2003年、阪神タイガース優勝への140試合を全部記録した老人がいる!

2010.12.12 Sunday

0
    最近やたらと忙しい日々が続き、疲れてブログを書こうという気も起こらなかった。そのうえ、少し長い期間書かないと、それを契機に、ついついブログに向かうのが億劫になり、書こうと思っていることも一日延ばしに先送りになり、そのうちに書きたい内容も雲散霧消してしまうはめとなる。

    そういえばブログならぬ日記で苦労したあげく、阪神戦の記録を書き続けた老人がいる。
    彼は、退官後、無為な日々を送っていたが、姉から叱咤激励され「日記」を付けるようになったという。
    しかし、始めてはみたものの、書くことは、毎日、おなじことばかり。そんなときに出会ったのが「阪神・巨人のオープニング戦」。
    その試合に感動した老人は、「野球は筋書きのないドラマだ」とばかりに、日記代わりにテレビとラジオを頼りに、阪神戦の試合記録を付けだし、2003年にいたって、阪神優勝に至る140試合を全て記録した。そして、その内容を、ほぼ見開き2ページに一試合を掲げ、自身の野球に対する思いをコラム欄に配し、ついに1冊の本をものにしてしまったという次第。

    題して「野球 捨てがたく候」−阪神、優勝への記録−

    老人の名は「廣岡明」さん。
    出版打ち合わせに訪れた廣岡さんは、実にユニークな老人だった。「本づくりで出会った人たち」を書くようになって、ぜひ、彼のことを紹介したいと思いながら、ズルズルと時間がたってしまったが、以下に、廣岡さんが、この本をつくるに至った経緯を、彼本人の文章で紹介しておきたい。


    私の年賀状も、年金を貰うために出す生存証明のようなものになってしまった。
    そんな年賀状に返事が来た。去年のことである。夫を早く亡くして、長男と東京で暮らしている八十近い姉からである。
    怠惰な日々を送っているという近況報告へのお叱りである。老いて昔の説教ぐせがでたらしい。日記をつけなさいという。手紙に般若心経の写経を、同封して送ってきた。年がいっても腕は衰えていない綺麗な字である。
    日記をつけることにしたが、閉門蟄居の身で、テレビの守りだけをしている身には、日常茶飯事のことしかない。
    天候、雲の形、食事の内容、南天、山茶花、ろう梅等冬の花のことなどで、一ヶ月ばかり続けたが、変化のない日常生活に、かえって我が身が哀れになった。
    そんなこともあって、参考にするつもりで、永井荷風の「断腸亭日乗」をひもといてみた。荷風散人七十三才(昭和二十六年)私と同じ年での日記である。
    さすがの荷風大先生も書くことがないのか、その年は、毎日一行ですましておられる。そのなかで、「夜淺草」との記事がなんと二二六回、二日に一回淺草へ行ってることになる。まことに、うらやましい限りだ。
    日記をつけるのを止めてから、私はテレビで阪神、巨人のオープンニングゲームを見た。
    好投を続ける井川投手の姿が伐折羅(ばさら)大將のようだ。
    その映像が一幅の絵となって感動を呼ぶ。そして、どうしたことか、井川投手が水戸商校出身であることから、桜田門の変の水戸の浪士達を想像し、思わず藤田東湖の正気の歌を口ずさむ始末である。
    試合が終わったあと、井川投手を抱きしめる星野監督の姿は、喜怒哀楽を鮮明にして闘う監督らしい。このシーンを見て、私はこれだと思った。日記の代わりにこの感動を書けばよいのだと思った。野球は筋書きのないドラマだといわれている。ヒーローとなる選手もおれば、バイプレーヤーに徹する選手もいる。そんな選手達が織りなすドラマを書こう。幸い阪神は人気球団であり、殆どの試合がテレビに映る。テレビのない時はラジオがある。
    そんなことで、私は昨年、阪神タイガースの一四〇試合を全部記録した。
    今年は優勝への記録であってほしいものだ。
    最後に、昨年の私の年賀状を書いておこう。私のプロフィールになればと思う。

    あけましておめでとうございます。
    ご家族お揃いで初春をお迎えのこととおよろこび申し上げます。
    「勝ツマデハ欲シガリマセン」人生二五年と覚悟を決めていた少年は、戦争に負けて心のよりどころを失いました。手のひらをかえした大人達の俄か民主主義になじめず太宰治に心酔し「生レテキテスミマセン」と飢えの時代を送ってきました。
    やっと高度成長の思恵にあずかった男が、今や老いを迎え、生きておれば、いい事もあるだろうと、無為な日々を送っております。
    なにとぞ、ご指導のほど、お願い申し上げます。

    雑煮喰い 入歯ずれたる 夫婦かな

    「みやけなおこ と 尼人達」 長崎弁のDJ三宅奈緒子さん

    2010.08.11 Wednesday

    0

      amabito00.jpg

      UFOやら宇宙人やら、柄にもないモノ取り上げて、いささか食傷気味。まだ宇宙に向けてのメッセージやら、宇宙からのメッセージなど、石川県は「コスモアイル羽咋」で出くわした気になるものはあるものの、ここらで少し一休みしないことには、慣れないことを書くのはやたらと骨が折れる。

      そう思っていた矢先、とっても楽しい女性から手紙を頂いた。五島列島出身で、長崎弁で大阪や尼崎の話題をまくし立てる女性DJ三宅奈緒子さん。この人のしゃべりが楽しいし、彼女の長崎弁が懐かしい。なんでもお祖母ちゃんは、巫女さんだったそうな。そんなお祖母ちゃんにあこがれて、巫女になりたいと思ったこともあったという。そんな彼女が、大阪でFM放送を中心にDJで活躍している。
      ちょっと彼女の横顔を紹介しておこう。

      長崎県五島列島出身/S54.3.15生まれ/H9.上五島高校卒業
      高校卒業後, 福岡コミュニケーションアート専門学校のタレントコースへ進む。
      h15.3月 20歳の時に大阪に出てくる。現在は、声のプロダクション「キヤラ」の「ニューウイングス」に所属しているという。

      amabito_chosha.jpg彼女のレギュラー番組としては、
       ■FMハナコ(守口)
         ・ おはようハナコです  (月)7:00〜10:00
         ・MCタイム (日)16:00〜17:00
       ■FM尼崎
         ・瓶太、奈緒子のおしゃべりワールド 
         (金)14:00〜19:00

      彼女との出会いは、もちろん本づくり。
      彼女は、FM尼崎で、落語家の笑福亭瓶太さんと『瓶太、奈緒子のおしゃべりワールド』(金)14:00〜19:00という番組を持っているが、この番組の中に、奈緒ちゃんが独特の長崎弁で尼崎の人たちに取材しまくるという「尼人達」というコーナーがある。この取材には、奈緒ちゃん、自慢のカメラを持ち歩き、人から動物から信号機まで、気になるモノは、片っ端から撮りまくる。 撮るばかりか、この写真を集めて定期的に個展をひらいているが、これがまたスゴイ人気。
      そこで、これら写真と取材記を本にしてしまったというワケ。
      手前味噌ながら、イキのいい写真と、イキのいいコメントで、ページをめくると生きた尼崎が飛び出してきそうなイキのいい本が出来上がった!

      そんな奈緒ちゃんの手紙は、
      「桐生さん、お元気ですか?! また写真展やります。「尼人たち」続いてますよ〜(笑) 遠いですが、もしよかったら (^O^) またお会いできる日を楽しみにしています!」

          amabito02.jpg
      若い美人に、こんなお誘いを受けたことはない僕としては、ぜひ行きたいとはりきってっているが、このブログをご覧の方たちも、良ければ足を運んでやってください。上の写真は、5年前「尼人達」出版時の写真ですが、こんな雰囲気で本当に楽しそうな集まりみたいです。
      では、奈緒ちゃんに代わって、ご案ない、ご案なーーい。

      ◇「第6回 瓶太・奈緒子のおしゃべりワールドスペシャル」のご案内について

      謹啓 時下、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
       平素は、当センターの事業運営に一方ならぬお力添えを賜り、誠にありがとうございます。
       さて、「瓶太・奈緒子のおしゃべりワールド・スペシャル」も今年で6回を迎え次の通り界緒際する運びとなりました。
       つきましては、ぜひご来場いただきますようよろしくお願いいたします。 敬白

       ○写真展「みやけなおこと尼人達展」
        期間:2010年8月18日(水)〜8月23日(月)
        時間:10:00〜17:00(初日は13:00〜。最終日は16:00まで)

       ○公開生放送「瓶太・奈緒子のおしゃべりワールドスペシャル」
        日時:2010年8月20日(金)14:00〜18:55

       ※場所は何れも、尼崎市総合文化センター2階 ギャラリー・アルカイック

       お問合せ先:尼崎市総合文化センター 営業企画課放送担当(エフエムあまがさき)
       担当:秋山、楠見  tel 06-6483-2500/fax 06-6483-2501

      amabito01.jpg

      「縄文魂」から始まった佐藤眞生さんとの本づくり

      2010.07.31 Saturday

      0


        (「茨木探検ガイド」や「茨木がまちになった6つの物語」に紹介された「いすず姫」の舞台)

        「葬式や法要をめぐるトラブルが後を絶たない。仏教がすでに歴史的役割を終えてしまい、葬式産業に成り下がってしまったからだ。葬式仏教といわれて百年が経つ。寺は人間が人間として生きる力を育む場所だったのに、今では人々の無知を前提にしたたかり産業になってしまった。葬式や法要には法外な金がかかるのに死者や遺族に意味のある新しい価値をひとつももたらさない。
        仏教界からの自然災害や人災に対する対応は単なるボランティア参加で、宗教家としての役割自覚に基づく活動は皆無である。
        仏教界からの苦悩する人々への問いかけも、悟りを開いたといわれる聖人の言葉を相手構わず反復するだけで、人々の心には空しい響きしか残さない。
        人々は仏教界に辟易としており、火葬だけをする直葬や、墓をもたずに一本の樹を植える植樹葬、海・川・山への散骨など新たな動きが活発になっている。葬式や法要は最早仏教界と訣別して市民の手で再構成する時がきているように思う。」

        こう語るのは、『葬式革命』の著者・佐藤眞生氏である。「眞生」という名前は、聞くところによると佐藤氏のお父さんが、マオリ族に心酔していたために付けられた名前だという。命名したお父さんも変わった人だが、命名された佐藤眞生さんは、それに輪をかけて変わった人だ。人と話していて冗談や駄洒落が絶えたことがない。しかも多才である。最初、佐藤さんの本を手がけたとき、日本図書館協会から問い合わせが入った。
        最初手がけた本が、『縄文魂−文明にすがる人間は救済する価値もない−』という縄文人の心、縄文人の生きる知恵を見直し、現代に活かしていこうという内容なのだが、著者が過去に著した本に、「経営相談」や「ファッション」に関する本がある。図書館協会の問い合わせは、それらが同じ著者なのか、同姓同名の別人なのかということ。書誌データを登録するために必要なのだという。
        普通考えて、同じ著者とは考えにくい。書いている本の傾向がまるで違うのだから……。

        佐藤さんとの付き合いは長い。僕がオーダーメイド出版を始めて間もなく、佐藤さんが「新聞で記事を見たが、魅力的な出版方式だと思うので、ぜひ応援してあげましょう」と、事務所を訪ねてきたのだ。そして生まれたのが、先に紹介した「縄文魂」という次第だ。
        佐藤さんが大学を卒業する時は、就職氷河期といわれた時期。仲間が就職先探しに四苦八苦しているとき、ある教授の言った「就職先がないなら自分で会社をつくればいい」という言葉に反応し、ビジネスの上で、人と人をつなぐ、あるいは才能やアイデアをつなぐコンサルタント的な会社をつくってしまった。日本実業出版から、経営相談やファッションに関する本を出していたのは、この頃のことだと思う。そんな仕事をしていた人だから、やたら顔が広い。
        佐藤さんが「本」を出すならと、たちまち予約者が集まり、「縄文魂」は難なく出版に漕ぎ着けた。

        僕が佐藤さんと出会った頃は、大阪府茨木市を終の棲家と定められ、茨木の市民グループを統括されておられた。そこで生まれたのが、「市民グループによる茨木探検ガイド」。フラダンスを初め、映画鑑賞会、パソコングループ、大正琴のグループ等々、茨木の市民グループ27団体が、自分の住む町茨木を一年かけて取材して回り「本」にするという企画。
        このときは、僕も佐藤さんに引っ張られて、茨木の名所や迷所、茨木の奇人・変人・有名人、面白い店、変わった店を経巡り、A5判250ページ、オールカラー、主要スタッフ15名、関わった人500名あまり、しかも定価1200円で3000部を発行するという荒技に挑戦した。

        このときも、佐藤さんの奥の手が登場する。「本」が出来ていないのに「茨木市」の協賛をとってしまった。「具体的な本も出来ていないのに、協賛は出来ません」という茨木市に、本作成の途中経過を紹介するホームページを突きつけ、見事、茨木市の協賛をとってしまったのだ。
        出来た本は、前回紹介したガラス工芸家竹内洪さんの尽力で、「大阪府環境賞」を頂くことになった。市民が自分の住む町に興味を持ち、自分たちの手で調べていくという姿勢は環境保護につながるということらしい。おかげで話題性は抜群。この本が出来たあと、北海道やら淡路島やら、いろんな地区の市民グループから問い合わせが寄せられた。
        この「茨木探検ガイド」で、竹内洪さん、佐藤眞生さんが中心となって進める「茨木芸術村構想」が発表されたのも話題となった。
        江戸時代初期、本阿弥光悦は、京都鷹峯に芸術村を運営した。その現代版を茨木市で実現させようと言うのだ。長くなるが、ここに「芸術村計画書」から、最初の「1.芸術の森とは」という部分を紹介させていただく。


        「芸術の森」計画書
        竹内洪&茨木未来倶楽部(佐藤眞生)

        1.芸術の森とは

        茨木北部丘陵地帯に、あらゆるジャンルの芸術家を招聘する「芸術の森」構想は、「自生林の回帰」・「メセナの精神」・「人と芸術の融合」を目的とする。
        戦後の林業政策で植林された杉、檜はス−パ−林道と共にこれまでの日本を支えてきた。しかし、当時の森林や動物、池や沼、小川や水棲動物など自然の豊かさは姿を消し、将来森になる木も姿を消しつつある。
        昆虫は激減し、風媒にたよる杉や檜の人工樹が三十年後には山全体を覆いつくす。杉、檜には虫がつかない。虫がいなければ当然、鳥も来ない。
        虫のいない土はバクテリアの数も激減し、土に棲む虫もいない。落葉樹がなければ水棲動物も、それを食する魚も姿を消す。小動物がいなければ食物連鎖の頂点に君臨する猛禽類は根絶する。
        虫がいないということは虫媒花で実をつける植物は全滅し、季節を楽しませてくれる花々は結実することもなく絶滅する。それを支え豊かにするのが落葉広葉樹の自生林である。                 
        メセナの精神は芸術を支援する心であるが、この分野で日本は先進国の最下位を維持し続けている。それは芸術家と市民の温度差が大きいということである。しかし、欧州の多くの国は、音楽、彫刻、造形、建築、ア−ト、造園、石畳、そして職種を現す看板、それらを包括した幅広いジャンルの芸術に日常茶飯に触れることが出来る。 感性豊かな子供達は、その中で自ずと芸術を耳にし、目に触れ、体感する。やがて大人になり理解者となる。理解者の多い国へ行き活動をしたい。理解者が多ければ生活も成り立つ。そして、もっと良い仕事が出来る。ア−ティストが海外で活躍をする所以である。
        芸術の森は、芸術を理解し応援するメセナの精神を養い、一般人と芸術の関わりを融合させ、自生林豊かな森を育み、多くの感性豊かな人々を育てる事を目的とするものである。


        この後、佐藤眞生さんには、オーダーメイド出版の相談役となってもらったこともあり、その間、6冊の本を出版することとなった。

        1.「縄文魂−文明にすがる人間は救済する価値もない−」(2002年1月発行)
        2.「市民グループによる ふるさと茨木探検ガイド」(2003年2月発行)
        3.「縄文の遺伝子−受け継がれる縄文魂−」(2004年3月発行)
        4.「葬式革命−坊さんのいない葬式−」(2006年1月発行)
        5.「こころは腸次第−食べ物と食べ方がこころをつくる−」(2007年8月発行)
        6.「茨木がまちになった6つの物語」(2009年4月発行)



        「縄文魂・出版の思い」に、佐藤さんの生きていく姿勢が一番良く出ていると思う。最後にその一部を紹介させていただく。

        世の中、根っこから狂っています。日本だけでなく世界中が狂っています。その原因は何でしょうか?
        私は、人間が自然から離れてしまったからだと思っています。人間は地球上でしか生きることが出来ません。自然界でしか生命を維持することが出来ません。しれなのに自然に沿う生き方をやめて、自然を破壊する生き方をしています。
        快適で効率よくやりたいことをして生きるのが幸せだと信じています。みんなの幸いはどうでもよく、自分が幸せならいいと思っています。そして、個人も、会社も、社会も、国も、お金がすべてという価値観で見事に一致しています。
        その結果、人間はもう滅亡するしかないところまできています。破壊した自然の回復はもう不可能だと思います。やっと気がついて国際会議やら条約やらで手を打とうとしていますが、それさえも利害関係の妥協でしかありません。ちょっとした延命策でしかなく、もう手遅れです。
        黙して滅亡する選択もあります。しかし、自然に沿う生き方をして自給自足の生活を一万年以上続けてきた縄文人がわれわれの祖先だったのです。しかも、縄文人は極めて高度な文化を持っていました。そこには霊性の高さ、聖なる魂が偲ばれます。それを解ろうとせずに滅亡するのはなんとしても絶えがたいのです。手遅れでもいいから、自然に沿う生き方の元に潜む縄文人の魂を訪ねてみたいのです。(後略)

        ガラス工芸家・竹内洪さん 「ミミズが路上で死ぬのはなぜか?」

        2010.07.24 Saturday

        0

          幼稚園のステンドグラス角.jpg
                  (茨木市立沢池幼稚園に設置された竹内洪さんのステンドグラス)

          竹内洪作品集表紙.jpg雨上がりの良く晴れた夏の日、太陽に焼かれたアスファルト道に干涸らびたミミズの死骸をよく見かける。
          「ミミズが路上で死ぬのはなぜか?」
          ガラス工芸家竹内洪さんは、いきなりこんな質問をぶつけてきた。
          「竹内洪作品集−ガラスのキャンバスに永遠の生命を彫刻する−」を制作するにあたって、竹内洪さんとの打ち合わせの席上で発せられた言葉だ。

          ミミズは皮膚呼吸をする。雨が降ると土中に生息するミミズは呼吸が出来なくなって路上へ出てくる。そこへ強い太陽の日射しが降りかかり、ミミズは水分を奪われ干涸らびて死んでしまうというわけ。
          答えられないでいる僕に、竹内さんは、丁寧に説明してくれ、さらに梟の生態から昆虫や植物の話へと発展し、「本」制作の話はそっちのけで延々と自然観察の話が続く。あげくは「モミジとカエデの違い知ってるか?」と問いただされ、答えられずに「ガマ」さながらに脂汗をタラリタラリ……。
          本来、モミジとカエデは区別するモノでなく同じものだという。モミジの葉がカエルの手に似ていることから、「カエルデ」と呼ばれるようになった。なんでも万葉集には、「モミジ」という表現とともに、「カエルデ」という表現もあるという。
          「なるほど」と納得しきりの僕に、「もうカエルデ……」と、駄洒落の駄目押し。帰られては話にならない、大慌てで作品集の打ち合わせに話を切り替えた次第。
          「本」の制作中も、一緒に竹内さんの作品がある「茨木市立沢池幼稚園」や「みのお茶寮」などを取材して回ったが、その間も、駄洒落の絶えたことはなかった。ある時などは、昼食休憩中、「ステレオ」とか「ラジオ」とか、そういった外来語というかカタカナ言葉を使うのは禁止。使った数が多い者が昼飯代を出すといったゲームを始める始末。このときは「縄文魂」の著者・佐藤眞生さんも一緒で、3人のなかで私が、2人に乗せられカタカナを連発することになってしまった。

          そんな竹内さんだが、ガラス工芸では世界的に有名なアーティスト。色の違うガラスを重ね合わせる「外被せ」(そとぎせ)の技法は、1870年代から竹内さんが開発するまで世界の技術は1層から2層までであったという。それを竹内さんは、12層以上の技術を世界で初めて開発し、更にその「外被せ」のガラスに圧縮空気で砂を吹き付け100段200段と彫刻する「サンドブラスト」の技法をも開発した。まったくのオリジナルであり、「サンドブラスト」や「外被せ」の技法では、竹内さんの右に出る人はいないという。

          それだけに色にはうるさい。普段は駄洒落が絶えない面白いおじいさんだが、作品のことになると人が変わる。いつぞやも、年賀状に竹内さんのデザインが使われることになったが、その印刷にあたって色が気に入らず、印刷屋とかけあったあげく、最後までOKを出さなかったという人物。しかも今回は、竹内先生の作品集になるわけだが、予算の関係もあって美術印刷は使えず、あくまでオンデマンド印刷でやるしかない。フィルム出しをして色校正をするのでなく、デジタルコンセプトといって、いわば簡易色校正ともいうべきやり方なのだ。「茨木芸術村構想」のPRを兼ねての出版ということもあって、竹内先生にもなんとか納得いただき、決して100点ではないが、なんとか合格点を頂き出版に漕ぎ着けた次第。
          自分でいうのも何だが、印刷屋さんのがんばりもあって、オンデマンド印刷以上の仕上がりとなったと思っている。

          ここで出てきた「茨木芸術村構想」については、「本づくりで出会った人たち 佐藤眞生さん」の項で改めて紹介するが、ここでは、最後に竹内洪さんの作品に取り組む姿勢を、ご自身の書かれた「生態系・観察日記」から紹介させていただく。


          竹内洪「生態系観察・取材日記」より

          ひごろ何気なく見ているものが、彫刻の題材としてスケッチを始めると、思わぬ疑問が次から次ぎへとわいてくる。
          草と木の違い、野菜と果物の違い、ワシとタカの違い、木の年輪は外からか内からか、切り株の年輪で方角が解るのか、ミミズはなぜ道路で死ぬのか、柳の枝が水の有る方向に長いのは、ヤモリの尾、手、頭はなぜ再生されるのか、頭足動物の色は何故かわるのか…

          被写体をそのまま描き、そのまま彫刻するのではない。自然を学び受け取った感覚を自分なりに構成する。物の瞬間や営み、ものの精神性を含めた存在その物を表現する。セザンヌがエクサンプロバンスの学校に通っていた子供の頃、複数の子供にひどくいじめられていた時、一人の友達が彼を助けリンゴをくれた。セザンヌは子供の頃の思い出を、リンゴが腐るまで観察し一生涯描き続けた。それはリンゴそのものではなく、友達の勇気や感謝の気持ち、喜びや朽ちていく哀れみや悲しみをセザンヌは描き続けたのであろう。

          竹内洪作品_遊魚.jpgものを観察するということは、物の存在理由と他に与える価値−−自然界で不必要なものは何もない。足もとで踏みにじられる雑草も土の乾燥を防ぎ蝶の道であり、小さな虫たちが生かされるジャングルである。虫たちは鳥の餌になり、虫の屍はバクテリアの栄養になり大樹を育てる。
          自然を解明し理解することにより人類は多くの発展を遂げてきた。
          カーネギーホールを作った鉄鋼王カーネギーは、パンジーのような植物を見て、あんなに細い茎に大きな花が咲いても折れないことを研究し、変形が強度を増すことを知りHやCチャンネル鋼材の基礎を作り、更にムギの茎が折れないのを見て空洞の鉄鋼パイプを考えた。人類は鳥の羽根を観察し飛行機の翼を考えた。鳥や獣、昆虫、水生物から集音パラグラやセーラー服、流動体や楽器を創造した。ボルネオやアマゾンのジャングル植物からは多くの医薬品となる素が発見されている。密林種のシードバンクは人類の命を救うものである。

          やがて、トカゲやヤモリの足のように、分子間力によって自由に壁面や天井を歩けるような構造が出来れば高層建造物の事故も減り、宇宙ステーションの修復も命綱なしで可能になる。さらにトカゲやヤモリのように尾が自切面から切られ、手や頭、臓器が再生する仕組みが可能になる時代が来れば、カンボジアのジャングル辺りで多く見た手足の無い可愛そうな、あどけない眼を持った子供たちの手足が再生し臓器移植も不要になる。

          植物が地球の酸素を供給し温暖化を防止している。
          地球上のあらゆる植物は人類が生きる根源であり、植物によって人類は生かされている。二度と帰らぬ日本の豊かな自然を次世代に繋ぎ、植物や昆虫、動物や気象を含めた自然界の営みを「ガラスのキャンバス」に彫刻するため際限なき観察はこれからも続く。

          茨木市立沢池幼稚園のステンドグラス円.jpg

          愛子さまと「スイス留学大作戦」

          2010.07.15 Thursday

          0
            「週刊新潮 2010年7月22日号」.jpg
            「スイス留学大作戦」.jpg2010年7月14日に発売された「週刊新潮」の記事(『愛子さま』転校候補はスイスと豪州『名門全寮制』)中に、僕が、かんぽう時代に出版した「5歳6歳 スイス留学大作戦」の著者若草まやさんのコメントが出ていた。ビックリして読んでみると、おおよそ次のようなことらしい。

            週刊新潮の記事は、まず「雅子妃と学習院の冷戦は未だに続き、もはや抜き差しならない状態に陥っている。愛子さまの“異常通学”は4ヶ月にもなるが、一向に事態は好転していない。遂に皇太子ご夫妻は、愛子さまの転向候補としてスイスと豪州にある全寮制の名門2校に絞り込んだ。」として、次に「5歳6歳 スイス留学大作戦」の著者若草まやさんにインタビューした記事を続けている。少し長くなるが、以下、その記事を引用しておこう。

            (前略)その後、(東宮関係者がいうには)雅子さまは海外に目を向けられたという。
            「そして、第一候補として選んだのはスイスの『ラ・ガレン・インターナショナル・スクール』という全寮制の名門私立校です。一方、皇太子殿下が推したのは、オーストラリアの『ジーロング・グラマー・スクール』(GGS)だったようです。東宮職のごく一部でその2校の資料を収集し、愛子さまに適しているかなどの検討を始めていますよ」
            まず、『ラ・ガレン』だが、スイス屈指のリゾート地ヴイラールにある。名峰モンブランやレマン湖が一望でき、風光明媚なその一帯には世界中のセレブの別荘が建ち並んでいる。同校は、世界中から5〜13歳までの子どもを受け入れているが、全校生徒わずか80人で、きめ細やかな教育をウリにしているという。
            『5歳6歳スイス留学大作戦』の著書がある、医師の若草まやさんがこういう。
            「私は01年に、5歳と6歳の2人の娘をラ・ガレンに入れました。入学に際して、試験のようなものはなく、親子面接だけでした。英語能力は初級レベルで大丈夫です。娘の同級生にも、ロシアやスペイン、イタリアなど英語を母国語にしない子どもたちがいましたから……。校長夫人から、“1年もすれば、英語もスイスの公用語のフランス語も上手に話せるようになります"と言われ、当初、半信半疑でしたが、まさにその通りになりましたね」
            ラ・ガレンは日常生活においても、生徒に対し、行き届いたサポートをしてくれるそうだ。
            「寄宿舎は4人部屋でしたが、部屋ごとにハウスメイドがいて、朝は髪を編んでくれたり、洋服選びも手伝ってくれる。ホームシックになり、夜眠れなくなってしまった子どもには添い寝までしてくれるんですよ」
            若草さんの2人の娘は3年間、ラ・ガレンで学んだそうだが、
            「親元を離れての寮生活ですから、娘たちは自立心が養われ、国籍の違う子どもたちとコミュニケーションを取る術も身につけました。小規模な学校ですが、社交感覚が培われるようです。
            ロマノフ王朝の末裔の子どももいましたし、娘たちがラ・ガレンから離れる直前、校長先生が、“君たちが30年後に集まったら、世界中で良いことも悪いこともできる"と子どもたちに言っていました。それだけのバックグラウンドを持った子どもたちが来ているわけです」
            ラ・ガレンでの生活は、学費などを含め、1人当たり年間600万円ほどかかったそうだ。
            さらに偶然にも、若草さんの娘は皇太子殿下が推したとされる『ジーロング・グラマー・スクール」にも、ラ・ガレンの後、留学していた。
            「日本語を学ばせるため、一旦、日本に帰国させましたが、9歳と10歳のとき、GGSに留学させました。ラ・ガレンが初級者向けとすると、こちらは上級者向けです。第一関門として、オーストラリアでは留学希望者のための公的なテストがあり、GGSはそこである程度のスコアを収めないと入学願書の受付さえしません。その後、GGSの面接試験を受けるんですよ」
            GGSは、コライオ湾に面した港湾都市、ジーロングにある。創立は1855年で、すでに150年以上の歴史を誇る名門校だ。過去、英国のチャールズ皇太子やタイ王室関係者、インドのガンジー一族なども在籍していた。3歳から日本での高3までの子どもが入学可能だが、年代ごとに4つの学校に分かれ、寄宿舎に入れるのは5年生(9、10歳)からで、約1500人が寮生活を送っているという。愛子さまは、今年9歳になられる。(以上、週刊新潮2010年7月22日号から引用)

            僕が『5歳6歳 スイス留学大作戦』をつくった頃、この本の営業で旭屋書店なんばcity店の店長と面談したことがある。店長も海外の勤務先から国内勤務にかわったところで、「海外の学校は本当に自由で、子供が伸び伸びと育つし、国際感覚も身につきます。幼いときに留学させるというのは、僕も大賛成です」と、そんなコメントを頂いたのを覚えている。
            低年齢留学については賛否両論があると思うが、著者の若草さんの場合、ご主人の「子供は日本では育てないよ」という固い決意があってのことだったようだ。本の中にも、ご主人の思いが語られているので、その部分を次に紹介しておこう。

            「5歳6歳 スイス留学大作戦」からの引用
            昭和三十年代前半に東京で生まれ、いわゆる『お受験世代』のハシリであった夫は、それこそ小学校へ行く暇も惜しんで塾通いし、睡眠時間を削りに削って勉強して、御三家と賞賛される私立男子校へ、見事に合格を果たした。
            片や、公立校全盛期だった大阪で生まれた私のほうは、塾へも行かずのんきに育った。夏休みは毎年、ガールスカウトのキャンプで海や山へ出かけて真っ黒に日焼けし、同い年の夫とは対照的な少女時代を過ごした。中学生のころには、語学が堪能で外国の話をよく聞かせてくれた父や、冒険心に富んだ性格の母から、「十三歳にもなって独りで海外に行けなくてどうするの!」と叱咤激励されて、アメリカに渡らせてもらい、子供なりの視点で異文化に触れる、貴重な機会も得た。
            そんな二人が、時を経て、医師免許を手に互いに対等に働きはじめてみれば、夫は、あれほどまっしぐらに突き進んできたにもかかわらず、私のように寄り道をしながら育った者と同じ終着駅であったことに気付いて愕然とし、猛烈な虚しさに襲われたという。
            以来、こんな台詞が、彼の口癖となった。
            「僕は、勉強するのは嫌いじゃないし、それなりに充実した学生生活を送れたから、あの学校に入ったこと自体は、決して後悔していない。でも、そこに至るまでの、詰め込み式受験勉強に費やした時間やエネルギーが、実に無意味なものに思えるよ。小学生の子供の頭に浮かぶ、一番切実な願いが、朝まで起こされずにぐっすり睡眠を取ってみたい、なんていうことなんだよ。そんなささやかな願望すら叶わないような極限状態の生活を、寝たいときに好きなだけ寝て大きくなった君に理解できるかい? 僕は、自分の子供には絶対に同じ轍を踏ませない。もっと伸び伸びした環境で勉強させて、有意義な子供時代を過ごしてもらいたいんだ」
            そして待望の子供が誕生し、いよいよその言葉を、具体的にどんな形で実現するのかを問われる立場になると、彼の目には、『お受験』とは無縁の欧米のボーディングスクール(寄宿舎学校)こそが、まさしく求めていた理想の学校に映ったらしかった。
            さらに彼によれば、日本では優秀とされている人物が、言語の壁に阻まれて、国際的には必ずしも芳しい評価を得られていない場面を見聞するにつけ、日本の名門校は世界には通用せず、との思いを強くし、英語の必要性を痛感していたことも、大きな理由となっているそうだ。
            とにかく、彼の決意はとても固かった。(「5歳6歳 スイス留学大作戦」完全版 p12〜13)

            また若草さんは、あとがきの中で次のように語ります。

            ラ・ガレン・インターナショナル・スクールの子供たちところで私は、本編の、「かつて日本にもあった」と題した章で、旧制高校全盛時代に日本で行われていたリーダー教育について触れております。戦後、「教育の平等」を重んじるあまり、旧制高校に代表されるようなユニークな学制を、日本はあっさりと切り棄て、現実には平等でない社会で生き抜く術を子供に教える教育内容ではなくなってしまったのではないか。ひいてはそれが、今日の日本の国際競争力の低下に結びついているのではないか、と書いたのです。
            少数精鋭のリーダー育成から各種技能や生産技術の実務指導まで、かつては選択肢が多岐に渡って用意されていた日本の教育・学校制度は、戦後、平等教育へと大きく方針転換されました。その結果、総ての子どもが最低限の義務教育を受けることを保証され、国全体としての教育水準が上がったのは偉大な功績であった反面、より伸びたい伸ばしたい能力を秘めた個人が、集団から抜け出してぐんぐん伸びるための方策や受け入れ先を、学校現場に求めることはもはや至難の業となりました。
            「みんな同じ」平等教育の枠の中では、出る杭とならず、かといって落ちこぼれることもなく、学校では足並みを揃えてついていかなければなりません。そこで、どんどん先へ進みたい余力のある子供にとっても、逆に後れを取りがちな歩みの遅い子供にとっても、塾が頼みの存在として台頭するようになったのです。
            学校と塾のダブルスクール構造に親子そろって巻き込まれ振り回される日常では、リーダーとなる人に必須の「プラスアルファの教養」を身につけられる余裕など生まれません。さらに近年は、ゆとり教育の導入により、「みんな同じ」平等の最低保障ライン自体が著しく低下し、戦後教育の功績の部分までが揺らいで迷走し始めました。一定の水準以上を求めるためには、各家庭レベルでのオプションによる教育力が必要と言われています。この点が、格差社会において、階層を固定化する誘因となるのではないかと、憂慮されているところです。(中略)
            ボーディングスクールの「同じ釜の飯効果」のもとで育った人間関係が織り成す絆の深さ(強固な国際的人脈、結束力)に着眼し、「海外のボーディングスクールに留学して帰国した子供たちは、これからの日本の国力を取り戻す一助となるのではないか」と指摘する人が出てきました。さらには、「半ば公的に日本につなぎ止めるためのネットワークを国家戦略として早急に作る」ことや、「海外のボーディングスクールで学ぶ機会を、親の経済力の多寡にかかわらず、どの子にも平等に与え得るよう、優秀な生徒を選び国が学費を肩代わりしてでも留学させる」ことなどを提唱する人まで現れ始めました。これらはいささか極論に過ぎるとしても、従来の日本の教育枠ではくくれない多様な教育環境で育成された人材を柔軟に受け入れ活用すべき曲がり角に来ていることだけは間違いないでしょう。
            海外の名門ボーディングスクールには、世界中から、共通語である英語(グローバルイングリッシュ)でつながる優秀な教師や生徒、そしてその兄弟姉妹や両親が集まり、地球をフラットな舞台に変えてグルグル回っています。これらの人脈が、独特の一大コミュニティーを形成し、卒業後もさまざまな分野で秘かに機能していることを、言語鎖国を頑なに貫き極東郡日本村の中でだけ平穏に暮らしているつもりになっている大半の日本の学校の先生や生徒やご家族は、想像だにしていないと思います。(中略)
            娘たちが十二歳と十三歳に成長した現在でも、子育ては迷いの連続です。我が家のケースが吉と出るかどうかは、柚と聖が大人になるまでわからないと、私は考えています。
            けれども、小さな子供にでもここまでやれるのだという事実を広くお伝えすることで、今やグローバルな観点において、かつてないほどアイデンティティーが揺らぎ生き方を見失いつつある日本人に、生きる力を取り戻すための、一つのヒントにしてもらえれば、と願っております。(以上、「あとがき」からの引用)

            もちろん、経済的な問題や、その他様々な問題から、誰もが低年齢留学を考えることは難しいだろう。しかし、少なくとも「愛子さま」には、日本の閉鎖的な環境から抜け出し、伸び伸びしたグローバルな環境の中で、日本のリーダーとしての資質を養ってほしいと願わずにはおれない。

            ラ・ガレン・インターナショナル・スクールの子供たち
                       (ラ・ガレン・インターナショナル・スクールの子供たち)

            「風を切って時間を駆けて」

            2010.07.02 Friday

            0


                            (全日本マウンテン・サイクリングin乗鞍)

              「風を切って時間を駆けて」表紙2004年の年末、おもしろい人物に出会った。
              彼は、僕らと同じ団塊の世代に属している。50歳を過ぎて自転車にはまったといい、あげく、住まいのある千里から大阪市内まで、雨の日も風の日も自転車で通うようになった。電車バスによる通勤手当を返上し、そのうえで自転車手当を認めさせたという。
              その彼が目指したのが、「全日本マウンテン・サイクリング in 乗鞍」。そして、その先にあるのは、退職後の自転車による日本走破。次いで、その思いは世界へと向かう。
              僕が自転車を好きになったのは、彼との出会い、この本との出会いからと言ってもよい。本ができたとき、出版記念とばかりに、一緒に走ることになった。
              そのころ、僕は難波のリバープレイスにある無料駐輪場に自転車を止め、会社にある肥後橋まで、地下鉄に乗らず自転車で通うようになっていた。当時乗っていた自転車は、レーサー片山右京がプロデュースしたという折り畳みマウンテン・バイク。この自転車は、発売後、折り畳み部分がおれるという事故を起こし、欠陥商品として発売停止となった。出版記念ツーリングでも、「あの自転車をまだ、そのまま乗っているヤツがいた」と、変な関心のされ方をしたものだ。そのことはさておき、僕は難波から集合地点の千里中央公園までチャリを転がし、そこで待ちかねた著者らと合流し、京都の山崎を目指すことになった。途中から参加するグループもあり、それが家族ぐるみの参加だったりと、ツーリングはたちまち大所帯となってしまった。ある参加者は、自転車の良さは、夫婦で同じ風を感じられるところだという。けだし名言である。このツーリングでたくさんの人と知り合い、自転車を転がすおもしろさを知った。自転車は移動の手段のみにあらず、ギアは、心のスイッチにもつながっていることを実感した次第である。ちなみに本は、ある自転車雑誌が紹介してくれ、1000部の少部数ながら完売することができた。では次に、その本、「風を切って時間をかけて」の冒頭部分を以下に紹介させていただくことにする。

              (本文からの抜粋)
              12月初め、千里の自転車屋に行く。無愛想であるが、気の良さそうなおっちゃんが相談に乗ってくれた。どうも、おっちゃんの見立てでは、私めを余り体力のない中年のおっちゃんと見たようである。事実その通りであり、結局選んでもらったのは、急な坂は余り行かないだろうということでフロント・ギアーが1段、リアー・ギアーは6段しかない26インチのツアー用で真中で折りたためるクロス・バイク(ロード・レーサーとマウンテンバイクの中間のタイプ)風のものであった。定価8万円、値引きして約6万5千円と予算的にもまずまず、すぐに購入を決定。

              12月中旬にはバイクが届き、いよいよ、ぼくの一世一代のバイクによる“眼から鱗”の物語が始まるのである。ちなみにぼくはクルマの免許は持っていない。大学三年生の時、自動車講習学校に三日行ったけど、エラそうな態度の教官とケンカ。すぐに止めてしまった。いまはとてもじゃないけど自分でクルマに乗るなんて考えられないし、免許がなくてよかったと思っている。

              バイクに乗り出してからほぼ5年。自分の中での変化は二つある。一つは、当然肉体である。それまでのトースト半分、コーヒー一杯の毎朝の朝食が、まず、アジの開き、味噌汁、チリメンジャコ、梅干し、わさび漬け、海苔とごはん一杯、時には卵焼き付きという旅館の朝食並み(すべて、ぼくがつくってるけど)を食べないとおさまらなくなった。昼は12時に、夕方は六時にお腹の虫がグーグー鳴きだすというふうに、食欲ががぜん旺盛になった。
              にもかかわらず、最初の4年間、体重が殆ど変化しなかった。というより、食べても食べ
              ても増えないのである。それが昨年になってようやく減り始めた。バイクに乗り始める前は瞬間71kgになったこともあるが、平均は69kg台、今は67kg台である。2kgと思いのほか減っていないが、実は、体脂肪率が23%代から16%代と7%も減ってきており、この減少率がどんどん加速しているのである。ぼくの周りの同年輩の人は大抵20数%、腹がでてるなーと思う人は30%を軽くオーバーである。30%を超えるって、よく考えると体の3分の1が油である。そう思うとちょっと気持ち悪い。
              まあ、それはともかく、体重があまり減らないのに体脂肪の減ったとは筋肉がかなり付いたのではないかと思う。事実、昔のズボンで腰回りがきつかったのが、今は、腰が普通で太腿の回りがきつくなったし、下半身だけでなく上半身も相当筋肉が付いた。この他にスタミナがついた、階段を昇っても余り息切れがしなくなった。前の職場、ビルの9階にあるので、山行きのトレーニングに一日2回は歩いて昇ることにしていた。本当に体が元気になった。
              体が元気になると気持ちも元気になった。中学生時分に習った英語に『A  Soundbody in sound mind』という諺があったが、正にこの諺を字でいくことが実感できるのである。

              もう一つの変化は、まさにこの気持ちの変化である。気持ちが元気になると、それに伴って世の中や自分自身やいろんなものに対する見方、見え方が違ってくるのである。
              本書は、一バイカーとしての体験談とともに、このような気持ちの変化によって、今まで見えなかったものが見えてきた、また、違った視点で見えてきたいくつかのことをテーマとした“眼から鱗”のちょっと辛口の物語のつもりで書いた。
              そういう意味で、バイクは、体と気持ちの眠っている部分のスイッチを入れるマシーンとも言える。だからバイクは恋と同じである。どちらもワクワク、ドキドキ感が一杯で体や気持ちのスイッチをONにしてくれる。

              僕はまだ雇われの身であるので、余り大きな声で言えないけれど、いまの世の中、仕事はほどほど、遊びはたっぷりが大事なのではないだろうか。ちょっと古典的であるが、人間は遊ぶ動物、『ホモ・ルーデンス』とJ・ホイジンガーさんがいってる。そのホイジンガーさんいわく『遊びこそ人類の糧、歴史の根源、文化そのものだ』と。事実、ぼくの実感としてあるのだが、本当に自由だなあと思う発想は遊びの中から出てくる。だから、いまの世の中でなくて、ずうーっと、遊びが大事だと思う。元々どうもぼくは右脳派らしい。
              理屈を並べるより、思いつきやひらめきの方が得意なような気がするのだが。
              バイクに乗り始めて少しして、一つのことを悟った。我が人生で最大の悟りといっていいと思うのだが、これからは、すべて、自分がおもしろいかどうか、自分がやりたいかどうか、このことを価値観の根底に置いて判断したいと。つまり
              『これからは自分のために時間を使おう』と決めた。
              それまでは中途半端な社会派で、自分と社会の係わり方についていろいろと真剣に考えてきたつもりであるが、その割に今まで何をしてきたのだろうか、社会にお役に立つにはどうすればいいのか、結構まじめに悩んでいたのである。 ほとんどの人がそうだと思うけれど、主に仕事を通じて社会と係わりがある。それなりに仕事はまじめにやってきたつもりだが、正直言って、どこまで社会に貢献したのか・・・実感がイマイチ薄いのだ。
              そんな折、この悟りによって随分気持ちが楽になった。いわば、大乗仏教で悟りが開けなかったデキの悪い坊さんが、小乗仏教に浮気して、ある種の個人的解脱がなしえたようなものである。この悟りもバイクのおかげと思っている。その結果、今まで考えたこともない、ボランティアがおもしろいということもありうるのだということも素直に思えるのである。
              人間って動物は生き延びる知恵かもしれないが、自分で自分の気持ちを誤魔化してしまうことがままある。その典型がうそをつくことだし、心底自分がどう思うのかという、自分のこころを見詰め、凝視する行為を放棄していることが多い。ぼくはこの素直に自分を見詰めることはとても大切だと思うのだが、自分の気持ちに素直になることは実はなかなかむつかしいものだ。バイクに乗り、自然と接することが多くなったことと、soundbodyがぼくにむつかしい素直さを与えてくれたと信じている。素直な気持ちが素敵な時間を与えてくれた。20世紀はモノとベンリさに溢れかえっていたが、それで、人間は本当に幸せであったのかどうか・・・。21世紀はモノやベンリさはさほどでなくてもどれだけ素敵な時間が創れるか、送れるかが幸せのバロメーターではないだろうか。それが本書の最大テーマである。

              「風を切って、時間を駆けて」著者

              「アフガニスタンの失われた刺繍」 神戸芸工大の学生諸君

              2010.06.28 Monday

              0


                昔、(株)かんぽうという会社に勤めていた頃、オーダーメイド出版なるものを始めた。自費出版でも企画出版でもなく、著者と出版者が協力して予約者を募ったうえで出版に踏み切るというもの。読者を読むだけの存在から、出版協力者にしてしまい、ともにPR活動をして出版に持ち込もうというもの。新聞各社が面白がって記事にしてくれ、その記事を読んだ様々なコンテンツを持った作者たちが、また面白がって原稿を持ち込んでくるようになった。大学の先生が「出版助成金が下りにくくなった」と原稿を持ち込んでくるケース。プロのドキュメンタリー作家が、「自分の本当に書きたいものは『本』にならない」と原稿を持ち込んでくるケース。またシンクタンクの研究者が、「自分個人の仕事として取り組みたい」と原稿を持ち込んでくるケース。様々な方々が、様々な事情で、様々な原稿を持ち込んでこられ、様々な「本」が生み出された。会社を辞めるまでの9年間で、実に150点を超える作品が生み出されたことになった。

                昨年、定年退職で仕事を辞めたが、会社ではオーダーメイド出版は休止状態。遂に企業の中でオーダーメイド出版を定着させることはできなかった。それはそれでいいのだが、出版活動が停止するばかりか、そのとき一旦は生み出された多くの優れた作品が、大部分、流通までストップする仕儀となってしまった。仕方がないといえばそれまでだが、せっかく生み出された「本」が、これでは「作者」にも「本」自体にも申し訳ない次第。とんだ計算違いと悔やんでいたところへ、「電子出版」が日本でも日の目を見ようとしているという話題。「電子出版でもう一花咲かせようよう」などという気は更々ないが、これで様々な目的で生み出された本を、もう一度、現場復帰させることができる。そう思った。大急ぎで「電子出版」の勉強を始め、まだ一部の作者にしかお話ししていないが、大まかなプランをお話ししたが、話を聞いていただいたほとんどすべての作者にご賛同をいただいている。

                このブログで、「本づくりで出会った人たち」として紹介しているのは、作者本人のこともさることながら、僕が関わりを持った「本」のなかでも、まさに残しておきたい作品の紹介でもあるという次第。

                今から紹介する「アフガニスタンの失われた刺繍」、この本もそんな一冊だ。
                オーダーメイド出版が世間で騒がれ出した頃、「新聞の記事」を読んだと、神戸芸工大の学生諸君が、僕の勤める会社に乗り込んできた。神戸芸工大を卒業するに当たって、「アフガニスタン」という国の現状を、失われた「アフガン刺繍」を紹介するという形で「本」にしたい。いくつかの出版社と掛け合ったが話にならず、そんなとき、読者を出版協力者として制作スタッフに巻き込んでいくという「オーダーメイド出版」の新聞記事を見たという。
                彼らの主張は以下の通り。



                            ■PORT PROJECT
                PORTPROJECTとは、神戸芸術工科大学の在学生、および研究生で構成されたさまざまなデザイン活動を行う集団です。昨年、大学祭での作品の売上をTAFA(宝塚・アフガニスタン友好協会)に寄付したことで、西垣さんと出会いました。その際、アフガニスタンでの活動の写真や集めてこられた布や刺繍を見せていただき、アフガニスタンという国の現状、そして伝統文化に強い興味を持ちました。織物や刺繍が作られる背景やアフガニスタンにおける刺繍の役割、なにより手葎事による刺繍の美しさに感動し、この素晴らしさを少しでも多くの人に知ってもらうために、本にすることを決心しました。きっかけは何でもいいと思います。この刺繍に興味を持っていただき、それがアフガニスタンヘの関心、理解に繋がれば幸いです。

                    PORTPROJECT/高柳克史 久保亮 竹内啓子 藤原友美 貴志春奈

                cap.jpg



                こんな事情で、一緒に本づくりが始まった。こちらは「ホームページ」や予約を集めるための「チラシ」を作ってやるだけ。あとは、すべて彼らが動き、なんと1000部の予約を集め、小品ながら洒落たデザインの一冊ができあがった。
                本が完成するに当たっては、神戸芸工大で完成披露までが行われ、(株)かんぽうからは、僕とラモン君が招待された。ラモン君は、かんぽうでは出版部門ではなかったが、できあがった本の拡販を積極的に手伝ってくれた人物だ。
                その後、朝日新聞の家庭欄で「アフガニスタンの失われた刺繍」は、かなり大きく取り上げられ、その助けもあって1000部の増刷が実現した。出版総部数2000部とはいえ、僕たちには大きな成果で、これを縁に、JAFSAの「留学生受け入れの手引き」出版まで当社で請け負うことになった、僕にとっては忘れがたい一冊である。
                以下、そのほんの一部を紹介させていただく。



                ■アフガニスタンの刺繍(本文から抜粋)
                神戸芸術工科大学教授 
                戸矢崎 満男

                アフガニスタンの失われた刺繍needlework02.jpg中央アジアにあって、古代から「文明の十字路」としての輝かしい歴史と、数々の侵略者が交錯し、近年まで続いている内戦などの傷跡も生々しいアフガニスタンである。初めて「西垣コレクション」の布や衣装を見て、まず感じたのは色彩の力強さで、それは豪華な刺繍が施されているからである。美しい布は手にとって見たくなる。感触を確かめ、衣服であれば着てみたくなる。そこから感じられるのは美に対する情熱であり、肉親に対する情愛である。
                ラカイ(壁飾り・馬飾り)、チャドル(女性用ヴェール)、チャパン(男性用上着)、いずれを見ても手間を惜しまぬ温かみのある刺繍模様で埋め尽くされている。植物(特にロゼット)、羊(特に角)、鳥、寺院や幾何模様が多い。絹糸や金・銀糸も使い、サテンステッチ、チェーンステッチ、クロスステッチ、ボタンホールステッチなどで飾っている。
                カラフルな服飾品の中にあって、白布(薄地の絹や綿、今は化繊)に絹の白糸を使った精繊な刺繍がある。カンダハル地方に伝わるカンダハリは、その細かさゆえの特殊な技法による刺繍布(胸飾りなど)である。アフガニスタンは多民族国家であり、刺繍にも民族固有の伝統がある。
                美しいものは時を越える。地域を越え人の心に伝わる。価値ある遺跡が、一時の政治的な目的で破壊されるのを見るのは悲しい。石造物に比べれば、糸・布というのは最も柔軟で、たくましい存在なのかもしれない。現に美しいテキスタイルが残されているのだから、これを多くの人に見てもらうことは意義深い。どんなに言葉を尽くすよりも、美しいものは人の心を動かし、また美しいものを作り出すのだから。

                写真は、本書「アフガニスタンの失われた刺繍」から

                ■西垣敬子とアフガニスタン

                アフガニスタンの失われた刺繍_絵はがき01.jpg1994年からアフガニスタンヘの支援活動をする「TAFA宝塚・アフガニスタン友好協会」。代表である西垣敬子さんは、主に単独でアフガニスタンへ渡り、活動。現地での女性や子供たちが何を望んでいるのかを調査。現地でしかわからない情報をもとに、的確で細やかな支援活動を精力的に展開。
                パリでアフガニスタンの一枚の布と出会い、惹かれ、アンティークの布を集めているうちにアフガニスタンの難民と出会ったのが、支援活動をはじめるきっかけとなった。

                ■本文から(西垣敬子さんの文章)
                もう15年以上も前になるだろうか。私がアフガニスタンの活動を始めるずっと前、ふと訪れたパリの骨董屋で私はその布を手にした。赤い木綿地に奇妙な文様の刺繍が施されていた。壁飾りだというその古い布は不思議な魅力で私を惹きつけた。ラカイと呼ばれる刺繍だと若い店の主人が云った。アフガン人だった。ロンドンやパリには戦乱を逃れて来たアフガン人の骨董屋が数軒あった。この時から私はアフガニスタンの刺繍を少しずつ集めるようになった。60年、中には100年も経つ古い刺繍もある。戦乱の続く中、今ではもう誰も作ってはいない素晴らしい刺繍。この国には民族毎に異なる技法と多様な文様があることを知った。そう、アフガニスタンは多民族国家なのだ。
                ちょうどその頃だったろうか、国境の橋を最後の戦車が渡り、旧ソ連軍の兵士たちがアフガニスタンから撤退して行くのをテレビで見たのは。これであの国に行ける、と思った。中央アジア、そしてシルクロード、三蔵法師玄奘の歩んだ道、数々の仏教遺跡、色とりどりの衣装を着た遊牧民族の女たち、雪を頂くヒンドゥクシュの山々。何としても行かねば、と思った。
                岩村忍著「アフガニスタン紀行」を擦り切れるほど読み、いつか同じ道を辿ろうと思った。刺繍は私のアフガニスタンヘの夢を育てた。
                1994年1月、本格的内戦が勃発、同年11月、気が付くと、私は褐色のアフガンの大地に立っていた。そこには大量の難民、国内避難民がいた。35万人。息をのむような光景だった。ぼう然と立ち尽くして地平線まで続くテントを見た。あの美しい刺繍の夢などどこかへ吹っ飛んでしまった。この時から私はこの国に係わるようになった。
                水は生活用水のみ。食料は国連が配っていた。女性の姿は何処にもなかった。女は人前に出ることも出来ない国だということが分かった。何という国だろう。これがアフガニスタンのイスラームだと知った。
                翌年、また訪れたキャンプのテントの前で、遊んでいる少女たちの泥にまみれた服を見た時、あっ、と思った。胸元や袖口に刺繍がしてあった。まぎれもないアフガンの刺繍だった。
                この時、アフガニスタンは内戦が激化して、毎日、恐ろしいほどの数の難民がこのキャンプに逃れて来ていた。栄養失調で赤ん坊は次々と死んでいった。テントの中に閉じ込められた女達に会いたい、と申し出た。続々と集まってきた。テントは女たちで一杯となり、外からの光も閉ざすほどで、手許のカメラさえ見えないくらいだった。通訳を通してわたしは彼女たちに語りかけた。
                「毎日、テントの中で何をしているの?」女たちは黙って答えなかった。またわたしは云った。「男の人たちが職業訓練用のテントでいろいろ習っているけれど、貴女達も何か習いたくないの?」女達は一斉に話し始めた。「ミシン、ミシンが欲しい。刺繍も習いたい」堰を切ったように女たちが喋り始めた。やっぱり、と思った。この時だと思う。私にも何か出来ることがある、と確信したのは。刺繍を集めることに熱心だった自分が場違いのように思えた。今日を何としても生きていかねばならない人たち、外にも出られない女たち。女の私に向かって、何かを訴えようとしている。女だからこそ出来ることがあるのではないか。

                アフガニスタンの失われた刺繍_絵はがき02.jpgそれからというもの、アフガニスタンの女性たち、そして父親を無くした戦争孤児たちを援助の対象にしぼって活動を続けている。何かに背中を押される感じ、突き動かされる感じがあった。私は自分の目で見たことを話し日本の人たちに支援を呼びかけた。寄せられた寄付で手回しミシンを買って、まずテントに洋裁教室を開いた。25人からスタートした。
                アフガニスタンという国の珍しさもあった。少しずつ宝塚の人々が支援の手を差し伸べてくれるようになった。公共の施設に籠を置いて、刺繍糸や布の提供をお願いしたこともあった。それでも持って行くには足りない。そうだ、新聞に書いてもらって日本中の女性からアフガン女性のために糸を集めよう。「お宅で眠っている刺繍糸をアフガンの女性のために頂けませんか」というキャアンペーンが1紙に出た次の日の朝、宅配便が届いた。別の新聞に出た時も次の朝、宅配便や糸を詰めた数百通の郵便が届いた。宅配便は多い時は1日78個、郵便は日に200通を越えた。家の中は寝る場所が無くなった。(後略)

                写真は何れも、宝塚・アフガニスタン友好協会の発行する絵はがきから転載させていただきました。

                TAFA宝塚・アフガニスタン友好協会 
                http://www010.upp.so-net.ne.jp/k-tafajapan/


                carpet.jpg

                「天国へのマーチ」 得津武史さんvs西谷尚雄さん

                2010.06.03 Thursday

                0

                      1989年東宝ラインアップ

                  幻のチラシ
                  上の画像は、1989年に発表された、東宝の公開予定作品のラインナップである。そのなかに「ブラスバンドの鬼、得津武史の生涯 我が道を行く(仮題)」という作品があがっている。東宝の笹井英男プロデューサーの下、西田敏行さんが主演し、黒沢組の菊島隆三さんが脚本を担当するということで準備が進められていた作品だ。
                  そのころ、脚本を依頼された菊島さんは、体調をくずされ入院中だったが、すぐにアイデアが浮かんだらしく、早速、笹井プロデューサーに電話が入った。
                  「笹井さん、ファーストシーンに、こんなのはどうだろう……」

                  今津の商店街を少年達が、手に手にラッパをもって駆け抜けて行く。ただ事でない気配に、転じり鉢巻きの親父たちも後を追う。「いったいどないしたんや!」声をかける商店街の人たち。
                  「得津先生が死なはったんや! 先生と約束した『軍艦マーチ』を葬式で吹かなあかんのや!」雨の中を別の少年がサックスを抱えて走る。走る、走る、走る。

                  得津さんの葬儀は学校葬となりましたが、実は教育委員会から「軍艦マーチ」は演奏禁止のお触れが出ていたのです。従って、いくら得津先生との約束とはいえ葬儀会場で「軍艦マーチ」をやるわけにはいかなかったのです。しかし、うれしいにつけ悲しいにつけ、何かにつけて「軍艦マーチ」を演奏させた得津先生です。生徒たちは一計を案じ、雨の中、葬儀会場の外にならび、棺が会場を出て来るや、一斉に「軍艦マーチ」を演奏し、得津先生を送り出したのです。

                  ファーストシーンのプロットを聞くや、関係者たちは「これは良い映画になる」という実感を持ったという。しかし、肝心の菊島さんが、冒頭のシーンを提示したまま帰らぬ人となってしまった。そして、菊島さんの死をきっかけに、映画もお蔵入りになってしまった。

                  チャールズ・ブロンソンと西谷尚雄さんところで、この得津さんの映画を企画したのが、当時電通に在籍し、CM界の風雲児と言われた「西谷尚雄」さんだ。当時、西谷さんは、CMの世界で初めてハリウッドの大物スターチャールス・ブロンソンを起用して成功をおさめ、日本のCM史100傑に選出された人物だ。その西谷さんが、名もない今津中学ブラスバンド部を、15回連続優勝するという日本一のブラスバンド部にまで仕上げた得津武史さんのことを知った。そして彼の生き様に感動し、親友でもある東宝の笹井英男プロデューサーの協力を得て映画化の準備を進めていたというわけだ。
                  その夢がお蔵入りになってしまった。
                  その後、西谷さんは、電通クリエーティブ局を退職して関西をキーとして活動する独立事務所「キーウエスト・オフィス」を開設。ラジオ・テレビのCM制作や番組企画制作、コンサート等の音楽イベント・プロデュースのほか、NHKマスコミ・セミナーの講師として広告界を目指す後進の指導育成や、コミュニケーション関連の講演及び各種企業のコンサルティング業務を行うようになった。

                  「天国へのマーチ」表紙
                  20年を経た今、西谷さんは、映画化が無理なら、せめて活字の世界で得津さんのことを多くの人に伝えたいと思った。そして僕の所へ出版の話が持ち込まれた。というのも出版に当たっては大手出版社を使うのでなく、得津さんの教え子たちの協力で拡販活動を行い、あらかじめ予約者をあつめて出版に踏み切るという、「草の根出版」とでもいうべき方式でやることになったからだ。こうして「天国へのマーチ」が生まれた。

                  この本を通して、僕は得津武史さんのことを知り、その人生を追体験することになった。今の教師像からは考えられないような破天荒な教師像に出会い、そこに向けられる子供たちの思いを知った。
                  ある生徒は、逝ってしまった得津先生を偲び、次のような作文を書いた。

                    夏の演奏旅行のこと 憶えてるか。
                    いろんなとこへ行けて うれしかったなー。
                    そやけど、
                    センセの夏のスタイル、恥のカタマリや。
                    ランニングに短いデカパン、
                    帽子かぶって、下はゾーリ。
                    そこへ、竹の棒持って立ってる姿。
                    まるで、どっかの原住民や。
                    けど ボクら、
                    あの姿見たら、
                    何やしらんけど 安心するねん。
                    そやよって、
                    はよ、かえって来てえな センセー。

                  詩人サトーハチロー氏も、最初、得津さんの活動を売名行為のように思われていた……そんな話を聞いたことがある。そのサトーハチローさんが、今津中学を訪ね、得津さんへの見方が180度変わり、次のような「詩」を贈られたというのだ。

                  得津武史さん今昔  先生の怒鳴る声が
                    トランペットの穴に飛び込む
                    フルートの中を通りぬける
                    クラリネットにかけた指に響く
                    サキソフォンをムチャクチャにたたく
                    どなられても何でもない
                    どなられる度に進むのだ
                    先生はどなって ひっぱりあげるのだ
                    怒鳴り声にうなづいて
                    吹く 吹く 吹く ならす ならす ならす
                    休みは正月の三日間だけ
                    あとはくる日も くる日も 練習 練習
                    朝はほかの生徒が登校する前
                    放課後は くらくなるまで
                    おかげで夕星と仲よくなった
                    きびしいから 進歩する
                    進歩するから おもしろくなる
                    おもしろさは ゆとりとなり 自信となる
                    音がひとつになると
                     微笑でいっぱいになる
                    からだがうれしさで 丸くなる
                    たかなれブラス たかなれブラス
                    先生の笑い声がバスーンにからまる
                    ホルンがよろこび 胸をゆする
                    トロンボーンが空気をはずませる
                    ああそうして そうして みんなが
                    みんなが はずんでいる
                                   サトウハチロー


                  満州795部隊吹奏楽団

                  最後に、この「本」の中で、特に興味深かった箇所を掲げて、この項を終わりとする。

                  (7)速成 陸軍軍楽隊
                  気持ちを持ち直しつつあった、ある日のこと、俺は西沢部隊長に呼ばれた。
                  「得津一等兵、お前は音楽学校出身だったな。それなら特別任務を与える。いいか、余の命令は、天皇陛下の命令である。可及的速やかに軍楽班を編成せよ。そしておまえが指揮をとれ。かかる辺境の地で兵士たちの志気を鼓舞するのは、音楽以外にはない。連隊記念日に間に合わせよ!」
                  えらいこっちや、ワシは連隊中を駆けめぐって仲間を集めた。
                  「トランペット」はサーカスのオートバイ乗りやったH一等兵と青函連絡船のI二等兵。「サクソフオーン」は村の青年団で指導員をしていたH上等兵。「小太鼓」は写真屋のM二等兵。そのほか、北海道の荒磯で魚を釣っていたH二等兵、馬喰のS二等兵、チンドン屋のPや活動写真小屋の楽士あがりまで集めまくった。
                  連隊記念日まで、あと一ケ月しかない。『天皇陛下の命令』やからやるしかない、楊柳の枝を毎日五、六本折って、シゴキにシゴイた。
                  ひどい音やったが、なんとか吹こうとしている曲が何であるかが判る程度の音になってきた。
                  そして、とうとう連隊記念日が来た!
                  「よし、もうこうなったら音量だけで勝負せい! 向かいのソ連軍の兵営まで響け」
                  とばかりに、連隊歌『ああ国防の第一戦、五条の勅諭かしこみて』を、我が速成の大音痴軍楽隊が演奏し、それに合わせて兵士たちは声の限り歌いよった。
                  みんな感激して涙、また涙やった。ろくに音もでんラッパのH一等兵はあまりに自分の音が情けない事も手伝って、ぽろぽろ泣いとった。
                  そんなワシらの演奏にのって勇躍送りだした連隊は転進を続けて沖縄へ向かったが、そこで、ああ何と云うことか、全員玉砕したことを帰還後に知らされた。
                  軍楽隊をやってなかったらワシらも運命を共にするとこやったのに。すまん、すまん。ほんまにすまんことをした。
                  その後、練習を重ねた『満州第七九五部隊、速成軍楽隊』は、猛練習の結果、それなりに腕をあげて開拓団慰問や東安放送局で月一回の定期放送をやるようになり、指揮者のワシは兵長に二階級昇進の栄誉をうけた。この時ばかりはつくづく音楽をやっといてよかったと思うた。
                  そして、これが生涯、吹奏楽と運命を共にするきっかけになったというわけやな。

                  ありがとう得津先生

                  (45)栄光に翳りが
                  ワシらが連続優勝を成し遂げるためのエネルギー源にしてきた要素は、何としてもコンクールで栄光を勝ち取るという、熱意、あこがれ、夢というような一般的なものの他に、「怒りに似た闘争心」をあげることができる。あこがれ、夢は当たり前やが、怒りをエネルギー源にするという発想はあまりない。言い方をかえれば、今中を蹴落とそう攻めてくる敵国を仮想して、そいつになんとしても勝たなければならん、という「敵対心」を植え付けていったんや。生徒には、常に「日本一」という言葉で、すべての学校に対して闘争心を植え付けさせていた。
                  名実ともに日本一となった今津中学だが、いつ攻め落とされるかわからん。
                  特にワシは、豊島十中(東京都豊島区立第十中学校)吹奏楽部の指揮者、酒井正幸先生の実力を恐れていた。「あそこにはいつ負けるかわからん」という不安が常にあった。
                  つまり、心の中では、虎キチのワシにとって、豊島十中はジャイアンツみたいな存在やった。野球では先乗りのスコアラーみたいに、たんばたちを敵がどんな音を出しているか偵察に行かせたこともある。カバンの中にこっそり録音機を隠して、何食わぬ顔で「ご挨拶に来ました」とか言うてな。
                  しかしその不安が的中し、恐れていた日がとうとう来てしまった。
                  忘れもしない昭和四十一年十一月二十日。
                  宮城県民会館で行われた第十四回全国大会で『リストのハンガリー狂詩曲』を演奏した今津中学は二位に転落してしまった。
                  その年の審査員はNHK交響楽団常任指揮者の山田一雄先生だが、ただ一人ワシらの演奏に批判的な意見やった。
                  「今中の特徴はリズム、テンポが良くミストーンも少ない等、正確な演奏が評価されているが、私は演奏曲の音楽的理解やデリケートな音楽性をもっと表現してほしいと思う。中学生にジプシーの心がわかるはずがない。そんなことを求めるのは無理だといってしまえば、このコンクールの向上も発展性もなくなってしまうのではないか。今中は優秀なバンドであるが故にこの苦言をあえて呈する」
                  そんな内容やったと記憶する。
                  結局その年、今中から一位を奪取したのは、やはり東京都代表の豊島区立第十中学校やった。優勝を決定付けた曲は『エルザの大聖堂への行列』。彼らはこのタイトルに相応しく、ゆったりとしたテンポ感で、ワーグナーの名曲を情感豊かに演奏した。
                  その日は仙台から例のバスに乗って秋田周りで帰ってきたのだが、福井県を出た頃から子どもたちは全員
                  「俺は帰りたくない、応援してくれたみんなに会わせる顔がない」
                  といって泣き出した。なかには
                  「こんな二位のトロフィーなんかいらん。琵琶湖に捨ててしまおう」
                  と言い出す奴もおった。
                  ワシは一生懸命がんばった子どもたちに申し訳なくて、
                  「すまん。全部、俺の責任や! お前らが負けたんと違う、お前らは誰もミスをせず、みごとな演奏をした。」と頭を下げた。 
                  「このままでは帰れない」というみんなの切ない気持ちを乗せたバスは深い雪の中をとろとろゆらゆら走った。夜中になると子どもたちはさすがに疲れて、眠りについたが、ワシとたんばは、そう簡単には寝られるもんやなかった。
                  「ヤケ酒や!」と、バスをとめて入った食品店には酒のアテはほとんどなく、売れ残りのバターが1個あるだけ、それを買って二人でかじりながらウイスキーを一本開けてしまった。
                  頭の中をまたあの宇宿充人審査員の言葉が駆けめぐった。
                  「得津はゴロツキである…音楽をわかっていない…」
                  そして、山田審査員の
                  「ジプシーの心がわかっていない…もっとデリケートな音楽性を…」
                  バスの揺れも手伝って、妙な酔い方やった。
                  酔眼朦朧のワシはたんばをにらみつけて怒鳴った。
                  「ワシは、もう引退じゃ!」
                  そして大いびきをかいて寝込んでしまった。
                  目が覚めた時、バスは琵琶湖の周辺にさしかかっていた。ワシはバスを止めさせ、みんなをバスから降ろした。
                  「つまらんことは水に流してしまえ!」
                  朝もやの美しい琵琶湖を眺めながら、みんなで気持ちよく放尿した。
                  誰かがスーザの「星条旗よ永遠なれ」を口笛で吹き始めた。
                  それに合わせてピッコロのパートがオブリガートをおどけて吹いて見せる、手をラッパのようにしてトランペットとチューバが加わる、太鼓はお腹を叩いて『ズンチャカ、チャッチャ、ズンチャカ、チャッチャ、』と口真似する、ワシも列のお尻について歩いた。
                  朝日の中を大合唱のマーチングになった。
                  ジロやんのバスがその後をのろのろとついてきた。
                  「よーし、また一から出直しや」

                  本づくりで出会った人たち  乙武洋匡さん

                  2010.05.31 Monday

                  0

                    (株)かんぽう在籍中に、「国の作った本を書店に卸すだけではおもしろくない、なんとか自社商品を持ちたい」と、出版の真似事をはじめた。8年間つくり続け200冊近くを出版した。スタッフは僕一人、せっせとコマネズミのように動き、本づくりは軌道に乗ったものの、後継者づくりには失敗し、僕の定年退職後は、実質、出版部は閉鎖された。

                    とはいえ出版の仕事はおもしろい。本づくりを通して、いろいろな「人」に出会える。いろいろな「ものがたり」と出会える。いろいろな「価値観」と出会える。
                    そんなわけで、これからしばらくは、本づくりの中で出会った忘れがたい「人たち」と、忘れがたい「本」のことを書いていくことにした。

                    00PureHeart2009表紙.jpgまず第1回目は、シリーズ本「ニッケPure Heart大賞」と、その審査員長「乙武洋匡」さんのことを紹介する。
                    このシリーズは、中学生から大学生までを対象に、日常の中で感動したことや、将来への夢や希望を綴った日本語エッセーを募集し、その優秀作を「本」にしていこうという企画である。
                    選考は、審査員長の乙武洋匡さんを筆頭に、スポンサーの日本毛織社長、それに出版社サイドが僕と、この3人で上位作品を選び、選ばれた作者たちが、乙武さんの司会で「ピュアハート」についてトークセッションを繰り広げるというもの。このトークセッションの結果とエッセー作品の総合点で最優秀作品を決めていく。
                    一年に一度開催され、僕は第一回から第三回までを担当した。
                    そして、この仕事のおかげで乙武さんと出会うことができたというわけだ。本心を言うと、最初は、乙武さんのことを「自分の不幸を売り物にするイヤなヤツ」、どこかにそんなイメージを持っていたようだ。
                    それが第一回ピュアハート大賞の審査会場で出会ったとき、そんなイメージが払拭された。「実に気のいい、いいヤツだ」
                    そんなイメージに変わった。理由はない。会ったとき、何か感じるものがあった。そうとしか言いようがない。
                    最初、ドキッとした。手足がないのは知っていたが、実際、目の前に現れると、どう対応していいのかわからない。変に偽善者ぶるのもいやだし、かといって冷たく突き放すのも、却って意識しているようで自然じゃない。これでは「乙武さん」にハンディがあるのでなく、こちらがハンディを背負っているのだ。そんな思いも、彼と接する中で自然と消えていった。彼が、こちらの対応のぎこちなさを、自然な流れの中に誘ってくれている。そんな感じだ。おそらく彼は、それを意識せずにやっているのだろう。
                    彼が教師を務める小学校でも、生徒たちに対してそんな風に接しているのだろうか。第二回の本作に寄せられた乙武さんのエッセー「靴のサイズ」は、そのことを見事に物語っているように感じる。彼のもって生まれた自然さと、生徒の純真さがからみあって生まれたすばらしいエッセーだと思う。
                    最後に、そのエッセーを紹介して、この項を終わることにする。


                    靴のサイズ/乙武洋匡
                    大学卒業後はスポーツライターとして活動していたが、昨年の春から小学校教師として東京都杉並区にある公立小学校に勤務している。日々、子どもたちが巻き起こす様々なハプニングへの対応は、もちろん楽な仕事ではないけれど、心からの充実感を味わうことができる。そして、そこには数多くの“pure heart”があふれていた。
                    電動車椅子という、これまで見たこともない乗り物でやってきた新米教師に対する子どもたちの反応は、学年によってはっきりと分かれた。
                    「先生、手はどうしちゃったの!?」
                    頭に浮かんだ疑問を素直にぶつけてくるのは、やはり低学年の子どもたち。字はどうやって書くの? 給食はどうやって食べるの? 最初の一ヶ月は、とにかく質問攻めにあった。
                    だが、高学年ではこうはいかない。聞きたい気持ちはあっても、「そんなことを聞いては失礼になるのでは……」という大人の分別が邪魔をしてしまうのだ。それでも、やはり気にはなるようで、給食を一緒に食べるときには、僕が食べる様子をチラチラと横目で確認していた。牛乳ビンを口で持ち上げて飲む姿に、目を真ん丸くしている子もいた。
                    そんな彼らの様子にはっきりとした変化が感じられたのは、一学期も終わろうとする頃だった。五年生の女の子たちが、昇降口で靴を履き替えながら何やらおしゃべりしている。どうやら、靴のサイズについて話していたらしい。そこに僕が通りがかったものだから、ひとりの女の子がパッと顔を上げて、「先生、靴のサイズいくつ?」と聞いてきた。
                    「いやいや、先生、靴なんて履かないし!」
                    ツッコミのような口調で返したら、彼女はそのとき初めて「あっ」という顔をした。僕が車椅子に乗った先生だという事実を、すっかり忘れてしまっていたのだろう。
                    そこに、彼女の“pure heart”を感じることができた。「障害のことは聞いてはいけない」と気遣いを見せてくれていた彼らが、数ヶ月の生活をともにするうち、「ひとりの先生」として受け入れてくれるようになったのだ。
                    教師生活も二年目に突入する。日々、多くの“pure heart”に触れられるよろこびを感じながら、子どもたちのために力を尽くしていこうと思っている。

                    00PureHeart2009審査風景.jpg
                    (ピュアハート大賞、最終選考風景(左手前が乙武さん、右手前が僕、その隣がニッケ社長)