自分のことを振り返ってみたくなりました vol.4

2010.03.14 Sunday

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    湯殿山 注連寺
                          (湯殿山 注連寺)

    第二章 湯殿山で

    一、鉄門海上人との出会い

    鉄門海上人の即身仏あの後、嬬恋村を逃げ出して東京へ出ました。何をしてよいのかも分からず、フラフラと日劇の前までやってくると、折から市川染五郎の「蒼き狼」が上演されていました。自然とチケット売り場に足が向きます。芝居でも観ていれば、その間、何も考えずに済むと思ったのです。しかし、窓口の向こうからは「あいにくですが、今日は貸し切りです」の声が返ってきます。途方に暮れ、その場を離れようとすると、一組のカップルが近づいてきて「一人来なくなったから……」と招待券を差し出してくれました。
    あんなことがあった後にもかかわらず、なぜかワクワクして劇場に入ります。
    シートに腰を落とすと、いつものように胸奥から言い知れぬ不安が込み上げてきます。ただいつもと違うのは、今回はその不安の原因が表面だけでもハッキリしているということです。
    私はいつものように、「今は芝居を楽しもう」、そう自分に言い聞かせ、その不安を飲み込んでしまいました。

    重い足を引きずり、大阪の自宅へ帰り着いたのは、その日の深夜でした。
    プロダクションから連絡が入っており、親戚やら心当たりに連絡が取られ、それでも見付からずにあきらめかけていたところだったそうです。今日、見付からなければ、ヘリコプターで捜索も考えられていたそうです。
    母は、怒る父を「今日は疲れているから寝かせてやってほしい」と説得し、私を寝室へ逃がしてくれました。でも興奮して寝つけそうにもありません。会社のみんなに、なんて言えばいいんだろう。それより何より、自分は、なぜ、あんなことをしたのか。なぜ、みんなができることを俺はできないのか。読売テレビ時代の、エディターの声がよみがえります。
    「女の子でもやっているのに……」

    嬬恋村からの蒸発以後、両親や職場のみんなの思いやりにも関わらず、やはり職場復帰はできませんでした。みんなと顔を合わすのがいやだったのです。出勤はしても、映画館や人けのないスタジオ、喫茶店と、みんなの目を逃れてウロウロするばかりです。
    そんな毎日にいたたまれず、休暇をとり、東北へ旅に出ました。
    両親にも内緒でした。一人でゆっくり考える時間が欲しかったのです。

    夜行で秋田へ向かい、そこで一泊、次の日は早朝一番の列車で東北へ。下北半島を周り、その地の鄙びた民宿に泊ります。トタン張りの屋根に海風が吹き付け、波の音と風の音を聞きながら、いつしか眠っていました。これから後、南へと下り、岩手の安家洞を訪ねましたが、旅館へ到着すると、大阪の父から電話が入ってきたというのです。どうしてここが分かったのか、多分、置いてきた時刻表に印でも付けてあったのでしょうか。今、思うと、どうも不思議でなりません。ためらわれましたが、それでも伝言通り、家に電話を入れました。
    父が出ました。早く帰ってくるように言われました。受話器の向こうから、父の声に混じって母の叫ぶような声が伝わってきました。狂ったように「敏明、死ぬな、敏明、死ぬなーっ」て叫んでいるのが聞こえてきます。
    電話を切り、旅館を出ました。安家洞は、昨夜までの雨のため、洞内水流があふれ、入洞禁止になっていました。鍾乳洞入り口の近くに小さなスナックがあり、そこで飲みました。店の中では地元の青年たちでしょうか、二、三人がマスターと親しそうに話しながら飲んでいます。私は、誰と話す気にもなれず、一人で飲んでいましたが、いくら飲んでも母親の声が忘れられません。明日は帰ろう、そう決めてスナックを出ました。床に着いても、寝付くまで母親の声が頭の中に残っていました。今も、しっかり心に残っています。「敏明、死ぬなーっ、敏明、死ぬなーっ」って。

    朝、岩手の駅へ出ました。しかし大阪へ帰る列車まで、まだ随分時間があります。切符だけを購入し、タクシーを拾いました。急に思いついたところが湯殿山です。
    写真専門学校へ通っていたとき、即身仏という日本のミイラに興味を持ったことがありました。弥勒信仰から生まれた、死を前提とした修行形態で、穀断ちによる、いわば緩慢たる飢餓自殺です。五十六億七千万年という、遥かな未来に現われる弥勒の救済を渇望し、ミイラになって身体を残そうというのです。
    卒業作品に、是非、この「弥勒と即身仏」というテーマを作品にしたかったのです。が、費用がかかり過ぎるため、資料を収集するだけに終わってしまいました。その即身仏の修行の山として有名なのがこの湯殿山なのです。
    「ここまで来たんだ。大阪へ帰るまでに一度この目で見ておこう」と、タクシーの運転手に相談しました。費用と時間はどうだろうか、場所も分かっていないのだが……。その運転手は快くこちらの条件を飲んでくれ、湯殿山のふもと、注連寺というお寺へ連れて行ってくれることになりました。凡字川を渡り、タクシーは大網の部落へと入っていきます。
    タクシーが注連寺本堂前に到着しました。でも、入り口には鍵がかかっているのでしょうか、押しても引いても開きません。大声で声をかけますと、私の背後、それも下のほうから返事が返ってきました。振り向くと、道の片側はゆるい崖となっており、その崖下に畑が広がっています。声の主はその畑で働いているお百姓さんでした。
    聞くと、住職は別の場所で百姓しているからここにはいない。この道を下だった所にこの寺の管理をしている家があるからそこへ行けというのです。
    そうこうして、やっとのことで、写真や活字ではなく、この肉眼で「即身仏」を見ることになりました。きらびやかな僧衣に包まれ、苦しそうに前屈みになった鉄門海上人。周りには、彼の事蹟を描いた板絵が取り巻いています。
    現在残されている即身仏の中でも、この鉄門海は、最下層の身分である人足出身で、伝承によると、本名、砂田鉄、鶴岡の青龍寺川の人足をしていたが遊廓の女のことで役人と喧嘩となり、これを殺してこの注連寺へ逃げ込んだというのです。以後、二十五才で出家し、五十九才で死を前提とした三年間の穀断ち修行(木食行)に入るまで、その足跡は関東から東北までかなりの広範囲にわたると言われています。
    やがて穀断ちの末に骨と皮となった鉄門海は、文政十二(一八二九)年十二月八日、ふとした風邪がもとで息を引き取りました。遺体は海水につけて洗い、その後、注連寺の天井に吊してたくさんの百目ろうそくを点して乾燥させミイラ化させたと言います。話を聞いていて思わず身震いするような光景でした。
    案内の老人も、ひとしきり説明するとどこかへ去り、誰もいない堂内で、しばらくは一人っきりでこの鉄門海のミイラと向き合うことになりました。
    まるで時間が止まってしまったような感じでした。

    このときの印象が強烈だったせいでしょうか。あれから何年も経ったある日のこと、夢の中にあの即身仏があらわれたのです。以来、この即身仏との付き合いがはじまりました。よく夢の中に現われるようになったのです。いつも同じパターンです。場所は日本のいろんな場所であったり、中東の乾いた風景の中だったりするのですが、道に迷い、彷徨っているうちに、いつしか即身仏の祭られてある洞窟へ入っていくのです。夢の中で、ここを行けば、また即身仏のところへ出ると分かっていながら、いやだいやだと思いつつ、逆らえずに即身仏と出会う。こんなパターンの夢を場合によっては毎日のように、いえ一日に二度も続けて見ることがあります。しばらく忘れていても、ある日、突然、その夢がまたはじまり、ぐっしょり寝汗をかいて目をあけます。そんな繰り返しが続きました。


    二、藤信次さんと大学受験

    ところで、東北から大阪へ帰った私は、プロダクションを辞めることを決心しました。辞めて何をするのか? 大学へ行こうと思ったのです。というのも、親しくしていたプロデューサーの藤さんが、「おまえは大学を出ていない。遊んでも勉強してもいいから、まず大学へ行け。大学四年を経験してこい」と言ってくれたからです。
    この藤さんとの関わりには少なからぬ因縁を感じております。藤信二さんは、私がこのプロダクションで働くようになってすぐ、テレビ畑から移ってこられた方です。
    本人が言うには、テレビでは「鬼の藤」で通っていたそうで、若い女性タレントは、いつも自分の前ではピリピリしていたと言い、フランキー堺の「私は貝になりたい」を手掛けたことが自慢でした。なぜかずいぶん可愛がってくれ、会員制のクラブやら何やら、よく遊びに連れていってもらったものです。そして連れて行ってもらう度に、女の子に向かって「人間は陽が昇ぼったら働いて、陽が沈んだら休むもんだ。こんな夜の仕事をしていてはいかん」と説教が始まり、「鬼藤」の話、「私は貝になりたい」の話がはじまります。
    本人が言うように、金銭的にはかなりルーズな人で、あるとき、私に
    「おまえ、少し貯えはあるのか」と聞きます。
    「少しぐらいだったら」と答えますと、
    「少し貸してくれ」「銀行で金を下ろし、その金をここへ持っていってくれ」とメモを差し出します。
    私が言われたようにしてその場所へ行ってみると、なんと、そこはサラ金だったのです。そう言えば、あの金も返してもらわないまま、藤さんは死んでしまいました。
    最後にあったのは、私が、その言葉通り、大学へ入学してからのことです。

    その後、十月にプロダクションを辞め、私は、それから来年の入試を目指して頑張りました。予備校は断わられました。高校卒業から七年が経っており、その間、受験勉強などはしていないわけですから、来年の入試は無茶だというのです。
    「来年一年、当予備校で頑張って再来年の受験を」と勧められました。でも、こっちはそんな悠長なことは言ってられません。
    仕事を辞め大学へ行くと言い出した私に、父は怒って口もきいてくれない状態です。何がなんでも、来年、合格しなければいけなかったのです。
    公立はあきらめ、受験科目の少ない私学三校にターゲットを絞りました。立命館、関西大学、桃山学院の三校です。
    午前中は、梅田の映画館で働きます。高校の映画部の世話や、職域観賞券の配付をするアルバイトです。夜、帰ってくると、父と顔を合わさないように夕食を済ませ、部屋に閉じこもり、深夜ラジオを聞きながら明け方まで頑張ります。
    いつも心は張り詰めた状態でした。「すべられない、なんとしてでも合格しなければ」と。その間、母だけは、私がいい方向へ向かっているんだって信じてくれていました。三ヶ月間の受験勉強のことを思い出すと、やぐらごたつに入り、だまって編み物をしている母の姿が浮かんできます。
    その姿を思う度に、励まされている自分を感じました。
    おかげで、受験した三校すべて合格しました。
    私は、授業料、交通費など四年間の経済的な生活を考え、関西大学へ入学することに決めました。立命は遠すぎますし、桃山は家からバスで通えて一番近いのですが、経済と産業社会学部しかありません。私は経済よりも歴史がどうしてもやりたかったため、この選択となったのです。

    入学が決まるや、藤さんから電話が入りました。あれからすぐに藤さんもプロダクションを辞めたというのです。今は子役を養成するタレント事務所をやっている。在学中、金もかかるだろうから、自分のところでアルバイトをしろというのです。
    私は、憶えていてもらえたことがうれしく、また懐かしさも手伝って、即座に「手伝わせてほしい」と答えていました。


    三、藤さんからのメッセージ

    タレント事務所でのアルバイト一日目、たちまち事件が起こりました。藤さんが何事か急に怒りだし、事務の男性を口汚なく罵り始めたのです。それを聞いていて、私は何が起こっているのか、なぜこうなったのか、何がなにか分からなくなってしまいました。顔は冷静でいるのですが、心の中はパニックで、どうしていいのかわからないのです。どうも、子役タレントの親元への電話の仕方のことで怒っているようです。藤さんは私に電話を渡すと、私に電話をかけろと言っています。
    電話を渡されたとき、私は、恐怖の絶頂でした。一体、誰に電話をしたのか、どうしゃべったものか、何も覚えていません。
    それでも私の電話が終わると、藤さんは、その事務の男性に向かって
    「どうだ、こういうふうに電話するんだ」と言っています。
    何か誉められているような気がするのですが、私自身、何をしゃべったのかも覚えていないのに、その事務員の方に何かうしろめたいような気分になってしまいました。そして、それより何より、自分の中のすごい恐怖感にびっくりしてしまい、こんな状態ではとても勤まらないと思いました。
    逃げ出したいと思いましたが、勇気を出して「できません、辞めます」とだけ言いました。
    藤さんは、「そうか」とだけ言うと、事務の人に「こいつに日給を出してやってくれ」と後ろを向きました。
    そう言えば、浅間ロケのときも、藤さんから罵声を浴びせられて以来、自分の中で何かが崩れていったような気がします。あの日、私は、浅間のロケ地で、撮影準備のため、付近の地理を尋ねに、とある民家に入りました。ところが、その家の老人が、どういうわけか天明のころの浅間山の噴火について、まるで見てきたかのように説明してくれるのです。私はもちろん、そのことを尋ねたわけではないのですが、あまりに熱心に教えてくれるものですから、ついつい旅館への帰りが遅くなってしまいました。旅館では、藤さんがカンカンになって怒っており、帰るなり、藤プロデューサーの罵声が降ってきました。
    あれからです、平静を装っていた心が揺れ出したのは。

    今、思えば、あの事務所での事件は、あまりにも不自然でした。何か藤さんは、私が隠しているものを探るために、あんなに事務の人を怒ったのではないでしょうか。それは同時に私へのメッセージだったような気がします。
    「いつまで自分の心を隠していても、同じことを繰り返すだけだよ」って……。
    (いつか藤さんに会ったら、このことを確認したいと思っていましたが、それも確認できないまま藤さんは亡くなってしまいました。聞くところによると、最後は子供たちの教育のためにと、塾を開いていたということです。) 

    自分のことを振り返ってみたくなりました vol.3

    2010.03.14 Sunday

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      五、現場恐怖症

      こうして二年目を迎え、実習先として行ったのが、某電鉄会社の子会社で、観光地のPR映画づくりをしているプロダクションです。何せ大企業が親会社ということもあって設備は整っていました。劇場並みの試写室、豊富な機材、ゆったりとした社内。
      何より、みんなが楽しそうでした。演出助手の奥村さんは、大仏造立のスペクタクルを、劇場ではなく、駅構内などのマルチ画面で再現したいと夢を語ってくれました。支配人は、これからは昔風の活動屋では映画はやっていけないと、私に来る日も来る日も、製作費の統計を取らせました。ディレクターの高橋さんは、自分の作品があるたびに、そのシナリオを清書させてくれました。製作部長の氏家さんは、企画から撮影交渉まで、事務的な処理を教えてくれました。
      「写専に行ってるんだろう。じゃあ、ワンチャンスのために、いつもカメラを持って歩け!」と言ってくれた製作進行の大垣内さん。カメラマンの山内さんは、友人が東宝の撮影監督をしているのが自慢でした。「風林火山」を見たときなどは、その友人がやってるんだと一人ではしゃぎ回り、みんなの前で、そのカメラマンに電話を入れ、あのシーンはどうして撮った、このシーンはどうしたんだと楽しそうに聞いていました。
      みんな、子供みたいでした。あんなに、みんなが自分の夢を素直に語り合える場所は他にないと思いました。ただ支配人の橘さんだけが、いつも胃腸薬を飲んでいましたが……。

      でも、楽しいことは長続きしませんでした。
      製作部として撮影現場に付き添う日が来たのです。前から望んでいたことでした。支配人にも、製作部長にも、「早く現場に出してほしい」と、前々から頼んでいたことでした。でも支配人は、まず数字を覚えて、数字をしっかり掴んでから現場に出るようにと、デスクの仕事ばかりを回してきていたのです。それが、やっと製作進行補として現場に出る許可が出たのです。
      確か、「猪名川流域下水道」というPR映画だったように思います。
      その日、朝早く、ロケ車が技術部裏口の前に停ります。撮影助手や照明助手の連中を手伝って機材を積み込みます。天候は雨……そう、雨を待っての撮影でした。運転手の森さんは、車共々の専属契約。ディレクターも、カメラマンも、ライトマンも、製作も、撮影助手の森川さんも、みんな気心の知れた連中ばかり。そのうえ、同じ写専の小桜君も撮影助手の森川さんの助手としてついています。
      そう言えば、森川さんとは、よく一緒に映画に行ったり飲みに行ったりしたものです。天王寺で映画を見、その後、新世界で飲むのです。金がないときは、無料のキャベツを豚カツソースに浸けて、あてにします。真面目人間の私には考えもつかないことですが、森川さんと一緒だと自然にそんなこともできてしまうから不思議です。
      そんな連中が集まってのロケです。うまく行かない筈がありませんでした。
      すべてが順調に運び、暗くなって、ロケ車が技術部の裏口へと帰ってきました。みんな、順調に仕事を終えて、誇らしそうに見えました。
      ただ、私一人が、ドーンと重いものを抱え込んでいたのです。
      撮影中、カメラマンが助手を怒鳴ったのです。撮影現場に罵声が飛び交いました。私に向けられたものではないのに、罵声が飛び交うたびに、ドキッとして身体がすくむのです。あんなに気心の知れた人ばかりなのに、恐怖感が身体中を走り、その場を逃げてしまいたくなります。
      こんなこと話しても誰もわかってくれないでしょう。バカにされるだけです。自分一人の中に収めておきました。
      あれからロケに出ることが多くなりました。ディレクターやカメラマンとロケハンにも出かけました。親会社の電鉄関係の仕事が多く、伊勢、吉野、奈良、大台ヶ原と、どうしても近畿が中心になりましたが、ときには鹿児島などにも撮影で出かけました。
      ……でも、いつも不安と恐怖感が一緒でした。いつも不安の種を探していました。あれも大丈夫、これも大丈夫、こうなったときの対処は……。
      怒鳴るのはやめろ、大声をあげるな。たとえ自分に対してでなくても、誰に対してでも罵声を飛ばすのはやめてほしい。苦しい、苦しくなるんだ。怖くてたまらなくなる。怒りをこちらへ向けさせるな。どうしたらいい。どうしたら、みんな笑って仕事ができる。こんなとこにいたくない。一分だってこんなとこにいたくないんだ。
      こんな思いを抱えて仕事をしていました。こんな思いを抱えながら、みんなと話を合わせ、みんなの機嫌を取り、仕事を楽しんでいる自分を演出していました。

      こうして一年が過ぎ、卒業するときがやってきました。プロダクションでは、当然、私がそのまま、入社してくると思っていました。
      でも、できませんでした。あのビクビクする生活が繰り返されるかと思うと、とてもできませんでした。自分で求めて入った世界ですが、やはり飛び込むことができず、就職先も決まらないまま卒業することになったのです。結果、支配人や製作部長、ディレクターの高橋さん等々、たくさんの人の期待を裏切ることになってしまいました。本当に申し訳ありませんでした。

      私は、自分の気持を整理する意味もあって、しばらくは就職もせず、街頭宣伝放送の原稿を書いたり、映画館の館内放送の原稿を書いたり、宣伝用のエンドレステープをつくったりというアルバイトをしていました。
      こうして半年が過ぎた頃、また、やってみようという思いが湧いてきたのです。決して原因が見つかったわけでも、解決されたわけでもないのです。ただ時間が、当面の傷を癒してくれただけのことでした。でも、そのときは、もう大丈夫だと思ったのです。
      そして、同じやるなら、一流のところでやろうと思い、当時、日本で一番の広告代理店電通お抱えのプロダクションへと乗り込みました。募集しているわけでもありません。コネがあるわけでもありません。履歴書だけを持って、そのプロダクションを訪ね、いきなり関西支社長に面談を求めたのです。
      面白いと思ったのか、支社長は私を製作部長に紹介してくれました。製作部長は事情を聞くなり、いきなり私に、その場で自宅までの地図を書くよう指示したのです。実はこれが入社試験でした。私の書く様子を見ていた二人は、「要領がいいから大丈夫だろう」と、その場で採用されることになりました。
      要領の悪い代表選手みたいに思われていた私が、「要領がいい……」なんて言われるんですから、思えば成長したものです。それとも堕落したと言うべきでしょうか……。


      六、浅間山麓で

      このプロダクションで、私は、コマーシャルの製作進行をすることになり、一人で仕事ができるようになるまで、古屋さんというベテランの進行に預けられることになりました。PR映画と違い、タレントや劇映画の監督と接する機会も多くなり、はなやかで、しかも短期間の間に、企画から、撮影、編集、音入れ、納品と、すべての過程に参加できるので、映画の製作行程が一目瞭然にわかります。しかも劇映画と違い、企画段階ではプロデューサー補、撮影現場では助監督のような仕事もあって、映画を学ぶにはもってこいの環境です。
      まず企画が、デザイナーによって絵コンテ(CM内容を絵にしたもの)化されます。次いでスッタフが決まり、製作進行が選ばれます。進行は、その絵コンテをもとに、各スタッフと打ち合わせをします。フィルムは何フィート必要か、セットにはどれぐらい費用がかかるか、ロケ地はどこか、タレントは誰、製作期間は、必要機材の中にレンタルが必要なものはあるか等々。こうして製作費が算出され、予算書ができあがります。これをもとに、プロデューサーが利益を上乗せした広告代理店用の予算書をつくるのです。
      この見積の中には、不確定な要素がたくさんあります。天候もそうですし、ロケ地一つ取っても、気に入ったものがないため、変更になることも、セットに切り替わる場合だってあるのです。人的要素もそうです。活動屋気質の外部スタッフは、飲むことを期待している向きがあります。というのも、劇映画などの製作の場合、進行になにがしかの金額が預けられ、進行は、それをやりくりすることでスタッフの飲み代をつくりだすのです。それができる進行が、スタッフにとってはいい進行だったのです。
      しかし、テレビやコマーシャル映画の世界では、金の動きは、もっとシビアに管理されています。その他、予測できない出費等々、この不確定な要素を、費用としてどれだけ見積るか? 高すぎれば、仕事が取れませんし、安く見積ると、赤字を出す危険をはらんでいます。
      さて、私は古屋さんと共に何本かの仕事をし、いろんなことを教えてもらいました。上記のようなこともそうですし、その他、細々したこともそうです。……たとえば、撮影中、スタッフの見ているところでは座るな。動くとき、スタッフの見ているところでは走れ。一旦、決めたことは変更するな。間違ったと思っても、一度、口に出したら、軽々しく謝るな。その他、スタッフに飲み物を出すタイミング。ロケ地での地回りへの挨拶から、計上できない費用の捻出方法等々。

      しかし、一旦、ロケ現場へ出ると、恐怖心がなくなっていないのに気付かされました。そんなとき、「今度こそは」という思いで必死にこらえました。教えてもらった細々したことに気を配りました。スタッフの前では休憩といえど、絶対に座らない。スタッフの前では、だらだら動かずに走る。技術部の若い人たちの面倒を見る。三文判を買い集め、仮領収書を偽造し、現地で人を調達したようにしてスタッフの飲み代をこしらえる。
      湧き上がる不安や恐怖心を抑えつけて、必死で頑張りました。スタッフにバカにされたら仕事はできない。ものに動じない自分を演出しようとしました。お前には無理だと言われるのが怖くて、自分の気持ちを抑えつけました。
      そのお陰か、某医薬品会社のCM撮影で五島列島を訪れたときは、技術部のスタッフから制作部のデスクへ、今度の制作はよくやってくれたと感謝状さえ来ました。制作部の朝礼のとき、みんなの前でそれが発表され、本当に晴れがましい思いをしたものです。
      そんなとき、某農耕用トラクターの仕事でこの浅間山麓を訪れ、あの事件を起こしたのです。
       

      自分のことを振り返ってみたくなりました vol.2

      2010.03.13 Saturday

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        新世界と通天閣
                   (日本写真専門学校の裏は新世界につながっていた!)


        三、くすぶり続ける不安

        不安は、社会へ出るや形となって噴きだしました。職場へ出るのが怖いのです。最初のうちは社員研修期間があって、学生の続きのような感覚で、結構、楽しんでいました。それが研修も終わり、各支店へ配属されるようになると、じわじわ、不安が形をとりはじめたのです。最初の兆候は、一人で外へ出たときです。自宅方面へ向かうバスを見ると、矢も盾もたまらず帰りたくなるのです。
        「俺はおかしいんじゃないか。マザコンでもあるまいし……」
        最初は冗談交じりに、自分に言い聞かせていましたが、組合員研修のとき、冗談ではなくなってきました。
        協会か、連合会か、何か知りませんが、銀行の新入社員が集まって、京都で一泊二日の組合員研修がありましたが、私は、その合宿会場から脱走したのです。
        私はその原因を、組合という組織のせいにしました。
        最初のうち、研修は、全体が一つに集まり、赤旗の意味や団結の意味などについて講演があり、「インターナショナル」や「頑張ろう」などの労働歌を合唱させられました。ところが、宿舎に入り、各組合別の研修に入るや、言うことが違うのです。
        「先ほどは、全体ということについて話があったが、本当は、全体はどうでもいい。我々の勤める職場がよくなればいい、そこに勤める我々の暮らしがよくなればいいんだ」「ほかの銀行はどうでもいい」と、はっきり、言い切ったのです。
        非常にショックでした。
        小学生の頃、選挙がらみで運動員の人たちが、地区の役をしている父のもとへ、缶詰や何やかやを挨拶がわりに持ってきたことがありました。その場にいた私は、不正の臭いをかぎ取り、受け取ろうとする母に猛烈に反対したことがあります。でも、運動員の人たちは、「そんな大げさなもんじゃないから」と、しきりに説得します。しかし、私は受け付けようとはせず、母親に「受け取るな」と言うばかりです。
        ああだこうだのやり取りの後、結局は受け取ることになり、結局は、「そんな大げさなもんじゃないから」と、自分に言い聞かせ、その缶詰を食べておりました。
        自分の弱さをまざまざと見せ付けられた気がしましたが、あのとき以来のショックでした。
        でも、本当は、そんなこともどうでもよかったのかもしれません。要は、私がそこにいるのが嫌になったということであり、家が恋しくなって、もっと言えば母親がそばにいないことが不安で、そこから夜陰に乗じて脱出したのです。
        それは何も、組合員の方の言動に問題があったわけでも何でもないんです。そこにいるのが不安になって、宿舎を脱出したに過ぎない、それを自分の受けたショックのせいにして取り繕おうとしている自分のほうが問題でした。
        以来、私は、組合活動に協力的ではないと見られ、メーデーなど、組合活動には否応なく参加させられるようになりました。
        この兆候は次第に大きくなり、組合ばかりでなく、銀行に出社するのさえ不安になってきたのです。私は、それを自分のせいだとは思いませんでした。銀行が合わないと思ったのです。やたらに高い天井、威圧的な内装、窮屈な締めつけるような雰囲気、それが私に合わないんだと思いました。
        そこで入社七ヶ月目に退職を決意、辞表を支店長宛てに提出しましたが、受理されませんでした。「親に相談していない」「辞めてどうするか、その後のビジョンも持っていない」というのが、受理できない理由だと言いました。「自分がどうしたいのか、それが決まってから辞表を出しなさい。それまでは、ここにいるべきだ」とも言ってくれました。
        まさに、その通りでした。私は、何がやりたいんだろう。どうしたいんだろう……。
        出てきた答えが映画でした。映画がやりたいんだと思いました。では映画をどうしたいのか。作りたいのか、配給したいのか、それとも批評したいのか。
        私の足は、梅田にある東宝関西支社に向かいました。支社長をつかまえ、映画の世界で働きたい旨、ストレートに話しました。支社長は、大学へ行くことを勧めてくれました。このまま無理して映画の世界へ潜り込んだとしても苦労するだけだと言うのです。作るにしても、配給するにしても、まずは大学を出ろというのが、支社長のアドバイスでした。
        しかし……自信がありません。高校は商業学校、受験勉強だってしていません。そのうえ致命的なことに、勉強が好きではありませんでした。そこで思い付いたのが、日本写真専門学校、映画技術学部への入学でした。
        理由はできました。入社一年目、両親にも相談し、進学を理由に、再度、辞表を提出したのです。こうして、自分の中にある、わけのわからない不安はそのままに、銀行マンから映画マンへと一歩を踏み出したのです。


        四、意気地なしの自分

        写真専門学校は二年制の専門学校です。一年で写真の基礎を収め、二年目はそれぞれの専門分野、つまり私たちの場合は映画技術について学ぶことになります。その際、実習と称して、撮影所やプロダクションで実際にアルバイトをしながら学ぶ機会が与えられます。ただ、私などのように金のない人間は、二年目を待つことなく、一年目のうちから個人的にアルバイト先を見付け、働かなければなりません。
        私は友達の紹介で、読売テレビでニュースの編集助手をすることになりました。当時、11PMという夜の番組があり、その番組中にニュースの時間が挿入されているのですが、私たちの仕事は、その時間まで待機し、もし、その間に事件が起これば、エディターの助手として撮影フィルムの編集作業を行うというものです。
        実際の仕事は、まず編集テーブルというものがあって、そのテーブルを挟んで二脚の椅子が向かい合っており、一方にはエディターが、一方には編集助手が向かい合って座ることになります。エディターの前には編集用のプロジェクターが置かれ、助手の前にはスプライサーが置かれています。エディターは、プロジェクターで映像を確認しながらフィルムをカットしていきます。カットされたフィルムは、助手の前に並べられ、助手は、その順番にしたがって、スプライサーでそのフィルムをつないでいくのです。
        まず片方のフィルムをスプライサーに固定し、その乳剤面を糊代部分だけ削り取り、その部分にフィルムセメントを塗ります。素早くもう片方のフィルムを、その部分に圧着すれば、フィルムベースが溶け合って、接着されるという寸法です。
        こう書くと、簡単そうに聞こえますが、これが、なかなかうまくいかないのです。確かに落ち着いてやれば、至極、単純な作業です。練習のときは、完璧に仕上がります。つないだフィルムは、捩じろうと、引っ張ろうと、いっかな外れるものではありません。
        ところが本番になると、あたりの雰囲気が一変します。一瞬一秒を争い、まるで戦場のような壮絶さが漂うのです。
        私は元来、のんびりしたというか、おっとりした性格で、母親なども、あまりのおっとりさ加減に、おかしいのではと心配し、知能指数の検査を受けに行かされたぐらいです。中学校の新入学の際も、新しいクラスへ行くと、特種学級から迷い込んできたのではと間違えられたこともありました。
        そんな性格のせいでしょうか、本番のときの、あの緊張感と喧騒に耐えられないのです。エディターの前に座ると、身体が硬くなり、白手袋をはめた指でフィルムが取れずあせりだします。エディターの罵声が飛びます。こうなると、もういけません。わけのわからない恐怖感が起こり、身体が動かなくなり、自分が何をしているのかもわからなくなります。そして、こんな状態でつないだフィルムは、接着部分に気泡が生じ、すぐ剥がれてしまうのです。

        くそーっ、スプライサーが動かない。接着面に空気が入り、フィルムが剥がれる。奴の大声が飛んでくる。「馬鹿野郎ーッ」って。
        こんな繰り返しです。
        仕事のないとき控室にいると、奴が顔を出す。控室を見回し俺を見つけると、「編集室へ来い!」と声がかかる。暇なときに練習をさせ、なんとかしてやろうという思いはわかる。しかし、あいつは、意地になったように容赦なくフィルムを切り刻み、俺の前に並べていく。つながなければ、早くつながなければ……切り刻まれたフィルムが容赦なく増えていく。早く、早くと、あせればあせるほど、手が動かない、順番がわからなくなる。早く、早く……
        「馬鹿野郎!」と、また怒鳴り声……
        やめたい。こんなところ、辞めたい。こんなとこ、さっさと逃げ出したい。でも、辞めたら何と言われるか。この世界に向いていない。女でもやっている。意気地なし……。
        でも本当に怖い。大声を出されると、なぜか体がガチガチになり、震えが止まらない。こんなこと口にしたくない。死んだって口にしたくない。弱い奴だと思われたくない。根性なしだと思われたくない。
        平静を装うんだ。……でもいやだ、もう、こんなとこにいたくない。
        後ろ指をさされない理由をつくるんだ。

        結局、私は右手の怪我を理由に読売テレビのバイトを辞めました。怖くて辞めたと思われたくありませんでした。この仕事に向かないから辞めたと思われたくなかったのです。あいつには無理だと思われたくなかった。だから、右手を怪我したって嘘をついてしまいました。
        後に大きな屈辱感と敗北感が残りました。みんながやっているのに、みんなが我慢してやってきた道なのに、女の子だってやっているのに……。自分は駄目な人間なのか、自分は弱い人間なのか、こんなこと話したくなかった。死ぬまで隠し通そうと思った。でも訳も分からず怖かった。大声を出されると、必要以上に緊張し、恐怖感が湧き上がってくる。
        もう二度と繰り返すまいと決心しました。死ぬまで、このことは誰にも話さないでおこうと思いました。強い自分を演出するんです。周りに気を配り、素早く機敏に行動できるようにしなければ。何を言われても、余裕をもって笑っていられるような自分。そんな自分を作りだそうとしました。
         

        自分のことを振り返ってみたくなりました vol.1

        2010.03.12 Friday

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          嬬恋村のキャベツ畑
                               (嬬恋村のキャベツ畑)

          第一章 浅間山麓で

          一、撮影現場放棄

          午前四時過ぎ、吾妻線の大前駅に到着する。無人駅のホームには、始発列車が出発のときを待っている。
          私は追ってくる人間がいないか、そっと回りを確かめると、列車の中に身をすべらせるようにして入った。席に着くと、窓の外から見えないよう、シートに身を横たえ眠ったふりをする。あとは動き出すのを待つだけだ。
          でも、この列車はいつ出発するんだろう……。
          旅館では、もう誰か気付いただろうか。気付けば、まず駅を捜しにくるだろう。
          早く動け、早く動け。
          少し首をあげ、窓の外に目をやる。少しずつ明るさを増してくる風景。でも人影はなく、あたりは静まり返っている。
          まるで、山の緑までが息をひそめているかのようだ。
          どれぐらい経ったろうか、車内に案内のアナウンスが流れ始める。
          早く動け、早く動け、早く出発してくれ……。

          悪い夢から覚めたとき、「あー、夢でよかった」と思うときがあります。同じように、夢を見たわけでもないのに、「今は違うんだ。何も怖がることはないんだ……」、そんなふうに思って、なぜかほっとする瞬間はないでしょうか。世界史の教科書や参考書に表れた残酷な中世の世界に触れて、いつしか自分が被害者のように思われ、たまらず悲鳴を上げそうになったことはないでしょうか。逆に自分がそんな残酷なことをしていたのではと、不安になったり、自分が許せなくなったことはないでしょうか。
          私もときどき、なぜか不安や恐怖感に襲われ、「今は違う、何も怖がることはない」と、わけもなく自分に言い聞かせているときがあります。最初にそんな感じを持ったのは、四、五才の頃でした。わけもなく不安になって、不安の原因をいろいろ考えるのですが、何も思い当ることがなく、「今は考えないようにしよう」「忘れてしまおう」「それより何か楽しいことを考えよう」と思ってしまうのです。
          中学、高校時代には、頻繁に、もっと鮮明にそんな感じを持つようになりました。そんなとき、私の行き着いた結論は、いつだって「今は違う……」だったのです。何に対して今は違うのか、何も分かってはいません。ただ「今は違う」、そう思ってホッと安心するのです。今はもっと楽しいことに心を向けようと……。
          社会へ出てからは、そんな感覚は長く忘れていたつもりだったのですが、今になって思えば、私が、あの北軽井沢の撮影現場から蒸発したのは、たしかに忘れていたあの不安感に突き動かされてのことだったように思います。

          あれは某農耕用トラクターの仕事でした。
          そのころ私は、大阪の電通映画社というプロダクションでコマーシャルフィルムの製作進行という仕事をしていました。ロケ地は北軽井沢の嬬恋村。ディレクターをはじめ、私たちスタッフ八名は、ここ一ヶ月というもの、天候と闘いながら、母親と若い娘二人が経営する小さな旅館に滞在していたのです。農耕用トラクターの一貫した作業を追いかけるため、撮影には、刈り入れから何日間か連続して晴天が要求されます。天気予報を確認し、大丈夫だと判断して撮影を開始しても、なんと次の日は雨、そんなことが何回か繰り返されました。
          そんなある日のことです。
          明け方の三時頃でした。急に不安になって目が開きました。
          旅館の外へ出て天候を確認します。多分、今日は晴れるでしょう。
          でも……
          「いやだ、何とか逃げる方法はないか」
          「何とかこの状況から逃げられないか」
          「怪我をすれば、それとも病気になれば……」
          堰を切ったように、そんな思いが噴き上げてくるのです。
          私は自分を落ち着かせようと、仕事の段取りを頭の中で整理していきます。重文に指定された寺の庫裡での撮影交渉、農地を借り上げての撮影、スタッフの食事の手配、みんな洩れはないはずです。不安の材料はいくら探しても見つかりません。でも、いくら自分に大丈夫だと言い聞かせても、やっぱり怖いんです。なんとか逃げなくっちゃ。何とか逃げる方法はないか。病気になる、怪我をする、いっそ死ねば……
          ああいやだ、俺は何を考えている?

          私はまだ暗い道を駅へ向かって歩いていました。
          スタッフがまだ寝ているのを確認すると、私は制作費の入った封筒にプロデューサー宛てのメモを残し、撮影班の合宿している旅館を抜け出したのです。
          私は誰にも見つからないように、あたりに目を配り、駅への道を急ぎました。
          見つかるな。誰にも見つかるな。逃げるんだ。逃げるんだ。車内では、座席に横になって寝た振りをしろ。外から窓越しに見られないように。あとはこの始発電車が走り出すのを待つだけだ。
          早く動け、早く動け……

          やがて列車は嬬恋を離れていきました。安心と同時に、
          「またこんなことになってしまった。二度と取り替えしがつかない。これから先、どうしたらいいんだろう?」……と、別の不安が湧き上がってきました。 



          二、映画と人生

          わけのわからない不安を激しく感じるようになったのは、たしか高校一年の終わり頃だったと思います。その頃の私は、映画が好きで、映画の中で生きているようなものでした。当時、学生食堂ではカレーが五十円、天ぷらうどんは三十円。母に弁当はいやだからと、毎日、昼食費を八十円もらいます。しかし食べるのはキツネうどん二十五円のみ……。ときにはまるで食べないときもあります。こうして一週間、だいたい四百円程度の金を作り出し、小遣いと併せて、土曜日の午後と日曜日は映画三昧の暮らしをするのです。
          当時、ロードショーでも学割料金は三百三十円。このほか、大阪には、堂島の大毎地下劇場や千日前地下、それに道頓堀の戎橋劇場等々、安い名画座がたくさんありました。おかげで貧乏学生が映画にのめり込むのに、さして経済的な苦労はありませんでした。ところで、私がこんなに映画が好きになったのは、もとをただせば母方の祖母の影響からでした。

          大阪、道頓堀……。
          夜ともなれば、この道頓堀川の周辺は、赤い灯、青い灯で賑わうことになりますが、この道頓堀川を西へ西へとたどっていくと、やがて川は木津川と交差し、ここから尻無川と名前を変えて大阪湾へと注いでいきます。一方、南へ流れる木津川も、途中から西へと進路を変え、これまた大阪湾へと流れ込みます。この、北は尻無川、東と南は木津川に、そして西は大阪湾に囲まれた狭い一角が、私の生まれた大正区なのです。
          ここはまた低地でもあり、しかも擂り鉢の底のようになっているため、水の被害を受けやすく、一旦浸水すると、なかなか水が退いてくれません。子供時代、家が水に浸かるのはざらのことで、川のようになった道を、木場で働いていた叔父が、腰まで水に浸かりながら、私を負ぶって避難してくれたことを、水が退いた後の消毒薬の臭いと共にハッキリと覚えています。
          みんなは、この叔父をヤクザ者だと言います。武勇伝の多い人で、部屋には、自殺者や水難者の人命救助の表彰状がところ狭しと掲げられており、博打や何やかやで逮捕されるたび、その表彰状と交換に釈放されたと言います。
          叔父は早くに亡くなり、顔も覚えていませんが、ずいぶん、かわいがってもらったということや、手首に縄をかけられ連れていかれる姿を、話に何度も聞き、今もそのことを思うたびに、背中に負ぶされ水の中を行く、その後ろ姿だけが浮かび上がってきます。
          ところで、私たち親子は、当時、母方の叔母の二階を間借りして住んでおりました。市電の走る電車道から少し入ったところに路地があって、この路地の両側に、二階建ての長屋が軒を連ねています。この一軒が私たち親子が間借りしている叔母の家であり、その二軒隣もまた別の叔母の家なのです。したがって二階の窓から屋根伝いに往き来することができ、よく屋根伝いに従兄弟たちのところへ遊びに行ったものです。
          そのうえ、ここから歩いて五分ぐらいのところには、母の実家があります。もともとは山口の萩にあったそうですが、どんな事情があったのか、祖父の代に一族挙げて大阪へ移り、この三軒家の、昔、紙問屋をしていた家を買い取り、住み着くようになったということです。ここにも兄弟のようにしていた従兄弟がおりました。
          もちろん、従兄弟以外にも遊び友達がいないことはなかったのですが、あるとき、この一角から、急にみんな、いなくなってしまったのです。
          みんな、幼稚園に行くことになったのです。
          私が生まれたのは、昭和二十三年、戦争が終わって、第一次ベビーブームのピークの頃でした。幼稚園も、学校も、すべてが不足していたときです。後のことですが、私が入学した三軒家西小学校では二部授業が行われていました。朝から行くクラスと、昼から行くクラスの二部に分けられ、それが一週おきに入れ替わるのですから、ややこしくて仕方ありません。週初めの月曜日にはよく間違えて登校し、給食だけを食べて帰ったことも何度かありました。義務教育の小学校にしてこれですから、幼稚園に至っては、その絶対数が足りず、抽選で入園できるかどうかが決められたのです。
          そして、この地区では、どういうわけか、私だけが抽選から漏れたのです。
          この路地に、私一人が取り残されることになりました。しかし、幼稚園は一日やっているわけではありませんので、午後には、また顔ぶれが揃うわけですが、話が合わないというのでしょうか、一人だけ幼稚園に行っていない引け目からでしょうか、従兄弟たちを除いて、いつしか誰とも遊ばなくなっていました。
          そんな私が一日を過ごすのは、ほとんど祖母の家です。母はなぜか留守がちで、抽選で幼稚園にも行けなかった私は、昼間は遊び相手もなく、いつも祖母の家に足が向いてしまいます。この祖母が芝居と映画が大好きでした。
          「敏明、活動(映画)行こか」と、よく映画に連れていってもらいました。

          私の家(叔母の家)の隣は駄菓子屋で、夏は外に、大きなホーローの入れ物に冷やし飴が入れられ売られていました。そのホーロータンクに、いっぱいの水滴がついて、いかにも冷たそうで、いかにもおいしそうで、よく五円をねだっては駄菓子屋に走ったものです。その駄菓子屋を通りすぎ少し行くと小学校前の道に突き当たります。この道を右手の電車道のほうに折れますと、「相生座」という古い映画館があります。普段は映画がかかっていますが、旅回りの芝居一座が来ると、これが芝居小屋に早変わりします。
          一座が来ると、祖母は、私を連れて相生座へと向かうのです。もの心ついてすぐ、はじめて芝居というものを目にした私は、驚いたのと怖いのとで、とうとう火がついたように泣き出してしまいました。目の前に異様な世界が開け、顔を真っ白に塗った異様な人物が動き回り、しかもその人間が舞台から客席に向かって降りてくるのです。そして、席があいていた私の横に座ったのです。
          今、思えば、異様な人物は「国定忠治」に扮した役者で、客への愛想で舞台から客席へ降りてきたのでしょうが、私にとっては、本当に怖くてたまらない体験でした。私に泣かれてから、祖母は私を芝居へ連れていくという無謀は、できるだけ避けていたかのようです。その分、映画通いが多くなりました。なぜか映画は怖がったことはなかったようです。
          小学二年のとき、南河内郡東陶器というところへ引っ越してきました。もう近くに私を映画に連れていってくれる人間はおりません。母に「映画に連れていってくれ」と頼みますが、それもなかなか……。そこで一人で映画へ行くことを覚えました。三軒家にいたときも、母の入れ知恵で、相生座へ一人で潜り込んだ経験もあります。劇場の切符切りの女性に、「中に母がいるから」と入れてもらうのです。
          ただ、この方法には一つの大きな欠点がありました。劇場を出るとき、もちろん母と一緒ではなく一人で出るため、バレはしないかという緊張と、何がしかの罪悪感をともなうことでした。
          それはともかく、こんな経験のため、一人で映画へ行くことは何でもありませんでした。あとは経済的問題です。これは映画の招待券が解決してくれました。近くに福田マーケットがあり、ここで買い物をすると、金額によってクーポン券がもらえるのです。私は買い物の用事をできるだけ引き受け、このクーポン券集めにせいを出しました。台紙にそのクーポン券を貼っていき、裏表いっぱいになれば、北野田の駅前にある映画館の招待券と換えてくれるのです。
          東映の「少年探偵団」や「風雲黒潮丸」、東宝のSFもの「地球防衛軍」や「大怪獣ラドン」、それに「美女と液体人間」……。嵐寛寿郎の「明治天皇と日露大戦争」、石原祐次郎の「嵐を呼ぶ男」、日本初のシネマスコープ作品「鳳城の花嫁」も、この方法で見ることができました。三本だての映画を昼抜きで二回も見、劇場を出るころには空腹と割れるような頭痛を覚えることもしばしばでした。

          やがて高校時代を迎えるや、映画狂いはピークを迎えます。
          が、この頃からある種の不安を覚えるようになりました。映画館の座席に腰を落とすと、何かそわそわするのです。宿題を忘れていて、それに気付かないでいるような感覚、何かしなければならないのに、それをしないで先延ばしにしているような感覚、それも進んでしたいことではなく、何とかやらないで済ませればと思っているようなこと……。映画館に入る前は、早く並んで席を確保しなければとか、どんな映画だろうとか、なんやかやで、そんなことを思いつく暇もないのですが、座席に腰を落とし一息つくなり、そんな感覚が湧くように出てきて、とても落ち着かない気分になります。
          よく考えよてみよう……。やり残している宿題はない。英語の時間に英訳を当てられても答えられる状態になっている。あの教師は順番に当てていくから、自分の当てられるだろうと思う前後は、みんな、英訳も完了させている。何も忘れていることはない。
          でも何か不安で、とても落ち着かない気分になってきます。「何もない、何もない」と自分に言い聞かせ、これから映画を見るんだ。映画のことを考えよう。映画を十分楽しもうと、気持ちを映画に振り向けます。
          ところが、映画が終わりそうになってくると、映画が終わること自体が不安で、映画館から出ていくことが不安で、このまま時間が止まらないかと思ってしまうのです。こうして二件目の劇場へ足が向くことになります。
          そんなことを繰り返すうち、何か空しいものを覚え、「こんなことをしていてはいけない。何かしなければ……」という思いにつき動かされるようになりました。それも何か楽しいことに没頭して、それが終わってしまったとき、その刹那、何とも言えない不安感、空しさ、「こんなことをしていては……」という焦燥感が一気に押し寄せてくるのです。
          そんなとき、ごく自然に何かを書こうと思いました。
          文章を書くのがそんなに好きなわけではありませんが、何か書かなければ、何かを書きたいと真剣に思うようになりました。かといって小説は自信がありません。そうだ、同じ映画が好きなら、シナリオを書こうと思い立ったのです。早速、週二回、高校が退けてから、天六の労働会館で開かれているシナリオ学校へ通い始めました。
          半年も通ったころでしょうか、作品を提出することになりました。以前から習作のため、死んだ兄と残された弟の、次元を超えた交流を描いた「一枚の銅貨」なるものを書いていましたので、それを提出することにしました。ところが、これがテキストに選ばれ、これをもとにディスカッションするということになったのです。
          考えただけで耐えられそうもありませんでした。自分の書いたものについて意見を述べ、それを人がとやかく言う。絶対にいやだと思いました。そう思ったら、シナリオ学校へ行けなくなってしまいました。あの夜、天六の労働会館では、被告のないまま欠席裁判が開かれたことでしょう。でも、その結果も知ることはありませんでした。
          それでも懲りずに、シナリオだけは書き続けました。そして、「青春」という、ベトナムに武器の密輸出をする貨物船に乗り込んだ青年の夢と挫折を描いた作品を書き、シナリオコンクールに応募したのです。そのときは最終審査まで残り、ひよっとしてと思いましたが、結局、選外ということになってしまいました。
          こうしてシナリオも、結局、モノにならないまま、高校生活は終わったのです。