聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.1/聖徳太子って何者?

2011.02.28 Monday

0



    2月22日は聖徳太子の命日だという。この日、法隆寺の主催で、法隆寺南大門を出発して、聖徳太子の墓所である大阪府富田林市太子町の叡福寺まで、いわゆる太子道の一つを歩こうという催しが開かれた。
    実在説が疑われている今、何を根拠にと言われる方もおられるだろうが、聖徳太子に興味を持つ自分としては、どうしても参加してみたかった。
    僕の家は広陵町の馬見というところにある。関東から関西へ帰って来るに当たって、女房と共に「終の棲家」になるだろうと思い定めた場所だ。

    自転車が趣味で、早朝、よく法隆寺まで走る。片道約45分、大体15キロの道のりだ。いつもは朝の8時過ぎに法隆寺に着き、拝観が開始される9時には自宅に帰っている。ところが、ある日、法隆寺と夢殿を拝観したいと思い立ち、朝一番の9時に法隆寺へとやってきた。目当ては夢殿の救世観音と、法隆寺に伝わる獅子狩紋が刺繍された古代の錦。
    しかし救世観音は、5月でないと拝観できず、獅子狩紋も公開されてはいなかった。
    そこで売店へ行き、救世観音の王冠が確認できるポスターと、獅子狩紋が一番大きく掲載されいるという図録を購入した。獅子狩紋というのは、ペルシャ風の貴族か武将が馬にまたがり、振り向きざまに獅子を馬上から弓矢で狙っているという図柄だ。正倉院の銀壺にも、この獅子狩紋が彫刻されたものがある。その貴族の被っている王冠の紋章、これが法隆寺夢殿の救世観音の被る王冠の紋章と同じだという。法隆寺を訪れた目的は、このことを確認したかったためである。

    これについては、少し長くなるが、小林恵子さんの説を以下に紹介しておく。
    「法隆寺の夢殿に伝来された四騎獅子狩文錦は文様がササン朝ペルシアの流れを汲み、西アジアと日本の文化交流を証明するものとして、従来より注目を集めていた。その文様は西アジア伝来の連珠文に囲まれた中に、中央に、これもペルシア伝来の生命の木を配し、四人の騎士が振り向きざま獅子を射る図である。太子摂政の時、新羅征伐のために制作された旗であるといわれている(三宅米吉『法隆寺所蔵四天王紋錦考』文一巻一号、明治二一年)。
    織物の制作年代は中国隋代の初期、すなわち六〇〇年頃の緯錦と考えられている(龍村謙「大谷探検隊将来の古代錦綾類」、『歴史と美術の諸問題』所収、法蔵舘、一九六三年)。
    しかし、最も問題とされているのは、制作場所と所有者、すなわち、誰が何の目的で制作し、騎士のモデルは誰かということである。
    ひとつは騎士の冠に着目して、この騎士像がホスロー二世か、あるいは、その子孫のササン王であるという説で、最初にササン朝ペルシア王と結び付けたのは奥田誠一氏(『東洋の古代織物に於ける波斯模様に就いて』国華二六篇六冊、一九一五年)であった。
    それにたいして、桑山正進氏(「法隆寺四騎獅子文様の制作年代」一、『江上波夫教授古稀記念論集・考古美術篇』所収、山川出版社、昭和五一年)は、
    〕翼の馬に乗った騎士像はササン朝には例がない。
    後ろから襲い掛かる獅子を振り向きざま弓射する像の形をとる例はササン朝の場合、きわめて稀なこと。
    K[柑錦の場合、冠の前方の飾りが、三日月状の上に球形が載る形をとっているのはホスロー二世と同じであるが、ホスロー二世のそれは、飾りが冠の頂上に位置している。
    これらをもって桑山氏は法隆寺錦はササン朝プロパーではないという意見である。
    桑山氏は強いて共通点をあげればアルダシール三世(六二九年六月〜三〇年四月)か、ブラーン女帝(六三〇〜三一年)のそれではないかという意見である。アルダシールにしてもブラーンにしても、西突廠の支配下にあった時のササン王である。
    天馬の例としては、法隆寺献納物(現在は東京国立博物館所蔵)の銅鋳製の水瓶に二組の有翼の天馬四頭が毛彫されているが、周知のように、ギリシャ・ローマ文化にあるペガサス(有翼の馬)は有名である。
    騎士が振り向きざま、獅子を射る形は安息式射法(パルチヤン・ショット)と呼ばれ、スキタイ遊牧民に共通する射法であるという(相馬隆『安息式射法雑考』史林五三巻四号、昭和四年)。
    とすると、法隆寺錦には中国文化の影響がほとんどみられないところよりみて、ローマ文化及びササン朝ペルシアと騎馬遊牧民、すなわち突蕨文化の合体作品といえないだろうか。
    法隆寺錦の騎士の冠前の飾りは「●に三日月」の形をしているが、これは桑山氏も認めるごとく、ホスロー二世の頭頂の飾りと一致している。
    夢殿の救世観音の宝冠正面上方に、同じような飾りがみえる。これについて、町田甲一氏(前掲『法隆寺』)は、やはりイラン系王族の流れを汲むと指摘してい-る。救世観音はもちろん、太子がモデルである。この聖観音の造立は一応、太子没後から山背大兄滅亡までの間と考えられている(前掲『奈良六大寺大観』)。
    四天王像もすべて救世観音と同じしるしをもつ宝冠をかぶっているが後の武士の兜の前面の飾りが、その持主を表わしているように、救世観音と騎士像の冠との共通する形「●に三日月の文様」は太子を象徴するものであったと推量されるのである。ただし四天王像の造立時期は南北朝(一三四六〜五五)時代である(前掲『奈良六大寺大観』)。
    更にそれが、ホスロー二世の冠の形と共通するのは、達頭とホスロー二世は同世代の人であるから、両者の間に交流があったことの証明の一つになるかもしれない。
    『補闕記』には烏斑の太子の馬は、太子を乗せて空に駆け上り、雲を飛び越え、東は輔時岳に登って、三日にして帰り、北は高志に遊んで二日にして帰り、太子が見たいと思う場所に五〜六日あれば行かない場所はなかったという。まさに太子の馬は翼ある天馬ではないか。『伝暦』では太子の馬は四足の白い烏駒であったとあるから、太子の馬は黒馬と考えられていたのであろう。」
    (以上、小林恵子「聖徳太子の正体」文藝春秋刊 から引用)

    実物は見られなかったが、ともかく土産物屋でポスターと図録を購入し、確認することにした。
    そのとき、土産物屋のおばさんから得た情報に依れば、聖徳太子の命日に、法隆寺から叡福寺に向かって、かつて聖徳太子の遺骸が運ばれた同じルート(太子道)を歩く催しが開かれるという。おばさんは、「寺務所で参加申し込みを受け付けているので行ってみたら」ともいう。
    そこで早速、申し込むことにした次第だ。



    当日、法隆寺南大門に行くと、すでにたくさんの方が集まり、出発を今や遅しと待っていた。
    南大門と中門をつなぐ広場には、普段は夢殿西側に置かれている聖徳太子像が御輿台の上に置かれ、その傍には、この御輿台を担ぐべく八部衆に扮した男性8人が控えている。
    そして出発時刻となった。約200名におよぶ参加者たちは、3班に分かれ南大門前に整列する。
    やがて主催者によるコースの説明・注意事項があり、いよいよ出発の運びとなった。
    まずは西大門を出て、斑鳩町内の龍田神社へ向かう。
    以下、行程の説明は、他のホームページやブログでも紹介されているので、次回からは、同行された橿原文化財研究所の研究員、廣岡孝信さんが、各ポイントポイントで説明された内容を紹介する形で、叡福寺迄のほぼ20キロの行程を案内していこうと思う。

    「コスモアイル羽咋」で知ったロズウエル事件 vol.2

    2010.08.10 Tuesday

    0

      ロズウエル事件のTV番組.jpg◇エイリアンの遺体

      先にあげた三角翼の飛行物体――その墜落現場には、飛行物体の近くに身長120〜140僂曚匹粒タГ琉簑里4体あったという。遺体の頭は風船のように大きく、両目は大きなアーモンドのような形状。鼻と口は小さく切れ込み、毛髪はなかったと言う。

      1995年8月28日、アメリカやヨーロッパで「宇宙人解剖フィルム」という衝撃の映像が世界同時公開された。日本では、フジテレビが購入し、1996年2月2日に放映されることになった(右の写真は、そのときの台本)。
      このフィルムは、イギリスの音楽プロデューサーであるレイ・サンティリが、1994年11月にアメリカの従軍カメラマンから10万ドルで買い取ったもので、カメラマンの証言によれば、1947年にニューメキシコ州ロズウェル近郊に墜落した空飛ぶ円盤の中から発見されたエイリアンの解剖シーンを16ミリフィルムに収めたものだというのだ。
      異星人と主張されるもののリアルな映像が公開されたのはこれが初めてだが、映像提供者であるサンティリの説明が二転三転したほか、映像にも矛盾が見られ、懐疑論者だけでなく異星人擁護者からも「フィルムがニセモノでは」という声がわき起こってきた。結果は、2006年、サンティリをはじめとするフィルムの制作に関与した人たちがフィルムが作り物であることを次々に告白しはじめ、真贋論争に終止符が打たれたという。
      このように「宇宙人解剖フィルム」といえば、UFO好きの間では非常に有名なフィルムだが、欧米では、ロズウエル事件は本物だと思っていても、宇宙人解剖フィルムを本物だと思っているUFO研究者はほとんどいない、というのが実情であるようだ。


      ◇元陸軍情報将校が著した「ペンタゴンの陰謀」

      ヴォストーク帰還用カプセル_本物です.jpgではロズウエル事件に話を戻そう。
      元陸軍情報将校フィリップ・J・コーソーが著した「ペンタゴンの陰謀」(邦題)という書物がある。アメリカの「タイム誌」や「ニューヨークタイムズ紙」にも取り上げられベストセラーになった書物だ。
      ここで述べられていることは、現代の多くのテクノロジーが、ロズウエル事件で回収したUFOから習得したモノだということ。コーソー自身、ロズウエル事件で回収したUFOを調べ、アメリカ企業に供与したという。僕自身は、この本は読んだことがないが、このパンフレット(コスモアイル羽咋で頂いた「UFOの真実〜ロズウエル事件〜」)の著者は、「一見、トンデモ本のようにも思えるが、妙に論理的で、つじつまが合っていて説得力がある。真相はさておき、読む分には面白く、ロズウエル事件の読み物としては、異彩の逸品」だと紹介している。
      コーソーの主張によると、ロズウエルで回収したUFOには、動力源も推進エンジンらしきものもなかったという。それは、「電磁界を反重力界に変換する方法で推進するのでは」と推測しているが、どうにもよく理解できない。パンフの著者の解説に依れば、「われわれ地球文明は、電動モーターのように、磁力を電流により制御できるが、重力を直接制御する術を知らない。そこで、制御可能な電磁力を重力に変換すれば、間接的に重力を制御できる」と考えたのでは……ということになるらしい。しかし、科学音痴の僕には、そう言われても、ますます分からなくなるばかり。
      ともかく、そうすればUFOのようなジグザグ飛行も可能になるという。
      パンフの著者は更に「この推進原理は、電磁場も重力場も同じ空間の歪みと考えられるため、変換も可能という発想に拠っているのかもしれないが、現実に成功した例は聞かない」という。
      コーソーの主張に拠れば、ロズウエルに落ちた残骸から、ほかに、暗視装置、粒子ビーム砲、電磁推進システムなどが得られたという。一部に、コーソーの主張を「真実を隠すためのニセ情報」ととらえる向きもある。
      「しかし、コーソーのような地位を築いた人物が、100%嘘で塗り固めた書を出版し、自らをおとしめるとは考えにくい。真っ赤なウソともなれば、だれも相手にしなくなるからだ。本物のように見せるには、一定の真実を混入させる必要がある。そう考えると、この書は、俄然面白くなる。その内容は、どれもこれも戦慄すべきモノだ。その中のどれがニセで、どれが真実か、考えただけで、知的好奇心は沸騰する」と、パンフの著者は、締めくくっている。

      ボイジャー・メッセージ.jpg

      「コスモアイル羽咋」で知ったロズウエル事件 vol.1

      2010.08.09 Monday

      0
        ◇ロズウェル事件とは

        ロズウエル01.jpgいきなり悪趣味な映像と、おしかりを頂きそうだが、これは、フジテレビ系(1996年2月放送)の「UFO墜落から48年 宇宙人は本当に解剖されていた」という番組で使用された宇宙人の実物大模型である。
        1947年7月1日、ニューメキシコ州のロズウエルという町で、アメリカ陸軍のレーダーがUFOらしき物体をとらえた。ここからロズウエル事件が始まる。
        さて、このロズウエルという町には、アメリカ陸軍の基地があり、この基地に第509重爆撃大隊が所属している。アメリカで唯一の原子爆弾投下部隊であり、かつて広島へ原爆投下したB29も、この基地から飛び立っていったという。

        そのロズウエル基地のレーダーが、異常な動きをする未確認飛行物体をとらえた。レーダーに写し出された光点は、現れたり消えたりを繰り返し、時速1600kmもの高速で移動した。
        この時代、アメリカ最速をうたわれた戦闘機P51ムスタングでさえ時速700kmであった。

        そして3日後の7月4日、この日もUFOは基地周辺を飛び回っていたが、突然、雷雨が発生。すさまじい雷鳴とともに、レーダー上の光点も消えた。そして、その瞬間、何かが雷鳴とともに空中爆発し、砂漠に落下したという。軍、住民、考古学調査隊など、多くの人々が、この様子を目撃した。

        ロズウエル02.jpg牧場主マック・ブラゼルは、ロズウエル近郊で羊を飼っていたが、あたり一面に銀色に輝く残骸が散らばっているのに気付いた。ブラゼルは、その幾つかの断片をロズウエルの保安官事務所に届けた。当時、この町の保安官は、ジョージ・ウイルコックスという人物だったが、彼はこの断片を軍事機密かもしれないと、早速、ロズウエル空軍基地に届け出る。
        同基地の第509重爆撃大隊の情報将校ジェシー・マーセル少佐は、ただちに現地に赴き、残骸の回収を行う。そして彼の上官であるウイリアム・ブランチャー大佐は、マーセル少佐の報告を元に、この事実を公表するに至った。

        この公表で全米が大騒動となる。大新聞までがこのニュースを取り上げ、世界中を巻き込んでのUFO騒動。これに対し、テキサスにある第8陸軍航空司令部のロジャー・レイミー准将は、この「空飛ぶ円盤説」を完全否定、回収されたのは気象観測用の気球と公式発表する。このためUFOの残骸と報じた情報将校マーセル少佐は、「空飛ぶ円盤と気球を間違えた間抜けな軍人」ということになってしまった。晩年、マーセルは「あれは気象観測用の気球ではなかった」と主張したが、それを認められることもなく世を去ったという。

        ここまでが、ロズウエル事件において、ほぼ確実とされている部分である。

        なお、この記事は、コスモアイル羽咋で頂いた「UFOの真実 〜ロズウエル事件〜」というA5判8ページの小冊子(編者不明)を要約させていただいている。


        ◇UFOの残骸だと言われる物質についての仮説

        もし、これら残骸がUFOの残骸だとするなら、もっと大きなパーツが見つかっても良さそうだ。当然、そんな疑問がおこってくるが、「いや、あれは一部分であって、第1発見現場から200kmほど離れたサンアウグスティン平原に丸みをおびた三角翼の物体が、丘に突き刺さっていた」と証言する人がいる。 それは世間で言う円盤とは明らかに異なっており、「機体には何本かの亀裂が認められ」「墜落というより不時着に近かった」とも言われている。
        この機体については、言われているだけで残されているモノがない。しかし、マーセル少佐が回収した残骸については、これに触れた人の様々な証言が残されている。ある証言では「アルミ箔のように薄く、ナイフでなぞっても傷一つ付かなかった」と言われ、また「ナイフでは切れたが、切った直後に元に戻った」という証言もある。また別の証言では「ライターの火でも燃えなかった」とか、「クシャクシャにした後、テーブルに置くと、自然に元に戻りシワ一つ付かなかった」とも言われている。
        しかし残骸そのものが公表されていないので、未知の物質らしいという推測を出ない。

        (続く)

        羽咋のUFO伝説

        2010.08.09 Monday

        0
          CA3C0171.jpg
                 (宇宙科学博物館 コスモアイル羽咋/NASA特別協力施設だという) 

          UFO神話の町.jpg羽咋市はUFOで町起こしをしているという。その中心となる施設が、「コスモアイル羽咋」(上の写真)だ。ここを訪れたのは、以下のような理由による。前回のブログで、羽咋市は宝達にある「モーゼの墓」を紹介した。その伝承の基盤にあるのが、「モーゼがシナイ山を下りた後、天浮船に乗って能登の宝達まで飛んできた」という言い伝え。ここでまず、「天浮船」というUFOらしき伝承が登場する。そして隣町の羽咋市に残るUFO伝説。それは、羽咋市の正覚院という寺に伝わる「気多古縁起」という古文書に記された伝承。その古文書は公開されていないのだが、この「コスモアイル羽咋」にその写しがあるというのだ。

          知人が、その羽咋に書店をオープンしたという。金沢まで来たのだから、せめて店を見せてもらおうと、滞在を延ばし羽咋までやってきた。
          そこで「モーゼの墓」へと歩き、「天浮船」というUFOらしきものを知り、羽咋のUFO伝説に興味を覚え、「コスモアイル羽咋」へとやってきた。

          しかし、展示品は、アポロ司令船やマーキュリー宇宙船などの展示ばかりで、肝心の「UFO伝説」の元となった「気多古縁起」の写本が展示されていない。関係するものといえば、左写真のようなチラシが一枚貼られているだけ。
          そこには「UFO神話のまち」羽咋市として、次のような記事が記されている。

          「羽咋市は、『UFO神話』のまちとして知られています。その理由は、羽咋市に伝わる昔話の中に、UFOを連想させるような物体が登場する『そうはちぼん伝説』というお話が残っているからです。
          『そうはちぼん』とは、シンバルのような形をした仏具のことです。この『そうはちぼん』が、羽咋市の眉丈山(びじょうざん)の中腹を夜な夜な怪火を発して飛んでいたというのです。その他にも、眉丈山の辺りには、『ナベが降ってきて人をさらう』というような神隠し伝説が残っていたり、羽咋市の正覚院というお寺に伝わる『気多古縁起』という古文書には、神力自在に空を飛ぶ物体が登場します。
          これらのお話から、もしかしたら大昔には羽咋市にUFOが来ていたかもしれない、ということになり、『UFO神話の町』となりました。」

          「気多古縁起の写しが展示されていると聞いて奈良からやってきたのですが……」と、受付の女性に声をかける。受付の女性は、大慌てで事務室にはいると、学芸員らしき若者を伴って戻ってきた。青年は、「一緒に上に行きましょう」と、僕を関係者以外立入禁止というガラス張りの部屋へと誘った。そこの棚の上に無造作に、その写しというか、一部の写真複製が置かれていた。
          「全文の写しはないんですか」と尋ねると、その青年は「持ち主が公開を嫌っていて、これしかないんです。そればかりか、研究書も解説書も書かれたことはないようです」という。
          「文書の中に、三韓亡びて後……そんな下りがあるようですが、この文書は、いつ頃書かれたものですか」と尋ねる。
          「元々は平安時代に書かれたものといわれていますが、ここにある写真版は、それを室町期に写したものらしいです」と、即座に答えが返ってきた。
          ところで気多といえば、「気多大社のおいで祭り」が有名なようだ。毎年3月18日から23日まで、石川県羽咋市の気多(けた)大社で、平国祭、別名「おいで祭り」が開かれるが、これは御祭神の大国主神が能登の国を苦労して開拓したという神蹟をしのぶお祭りだという。おみこしや騎馬総勢60人の行列が行程300kmという類を見ない長さを巡行して回る。行列の寄る場所は神社105ヶ所、御招待家101ヶ所にも及ぶという。
          まるで根拠などないのだが、この「気多のおいで祭り」と、「UFO伝説」、「モーゼの墓」、何かつながりがあるように思えて仕方がない。
          といって、ここでどう頑張っても、これ以上のことは解らない。「気多古縁起」の写しを写真に撮らせてもらい、お礼を述べて宇宙関係の展示室へと戻ることにする。

          先ほど展示室を見て回っていて、どうしても気になるものがあった。「宇宙」や「UFO」に疎いもので、耳にしたことはあったのだが、「へえー、そんなことがあったんだ」ぐらいで、気にも留めなかったのだが、今、ここへ来て妙に引っかかってくる。
          それが「ロズウエル事件の展示」だ。
          UFOマニアにとっては、「今更、ロズウエルでもないだろう」と言われるかも知れないが、僕にとっては、まったく目新しくショッキングな事件だ。そこで次回は、「ロズウエル事件」の展示を中心に、ボイジャー等が試みた「宇宙へのメッセージ」、また「宇宙からのメッセージ」に関する展示を紹介していこうと思う。

          ボイジャー.jpg

          石川県にモーゼの墓?

          2010.08.08 Sunday

          0
            宝達の駅.jpg
                          (JR七尾線 宝達の駅―石川県羽咋市―) 

            仕事で石川県羽咋市に行くのを幸い、モーゼの墓があるというJR七尾線宝達駅に途中下車することにした。 もちろん、モーゼが日本で死んだとは考えていないが、「イスラエルの失われた10部族」、その最終的な到達地が日本だということは十分に考えられると思う。
            では「失われた十部族」とは何か? ダビデ王の時代にユダヤ民族は、イスラエル王国として12部族がひとつに統一されることになる。ところが、ダビデの子ソロモン王が死ぬと、ユダヤは再び南北に分裂し、サマリヤを首都とする北王国イスラエル(10部族)と、エルサレムを首都とする南王国(2部族)に分かれてしまう。この北王国が、紀元前722年、アッシリア帝国に滅ぼされ、そこに暮らす10部族は捕虜としてアッシリアに連行されることとなった。俗に「アッシリア捕囚」と呼ばれている事件だ。ところが、アッシリア帝国が滅びたあとも、この10部族はイスラエルの地に帰ってくることはなかった。これが、残されたユダヤ2部族によって「イスラエルの失われた10部族」と呼ばれるようになったという。
            さて、その10部族の行き先だが、一部がアフガンに、あるいはインドに、さらに東へ進み、中国・韓国へと足を伸ばし、最終的に日本にまでやってきたという伝承がある。この伝承が「日ユ同祖論」へと発展する。
            最近、イギリスのBBCの番組で、アフリカ南部に、自分たちは「ユダヤ人の末裔だ」と称する部族のことが紹介された。容貌はどう見たってアフリカ黒人だが、その伝承や祭、それに残された遺跡にユダヤ的な匂いがする。そこで番組では、原住民のDNA鑑定を行った結果、他のアフリカ人にはみられない遺伝子が発見され、それがユダヤ人の持つ遺伝子らしいことが判明し、彼らの伝承が裏付けられたという。

            一見、「石川県にモーゼの墓」というと眉唾もの的な感じを受けるが、モーゼを信奉するユダヤ民族の一部が、この地に移り住みユダヤの文化を伝えた、その名残とみることは十分考えられる。彼らが日本へ来たときは、中国あるいは韓国で暮らしたあとのことだろうから、名前も漢字の名前が付けられていたことだろう。漢字の名前の付く帰化人は、どうしても中国人か韓国人だと思ってしまうが、その中にはペルシャ人等の西域の人種が含まれていたことは、既に多くの学者の言うところでもある。

            宝達の駅_博多踏切.jpg

            宝達駅の駅長さんに、モーゼの墓があるというモーゼパークへの行き方を教えてもらう。「踏切をわたって、まっすぐ一本道」だという。その踏切に来て驚いた。踏切の名前が「博多」という。
            「博多」の韓国語読みは「ベクチェ」、「百済」の韓国語読みも「ベクチェ」。このため、「百済」と「博多」は同じとする見方がある。7世紀、百済が新羅・唐の連合軍に滅ぼされてから、「日本」という国名が普遍化することとなった。「日本」という呼び方も、百済人によって使われた呼び方のようだ。当時、高句麗は、中国と肩を並べる東アジアの軍事大国。かたや百済は、海洋民族として、アジアの国々とのつながりによって海上帝国を築いていた。その百済の出先機関的な役割を果たしたのが「日本」ということになろうか。その関係は近代の英国とアメリカの関係に似ている。いつしかアメリカは、本国イギリスを凌駕する存在へ成長していく。
            百済も、成長する日本をつなぎ止めようと、日本の大王家(皇室)に王族の娘を嫁がせる、いわゆる婚姻政策を盛んに行っている。こうして百済が危機に瀕したときは、日本も立ち上がる関係ができあがり、白村江での百済・日本連合軍の敗北へとなだれ込んでいく。
            かくして、百済滅亡に伴い、百済の難民が大挙して日本へと押し寄せた。それ以前にも、韓半島と日本の関係は深く、百済を中心に新羅、高句麗の人達すら日本へとやってきていた。そのころには、恐らく国の違いなど希薄で、隣村へ行くような感覚ではなかったろうか。
            「百済」という地名も、日本には数多くあり、この「博多」という地名も、「百済」の転訛と考えられる。してみると、この地も韓国との関わりが深いところなのであろう。
            もしユダヤの民が、この地にやってきたとなると、やはり韓国経由ということになるのだろうか……。

            モーゼパーク入り口.jpg

            この踏切をわたり、まっすぐ続く一本道を30分近くも歩いただろうか。夏の日差しをよける場所とてなく、黄色い「モーゼパーク」の看板(写真)が見えてきたときには、全身汗まみれという有様。この看板のところを左折して更に10分近く歩いたところが目的地だった。
            あまりの暑さに「左折」ならぬ「挫折」しようか等とくだらないジョークを思い浮かべながら目的地へと到着した。

            モーゼパークイラスト.jpg

            しかし、着いたところで、何があるというわけでもない。「モーゼの森」という森林浴コースがあるだけで、あとは簡単な説明版があるのみ。その森林浴コースも、日差しの中を歩いてきた身には、木陰の涼しさにホッとする思いだが、あまり誰も訪れる人がいないのだろう。やたらと蜘蛛の巣が顔に引っかかってくる。林間の涼しげな爽やかさも、蜘蛛の巣で半減といった感じ。

            モーゼパーク_テラス浮船海.jpg

            モーゼの墓に行き着くまでに、「テラス浮船海(ふせんかい)」という展望台があるという。確かに標識があるので、少し横道に逸れ展望台への道をとった。
            ところが……である。行き着いたところは、朽ちた木のベンチが二つあるだけで、樹木に覆われて見晴らしゼロ、とても展望台といわれるようなところではない、。そのうえ低い樹間のトンネルをくぐり抜けるとき、蜘蛛の巣が汗まみれの顔に貼り付き、気持ち悪いと言ったらない。思わず腹が立って「クソーッ」と叫びだしてしまった。
            それでも、展望台といわれたからには、かつては見晴らしが良かったのかも……。そう思い、腐ってグラグラするベンチの上に、こわごわ立ってみた。すると茂った木立の上の方の隙間に遙かに日本海を垣間見ることができた。
            「この鬱蒼とした茂みさえ処理してくれたら展望台として何とかなるのでは……」
            管理者でもないのに、そんなことを考えている自分がいる。そんなこと考えているくらいなら先を急ごうと来た道を引き返し、やがてモーゼの墓と言われる「三ツ子塚古墳群」へと出た。

            モーゼの墓_三つ子塚古墳.jpg

            河原三ツ子塚古墳表示all.jpg

            河原三ツ子塚古墳表示.jpg河原三ツ子塚古墳群、その前が整備された広場になっており、そこに「モーゼの伝説」という立派な案内板がある。そこには、まず「MYSTERY−1」として「モーゼとはどういう人物か?」として、旧約聖書のご存じのモーゼ物語が掲げられている。ついで「MYSTERY−2」として「なぜ、この塚がモーゼの墓と言われるのか?」が語られている。摩滅して読めない箇所があるが、ざっとみると次のようなことらしい。

            「モーゼはシナイ山に登った後、なんと天浮船に乗り、能登宝達に到着し十戒を授かり、三ツ子塚に葬られたのだという。また、○説には、モーゼは、なんと583歳の超人的な天寿を○○うし、宝達山の麓、三ツ子塚に眠るという。
            まさに、この奇想天外なミステリーこそ、モーゼ伝説から生まれたもう一つのモーゼ伝説なのかもしれない。」

            そして、モーゼ像の写真の右側には、次のように、三ツ子塚古墳の詳細が掲げられている。

              遺跡名  河原三ツ子塚古墳群
              通 称  (ミツコヅカ)
              伝 承  (モーゼの墓)
              所在地  石川県羽咋郡押水町字河原及び山崎地内

              三ツ子塚古墳群の形態及び規模
              1号墳=直径27.5メートル/高さ5.2メートル
              2号墳=直径38.9メートル/高さ6.5メートル
              3号墳=直径36.7メートル/高さ5.1メートル

              立地:海抜102メートル・丘陵尾根


            ここに掲げられた資料、これこそ暑い真夏の日盛りの中、やっとの思いでたどり着いた成果だった。それとも、ここへ来るということで調べたり考えたり……その過程こそが成果というべきなのか。
            帰途、宝達駅への道は遠い。往きは何かに憑かれたように歩いてきたが、一応の結果を得た後の夏の日差しは、往路よりも厳しい。

            宝達小学校.jpg

            「もうダメだ、もうこれ以上歩けない」と思ったとき、宝達小学校へと行き当たった。
            職員室を訪問し、無駄と知りつつモーゼの墓について訊ねる。応接に当たってくれた先生は、「地元の人間なんですが、詳しいことは知らない」のだと話してくれ、「暑いなか大変でしたね」とねぎらってくれた。僕は、「すみませんが、宝達駅近くのタクシー会社の電話番号教えてくれませんか。調べてくるの、忘れてしまって」と、申し訳なさそうに訊ねる。
            「僕、役場に行くから乗っていきますか?」と、若い男の先生が親切に誘ってくれる。
            「いや、ありがとうございます。でも、あまりご迷惑をかけても何ですからタクシーで行きます」と、思いとは裏腹のことを言ってしまった。「そうですか」と、その先生は車で出発してしまった。
            「どうして自分は素直に人の好意に甘えられないのか?」
            心の底に後悔が残った。
            そんな後悔をうち消すかのように、タクシーが小学校の校門から入ってきた。
            「桐生さーん、居られますかー?」

            我が家にも居た武内宿禰

            2010.07.21 Wednesday

            0
              我が家にあった1円武内大臣.jpg
              「紙幣から消えていった古代史の主役たち」 として、過去四回のブログで、神功皇后、武内宿禰、藤原鎌足、和気清麻呂と紹介してきたが、使用した画像は、いずれも「日本紙幣の凹版彫刻者たち」(財務省印刷局記念館「お札と切手の博物館」発行)と、「お札の文化史」(植村竣・著/NTT出版発行)から転載させていただいたものだった。
              ところが我が家にも「武内宿禰」の一円札が存在した。親父の遺品を整理していると、古紙幣や貨幣が封筒に種類別に整理され、紅茶セットの空き缶に詰め込まれていた。お袋から渡されたのをそのままにしていたのだが、「聖徳太子」の紙幣について書こうと思いたち、「たしか我が家にも聖徳太子が続き番号で居られたはずだ」と探しはじめて、この紅茶缶のことを思い出した。あけてみると、「聖徳太子」ならぬ「武内宿禰」が缶の中で睨みをきかせていたという次第。
              紹介写真では、表面しか見ることが出来なかったが、裏を見るとローマ字と英語の印刷だけで、まるで日本の紙幣という雰囲気ではない。その下には、さらに和気清麻呂が永い眠りから覚めたかのように、こちらを見ていた。この「和気清麻呂」の十円札になると、俄然、日本色が強くなっている。
              我が家にあった10円和気清麻呂.jpg
              我が家にあった50銭板垣退助.jpg発行された時代を映しているのだろうが、それにしても、たかが紙幣とは言え、生のモノの存在感には圧倒される。よくぞ残してくれたものと感心することしきり。
              このほかにも板垣退助の肖像が彫刻された五十銭札があったが、これは戦後昭和23年に発行された政府紙幣で、彫刻師加藤倉吉が僅か13日で凹版彫刻した肖像だという。ただ」印刷はオフセット製版に依っている。
              余談になるが、今、後藤新平について調べており、彼が名古屋で医師をしていたころ、この板倉退助が暴漢に襲われるという事件が起こった。医師たちは自由党との関わりをおそれて誰も診察に行こうとしない。それを乞われて行ったのが後藤新平だった。
              板倉は彼を「少しく毛色の代わりたる人物なり、惜しむらくは彼をして政治家たらしめざるを」(「自由党史」)と評したという。
              かし「郵便ポストが赤いのも、みんな、私が悪いのよ」というギャグがはやったことがあるが、実は郵便ポストが赤いのは、誰のせいでもなく、この後藤新平氏のせいなのである。当時黒かった郵便ポストを「目立たないのでいけない」と、逓信大臣に任じられた後藤新平が赤に変えるよう指示し、以来郵便ポストは赤くなったという次第。板垣退助が惜しむまでもなく、後藤新平は政治家として大きな足跡を、日本ばかりでなく台湾にも残していった。

              話が横道に逸れたが、このほかにも肖像彫刻はなくて、国会議事堂のみが印刷された十円札や満州国時代のコイン、昭和天皇の御在位50年記念百円硬貨などがあったが、やはり聖徳太子の紙幣は見つからなかった。

              代わりといっては何だが、出てきたコインをネットで調べていて、地方自治法施行60周年を記念コインが発売されることを知った。今日は高知、岐阜、福井のものが発売されるという。コイン集めが趣味ではないが、話の種にと、朝の8時半から最寄りの郵便局へと出かけた。
              すると局の前には、すでに行列ができている。聞いてみると、みんな500円記念硬貨を買いに来たという。なかにはコインには興味はないが、「坂本龍馬」のコインが出るというので来たという人もいた。そんな話で盛り上がっているとやがて9時のオープン時となった。中で朝礼をしていた局長らしき人が出てきて「500円硬貨購入のお客様はこちらへお並びください」という言葉に30人近い行列が一斉に郵貯の窓口に列を作った。しかし、局長の次の一言に皆が唖然とした。
              「各コイン、5枚ずつしかこの局には割り当てがありません。」
              一人2枚ずつしか買えないとは聞いていた。でもそれでいくと、最前列の3人しか買えないということになる。たまりかねて「5枚しか割り当てがないなら、並んでも無駄じゃないですか?」
              その言葉の尻から「売り切れました!」と局員の声。一斉に不満のブーイングが起こった。「5枚しか無いなら無いで、表に張り紙でもしてくれていたら、暑い中、並ばずにすんだのに」「ほかの銀行へまわることだってできたはずだ」。また別の声が言う「中から行列ができていたのは見えていたのに、どうして知らせてくれないの!」
              どれも、もっともな不満ではある。まあ、僕としては「買えなかったのも、それはそれで話の種か?」などと、妙な理屈で自分を納得させ帰ってきた次第であります。
              武内宿禰の神通力も及ばなかったコイン騒動の顛末、お粗末さまでした。

              選挙とベネツィア

              2010.07.11 Sunday

              0
                今日、何年かぶりに選挙に行った。別に「このままでは日本が……」などと考えたわけではない。 ただブラッと「行ってみるか」と思った次第。あげくは、「該当者無し」と記入する始末。さすがに比例区では考え抜いたが、それでも「自民、民主、公明、共産以外なら、何でもいいか」等と不謹慎な結論しか出てこなかった。
                選挙の仕組みについて、如何に無知であったか思い知った次第だが、この選挙の仕組みというか、政治の仕組みというものを徹底的に考え抜いた国があった。それがヴェネツイア共和国だと思う。
                塩野七生さんの「海の都の物語」を読んで以来、ヴェネツィアという国に興味を持つようになった。なにせ7世紀末期から18世紀末まで、ほぼ1000年以上の長きにわたり、歴史上最も長く続いた共和国なのだから。
                ヴェネツィアでは国家元首をドージェと呼ぶ。ある時点まで、このドージェは市民大集会で選ばれていた。それでは大衆に名の知られた「時の有力者」が選ばれやすい。有力者が市民集会を牛耳り、市民の意志を自分たちの都合の良い方向に持っていくのは、意外に簡単なことだという。その危険を防ぐため共和国国会が創設される。1172年からは、ドージェ(元首)は共和国国会で選出し、それを市民大集会が承認するという形式にしたのである。また、この方法によることで、元首の世襲制を防止し、権力の集中を防止したという。
                この辺の事情を、webの百科事典「ウィキペディア」で詳しく見ておこう。

                「初期のヴェネツィアではドージェが自身の血縁者に後を継がせようとする傾向が強かった。そこで、ドージェが世襲制となることで共和制が崩壊することへの危機感から、ドージェが後継者を指名することを禁じる法律が制定された。1172年には、ドージェは40人の委員による選挙により決められることとなった。この委員は大評議会から選ばれた4人により選任され、この大評議会は12人の委員会が毎年任命する。1229年に支持が20対20となり決着しなかったため、これ以後、委員の数は41とされた。
                1268年に制定された選挙方法では、まず30人の委員が「くじ」により大評議会から選ばれる。この30人はさらに「くじ」で9人に絞られ、この9人が40人を選び、そしてその40人は「くじ」で12人に減らされ、その12人が25人の委員を選ぶ。その25人は「くじ」で9人となり、この9人が45人を定める。45人は11人に絞られ、この11人が、実際にドージェを決める41人を選任するのである。この複雑な制度のために、有力家門といえどもドージェの位を自由にすることは難しくなった。この制度は1797年の共和国滅亡まで維持された。」

                なんという複雑さであろうか。それほどにヴェネツィアという都市国家は、個人に権力が集中するのを嫌った。したがって「独裁者」も「英雄」も、ヴェネツィアは必要としなかった。対するジェノバが、個人的冒険的商人の活躍と成功により維持されていたのとは好対照といえる。ヴェネツィア共和国は、突出した一人の存在より、全体的な底上げを目指した。このため「教育」が重視され、リベラルな雰囲気が漂い、中世から近世にかけて、唯一、拷問が禁じられた国ともなった。
                教育面では、14歳までが義務教育の期間であり、14歳に達すると、まず商船に乗って航海することが義務づけられる。そこで少年たちは、航海技術とともに商業技術をも身につけてゆくことになり、その航海の後、少年たちは自分の進路を決めるという寸法。官僚コースを歩む者には無料の専門学校があり、さらにその上に大学がある。
                ヴェネツィアの政治は貴族が担当し、貴族は全員が無給の国会議員で1000人という。その中から元首、元老員議員、10人委員会ほかの重要政務委員と議長が選ばれるわけだが、対象となるのは貴族の師弟のみであり、一般市民層の師弟が官僚コースを望んだ場合、このコースには決して乗れず、有給の終身雇用官僚としての道しか開かれていなかった。

                しかし、それだけに貴族の責任は重く、元首といえど、法律を犯した者は平等に処罰されることになる。日本では、天皇が罪を犯した場合(あくまでも仮の話だが)、日本国憲法が「天皇は日本国の象徴」と定めているため、裁くことはできない。では「皇太子」はどうか? 天皇が外遊中で、皇太子が摂政している間は裁くことができない。天皇が外遊から帰ってきたとき、つまり摂政の職からはずれたとき、訴追されるということになる。

                選挙の話が、あらぬ方へ走り出してしまったが、これほどややこしい選挙制度のもとに選ばれた元首でさえ、権力の一元化にはストップがかけられた。権力のコントロールが必要とばかり、補佐官が置かれ、やがて補佐官は2人から6人へ。その6人の補佐官は、6区から一人ずつ選出され、元首といえども、この補佐官たちに相談しないでは何事も決められないということが法制化される。しかも補佐官には、元首の家族はなれず任期は一年で、続けての再選は認められないという徹底ぶりだ。
                こうして1000年以上にわたる共和国を維持し続けたヴェネツィアだが、1797年、ナポレオン・ボナパルトに降伏することにより、その共和国としての生命を終えるに至った。

                平城遷都1300年祭に出かける vol.1 大極殿を見学

                2010.06.01 Tuesday

                0
                  大極殿と天平衣装の子供

                  仕事の合間を縫って、早朝から家を出、平城遷都1300年祭にやって来た。一度に回るのでなく、小刻みに何度かに分けて回ろうと思っている。「平城京歴史館」「遣唐使船」以外は基本的に無料だから、何度でも気楽に出直せるという次第。大和西大寺駅と会場をつなぐシャトルバスまで無料というのだから、主催者側の意気込みが伝わってくる。
                  しかし暑い、とにかく暑い。朱雀門から大極殿(だいごくでん)までのだだっぴろい空き地は、陽の光を遮るものがまったくない。その広場をただただ歩き、大極殿を目指す。前を歩いている老人夫婦の「この時期でこんなに暑いんだから、夏場はとっても来れませんね」、そんな会話が聞くともなく耳に入って来る。
                  老人夫婦の前を天平衣装に身を包んだ子供たちが歩いている。「天平衣装を着て会場を回ろう」という趣向がなかなかいい。貸衣装代をとって、希望者に着てもらうことで会場の雰囲気を盛り上げている。一石二鳥というところか、なかなかのアイデアだと思う。

                  そんなことを考えながら歩いていると、ようやく今日の目的地「大極殿」へと到着した。

                  大極殿大棟中央飾り
                               (大極殿 屋根の中央に据えられた大棟飾り)

                  大極殿とは、奈良時代前半に、平城京の中軸線上に建てられた平城宮の中心的建物で、元日朝賀(がんじつちょうが)や天皇の即位など、国家儀式の際に天皇が出御する場所のことである。この大極殿には、造営当初から恭仁京(くにきょう)へ遷都するまでの第一次大極殿と、還都してから長岡京に移るまでの第二次大極殿があったことが確認されている。今回復元されたのは、この第一次大極殿である。また「太極」(たいきょく)とは宇宙の根元のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味している。「天子南面」という言葉の由来もここにある。天子は北極星の中心、つまり北にどっかと座り、南に面しており、これを警護する衛士たちは天子に向かう、つまり北に向かって立つ。後の「北面の武士」の言葉の謂われともなる。
                  それはさておき、昭和45年に始まった第一次大極殿の発掘調査の結果、大極殿の遺構は奈良時代後半の宮殿施設によって大きく破壊されていたが、基壇および階段の基礎部分の痕跡が発見され、それを基に大極殿の平面基礎が確定された。
                  建物の復元に当たっては、直接的な資料が残っていないため、大極殿が移築された恭仁京の大極殿調査成果などを参考に法隆寺金堂や薬師寺東塔などの古代建築や、平安時代の「年中行事絵巻」に描かれた平安京の大極殿などが参考にされたという。

                  大極殿の鴟尾 ちなみに大極殿の仕様を記すと、
                   次のようになる。
                   ◇大極殿の大きさ
                   東西/約44.0m(九間)
                   南北/約19.5m(四間)
                   高さ(棟高)/約27.1m
                    (基壇高さ3.4m含む)
                   ●初重の柱 直径/約71cm
                           長さ/約5.0m 本数/44本
                   ●二重の柱 直径/約59cm
                           長さ/約2.4m 本数/22本
                  ◇木材 ヒノキ、ケヤキ(吉野・熊野地方を中心とする国内産)
                  ◇屋根瓦 約10万枚
                  ◇工期 平成13年着工 平成22年完成

                  天彩色

                  大極殿 高御座大極殿に入ってまず圧倒されるのが、中央に設えられた「高御座(たかみくら)」の尊厳と、高御座の上を覆う天井彩色の清楚な華やかさだ。

                  高御座とは、国家儀式の際に天皇が着座した玉座のことをいう。奈良時代の高御座の構造や衣装に関する記録はない。ここに展示された模型は、大極殿の機能や広さを体感できるように、大正天皇即位の際につくられた高御座(京都御所に現存)を基に、各種文献や史料を参照し製作された実物大の模型だという。また細部の意匠や文様は、正倉院宝物を参考に製作されたという。

                  また高御座を覆う天井の格間(ごうま)には蓮華紋が、支輪板(しりんいた)には蓮華を図案化した彩色が施されている。古代の彩色というのは、「暈繝彩色(うんげんさいしょく)」といって、同系統の色を淡色から濃色に並列する表現方法がとられているという。復元にあたっても、この彩色文様の色と形を基にしながら、上村淳之画伯によって、原画が描かれたという(下の写真)。

                  天井・支輪彩色原画
                  大極殿内を大急ぎで一回りした。まだまだ見ていたいが、そろそろ帰らなければならない。後ろ髪を引かれる思いで、大極殿を出ると、大極殿の基壇を高欄が取り巻いており、その木口や釘が打たれる部位には、保護のための金具が打たれ、さらに束の上には、五行(木・火・土・金・水)に対応する五色の宝珠付き金具が打たれている。その一つの宝珠が目に止まった。目の前の宝珠は「黒」、つまり」五行の「水」=「玄武」を表しており、それはまた生命の源への回帰を意味している。

                  私も原点への回帰ならぬ、仕事へ回帰しなければならぬ時間となった。

                  高欄

                  文化が運んだ疫病 vol.2 鉄砲・煙草とともにやってきた梅毒

                  2010.05.30 Sunday

                  0
                       梅毒の治療を受ける兵士

                    ヨーロッパに煙草がもたらされたのは、大航海時代のことだと言います。もともとはカリブ海あたりで、現地人が、Y字型の小枝の中をくり抜いてストロー状にし、煙草の葉を燃やし、この煙を両の鼻の穴に入れた小枝のストローで吸っていたということです。
                    この喫煙の習慣が、大航海時代の冒険者たちによってヨーロッパにもたらされ、爆発的な流行を呼びました。喫煙に関して、英国のサー・ウォルター・ローレイ卿の有名なエピソードがあります。
                    西洋史に興味のある方なら、彼の名前の覚え方を一度は耳にされたことがあるのではないでしょうか。
                    エリザベス一世が馬車から降りようとしたとき、まんわるく道がぬかるんでいました。傍にいたウォルター・ローレイは、さっと自分のマントを脱ぐとそのぬかるみの上に被せ女王に言いました。
                    「さー、わたられい=サー・ウォ(ル)ター・ラーレイ」という洒落です。
                    このウォルター・ローレイも、大航海時代の冒険者の一人ですが、彼が書斎で煙草を吸っていると、その後ろ姿を見た召使いが、「ご主人様の頭が火事だ! すわ一大事」と、ローレイの頭に水をぶっかけたというのです。
                    煙草の歴史が語られるとき、よく持ち出されるエピソードです。
                    しかし、カリブ海から持ち込まれたのは、煙草だけではありませんでした。大航海時代の冒険者たちは、「梅毒」も一緒に運んできたのです。より具体的にいうなら、コロンブスの新大陸発見の土産品ということになります。1493年、バルセロナに帰着したコロンブスの般員たちが、この新しい疫病をまずスペイン人に伝染させ、ルネサンスの動乱にのって、またたく間にヨーロッパ全土にひろげていったのです。
                    1495年、フランス王シャルル19世が軍隊を率いイタリアの「ナポリ王国」を包囲したことがあります。しかし、ナポリではこの「梅毒」が流行している真っ最中、包囲したはずのフランス軍が、却って梅毒に冒され撤退せざるを得ない状況に追い込まれます(左上の絵は、梅毒に冒された兵士が水銀薫蒸という治療法を施されている図です)。このフランス軍によるナポリ包囲が、梅毒の流行に拍車をかけたことは間違いがありません。

                    さてさて、この梅毒が、煙草や鉄砲とともに日本にも持ち込まれました。
                    日本における梅毒の最古の記録は、富士川游(『日本医学史』)および土肥慶蔵(『世界黴毒史』)によると、永正九年(1512)といわれます。
                    立川昭二『病と人間の文化史』には、「奈良時代につづいて、日本の歴史における二番目の発展期、日本人のエネルギーが海外にまで発散する躍動期、人が動き物が動く、そのたかまるうごきの波にのって、海外に進出した日本人航海者たちが海外の港々で、現地の女性からこの凶悪な病毒を受け入れ、つぎつぎとリレーし、いわば海外旅行のおもわぬ土産ものとして故国へ持ち帰ってきた。上陸地点は九州の長崎か坊ノ津、あるいは堺と考えられる。ときあたかも戦国乱世の動乱期、急変する政治や生活のうごきにのり、この新しい侵入者はたちまち日本人の男女貴賎をはげしく冒していった」とあります。
                    この時期、日本にキリスト教が入ってきました。日本に仏教が入ってきた飛鳥・奈良時代には「天然痘」が、そしてキリスト教が入ってきた安土桃山時代には「梅毒」が……という次第です。

                    鉄砲のみならず、「煙草」も「梅毒」も、そして「キリスト教」も大流行となります。煙草は「目覚まし草」とか「相思草」とか、はたまた「泥棒草」と呼ばれ、武士の間でも大流行。江戸時代に入っては、江戸城内では「禁煙令」が布かれますが、守られることなく、ついに場内での喫煙場所が指定される始末。結果、煙草による失火から「江戸城天守」は灰になってしまい、二度と江戸城に天守が造られることはありませんでした。「火事と喧嘩は江戸の花」と言われますが、その原因を作りだしたのが「煙草」だったわけです。

                    「煙草」に負けず、「梅毒」も大流行しています。この時代の著名人では、加藤清正、結城秀康、前田利長などが梅毒で死亡したとみられていますし、武将ではありませんが、角倉了以の息子角倉素庵も「らい病」だと言われていますが、どうも「梅毒」だったようでもあります。「らい病」にせよ「梅毒」にせよ、名門「角倉」から恥ずべき病を出した己を恥じ、素庵は、角倉家から己を逆義絶し、化野念仏寺の一角に庵を構え、その身を終わりました。この辺の事情は、2009年10月26日のブログ「仇野の三眛地で、ものを思う」http://manpokei1948.jugem.jp/?cid=6 に詳しく記しましたので、興味のある方はご覧ください。
                    さて、これからの我が国における「梅毒」は有効な治療法のないまま大流行し、1802年に杉田玄白によって書かれた回想録『形影夜話』に、次のような衝撃的な記述があります。

                    「毎年千人あまり治療するうち、実に七百〜八百人あまりが梅毒である」(意訳)と……。 

                    文化が運んだ疫病 vol.1 遣唐使と天然痘

                    2010.05.28 Friday

                    0

                      今年、奈良は平城遷都1300年祭で賑わっています。奈良国立博物館でもこれを記念して「大遣唐使展」が開催されており、4月3日にスタートして以来、5月21日には2ヶ月に満たないというのに入場者数が10万人を超えるという盛況ぶり。かくいう私は、興味はあるものの、忙しさにかまけて未だに行けないでいます。とはいえ6月20日までの催しですから、そろそろ焦りだしてはいるのですが……・
                      ところで、その遣唐使ですが、舒明二年(630)に第一回が派遣されて以来、寛平六年(894)、菅原道真の建議により停止されるまで、260年間に20回にわたって実施されています。12回だという説もあるのですが、ここではこだわる必要もないでしょう。
                      しかし遣唐使たちは、この間、一体どんな文物を唐の国から持ち帰ってきたのでしょうか?
                      「大遣唐使展」でも、これが大きなテーマなのだろうし、人出にめげず会場へ足を運べば、それら文物に触れられなくとも、少なくとも目にすることは出来るのですが、実は、あまり目にしたくないもの、持ち帰って欲しくないものも含まれていたようなのです。

                      それが「痘瘡」、いまでいう「天然痘」の病です。

                      天平五年(733)、第十回遣唐使が、唐の都「長安」に旅立ちました。この船には、将来「鑑真」を連れて帰る、留学生(るがくしょう)「栄叡(ようえい)」と「普照(ふしょう)」も乗船していましたが、それは後の話であり、まずは第十回遣唐使船の運命を眺めてみましょう。
                      第十回遣唐使船は、翌天平六年(734)、帰途につきますが、第3船の平群広成(へぐりのひろなり)は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。第4船は、難破して帰らず、かろうじて遣唐太子「多治比広成(たじひのひろなり)」の乗船する第1船のみが、九州へ帰り着きました。ところが災難はこれで終わらず、翌天平七年、九州太宰府で天然痘が発生し、瞬く間にひろがり、ウイルスは関門海峡をなんなく越えると、山陰・山陽道を通り平城京へと押し寄せたのです。

                      ところで、我が国における天然痘の発生は、6世紀までさかのぼります。
                      「日本書記」には、欽明天皇十三年(552)から用明天皇二年(587)にかけて、突如として疫病の記録があらわれます。時代はまさに、仏教伝来という歴史の転換期、そして古代豪族の権力闘争の激動期です。物部氏は突如発生した疫病は、「蘇我が日本古来の神々を無視し、舶来の仏教を持ち込んだための神罰だ」と、蘇我氏を非難攻撃します。これによって、物部・蘇我の仏教導入を巡る戦が発生するという経緯です。そして、この「瘡発でて身焼かれ、打たれ、摧かるるが如し」という疫病の正体が、痘瘡、つまり天然痘ではなかったかと推定されているのです。
                      また、大陸方面からの渡来者群によって六世紀以前に、すでにその伝来がはじまっていたとみる向きもあります。いずれにせよ、外来文化の伝来に伴い、疫病もそうした人びとの交流をとおして流行していったのでしょう。
                      では天然痘の発源地は、一体どこなのでしょうか。立川昭二さんの「病と人間の文化史」は、このことに関し次のように述べておられます。

                      「いちばん有力なのはインドとされている。それが古代民族の移動交流につれ、おそらくインドから仏教が各地に伝播していった経路とほぼおなじ道、つまりシルクロードをたどって、世界各地に伝播していったのである。
                      中国で最初に痘瘡を記録した医書『肘後方』(葛洪の原著、陶弘景の増補)には、「頭や顔に発疹がでて、躯中にひろがり、致命率が高く、治ったものは瘡痕をのこす病気が流行し、それは建武年間に河南の南陽で北魏と交戦中に伝染し、″虜瘡″と呼んでいた」と記されている。この虜瘡はいずれの研究者も痘瘡としている。そしてこの建武という年号は、最近の研究では、南斉の建武二年(495)とされる。おそらく、これ以前にも痘瘡の流入はあったであろうが、この頃、匈奴(きょうど=遊牧騎馬民族)の移動にともない、インドから西域の天山南北路を経由し、中国の西北地方に侵入、さらに西から東へと移動し、中国内部では北から南へとひろがっていったとおもわれる。またシルクロードと結ぶスキタイ交易路にのって、痘瘡は西方へも授入していった。」


                       

                      奈良県桜井市初瀬川の畔に建てられた仏教伝来の碑

                       

                      そこで、第十回遣唐使の話に戻りましょう。このころ日本では、しばらくは天然痘の流行は見られず沈静化していたようです。ところが、この遣唐使の派遣が久方ぶりに天然痘ウイルスを持ち帰り、これまでにない大流行をみるようになりました。たとえば『続日本紀』は、「天平七年(735)夏、大宰府管内に痘瘡が大いに発る。冬にいたるまで、この碗豆瘡(えんどうそう)、俗に裳瘡(もがさ)という疫病で、多数の死者が出た」と記しています。この翌春には、阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使の一行は、その往復の途次、痘瘡に罹患し、大使は病死、同勢100人は40人に減ったというありさまでした。この流行は、翌天平九年(737)に至ってもおさまらず、春にはふたたぴ大宰府管内で暴発し、畿内におよび、光明皇后の兄の藤原四兄弟、橘諸兄の弟橘佐為らが相ついでこの疫病で死んでいきます。『続日本紀』は、この様子を「是の年の春、疫瘡おおいに起こる。はじめ筑紫より来れり。夏を経て秋に渉り、公卿以下、天下の百姓、あい継ぎて没死するもの、あげて計うべからず。近代よりこのかた、いまだこれ有らざるなり」と語っています。

                      権勢を極めた藤原氏も、権力の頂点にあった四兄弟が次々に「天然痘」に倒れ、政治的指導力は藤原氏の反対勢力「橘諸兄(たちばなのもろえ)」へと移っていき、日本の政界地図を塗り替えることになっていきます。遣唐使の派遣は文物の招来ばかりでなく、別の意味でも、日本を変えていったと言えるのではないでしょうか。
                      また皮肉なことに、その治療に関しても、遣唐使・遣隋使が運んできました。推古十六年(608)、遣隋使として小野妹子が派遣されますが、この一行に薬師(くすし)恵日も同行しておりました。彼は、推古三十一年(623)に、中国医学・薬学を学んで帰国します。
                      これが日本における「漢方」の始まりとなるわけです。
                      また「天然痘」は、これ以降、日本に定着し、江戸時代後期には、小児死亡率の上位を占めることになります。

                      次回「文化が運んだ疫病」は、「鉄砲・煙草とともにやってきた梅毒」の予定です。