました。

               二度目は、島でただ一つのエレベーターがあるという慶良間ビーチホテル。三度目は、素泊まりで安く泊まれるゲストハウスなかやまぐあ。どれも楽しい思い出です。

               さて肝心の鯨の話に戻りますが、最初のホエールウォッチングで乗せてもらった船が、佐野船長が操船する「エスコート号」でした。ガイドは、佐野船長の奥さん佐野優美さんとバイトの回遊くん(僕が付けたニックネームです)。いずれも座間味島の出身ではないのです。佐野船長は鹿児島出身。奥さんの佐野優美さんは名古屋出身、バイトの回遊君は神奈川の出身。実にユニークな人たちなのです。

               特に佐野船長にはお世話をかけっぱなしで、彼に無理を言って、三度目の座間味訪問で、ついにザトウクジラのメーティングポットを体験することができました。

               ということで、この話については次回ということで、今日のところは失礼させていただきます。

               

              (高月山展望台からの眺め)

               

              クジラ・イルカ紀行 vol.002 / 山口県長門市「早川家とくじら墓」

              2018.02.03 Saturday

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                刃刺しの銑吉には不思議な特技があった。

                ご存知のようにクジラは哺乳類で、呼吸のために頭の上に鼻がついており、それを水面に出している。いかに長く深く海中に潜ろうと、呼吸のために、いつかは海面に頭を出さなければならない。

                ホエールウォッチングをしたことがある人なら分かるだろうが、クジラが出てくる場所を探すには「潮吹き(ブロー)」が目当てとなる。クジラが水面に上がるや鼻から溜まった海水を一気に噴き出すのだ。

                ところが仙吉は、見るのでなく、クジラを感じることができるという。今、海中のどのあたりにいるのか、どのあたりに上がってくるのか、まるで海の中にいるクジラの様子が手に取るようにわかってしまうらしい。

                そんな次第だから、鳥羽のクジラ捕り仲間では一目置かれる存在になっていた。だが、その半面、この力が災いしてどうにもやるせない思いに追い込まれることがある。

                南の海で生まれた子クジラを連れ、北の海にかえるメスの座頭クジラを見つけた時のことだ。

                普段は子連れのクジラは見逃すようにしている。クジラは母性愛が強く、子連れの時は常より猛々しくなる。しかも給餌のために帰る下りクジラは、子育て期間中、ほとんど餌を口にしていない。つまり栄養不良状態なのだ。そのうえ北へ流れる黒潮に乗っているので、泳ぐ速度も速く捕らえるのが難しいときている。

                普段なら見送るところだが、どうしたわけか、ここしばらくまったくクジラが姿を見せず、浦の生活自体も苦しくなってきていた。そこへ母親からはぐれた子クジラが浦へ迷い込んできたという次第。

                クジラの中でもザトウクジラは特に母性愛が強い。子供をおとりに捕まえてしまえば、決して母親はその子のそばを離れることはない。いやなやり方だが、浦の生活を思えば、なんとしても見逃すことはできない。

                 

                (現在の石鏡漁港 宝永の大津波のあと、この地に移ってきたと言われる。)

                 

                これが「石鏡(いじか)ものがたり」発端のシチュエーションである。

                「今回は見逃してほしい、子供を北の海へ連れて帰ったあと、この沖を通るときは、この命をささげよう!」

                銑吉は、伝わってきた母親クジラの思いを無視し、「浦のためだ、しかたねえ!」と、子供をおとりに母親クジラを追い込み、ついにとどめを刺す。

                銑吉は、とどめを刺すとき、まるで自分の母親を殺しているような後ろめたさに襲われたのだった。

                そして宝永の大地震、このときの大津波によって石鏡は壊滅する。

                生き残った銑吉は、殺した母鯨の断末魔の吠え声に苛まれ、壊滅した浦や村を彷徨いつづける。そんなとき、赤子に乳を含ませながら死んでいる母親に呼び止められた。

                最初は死んでいるとは思わなかったのだが、確かめれば、すでに息の切れた骸にちがいなかった。

                その骸のおっぱいにしがみつき、その子は元気に泣き叫んでいた。

                死んだ母親から「この娘を、この娘を……」という思いが伝わってくる。

                「石鏡ものがたり」の話はさておき、私はいま、石鏡からは遠く離れた、山口県長門市の青海島にある「早川家」住宅にお邪魔しています。江戸時代には、代々「古式捕鯨」の網本として存続し、現在、建物は重要文化財に指定された建物です。

                 

                海から見た早川家住宅(昭和初期?)

                江戸時代の浜の状況

                現在の早川家住宅(内部)

                 

                一番上の写真は、「重要文化財 早川家修理報告書」に掲載されていた写真をコピーさせていただいたものですが、船着き場が往時より随分小さくなっています。往時は江戸時代の浜の絵図面を見ても分かるように、鯨三頭が悠々並ぶ、かなりな規模のものだったようです。この同じ浜から、勢子舟(せこぶね)、樽舟、網船、持左右舟(もっそうぶね)など十数艘からなる鯨船の船団が漕ぎ出していきました。

                ちなみに早川家住宅は、江戸時代、通(かよい)に五軒あったといわれる鯨組の網本で、鯨屋敷と呼ばれ、全国でも数少ないとされる鯨漁家の遺構だといいます。この元鯨屋敷で、お茶とお菓子をいただきながら早川館長自ら通にある鯨墓や鯨の過去帳についてお話ししていただきました。

                早川館長の話によると、通の漁師たちは、捕れた鯨の一頭一頭に人間同様「戒名」をつけ、手厚く祀ったと言います。また鯨墓は小高い丘の上に、未だ海を見ることなく亡くなった鯨の胎児、その思いが海に届くようにという計らいから建てられたとも、また、はるばる訪れた鯨の子孫たちが、先祖の墓参りができるよう、海から見える小高い丘に作られたとも言います。

                いずれにせよ、通の漁師たちは、命のやり取りをする鯨たちを、人間に近い存在としてとらえていたようです。

                早川家住宅を後にし、鯨墓へと向かい、そのあと鯨の過去帳があるという向岸寺を訪ねますが、この向岸寺で不思議な体験をしました。話せば不思議でも何でもないと笑われそうですが、まずは話を聞いてください。

                駆けてあがったお寺の石段。

                おまいりすませて降りかけて、

                なぜだか、ふっと、おもい出す。

                石のすきまのかたばみの

                赤いちいさい葉のことを。

                ――とおい昔にみたように。

                向岸寺への近道とされる石段の坂道。その坂道を上り詰めた左手のお寺の壁に、金子みすゞの詩が掲げられてありました。その詩の書かれたわきに、金子みすゞの父親は、この向岸寺の旦那だったことが紹介されていました。みすゞが、まだ小さなころは、この向岸寺にもよく遊びにきたことが、この詩からも窺えます。

                今、上ってきたこの石段を、みすゞも幼少時に上り下りしていたのでしょう。

                そんなことを考えながらお寺の門をくぐったときです。墓参りでしょうか、いきなり着物姿の上品な老女と出会いました。

                「なにかお寺にご用?」

                「鯨の過去帳が、このお寺にあると聞いてきたのですが……」

                老婆というにはあまりに上品で、というより生活感がなく、浦で出会い話を交わしたおばさんたちとはあきらかに違った存在がそこにありました。お歳には違いないのですが、強いて言えば老婦人とでもいうのでしょうか、歳を感じさせない不思議なオーラを漂わせています。

                「和尚さんは、もうすぐ出かけられるから急いだほうがいいわ。ついて行ってあげましょうか?」

                私はお礼を言うと「一人で行ってみます」と、思いとは逆のことを口にしていました。

                そのあと、彼女がどこへ行ったのか、お寺のほうへ向かったのか、出ていかれたのか、さっぱりと思い出せないのです。覚えているのは、住職から、「これから急ぎの用があるので、またにしてほしい」と断られたこと。「いきなり来ず前もって連絡してほしい」と言われたこと。

                確かにこちらの落ち度には違いありません。仕方なく帰ろうとしたとき、どうしたわけか、住職が追いかけてきて「20分だけ」と制限付きで「鯨の過去帳」の写真を撮らせてもらえることになりました。住職は「ライトはダメだからね」と念押しすると、本堂へ上がって待っているように言いのこし、勝手口へと消えていきました。

                 

                鯨墓と鯨の位牌

                向岸寺に現存する鯨の戒名

                 

                こうして、何とか写真は撮れたものの、どう考えても住職の心を変えさせたのは、先の老婦人が口をきいてくれたに違いありません。でも住職の心を変えさせるには、よほど力のある檀家か、それとも、今の住職は養子として迎えられたと聞いているので、養い親の婦人なのかもしれません?

                答えが出ぬままに、青海島を離れることになりましたが、バスが仙崎の町へ入ったとき、「金子みすゞ記念館」がオープンしたという案内が目に入り、次いで、その記念館の建物がバスの車窓に飛び込んできました。

                ―――

                そんなわけがない、そんなバカな話は考えられない。

                そう思いつつも、向岸寺で出会った夫人は、金子みすゞさんとつながりの深い人に違いない、お孫さんか、縁続きの人か? それとも本人?! 一瞬、そんな途方もない思いに落ち込んでいました。

                次回は、沖縄は慶良間諸島の座間味に住む素敵なご夫婦を紹介します。

                 

                クジラ・イルカ紀行 vol.001 / 山口県長門市「くじら資料館」

                2018.01.23 Tuesday

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                   超久しぶりにブログを書き始めようと思った。

                   一つの目的は、出版を予定している「動物のいる風景」―イルカ・クジラ編―の筆がなかなか進まないためである。少しずつブログで書きためていこうという魂胆。また、同時に子供向き読み物「石鏡(いじか)ものがたり」の想を練るという目的も兼ねている。

                   ところで、この「石鏡ものがたり」は、鳥羽でまだ捕鯨業が盛んだったころのお話。子クジラをおとりに母親の座頭クジラを仕留めた刃刺しの銑吉。不漁続きで、見逃してほしいという母親クジラの夢だのみを無視して、泣く泣く母クジラを仕留めた銑吉だが……。

                   この銑吉にかかわらず、クジラ捕りの男たちは、ある種の後ろめたさを抱えている。特に母クジラを殺した後、残された子クジラたちは、このままではどうせ死んでいくだけ、それなら、人間の血となり肉となって、ともに成仏してくれという寸法。しかしいくら自分に言い聞かせてみても、ある種の後ろめたさというか後悔というものがついてまわる。子クジラだけではない、成獣となったクジラでも、いよいよの断末魔の吠え声は、熟練の刃刺でさえ耳をふさぎたくなるほど切ないものだという。

                   このためだろうか、クジラを供養する墓は、他の動物のものと比べダントツに多く、日本全国で約100か所に及ぶという。

                   今回訪れたのは、山口県長門市の青海島(おうみじま)にある通(かよい)というところ。毎年7月に通(かよい)クジラまつりがあることで有名だが、この時ばかりはにぎわうものの、それ以外は辺鄙な漁師町。この辺鄙な漁師町の中心に目的の「くじら資料館」があった。

                   長門市駅からバスで揺られること30分近く、通(かよい)漁協前で降りてすぐ目の前にある。建物の陰に巨大なザトウクジラの姿が見え隠れするように姿を現す。クジラ資料館の広場に置かれたクジラの張りぼてだ。クジラ祭りに使われるのだろう。その前には座頭クジラの尾びれが台座の上に据え付けられ、その台座にはめ込まれた銘板に次のような一文が記されている。

                  「有情/通浦では延宝元年(1673)頃から網取法によって捕鯨が始められ、明治末期まで長州捕鯨の中心をなしていました。

                   捕獲した鯨に対する報恩感謝を願う人情厚い浦人たちによって、鯨墓を元禄五年(1692)に左山手の清月庵に建立しました。

                   墓地には七十数体の鯨の胎児がまだ見ぬ大海の夢を抱いたまま、地中に永眠しています。

                   平成三年三月 長門市教育委員会」

                   

                   

                   館内に入ってまず目につくのが金子みすゞさんのクジラを歌った詩二編「くじら法会」と「鯨捕り」。「くじら法会」は館内に入ったホールに飾られており、入り口の「有情」の銘板と共にクジラ捕りの切なさがヒシヒシと伝わってくる。

                   

                    くじら法会は春のくれ、海に飛魚採れるころ。
                    浜のお寺で鳴る鐘が、ゆれて水面をわたるとき、
                    村の漁師が羽織着て、浜のお寺へいそぐとき、
                    沖でくじらの子がひとり、

                    その鳴る鐘をききながら、
                    死んだ父さま、母さまを、

                    こいし、こいしと泣いてます。
                    海のおもてを、鐘の音は、

                    海のどこまで、ひびくやら。

                   

                   

                    海の鳴る夜は 冬の夜は、

                    栗を焼き焼き 聴きました。
                    むかし、むかしの鯨捕り、

                    ここのこの海、紫津(しづ)が浦。
                    海は荒海、時季(とき)は冬、

                    風に狂うは雪の花、雪と飛び交う銛の縄。
                    岩も礫(こいし)もむらさきの、

                    常は水さえむらさきの、

                    岸さえ朱(あけ)に染むといふ。
                    厚いどてらの重ね着で、

                    舟の舳(みよし)に見て立つて、
                    鯨弱ればたちまちに、
                    ぱつと脱ぎすて素つ裸、

                    さかまく波にをどり込む、

                    むかし、むかしの漁師たち
                    きいてる胸も をどります。
                    いまは鯨はもう寄らぬ、

                    浦は貧乏になりました。
                    海は鳴ります。冬の夜を、

                    おはなしすむと、気がつくと

                   

                   みすゞの詩にしんみりしていると、「説明しましょうか」と、中肉中背ながら、がっしりとした老人が声をかけてくれた。それが、この長門市くじら資料館の館長・早川さんだった。

                   早川さん……早川さんといえば、つい今しがた見て回っていた館内資料の中に「早川家」という古式捕鯨の元網本の屋敷が紹介されていた。この資料館に来る前にも、開館時間もまだだったため、漁協前でバスを降りた後、資料館とは反対側に海辺の突堤沿いに歩いていくと、「早川家住宅」の案内表示が道沿いの駐車場の中にぽつんと立っていた。案内表示に従い訪ねていくと、海沿いの道から一すじ奥に入った道に白壁の玄関口があり、そこに「早川家住宅」の説明書きが大きく出ている。

                   声をかけてみるが、留守のようだ。裏側へまわってみて声をかけるがやはり誰もいないようだ。

                   

                   

                  「ひょっとして、早川館長は、元網本の……?」

                   思った通り「そうだ」という答えが返ってきた。くじら資料館館長・早川義勝さんは、この地の古式捕鯨網本早川家18代目の当主だという。「さきほどご自宅を訪ねたがお留守だった」と伝えると、「では、受付の女性が昼の休憩から帰ったら一緒に行きましょう」という。屋敷の中をみんな見せてくれるという。

                   その間、館長の「通鯨唄(かよいくじらうた)」を聞かせていただくことになった。くじら祭りでは必ず歌われる祝い唄で、長門市の無形文化財になっている。歌う間、かならず手拍子でなく、もみ手をして歌うことになっている。これは命をささげてくれたクジラに、また共に幼いいのちを絶った子クジラや胎児のクジラに追悼の意を表しているのだという。館長の許可をいただき、撮影させていただいたものをユーチューブにアップしているので、興味のある方は視聴していただきたい。

                  https://www.youtube.com/watch?v=1BASsc9JCmM​

                   さて次回は、早川家を見学させていただいた後、いよいよ「鯨墓」と「鯨の過去帳」を見学させていただきます。(続く)

                   

                   

                   

                  ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」vol.3

                  2015.04.09 Thursday

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                    バシー海峡の海氷浴(三)

                     甲板上が急に慌ただしくなったように感じて目が醒めた。時計を見なかったので、はっきりした時間はわからないが、後で考えると夜中の一時か二時ごろでなかったかと思う。上体を起こし、暗闇を透かすようにして甲板上を見回すと、機関砲の砲側で水兵が忙しそうに動き回っているようであった。危険が迫っているのを直感した。
                     その時であった。
                    「ズスーン」
                     という鈍い衝撃を感じた。続いてもう一回。魚雷を受けたのでないかと思った。半信半疑のなかで、船員か水兵かが、「やられたぞ!」と叫んでいるのを聞いた。やはり魚雷であったかと思った。なぜか海の中は寒かろうなとの思いが一瞬心をかすめた。怖さはなかった。
                     すでに甲板上は騒然、蜂の巣を突っついたようになっていた。極度の緊張感が胸をよぎった。とにかく小隊全員を落ち着かせなければと思った。「全員、甲板上に集合!」と大声で叫び、「各分隊人員点呼、異常の有無を報告せよ」と、これも大声で命じた。
                     海軍が気を狂わんばかりに機関砲を打ちまくっていた。敵潜水艦が浮上しているかと、その方向を見たが何も分からなかった。船からは盛んに爆雷を投下しているらしく、爆発音がひっきりなしに聞こえた。
                     ようやく各分隊長の人員の掌握が出来とみえ、「第一分隊、異常ありません」と報告を受けた。「第二分隊、気違いが出ました」の報告に続き、「第三分隊も気違いが出ました」と報告された。「しまった」と思った。極度の恐怖感から一時的に錯乱状態に陥ったのだろうが、どうしようにも処置をする暇はなかった。爆雷の投下は相変わらず続いているようだったが、光栄丸はすでに傾きかけていた。海に飛び込むわけにはいかないしと思いながら、大発艇が甲板に積んであるのが目についた。「よし、これだ」と決心し、全員を少しでも落ち着かせるため、「よーし、わかった」と言い、全員大発艇に乗るよう命じた。
                     全員が大発艇に乗ったのを確認して、「ロープの横におる者は、船が沈むときにロープを切るのを忘れるな、わかったか」と命じた。大発艇はロープで固定されている。切らなければ船もろとも沈んでしまうからだった。
                    「ハーイ」という返事に交じって、「隊長殿、底に穴があいています」と叫ぶ声がした。「穴にはボロきれか何か詰めておけ」と指示し終わらぬうちに、「隊長殿、この大発艇にはガソリンがありません」と叫ぶ声が聞こえた。「よーし、わかった、ガソリンは無くてもいい。浮かぶだけでいいんだ」と大声で叫び、とにかく全員の動揺を抑
                    えるのに懸命であった。

                    ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」vol.2

                    2015.04.09 Thursday

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                      バシー海峡の海水浴(二)

                       ここで初めてビルマに行くとを知らされ、ビルマの本隊に合流するまでの部隊編成がなされた。私は小隊長を拝命し、約五〇人の初年兵を引率することになった。現役のときは兵卒であり、小隊指揮の経験は無かったが、鉄道教習所専門部では一年の時から小隊指揮者を命ぜられ、教練の時間には約五〇人の電気科生の指揮をとっていた。小隊長を拝命した時、特別に困ることはなかった。
                       出発は深夜だった。事前に厳しく注意されていたので極めて静粛に行われ、久留米駅まで行軍して客車に乗り込んだ。門司港駅には翌日の夕方着き、門司港で数人ずつ民家に分宿した。私は夜間の巡察を命ぜられていた関係上、家族の方とゆっくり話をする時間もなく、ひと晩お世話になりながら、どの家のお世話になったのか記憶に残っていない。
                       翌朝、門司港の桟橋前広場に集合したわれわれビルマの第五十六連隊の補充要員は、小隊ごとに別々の船に乗船した。輸送途中で敵潜水船等に攻撃され、撃沈された場合を配慮した措置と思われた。
                       私が乗船した光栄丸は、排水量一万二〇〇〇トンの新造タンカーで、聞けば処女航海とのことだった。乗船したもののすぐには出航せず、出航は数日後であった。船団の船の数は分からなかったが、かなり大船団のようで、船団の周囲を駆遂艦か駆潜艇が護衛しているのが見えた。光栄丸にも機関砲一門が装備され、海軍軍人が数人乗り込んでいた。戦局の推移や輸送船の装備から考えて、この航海はかなり危険率が高いかもしれないと思われた。

                       
                      編集部註=前年の昭和十八年二月一日、ガダルカナル島から日本軍が撒退した。同島方面での巻き返しをはかる日本海軍は四月七日から「い号作戦」を展開した。ラバウルに赴き、自らこの作戦の指揮をとっていた山本五十六連合船隊司令長官は四月十八日朝、最前線部隊の状況視察のためラバウルからブーゲンビル島南方のバラレ蓄地に向かったが、アメリカ軍に暗号を解読されており、ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。
                      十九年七月七日にはサイパン島の日本軍守備隊残存兵力約三〇〇〇名が玉砕した。前年末から二月にかけ中部太平洋の島々を陥落させたのち、六月十五日約七万一〇〇〇名の兵力をサイパン島に上陸させた米軍に対し、約四万四〇〇〇名の日本軍守備隊は懸命に応戦したが、十九、二十日のマリアナ沖海戦で連合艦隊が敗北したため、大本営は二十四日同島の放棄を決定した。次第に島の北端に追い詰められた日本軍は七月六日、戦闘を指揮していた斉藤義次陸軍中将と南雲忠一海軍中将らが自決、残りの守備隊も七日から八日にかけて万歳攻撃を敢行、玉砕した。その際、約一万人の一般住民もその多くが手榴弾や毒物で自決、あるいは断崖から身を投げ自ら命を断った。

                       しかし台湾の高雄までは別段異常はなかった。高雄に停泊している間、小隊長には上陸許可がおりたので、初年兵らが郷里に出す手紙と、あらかじめ注文を受けた待望の食料、バナナ、砂糖を買い求める資金を集めて上陸した。預かった手紙を投函し、高雄の街を見て回りながら蛇皮の財布を私個人用に購入し、バナナと砂糖を一篭ずつ光栄丸に積み込むようにした。所定の時間に帰船するとすでにバナナと砂糖は積み込まれていた。内地では甘味品に飢えていた時であり、全員大いに喜んだ。積み込んだ食料品も毎日平等に分配した。
                       高雄に何日か停泊した後、船団はマニラに向かった。乗船以来われわれの船室は船倉に造られていたが、タンカーを改造したもので、船室は暑くて換気もよくなかった。しかし日中は甲板上に出るのを禁止され、日が沈んでからしか許されなかった。
                       高雄出航後は特に船室の温度が高くなったような気がする。甲板に上がって満天の星を跳めながら、大きく深呼吸したときの壮快さは、表現の言葉もないほどいい気分だったが、機関砲の砲側に配備の水兵の数は増えてきたように思え、なんとも不気味だったのも確かである。
                       夜も次第に更けて、肌にあたる夜風が幾分涼しくなると、甲板上で皆、思い思いに横になった。すでに白河夜船をきめている者もいた。私も異常がないのを確かめて、今日も無事に終わったと思いながら横になった。遭難に備えて軍装を解くことは禁じられている。帯剣を締めたまま、銃は右手に抱いて横になるのが習慣だった。星の輝やきがことのほか鮮やかに思え、これが南の空かとロマンチツクな気分で、うとうとと浅い眠りについた。