クジラ・イルカ紀行 vol.014 / 美ら海(ちゅらうみ)水族館のフジ
2018.05.27 Sunday
上の写真はすべて、「フジ」という一頭のイルカのためにつくられた「人工尾ビレ」です。失敗しては改造し、壊れてはまた改造し、飽きることなく造り続け、改造し続けられた人工の尾ビレ。この尾ビレを付けて元気に泳いでいた「フジ」も、2014年11月1日、感染性肝炎のため、45才(推定年齢)で亡くなりました。
ところで、じゃのひれドルフィンファームで、バンドーイルカの「もも」や「かえで」と知り合って以来、イルカやクジラに――と言ってもイルカもクジラの仲間なのですが――のめり込んでしまった私は、「本」やら「DVD」やら、「グッズ」やら、ともかくクジラやイルカと名の付くものは、手に入る範囲で集め回っていました。
その収集品の中に、「イルカと少年」(アメリカ)という2011年に映画化された作品のDVDがありました。
カニを捕らえる罠にかかり、尾ビレを失ったバンドーイルカの「ウインター」と、父親に蒸発された「孤独な少年」が心を通い合わせるというストーリーです。これは実際にあった話しをもとに組み立てられており、映画の中のウインターも彼女自身が演じています。そのウインターは、今も、クリアウォーター水族館で元気に暮らしており、彼女の姿を見ようと思えば、クリアウォーター水族館のホームページを開けば、ライブ映像だって見ることができてしまいます。
ところが、もっと驚いたことには、日本にも同じように人工尾ビレのバンドーイルカがいたのです。それが「美ら海水族館」の「フジ」です。しかも、ウインターが尾ビレを失う事故を起こしたのが2005年のことですから、それより3年も早くに「フジ」の事故が起こっています。
早ければ良いという話しではありませんが、重要なのは「フジ」が世界で初めて「人工尾ビレ」を付けたイルカとなったということです。つまり、参考にできる事例がまったくなく、すべてが手探りで進められたということなのです。冒頭の写真に掲げた人工尾ビレの試作品、そのおびただしい数が、このプロジェクトに関わった人たちの苦労を物語っています。素材、形、取り付け方法、すべて試行錯誤で、問題点をつぶしながら、ついには「フジ」にピッタリの人口尾ビレを完成させたのです。
「フジ」に人口尾ビレをプレゼントするため、ブリヂストンタイヤの研究チーム、造形家、飼育スタッフ、獣医の人たちが知恵を絞り合いました。その詳細は、松山ケンイチさん主演で映画化された「ドルフィンブルー」をはじめ、NHK制作のドキュメンタリー「ひれをもらったイルカ」、さらには映像作品ばかりでなく、「しっぽをなくしたイルカ」(岩貞るみこ)、「とべ!人口尾ビレのイルカ『フジ』」(真鍋和子)などの子供用ノンフィクションにも詳しく描かれています。
かくいう私も、これらの情報を得て、はじめて「フジ」の存在を知ったという次第です。
2016年2月、沖縄の座間味へ「エスコート号」(ホエールウォッチング船)と、そのオーナー佐野さんご夫婦の取材にうかがった私は、その足で「美ら海水族館」と連絡を取り訪問することにしました。ところが、「フジ」は昨年の11月1日に亡くなったと言います。
4ヶ月早くフジのことを知っていれば、彼女の姿だけでも見ることができたと思うのですが、未練がましく「フジ」のことを聞いていると、電話に出られた方が、「しばらくお待ちください」と、獣医の植田啓一さんに繋いでくれることになりました。
植田さんは、壊死していく「フジ」の尾ビレを手術された医師で、その後、落ち込んで浮いているだけの「フジ」に人工尾ビレをつくろうと、ブリヂストンタイヤに働きかけた人物です。
人工尾ビレの話は次回に譲るとして、ここでは、「フジ」というバンドーイルカについて、また、どのようにして尾ビレを失ったのか、その辺の話を紹介していきたいと思います。
1975年7月20日から開催された沖縄海洋博は、183日間の会期を経て、翌年1月18日にその幕を閉じました。海洋博の会期終了に伴い、海洋生物の展示館は「国営沖縄記念公園水族館」として海洋博公園内の敷地で再出発することになります。そして、その再出発に伴い、内田詮三館長のふるさとである伊豆の海から、7才(推定)雌のイルカが移されてくることになったのです。
それが「フジ」―― 富士山の見える海から来たので「フジ」と名付けられたバンドーイルカです。
フジは2年後の1978年、長男の「リュウ」を出産しました。その11年後の1989年には、長女「コニー」を、1995年には次男「チャオ」を出産し、3頭のお母さんとなったのです。
フジは水族館では、結構、気ままでへそ曲がりのイルカだったようです。これも人間から見ての話しですが、新米飼育員などは「フジ」にからかわれ、言うことを聞いてもらえないこともしばしばだったようです。したがって芸をするには向いていませんでした。ところが子育ての面では、しっかり者の母さんという感じで、いつも子どもたちのそばに付き添って泳ぎ、狭い水族館の壁に子どもたちがぶつからないようガードしている、そんな頼もしいお母さんぶりを発揮していました。
さて2002年11月1日 「国営沖縄記念公園水族館」は「美ら海水族館」としてリニューアルオープンすることになりますが、そのオープンを半月後に控えた10月16日、フジの尾ビレが壊死を起こしていることが判明しました。壊死の進行は速く、「このままでは」というので、原因の分からないまま、10月25日 、第1回目の手術が実施されました。壊死した尾びれを削除する手術でしたが、それでも壊死の進行は止められなかったそうです。
植田獣医は、沖縄県立北部病院の嘉陽医師に協力を仰ぎ、11月7日、第2回目の切除手術に臨みました。植田獣医と嘉陽医師の二人で、「フジ」の左右の尾ビレの4分の3を思い切って切除するというものです。
結果、手術は成功し、壊死の進行を止めることができました。ただ尾ビレの4分の3を失い、「フジ」は泳ぐことのできない、ただ浮いているだけのイルカになってしまったのです。
植田獣医は、イルカに感情移入しすぎるのは間違いのもとだと言います。もっとドライになってイルカを見つめるべきだと言います。その植田獣医の目にも、「フジ」の落ち込みようは歴然としていたようです。
なんとか「フジ」に元気を取り戻してやれないものか、植田獣医は、連日、遅くまで世界中の文献や事例を読みあさり、アメリカでサメに手ビレを食いちぎられたウミガメの事例に行きついたのです。なんと、そのウミガメのために、アメリカのタイヤメーカー「グッドイヤー」が動き、人工の手ビレを開発したというのです。
ウミガメにできたのなら、イルカにもできるはず、そう考えた植田獣医は、日本のブリヂストンタイヤに「フジ」の人口尾ビレを開発してもらえないだろうか、そう思いつきました。
縁故を頼り、ブリヂストンタイヤと渡りを付けた植田獣医は、「フジ」の窮状を訴え、イルカの人工尾ビレの開発が「世界ではじめて」ということを強調し、アメリカのタイヤメーカー「グッドイヤー」がウミガメの人工手ビレをつくった話しを持ち出し、懸命にブリヂストンの首脳陣の説得に当たりました。
植田獣医の熱意に、天下のブリヂストンが動きました。
化工品材料開発部の加藤信吾部長と、その部下でスポンジ技術を専門にする斉藤真二さんが、「フジ」の人工尾ビレ開発の責任者となったのです。
こうして「フジ」の人工尾ビレ開発プロジェクトが始動をはじめました。
次回は、美ら海水族館を訪ね、「フジ」の担当となった海獣飼育課の古網リーダーにお話を伺います。