かつらぎ取材日記/かぐや姫ミステリー
2018.09.29 Saturday
かぐや姫のお話はみんなが知っています。その元となった「竹取物語」についても知らぬ人はいないでしょう。ところが、では「かぐや姫のモデルは?」とか「何のために書かれたの」ということになると、諸説入りみだれて、これぞという決定打がありません。暗に藤原氏の専横を批判するために書かれたとも、道徳的な啓蒙書とも言われ、「香久山」と「かぐや姫」を結びつけ、天照大神との関連を匂わせたり、かぐや姫の前世譚まで登場し、賑々しいことこのうえもありません。
藤原氏批判の書ととらえ、「光明皇后(光明子)」や「県犬養三千代(あがたのいぬかいみちよ)」の姿を浮かび上がらせ、「かぐや姫」ばかりか「中将姫」のお話も、当時の女性たちの悲劇を反映していると説く「関裕二説」には説得力があります。
しかし、ここでは、ことの真偽を云々するのではなく、もっとも突拍子もないお話しを一つ紹介させていただきたいと思います。
「かぐや姫のモデルはペルシャの姫君だった!」
これが本当に根拠のない絵空事なのか、あり得る話なのか、読者に「あんがい否定できない話かも?!」、そこまで思っていただければよいのですが……判断は読者にお任せするしかありません。
さて僕の仕事場ですが、そこは「自遊空間ゼロ」という名称で、子どもと親のフリースペースだったり、僕の気に入った「本」を編集するアトリエだったりするのですが、この事務所の前に「竹取公園」という大きな公園があります。公園ばかりか、裏手には「讃岐神社」までがあり、地名まで「広陵町三吉」と呼ばれています。「三吉」は今では「ミツヨシ」と発音しますが、その昔は「散吉」と書いて「サンキ」とか「サルキ」と呼ばれていました。ご想像の通り「サンキ」や「サルキ」は「讃岐」の転訛であり、「讃岐神社」があるのも四国の「讃岐氏」がこの地に移り住み、飛鳥の朝廷に竹を献上していた、そこから「竹取物語」が生まれたということになります。
「竹取物語」の舞台となったと言われる場所は日本に数多くありますが、登場人物としてあげられる五人の貴公子、彼らは「壬申の乱」前後を生きた実在の人物であり、その彼らが「かぐや姫」のもとに通っていたとなると、地理的にも広陵町が最有力候補に掲げられる所以であります。
ところがです。
散吉神社の由来とかぐや姫について、最近、とんでもない異説を唱える出版物と出会いました。この出版物の中から、我が広陵町と関わる、最も気になる一文を以下に転載いたします。
「およそ三百年前、飛鳥時代のことである。大和国のこの社(やしろ)の辺りにトカラから来たという人々が住んでいた。そこに、ある日突然、どこからとも知れず美しいトカラ人の娘が住むようになったという。その美しさは、今まで誰も見たことがないほど異様で、まるで伝説の天女が舞い降りたかのようであった。しかも天女の伝説のように、トカラ人は徐々に豊かになっていった。その異様さの評判を目の当たりにした隣村百済に住む大将兄弟(大伴氏か?)が、娘のあまりの美しさと異形に、宮中参内の手配をしてしまった。異形は神のお印であり、めでたいことである。ところが参内の前日、娘は急死してしまった。大将さしまわしの一行が迎えに来ると、家人は、娘は死んだと言う。が、遺体もない。瑞祥の天覧は、死体でもよいのだが、家の主は、娘は天に帰ったと空を指すばかりである。命令を受けていた迎えの使者は、せっぱつまり、家主であるトカラ人の翁と、止めに入ったもう一人を斬ってしまった。そして、その年より天変地異が起こり始め、三年後、大将兄弟が相次いで亡くなるまで続いた。人々は、口々に祟りだと言い合い、畏れて、祠を建て、この二人のトカラ人の御霊をご祭神として祀った。以後、神社は村人により守られ、国からは幣帛を受けている。ご祭神の神階は、二柱とも従五位下である。」(孫崎紀子著「かぐや姫誕生の謎―渡来の王女と道真の祟り―」より転載)
これは菅原道真の孫にあたる菅原文時が、内記の時代、全国の五畿七道の神社およびその祭神について調べ、その位階や訛りをただす仕事をしていたときに、散吉(サルキ)神社から寄せられた資料なのだと言います。
ここでは「散吉」は「サンキ」ではなく「サルキ」と発音されていたようです。
これがどこから出た資料なのか詳らかではありませんが、トカラ人というと、確かに日本書紀に記載があります。まずは、その訳文を抜き出してみましょう。
◎孝徳天皇の白雉五年(654年)四月の条
「吐火羅(トカラ)国の男二人、女二人、舎衛女一人、風に遭い日向(宮崎)に流れ来たる。」
次いで、斉明天皇の三年七月三日(657年)の条に
「覩貨邏(トカラ)国の男二人、女四人、 筑紫(福岡)に漂泊す。彼らは初め海見(あまみ)島に漂泊したという。すぐに駅馬を使って召す。」
さらに「七月十五日 須彌山(しゅみせん)の像を飛鳥寺の西に造る。また、孟蘭盆会(うらぼんえ)を設ける。暮に覩貨邏(トカラ)人に饗(あえ)たまう。或本(あるほん)に云わく堕羅(たら)人という。」
◎斉明天皇五年(659年)三月十日には
「吐火羅人(トカラびと)、妻の舎衛婦人と共に来る。
斉明天皇六年(660年)七月十六日には
覩貨邏人(トカラびと)乾豆波斯達阿(げんずはしだちあ)、 本土(もとのくに)に帰ることを欲して、送使を求めて請いていう、「願わくは、後に大国(やまと)の朝廷に仕えたい。このゆえに、妻を留めて私の意志を表明したい」と。
◎天武天皇四年(675)正月一日
大学寮の諸学生、陰陽(おんよう)寮、外薬(とのくすり)寮および舎衛の女、 堕羅の女、百済(くだら)王善光(ぜんこう)、新羅(しらぎ)の仕丁(しちょう)等、薬および珍異な物などを捧げ進上する。
654年に宮崎に漂白したトカラ人がどうなったかは記載がありませんが、ここで漂白した人たちが、再び船出し、657年に奄美に流れ着いたと考えることも出来ます。彼らは福岡へ呼び寄せられ、さらに飛鳥の朝廷まで旅をすることになります。
飛鳥では、彼らを遇するため、飛鳥寺の西に須彌山(しゅみせん)の像を造ったと言います。今、近鉄電車で飛鳥の駅に降り立つと、この須彌山のレプリカに迎えられますが、多くの人が、その歴史的な背景については知ることがありません。
またトカラ人を遇するに盂蘭盆会(うらぼんえ)を催したとあります。これはお盆の行事のことです。ところで日本では、先祖の霊がお盆に帰ってきて、それを迎え、送り出す行事がお盆となっていますが、本来、仏教にはこのような習慣はありません。たしかに「盂蘭盆経」(うらぼんきょう)という仏教の経典はありますが、これは餓鬼道に堕ちた母親を、その子モクレン(ブッダの弟子)が供養して救うという話しです。毎年、定期的に帰ってくる祖先の霊を迎え、ともに過ごし送り出すという行事ではありません。これはゾロアスター教の行事で、日本に漂着したトカラ人がもたらし、飛鳥の朝廷も、彼らを遇するために、わざわざ孟蘭盆会を設けたということになるのです。
同じように、お水取りの行事も、仏教の行事でなく、ゾロアスターに起源を発し、奈良時代もしくは飛鳥時代に日本に伝えられたものと思われます。
では、日本に漂着した、このゾロアスター教を信奉する「トカラ人」の正体は?ということになるのですが、当時の世界状況から考え、同じ頃に滅ぼされたササン朝ペルシャの王族と考えるのが妥当ということになっています。
アジアとヨーロッパの接点とも言える地域、中央アジア、古くは「バクトリア」とも「トハリスタン(吐火羅、覩貨邏)」とも呼ばれ、そこはペルシャ人とスキタイ人(遊牧騎馬民族)によって共同統治された地域でした。それが7世紀に入って、アラビア半島に起こったイスラム勢力によって滅ぼされることになります。その際、故国復興を願い逃亡した王族が中国や日本にもやってきたというのです。この辺の考証は繁雑になりますので、興味のある方は調べていただくとして、そのトカラ人が住まいしたのが、なんと、我が事務所のある広陵町の三吉だというのです。
日本書紀では、このトカラの王族は、失われた王国再建を目指し、660年7月に日本を離れることになりますが、その際、妻や娘、その付き人たちを「将来、大和朝廷に仕えたいので、その証として」残していくということになるのです。
トカラの王妃は、その娘とともに朝廷に人質として残り、他のトカラ人たちが暮らしたのが、「サルキ」、つまり「散吉」(今の三吉)となるというのです。
この娘も十五才の成人を迎えるまでは、母とともに朝廷に残っていたのですが、成人してからは母から引き離され、「サルキ(散吉)」へ移されることになります。
ここでいよいよ「かぐや姫」の登場となるわけです。
「サルキ」の村に突然、エキゾチックな美貌の娘が現れたのです。この噂を聞きつけた大伴氏が、彼女を奇瑞として朝廷に参内させようとしますが、娘が早く亡くなったため、願いを果たせず、怒りにまかせて、世話をしていた付き人の老夫婦を斬り殺してしまいました。以来、さまざまな天変地異が続き、関わった大伴兄弟が亡くなるまで、この異変は続いたというのです。
村では、異国の人の祟りであると畏れ、その霊を鎮めるため出来たのが「サルキ(散吉)神社」だということになります。
孫崎紀子説は、このお話を元に、菅原道真の孫、菅原文時が、このかぐや姫の物語を生み出したのだと言います。文時は、神社の名前こそ「讃岐神社」としたものの、物語に登場する翁(おきな)の名を「さるきのみやっこ」として、「さるき」の音を後世に残したというのです。
この説が成立するためには、菅原の文時が見たという「サルキ神社」の由緒書きが存在しなければなりません。今、著者の孫崎紀子さんに手紙で、その辺の経緯を問い合わせしておりますが、はたして手紙が著者の元へ届くのかどうか、また届いたとしてお返事をいただけるのかどうか、現時点では定かではありません。
言えるとすれば、この時代に滅ぼされたササン朝ペルシャの王族が日本の飛鳥までやってきたようだということ、その王族は、日本を離れるに際し、その妻と娘を日本に残していったこと、これだけは、ほぼ間違いなく言えることだと思います。
母親は、人質の身として亡くなりますが、残された娘がどんな人生を歩んだか、今となっては知るよしもありませんが、そこから「かぐや姫」のモデルではという話も起こってきたということになります。と同時に、このペルシャのお姫様が、大津皇子の妃、山辺皇女(やまのべのひめみこ)ではないかという説(小林惠子著「西域から来た皇女」)まで起こってくるのです。
もし読者が「広陵町立図書館」や「竹取公園」に来られる機会があれば、ぜひ、今から1300年以上も前、はるばる極東の地を目指し、その地で亡くなっていった人たちに心を向けてみてください。
※このブログを書き終えて気づいたのですが、飛鳥駅前の須弥山石(レプリカ)の最頂部に描かれた女性の顔(菩薩だと思うのですが)と、我が町広陵町のかぐや姫像(原画は里中満智子)の顔が非常によく似ているのです。偶然だとは思うのですが、おもしろいので画像を追加しておきます。