五街道踏破?!

2010.06.04 Friday

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    昨年の8月末に「五街道を歩く」という万歩計を購入し、2009年9月2日から使い始めた。まずは東海道53次 495.5kmを歩き、続いて中山道69次 533.9km、甲州街道45次 210.8km、さらに日光街道20次 141.7km、奥州街道26次 191.8km、合計1,573.7kmを、今日2010年6月4日に踏破した。 使用日数275日、一日平均5.7km、歩幅を55cmとして10,363歩の割で歩いたことになる。ちなみに江戸時代の人は平均13泊14日で東海道を歩いている。一日平均35kmを歩いていることになるから、僕としては昔の人の6分の1しか歩いていないことになる。もちろん旅をしている訳ではないので、一概にはいえないが、それにしても情けないことだと思う。

    それはともかくとして、江戸時代の旅行費用はどんなものか調べてみた。
    見当としては、当時、米の値段は4合5勺で約100文、職人の一日の手間賃が334文になるという。(あくまで目安としてであるが、1文≒18円としておおよその雰囲気はつかめるのではないだろうか。)

    ◇まずは旅籠代(旅館代)だが、一泊二食付きで
      上=172〜300文/中=148〜164文/下=108〜140文

    ◇続いて雑費
      草鞋=14〜16文 ※三日に一足を履きつぶす。
      按摩=24〜48文
      酒代(一合)=15〜20文 ※現代では600円〜700円程度
      蕎麦=16文
      うどん(あんかけ)=16文
      昼食(茶店)=70〜80文
      飯盛り女(神奈川)=600文

    ◇駕籠の費用
      四里で600文、酒手が約一割

    ◇渡船の費用(本郷川の場合)
      旅人一人=10文/本場一駄口付=15文/乗掛荷物=12文

    ◇川越人足の費用(大井川の場合)
      股通(またどおし)=48文
      帯下通(おびしたどおし)=52文
      帯上通(おびうえどおし)=68文
      乳通=78文
      脇通=94文
      れん台で渡る場合は、れん台の代金と、それを担ぐ人足の数だけの賃銭が必要。

    川会所の建物内にある料金表
                         川会所の建物内にある料金表

    下呂温泉 朝の散策 Vol.3 白鷺橋のチャップリン

    2010.05.17 Monday

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      白鷺橋のチャップリン像

      つづみ食堂のオリジナルランチ下呂の散策も3回目となったが、今日は下呂は白鷺橋に座るチャップリン氏のことを紹介しておきたい。
      白鷺橋にチャップリン像が誕生したのは、2001年のことらしい。もともとは「ミラクルマイル」事業と称し、観光客が映画について楽しく語らいながら温泉街散策できるような「映画通り」を目指したものらしい。その第一弾として、本場ハリウッドで、「ゴースト・バスターズ」や「アビス」などを手がけた造形アーティスト「スティーブ・ジョンソン」に依頼し、このチャップリン像を完成させたのだという。ただし、この企画は第一弾のチャップリンだけで終わってしまった。以来、チャップリン氏は、この白鷺橋で、いつ来るとも知れぬ映画仲間を待っているという次第。
      今では映画仲間こそ来ないものの、観光客が、彼と並んで写真を撮っていく。なんでも恋人同士が彼を挟んで記念写真を撮ると、その恋は成就する、そんな怪しげな伝説までが生まれてしまった。
      ついでながら、その白鷺橋のそばに「つづみ食堂」というレストランがある。白樺ホテルの1階で営業しているのだが、セミナー参加時、よく昼食を食べにきたものだ。写真は、つづみ食堂特製ランチ。飛騨牛の笹寿司と飛騨牛の串焼き、それに卵麺のセットが580円と超お得。しかも、超うまい! ただし今でもその値段でやっているかは、保証の限りではない。

      さて、これで話が終わると思ったら大間違い。これからが本題となる。
      チャップリン氏と言えば、大の日本びいき。その生涯の間に四度、日本を訪れている。最初が1932年、続いて1936年に二度、最後は戦後の1961年である。1932年といえば5・15事件の起こった年であり、チャップリンは、まさにこの事件に一番近いところにいたことになる。チャップリン自身が襲撃ターゲットの一人に目されていたのだから。続く1936年は2・26事件が起こっており、チャップリンはこの凶報を、日本に向かう途中のハワイで耳にしている。そして事件から8日後の3月6日午前7時、チャップリンを乗せたクーリッジ号は横浜へ到着した。
      三度目の来訪は、同じ年の5月16日のことである。このときの訪日は、舞台芸術家にして詩人ジャン・コクトーと一緒の旅であった。短い旅程であったが、コクトーが日本を離れる際、次のような興味深い観察を行っている。
      「だが、僕は言っておきたいのだ。自殺、つまり国家のため、国家を掌握する天皇のために、個人が喜んで捧げるあの犠牲の力、あれがこの国のすべての微笑、すべての安泰の基礎になっているのだ」と。
      こうしてチャップリンは、このコクトーとともに日本を離れるべく、船のタラップを駆け上ったが、やおら振り向くや、帽子をつぶして、セントヘレナ島へ流されるナポレオンのポーズをとって、見送りの人々をドッと笑わせたという。

      戦争前の騒然とした日本を三度にわたっての訪問。いったい、何を目的としての訪日だったのだろうか。よく言われるのは、チャップリンの秘書は日本人であり、この秘書・高野虎市が勤勉で誠実、この秘書故にチャップリンは日本が好きになったというのだ。
      果たしてそれだけだろうか。平和な時期ならそれも了解できるのだが……。

      ご存じのように、チャップリンはユダヤ人である。もちろんセム族のような血統的ユダヤ人でなく、アシュケナジーといわれるユダヤ教白人種とでもいうべき存在である。その違いはしばらく置くとして、日本の軍部には、伝統的に親ユダヤ派と、ユダヤ民族を謀略民族として敵視する一派とがあった。
      ここで「日本・ユダヤ同祖論」を持ち出すつもりはないが、日本軍部の中に親ユダヤの強力な一派があることは見逃すことはできない。1937年、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口季一郎は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を批判し、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と力説し、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。そればかりか、1938年にはナチスの迫害から逃れたユダヤ人たちがソ満国境のオトポールで難渋していたのを、樋口は食料や衣料・燃料を供給するばかりか、満州国外交部に命じ、満州国通過の許可さえ与えさせたのである(満州国外交部はドイツに気兼ねしユダヤ人の入国を拒否していた)。
      その翌々年、1940年には、日本のシンドラーといわれたリトアニア日本領事・杉原千畝のユダヤ人に対する「命のビザ」発給事件が起こる。杉原は、政府の意向を無視し、独断でビザを発給したことになっているが、果たしてそうであろうか。ユダヤ人たちが日本に到着したとき、先頭に立って出迎えたのは、日独伊三国同盟を締結した張本人・松岡外相だったという。そればかりではない、ソ満国境にユダヤ人の国をつくるという計画が日本陸軍の中にあったことも事実である。日露戦争の莫大な戦費の一部も、アメリカのユダヤ人資本から出ていたということも忘れられないし、上海では、上海憲兵隊が、ユダヤ人を抹殺しようとするドイツ軍の防波堤となったことも、また事実である。

      これらのことを踏まえて、チャップリンの訪日を考えてみると、ただ日本が好きだから……というような薄っぺらな考え方が、かすんで見えてくるのではないだろうか。チャップリンの第一回訪日では、犬養毅首相との面談が予定されていた。それが予定されていた前日に、5・15事件が起こり、犬養は帰らぬ人となった。チャップリンは、その後、犬養の三男・犬養健と面談している。公式な面談以外に隠密理に会っていたことも予想される。というのは、5・15事件の後、5月16日深夜から17日にかけてチャップリンが忽然と姿を消している。芝浦の料亭で豪遊していたという情報もあるが確かではない。チャップリンの第一回日本滞在中、最も謎に包まれた一夜であった。犬養健との密談についてはあくまで憶測でしかないが……。

      ところで、日本びいきのチャップリンだが、下呂温泉を訪れたことはなさそうだ。
      あくまで銅像だけの話だが、それでも白鷺橋に一人さびしげに座るチャップリンを見ていると、ジャン・コクトーの言葉が思い出される。それは先にも紹介した三回目の来日の際、チャップリンが日本を離れるべくタラップを駆け上がる、そんなシーンを思い出していただきたい。

      チャップリンは、船のタラップを駆け上るや、やおら振り向くと、帽子をつぶして、セントヘレナ島へ流されるナポレオンのポーズをとって、見送りの人々をドッと笑わせた。

      こんなチャップリンの様子を船の甲板から見ていたコクトーが、つぶやくように言った。
      「いたるところでわが家のように振舞いすぎるため、かえってどこへ行っても孤独もの」
      (ジャン・コクトー「僕の初旅」)

      下呂温泉 朝の散策 Vol.2 合掌の里

      2010.05.16 Sunday

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        下呂歌合戦の碑

        下呂歌合戦の碑歌塚と歌合戦
        下呂の温泉街を流れる阿多野川沿いは朝の散策にはもってこいの場所だが、阿多野川沿いの遊歩道をさかのぼっていくと、やがて雨情公園にでる。下呂小唄を作った昭和初期の歌謡詩人「野口雨情」にちなんで造られた公園で、清流で遊べるように石畳や芝生が整備され、砂防ダムを利用した滝やしょうぶ池、広場などがある。
        この雨情公園のあたりに、観光客にはあまり知られていないが阿多野川をはさんで「東西の歌塚」がある。東の歌塚は国道41号を東の山側へ行ったところにあり、西の歌塚は阿多野川に架かる六ツ見橋の西の裾にある。 昔、歌合わせ(歌比べともいう)が流行した頃、二人の若者が歌合わせを行い、勝った者が美しい庄屋の娘を娶ることにしたという。二人の若者は、一昼夜をかけて初恋の歌を美しい娘への思いを歌に詠んで競い歌った。しかし、最初のうち美しく楽しかった歌声も、次第に哀調を帯び、悲壮感が漂い、二日目の明け方には、二人の若者共に歌い果てるという悲しい結果に終わってしまったというのだ。
        「たみ」は、これを悲しみ、以来、独り身を続けたというが、いつしかこの東西の歌塚を訪ねて好きな人の名前を念ずると、恋が実るという言い伝えが起こるようになった。
        この故事にちなんで、今も、下呂祭りでは、東西の歌合戦がおこなわれているという話だ。
         
        下呂歌合戦の碑

        ◇下呂温泉合掌村
        さて、雨情公園あたりから川沿いの散策をやめ、右手の道を山手の方に上っていくと、下呂温泉合掌村へでる。温泉街から阿多野川を経て合掌村まで歩いても、往復1時間程度、朝の散歩には変化もあって打ってつけの距離といえよう。

        下呂合掌の里

        下呂温泉合掌村は、旧大戸家住宅をはじめ、白川郷から移築した10棟の合掌造りの民家を配し、往事の生活を知る貴重な屋外博物館になっているという。村内には工芸の体験や伝統の味が楽しめる民芸の里、合掌の足湯、民俗資料館、狛犬博物館、5つのパビリオンで、森の生活文化や下呂の祭りなどを紹介するふるさとの杜があるという。
        機会があれば、追って村内の模様も紹介しようと思うのだが、この時は、早朝の散歩で立ち寄っただけなので、まだ開館もしておらずあいにくと内部は見ていない。

        下呂合掌の里トチの実

        合掌村のみやげ物を売る店に「栃の実せんべい」が陳列されてあり、その前に原料である栃の実が並べられてあった(写真、左)。「このままでは食べられません」の看板が面白い。なぜ食べられないのか、調べてみると、栃の実は渋が強いため、このままでは食べられないということらしい。では、どうしたら食べられるのか。精製して灰汁(あく)を抜くのだという。すると、かすかな渋みとたとえようもない滋味があらわれてくるという。なんと、縄文人もこの方法を知っており、この栃の実を食していたという。
        ついでに栃の実煎餅はどのようにして作るのかというと、栃の実、卵、ざらめ糖、小麦粉など吟味した自然の恵みだけを使い、天然の淡い栃の風味を残しながら、上質の材料で焼き上げるのだという。
        村を出ようとしたとき、
        村の入り口に、栃の木(写真、中央)がポツンと立っていた(写真右は大戸家の合掌造り民家)。時計を見ると、そろそろ7時になる。ちょうど適度に腹も減ってきたことだし、これから宿に帰れば「朝食」の時間という按配だ。
        下呂合掌の里イラスト

        下呂のいでゆ大橋で見つけた「きんさん、ぎんさん」の陶板

        2010.05.15 Saturday

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          下呂温泉_下呂大橋の陶版

          きんさん、ぎんさんの陶版「心を見つめるセミナー」に集うようになって、もう40年近くになるだろうか。人や回りを変えるのでなく、自分の中の闇に気づき受け入れていく。それを言葉や観念でなく、母親の反省を通して実践していく。少し前は、そんなセミナーが全国各地で定期的に開かれていた。
          下呂温泉「水明館」も、そんなセミナーが定期的に開かれる会場の一つだった。
          セミナーに参加しての私的な楽しみがある。それは早朝の散歩だ。いつもより早起きして、温泉にゆったりと浸かり、その後、朝の空気を感じながらの散策。何にも代え難い贅沢だと思う。
          その日、下呂の「いで湯大橋」にさしかかったときだ。ふと見ると橋のたもとには下呂温泉の石碑の横に温泉が湧き出る石づくりのモニュメントがある(上の写真左)。そして橋の下の河原には露天風呂がしつらえてある。夜には、観光客だろうか、男連中が浸かっているのを見たことがあるが、朝の散歩では出くわしたことがない。橋を渡りながら、今日はどこへ歩こうかと考えていると、橋の歩道部分にぎっしりと敷き詰められた「手形」の陶板が目に付いた。観光客や地元の人たちが記念に焼いた陶板が、橋の装飾に一役かっているという案配だ。
          何か気の利いたおもしろそうな陶板はないかと、早速、物色にかかった。すると「きん」「ぎん」と書かれた、二枚の小さな手形の陶板を見つけた。ひょっとして「きんも100歳、ぎんも100歳」で有名になった、あのきんさん、ぎんさん……? 気になって、土地の老人らしき人物に疑問をぶつけてみた。はたして「100歳、100歳」のきんさん、ぎんさんの手形だということが判明した。
          記録的な長寿で話題となった双子、成田きんさん、蟹江ぎんさん。1992年2月には、「きんちゃんとぎんちゃん」(作詞:松本礼児、作曲:穂口雄右)という曲でCDデビューを果たしたばかりか、この曲はオリコンで39位を記録し、オリコン史上最高齢でのチャートイン記録となった。
          そのお二人も、きんさんが2000年1月23日に心不全で亡くなり(享年109歳)、翌2001年2月28日には、ぎんさんが老衰で亡くなった(享年110歳)。手形の陶板だけは、今も下呂の「いで湯大」橋に張り付いているが、やがて誰のものとも分からなくなるのだろう。転生されたどちらかが、ひょっとして何も知らず、この陶板の上を歩み去っていくのかも知れない。

          陶版「印刷の文化」

          「ほかに、おもしろいものは……」と探していると、地元の印刷会社の「印刷あり文化あり」の陶板に出くわした。当時は、デジタル化という言葉も、印刷業者にとって驚異ではあっても、今ほどの深刻さはなかったと思う。それがアメリカでは、印刷本より、eブックなどのデジタル本が人気があるという。日本では、まだまだ普及していないとはいえ、アイパッドの販売を機に「出版」の世界も大きく変わっていくように感じられる。これから20年先、30年先に、印刷本は生き残っているだろうか。きんさん、ぎんさんのように、文化の担い手という役割を終え、この世から消えているかもしれない? そんなとき、この「印刷あり、文化あり」という陶板を見て、人は何を思うだろうか。
          「汽車のうんてんしゅさんになりたい」という3才の子供の陶板がある。その汽車も、役割を終え、なくなってしまった。

          年金相談は自転車に乗って

          2010.04.21 Wednesday

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            高田川沿いを走る_ボタン桜01

            仕事の合間を縫って高田の厚生年金事務所に行ってきた。「いつから年金を貰ったらいいのか?」「貰う時期によって年金の額は変わるのか?」「現在、収入があったらダメなのか?」そんな漠然とした疑問を、この機会に確認しておきたいと思ったからだ。幸い、今日は春の日差しが戻ってきたかのような天候となり、自転車を走らせるにはもってこい。

            高田の厚生年金事務所は、僕の家からだと、高田川に沿って近鉄高田駅に突き当たるまでひたすら走る一本道、おおよそ30分の行程で着く。高田川沿道の桜は散ったものの、八重桜と菜の花がサイクリングコースに色を添えてくれる。川沿いの景色は、急いで走るにはもったいないようなうららかさだった。

            高田川沿いを走る_タンポポ綿毛

            家を朝8時過ぎに出発し、途中、高田川沿いの風景をカメラに収めるなどしながらのんびり走ったものの、それでも8時50分には目的の大和高田厚生年金事務所に到着した。9時からの営業だと思っていたのだが、着いてみればすでに8時30分からやっていることがわかった。

            高田厚生年金基金事務所建物の中に入るなり、女性職員が「おはようございます。今日はどんなご用ですか」と親切に対応してくれる。「年金相談なのですが……」と答えると、「順番をとりましょう」と僕に代わって整理番号札を取ってくれる。相談窓口は、6カ所ぐらいあったと思うが、どの席も埋まっている。待つこと、おおよそ5分ぐらいだろうか。その間、手渡されたアンケート用紙に、今日来た目的や、氏名・住所、基金番号を記入していると、待つ間もなくすぐに順番が回ってきた。

            とっさに何を訊いていいかも分からず、「いつから年金は貰えるんですか」の第一声。我ながらあまりに唐突な言いようではある。
            相談に当たってくれた女性職員は、僕の年金手帳を手に取るや、左手のパソコンで調べながら、「去年退職されているようですが、まだ年金は貰われていないんですか」と訊いてくる。「エッ、もう貰えるんですか? 個人的に出版の仕事をまだ続けているんで、わずかでもまだ収入があるんですが……」と僕。「関係ないです。社会保険をやめた時点から、受け取ることができますので、はやく手続きをしてください。待ったから金額が上がるという訳ではないんです」。彼女は、そう言うと、手元の用紙に何かを書き出し、それを僕に見せながら「今なら、年間、これだけの金額が、社会保険をやめた時点までさかのぼって出ます」。彼女は説明しながら、もう一枚の紙に別の金額を記入し、「64才になられた時点で、支給額はこうなります」と、その用紙を差し出した。見れば倍近い金額になっている。私の驚きやとまどいにに関わりなく、相談に乗ってくれた女性職員は、手続きのために必要な書類の説明をはじめ、「早く書類をそろえて手続きをしてください」と、相談をうち切った。
            何も分からない僕を相手に、てきぱきとわかりやすく実に見事な対応だ。質問する間もなく、明快な回答を展開してくれた。
            かくして本日の目的は達成され、僕は、意気揚々と年金事務所を後にした次第である。

            高田川沿いを走る_菜の花

            帰り道の高田川の景色は、一段と冴えわたって見えたものだ。川辺の菜の花に、思わず「菜の花ばたけーに入り日うすれー」と、人気のないのを幸い歌っている自分があった。

            「菜の花畑」といえば、昨年、取材で埼玉の神社関係者大会に出席したことがある。もちろん、僕は関係者でもないし、初詣もしないタイプの人間なのだが、どうしても最後の仕事に、元皇族の竹田恒泰さんと会わなければいけなくなった。お忙しい方なので、講演の合間を縫って会おうということになったのだ。それが「埼玉県神社関係者大会」だったのだ。その会場で、講演前にジャズシンガーの女性による唱歌の独唱があった。それが「ふるさと」と、この「菜の花畑」だ……。歌手の方の名前は知らないのだが、心にしみ込んでくるようなストレートな歌い方だった。とっさのことで、「ふるさと」は聞き込んでしまい録画できなかったが、後の「菜の花畑」は手持ちのデジカメを動画モードにして撮影した。「菜の花」の話題が出たついでに、はじめて動画をアップしてみた。歌声もさることながら、神社関係者の「おじさん」や白いひげの「お爺さん」が、若い女性のリードで、合唱するその雰囲気を楽しんで欲しい。神主さんも、やはり普通の人の良い「おじさん」や「お爺さん」だったんだなあと、そのとき、つくづく思ったものである。
            年金の話からだいぶ逸れてしまった。陳謝。

            昼休みに桜を見ながらペペロンチーノ

            2010.04.10 Saturday

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              事務所前の公園で

              事務所のすぐそばにゆったりした公園がある。 上の写真は、その公園から見た風景だが、その公園の桜が、今、散り際。最後の桜を楽しむべく、今日、事務所で昼飯を用意し、昼休みの花見としゃれこんだ。
              まず、ダイソーの100円ショップで買い込んだレンジ用スパゲティ茹で器で、通常の茹で時間プラス4分間、つまり12分間、電子レンジでスパゲティを茹でる。茹であがったスパゲティに「宗家にんにくや」特性の「和風ペペロンチーノ」の素を混ぜあわせる。その際、お気に入りのチョリソーとマッシュルームをあらかじめ炒めておき、それも一緒に混ぜ合わせ、タッパに移して粉チーズを振りかけ蓋を閉める。さらにデザートとして「明治十勝カマンベールチーズ」切れてるタイプ一切れ(17g)を用意。ワインは1杯分(180g)が紙パックに詰められた楽園ワイン(100円)。これで準備完了。
              以上の昼飯をナップサックに詰め込み、徒歩3分の公園へとやってきた。

              桜と和タンポポ02

              見晴らしのいい場所に座り込み、おもむろに用意した昼飯を広げる。公園にはすでに何組かの先客が、弁当持参で花を楽しんでいた。紙カップからストローでワインを飲むなどというのは如何にもいただけない。ちゃんとワイングラスを持参している。100円のワインも、グラスに移し、のんびりした風景の中で楽しむと、どんな上等のワインにもひけを取らない味わいとなる。たっぷりのオリーブオイルが利いたペペロンチーノもとてもインスタントとは思えない。花吹雪が降りかかるのもまた何とも言えない。とても仕事の合間の昼休みとは思えない。

              和タンポポ

              食事が終わり、カマンベールチーズをかじりながら、脚下照顧とばかりに座り込んだ場所を見てみると、散った桜の花びらを縫うように一面にタンポポが咲き乱れている。萼(がく)を見ると「和タンポポ」だ。別名関東タンポポともいう。最近は、舶来の西洋タンポポが主流で、昔住んでいた千里でも、和タンポポが少なくなり西洋タンポポが幅をきかせていた。和タンポポは西洋タンポポに比べ小ぶりで、萼がピンと襟を正すように上を向いている。それに比べ西洋タンポポは、萼がだらしなく垂れ下がっている。野の花とはいえ、和タンポポには気品がある。その和タンポポの上に腰を下ろしていたとは……。申し訳ないかぎりだが、とはいえ、やむを得ないことであろう。良い場所と時間を提供してもらったことに礼を言って去るしかない。最後に持っていた携帯で、和タンポポと桜を写真に撮らせてもらった。携帯だから、手前のタンポポにピントを合わせ、後ろの桜をぼかして……等という器用なことはできないが、それでも、タンポポや桜への自分の思いを込めた写真が撮れたと喜んでいる。

              桜と和タンポポ04

              桜と和タンポポ03

              歴史関連のブログに徹する等と言いながら、また路線からはずれてしまった。陳謝。

              ゴロとトマ子を連れて朝の散歩 −牧野(ばくや)古墳−

              2010.03.30 Tuesday

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                ゴロとトマ子とボクの影3月末だというのに、今日もずいぶんと冷え込んでいる。でも、ゴロとトマ子を連れて外へ出てみると、冷たい大気にあたたかい日差しが降り注いで、これからあたたかくなる予感。
                その温められつつある空気の中を、ゴロとトマ子を従え朝の散歩に出発する。
                今日は、冷たい空気の中にも、春の匂いのする景色を拾い集めてみようと思った。拾い集める道具は、携帯電話のカメラ……ところが、いきなりハプニング発生。朝の日差しの勢いの前に、携帯カメラのモニターがほとんど何も見えない状態。仕方がないので、モニターで確認せず、これと思った被写体にカメラを向け、勘をたよりにパチパチと撮り続ける。まずは僕たちのシルエットに向かって、
                「ハイ、チーズ!」

                なんの木?向かうは、ネズミさん公園を経て、牧野(ばくや)古墳、通称ウマさん公園。ここは以前にも紹介したが、押坂彦人大兄皇子の墓と言われる6世紀の円墳。この古墳の山を東から登り、頂上で南に折れ、西に二上山を見ながら下っていく、歩数にして約3000歩、ほぼ1.5キロの短い行程。さて、この間、どれだけ春の匂い、春の景色を集めることができるのか?
                あった! ネズミさん公園の近くに真っ直ぐ天を目指すピンクの柱……しかし、悲しいかな、この木がどんな名前で呼ばれているのか知らない。「名もなき花と言うばかりなり」か。「違う、違う、名前はちゃんとあるよ、あんたが知らないだけでしょ!」そんな声が聞こえてきそうな……でも、木はどこまでも優しく、そんな叱り声はついに聞こえてきませんでした。

                牧野古墳のサクラ

                こうしてネズミさん公園を通り抜け、牧野古墳に到着。古墳の東斜面は、サクラの花がほぼ満開状態。ところが頂上に登り、西側の斜面を見やると、サクラの木はたくさんあるのだが、どれも花どころか、堅いつぼみを閉ざした状態。古墳西側斜面は春まだ遠しといったところか。
                頂上でゴロとトマ子をリードから解き放してやる。
                2匹して走る、走る、その早いことといったらない。以前なら、こんな状態になったら収拾がつかないのだが、今では、呼び声を聞きつけるや、2匹が先を争って戻ってくる。

                ゴロとトマ子が牧野古墳を疾駆
                               (牧野古墳頂上付近を疾駆するゴロとトマ子)

                サクラにウグイス

                ゴロとトマ子が走り回っている間、鳥の鳴き声に上を見やると、「梅にウグイスならぬ」「サクラにウグイス」。大慌ててで携帯カメラを向け、めくら撃ちにシャッターを押し続ける。帰ってチェックするや、かろうじて一枚だけウグイスの写された写真があった。あとはぶれていたり、枝ばかり写っていたり……何はともあれ、一番春らしい写真ではないだろうか。
                以下、家に帰り着くまでに写した春らしい写真を列挙して、この稿を終えることとする。

                牧野古墳 朝の風景

                二上山雄岳に大津皇子の墓を訪ねる

                2010.03.08 Monday

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                  二上神社口近くの駐車場二上山雄岳登山

                  2月から4月にかけての時期は、自分にとって不思議な時期だと思う。というか自然の成り行きとでもいうのか、花粉症とか様々な苦しいことが、この時期に一度に起こるかと思うと、逆にその中から新しく芽生えてくるような何とも言えないエネルギーというか生命力のようなものが身体の奥からわき上がってくるのを感じる。格好をつけて言うなら「死」と「再生」とでも言うような感覚。「意識が戻らないままこのまま死ぬんでは……」そんな風に落ち込んだかと思うと、自分の中からせり上がってくる生命の息吹のような力を感じる……それがこの時期だ。

                  そんなことを感じるまでに、つまらないことをクヨクヨと思いつめることがある。今年に入って2月末のこと、アレルギー性喘息で咳き込みながらではあったが二上山雄岳に登った。雄岳には「大津皇子の墓」があるという。違うとも言われる。二上山麓の鳥谷口古墳こそが「大津皇子の墓」だとも言われる。どうしても自分で確かめたかった。鳥谷口古墳へは昨年秋、自転車を転がして行ってきた。二上山へも登って確認したい、そんな思いに突き動かされてどうしようもなくなり、意を決して二上山雄岳に登った。
                  携帯用ポットに熱湯を用意し、カップラーメンと共にナップザックに詰めるや、事務所を11時に出発した。自転車で走ること20分余り、二上神社口へ着く。二上神社口から雄岳を目指すコースは時間がかからないが、かなり急な登り坂の連続となる。當麻から登るコースがゆったり穏やかなのとは正反対の、いわば陰と陽の陰に当たるコースだ。
                  自転車は、近鉄「二上神社口」の駅から少し山手に入ったところに無料駐車場(一番上の写真)があるので、ここに駐輪し、神社横の登山口から登頂を開始する。登山口入り口は猪除けのフェンスで塞がれているので、これを開けて中にはいる。30分くらい歩くと休憩用のベンチが用意された場所に出る(写真)。運動不足の身体は既に汗だく。ここで少し早い昼食とする。カップラーメンをすすり、ペットボトルのお茶を飲むや体力も回復し、ベンチ横に見える鉄梯子を山肌に打ち込んだ急な登りも、自分を邪魔する道具でなく、導いてくれる道具に見えてくるから不思議だ。

                  こうして約1時間の山歩きで、目的の雄岳山頂に到着した。途中「山頂では入山整備料が必要」と書かれた看板があったが、シーズンではないためか、料金を取られることもなかった。
                  山頂の横手には目指す「大津皇子の墓」が宮内庁の掲示板とともにあった。墓域を一回りし、写真におさめる。静謐としており、物狂おしい感じもなく、空気が静まりかえっていると言った感じ。
                  折口信夫が大津皇子をモデルに描いた「死者の書」のおどろおどろとした雰囲気は微塵もない。まだ来る途中休憩した場所のほうが、澱んだ暗さを湛ええていた。
                  女岳にまわる時間はないので、狭い山頂から折り返すようにして下山開始。登り口の神社では、近頃珍しい二宮金次郎の像を懐かしく見て、2時には事務所に帰った。このため、古代の石切場を訪ねる間もなかったが、やはり登った感じでは、大津皇子の墓は、下の写真にある「鳥谷口古墳」ではないか、そんな思いを強くした次第。

                  またUTAブックの助っ人のOさんが来てくれるようになったら、一緒に女岳から雄岳へ向かう緩やかなコースに挑み、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳に使われた石切場を探索してみたいとも思う次第。しかし思い詰めたわりには、何も感じない二上山登山ではあった。


                  鳥谷口古墳
                                         (鳥谷口古墳) 

                  奈良興福寺の阿修羅像

                  2009.12.29 Tuesday

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                    車引きのおじさん

                    興福寺の鹿今日、営業で奈良市内に出た。営業の帰り道、奈良公園に続く路で威勢のいい車引きのおじさんが 客引きをしていた。ところが通る人ごとに「ハーイ」「ハーイ」と声をかけるだけで、「乗ってくかい」とか「乗ってみない」とか、こちらの期待する呼び声が出てこない。
                    ひょっとして日本人ではないのかも……、そう思い好奇心に突き動かされ、前へ回ってそれとなく顔を見てみた。期待ははずれた。どこから見ても立派な日本人だ。あごひげに埋まった顔に精一杯の愛想笑いを浮かべ、「ハーイ」「ハーイ」とやっている。見かけは威勢がいいのだが、いまいち調子が良くない。でも画としては面白い。写真にはピッタリだ。来年の「遷都祭」開催には、この通りも、もっとにぎやかになるのだろうか。
                    ところで奈良公園の近くまで来たとき、「興福寺国宝館」休館の看板が目についた。リニューアルのため、来年1月から2月末まで休館になると言う。そう言われてみると、久し振りに阿修羅像を見てみたくなった。別に仏像に興味がある訳ではないが、昔から興福寺の「阿修羅像」と京都広隆寺の「弥勒菩薩像」だけは、なぜか心がひかれる。見ていると日本に吹き込んでくる西域の風を感じる。その感覚が好きなのかも知れない。
                    思わず知らず公園に群れる鹿に誘われるようにして興福寺国宝館へと足が進んだ。

                    阿修羅ほど、国によって宗教によって様々な見方をされる存在はないだろう。もともとはゾロアスター教やマニ教の絶対神アフラ・マズダだと言われる。
                    本来サンスクリットで「asu=命」、「ra=与える」→「命を与える」という意味で善神とされるが、全く逆の意味で、「a=非」、「suraー天」→「天を否定する」という意味に取り、悪神ともされる場合もある。「天に三十三神ある中に、魔神アスラあり」と言われ帝釈天と戦い続ける悪の戦闘神のイメージが誕生することになる。
                    西域では大地に恵みを与える「太陽神」、インドでは熱さを招き大地を干上がらせる「太陽神」、それが仏教では釈迦の教えに触れた守護神となる。
                    まったく得体の知れない存在だが、この興福寺阿修羅像を造らせたのが「光明皇后」というから、またまた話がややこしい。NHKの幼児番組ではないが、「ややこしや、ややこしや」となる。なぜややこしいのかって、それは偏に「光明」という名前にかかってくる。
                    ゾロアスター教やマニ教の世界観は、世界は善神と悪神の戦いでできているとなる。その善神というのが「光明神」つまり「光」、「悪」は「闇」ということになる。
                    昔、中国に入ってきた「マニ教」は、「喫菜事魔」と呼ばれ大弾圧を受けた。その時、地下に潜り秘密結社化したものと、さらに東へ逃れたものがある。その逃れた先が「日本」というわけだ。
                    日本に入ってきたマニ教は、当時、支配勢力であった「神道」や「仏教」の仮面を被ることになった。現在でも「光明」という文字の付いた寺院や、「光明神」をまつる神社は、中国から逃れてきたマニ教の影響を受けたものだと考えてもほぼ間違いないだろう。そうかんがえると天照も光明神となる訳だが、その起源については、光の中ならぬ闇の中ということになるだろうか。
                    天照まで出てきたのでは、ますます話が「ややこしや……」となるので、「光明皇后」へ話を戻そう。光明皇后は聖武天皇の皇后であり、藤原不比等と県犬養三千代の娘であり、名を安宿媛(あすかべひめ)、また光明子(こうみょうし)ともいう。 なぜ「光明」なのか? マニ教とは関係があるのか? 歴史上は、夫の聖武天皇とともに大変熱心な仏教徒だったという。しかし、しかしである。彼女の事跡を振り返ると、「施薬院」や「悲田院」などの救済事業を行っている。これは非常に仏教的ではない。むしろキリスト教的である。キリスト教の「施療院」「孤児院」「救済院」等の慈善事業を、光明皇后はおこなっているのである。仏教には、元々このような思想はない。日本に伝来したときも、このような考え方はなかった。とすると、聖武天皇や光明皇后が仏教だと信じて受け入れていたものが、もともとの仏教からはかけ離れた何か違う影響を受け変容したものではなかったろうか。
                    そういえば東大寺の大仏、これも聖武天皇の発願で造立されたものだが、これも「盧舎那仏」であり、「光明遍照」また「光輝普遍」と訳される、いわば光の仏ということになる。
                    そろそろ「光」論議に嫌気がさしてきたが、要は、日本という国、何でも受け入れ、何でも変容させてしまい、それを、さも大昔からあるように思っている不思議な国である。

                    興福寺の阿修羅像、そんな思いで見ていると、ますます西域から吹いてくる風を感じずにはおれない。さらに広隆寺の弥勒の話になると、秦氏の話までが絡み、西域ばかりか、古代ユダヤの風さえ吹いてくるから、風にばかり吹かれて風邪を引いては何にもならぬ。やめるが上々という次第。

                    興福寺国宝館

                    乗馬の体験と馬の歴史

                    2009.11.17 Tuesday

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                      乗馬クラブの馬場

                      何年か前の話だ。厩務員になりたいと思ったことがあった。
                      のんびりと馬の世話でもしながら余生を……そんな思いがなきにしもあらずだが、人間のエゴをまともに受け、それでも人間のよき輩(ともがら)であり続けてきた「馬」の歴史を知ったからだ。
                      罪滅ぼしではないが、馬のそばにいて、馬と一緒に「ひどい歴史だったね」などと共に語れたらと、何とも夢のようなことを考えていた。
                      「乗馬体験」の案内が来たのは、そんなときだ。普段から、案内は来ていたのだろうが、そんなことを思っているときだから、目に留まり、ぜひ行ってみたいということになった。

                      ところで、馬の家畜化が歴史の中に現れるのは、前3000年〜前2000年頃だという。最初は、飼い慣らすのが苦労でなかなか普及しなかった。それが全家畜動物の中で、馬が占める割合が20%近くになるのがこの時期だという。同時に、この時期、馬が戦いの道具として使われだした。車輪のスポークが考えだされ、戦いに「戦車」が登場するようになった。馬に牽かれ戦場を疾駆する戦車の姿は、見る者に恐怖を与えるに十分だった。人は、以来、「馬」を特別な目で見るようになった。

                      敦厚石窟壁画に騎馬民族である「匈奴」の戦闘場面を描いたものがある。大阪の高島屋でシルクロード展があったとき、僕も、そのレプリカを見たことがある。匈奴の戦士たちが、馬から降り、地面に立て膝の姿勢で空に向け弓を構えている。鳥を狙っているわけではない。
                      当時、「矢」には2枚の羽根が平行に付けられていた(平行翼)。これでは矢は真っ直ぐに飛ばず、放物線を描いて落ちるという感じになる。このため、敵に向かって矢を放つのでなく、一斉に空に向かって矢を放ち、敵の頭上から矢を落とすという形になってしまう。
                      それを誰が発明したのか、3枚の羽根をロケットの羽根のように付けた矢というのが考えだされた。これなら矢を真っ直ぐ打ち出すことが出来る。つまり馬に乗ったまま矢を射る「騎射」という技術が発達することになる。正倉院の御物の中に、馬にまたがった公達が、振り向きざまに、鹿にめがけて矢を射てる図があったと思う。これが出来るためには、矢が「平行翼」から「ロケット翼」へ進化していなければならず、しかも鐙(あぶみ)や轡(くつわ)の発明も伴っていなければならない。
                      鐙や轡が発明されるにおよんで「重装騎馬戦闘」が可能になった。馬上で槍を構えて敵にぶつかっていくという戦闘方法だ。これら武器や戦闘方法は、馬を戦闘の道具として、とことんまで進化させ尖鋭化していく。「水滸伝」に登場する「連環馬戦法」などは、その究極の戦闘隊形ではないだろうか。30騎の馬を鎖で横一列につなぎ、敵陣めがけて疾駆する。そのすさまじい破壊力は、敵の恐怖心をとことんまで煽りたてる。
                      熱田神宮の斬馬刀これを破る方法は、「馬」を倒すしかない。「将を射んと欲せば、まず馬を射よ」という訳だ。「鈎鎌鎗法」は、槍頭に「鈎鎌」と呼ばれるフックをつけ、この鈎状の物で服や鎧、あるいは馬の手綱などを引っかけて引 きずり倒すという攻撃方法だ。日本でも「斬馬刀」という馬鹿でかい刀が登場し、これで馬の足を刈り取ってしまうという、馬にとっては、はなはだ残酷な戦闘方法が編み出されていく。
                      僕も出張で熱田へ行った際、熱田神宮で、この「斬馬刀」の実物が展示されているのをみたことがある。こんなでっかい刀をどうして使うのかとビックリもしたが、何かの屏風絵で、足軽が数人がかりでこの刀を横に構え、馬に向かっていく図を見た記憶がある。一人でこれを振り回す豪傑もいたのだろうが、この方が自然だろう。

                      ミルフィーユに乗るそれはさておき、人間は馬を家畜化し、次いで戦闘の道具として改良してきた。「人が馬に乗ったとき、世界は変わった」と言われるが、人間のエゴのため利用され犠牲になってきたのが、「馬の歴史」ではなかったろうか。

                      その日、体験乗馬で、ある乗馬クラブを訪れた僕は、「ミルフィーユ」という馬に乗せてもらうことになった(写真)。やさしい馬で、こちらの思いを察して動いてくれる。こんな馬と一緒に居れたら……そんな思いにさせる馬だった。係の人に「厩務員」コースについて聞くが、厩務員になるには年齢制限があるためダメだという。「息子さんはおられますか。息子さんはどうですか?」と逆に聞かれる始末。
                      また、馬をあつかう世界についても、甘い世界ではなく、今も「馬」の受難が続いていることを教えられた。曰く、競走馬の引退後は、みんながみんな「種馬」になったり、「乗馬クラブ」や「乗馬学校」で余生を送れるわけではないと言う。競走馬は気が荒くて、「乗馬クラブ」や「乗馬学校」には向いていない。そのうえ維持費も高く、とても引き取れないという。つまるところ、食肉用につぶされるか、ペット用の肉として加工されたり、動物園の虎とかライオンのエサになるのだという。

                      こんな記事がある。「昭和48(1973)年6月25日の朝。前日の重賞レースで事故を起こしたハマノパレードという競走馬が痛みでもがき苦しむまま屠殺場に運ばれ、さくら肉にされた」というのだ。競走馬として人間に利用され、あげくが十数時間の苦悶の末に屠殺馬へ運ばれる。馬の受難の歴史は今も続いている。人間がこの世から消滅でもしない限り、この状況は変わらないのだろうか。

                      乗馬クラブの体験乗馬は、結局、体験だけで終わった。費用が、庶民には高すぎるのだ。係の人の話では、馬の餌代等維持費がバカにならず、乗馬クラブを維持していくのは並大抵のことではないらしい。会費が高いのも無理はないとはいえ、庶民にはやはり高嶺の花。馬のお世話より、自転車の整備が向いてそうだ。

                      ※「東海道53次」万歩計の状況=今日、「大津」に着く予定だったが、あいにくの雨天で十分に散歩が出来ず、後900メートルを残して「大津」到着ならず。