かつらぎ取材日記/天覧相撲のはじまり
2018.08.16 Thursday
「天覧相撲」ってご存じでしょうか?
「相撲」は「すもう」ですから、日本の国技なわけで、日本人なら子どもだって知ってますよね。では「天覧」とは、一体、なんでしょうか?
これは天皇がご覧になっているという意味です。
「東〜○○山、西〜△△海」っていう相撲の呼び出しにもあるように、相撲は東西戦になります。今では「東西」というと「関東」と「関西」と考えられがちですが、これは近世のお話しで、この「天覧相撲」がおこなわれた3世紀から4世紀の頃って、「東京」とか「江戸」とか、なかったわけです。では「東西」とは、どことどこ? となるわけですが……。
ここでヒントになるのが天皇です。中国では「天子南面」と言って、「天子様」(日本では天皇)は南に面して存在するという考え方があります。そこで「天覧相撲」の場合、天皇は「北」に座して南で対戦する相撲をご覧になるという寸法です。そうすると「東」と「西」の取り組みになるわけです。
これが後になると、天皇がいる場所が「北」となって、当麻(葛城市)の相撲館に見られるように、実際の東西とは逆になる場合もあるということです。
これは当麻相撲館の小池館長から聞いた「相撲の東西」のお話です。これともう一つ大事な「東西」のお話しがあります。広陵町文化財保存センター・河上所長にお聞きした話ですが、当時(3〜4世紀)の奈良は、曽我川を挟んで東西に真っ二つに分かれていたというのです。
東が「磐余(いわれ)」を中心にした大和朝廷発祥の地、西が大和朝廷にまつろわぬ人々の住む「葛城(かつらぎ)」という地です。「まつろわぬ」とは「従わない」とか「反抗している」というぐらいの意味で、こういった人々は大和朝廷側からは「土ぐも」と総称されていました。
上の写真は曽我川にかかる磐余橋(いわればし)から二上山を見ていますが、古くは神武天皇が、この地で大和に敵対する「土ぐも」を如何に処理するかを、帰順したニギハヤヒと策を練ったと伝えられています。
こういった当時の情勢を把握しておいた上で、日本初と言われた「天覧相撲」について考えてみましょう。これについては、葛城市にある「当麻相撲館 けはや座」の小池館長が非常に詳しいので、お話をお聞きしました。
以下、小池館長(右の写真)のお話を要約しておきます。
◇
まず対戦したのは、「当麻蹴速(たいまのけはや)」(葛城市当麻)と「野見宿禰(のみのすくね)」(桜井市出雲)の二人ですが、この名前については象徴的に使われているように思います。「宿禰(すくね)」という「名」は大和朝廷初期の役職名というか、天皇の配下の位を表す言葉です。当時、制定された「八色(やくさ)の姓(かばね)」のうち、真人(まひと)、朝臣(あそん)に次ぐ3番目の位が「宿禰(すくね)」になるわけです。しかも「宿禰」は武人とか行政官を表す称号でもあるわけで、これから見ても、「野見宿禰」は、大和朝廷側の重要ポストにある人物と考えてよいでしょう。
これに対し、「当麻蹴速」は、被征服豪族である「葛城氏」の一族で、力自慢で蹴り技が得意な無頼漢、そんな風に位置づけられています。
つまり、この勝負、最初から「野見宿禰」が勝つことが決められているのです。
日本書紀に書かれていることを思いっきり意訳すると、
時は垂仁天皇の7月7日のこと、天皇は、かねがね「俺より強い者はいない」と力自慢を鼻にかける「当麻蹴速」が煩わしくてなりません。「誰か、こいつの鼻を叩き折る者はいないのか」ということで、出雲国の「野見宿禰」が「即日」呼ばれ、垂仁天皇の前で相撲を取ることになります。この頃は、相撲はスポーツというより「戦闘」つまりは殺し合いです。土がついたら負けということではなく、どちらかが死ぬか、動けなくなるまで戦うというものです。
こうして筋書き通り、「当麻蹴速」はあばら骨を踏み折られ殺されてしまいました。勝者である「野見宿禰」は、葛城にある「蹴速」の土地を天皇から与えられることになります。それが今も香芝市に「腰折田(こしおれだ)」として語り伝えられていますし、「当麻蹴速」を悼んで建てられた「蹴速塚」も、葛城市の相撲館「けはや座」の近くに残されています。
では、東西の話しに戻って、この天覧相撲を眺めなおしてみましょう。
日本初の天覧相撲がおこなわれたのは、垂仁天皇7年の7月7日、おそらく3〜4世紀のことと考えられます。
この頃、葛城はまだ大和朝廷に完全に服従しているとは考えられません。それが雄略天皇4年の日本書紀の記事(5世紀の半ば)では、葛城の神「一言主(ひとことぬし)」つまりは葛城氏そのものを指すわけですが、その「一言主」が雄略天皇の一行を曽我川まで見送ったというのです。このことは、葛城と大和朝廷の境界線が「曽我川」だということを物語ると同時に、雄略天皇が葛城氏の懐柔に成功したことをも物語っているのではないでしょうか。
同じ頃、岡山の吉備氏と奈良の葛城氏の関係を巡って、雄略天皇が横やりを入れたことが「日本書紀」にあがっています。吉備氏のリーダーである吉備田狭(きびのたさ)が、「自分の妻ほど美人はない」と自慢しているのを、雄略天皇が知り、彼を朝鮮半島の任那(みまな)に派遣してしまい、その留守中に、彼の妻である稚媛(わかひめ)を自分の妃にしてしまったのです。
その稚媛というのが葛城氏の娘でした。
要するに、雄略は稚媛を奪うことで、葛城=吉備連合に楔を打ち込んだことになり、同時に葛城の血の中に、天皇一族の血を残そうとしたことになります。
つまり、これまでは、「大和」は「葛城」を抑え込むため、なりふり構わず策を弄しているように思えるのです。
こう考えると、この天覧相撲、大和朝廷が、葛城氏の不穏な動きを封じ込めるための「見せしめ」だったような気がしてきます。つまり当麻蹴速は、葛城氏の中で、大和朝廷に抵抗する過激派のリーダーだったのでは……。
想像をたくましくすれば、捕らえた蹴速を天覧相撲という公開の場所でやっつけてしまう。当時の相撲は、先ほども述べたように、スポーツではなく、戦闘そのものであり、相手が死ぬか動けなくなるまで続けられました。葛城氏の不穏分子を踏み殺すことで、大和朝廷の力を見せつける――天覧相撲とは、天皇臨席の公開処刑だったのではないでしょうか。
そこで、「野見宿禰」について見てみましょう。日本書紀では「出雲国」に「野見宿禰」という力自慢がおり、これを呼び寄せ「蹴速」をやっつけさせ、勝った報償に大和朝廷に召し抱えたと言っています。
冒頭にも述べましたように、「宿禰」は「八色の姓(やくさのかばね)」という位階制度の上から三番目にあたる重要なポストです。いきなり相撲に勝ったからと言って手に入れられるようなものではありません。
「野見宿禰」は、名前からして、もとより大和朝廷側の重要なポストにある人間だったと思われるのです。
そう考えると、「出雲国」とは島根県の「出雲」でなく、大和朝廷の勢力圏である桜井市の「出雲」と考えるのが妥当です。書記にも「即時に召す」とあり、島根県では「即時」に呼び寄せることは不可能です。
現に桜井市の「出雲」という地には、「十二柱神社」の敷地内に「野見宿禰」の墓と言われる五輪塔が残されています。もともとは、やはり「出雲」の「太田」というところにあったものが、明治に、この「十二柱神社」の境内に移されたということです。
さて、この稿を閉じるにあたって、「当麻蹴速」「野見宿禰」、この二人の決戦の場と思われる、桜井市の「相撲神社」を紹介しておきましょう。
我が町、広陵町から自転車で1時間半、山辺の道から少し外れたところに「纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)伝承地」の案内板があります。このあたりが垂仁天皇が宮を営んだ地と言われ、ここから自転車でさらに数分奥へ入ったところに、日本で最初に天覧相撲が開かれた場所「相撲神社」があります。
穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)の入り口近くにあって、祭神は「野見宿禰」、境内には新たに置かれたと思われる「力士像」と「勝利之聖 野見宿禰」の祈念碑が建てられています。
ここで気になるのが、右の案内板。「国技発祥の地」ではじまる案内文はすべて無視していただいてかまいません。ただ「赤」のラインで囲まれた文字にだけ注目してください。「カタヤケシ」ゆかりの土俵において……
では、この「カタヤケシ」とは一体、何のことでしょうか?
当麻相撲館「けはや座」の小池館長に質問をぶつけてみました。
館長の言うには、「カタヤ」というのは、相撲の土俵のことを言うそうです。「ケシ」は「消し」と考えてもいいのでは……。
館長のお話を聞いて、つまりは「土俵でやっつけてしまえ」「土俵で殺しちゃえ」みたいなニュアンスにも取れる、そう思ってしまいました。やはり日本初の「天覧相撲」とは、天皇臨席の「公開処刑」! そんな印象を強くした次第です。
なお、この考えは、相撲館「けはや座」の小池館長や、広陵町文化財保存センターの河上所長のお考えではなく、お話しをお聞きしているうちに浮かんできた編者の「白日夢」のようなものとお考えください。
それはさておき、これ以降、7月7日が「相撲節会」という行事となり、全国の力自慢が奈良に集められることとなります。それは、ただ単なる「相撲大会」のようなお遊びでなく、大和朝廷の「軍事力強化」という一面をもっていました……。
今で言えば「自衛官募集」、それも強制徴募みたいなものでしょうか。
それはさておき、神武以来、大和朝廷に歯向かってきた葛城という地は、5世紀の雄略天皇以降、大和朝廷に組み込まれていったように感じます。