ナビを頼りに御所の蛇穴にある「Wild-Bullet犬舎」を訪ねました。ちなみに「蛇穴」は「さらぎ」と読むみますが、「さらぎ」は蛇がとぐろを巻く状態や蛇が巣を作ることを言うらしく、陶器のことを「さらき」というのも、紐状の粘土を巻き上げて造形していくことがとぐろを巻くのに似ているからだと言います。
ただ蛇という言葉は「水」や「農耕儀礼」と関係しているようですし、「さらぎ」という発音を重視し、「さらぎ」は「今来(さらき)」を意味し、新来の人や帰化人のことを言うという説もあります。
地名談義はここまでとし、「Wild-Bullet犬舎」を探しますが、ナビの指示通りに来たというのに、そんな看板の掛かったところは見当たりません。
ふと見ると「東又」さんの表札がかかった大きな敷地の家がありました。その庭にはたくさんのゲージが置かれてあり、その中の犬たちが興味深そうにこちらの様子を窺っているではないですか。
間違いありません。ここがお目当ての「Wild-Bullet犬舎」です。
ブザーを鳴らすと、一見、強面、でも実はむちゃ優しい、そんな感じの男性が現れました。この方が、これから取材しようとする「Wild-Bullet犬舎」のオーナー東又安彦さんです。
そして、今日の取材のお世話をいただくのが、オーナーの奥さんである東又弥生さんです。
「嫁は、今、片付け中なんで、少し待って……」と、ゲートを開けて車を敷地へと案内してくれました。
敷地へ入るや、真っ先に出迎えてくれたのが「イブ」というロットワイラーの雌犬。ムチャクチャ人なつっこく、大きな身体をすり寄せてきて、油断をしていると、その重さでこちらが転びそうになります。その後ろをつかず離れずで、こちらの様子を窺っている犬がいます。
この子が「ラン」。お母さんは「ホワイトシェパード」、お父さんが「オオカミ犬」で、オオカミの血は薄くなっていると言います。
しばらくして、オオカミ犬のお母さん的存在とも言える弥生さんがあらわれました。
これまたご主人に輪をかけたような人の良さそうな方。ただ一点違っているのは、すっごい美形だということ。
ゲージの中にいるオオカミ犬と、ゲージの外をうろついているオオカミ犬、それらがみんな、こちらの様子を窺っています。警戒している感じの子もいれば、人なつっこそうに好奇心いっぱいでこちらを見ている子もいる、そんな感じです。
あまりの多さに頭数をお聞きすると、全部で19頭のオオカミ犬を飼っておられると言います。ロットワイラーを入れると実に20頭になり、あわせて40もの目が、弥生さんに話しかける僕を注視しています。好奇心いっぱいの目もあれば、中には、お母さん(弥生さん)に変なことをしないかと身構えている目も……。
そんな状況の中、あえてオオカミ犬のほうは見ないようにしながら、「オオカミ犬を繁殖するようになった動機は?」と尋ねてみました。
弥生さん曰く、元来の動物好きが昂じてオオカミ犬の繁殖をはじめたといいます。
弥生さんの打ち解けた様子に、警戒していたオオカミ犬たちの視線も幾分やわらいだようです。
まずは一安心。
いただいた名刺を見ると、「獣害対策狼犬訓練所」とあります。
獣害……そう言えば、昨年のことになりますが、知り合いがジビエの関係の仕事をしており、そのツテを使って岡山県美作にある野生鹿の食肉処理場を見学させてもらったことがあります。
そのとき聞いた話ですが、美作では、いっとき野生の鹿がすっかり姿が見えなくなり、あわや絶滅かと騒がれたことがありました。そんなとき、子鹿を連れた母鹿が発見され、市をあげて保護に乗り出したそうです。
ところが今度は逆に、野生の鹿が大繁殖、植林の木の皮を食べて枯らしたり、作物を荒らしたりと、人間の生活を脅かすようになりました。
冬から春に向かうとき、雪解けを促進するために大量の石灰を山に撒くそうですが、そこに含まれる塩分ミネラルが、鹿を繁殖させる引き金になっているのでは……。それでは、というので石灰を撒くのをやめましたが一向に効果はありません。あげく、鹿に賞金をかけ、殺した鹿を集めて食用にすることが考えられました。
それが、この施設というわけです。
そのとき職員の方に聞いた話ですが、オオカミを輸入し、それを山に放すことで失われた食物連鎖を再構築しようという計画が考えられたことがあるそうです。
その話しを弥生さんにぶつけてみると、
「私は反対です」と、即座に答えが返ってきました。
というのも、オオカミは頭の良い動物で、鹿や猪等の野生動物を狩るだけでなく、安易にえさを獲れることを知れば、人の生活区域を脅かすようにもなる。しかも彼らは犬と交配できるので、管理できないオオカミや野生のオオカミ犬が増え、人間にとって却って危険な存在となるリスクが強いというのです。
オオカミを導入することで一定の効果が出ているというのは、アメリカのイエローストーンなどの広大な地域で、日本のような狭い土地に人が密集しているような地域では非常に危険なことになるというわけです……。なるほど納得です。
これに対し、管理されたオオカミ犬を、獣害のある場所を散歩させ臭い付けすることで、あるいは狼犬の糞を一定区間に畑の周りに置くことで、猪や鹿等が畑を荒らさなくなり、獣害をなくすことができるというのです。
オオカミ犬のえさは肉食で、猟で獲った動物の肉を与えるほか、猟仲間の協力で、一頭丸ごとのイノシシや鹿をもらって帰り、それを弥生さんが捌いてからオオカミ犬たちに与えているそうです。鹿なら鹿で、同じ肉ばかり与えていると飽きてしまうため、鶏肉を与えたりもするそうです。
このように生肉を食べ続けているので、排泄物のにおいが、鹿やイノシシなどの動物に危険を感じさせ近づかないようになるという次第です。
これが名刺に「獣害対策狼犬訓練所」とある所以です。
昨今、獣害対策としてジビエへの利活用が盛んになってきていますが、人間が食する「肉」に加工するには、品質管理、衛生管理等々、手間暇がかかりすぎるのと、経済効果が悪く、ジビエの流れが市場とリンクするのは難しく、結局、廃棄される個体が増えていくというのが現状です。
こうして廃棄される野生の鹿やイノシシの肉が、オオカミ犬の食料となり、新しい生命を生み出すばかりでなく、延いては、その排泄物が害獣避けともなっていけば、どうでしょうか。
弥生さんは言います。「オオカミ犬を通して、自然のリサイクル(命のリサイクル)の一助となれば」と……。
こいうして話している間にも、オオカミ犬たちの警戒心も随分やわらいできたようです。
そこで弥生さんに、ここにいるオオカミ犬の何頭かを紹介していただくことにしました。
ゲージの外をうろつき、こちらの様子をうかがっていたのが、「ラン」と「ディーガ」。
「ラン」は先ほども述べましたように、お母さんがホワイトシェパードで、お父さんがオオカミ犬で、オオカミの血は薄くなっています。それといかにもオオカミ犬という感じの「ディーガ」。この子が、弥生さんの様子を心配し、遠巻きに僕を警戒していた子ですが、その警戒心もだいぶ薄らいだのか、弥生さんとの話が終わる頃には、ロットワイラー犬の「イブ」や「ラン」としきりに遊びまわっていました。
ゲージに移って、この犬舎のスター的存在の「カムイ」を紹介されました。
「カムイ」は、今年2018年2月に公開された映画「東の狼」のオオカミ役を演じた子です。
「カムイ」は、生まれたとき、授乳がうまく行かず、ロットワイラーの「イブ」が母親代わりになって添い寝したり可愛がったりしたそうですが、そのうち、子どもを産んでいない「イブ」からお乳が出るようになったといいます。
そんなせいか、「イブ」は弥生さんとともに、ここのオオカミ犬たちの母親的存在となり、オオカミ犬たちは、みんなイブに一目置いているように感じられます。
その「カムイ」ですが、秋口にさしかかり季候もよかったせいでしょうか、本当に機嫌がよく、新参者の私たちにも甘えて撫でさせてくれ、少し怖かったですが、甘噛みさえしてくれます。このほかにもゲージから鼻先を突き出し甘えた仕草をする子、本当にどの子もかわいい子ばかりでした。
でも注意してください。それは、ここの「Wild-Bullet犬舎」の子だからということもありますし、ただこのときは機嫌がよかったからということもあります。
「オオカミ」が「犬」の先祖だというのは間違いなさそうですが、進化の過程で大きな違いが出てきました。
その一つが、先ほどもあげましたようにオオカミは「肉食動物」だということ。それに対し犬は人間と暮らす中で「雑食動物」として変化してきたということ。
肉食ですから、オオカミは狩りをします。 狩りをして獲物を確実に捕らえるために、強靭な顎を持っていますし、犬の指先は丸くなっていますが、オオカミは先にいくにつれて細長い形をし、鋭い爪を持っています。
そして最大の違いが性格です。犬は人間への依存性が強く、飼い主に気に入られようとします。しかし、オオカミは本来警戒心が強く、人に慣れることはありません。
「オオカミ犬」は、狼と犬の交配種ですから、人なつっこい犬的な性格も持っています。でも、やはり「オオカミ」の面も強く持っており、人に媚びることはなく、機嫌の良いときはいいのですが、いやがっているのを追いかけ回したり、いやがっているのを撫でようとすると、とんでもない事故を起こすことがあります。
僕がここに書いたように、「オオカミ犬」は毅然としていて、それでいて可愛いので人気がありますが、危険な面もないわけではありません。もし見学されるようなことがあれば、かならずオーナーの指示に従い、無理に追い回したり、無理に撫でようなどとしないでください。
老婆心ながら申し添えて、この項を終わることにいたします。
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かぐや姫のお話はみんなが知っています。その元となった「竹取物語」についても知らぬ人はいないでしょう。ところが、では「かぐや姫のモデルは?」とか「何のために書かれたの」ということになると、諸説入りみだれて、これぞという決定打がありません。暗に藤原氏の専横を批判するために書かれたとも、道徳的な啓蒙書とも言われ、「香久山」と「かぐや姫」を結びつけ、天照大神との関連を匂わせたり、かぐや姫の前世譚まで登場し、賑々しいことこのうえもありません。
藤原氏批判の書ととらえ、「光明皇后(光明子)」や「県犬養三千代(あがたのいぬかいみちよ)」の姿を浮かび上がらせ、「かぐや姫」ばかりか「中将姫」のお話も、当時の女性たちの悲劇を反映していると説く「関裕二説」には説得力があります。
しかし、ここでは、ことの真偽を云々するのではなく、もっとも突拍子もないお話しを一つ紹介させていただきたいと思います。
「かぐや姫のモデルはペルシャの姫君だった!」
これが本当に根拠のない絵空事なのか、あり得る話なのか、読者に「あんがい否定できない話かも?!」、そこまで思っていただければよいのですが……判断は読者にお任せするしかありません。
さて僕の仕事場ですが、そこは「自遊空間ゼロ」という名称で、子どもと親のフリースペースだったり、僕の気に入った「本」を編集するアトリエだったりするのですが、この事務所の前に「竹取公園」という大きな公園があります。公園ばかりか、裏手には「讃岐神社」までがあり、地名まで「広陵町三吉」と呼ばれています。「三吉」は今では「ミツヨシ」と発音しますが、その昔は「散吉」と書いて「サンキ」とか「サルキ」と呼ばれていました。ご想像の通り「サンキ」や「サルキ」は「讃岐」の転訛であり、「讃岐神社」があるのも四国の「讃岐氏」がこの地に移り住み、飛鳥の朝廷に竹を献上していた、そこから「竹取物語」が生まれたということになります。
「竹取物語」の舞台となったと言われる場所は日本に数多くありますが、登場人物としてあげられる五人の貴公子、彼らは「壬申の乱」前後を生きた実在の人物であり、その彼らが「かぐや姫」のもとに通っていたとなると、地理的にも広陵町が最有力候補に掲げられる所以であります。
ところがです。
散吉神社の由来とかぐや姫について、最近、とんでもない異説を唱える出版物と出会いました。この出版物の中から、我が広陵町と関わる、最も気になる一文を以下に転載いたします。
「およそ三百年前、飛鳥時代のことである。大和国のこの社(やしろ)の辺りにトカラから来たという人々が住んでいた。そこに、ある日突然、どこからとも知れず美しいトカラ人の娘が住むようになったという。その美しさは、今まで誰も見たことがないほど異様で、まるで伝説の天女が舞い降りたかのようであった。しかも天女の伝説のように、トカラ人は徐々に豊かになっていった。その異様さの評判を目の当たりにした隣村百済に住む大将兄弟(大伴氏か?)が、娘のあまりの美しさと異形に、宮中参内の手配をしてしまった。異形は神のお印であり、めでたいことである。ところが参内の前日、娘は急死してしまった。大将さしまわしの一行が迎えに来ると、家人は、娘は死んだと言う。が、遺体もない。瑞祥の天覧は、死体でもよいのだが、家の主は、娘は天に帰ったと空を指すばかりである。命令を受けていた迎えの使者は、せっぱつまり、家主であるトカラ人の翁と、止めに入ったもう一人を斬ってしまった。そして、その年より天変地異が起こり始め、三年後、大将兄弟が相次いで亡くなるまで続いた。人々は、口々に祟りだと言い合い、畏れて、祠を建て、この二人のトカラ人の御霊をご祭神として祀った。以後、神社は村人により守られ、国からは幣帛を受けている。ご祭神の神階は、二柱とも従五位下である。」(孫崎紀子著「かぐや姫誕生の謎―渡来の王女と道真の祟り―」より転載)
これは菅原道真の孫にあたる菅原文時が、内記の時代、全国の五畿七道の神社およびその祭神について調べ、その位階や訛りをただす仕事をしていたときに、散吉(サルキ)神社から寄せられた資料なのだと言います。
ここでは「散吉」は「サンキ」ではなく「サルキ」と発音されていたようです。
これがどこから出た資料なのか詳らかではありませんが、トカラ人というと、確かに日本書紀に記載があります。まずは、その訳文を抜き出してみましょう。
◎孝徳天皇の白雉五年(654年)四月の条
「吐火羅(トカラ)国の男二人、女二人、舎衛女一人、風に遭い日向(宮崎)に流れ来たる。」
次いで、斉明天皇の三年七月三日(657年)の条に
「覩貨邏(トカラ)国の男二人、女四人、 筑紫(福岡)に漂泊す。彼らは初め海見(あまみ)島に漂泊したという。すぐに駅馬を使って召す。」
さらに「七月十五日 須彌山(しゅみせん)の像を飛鳥寺の西に造る。また、孟蘭盆会(うらぼんえ)を設ける。暮に覩貨邏(トカラ)人に饗(あえ)たまう。或本(あるほん)に云わく堕羅(たら)人という。」
◎斉明天皇五年(659年)三月十日には
「吐火羅人(トカラびと)、妻の舎衛婦人と共に来る。
斉明天皇六年(660年)七月十六日には
覩貨邏人(トカラびと)乾豆波斯達阿(げんずはしだちあ)、 本土(もとのくに)に帰ることを欲して、送使を求めて請いていう、「願わくは、後に大国(やまと)の朝廷に仕えたい。このゆえに、妻を留めて私の意志を表明したい」と。
◎天武天皇四年(675)正月一日
大学寮の諸学生、陰陽(おんよう)寮、外薬(とのくすり)寮および舎衛の女、 堕羅の女、百済(くだら)王善光(ぜんこう)、新羅(しらぎ)の仕丁(しちょう)等、薬および珍異な物などを捧げ進上する。
654年に宮崎に漂白したトカラ人がどうなったかは記載がありませんが、ここで漂白した人たちが、再び船出し、657年に奄美に流れ着いたと考えることも出来ます。彼らは福岡へ呼び寄せられ、さらに飛鳥の朝廷まで旅をすることになります。
飛鳥では、彼らを遇するため、飛鳥寺の西に須彌山(しゅみせん)の像を造ったと言います。今、近鉄電車で飛鳥の駅に降り立つと、この須彌山のレプリカに迎えられますが、多くの人が、その歴史的な背景については知ることがありません。
またトカラ人を遇するに盂蘭盆会(うらぼんえ)を催したとあります。これはお盆の行事のことです。ところで日本では、先祖の霊がお盆に帰ってきて、それを迎え、送り出す行事がお盆となっていますが、本来、仏教にはこのような習慣はありません。たしかに「盂蘭盆経」(うらぼんきょう)という仏教の経典はありますが、これは餓鬼道に堕ちた母親を、その子モクレン(ブッダの弟子)が供養して救うという話しです。毎年、定期的に帰ってくる祖先の霊を迎え、ともに過ごし送り出すという行事ではありません。これはゾロアスター教の行事で、日本に漂着したトカラ人がもたらし、飛鳥の朝廷も、彼らを遇するために、わざわざ孟蘭盆会を設けたということになるのです。
同じように、お水取りの行事も、仏教の行事でなく、ゾロアスターに起源を発し、奈良時代もしくは飛鳥時代に日本に伝えられたものと思われます。
では、日本に漂着した、このゾロアスター教を信奉する「トカラ人」の正体は?ということになるのですが、当時の世界状況から考え、同じ頃に滅ぼされたササン朝ペルシャの王族と考えるのが妥当ということになっています。
アジアとヨーロッパの接点とも言える地域、中央アジア、古くは「バクトリア」とも「トハリスタン(吐火羅、覩貨邏)」とも呼ばれ、そこはペルシャ人とスキタイ人(遊牧騎馬民族)によって共同統治された地域でした。それが7世紀に入って、アラビア半島に起こったイスラム勢力によって滅ぼされることになります。その際、故国復興を願い逃亡した王族が中国や日本にもやってきたというのです。この辺の考証は繁雑になりますので、興味のある方は調べていただくとして、そのトカラ人が住まいしたのが、なんと、我が事務所のある広陵町の三吉だというのです。
日本書紀では、このトカラの王族は、失われた王国再建を目指し、660年7月に日本を離れることになりますが、その際、妻や娘、その付き人たちを「将来、大和朝廷に仕えたいので、その証として」残していくということになるのです。
トカラの王妃は、その娘とともに朝廷に人質として残り、他のトカラ人たちが暮らしたのが、「サルキ」、つまり「散吉」(今の三吉)となるというのです。
この娘も十五才の成人を迎えるまでは、母とともに朝廷に残っていたのですが、成人してからは母から引き離され、「サルキ(散吉)」へ移されることになります。
ここでいよいよ「かぐや姫」の登場となるわけです。
「サルキ」の村に突然、エキゾチックな美貌の娘が現れたのです。この噂を聞きつけた大伴氏が、彼女を奇瑞として朝廷に参内させようとしますが、娘が早く亡くなったため、願いを果たせず、怒りにまかせて、世話をしていた付き人の老夫婦を斬り殺してしまいました。以来、さまざまな天変地異が続き、関わった大伴兄弟が亡くなるまで、この異変は続いたというのです。
村では、異国の人の祟りであると畏れ、その霊を鎮めるため出来たのが「サルキ(散吉)神社」だということになります。
孫崎紀子説は、このお話を元に、菅原道真の孫、菅原文時が、このかぐや姫の物語を生み出したのだと言います。文時は、神社の名前こそ「讃岐神社」としたものの、物語に登場する翁(おきな)の名を「さるきのみやっこ」として、「さるき」の音を後世に残したというのです。
この説が成立するためには、菅原の文時が見たという「サルキ神社」の由緒書きが存在しなければなりません。今、著者の孫崎紀子さんに手紙で、その辺の経緯を問い合わせしておりますが、はたして手紙が著者の元へ届くのかどうか、また届いたとしてお返事をいただけるのかどうか、現時点では定かではありません。
言えるとすれば、この時代に滅ぼされたササン朝ペルシャの王族が日本の飛鳥までやってきたようだということ、その王族は、日本を離れるに際し、その妻と娘を日本に残していったこと、これだけは、ほぼ間違いなく言えることだと思います。
母親は、人質の身として亡くなりますが、残された娘がどんな人生を歩んだか、今となっては知るよしもありませんが、そこから「かぐや姫」のモデルではという話も起こってきたということになります。と同時に、このペルシャのお姫様が、大津皇子の妃、山辺皇女(やまのべのひめみこ)ではないかという説(小林惠子著「西域から来た皇女」)まで起こってくるのです。
もし読者が「広陵町立図書館」や「竹取公園」に来られる機会があれば、ぜひ、今から1300年以上も前、はるばる極東の地を目指し、その地で亡くなっていった人たちに心を向けてみてください。
※このブログを書き終えて気づいたのですが、飛鳥駅前の須弥山石(レプリカ)の最頂部に描かれた女性の顔(菩薩だと思うのですが)と、我が町広陵町のかぐや姫像(原画は里中満智子)の顔が非常によく似ているのです。偶然だとは思うのですが、おもしろいので画像を追加しておきます。
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「天覧相撲」ってご存じでしょうか?
「相撲」は「すもう」ですから、日本の国技なわけで、日本人なら子どもだって知ってますよね。では「天覧」とは、一体、なんでしょうか?
これは天皇がご覧になっているという意味です。
「東〜○○山、西〜△△海」っていう相撲の呼び出しにもあるように、相撲は東西戦になります。今では「東西」というと「関東」と「関西」と考えられがちですが、これは近世のお話しで、この「天覧相撲」がおこなわれた3世紀から4世紀の頃って、「東京」とか「江戸」とか、なかったわけです。では「東西」とは、どことどこ? となるわけですが……。
ここでヒントになるのが天皇です。中国では「天子南面」と言って、「天子様」(日本では天皇)は南に面して存在するという考え方があります。そこで「天覧相撲」の場合、天皇は「北」に座して南で対戦する相撲をご覧になるという寸法です。そうすると「東」と「西」の取り組みになるわけです。
これが後になると、天皇がいる場所が「北」となって、当麻(葛城市)の相撲館に見られるように、実際の東西とは逆になる場合もあるということです。
これは当麻相撲館の小池館長から聞いた「相撲の東西」のお話です。これともう一つ大事な「東西」のお話しがあります。広陵町文化財保存センター・河上所長にお聞きした話ですが、当時(3〜4世紀)の奈良は、曽我川を挟んで東西に真っ二つに分かれていたというのです。
東が「磐余(いわれ)」を中心にした大和朝廷発祥の地、西が大和朝廷にまつろわぬ人々の住む「葛城(かつらぎ)」という地です。「まつろわぬ」とは「従わない」とか「反抗している」というぐらいの意味で、こういった人々は大和朝廷側からは「土ぐも」と総称されていました。
上の写真は曽我川にかかる磐余橋(いわればし)から二上山を見ていますが、古くは神武天皇が、この地で大和に敵対する「土ぐも」を如何に処理するかを、帰順したニギハヤヒと策を練ったと伝えられています。
こういった当時の情勢を把握しておいた上で、日本初と言われた「天覧相撲」について考えてみましょう。これについては、葛城市にある「当麻相撲館 けはや座」の小池館長が非常に詳しいので、お話をお聞きしました。
以下、小池館長(右の写真)のお話を要約しておきます。
◇
まず対戦したのは、「当麻蹴速(たいまのけはや)」(葛城市当麻)と「野見宿禰(のみのすくね)」(桜井市出雲)の二人ですが、この名前については象徴的に使われているように思います。「宿禰(すくね)」という「名」は大和朝廷初期の役職名というか、天皇の配下の位を表す言葉です。当時、制定された「八色(やくさ)の姓(かばね)」のうち、真人(まひと)、朝臣(あそん)に次ぐ3番目の位が「宿禰(すくね)」になるわけです。しかも「宿禰」は武人とか行政官を表す称号でもあるわけで、これから見ても、「野見宿禰」は、大和朝廷側の重要ポストにある人物と考えてよいでしょう。
これに対し、「当麻蹴速」は、被征服豪族である「葛城氏」の一族で、力自慢で蹴り技が得意な無頼漢、そんな風に位置づけられています。
つまり、この勝負、最初から「野見宿禰」が勝つことが決められているのです。
日本書紀に書かれていることを思いっきり意訳すると、
時は垂仁天皇の7月7日のこと、天皇は、かねがね「俺より強い者はいない」と力自慢を鼻にかける「当麻蹴速」が煩わしくてなりません。「誰か、こいつの鼻を叩き折る者はいないのか」ということで、出雲国の「野見宿禰」が「即日」呼ばれ、垂仁天皇の前で相撲を取ることになります。この頃は、相撲はスポーツというより「戦闘」つまりは殺し合いです。土がついたら負けということではなく、どちらかが死ぬか、動けなくなるまで戦うというものです。
こうして筋書き通り、「当麻蹴速」はあばら骨を踏み折られ殺されてしまいました。勝者である「野見宿禰」は、葛城にある「蹴速」の土地を天皇から与えられることになります。それが今も香芝市に「腰折田(こしおれだ)」として語り伝えられていますし、「当麻蹴速」を悼んで建てられた「蹴速塚」も、葛城市の相撲館「けはや座」の近くに残されています。
では、東西の話しに戻って、この天覧相撲を眺めなおしてみましょう。
日本初の天覧相撲がおこなわれたのは、垂仁天皇7年の7月7日、おそらく3〜4世紀のことと考えられます。
この頃、葛城はまだ大和朝廷に完全に服従しているとは考えられません。それが雄略天皇4年の日本書紀の記事(5世紀の半ば)では、葛城の神「一言主(ひとことぬし)」つまりは葛城氏そのものを指すわけですが、その「一言主」が雄略天皇の一行を曽我川まで見送ったというのです。このことは、葛城と大和朝廷の境界線が「曽我川」だということを物語ると同時に、雄略天皇が葛城氏の懐柔に成功したことをも物語っているのではないでしょうか。
同じ頃、岡山の吉備氏と奈良の葛城氏の関係を巡って、雄略天皇が横やりを入れたことが「日本書紀」にあがっています。吉備氏のリーダーである吉備田狭(きびのたさ)が、「自分の妻ほど美人はない」と自慢しているのを、雄略天皇が知り、彼を朝鮮半島の任那(みまな)に派遣してしまい、その留守中に、彼の妻である稚媛(わかひめ)を自分の妃にしてしまったのです。
その稚媛というのが葛城氏の娘でした。
要するに、雄略は稚媛を奪うことで、葛城=吉備連合に楔を打ち込んだことになり、同時に葛城の血の中に、天皇一族の血を残そうとしたことになります。
つまり、これまでは、「大和」は「葛城」を抑え込むため、なりふり構わず策を弄しているように思えるのです。
こう考えると、この天覧相撲、大和朝廷が、葛城氏の不穏な動きを封じ込めるための「見せしめ」だったような気がしてきます。つまり当麻蹴速は、葛城氏の中で、大和朝廷に抵抗する過激派のリーダーだったのでは……。
想像をたくましくすれば、捕らえた蹴速を天覧相撲という公開の場所でやっつけてしまう。当時の相撲は、先ほども述べたように、スポーツではなく、戦闘そのものであり、相手が死ぬか動けなくなるまで続けられました。葛城氏の不穏分子を踏み殺すことで、大和朝廷の力を見せつける――天覧相撲とは、天皇臨席の公開処刑だったのではないでしょうか。
そこで、「野見宿禰」について見てみましょう。日本書紀では「出雲国」に「野見宿禰」という力自慢がおり、これを呼び寄せ「蹴速」をやっつけさせ、勝った報償に大和朝廷に召し抱えたと言っています。
冒頭にも述べましたように、「宿禰」は「八色の姓(やくさのかばね)」という位階制度の上から三番目にあたる重要なポストです。いきなり相撲に勝ったからと言って手に入れられるようなものではありません。
「野見宿禰」は、名前からして、もとより大和朝廷側の重要なポストにある人間だったと思われるのです。
そう考えると、「出雲国」とは島根県の「出雲」でなく、大和朝廷の勢力圏である桜井市の「出雲」と考えるのが妥当です。書記にも「即時に召す」とあり、島根県では「即時」に呼び寄せることは不可能です。
現に桜井市の「出雲」という地には、「十二柱神社」の敷地内に「野見宿禰」の墓と言われる五輪塔が残されています。もともとは、やはり「出雲」の「太田」というところにあったものが、明治に、この「十二柱神社」の境内に移されたということです。
さて、この稿を閉じるにあたって、「当麻蹴速」「野見宿禰」、この二人の決戦の場と思われる、桜井市の「相撲神社」を紹介しておきましょう。
我が町、広陵町から自転車で1時間半、山辺の道から少し外れたところに「纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)伝承地」の案内板があります。このあたりが垂仁天皇が宮を営んだ地と言われ、ここから自転車でさらに数分奥へ入ったところに、日本で最初に天覧相撲が開かれた場所「相撲神社」があります。
穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)の入り口近くにあって、祭神は「野見宿禰」、境内には新たに置かれたと思われる「力士像」と「勝利之聖 野見宿禰」の祈念碑が建てられています。
ここで気になるのが、右の案内板。「国技発祥の地」ではじまる案内文はすべて無視していただいてかまいません。ただ「赤」のラインで囲まれた文字にだけ注目してください。「カタヤケシ」ゆかりの土俵において……
では、この「カタヤケシ」とは一体、何のことでしょうか?
当麻相撲館「けはや座」の小池館長に質問をぶつけてみました。
館長の言うには、「カタヤ」というのは、相撲の土俵のことを言うそうです。「ケシ」は「消し」と考えてもいいのでは……。
館長のお話を聞いて、つまりは「土俵でやっつけてしまえ」「土俵で殺しちゃえ」みたいなニュアンスにも取れる、そう思ってしまいました。やはり日本初の「天覧相撲」とは、天皇臨席の「公開処刑」! そんな印象を強くした次第です。
なお、この考えは、相撲館「けはや座」の小池館長や、広陵町文化財保存センターの河上所長のお考えではなく、お話しをお聞きしているうちに浮かんできた編者の「白日夢」のようなものとお考えください。
それはさておき、これ以降、7月7日が「相撲節会」という行事となり、全国の力自慢が奈良に集められることとなります。それは、ただ単なる「相撲大会」のようなお遊びでなく、大和朝廷の「軍事力強化」という一面をもっていました……。
今で言えば「自衛官募集」、それも強制徴募みたいなものでしょうか。
それはさておき、神武以来、大和朝廷に歯向かってきた葛城という地は、5世紀の雄略天皇以降、大和朝廷に組み込まれていったように感じます。
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いきなり「モッチーニ」と言われても、分からない方が大半だと思います。まるで「お餅」をイタリア語で言ったような感じで、僕などは、最初に聞いたときは、マジで「お餅の入ったピッツアか?」と思ったくらいです。
でも、モッチーニといえば、小笠原でもっとも有名なザトウクジラなのです。
前回、日本で初めてザトウクジラの水中写真を撮った望月昭伸さんのことを紹介しましたが、その写真家の望月昭伸さん(愛称モッチ)が、1992年に、「O-46」と名付けられたザトウクジラの赤ちゃんを撮影しました。そこで、その赤ちゃんクジラの名前を発見者にちなんで「モッチーニ」と名付けたという次第です。
でもクジラの名前って「O-46」という記号風の名前があったり、「モッチーニ」という愛称風の名前があったり、何か名前を付ける基準みたいなものがあるんでしょうか。
小笠原ホエールウォッチング協会の言うには、「ザトウクジラは、親子クジラ以外一定のメンバーで群れを作らないことが知られています。そのため、群れのメンバーが出たり入ったりすることも多々あり、調査時に混乱をきたすことも少なくありません。どのクジラがどの群れにいるかを可能な限り正確に見分ける必要があり、アルファベットでクジラを呼びます。しかし、それよりも、人間の瞬間的な記憶の中で、それぞれの尾ビレや背ビレなどの特徴を利用したネーミングが、とても有効な場合が多々あります。例えば、背ビレの先にフジツボがついていれば「フジオ」というように、その場だけでも名前をつけることです。そのうち、何年も続けて見られると、その名前も定着してきます」と言うことだそうです。
納得です。ではモッチーニって、どんな特徴があるのでしょう? モッチーニを見分けるにはどうしたらいいのでしょうか? その答えが、小笠原ビジターセンターにあるというのでので行ってみることにしました。
小笠原ビジターセンターで開催されている「ザトウクジラ展」、まずは、その展示を見てみましょう。
右は、小笠原で見ることのできるおもなクジラとイルカです。筆頭はマッコウクジラ。
石油が掘り出されるまで、マッコウクジラから採れる油が産業革命を支えていました。このため、マッコウクジラを求めて、太平洋をアメリカやヨーロッパの船が行き来し、日本の鎖国もママならぬようになってきます。
このため、小笠原へもロシアやアメリカの捕鯨船で寄港する船が増え、ここ小笠原に住み着く欧米人もあらわれるようになりました。この人々が小笠原の欧米系住民の祖先となっていきます。
次いでおなじみのザトウクジラ。モッチーニも、このザトウクジラの仲間になります。
ところで、ザトウクジラを知る上で重要な数字があると言います。それが「4メートル」という数字です。
まず、ザトウクジラの尾ビレ(テール)の幅が約4メートル。胸ビレの長さが約4メートル。生まれたての赤ちゃんの大きさ(頭から尾ビレまでの長さ)が約4メートル。この4メートルを「4倍した」となれば申し分ないのですが、残念ながらここだけが「4倍」でなく「3.5倍した」14メートルが、成長したザトウのだいたいの大きさとなります。
このほか、イルカでは、ハシナガイルカやミナミハンドウイルカ(ミナミバンドウイルカ)のウォッチングを、小笠原では楽しむことができます。
でも、今はザトウクジラだけに集中しましょう。
ザトウクジラのウォッチングをしていますと、時により、彼らのさまざまなアクションと出会うことがあります。下の図では、「ペダンクルスラップ」にはじまる6つのアクションを紹介しています。
「ペダンクルスラップ」は海面に下腹部を打ち付ける行為。
「テールスラップ」は尾ひれを海面に打ち付ける仕草。
「スパイホップ」は頭だけを水面に出し、まわりの状況を観察する仕草。
「ブリーチ」はウォッチングの最大の見せ場です。ザトウクジラが海面から大きくジャンプし海面に背中から落ちていく様子は圧巻です。背が海面に落ちるや大きな水しぶきが上がり、船からも観客の大きな喚声とため息が上がります。
「ヘッドスラップ」は頭の打ち付け、「ペックスラップ」は胸ビレの打ち付けですが、これは、先の「テールスラップ」とともに、まるでザトウクジラが我々に挨拶しているような、状況により「サヨナラ」してるような印象を見る者にあたえ、ザトウクジラとの距離がグッと近づいたような印象をあたえます。
このほかに「メイティングポッド」と言って、メスのエスコート役(母子のクジラを助け、子クジラの手が離れたとき、次の交尾権を手に入れる)をめぐってオス同士が争うことが多々ありますが、これは圧巻です。僕も沖縄の座間味で、一頭の母子クジラのエスコート役をめぐって三頭のオスが争うメイティングポッドの真ん中に船が入ってしまうという経験をさせてもらいました。船の名も「エスコート号」、佐野船長の操船が巧みで、危機感はありませんでしたが、よくあれで船が沈まなかったと思わせるぐらい激しいものでした。
このことからも分かるように、ザトウクジラはシャチのように一夫一婦制ではありません。交尾を済ませたオスは離れていき、生まれた子クジラと母クジラを、次の交尾権を持つエスコート役のオスクジラが守るという寸法です。そして子クジラは一年経つと母親から離れていき、母クジラは、エスコートのオスクジラとの間に新たな子をもうけていくという生命のサイクルが続いていきます。
話を戻しましょう。このようなザトウクジラのさまざまなアクションの中で、水中に潜る寸前にテール(尾ビレ)の形状がよく観察されます。このテールの形状が、ザトウクジラ一頭一頭、みんな違うのです。つまり、ザトウクジラの個体識別は、このテールの形状を観察することからはじまるというわけです。
これは、ビジターセンターにパネル展示されていた「モッチーニ」の尾ビレの形状です。尾ビレの右側部分に半円形の切れ込みがあります。これがモッチーニを見分ける大きなポイントになっています。
いよいよモッチーニのことについて触れるときが来たようです。
ただし、僕自身はモッチーニを直接見たわけではありません。見たことがないため、恋心が余計にふくらむのかも知れませんが……。
そうそう、モッチーニは人間にだけに人気があるわけでなく、オスクジラの間でもモテモテの売れっ子のようです。これは小笠原海洋センター(エバーラスティング・ネイチャー小笠原事業所)の研究員・佐藤隆行さんの受け売りですが、以下、その佐藤さんに取材したモッチーニについて語らせていただきます。
1992年、望月昭伸さんによって発見されたモッチーニは、1993年、母親から離れる時期になっても、なぜか母親の「O-46」とともに発見されています。
以後、95年、98年、99年と父島周辺で確認され、2000年に初めて子クジラを伴って確認されました。この時点でモッチーニがメスであることが確認されたということになります。
モッチーニは、生まれた時からボートなどが周りにいる環境に慣れているせいでしょうか、子クジラを伴っていても、あまり周囲のボートを警戒する様子もなく、湾口や時には湾内で、親子でのんびり水面付近を漂う姿が見られています。
こんなオットリした性格のためでしょうか、小笠原の人から愛され、ザトウクジラの時期になると、「今年もモッチーニが帰ってきた」と、人々は、モッチーニの出現を心待ちするようになっていきました。
以下は、佐藤隆行さんが作成してくれた「モッチーニ」と「O-46」の出現記録です。
―モッチーニのプロフィール―
1992年 0才 O-46の子供として父島で初確認
1993年 1才 母子一緒に父島で確認
1995年 3才 1頭で父島にいるのを確認
1998年 6才 3年ぶりに父島で確認.ペアでいるところを確認されている
1999年 7才 O-54(♂)一緒にいるのを確認
2000年 8才 子連れを初確認(母島)
2002年 10才 5頭群の中にいるのを確認
2003年 11才 子連れで確認
2005年 13才 子連れで確認
2007年 15才 子連れで確認
2010年 18才 子連れで確認
2014年 22才 子連れで確認
―O-46のプロフィール(モッチーニの母親)―
1990年 初発見
1992年 子連れで発見(O-288;モッチーニ)
1993年 モッチーニといるところを確認される。
1995年 子連れで確認
1997年 ペアでいるところを確認される
2000年 子連れで確認
2001年 3頭群の中にいるのを確認
2002年 子連れで確認
2004年 子連れで確認
2006年 子連れで確認
2008年 子連れで確認
2010年 子連れで確認
2013年 子連れで確認
上の写真は、小笠原海洋センターがモッチーニの消息について最終確認したときの写真です。ただこれ以降もインターネットで検索すると、「このごろの小笠原 blog」で「お帰りモッチーニ」という記事を見つけました。
2018年1月8日の記事です。
◇
近くにいる1頭が、浮上したまま海面で呼吸を繰り返します。
このクジラも船を見ているようです。
連れのもう1頭が上がってくると、並んで尾を上げて潜っていきました。
と、なんとその連れの尾ビレのフチが半円に欠けています。
モッチーニです!
今年も無事に小笠原まで帰ってきてくれました。
お帰りなさい、会えるのを待っていたよ。
昨シーズンは子育てをしていたので、今年は恋のシーズンでしょう。
また、多くのクジラに囲まれたモテモテのモッチーニを見られるのは嬉しいです。
何ともうらやましい限りです。一度は、噂のモッチーニに出会いたいものです。
今回のブログは「見果てぬ夢」はたまた「未完の恋」ということで終わらせていただきますが、次回は、宝永の大津波で壊滅した鳥羽の石鏡(いじか)漁港を紹介する予定です。
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竹橋桟橋を出航して三日目の朝、2016年4月21日早朝6時、おがさわら丸は予定通り、父島二見港に到着いたしました。まずは小笠原滞在中の宿泊先「プルメリアヴィレッジ」に荷を下ろし一休み。施設にはベッドに冷蔵庫、洗面台、トイレとユニットバスが付いており、食事は本館ヴィラシーサイドの食堂を利用します。洗濯機・乾燥機も共用スペースにあり、一般的な3泊(普通は船中2泊、小笠原村での滞在3泊)の滞在には充分です。
一休みしたあと朝食をとり、いよいよ取材開始です。
真っ先に向かったのが、二見港のすぐ近くにある小笠原ダイビングセンター。写真家・望月さんが小笠原の鯨類撮影のベースとしたダイビングセンターです。
ここのオーナー森田康弘さんは、望月昭伸さんが小笠原のクジラを撮影したいと、小笠原を訪問した頃からの盟友です。その森田さんにインタビューした記事を以下に掲げさせていただきます。
森田さんが小笠原へ来たのは30年ほど前(1985年頃)のこと。その同じ頃、望月さんも小笠原へ来てクジラの撮影を始めたと言います。
この頃、小笠原には、母島にまだ捕鯨基地がありました。ザトウクジラやナガスクジラは早く禁漁になっていましたが、ニタリクジラやイワシクジラについては、母島を基地に捕鯨活動が続けられていたのです。
それも、1988年には捕鯨活動がすべて終了するに至り、その翌年、小笠原でホエールウォッチング協会が立ち上げられました。小笠原をあげて、「捕るクジラ」から「見せるクジラ」へ方向転換することになったのです。
ところで、小笠原ダイビングセンターの先代社長の古賀さんと望月さんは知り合いだったようで、その古賀さんを頼って、望月さんが小笠原へとやってきました。
その頃、望月さんは、マリンダイビング・水中造形センターの専属カメラマンだったのを、2年ほど前に独立したばかりでした。そして自分のライフワークとして「小笠原のクジラ」を撮りたいと、古賀社長を頼って小笠原へやってきたのだと言います。
当時はまだ、海外のクジラを撮るカメラマンはいましたが、日本のクジラを撮る人間はまだ誰もいませんでした。
そこへ「日本の鯨類を撮るのに一番いいのは小笠原ではないか」と、望月さんがダイビングセンターの先代社長古賀さんにアプローチしてきたのです。
古賀社長も、「来年からは、この小笠原でホエールウォッチングがはじまる。ぜひ一緒に盛り立ててほしい」と、望月さんに協力を約束しました。
これ以降、毎年、一ヶ月から一ヶ月半ぐらい、クジラの生態調査を含めて船を出すことが決められました。その相棒が小笠原ダイビングセンターに勤めたばかりの森田さんだったというわけです。しかも、望月さんが小笠原滞在時は、相棒の森田さんのアパートに居候を決め込むという状態でした。というのも、望月さんは独立してまもなくの頃で、子供さんも小さく、要は取材費用にもこと欠く状態だったのです。森田さんは森田さんで、好きなダイビングで飯を食うため、東京の自動車会社を辞め、小笠原ダイビングセンターで丁稚奉公のように働いていた時期でした。二人ともに金がない。そこで夜は、二人でカップラーメンをすすり、翌早朝には海へ出てザトウクジラを探し撮影するという日々が続きました。
ところが、先ほども述べましたように、ザトウクジラは禁漁になっていたのですが、ニタリクジラやイワシクジラは、まだ獲られており、母島で解体されていた時期があります。ザトウクジラにしたところで、仲間の殺される叫び声が聞こえてくるわけで、そのせいか、今ほどクジラはフレンドリーではなく、人間や船が近づくとサッサと逃げてしまうことが多かったのです。だからクジラを探すのも大変で、そんな中、望月さんが一人「日本のクジラの水中写真を初めて撮るんだ」と勢い込んでいたのだと言います。
そんな頃(1990年)、古賀さんをはじめ小笠原の有志で、ハワイへ先進のホエールウォッチングを学びにに行くということになりました。そして、その翌年には、今度はハワイの学者さんが、WWF(世界自然保護基金)という組織を通じて小笠原にザトウクジラの調査のために訪問してきたのです。個体識別をおこない、ハワイ、カリフォルニアで観察される個体と小笠原に共通しているザトウクジラの個体で合致するものがいるのかを調査するためだと言います。
そのために尾ビレの撮影や、ザトウクジラの音声調査がおこなわれました。ザトウクジラは、一頭一頭、尾ビレの模様や形が異なります。その尾ビレを観察し、歌うクジラといわれるザトウクジラの歌声を録音し、ハワイ、カリフォルニアと共通の個体がいるかを調べるのです。
小笠原のホエールウォッチングは、このとき来たハワイの専門家から、ホエールウォッチングの仕方、クジラへのアプローチの仕方を教えてもらい著しい進歩を遂げました。望月さんもその一行に同行してクジラへのアプローチの仕方を学んだのです。ただ結論を言うと、小笠原にはハワイ、カリフォルニアと合致する個体は非常に少なく、むしろ沖縄と小笠原で共通する個体が多いことが、今では分かっています。
こうして、スキルアップした望月さんは、その言葉通り、世界ではじめて日本のザトウクジラの水中撮影に成功し、「クジラは天からあたえられた被写体」とばかり、鯨類撮影の草分けとなっていくのです。
以下の文章は、生前、望月昭伸さんご自身が書かれた文章です。望月さんが亡くなった同じ年の7月、「クジラの棲む青い地球―望月昭伸写真集」(1997年 コアラブックス発行)に付録として挟み込まれて公開されました。今回、小笠原ダイビングセンターの森田オーナーに取材させていただいた記事を裏付ける内容になっています。
「私が初めて小笠原のザトウクジラの撮影に取りくんだのは、1987年のことだった。当時、日本では、まだだれもホエルウォッチングをやったことがなく、どうやってクジラを探したらいいのかもわからなかった。地元のダイビングサービスの人と、ほんとうにゼロから始めて、クジラヘの近づき方や、撮影の仕方を体得したのである。父島の西側の崖の上で私がクジラを探していたら、“自殺志願者がいる”と通報され、警察官が駆けつける騒ぎとなった。なつかしい思い出である。
私はクジラの撮影ではひじょうにツイていて、初めの年から6頭の交尾集団の撮影に成功した。巨大なクジラの雄たちが雌を争ってくりひろげる戦いのすさまじい迫力。そのときの強い印象が、クジラの撮影が私のライフワークとなるきっかけだったのだと思う。クジラの撮影をしていて、彼らの巨大さを思い知らされるような体験を何度もしている。
あるとき、クジラが私たちの小さなボートの真下で鳴いていた。歌うような不思議な鳴き声が海面から響いていた。水中マイクを通さずにじかに声が聞こえるのはひじょうに珍しいことである。潜水具をつけて水中に入ると、クジラの鳴き声が電気のような衝撃となって、ビリビリと足の先から頭まで走った。まるで海全体が鳴いているようだった。
母クジラの巨体に接触してしまったこともある。私は子クジラが1頭で泳いでいるのを水中撮影していた。好奇心旺盛な子クジラがどんどん私に近づいてきてしまった。そのとき、突然、足の下の深い海から、わーっと母クジラが浮上してきて、私と子クジラの間に割りこんできた。私も初めてクジラに対するほんとうの恐怖を感じて、思わず後ずさりをした。しかし、私も、母クジラも避けきれず、母クジラの胸ビレが私の足の裏にふれた。やわらかくしなる、しかし固い感触が、いつまでも私の足の裏に残っていた。」
翌日、森田さんの持ち舟「韋駄天?」に乗船させてもらい、小笠原の海へ乗り出しました。そこで、望月さんの遭難について興味深いお話しをお聞きすることとなったのです。
望月さんが撮ったザトウクジラの母子の写真が、小笠原ダイビングセンターに飾られています。この写真も、望月さんの死後発行された「クジラの棲む青い地球―望月昭伸写真集」(1997年発行)に収録されており、このブログにも転載させていただきました。セーリング中、この写真について森田オーナーから、我々素人が聞いても「なるほど」と胸落ちする話しをうかがいました。
以下は森田さんにお話を伺った要約です。
◇
望月さんはクジラに対して恐怖心を持っていました。潜るときも「気合いを入れないと怖くて撮れない」と常々語っていました。僕は何度も彼と一緒に海の中へ入っていますが、生きものに対してソフトにアプローチする人と、ワイルドに接する人がおり、望月さんは後者だと思います。
望月さんはクジラに対する恐怖心を押し殺し、自分を奮い立たせ果敢にクジラに向かっていくんです。泳ぎ方も非常に早いのです。僕なんかはスピードを上げるとクジラにプレッシャーをかけてしまうと思い、できるだけゆっくりと泳ぎ、クジラが寄ってきてくれたらオーケーだくらいに思っています。クジラに向かう角度も、我々はクジラと平行に泳ぎ、クジラにプレッシャーをかけないようにします。これに対し、望月さんは、クジラに対し向かっていくんです。クジラの歌声を真似たりもします。それをやると、ワーッと寄ってくるクジラがいたりします。
こういったことを「おもしろがる」クジラも確かにいるし、こういうクジラに出会ったときは、実にいい写真が撮れるんです。
この写真(中程に掲載したザトウクジラの母子の写真)なんかもそうですが、ちょっと考えてほしいんです。これ、ザトウクジラの親子なんですけど、4メーターぐらいの距離まで近づいて撮っています。水中の鯨を撮るときはクジラとの距離が遠くても10メートルが限度です。これ以上離れると、写真として使い物になりません。
水中では地上みたいに望遠レンズが使えないんです。水の透明度もその年によって違うんですが、透明なときでも水の中は深くなるほど暗いし、望遠を使っていたら、泡や浮遊物ばかりが写って肝心のクジラを撮ることができないんです。だから望遠ではなくワイドレンズを使い、思いっきり寄っていって撮るんです。
思いっきり寄って撮れた写真は、クジラの描写が、今まで見たことのないような鮮明さで写るんです。それが彼が使っていたカメラとレンズの特性です。
ところが、いつも彼のようなやり方を「おもしろい」と思うようなクジラばかりとは限らないんです。
◇
ところで望月さんの遭難時は、森田さんは同行していませんでした。それでもあえてお話をうかがうと、望月さんの最後の模様を次のように推測してくれました。
「彼は寄り添って撮るカメラマンではない。思いっきりワイドレンズを使い、思いっきり近づいて撮るタイプのカメラマンです。クジラは、足びれを止め浮いているだけの者は敵とみなさないが、スピードを上げ近づいてくる存在は敵とみなす習性がある。遊び心のあるクジラで、それを許すクジラもいるが、執拗に付きまとわれると、胸ビレを大きく振って追い払われる場合だってある。そのときは、ゆっくりな動きなのですが、それでも海の中で電信柱を振り回しているようなもので、しっかり目を開いていれば避けられるのだが、撮影に夢中になっていたりすると、この胸ビレの直撃を受ける場合もある。おそらく望月さんの事故はこういう状況だったのでは、と思われます。」
「韋駄天?」に乗船させてもらい、望月さんの最期の様子も、おぼろげながら想像できるようになりました。船上ではザトウクジラを観察したり、水中カメラを船体に沿っておろし、船体を共鳴体にしてクジラの音を録音することもできました。
小笠原の海は、まるで夢のなかの出来事のようで、気づけば5時間近くセーリングしていたことになります。
いよいよ下船――現実に帰る時間がせまってきたようです。
明日は、小笠原海洋センターやホエールウォッチング協会を訪ね、望月さんにちなんで名付けられた、ザトウクジラ「モッチーニ」の足取りを追うことにします。
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1966年、ザトウクジラおよびシロナガスクジラが、国際捕鯨取締条約に基づき禁漁となりました。禁漁以降、小笠原諸島へは次第にザトウクジラが戻ってくるようになり、そして1987年、写真家・望月昭伸さんが小笠原ではじめてザトウクジラの水中撮影に成功するにいたったのです。
以来、望月さんは、クジラを「天からあたえられた被写体」として、世界のクジラやイルカたちを撮り続けてこられました。
その望月さんが、1999年3月20日、小笠原の母島沖でザトウクジラの水中撮影中に行方不明となったのです。事故当初は生存の可能性も伝えられたのですが、結局は、遺体はおろか、愛用のカメラさえ見つけることができず、その生存は絶望視されるに至りました。
今回は、小笠原に、望月さんが無名時代だったころからの盟友森田さん(小笠原ダイビングセンター)や、ホエールウォッチング協会を訪ね、望月昭伸さんのこと、彼の名前が付けられたザトウクジラ「モッチーニ」のこと等々を紹介していきたいと思います。
2016年4月19日21時40分、竹島桟橋発の「おがさわら丸」に乗船、いざ小笠原の父島を目指します。乗ってみて教えられたのですが、今回は通常の航路ではなく、「鳥島」や「孀婦(そうふ)岩」へと立ち寄り、それら島の周囲を一回りし、その後、小笠原へ向かうというのです。このため、通常25時間30分の航路が、32時間20分かかるといいます。予約時点から「随分時間がかかるなあ」とは思っていましたが、まさか、こんな特別プログラムになっていたとは気付きませんでした。
おかげで「鳥島」の「アホウドリ」についても、船内のレクチャーや、遠望ではありますが貴重な観察をさせていただき、自然と人間の向き合い方についても深く考えさせらた次第です。
昔、北大路欣也主演の「漂流」という映画を観たことがあります。鳥島に漂着した主人公が、生きるために「すまぬ、すまぬ」と口走りながら「アホウドリ」を棒きれで撲殺していくシーンが忘れられません。この無人島では水にしろ、食料にしろ、無数に生息するアホウドリを殺して手に入れるしかなかったのです。
人間に対する警戒心もなく、おまけに陸ではヨチヨチ歩きしかできないアホウドリは、飢えた漂流者の格好の餌食となりました。
ところが漂流者だけならまだいいのですが、明治にはいるや、羽毛の原料として「アホウドリ」がターゲットになりました。ヨーロッパの羽毛布団の原料として、集団で営巣するアホウドリに目が向けられたのです。こうして「アホウドリ」は日本にとって貴重な外貨獲得手段となり、鳥島だけで推定500万羽の「アホウドリ」が、人間の欲の犠牲になっていきました。
明治期、鳥島にはアホウドリの羽毛採取のため、125人ほどの島民がこの仕事に従事していましたが、1902(明治35)年の鳥島噴火により全員が死亡するという悲惨な事故が起こりました。この後も、牧牛を主体としながらアホウドリの羽毛採取の事業が続けられていましたが、これも1939(昭和14)年の噴火で壊滅します。
やがて太平洋戦争が終わり、1949年、アメリカの鳥類学者が鳥島を調査した結果、一羽のアホウドリも見つけることができませんでした。
これにより、いわゆる「アホウドリ絶滅宣言」がなされたのです。
――――――
ところがです。1951年になって、鳥島で繁殖しているアホウドリが再発見されたのです。
乱獲から転じて「アホウドリ」は、今度は保護される対象になりました。それもつかの間、1965年の火山性群発地震により、保護観察をおこなっていた測候所が鳥島を撤退することになり、この活動も休止することとなってしまったのです。
おがさわら丸は予定通り、翌12時40分頃、鳥島の見える海域に到着しました。
いよいよ、これから1時間かけて鳥島を周回します。
鳥島は全島面積4.79㎢、直径2.7km、標高は硫黄山で394メートルという小さな火山島です。ここにアホウドリの大群が生息し、その羽毛を目当てに、人々が移り住み小さな集落を作っていました。
明治、昭和の噴火活動で、今は無人島になっていますが、周回途中、溶岩が海へ流れ落ちた痕を見たり、かつて島民が住んでいた集落跡を遠望したりと、あっという間に時間が過ぎていきました。
鳥島に残されたアホウドリの営巣地も視認しましたが、昔、映画で見た驚くようなアホウドリの大群とはちがい、群れが細々と生き残っている、そんな感じでした。
このアホウドリの群れを、火山噴火の恐れのある鳥島から安全な地域に移住させようとする計画があります。
選ばれたのは、鳥島から南に約350?、小笠原諸島の聟島(むこじま)です。計画は2008年から開始され、5年間で、のべ70羽のひなを移送し、死んだ1羽をのぞく69羽すべてが巣立ったと言われています。さらに2016年には、人工飼育個体が初めて聟島での繁殖に成功したと言います。
アホウドリたちは、日本の経済発展という人間の都合で殺戮されていきました。それを今度は絶滅から救おうと立ち上がった人たちがいます。それはそれで、すごく感動的で素晴らしいことだと思うのですが、ここへ来る少し前、岡山県美作の鹿の処理場へ行ってきたことがあり、その時のことを思うと素直に喜ぶことができないのです。
鹿肉を処理する工場ですが、そこで美作市の職員の方のお話しを聞かせていただきました。
そのお話しによると、野生の鹿の個体数が減り、美作でも鹿の姿が山から消えてしまったことがあるそうです。そんなとき、子連れの母親鹿があらわれ、やれ保護だ、やれ繁殖だと、県をあげて野生の鹿を保護する取り組みがおこなわれました。そうして起こったのが、野生の鹿が増えすぎ、植林を食い荒らすという「食害」という問題です。その被害は捨てておけず、今度は、保護どころか、鹿に賞金をかけて捕殺するという結果になってしまいました。
アホウドリは、人のいない無人島で繁殖してきました。そこへ人さまが人間の都合で割り込み殺戮の限りを尽くしました。
新たな移住地も、人に荒らされない無人島です。でも逆に、アホウドリが、人の生活する町や村で大繁殖したらどうなるのでしょうか? 人間の生活を脅かさないという暗黙裏の了解のうえに「保護」があるのでしょうか?
今、「動物愛護」という「上から目線」でなく、「動物の権利」を考えるという新たな発想が芽生えはじめていると言います。クジラやイルカの問題、鹿の問題、アホウドリの保護等々、これから人間は、自然とどう接していくのかを、本当に考えていく時期に来ているように感じます。
まだ「答え」は霧の中ですが……。
そんなことを思っている内に、おがさわら丸は、鳥島海域を離脱し(14:00)、次なる目的地「孀婦(そうふ)岩」へと向かっていきます。孀婦岩へ到着するのは、2時間後ということです。
ところで、この孀婦岩というのは、鳥島の南約76kmに位置し、標高99m、東西84m、南北56mの孤立した岩の柱です。これを調査したイギリス人は、旧約聖書で神の指示に背き「塩の柱」に変えられた女性に似ていると、「ロトの妻」と名付けました。確かに、映画「ソドムとゴモラ」で見た「塩の柱」に似ています。この命名を意訳し「孀婦岩=そうふがん」という名称があたえられました。
なお、この孀婦岩、気象庁により活火山とされているそうです。
さて、この孀婦岩への到着、島の周回で二日目のプログラムが終了し、明日の朝は、いよいよ小笠原到着です。
次回は、望月昭伸さんの足取りを追って小笠原・父島へ上陸します。
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美ら海水族館は沖縄の北西部、本部(もとぶ)半島の先端近くにあります。これに対し那覇は沖縄の南部西海岸に位置し、那覇から美ら海水族館に行こうと思うと、南北に長く延びた沖縄島のほぼ3分の2をバス移動しなければなりません。その間、ほぼ3時間ちかくをバスに揺られてやっと記念公園前にたどりつくという寸法です。沖縄の最北端から最南端までほぼ400キロ、どうして鉄道がないのでしょうか。
戦前は軽便鉄道もあったといいますが、沖縄戦で破壊されてしまいました。戦後はアメリカの統治下に長くあったわけで、その間、米軍は道路網の整備に精力を注ぎ、沖縄を車社会に変えてしまったということです。今は、那覇市内はモノレールが敷かれていますが、これが隣接する浦添市まで延長される予定で、将来は北部の名護まで計画に入っていると言います。沖縄本島の南北がモノレールで結ばれる日も近いと考えていいのでしょうか。
話が沖縄の交通網の話にそれてしまいましたが、この日、私は、沖縄本島の南、座間味島からフェリーに揺られ、バスに揺られ、揺られ揺られて「美ら海」までやってきたわけです。少しばかり、「なぜ、沖縄には鉄道がないんだ!」と、愚痴っぽくなるのをお許しください。
いくら「船酔いには強いんだ」と胸を張りましても、やはり疲れました。しかも時間は夕方近く、今日は記念公園近くのホテルで、おとなしく一泊することにしました。
翌日、体力も回復し、朝8時半の開館を待ちかねて、美ら海水族館に駆け込みました。
前日、ホテルから獣医の植田さんに電話連絡したところ、明日は終日那覇に出かけているため不在とのこと。「フジ」のことなら、動物管理チームの古網主任に会うよう勧められていました。植田獣医には、大阪から電話取材していることもあり、あきらめざるを得ません。むしろ「フジ」に尾ビレを付ける訓練を直接担当された古網さんに会える、そのことが自分の中で大きく膨らみ、はやる気持ちを抑えて入館した次第です。
ここは「フジ」が存命中に使っていたプールです。このプールで、当時、新米飼育員だった「古網雅也」さんと、尾びれを失ったイルカ「フジ」のドラマが展開しました。そして、まさに、ここが古網さんが指定した待合場所というわけです。
このプール前で古網さんの仕事が一段落するのをしばらく待ちます。
ところでこのプール、僕が訪ねた頃は、幼いイルカたちの住みかになっており、こんな看板が出ておりました。
「仔イルカ経過観察中(平成26年6月4日生まれ)
?ガラスをたたかないでください。
?カメラ撮影の際にはフラッシュを使用しないでください。
動物への影響を考慮し、最低限の清掃をおこなっています。」
のぞき窓からは好奇心いっぱいのイルカの子どもたちが、目をキラキラさせながら逆に人間たちを観察していました。なんのことはない、こちらが観察されているわけです。
しばらくして古網さんがグレーの作業服で現れました。
2004年9月23日には、尾びれを失ってからできなかったジャンプに初めて成功します。しかし、着水したと同時に新型人工尾びれはバラバラに砕け散り、フジもその破片で傷つくという事故が起こってしまいました。
計画は暗礁に乗り上げます。
古網さんの心の中に、「俺たちは、フジにジャンプを強制していないだろうか」「これでフジがつぶれたら元も子もない」「人工尾ビレが本当にフジのためになっているのだろうか」、そんな疑問が次々と湧き上がってきて、一時は植田獣医に開発の中止を進言したほどでした。
しかし、そんな疑問を吹き飛ばすように、「フジ」は、娘の「コニー」がジャンプする姿を見て、無いはずの尾をしきりに振りジャンプしようとするのです。
獣医の上田さんは決断しました。ジャンプは自発的だ。フジは飛びたがっている。それならジャンプでも壊れない尾びれを目指そう! 古網さんの疑問も吹っ飛び、今度は、古網さんが「フジ」の直接の担当となって、人工尾ビレの開発と平行し「フジ」のトレーニングが続きます。
2004年10月16日、カーボンファイバーとグラスファイバーを組み合わせてつかってみましたが、これもジャンプでヒビが入り壊れてしまいました。
2004年11月21日のテストでも壊れしまいました。
「フジのパワーに負けない尾びれを」、この言葉を合い言葉に開発が続き、ついに2004年12月18日、今回は今までにないまったく新しい材料を芯に使った尾ビレが誕生しました。
しかし、今回の尾ビレが、成功してもダメでも、開発は一応切り上げるという決断がされています。
いよいよ最後のチャレンジです。
今では、「フジ」は古網さんを信じ切っており、二人の意気もピッタリ、尾ビレの装着もスムーズに進みます。
スタッフが固唾をのんで見守るなか、まずはツイスト、続いて回転、そしていよいよ
「ハイジャンプ、行きまーすッ!」
古網さんの声があたりに響き、ついでハイジャンプのターゲットが空高く掲げられました。
「フジ」はいったん水中深く潜るや、勢いをつけ水面を目指します。やがて、水面を割り「フジ」の頭が顔を出したかと思うや、水滴をまき散らしながら灰色のからだ全体が宙空を駆けのぼっていきました。
大成功です。ターゲットを目指し「フジ」の会心のジャンプが披露されました!
開発の開始から実に1年と10ヶ月、とうとう壊れない「フジ」にフィットした人工尾びれが完成したのです。
上の写真はすべて、「フジ」という一頭のイルカのためにつくられた「人工尾ビレ」です。失敗しては改造し、壊れてはまた改造し、飽きることなく造り続け、改造し続けられた人工の尾ビレ。この尾ビレを付けて元気に泳いでいた「フジ」も、2014年11月1日、感染性肝炎のため、45才(推定年齢)で亡くなりました。
ところで、じゃのひれドルフィンファームで、バンドーイルカの「もも」や「かえで」と知り合って以来、イルカやクジラに――と言ってもイルカもクジラの仲間なのですが――のめり込んでしまった私は、「本」やら「DVD」やら、「グッズ」やら、ともかくクジラやイルカと名の付くものは、手に入る範囲で集め回っていました。
その収集品の中に、「イルカと少年」(アメリカ)という2011年に映画化された作品のDVDがありました。
カニを捕らえる罠にかかり、尾ビレを失ったバンドーイルカの「ウインター」と、父親に蒸発された「孤独な少年」が心を通い合わせるというストーリーです。これは実際にあった話しをもとに組み立てられており、映画の中のウインターも彼女自身が演じています。そのウインターは、今も、クリアウォーター水族館で元気に暮らしており、彼女の姿を見ようと思えば、クリアウォーター水族館のホームページを開けば、ライブ映像だって見ることができてしまいます。
ところが、もっと驚いたことには、日本にも同じように人工尾ビレのバンドーイルカがいたのです。それが「美ら海水族館」の「フジ」です。しかも、ウインターが尾ビレを失う事故を起こしたのが2005年のことですから、それより3年も早くに「フジ」の事故が起こっています。
早ければ良いという話しではありませんが、重要なのは「フジ」が世界で初めて「人工尾ビレ」を付けたイルカとなったということです。つまり、参考にできる事例がまったくなく、すべてが手探りで進められたということなのです。冒頭の写真に掲げた人工尾ビレの試作品、そのおびただしい数が、このプロジェクトに関わった人たちの苦労を物語っています。素材、形、取り付け方法、すべて試行錯誤で、問題点をつぶしながら、ついには「フジ」にピッタリの人口尾ビレを完成させたのです。
「フジ」に人口尾ビレをプレゼントするため、ブリヂストンタイヤの研究チーム、造形家、飼育スタッフ、獣医の人たちが知恵を絞り合いました。その詳細は、松山ケンイチさん主演で映画化された「ドルフィンブルー」をはじめ、NHK制作のドキュメンタリー「ひれをもらったイルカ」、さらには映像作品ばかりでなく、「しっぽをなくしたイルカ」(岩貞るみこ)、「とべ!人口尾ビレのイルカ『フジ』」(真鍋和子)などの子供用ノンフィクションにも詳しく描かれています。
かくいう私も、これらの情報を得て、はじめて「フジ」の存在を知ったという次第です。
2016年2月、沖縄の座間味へ「エスコート号」(ホエールウォッチング船)と、そのオーナー佐野さんご夫婦の取材にうかがった私は、その足で「美ら海水族館」と連絡を取り訪問することにしました。ところが、「フジ」は昨年の11月1日に亡くなったと言います。
4ヶ月早くフジのことを知っていれば、彼女の姿だけでも見ることができたと思うのですが、未練がましく「フジ」のことを聞いていると、電話に出られた方が、「しばらくお待ちください」と、獣医の植田啓一さんに繋いでくれることになりました。
植田さんは、壊死していく「フジ」の尾ビレを手術された医師で、その後、落ち込んで浮いているだけの「フジ」に人工尾ビレをつくろうと、ブリヂストンタイヤに働きかけた人物です。
人工尾ビレの話は次回に譲るとして、ここでは、「フジ」というバンドーイルカについて、また、どのようにして尾ビレを失ったのか、その辺の話を紹介していきたいと思います。
1975年7月20日から開催された沖縄海洋博は、183日間の会期を経て、翌年1月18日にその幕を閉じました。海洋博の会期終了に伴い、海洋生物の展示館は「国営沖縄記念公園水族館」として海洋博公園内の敷地で再出発することになります。そして、その再出発に伴い、内田詮三館長のふるさとである伊豆の海から、7才(推定)雌のイルカが移されてくることになったのです。
それが「フジ」―― 富士山の見える海から来たので「フジ」と名付けられたバンドーイルカです。
フジは2年後の1978年、長男の「リュウ」を出産しました。その11年後の1989年には、長女「コニー」を、1995年には次男「チャオ」を出産し、3頭のお母さんとなったのです。
フジは水族館では、結構、気ままでへそ曲がりのイルカだったようです。これも人間から見ての話しですが、新米飼育員などは「フジ」にからかわれ、言うことを聞いてもらえないこともしばしばだったようです。したがって芸をするには向いていませんでした。ところが子育ての面では、しっかり者の母さんという感じで、いつも子どもたちのそばに付き添って泳ぎ、狭い水族館の壁に子どもたちがぶつからないようガードしている、そんな頼もしいお母さんぶりを発揮していました。
さて2002年11月1日 「国営沖縄記念公園水族館」は「美ら海水族館」としてリニューアルオープンすることになりますが、そのオープンを半月後に控えた10月16日、フジの尾ビレが壊死を起こしていることが判明しました。壊死の進行は速く、「このままでは」というので、原因の分からないまま、10月25日 、第1回目の手術が実施されました。壊死した尾びれを削除する手術でしたが、それでも壊死の進行は止められなかったそうです。
植田獣医は、沖縄県立北部病院の嘉陽医師に協力を仰ぎ、11月7日、第2回目の切除手術に臨みました。植田獣医と嘉陽医師の二人で、「フジ」の左右の尾ビレの4分の3を思い切って切除するというものです。
結果、手術は成功し、壊死の進行を止めることができました。ただ尾ビレの4分の3を失い、「フジ」は泳ぐことのできない、ただ浮いているだけのイルカになってしまったのです。
植田獣医は、イルカに感情移入しすぎるのは間違いのもとだと言います。もっとドライになってイルカを見つめるべきだと言います。その植田獣医の目にも、「フジ」の落ち込みようは歴然としていたようです。
なんとか「フジ」に元気を取り戻してやれないものか、植田獣医は、連日、遅くまで世界中の文献や事例を読みあさり、アメリカでサメに手ビレを食いちぎられたウミガメの事例に行きついたのです。なんと、そのウミガメのために、アメリカのタイヤメーカー「グッドイヤー」が動き、人工の手ビレを開発したというのです。
ウミガメにできたのなら、イルカにもできるはず、そう考えた植田獣医は、日本のブリヂストンタイヤに「フジ」の人口尾ビレを開発してもらえないだろうか、そう思いつきました。
縁故を頼り、ブリヂストンタイヤと渡りを付けた植田獣医は、「フジ」の窮状を訴え、イルカの人工尾ビレの開発が「世界ではじめて」ということを強調し、アメリカのタイヤメーカー「グッドイヤー」がウミガメの人工手ビレをつくった話しを持ち出し、懸命にブリヂストンの首脳陣の説得に当たりました。
植田獣医の熱意に、天下のブリヂストンが動きました。
化工品材料開発部の加藤信吾部長と、その部下でスポンジ技術を専門にする斉藤真二さんが、「フジ」の人工尾ビレ開発の責任者となったのです。
こうして「フジ」の人工尾ビレ開発プロジェクトが始動をはじめました。
次回は、美ら海水族館を訪ね、「フジ」の担当となった海獣飼育課の古網リーダーにお話を伺います。
スイミングスクールで個人指導を受けたものの、水への恐怖心から挫折、イルカと自由自在に泳ぐという計画は、ものの見事に失敗に終わりました。でも、ものは考えようです。浮くようになったわけだし、まして、イルカさんと泳ぐときはライフジャケットを着けているわけですから、おぼれる心配はまずありません。自分にしては上出来です。
こんなわけで女房と二人して「淡路じゃのひれアウトドアリゾート」へとやってきました。まずは予約の確認と「ドルフィンスイム」の申込みを済ませ、時間まで海水プールを見学します。何より大事な実験結果はどうなっているでしょう。ここ2週間というもの、まだ見ぬ「もも」に思いを寄せつづけ、ひたすら語りつづけてきました。
とはいうものの、この場に臨んで、期待は、「そんなわけないよなぁ」「思うだけで通じるわけないよなぁ」と、そんなあきらめムードに変わっていました。
期待半分あきらめ半分、そんな感じで「もも」のプールを探していると、
「ありました!」
中ほどのプールの前に案内表示が出ています。「もも」と、もう一頭「ゆず」と表示されています。
ここが「もも」のプールか!
そう思った瞬間です。背後で「バシャーン」という水しぶき。頭に冷たい水滴が降りかかります。
あわてて振り返ると――!!
「もも」と「ゆず」が、二頭でジャンプをはじめ、それが、なかなか終わらないのです。あわててカメラを取り出しますが、連写モードになっていなかったため、なかなかジャンプのスピードに追いつけず、パチリパチリとシャッターを切り続けます。それでもジャンプは終わりません。
ついには係の方が驚いて飛び出してくる始末です。
ジャンプするのは、餌をほしいときとか、遊んでほしいときらしいのですが、普通は二、三回もすれば終わると言います。それが十回どころか、あわてて数えだしたときからでも二十回以上もジャンプが続いているのです。
とても威嚇のようには思えません。
「思いが伝わったんだ!」 とっさにそう思ってしまいました。
思い込みかも知れませんが、それでも、シャッターを切っていて訳もなく涙が止まりません。大の男が恥ずかしい話ですが、水しぶきと一緒になっているので泣いているのは、何とかごまかせそうです。
係の人が飛び出してきた頃にはジャンプも下火になり、やがて海面も静かになっていきました。
ひょっとして何かの偶然かも、そうも思いましたが、この一年後、しまなみ海道にドルフィンファームが新たにオープンしたときのことです。「もも」がしまなみ海道に移されることになり、それを知った僕も、取材という名目で「もも」を訪ねることにしました。
そのとき、「もも」の対応が偶然ではなかったと確信しました。一度しか会っていない僕を、「もも」はしっかりと覚えてくれていたのです。
さて、この話は締めくくりのところで取り上げるとして、まずは人生初めての体験、ドルフィン・スイムについて話しを続けていきたいと思います。
ここでイルカさんについて、少し基本的なことを勉強しておきましょう。
魚と違い、イルカは尾びれが飛行機の尾翼のように左右に広がっています。魚の場合は尾びれが縦についており、これを左右に振ることで泳ぎます。これに対し、イルカは左右に広がった尾びれを上下に振ることで推進力を作り出します。この違いは、イルカがほ乳類で肺呼吸をするため、頭の上に開いた呼吸孔をすばやく海面に出すためではないかと言われています。その尾びれの強さは並大抵ではなく、いやがる野生のイルカを追い回し、尾びれの一撃で肋骨を折られた人間もいるぐらいです。
エコロケーションについては前回触れましたので、変わったところで「半球睡眠」について触れておきましょう。イルカの脳は、左右で二つに分かれて活動します。左が眠っているときは右が活動しており、右が眠るときには左が活動している、つまり眠らずに泳ぎ続けることができるという寸法です。
また代謝が活発で、人間が24時間で肌が再生されるのに対し、イルカは2時間で新しい肌が再生されるということになります。これは早く泳げるよう、いつでも肌をすべすべにしておく必要があるためです。
スイミングの前には、調教師のやさしくて陽気なお姉さんが、イルカについて、いろいろと勉強させてくれます。ただ残念なことに、今日一緒に泳いでくれるのは「もも」と「ゆず」ではなく、「さくら」と「かえで」という二頭の雌のバンドーイルカということでした。「もも」たちは、まだ人と一緒に泳ぐまでにはトレーニングが進んでいないのだと言います。
上の図は、その「かえで」と「さくら」の見分け方です。「かえで」は小ぶりで、身体の色は濃く、背びれがとがっており、上部に切れ目があります。これに対し、「さくら」は大柄で、色も浅く、背びれは丸みを帯びています。このようにイルカたちはそれぞれ特徴があり、この特徴を早くつかんで個体差を知ることで、イルカたちとの距離がぐっと縮まると思います。
一緒に泳いでくれるパートナーのことを知らないなんて失礼ですものね。
さあ、いよいよです。
まずは「かえで」の背びれにつかまってのスイミング。調教師のお姉さんが言います。
「背びれを左手で軽く持ち、後は浮かんでいるだけでいいですからねぇ。」
言われたように、背びれを軽くつかむと、それが合図であるかのように「かえで」が、かなりのスピードで泳ぎだしました。
すべて、うまくいくはずでした。ライフジャケットは着けているし、おぼれるはずがありませんでした。
でも、おぼれてしまいました。
水に浸かったまま顔を上げられないのです。
水に浮かび、かえでに引っ張ってもらい確かに進んでいるのですが、顔を水面に上げることができません。
苦しまみれに、とうとう「かえで」の背びれを放してしまいました。
ゴボゴボゴボゴボッ!
この状況は間違いなくおぼれていることになるのでしょう。
しかし、スイミングスクールで個人指導を受けた成果は間違いなくあったと言えるでしょう。水の中で、息が苦しいながらも僕は泳いでいました。そばでは「かえで」が、僕の回りを心配そうに付き添ってくれています。あの姿にどれだけ励まされたことでしょうか。僕は彼女に導かれるようにして、プールの縁へたどりつきました。
ほんの数分のことでしたが、僕の中では一生分の思い出が紡ぎ出されていました。
みんなの心配そうな顔が笑顔に変わり、「ドルフィンスイムもここまで」と思った瞬間、あのかわいい調教師のお姉さんが、
「次は、かえでちゃんに胸ビレを貸してもらいます。」
「……もういいです!」
「ダメでーす! やってもらいます。」
笑顔こそ素敵ですが、そこには、てこでも動こうとしない気構えがありました。
「今度は、かえでちゃんにひっくり返ってもらい、その上に乗る格好ですから顔は水に浸かりません。今度は大丈夫です、うまくいきます!」
今度は大成功!
かえでに続いて、さくらまでが胸ビレにつかまらせてくれ、広いプールを一周させてくれました。
先ほどの強烈な体験と相まって、自分の中では、イルカさんに対する絶大な友情と信頼が生まれていました。
さあ、いよいよラストプログラムです。水中のイルカさんとふれ合います。
「水の中はもう充分です」と言いましたが、先ほどの調教師のお姉さんが「ダメです! やってもらいます」と、何にもひるまない笑顔で応じてくれました。
これも大成功! 泳ぎに自信がない分、水の中でも浮いているしか能がないのですが、それが反って良かったのだと言います。変に泳ぎに自信があって、イルカを追い回したりすると、逆にイルカにいやがられるようです。イルカがこちらに興味を持って近づいてくるまで、ただ浮かんでいるだけでよいそうです。これは野生のイルカさんの場合、特に言えることだそうです。
今回の体験で、イルカさんへの絶大な友情と信頼を感じたわけですが、同じように、若い調教師の方のイルカさんに向ける友情や信頼をヒシヒシと感じさせてもらいました。
このことは、新しくできた「しまなみドルフィンファーム」へ、「もも」と「ゆず」が移動させられることになり、その取材させていただいたとき、よりいっそう感じさせてもらった次第です。
2016年5月6日、まだオープンして間もない「ドルフィンファームしまなみ」に、淡路から移された「もも」の様子を見に行ってきました。
なんと、あのやさしくも、言い出したらテコでも動かない調教師のお姉さんがいるではないですか! 一度しか会っていないのに、旧知の友に出会えたようで、うれしくてなつかしくて、僕がアメリカ人なら、さしずめハグしていることでしょう。そこは日本男児のはしくれですから、そんな浅ましい誤解されるようなまねはいたしませんでしたが……。
彼女にこんな思いを抱いたのは、僕だけでなく、「もも」こそ、彼女が頼りだったに違いありません。陸送の模様は、ほかのイルカの例ですが、アミール動物病院さんが「獣医さんのお仕事―イルカの輸送」として写真を公開されています。それを転載させていただきましたが、こんな感じで「もも」や「ゆず」も運ばれてきたのだと思います。
調教師のお姉さんに聞くと、「もも」はいやがって暴れ、おかげで到着したときは傷だらけだったと言います。
事前に電話で「もも」の移動の話を聞いていましたので、しまなみドルフィンパークに到着するなり、「ももはどこだろう、元気だろうか」と思った瞬間、遠くでジャンプするイルカがいます。まさに、そのイルカが「もも」だったのです。顔をあわせるなり、「大変だったねえ」と心の中で語りかけました。すると「もも」の何とも言えない温もりが伝わってきました。「思い込み」だとか「思い入れ強すぎ」だとか「錯覚」だとか、なんと言われようが、間違いなく「もも」は僕を覚えてくれていて喜んでくれています。
くだんの調教のおねえさんと、新しく知り合った、ここ「しまなみ」のリーダーのお姉さんと、お二人から「もも」の話を聞きました。「ゆず」が比較的おとなしかったのに、「もも」はいやがって傷だらけになった話。到着したとき、「もも」は弱り切っていて、この方たちが付きっきりで面倒を見てくれた話。
今日の「もも」は、とっても元気だと言います。
今、イルカを水族館やレジャー施設に置くことの是非が問われています。
インドでは、イルカを「Non human Person」、つまり「他の動物と比べて非常に稀なその知的能力の高さは『ヒト科以外の人間』としてみなされるべきであり、彼らには特別の権利を付与すべきである」とし、水族館やレジャー施設からイルカを解放することが義務づけられるようになりました。
日本でも遠からず、水族館やレジャー施設から「イルカ」が消える日が来るのかも知れません。
ただ、今現在の日本では、水族館で生まれたイルカやシャチがおり、この子たちや、もとは野生であっても、今は人間と深い絆で結ばれるようになったイルカやシャチがいます。
以前に触れたシャチのケイコのことを考えると、「種」として考えるのでなく、「個」として考えたとき、何が彼らの幸せなのかを考えて判断してほしいものです。
水族館やレジャー施設にいるイルカたちは、今は少なくとも、彼らをお世話する人間と友情や信頼関係を築いています。イルカを「人」として扱うのであれば、個人としての幸せを無視してほしくないと切に思います。
今回の実験で感じたのは、イルカは海へ帰ったほ乳類として独自の進化を遂げたという点です。ある意味、人間以上に優れた生きものだと思います。特に、言葉に頼らず「思い」を「波動」として伝え、感じることができる能力――人間が、はるか昔に放棄した能力を進化させ続けてきた生物だと強く感じました。
この「もも」「ゆず」「かえで」「さくら」に出会って、また、そのお世話をする若い方々と出会って、今、僕は、イルカやその他のクジラの仲間のことが忘れられなくなりました。
さて次回は、人と深く関わったイルカとして、沖縄の美ら海(ちゅらうみ)水族館へ、「フジ」(尾びれをなくしたイルカ)の足跡をたどることにします。
上の写真は、兵庫県南あわじ市阿万塩屋町にあるレジャー施設「ドルフィンファーム」のイルカプールです。
この「ドルフィンファーム」は湾の一角をイカダと網で仕切ることで、巨大なプールを作り、その海水プールで「イルカ」と「人」が一緒に泳いだり、触れあうことができるようにしたというレジャー施設です。
本来は、「陸」と「海」という違った環境で暮らし、漁師の方やダイビングを趣味とされる方は別として、ふれ合うことのなかった二種の「陸」と「海」の」ほ乳類が出会える場所でもあります。それは人間の「癒やし」や「楽しみ」のために、一方的にイルカに犠牲を強いる結果となるわけですが……。
しかし、そんな環境でも、いや、そんな環境だからこそなのかも知れませんが、「イルカ」とその世話をする「人」の間には、友情や信頼が育まれているように感じます。
実は、僕が、イルカと初めて接触したのも、このドルフィンファームなのです。以来、ここでの強烈な体験がイルカやクジラにどっぷりはまり込んでしまう結果となりました。
でもその体験に触れる前に、まずは、泳げない僕が、なぜ、イルカと一緒に泳ごうなどと思うようになったのか、その辺の経緯(いきさつ)から話させてください。
写真の人物は、大阪府南河内郡河南町大宝に住む田池留吉というお爺さんです。
住むというよりか住んでいたと言うべきでしょうか。この田池先生、一昨年の2015年12月、90才でお亡くなりになりました。若い頃は、大変な秀才だったようで、家が貧しかったため、大阪府立市岡中学校(旧制)卒業後は、経済的な理由で陸軍士官学校に入学されたといいます。正確に言うと「陸軍予科士官学校60期」に入学し、卒業後、「陸軍航空士官学校」に配属されたということになります。終戦が近づくや特攻隊を率いて出撃するはずでしたが、そのための訓練もままならないまま、終戦となってしまいました。
価値観が一変しました。一時は特攻隊を率い死を覚悟し、「何のために死ぬのか」を自分に問い続けた青春時代でした。それが終戦の詔勅(しょうちょく)以降、まったく価値観が変わってしまいました。そんな中、田池さんは大阪高等学校(今の大阪大学)へ再入学され、教師の道を歩き出すことになったのです。
大阪市立西中学校の補欠要因を皮切りに、母校である大阪府立市岡高校で数学を教え、やがて教頭となり、大阪府立東百舌高等学校の校長職を辞し教職生活にピリオドを打たれました。
僕が田池先生を知ったのは、この東百舌高等学校の校長先生だった頃です。こんな関係で「先生」が代名詞みたいになってしまいましたが、その田池先生、出会った翌年、定年まであと一年を残して校長職を依願退職されてしまったのです。僕が出会った頃には、まだ校長職をしながら「人間はなぜ生まれてくるのか」「人間の本質は肉体ではなく心」「他人や社会を変えるのでなく、自分が抱えている闇に気づき、自分を変えていこうとしないかぎり何も変わらない」……、それらのことを手弁当で伝え続けておられました。
そんな田池先生のもとへ、お子さんや家族のことで相談に来られたり、話を聞きに来られたりする方が次第に増え、田池先生も、たくさんの方に本当のことを知ってもらおうと、定年を待たず校長職を辞された次第です。
僕も最初は反発していましたが、否定できないことが次々と自分の中で起こり、以来、お亡くなりになるまで、三十年以上、勝手に「師」と決め、お付き合いすることになりました。その辺の経緯は、拙著「時を越えて伝えたいこと」(2007年6月刊 絶版のためPDFで無料公開しています)の中に詳述していますので、興味のある方は、お読みください。
その田池さんがお亡くなりになる前年だったと思うのですが、「イルカ」や「クジラ」について「人間に近い存在で私も興味を持っている」と話されたことがあり、「言葉でなく意識で通じ合える存在だ」とも言われました。まあ、すべての生き物がそうなのだと思うのですが、特にイルカやクジラにはそう感じさせる「何か」があるようです。このときは、たくさんの人の前で話されていたのですが、いきなり「なあ桐生さん、頼んだで……」と、なぜか名指しで頼まれてしまうことになりました。
長くなりましたが、これが、僕が「イルカ」や「クジラ」に」興味を持つようになった最初です。
ところで、人間は言葉を使います。だから言葉を信じがちです。でも、言葉で「あなたは良い人だ」と言っても、心では「おまえは嫌なやつだ」と思っているかもしれません。そうだとすれば、どちらが本当の姿でしょう。「良い人だ」という言葉とは裏腹に、その人からは「嫌なやつだ」という思いが流れています。思いはエネルギーですから、表面うまく行っているように見えても、いつか破綻を来すという事態が起こってきたりします。
これに対し、動物は言葉でなく、鳴き声や吠え声に、喜びや怒り、悲しみの波動を乗せます。その最たるものがイルカやクジラたちのように感じます。高度に発達した知能を持ちながらも、鳴き声に何とも言えない優しい波動を感じさせます。僕の知人に「イルカの学校」を主催されている岩重慶一さんと言われる方がおられます。この方は、不定期ですが、子供たちを御蔵島で野生のイルカと遊ばせるということをされています。この岩重さんの体験ですが、イルカの発するクリック音(超音波)を正面から受けたことがあるそうです。そのときは、水中めがねがビリビリ震えたかと思うと、お腹のあたりがカーッと温かくなり、次には何とも言えない充足感に包まれ、胎児に戻ったかのような安心感に包まれたと言います。
クリック音というのは、イルカがエコロケーション(反響定位と訳され、つまり超優秀なソナーのようなものです)のために超音波を発しますが、その時に出す音のことです。イルカの目を見てみると身体の両サイドに付いていて前を見ることが出来ないのが分かります。しかも暗い海の中で、前方のものを確認する方法がエコロケーションということです。人間がイルカの出す超音波の直撃を受けたとき、なぜ、このような現象が起こるのか、僕にはその原因を説明できるような知識を持ち合わせません。
これ以外にも、須磨水族館と京都大学が共同で行ったテストでは、これも理由はわかりませんが、イルカの画像を見た被験者の脳波は、多の動物の画像を見た、あるいは何の画像も見なかった被験者より、情緒の安定度が非常に高くなっているというテスト結果があります。アニマルケアという言葉がありますが、イルカは、犬や猫など、他の動物と比べ、ダントツにケア度が高いと言われています。
誤解しないでください。だからといって、イルカは人間のケアのために存在している訳ではないのです。
ただ近年、イルカやクジラが人間と接触する機会が増えていることは事実です。タイガーシャークに囲まれた水中カメラマンをザトウクジラが救った話、網に絡まったイルカ、クジラを人間が網を切って助けた話、そのほかネットを検索すれば、たくさんの事例がこれでもかと言うほどヒットしてきます。
前置きがずいぶんと長くなってしまいました。
さてと、この写真は、ドルフィンファームで、スイムコースに参加した人に配られる手作りの案内書の一部です。所属するイルカさんたちが、その性格を表す一言ともに紹介されています。僕の姪っ子がドルフィン・スイム(イルカと泳ぐプログラム)に参加し、もらってきたものです。それを、また僕が借り受けたという次第です。
この紹介ページを使って、僕の実験がスタートしました。まだ見ぬイルカさんと思いを通じ合えるのかという実験です。まずターゲットとなる特定の一頭を選びます。選ぶ根拠はありません。若い頃、ミヒャエル・エンデという作家にのめり込んだことがあります。彼の作品の中でも特に好きだったのが「モモ」。そこで選んだのが「もも」というイルカです。写真の下には「性格:食いしん坊、頑張り屋」さんとあります。
「もも」の写真を携帯に取り込み、ことあるごとに開いては、その「もも」の写真に心の中で語りかけました。「こんにちわ」にはじまり、自己紹介をしてみたり、「今度、会いに行きますので、よろしく」だったり、写真を開かなくても、「もも」と、ただ思ってみたり、そんな他愛もない繰り返しを2週間近くもやったでしょうか。
そうする一方で、スイミングスクールの個人レッスンを申込み、イルカと自由自在に泳げるようになろうとしました。
……が、これは失敗でした。水に対する恐怖心が抜けず、身体が硬くなり、あげくは頭がガンガン痛みだす始末。ともかく浮いて前へ進むぐらいはできるようになりましたが、イルカさんと自由自在に泳ぎ回るなんて、夢のまた夢のことです。
でも、めげてはいられません。泳げないイルカの学者さんだっているんだから……そう、自分に言い聞かせ、女房と二人、ドルフィンファームのスイムコースに予約を取った次第です。
次回は、いよいよ「もも」との衝撃的な出会いのことや、「かえで」に助けられるという、忘れることのできないイルカさんたちとの体験を語ります。
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新得へ行く途中のことです。私は、JR北海道の社内広報誌で、「さかまた組」が釧路沖のシャチ観測船に、はじめて一般市民の乗船を受け入れることを知りました。そこで大阪へ帰るなり、早速、受付の窓口になっているJTBと連絡を取り、スケジュールを検討し、11月5日の観測船に乗せていただくことになりました。
こうして10月初めの新得行きに引き続き、11月4日、再度、北海道を訪れることになった次第です。もちろん、北のイルカさんのその後の様子も気になり、釧路からの帰りには新得共働学舎へ立ち寄るよう計画していました。
さて、ここで話を進める前に、シャチ観測船ツアーを主催する「さかまた組」と、「釧路沖」の環境について少し勉強しておきましょう。
右上の写真は、参加者全員に配られた「シャチが来る海〜くしろ沖の魅力〜」というA5判20ページの小冊子です。これが釧路沖の魅力と特異性について非常に分かりやすく説明してくれています。そこで、これによって釧路沖について予備知識を身につけておきましょう。
毎年9月下旬から11月上旬にかけて、釧路沖にはたくさんの海洋生物が姿を見せます。というのは、釧路沖の海底は、沖合15キロメートルあたりから急激に深い谷のようになっています。これを釧路海底谷(くしろかいていこく)と言うそうです。最も深いところで、水深は5000メートルにも達すると言います。
秋口になると、流れが変わった「寒流(親潮)」と「暖流(黒潮)」が、この海底谷でぶつかります。その結果、海水が湧き上がる湧昇流(ゆうしょうりゅう)が発生し、深い海底に生息していたプランクトンなどの豊富な栄養が、この湧昇流にのって海面近くまで昇ってくるというわけです。
このプランクトンを餌とする小魚が集まり、小魚を餌とするイルカやクジラや海鳥が集まり、そして、イルカやクジラを餌とするシャチがやってくるという次第です。
この時期、釧路沖は「食物連鎖」の一大舞台となるわけです。
この釧路沖を中心に、海洋環境や生態系に関する研究成果を一般に普及し、自然の貴重さを伝えることを目的に「さかまた組」が結成されました。「さかまた」とは、漁師が使う「シャチ」の別名だそうです。そして、今回2015年秋、この目的達成の一環として、「さかまた組」が、釧路沖の海洋生物と生態系を調査する観測船に、釧路市民をはじめ一般の乗船希望者を募ったということです。
さて私ですが、乗船の前日、2015年11月4日PM4:00、スーパーおおぞら5号で釧路駅に到着しました。
この日は、釧路港を見下ろすホテル「La Vista 釧路川」で一泊し、翌早朝の乗船に備えることにします。ここなら観測船が出船する港まで歩いて5分で行けるというわけです。
ホテルでチェックインを済ませ、夕食を兼ねて、明日の集合場所である「釧路フィッシャーマンズワーフMOO」を下見に出かけることにしました。MOOで夕食を済ませたあと、河畔に出て、釧路へと帰ってくる漁船を眺めて時を過ごそうというわけです。
親爺が船乗りだった関係で、幼い頃から船に乗せられ、そのおかげでしょうか、船酔いというものを知りません。しかし、明日の海は荒れそうです。MOOで夕食をとっているとき、店のマスターと明日の天候について話しましたが、マスターも「明日は荒れそうだ」と同意見。最後には「船が出ればいいのだが……」と言葉を濁す始末です。
てきめんホテルに帰るなり、JTBの担当者から電話が入りました。明日は欠航の可能性もある、船が出るとしても時間が遅れそうなので、明日の朝は連絡するまで、ホテルで待機してほしいということです。
釧路まで来て、観測船にも乗れずに帰るなんて最悪です!
そう思う尻から、今度は、船が出ても、かなりの揺れが予想され、「これが初めての船酔い」なんてことにならなければいいが……そんな不安まで湧き上がってきます。ホテルのフロントで聞いても「酔い止め」は置いていないということ。仕方なく、夜の釧路の町に出かけ薬局を探す始末です。
そんなこんなで、いろいろとありましたが、翌朝、予定より約1時間遅れで船が出ることになりました。
支度を済ませ、我ながら物々しい出で立ちと思いましたが、仕方がありません。ぎこちない足取りで集合場所へ向かいます。カメラを抱えた一般客やスタッフの人たちも既に集まっておられました。
さかまた組の代表・笹森琴絵さんから乗船時の注意事項や、釧路沖の生物について説明があります。
笹森さんは、室蘭市に住まいされ、さかまた組代表として、はたまた海洋生物調査員として、大学の非常勤講師をされたり、海洋生物の写真家として活躍しておられますが、かつては学校の教員をしておられたことがありました。それが交通事故が元で重い膵臓炎となり、教員生活を辞めざるを得なくなりました。そんなとき、室蘭沖のイルカの群れと遭遇し、以来、彼女の第二の人生がはじまったと言います。
動物好きの笹森さん、これ以降、室蘭沖のイルカガイドとなり、さらに海洋生物調査や環境教育など、海の専門家の道を進むことになるのです。
そうこうするうち、我々を釧路沖の海洋へと運んでくれる船が、知床を出船し釧路川河口へと入ってきました。
いよいよ出船です。
予想どおり、風が強く、揺れはかなりなものです。高速走行しているときはいいのですが、速度を緩めたり停船したときは、手すりにしがみついていないと立っていられないほどです。そんなときもクルーの若い女性が、何に動じることもなく船首に仁王立ちしているのを見ると、妙に安心感が湧いてきます。彼女が船首に立っているだけで安心感があり、彼女の存在自体が、この船そのものにさえ感じられます。船主の娘さんだと聞いていますが、実に頼もしい女性です。
船首には彼女のほか、さかまた組のスタッフでしょうか、若い男性や女性が、長い竿の先にカメラを付け、これから現れる海洋生物の撮影の準備を進めています。
船の司令塔となる2階の操舵室には船長のほか笹森さんが詰め、船内放送で現れた動物の解説をしてくれています。ただ船の進行に伴い移っていく景色に目をとられているのと、船の揺れに自分をなじませるのに気を取られ、せっかくの解説の声も、なかなか頭には入ってきませんが……。
まず目についたのは海鳥です。僕にはカモメやアホウドリとしか分かりませんでしたが、このほかにも「クロアシアホウドリ」や「コアホウドリ」「ウミネコ」「ミツユビカモメ」などが、この航海で観測されていました。
また荒れた海をものともせず、アザラシなのかオットセイなのか、愛嬌たっぷりにプカプカ浮かんでいる姿を見つけました。水族館で見るのとは違い、自然の中で、まるで見る人間を意識しているかのように愛嬌を振りまいてくれる姿は、一見の価値があります。
https://1drv.ms/v/s!AilYHjP2WaAkgs4DpGraNVfwA5q-7A
シャチの群が遠望されました! 船が群れを目指しスピードをあげます。
シャッターを切る音、乗客の喚声、船全体が一つの思いに包まれたかのように、シャチの群にと集中していきます。
笹森さんのアナウンスが船内に響きます。
「普通は、こんなに簡単にシャチの群れを見られるとは思わないでください。一航海で、まったく逢えないこともありますし、遠くにブロー(潮吹き)しか見えないことだってあります。きょうはラッキーでした。」
シャチのポッド(群れ)と遭遇したこと、この体験については言葉が役に立ちません。その時に撮った写真を並べておくことにします。
シャチとの遭遇の中で、もっとも印象的だったのは、子どもを守るように泳ぐシャチの家族の姿でした。
シャチは海のギャングのように言われています。たしかに、シャチのハンティングは、狡猾と言えるほどに巧みでチームプレーに長けています。子連れのクジラを狙い、親子を分離させた上で、子クジラの両サイドをかため、上からもう一匹のシャチがのしかかるようにして子クジラを窒息死させる、そんな様子をテレビで見たりすると、シャチが狡猾な悪者のように思われてしまいます。
しかし反面、家族思いということでは、シャチの右に出る者はいないでしょう。クジラの仲間の中で、一夫一婦制で最後まで添い遂げるのはシャチだけです。シャチは、仲間の痛みを共有できる存在とも言われます。
映画オルカ(1977)では、シャチを「本能で行動する獰猛な野生動物」ではなく、家族愛にあふれ、妻を人間に殺されたシャチが、その人間に復讐するという設定になっていました。
またその後1993年に作られた「フリーウイリー」では、母親に捨てられた少年と、家族から引き離されたシャチが心を通わせるというストーリーになっていました。
「フリーウイリー」映画化に当たって、主役のウイリーを演じたのはメキシコの水族館に所属する「ケイコ」というオスのシャチでしたが、映画が公開されるや、世界中の子どもたちから、「ケイコを海に返して!」という運動が起こりました。撮影終了後、狭い水槽の中で、皮膚病にかかり苦しむケイコの姿を、世界中の子どもたちが知ってしまったためです。
といって、そのまま海に返しては死ぬしかありません。野生のイルカやシャチは水族館に連れてこられても、死んだエサは食べません。まず最初にするトレーニングは、人間があたえる死んだエサを食べられるようにすることです。こうして訓練されたイルカやシャチは、今度は自分でエサを採れなくなってしまいます。イルカやシャチは、水分をエサから採るため、エサを食べないと脱水症状になって死んでしまうのです。
ケイコのために巨大なプールが用意され、ここで皮膚病を治療し、エサを自分で採れるようにして海へ返すのです。子どもたちの声が一頭のシャチを救うという奇跡が、今度は映画の中ではなく、実社会の中で起こりました。
こうしてケイコは、世界で最も有名なシャチになりました。ただ結末を言うと、ケイコは野生の群れに入れず、何度も人間のもとに帰ってきました。それでも、あきらめず野生へ戻そうとする人たち。結局、ケイコは2003年12月12日、急性肺炎にかかり、野生にも戻れず、人間のもとへもかえってこれず、ノルウェーの海で命を落としました。ケイコの遺骸は海岸に引き上げられて埋められ、ノルウェーの子供たちの手で葬られたと聞いています。
こんなことを考えると、イルカやシャチを水族館やレジャー施設に置くこと自体、人間の奢りのように感じてしまいます。かといって一度人間のもとに置いたイルカやシャチを、野性に返れないと分かっていながら無責任に海へ返してしまうのもどうかと思います。
人間は「食物連鎖」の輪から飛び出し、今や自然の管理者になった気でいます。でも人間の関わった自然は、いつか歪みを見せ、崩壊へと転がっていくのではないでしょうか。
本当に救うべきは、自然や野生動物ではなく、文明という袋小路にはまり込んだ自分たちではないでしょうか?
野生のシャチとの遭遇、その感動の後に、自然に対しての後ろめたさが襲ってきました。
新得の共働学舎へと向かう車中、そんなことを考えており、列車を降りてからも、共働学舎へ向かう足どりも重くなりがちです。
途中、北のイルカさんに到着した旨、電話を入れました。
まもなくして学舎の入り口あたりにきた時です。向こうから北のイルカさんが、笑顔いっぱいで走ってきます。そして差し出されたクッキー。自分で焼いたのだと言います。
僕は焼き菓子があまり好きではないのですが、あのクッキーの美味しかったこと。
イルカさんの笑顔とクッキーの味が忘れられません。
次回は、僕が勝手に友人と決めてしまった、レジャー施設(南あわじ・じゃのひれ)のイルカさんたち。かえでちゃん、さくらちゃん、それにももちゃんを紹介します。
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イルカやクジラの話から少し外れますが、まずは僕が、北海道の新得共働学舎へ出向くようになった経緯から聞いてください。
今から3年前のことになりますが、僕は、仕事の事務所を、大阪からもとの古巣である奈良県の広陵町へ移すようになりました。広陵町といえば、靴下の町ということ、それに日本で古墳が一番多い市町村ということで有名です。
ますますクジラの話から遠ざかってきましたが、その広陵町で、「編集工房DEP」兼「自遊空間ゼロ」というフリースペースを運営するようになったのです。このフリースペースというのは、子どもが自由に時間を過ごせる、子どもと親が、ともに陶芸をしたり、お話を読み聞かせたり、ともに遊んだりと、親と子が時間を共有できる、そんな場所であります。サラリーマン時代からの長年の夢である、子どもが自由に創作活動が出来る「子ども工房」をつくりたいと、その思いが一歩を踏み出した、大げさに言えばそういう場所でもあります。
まず、活動のシンボルになるような、子どものための本作りを考えました。何を作ろうかと考えたとき、思い浮かんだのが、北海道の「寧楽(ねいらく)共働学舎」の子どもたちのことです。
サラリーマン時代、ボスが自由学園の理事を兼務していた関係で、これから紹介する北海道の共働学舎ともつながりがありました。自由学園とは、「真の自由人を育てる」ことを目的に、女性思想家、羽仁もと子さんと羽仁吉一さん夫婦によって1921年に創設されたキリスト教系の学校です。その関係で、僕も在職中、社員旅行で北海道を訪れたおり(これはボスが企んだことですが)、この寧楽共働学舎に滞在することになりました。
その滞在中の日曜日のことです。
当時、この寧楽共働学舎には、不登校の子どもたちが10人近くおり、その子どもたちと日曜日を利用して、留萌駅へSLすずらん号を見学に行くことになったのです。
当時、NHKの朝の連続ドラマ「すずらん」の放映が終了したばかりで、ドラマに登場した蒸気機関車「すずらん号」が留萌線で不定期運行されるようになっていました。これを見学しようというのです。寧楽から留萌駅までは車で約40分の道のり。学舎のマイクロバスに子どもたちと乗り込み、ピクニック気分で、ワイワイ言いながら留萌駅を目しました。
子どもたちといっても、小学生から中学生、高校生ぐらいの幅広い子どもたちが一台のマイクロバスに乗り合わせています。中には口もとにピアスをした、いかにも不良然とした男の子も混じっていました。
車中では、年長の女の子がリーダー役をつとめていましたが、雑談も、いつしか身の上話的になり、僕にも何か話すように促してきます。
僕としては、あまり話したくないことでしたが、若い頃、映画を志し、PR映画やコマーシャルフィルムの製作進行の仕事をしていたことを話しました。そして、なぜ映画の仕事を辞め、志を捨てたのかも話さざるを得なくなりました。才能がないからとか――そんな格好の良いものではありません。北軽井沢の長期ロケで、突然、訳の分からない不安感に襲われ、撮影現場から蒸発してしまったのです。取り返しのつかないことをしてしまい、その後、プロダクションに帰ったものの、みんなの目がいたたまれず、プロダクションを辞め、大学へ入学することになりました。当時は、自分のしたことの原因がつかめておらず、「誰でも出来ることが、なぜ、自分に出来ないのか」、そんな自問自答を繰り返している毎日でした。
この話をし終えた途端、子どもたちみんなが「話したくないだろうに、話してくれてありがとう」と泣いてくれるのです。こんなにやさしい子どもたちがいるのかと思いました。ピアスの男の子まで、僕を慰めてくれる始末です。そうこうするうち、バスは留萌駅に着きましたが、すずらん号は発車した後でした。
みんなのがっかりした顔――。
突然、運転手をしてくれている木工工芸のお兄さんが、車内のみんなのほうを振り向くや、「追いかけるぞ」の一声。その号令一下、次の停車駅を目指して、マイクロバスが発進します。そして、途中、留萌川に沿って走るすずらん号を見つけたときは、車中が喚声に湧きたちました。
子どものための本を作りたい、そう思ったとき、まず思い浮かんだのが、そんな寧楽共働学舎の子どもたちの喚声でした。
とりあえず寧楽共働学舎に電話しましたが、当然のことながら、あの頃の子どもたちは、みんな元気になって巣立っていったということです。今は、在籍している子どもたちもいないとのことです。そこで、「一度、新得共働学舎へ行ってみては」と、提案を受けました。
早速、新得へも電話を入れますが、ここも似たような状況でした。
ところがです。数日して、新得共働学舎から連絡が入りました。
私が電話がした後、札幌の女子中学生から電話が入り、共働学舎に置いてほしいというのです。
その子が、今、新得共働学舎におり、僕の話をしたところ、ぜひ会いたいと言っているという次第です。
翌週、早速、ジェットスターで新千歳空港へ飛び、南千歳から釧路行き「スーパーおおぞら」で新得を目指しました。その列車の中で、車内誌「The JR Hokkaido」に目が行きました。
そこには、釧路で、「しゃちの観測船」に、はじめて一般の乗船希望者を受け入れるという記事が出ておりました。早速、電話番号をメモした次第です。
シャチの話はひとまず置くとして、新得共働学舎に着くや、オーナーの奥さんが出迎えてくれ、
「桐生さんから電話があって、すぐ、あの娘(こ)から連絡があったんです。不思議なものですねえ。今、呼んできますから待っててくださいね。」
やがて事務室の一角で、彼女と出会いました。
彼女の提案で、翌朝、彼女の好きな牧場の散歩を一緒にすることになり、そこで話したいということになったのです。その日は、共働学舎のゲストルームに泊めてもらい、翌早朝6時、朝食前に二人で牧場が見渡される丘へと散歩することになりました。
この朝、「どうして自分は学校へ行けないのか」「どうしてみんなとうまくやっていけないのか」等々、彼女が抱える疑問の数々を聞かせてもらいましたが、最後に、「ほかにも、いろんな疑問を抱えている子どもたちがいるのかなあ、いたら話してみたい、会ってみたい」――彼女のその問いかけから、自遊空間ゼロの出版第一作「僕のナゼ、私のナゼ」が生まれることになりました。
北海道から帰るなり、早速、協力してくれる子どもたちを探しました。結局、北海道の彼女以外に、岐阜大垣の子どもが3人、大阪の子どもが3人、あわせて7人の子どもが協力してくれ、自分の中に抱えている「ナゼ」と向かいあってくれることになりました。
こうして出てきた「ナゼ」は、子どもたちの「本音」が詰まっており、想像以上にシリアスなものでした。このまま公開するより、イルカの子どもたちに置き換えたストーリーを作ろうということになりました。
これは、僕のクジラ好きを知った、北海道の女の子が提案してくれたもので、以来、彼女から来る手紙には、必ず最後に「北のイルカより」と書かれてありました。
以下は、彼女を主人公にした「僕のナゼ、私のナゼ」の結末部分です。
◇
目覚めたのは病院の一室だった。
そこは、先ほどまでの透明感のある真っ青な世界とはちがう、まっ白な世界だった。
窓から入りこむ朝のまぶしげな光が、普段はもっとくすんでいるだろう白い病室を輝やかせていた。
おきあがろうとしたかえでは、腕に小さな痛みを感じた。
左腕に注射針が固定されていた。
「目を覚まされました。」
耳もとで看護婦の声がひびき、見わたすと、ぼんやりと、父と母の心配げな顔が浮かびあがってきた。
かえでは、いつからか中学校へ行かなくなった。
というより、行けなくなったというのが本当のところだ。
みんなが自分のことをどう思っているのか、そう思うと学校へ行くのが不安でしかたなくなってきた。
勉強は嫌いではない。むしろ好きなほう。
本の虫で、教科書にしろ参考書にしろ、新しい知識、新しい世界にみちびいてくれる本の世界が、かえでには学校だった。
そんなわけで学校に行かなくても、成績は、学年で常に十番以内に入っていた。
お母さんからも、進学のことを言われると、学校へ行かないことも不安の種になり、試験の時だけは学校へ行った。
それがまた、みんなから白い目で見られる原因になった。
「あの子、普通じゃないのよ」
「みんなのことバカにしてるのよ」
「ちょっと成績がいいからって、私たちのこと無視ししている」
「試験の時だけ出てきて、格好つけすぎよ」
「私たち、頭が悪いって言われてるみたいじゃない!」
「みんなと一緒にやれないネクラ少女よ!」
みんなの思いが聞こえてくるようで、気になりだすと、ますます学校へ行けなくなった。
でも家にいると、母とぶつかることが多くなった。
いい子であろうと必死しになったが、それがまた苦しくて、だれにも迷惑にならずにいたい。
いっそ死んでしまおうと思い、自殺も考えたが、父や母を悲しませるし……
あれやこれや考えるうち、ご飯が食べられなくなった。
食事がとれない状態が続くと、不思議に頭がさえきって、なんでも見通せるような感覚になってくる。
そんななか、自分を知る人が誰もいない世界に身を置きたいと思うようになり、インターネットで「不登校の中学生でも入れるような住みこみの施設」を探すようになった。
記憶はそこまでだ。
かえでは摂食障害でたおれ、救急車で病院へ運ばれた。
かえでは思った。
(イルカさんとの体験は、私の空想が生みだした世界なんだろうか?)
……………………
「僕のナゼ、私のナゼ」制作中も、スーパー大空の車中で知った釧路のシャチ観測船のことが忘れられず、新得へ彼女の様子を見に行きたいということもあって、11月初旬、「新得」から更に先の「釧路」を目指すことになったという次第です。
「北のイルカさん」との出会いが、「北のオルカさん」ファミリーと出会うきっかけとなりました。
次回は、いよいよ釧路港発「シャチ観測船」に乗り込みます。
私たちが普通イルカと言って、水族館やレジャー施設で出会う種類はバンドーイルカが圧倒的に多いのです。というのも、バンドーイルカが、もっとも頭が良く人にも良く慣れる性質があると言われているからです。一頃、映画「ザ・コーブ」が日本でも公開され、これによって和歌山県太地のイルカ追い込み漁が問題になりましたが、その中で、入江に追い込まれたイルカを、水族館やレジャー施設の学芸員の方が選んで買い付けていくシーンがありました。 これは何を選んでいるかというと、バンドーイルカのメスを選んでいるのです。これもバンドーイルカ、特にメスのバンドーイルカが、頭が良く、人にも良く慣れ、調教しやすいと言われているためです。
イルカブームの火付け役となったアメリカのテレビドラマ「わんぱくフリッパー」(1966年〜1968年にかけて放映)の主人公もバンドーイルカでした。
このようにバンドーイルカは、我々にもっともなじみの深いイルカなのですが、では、今ここで取り上げているミナミバンドーイルカとはどう違うのでしょうか?
前回でも触れましたように、2000年までは、ミナミバンドーイルカもバンドーイルカの亜種と思われていました。それほどよく似ているわけで、我々素人には見分けがつきませんし、どちらでも良いようにも思えてしまいます。
でも、もうちょっと頑張って、その違いを勉強しておきましょう。
まず大きさですが、バンドーイルカは成長して約4m前後になると言われていますが、ミナミバンドーイルカは約2.5m前後、つまりバンドーイルカよりも小ぶりな訳です。
ついで吻(ふん)――これは動物の体において、口あるいはその周辺が前方へ突出している部分を指して言う言葉ですが――これが、どちらも突き出しているのですが、バンドーイルカのほうが丸っぽくてぽっちゃりしている感じがあります。これに対しミナミバンドーイルカは、ほっそり長く突き出しているような感じなのです。
ほかに外面的な特徴として、ミナミバンドーイルカは、成長すると腹部にまだら模様ができると言われています。これは僕も見たことがないし、船からのウォッチングでは確認することが難しいと思います。ただ背びれが、バンドーイルカが丸みを帯びた三角形なのに対し、ミナミバンドーイルカはとがった三角形に近いと言われています。うーん、これも個体差があって、実際には背びれだけで判断は難しいと思います。総合的に判断するしかないと思います。
さて最後に、これが最も重要な違いなのですが、住む場所が違うのです。
バンドーイルカが沖合を長距離移動しているのに対し、ミナミバンドーイルカは、沿岸部に群れをなして住み着く性質があります。
日本での分布は、伊豆諸島、なかでも御蔵島の野生イルカ、それに石川県の七尾湾、そして今回行く天草の五和町通詞島の沿岸が最も有名ということになるでしょうか。
さて、今回は熊本から天草までを長距離バスで向かうことにしました。海辺の景色を楽しみながら約2時間半、バスはやがて、終点の本渡バスセンターへと到着します。ここからは富岡港行き路線バスに乗り換えますが、本数が少ないので事前に調べておいた方がよいでしょう。無事バスに乗れましたら「旧二江小学校前」で下車し、ここから海を目指して下っていくと約5分でイルカウォッチング発着所に着きます。
発着所には、「平成27年度イルカの絵コンクール」の入賞作品が展示されていました。幼稚園、保育園の子供たちが描いたイルカの絵ばかり。ウォチング船が出るまでの待ち時間、一枚一枚の絵を眺めていますと、天草の「イルカ」と「人」の関係が端的に表れているように感じました。
イルカ(自然)と獲物を取り合うのでなく、イルカ(自然)と共に生きている、そんな感じを受けるのです。
そうこうするうち、もう一人、ウォッチング船に乗る若い女性が発着所の待合に入ってきました。さわやかな感じの女性で、見れば、モータードライブのすごいカメラを抱えています。
受付の男性に紹介され、彼女が長崎大学水産学部の研究室の学生さんで、定期的にミナミバンドーイルカを観察しに来られているのだと知りました。
出発の時間です。
乗船する船は、入江一徳船長の操船する「天神丸」。ほかにも「大潮丸」「久栄丸」の2船がともに出船することになっています。乗船客を観察していますと、何組みかの親子連れのほかに、車椅子の障害者の方もおられ、同じ車椅子の方でも、ご老人の方もおられるようで、クルーの方たちが車椅子の積み込みに精を出しておられました。
いよいよ出船となり、船長や長崎大学の学生さんと話すうち、早くもイルカの群れと出会いました。
いくつかの群れが次々と現れ、船の舳先や舷側をブロー(潮吹き)しながら泳ぎ回り、たちまち海を覆っていきます。これがバンドーイルカのウォッチングや、クジラのウォッチング、はたまたシャチ(オルカ)のウォッチングであれば、こう簡単にはいきません。まるで出会えないときもありますし、出会えても、遠くからブローが見えただけというときもあります。沿岸部を拠点に群れで生息するミナミバンドーイルカならではの壮観です。
石川の能登島では、一つの群れでしたが、ここでは無数の群れが生息しているため、ウォッチングでイルカと遭遇できる確率は、ほぼ100%と言っても過言ではありません。
僕の横手では、モータードライブのカメラが、シャッターを押すたび「ウォーン、ウォーン」と、小気味よい音を立て続け、僕も負けじとHDムービーカメラを回します。
もう話を聞いている間もありません。いったん海が静かになったと思っても、すぐ横に「ブオッ」という音とともにイルカが群れで顔を出す。船の先頭を行ったかと思うと、船の下をくぐり横切っていく。子供たちのはしゃぐ声。ブローの音、イルカの声。ウォッチング船も含め、周囲一帯が、一つの興奮状態に包まれている、そんな感じです。イルカたちも、そんな雰囲気を楽しんでいるかのようで、人とイルカと海が、まるで一つになったような時間が連続していきます。
そろそろ話をまとめなければなりません。
そこで、NHKの番組「ニッポンの里山/イルカと生きる里の海」(熊本県天草市)に話を戻しましょう。そこには天草の漁師たちの思いが隠されていました。彼らは海を豊かにするため、一日の漁獲量を制限し、さらに手の空いた時間には海へ潜り海藻を植えて回っていたのです。
海が豊かになれば、イルカたちも住み着く。漁師さんたちは言います。
「イルカが泳ぎまわる海は、海が豊かになってきた証し」だと。
前々回、壱岐のイルカ事件を紹介しました。そこで言われるように、イルカたちが漁師さんたちの獲物を横取りする、いわゆる「食害」になっていたことは間違いありません。しかし、イルカが来なくなっても、漁獲量は回復せず減少する一方だと聞いています。イルカの食害は、表面的な問題で、実は海が豊かでなくなってきている、それが根本的な原因だったように感じられます。
海の豊かさを取り戻そうとする天草の漁師の人たち、同様に1000キロ離れた能登島の漁師の人たちも、糸もずくの採集を通して、海藻を大事にすることで海の豊かさを守ろうとしています。
海藻が茂ることにより、小さな海の生きものが集まり、それをエサとするイルカたちも集まってくる。
海を豊かにしようとする能登島の漁師の人たちの思いが、はるか南のイルカたちを呼び寄せたのではないでしょうか。能登島ではミナミバンドーイルカの新たなポッド(群れ)が成長しつつあります。それと平行するように、能登島の海も豊かになっていく。「やさしい思いが豊かな海を育てる」、その優しさに導かれ、南のイルカが北の海へとやってきた、そんな印象を、天草通詞島と石川能登島の取材で感じた次第です。
行きはバスでしたが、帰途は天草空港から、イルカさんの飛行機に乗って天草を離れることにいたします。
次回は、能登島よりずっとずっと北へ。北海道は釧路の海で、シャチ(オルカ)探査船に皆さんを招待することにいたします。
]]>NHKの朝の番組に全国各地の里山を紹介する「ニッポンの里山」という長寿番組があります。そのシリーズの中で「海の里山」として紹介された二つの場所、それが熊本県の天草と石川県の能登島です。
2013年 1月28日に放送された「イルカと生きる里の海」(熊本県天草市)と、2014年9月29日放送された「イルカが暮らす里の入り江」(石川県七尾市)が、それです。
そして、この二つの地域をつないでいるのが、天草のミナミバンドウイルカなのです。
ところで、石川県の能登島にイルカが住み着いていると言えば、本来は「カマイルカ」のことだと思ってしまいます。ところが、この北の海に住み着いているのは意外なことに「ミナミバンドーイルカ」の群れなのです。
ミナミバンドーイルカについては、従来、バンドーイルカの亜種であるとされていましたが、2000年の国際捕鯨委員会 (IWC) 科学委員会により別の種とされました。
そして、その生息地の北限が、石川県七尾市能登島の七尾湾ということになるそうです。
さらに驚くことには、この七尾湾のイルカ、もとは天草沖合に2000頭以上のミナミバンドーイルカが暮らしていますが、その中の2頭のつがいが移り住んだものだといわれています。
ちなみに天草市五和町から七尾市能登島まで、およそ1000キロメートル。その距離を2頭のイルカ夫婦が北上し、能登島で新たな群れの始祖となったという次第です。
上の写真は、僕が能登島に、南バンドーイルカの取材に訪れた際、ウォッチングの船を出してくれた大橋克礼船長と、その持ち舟・大克丸です。大橋船長は、もともとはこの能登島で郵便局に勤めておられました。それが定年退職後、退職金で、この大克丸を手に入れ、イルカのウォッチングと釣りイカダのレンタルを生業とするようになりました。大橋船長は、ミナミバンドーイルカが、この七尾湾に住み着くようになってこのかた、イルカ夫婦が一族をなしていく変遷を垣間見てこられた方なのです。
その大橋船長に、「本当に天草のバンドーイルカなのですか」と尋ねてみました。
船長が言うには、七尾湾にイルカが住み着くようになって騒がれ出した頃、長崎大学の水産学部の先生が調べに来られ、間違いなく天草のイルカだと断定したというのです。というのも、長崎大学水産学部では、長年、天草のミナミバンドーイルカの個体識別をおこなっており、背びれや尾びれの形、胴体の傷や特徴から、天草のイルカは、ほぼ特定できるようになっているのだと言うことです。
さて、このイルカのことで、「まだ面白いことが……」というか、わからないことがあります。
それはイルカ社会がメス社会で、一夫一婦制ではないということです。クジラの仲間で、一夫一婦制なのはシャチだけだと言われています。シャチは夫婦の絆が強く死ぬまでともに暮らすと言われています。これに反しイルカはオスは種付けをするだけで群れには残りません。そうして生まれてくる子も、メスならグループに残りますが、オスの子は成長すると群れを離れていきます。こうしてイルカグループは、大お婆さんをリーダーとして、その娘、そのまた娘とが連なりグループを形成していくというわけです。グループに子供が生まれると、メス同士が助け合って育てていきます。もし子育て中の親子イルカを見ることがあっても、二頭のイルカは夫婦でなく、お母さんイルカとそれを助けるおばさんイルカというわけです。
それが意外なことに、天草から遠く離れ、石川県は能登島の七尾湾まで旅をしたイルカ夫婦なのですが、大橋船長が言うに、今も夫婦で、オスはグループに残っていると言うのです。七尾湾で新たに生まれた子供たちは、ルール通りオスの子は群れを離れていっているようです。ところが、群れの始原の二頭は、今もオスがグループにとどまっていると言うことです。
ことの真偽を確かめるべく、長崎大学水産学部の天野教授へ電話を入れたところ、大橋船長の話は間違いなさそうです。不思議に思い「どうしてこんなことが起こるんですか? イルカ社会はメス社会で、オスは離れていくと、どのイルカの解説書にも書かれているんですが……」
「そんなことを言っても、現にあるんやからしょうがない!」
これは当事者である能登島のミナミバンドーイルカ夫婦に訊いてみるより仕方がなさそうです。
イルカが話せたら、いったい、どんなロマンスを語ってくれるのでしょう?
さて次回は、この七尾湾のイルカ夫婦のふるさと「天草」を紹介させていただきます。
「石川」と「熊本」、1000キロ離れた北と南の二つの海域には、いったい、どのような共通点があるのでしょうか? 人間と自然、その関係に新たな視点を見つけることが出来るのかも知れません。
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デクスター・ロンドン・ケイトさんについては、グリーンピースの運動家ということ以外、あまり分かっていません。
壱岐イルカ事件当時(1980年)は36才と言いますから、生きておられれば、今年で74才になられるのでしょうが、事件後、ダイビングの事故で亡くなられたと聞いています。
ケイトさんが最後に壱岐へ来られたときは、奥さん子供連れで、壱岐の「ふくや荘」に泊まられたようです。僕も、壱岐の辰の島取材のおり、辰の島への渡船や遊覧船のガイドをしておられるMさんから、ケイトさんが泊まられたのが「ふくや荘」だということを教えていただきました。
辰の島取材の後、その足でふくや荘を訪問させていただいたのですが、あいにく、この日は島をあげての運動会の日、旅館はもぬけのカラという状態。近所の方が見かねて「呼んできてあげましょうか?」と、親切に声をかけていただいたのですが、せっかくのお孫さんの運動会を邪魔する訳にもいかずお断りした次第です。
ところで、辰の島取材に当たっては、壱岐市役所観光課を通して「当時の模様を知る人に」ということで取材の申込みをしていました。取材当日は、今は勝本町漁港で観光船の船長をしておられる方が話してくださることになっていたのですが、やはりお孫さんの運動会ということで、辰の島へ渡る船が出るまでの時間、大急ぎで次のようなことを話してくれました。
「イルカを追い込んだのは昭和52年と53年のことで、2000頭ちかくを辰の島海水浴場に追い込んで網で囲ったんですよ。それを聞いた愛護団体のケイトという人が夜中に網を切って、約300頭ほどを逃がし、それが裁判沙汰になったんですよね。
でも、これが爆発したのは一日や二日のことではないんですよ。何年も何年もかかって、あげくの果ての爆発なんですよ。
ここ勝本はイカやブリを獲って生活しておったんですよ。それをイルカが食べに来るんですよね。だから何年も何年も、どうしたらよいか、どうしたらよいかと悩んだあげく、仕方なく、昭和52年と昭和53年に追い込みに踏み切ったわけです。
殺生は、しとうなかとですもん、どうしても生活がかかっとりますもんね。
イカ漁というのは、油代が一日何万もかかるんですよ。イルカは頭が良いけん、集魚灯を焚いて、高い燃料代つこうて、イカが寄ってきたと思う時分にやってくるですもんね。そうなると、その日はまるまる赤字――それが一年や二年やないんです。何年も何年も続いてきたとですよ。悩んだあげくに殺すことになったとです。」
――――――――
「お客さん、辰の島へ渡る船が出るけん……」
女性の受付けの方が、船の出航を知らせに来てくれた。このあとは、船のガイドをしているMさんという男性が、船長に引き続き、当時の話や案内をしてくれることになった。
イルカの大量屠殺で問題となった壹岐の無人島、辰の島へ到着です。
船長から話を引き継ぎ、辰の島を案内してくれるのは遊覧船でガイドをするMさん。
Mさんは、事件当時は中学生で、イルカの屠殺にアルバイトとして駆り出された一人です。今から40年近く前の話ですが、このアルバイト、時給800円の高額バイトだったそうです。
そのMさんの言うには、
「浜辺に並べられたイルカが涙流すんよ。」
さらに聞くと、涙を流すだけでなく、声を上げて泣くのだともいいます。
「叫ぶような、助けを求めているような、あの声を聞くと切のうてたまらん……」
Mさんの話では、今もときどき沖から2〜3マイルの所にイルカの群れがあらわれるときがあるそうです。
「そのときはどうするのですか」と聞いてみると、「爆弾で追い払うんよ! 殺すんやないよ、追っ払うんじゃ」との答えが返ってきました。
あとで調べたところでは、これは「爆弾」ではなく「爆竹」で追っ払っているということらしいです。
このあと、迎えの船は、辰の島周辺の蒼く澄み切った海を遊覧し、勝本漁港へと帰ることとなりました。
さて、辰の島の取材を終えるに当たって、最後に、デクスター・ケイトさんの人となりを「ふくや荘」のご主人や奥さんの証言を紹介しておきたいと思います。僕自身は、ふくや荘の方々とは、ついにお会いすることができませんでしたが、川端裕人さんの著書「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」(2010年刊)から引用させていただきます。
◇
デクスター・ケイトはひょろりとした長身の白人で、髪を後ろに束ねたヒッピー風の風貌だった。物腰が柔らかく優しい目をしていた。肉食をきらい、魚を喜んで食べた。
「動物好きで、穏やかな人だった。子どもにも人気があった。息子ともよく遊んでくれた」
ケイトの最後の壱岐訪問の際、例の事件が起こるまでの一週間、彼は毎日何をするでもなく過ごしていた。つれづれなるままに、近所の子どもたちとよく遊んだ。イルカが出てくる映画を見せてくれて、子どもたちが喜んだり、宿の主人もおばさんも、動物が好きでわざわざここまでやってきた人として、好意すら抱いていたという。
ある朝、漁協から電話がかかってきた。
「そっちのガイジンさんどうなってる。いるか?」と聞かれ、
「ああ、いるよ」と答えた。朝食前の時間である。当然、いると思ったのだという。
ところが部屋を訪ねてみると、奥さんと子どもしかいない。言葉が通じないから分からないが、奥さんもなにか慌てている。そうこうするうちに、刑事がやってくるやら、漁協の幹部がやってくるやらで、大変なことになった。
前夜のうちにケイトは単身、辰ノ島に渡ってイルカの囲い網を切ってしまったというのだ。
◇
ケイトは、今までの努力がすべて無駄だったと悟りました。
後は実力行使あるのみ。ケイトは、せめて今囲い込まれているイルカだけでも救おうと、皆が寝静まるのを待ってゴムボートで辰の島を目指したのです。
ケイトは、無事、囲い込みの網は切ったものの、折からの春の嵐に遭遇しゴムボートでは勝本へ戻れなくなってしまいました。そこでケイトは、網を切り、イルカたちを逃がすだけでなく、今度は浜にあげられたイルカたちを、一頭一頭引きずり、海へ戻す作業を始めたのです。
夜が明けて、イルカの処理作業に戻ってきた漁師たちは、網を切り、浜のイルカを引きずるようにして海へ戻しているケイトを見つけたのでした。
ケイトは「威力業務妨害」の罪で逮捕され、これより6回にわたって「動物の権利」が法廷で論議されることになりました。しかし、ケイトの思いは無視され、結局、ケイトの国外追放で、壱岐イルカ事件は幕を閉じたのです。
後日談ですが、漁獲量減少の張本人とされたイルカも、この海域には来なくなったのですが、それでも漁獲量が回復することはありませんでした。イルカの食害があったには違いありませんが、それ以上に乱獲による資源の枯渇が、問題の根本にあったようです。
次回は、この問題に別の取り組みをする「天草」に渡り、ミナミバンドーイルカと人間の関わりを取材します。
さらに北の海を目指したミナミバンドーイルカのカップルを追って、石川県能登島へと向かいます。
しかし、如何に同じ「ほ乳類」とはいえ、水中で暮らす彼らが人間の子供を育てられるはずはありません。
「イルカは人間の赤ちゃんにおっぱいをあげられるか?」
いま書こうとしている「石鏡ものがたり」では、刃刺しの銑吉が、自ら定めた禁を破り、子クジラをおとりに母親クジラを仕留めます。その直後に起こった宝永地震と大津波によって石鏡(いじか)の浦は壊滅しますが、母親クジラを殺した後悔に苛まれていた刃刺しの銑吉には、この地震も、津波も、自分の過ちにあたえられた罰のように感じてしまいます。その矢先に子供をかばって死んだ母親の遺がいを見つけてしまうのです。津波で崩壊した浦で、自分には育てられないと分かっていながら、銑吉は、母親の遺がいが発する思いに呼び止められ、その思いに背けず、子供を拾い上げてしまいます。自分が殺した母クジラに、この子どもを託されたように感じたからなのです。
乳児を連れ、小舟で石鏡の浦を離れる銑吉。小舟の上で腹をすかせ泣き叫ぶ子供。
その声に惹かれるようにしてイルカの母親があらわれ小舟の周りを回り出します。
イルカは海で暮らすほ乳類です。したがって、えら呼吸でなく、肺呼吸をするわけで、酸素の取り入れ口である鼻が頭の上に着いています。
イルカは水中で出産しますが、子供を産むと、すぐに、その子を下から持ち上げ海面へ押し上げます。呼吸することを教えるのです。授乳は水の中です。左上の写真は、和歌山マリンランドのバンドーイルカさんに、おなかを見せてもらったときのものです。下腹のあたりに中央に生殖腺があり性器が納められています。メスの場合は、その左右横手に乳腺があり、おっぱいが納められています。速く泳ぐため、邪魔なものはみんな内部に納められています。
子どもにおっぱいを飲ませるときは、子どもが舌先を丸め、お母さんイルカの先ほどの溝に突っ込み、おっぱいを、その舌先にとらえます。するとお母さんイルカは、ミルクを搾るように押しだすという寸法です。
下の写真や右横の写真は、鳥羽の水族館でたまたま見かけた色分けイルカの授乳風景です。泳ぎながら子どもイルカが上手におっぱいを飲んでいます。そのとき、勢いよく出たおっぱいが口からあふれ、白いもやのように水中を漂っています。
◇
さて銑吉と母性愛の強いお母さんイルカが、いかにしてお腹をすかせた人間の赤ちゃんにおっぱいを与えるかは「石鏡ものがたり」の完成を待っていただくとして、そのイルカと人間との関係が悪化し、1000頭近いイルカが、一時に殺戮されるという事件が壱岐で起こりました。
俗に「壱岐イルカ事件」と呼ばれる一件です。では、その事件の起こった「壱岐郡・辰の島」という無人島へ、皆さんをご案内させていただきましょう。
事件の顛末はこうです。
今手元に勝本漁港の石井敏夫さんが書かれた「勝本港の『みなと文化』」という小冊子があります。勝本漁港と言えば、まさに「壱岐イルカ事件」の当事者そのものの存在。右の写真も、その「勝本港の『みなと文化』」から転載させていただきました。
まずは事件の顛末を、この小冊子から一部抜粋させていただきます。
「イルカが壱岐海区で急増し、漁業被害が続発したのは昭和40年頃からである。当時イルカの生態調査が行なわれ、その結果2月〜3月にかけて壱岐近海には30万頭のイルカが回遊していると発表された。イルカの被害というのは、漁船が操業している漁場にイルカが回遊して来ると魚群は逃げてしまい、釣り上げ途中の魚は横取りされ、漁具は傷められ、イルカが漁場に滞在している間は漁獲ゼロの毎日が続く。
そこで漁業者は団結して、イルカが多量に勝本近海に近づいた時には、約500隻の漁船が操業中止して円陣を幾重にも描き、船腹に取り付けた鉄筒の発音器をハンマーで叩きながら、海岸に追い込む捕獲作戦を行なうが、当初は途中で逃げられて失敗の連続であった。その後、水中花火が考案されイルカの群れの一部を追い込むことに成功した。
昭和53年1回で約1,000頭のイルカを追い込んだ時、動物愛護団体の外国人がきてイルカ囲い網を切断し、一部のイルカを逃がした事件もあった。
現在では、極少量のイルカが現れる程度で、あれ程いたイルカが何処で回遊しているのか七不思議の現象である。」
文中、「動物愛護団体の外国人」というのが、もう一方の当事者である「デクスター・ロンドン・ケイト」さん。彼はハワイのヒロ市から、「動物の権利擁護」という新しい倫理観をひっさげてやってきました。
「動物愛護」とは違います。「動物愛護」には人間優位の姿勢が示されています。しかし「動物の権利擁護」とくると、動物に対しても人間と同じ権利を認め、それを擁護していくという姿勢となり、当時は(今も)あまり知られていない概念でした。それだけにケイト氏の言い分は、勝本漁民には、突拍子もない言いがかりに聞こえたことでしょう。
「ああ、あいつね、あの時、オレは漁協の青年部長だったんだ。あいつのおかげで大迷惑だ。まったく気でも違っていたんじゃないのかね。」(川端裕人「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」)
当時、壱岐の勝本町ではブリ漁、イカ漁が盛んでしたが、イルカの回遊時期になると、イルカがやってくるだけで、イカもブリも漁場から姿を消してしまいます。そればかりか夜中に仕掛けたイカ釣りの仕掛け、そこにかかった獲物を、人間が回収するより早く、イルカの群れが食い散らかしてしまいます。
これでは勝本の漁民の生活が成り立たなくなります。そこでイルカを駆除すべく、和歌山県の太地や静岡県の富戸(ふと)の漁民に教えを請い、追い込み漁が開始されるに至りました。
ではケイトさんの言い分に耳を傾けてみましょう。
?壱岐の漁師たちが自分のものだとする漁場は、何千年もの間、イルカのエサとり場だった。人間が後からやってきて、イルカを邪魔者扱いすることはおかしい。
?漁獲量の減少はイルカのせいではなく、漁場自体が乱獲により貧しい海域になってきている。
?イルカは利口な動物で、人間と共生することが可能。うまくリードすれば、イルカも人間も、モーリタニア沿岸の例にあるように共同作業をして、ともに獲物を得ることが可能となる。
◇
一時は漁師たちもケイトの熱意に動かされ、イルカとの共同作業に臨むべく船を出しましたが、当のイルカたちがその時はおらず、二度の試みも結局は失敗に終わりました。
残された最後の手段とばかり、ケイトは、イカ漁、ブリ漁に代わる「養殖漁業の育成計画」や、痩せた漁場を復活させるため「ブリ資源の増殖計画」などを提言しますが、こと既に遅く、最後に壱岐を訪問したときは、すでにイルカの追い込み漁が開始されていたのです。
辰の島の浜辺には2000万円以上する巨大なイルカ粉砕機が据え付けられ、既に稼働を始め、壱岐の海はイルカの血で真っ赤に染まったといわれています。
(次回、クジラ・イルカ紀行 vol.007 / 壱岐・辰の島「デクスター・ケイトの決断」に続きます。)
昨日はレンタサイクルで稲崎の展望台まで出かけたものの、午後からの大雨でずぶ濡れ状態。
実は、あんな大雨にならなければ、昨夕4時出船のエスコート号に乗せてもらうことになっていたのですが、昨夕のホエールウォッチングは中止となり、僕は今日の10時に出るクィーン座間味に乗船して那覇へ帰ることになっています。それを佐野船長の計らいで、早朝7時に、臨時でエスコート号を出してもらえることになりました。これならホエールウォッチング終了後、予定通り、座間味10時発のクイーン座間味で、そのまま那覇港を目指すことができます。何ともお礼の言いようがありません。
とはいえ、昨夜の荒天でウォッチング船が出せるのかどうかが、まず心配の種。さらにエスコートが無事出船できたとしても、ザトウクジラと出会えるかも、これまた心配の種。
港で佐野船長と落ち合うや、船長からのゴーサイン! しかも早朝から回遊くんが稲崎展望台へ出張りザトウクジラの位置を確認してくれているといいます。
その回遊くんが稲崎から車で駆けつけ、いよいよ出船の運びとなりました。
港を出て10分近く走ったでしょうか、早くもザトウクジラのブロー(潮吹き)発見! 現場へ駆けつけます。エンジンを止めるや、クジラの「キリキリキリッ」というクリック音や「ウォーンッ、ウォーンッ」という啼き声が海中から響いてきます。
一頭ではありません。船長の話では二頭のオスと一頭のメス、それに子クジラのあわせて四頭がいるといいます。
(ザトウクジラのテールがあがる。現場を目指すエスコート号と佐野船長。)
ザトウクジラは、一夫一婦制ではありません。一頭のメスがめでたく出産を終えると、続いて、そのメスの二番手のハズバンド(エスコートという)の座をめぐってオス通しの争いが起こります。その争いの現場をメイティングポットと呼ぶのですが、めでたくエスコートの座を獲得したオスクジラは、このメスと結ばれるまで、この親子を助けていく役割を担うことになる訳です。
メイティングポットでは、船がそばにいようが関係なしで、オス同士、何も目に入らないかのように争いに夢中となります。派手なアクションが続くので、ホエールウォッチングの最大の見せ場なのですが、こんな現場に出くわすのは稀と言ってもよいらしいのです。
「桐生さんの思いの強さが呼び寄せたんでしょうね!」
佐野船長がうれしいことを言ってくれますが、こちらはそれどころではありません。吠え声、ブロー、船の揺れ。騒然とした中でクジラがどこへ上がってくるのか。右に出たかと思うと、次は左にと、間断なくクジラが荒れ回り動き回ります。この際、言葉は不要で、まずは写真を見ていただくことにしましょう。
写真でも何が何だか分かりませんが、ともかく激しいことだけはお分かりいただけたかと思います。
最後の写真は、負けた一頭が遠ざかっていくところですが、僕も、この航海を終えて那覇へ帰り、そこからさらに大阪へと帰ることになります。
三度の座間味滞在中、出会った方々にはご迷惑のかけっぱなしでお礼の言葉もありません。次はいつ座間味へ訪問できるか分かりませんが、またよろしくお願いいたします。
最後に、僕のわがままに最後まで付き合い、ザトウクジラを体感するという大きな機会を作っていただいた佐野船長および奥さん、クルーの回遊くん、本当にありがとうございました。
下記のサイトで、素人のビデオで見苦しくはありますが、座間味でのホエールウォッチングの模様を動画でアップしておりますので、興味のある方はご覧ください。
https://youtu.be/vz5x5EpCfZU?list=LLZWgXZUlFUA0qBzt7LieuGw
なお次回からは、不幸な壱岐イルカ事件を追って、壱岐の無人島「辰の島」取材の模様をお届けします。
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(稲崎の見張り台からの情報で、ザトウクジラを目指して進むホエールウォッチングの船団。右端が佐野船長のエスコート号)
座間味でのウォッチングは二年にわたって三度挑戦しましたが、最初の二回はザトウクジラは見ることが出来たものの、遠望するという感じで、クジラを体感するまでには至りませんでした。
佐野船長の奥さん優美さんは言います。
「私たちはホエールウォッチングをご案内する上で、座間味を訪れた方々に、ありのままを見てほしいと思っています。ウォッチングの船を出していると、どうしてもお客様に、派手なクジラのアクションを見せてあげたいと思ってしまい無理をしがちになります。
でもクジラは自然です。いつもいつも、派手な動きに出あえるとは限らないのです。クジラを見られないときだってあります。自然を演出するのでなく、ありのままを見てほしい、ありのままを感じてほしい、そう思って皆様をご案内しています。」
たしかにホエールウォッチングという時間は、クジラに出会えようが出会えまいが、茫々たる海原に船をはしらせ、太陽を感じ、風を感じ、海を感じ、自然と一体になる、そんな至福感に包まれる。何よりの贅沢な時間だと思います。
しかしです。僕は、クジラやイルカに取材した「ものがたり」を生み出したいのです。クジラを間近に見、クジラの息吹きを感じ、クジラを体感したいのです。
こんな次第ですから、佐野船長には無理を言って、三回目のウォッチングのときは、前日が土砂降りの雨で当日もウォッチングがあるかどうかも分からない状態でしたが、佐野船長は、通常のウォッチングよりも早い時間帯に、乗客は僕一人という状態で船を出してくれました。
乗組員は、佐野船長のほかに「回遊くん」も乗り組んでくれました。
ところで、僕が彼に「回遊くん」と名付けた経緯ですが、彼は神奈川の出身なんですが、クジラが大好きで、冬はこの座間味へ来てホエールウォッチングの船に乗り組み、シーズンが終わると、ザトウクジラと同じように北の海を目指し沖縄を離れます。
北の海ってどこかって?
―――― 知床です。
冬は沖縄の座間味でウォッチング船に乗り組みザトウクジラを追いかけ、夏は知床でヒグマやマッコウクジラのガイドをしているという寸法です。まるでザトウクジラの回遊そのものです。
これが、僕が彼を「回遊くん」と呼ぶ所以であります。
前回、座間味の宿泊事情についてお話ししましたように、座間味島では土地者以外が島で働くのをいやがります。にもかかわらずです。僕が座間味へ来て関わった人たちは、全部が全部と言っていいほど、内地の人間が多いのです。
見るからに沖縄の人って感じの佐野船長ですが、実は鹿児島県人であります。琉球大学を出て一般会社へ就職しましたが、大学時代、シーカヤックにはまり、会社を辞めて座間味の「ハートランド」というマリンショップで働き出しました。
そこへ同じく奥さんの優美さんが、この店の募集に応募してやってきたという次第です。
優美さんは名古屋でバスガイドのお仕事をされていましたが、慶良間の海にあこがれ、ダイビングの資格を取って座間味に渡ってきたと言います。そこで佐野さんと知り合い結婚の運びとなりました。
その後、お二人で独立し「ネーチャーランド・カヤックス」のお店を持たれるようになり、ホエールウォッチングのための船「エスコート号」も持つことができるようになったと言います。
優美さんに、ザトウクジラに関し、何かおもしろい話題がないかせっついてみました。
すると言ってみるものですね。とてつもなく素敵なエピソードをお聞かせいただくことになりました。
お二人には「あゆみちゃん」というお子さんがおられますが、そのあゆみちゃんが生まれるのと前後して、ご主人の佐野船長が、座間味の海で、ザトウクジラの赤ちゃん誕生を目撃されたのです。
このクジラの赤ちゃんにも「あゆみ」という名前が付けられました。
ところで、このクジラの「あゆみちゃん」には大きな特徴がありました。背びれがなくツルンとしているのです。ですから、「あゆみ」が北の海から座間味の海に帰ってくるとすぐに分かるわけです。
でも、なぜか3年続けて帰らないときがありました。それがひょっこり帰ってきたときは、座間味の人たちが「あゆみが帰ってきた」と大喜びになりました。
座間味の人たちがザトウクジラに向ける温かい思いが感じられる、本当に素敵なエピソードです。
(ザトククジラの背びれ、あゆみは、この背びれがなく背中がツルンとしている。
Captain Sano found a humback whale baby. The name of the daughter who was born in the same year was taken,
and it named the humback whale as Ayumi ! Ayumi has no dorsal fin and is smooth.)
さて座間味にもうひとり、忘れてならない名古屋人がいます。
座間味ホエールウォッチング協会立ち上げ時からの猛者、大坪弘和さん。彼はクジラ好きが昂じて座間味島に渡り、ここで様々な仕事を経ながら、ホエールウォッチング協会の立ち上げに参画した人物です。座間味ホエールウォッチング協会の責任者であるとともに、日本クジライルカウォッチング協議会の副会長でもあります。
座間味で出会った人の紹介が終わったところで、次回は、いよいよ僕の座間味での三度目のウォッチングについて話させていただきます。
(ウォッチングを始める前、乗客に注意事項やクジラの解説をする大坪さん)
]]>(Chin Music Pr 発行 「Are You an Echo?: The Lost Poetry of Misuzu Kaneko」から転載させていただきました)
最近、金子みすゞさんの詩が英訳された本と出会いました。タイトルも、みすゞさんの「こだまかな」が英訳された「Are you an Echo? 」。みすゞさんの心地よい言葉の響きが英語に置き換えられ、英語がからっきしダメな私ですが、そんな私でさえ声に出して読んでみたい本に仕上がっていました。
その本の中に、前々回のブログで紹介した「くじら法会」も掲載されていました。残念ながら「鯨捕り」については掲載されていませんでしたが、
「海の鳴る夜は 冬の夜は、栗を焼き焼き 聴きました。むかし、むかしの鯨捕り、ここのこの海、紫津(しづ)が浦。海は荒海、時季(とき)は冬、風に狂うは雪の花、雪と飛び交う銛の縄。岩も礫(こいし)もむらさきの、常は水さえむらさきの、岸さえ朱(あけ)に染むといふ。厚いどてらの重ね着で、舟の舳(みよし)に見て立つて、鯨弱ればたちまちに、ぱつと脱ぎすて素つ裸、さかまく波にをどり込む、むかし、むかしの漁師たち……」
あのワクワクするような語り口、英語ではどんな響きになるのだろうと、聞こえぬ英語の響きにもどかしさを覚えます。
英語のことはともかく、「鯨捕り」に語られる昔の捕鯨とはどんなものだったのでしょう?
(長門市通浦鯨組捕鯨の図 長門市「くじら資料館」)
前回および前々回にご紹介した長門市の「くじら資料館」に、この写真のような、古式捕鯨の様子をビジュアル化したものが展示されています。右上および左下に赤の丸で囲った部分に注目してください。幟が翻っているのがおわかりでしょうか。ここが「山見」と言われ、古式捕鯨の見張り台および司令塔になります。鯨が発見されるや、この「山見(見張り台)」に山旦那(総司令官)や山見番の人たちが詰め、船団に幟で鯨の種類や、鯨の進路を伝え、網船に網を張る位置を指図します。その張られた網へ目指して、舟べりを叩き、鯨の嫌う音を立てながら、勢子舟の船団が鯨を追い込んでいきます。網をかぶった鯨は動きが封じられますが、一度ではとてもかなわず、何度も何度も網が張られ、追い込みをかけ、銛を打ち込み鯨を弱らせていくのです。
弱り切っていよいよと見切ると、刃刺しが、勢子舟から海に飛び込み、絡めた網を手がかり足がかりに鯨の背によじ登ります。そして鼻切りをし、鯨が二度と海に潜れないようにしたうえで、鼻腔に綱を通し、二艘の持左右舟(もっそうぶね)が鯨をはさみ、その綱に棒をわたして鯨を港まで曳航することになります。
これが水軍方式による古式捕鯨のあらましです。捕鯨は舟軍(ふないくさ)です。水軍の末裔が、生活の糧に捕鯨を始めたところがほとんどです。
ところで、このような古式捕鯨のやり方を取り入れホエールウォッチングをしているところがあります。
本州から遠く離れた沖縄の慶良間諸島。その中心となる島が座間味島ですが、この座間味の海に12月から3月にかけてザトウクジラの群れが繁殖に訪れるのです。
(上:慶良間の海と座間味の船着き場/下:稲崎展望台の鯨監視員)
写真上、左端に見える船着きが座間味港です。那覇からの高速船やフェリーが入ってくる座間味島の玄関口になります。そして、この港の待合に座間味島ホエールウォッチング協会があり、ホエールウオッチングの際の司令所になります。
座間味島には、高月山展望台、チシ展望台、稲崎展望台の三つの展望台があり、この展望台がホエールウォッチングの季節には、鯨の見張り台になるわけですが、その最も主要な見張り台が、この写真の「稲崎展望台」になるわけです。この見張り台から、監視員が鯨の動きを無線で司令所に知らせ、司令所からホーエールウォッチングの船に指示が出されるという寸法です。
港近くのレンタサイクルの店で、電動アシストの自転車を借り、稲崎展望台に見学にやってきました。展望台には若い青年が二人詰めていました。展望台に着いてしばらくするや、バケツの底が抜けたような大雨になりいっこうに止む気配がありません。鯨の見張りもこれまでとばかり、黄色のパーカーを着た青年を一人残し、見張り員の一人が引き上げていきました。
こちらも雨に降り込められ、身動きがとれず、黄色のパーカーの青年と二人きりになってしまいました。
青年はマグロの遠洋漁業の船に乗っていたと言います。それが、腰を痛め、船を下りることになり、その際、鯨の監視員にスカウトされたのだそうです。身の上話は止みましたが、雨は止む気配がなく、無線で今日の監視作業は中止の連絡が入りました。
青年は車に乗っていくようにすすめてくれましたが、自転車を置いていくわけにも行かず、「雨上がりを待って帰ります」と断りました。でも、この判断は間違っていました。雨はひどくなる一方、夕暮れも近づいてきます。山道に灯りもなく、切り立った崖のところもあります。濡れる心配より、命の心配です。
結局、暗くなる前にと、雨の中を自転車を走らせる結果になりました。稲崎の岬を下りきって港に着いたときはずぶ濡れ状態。通りがかりの観光客にじろじろ見られながら、なんとかホテルへ帰り着いた次第です。
ところで座間味島には大きなホテルやリゾートがありません。個人経営のレストハウスやゲストハウス、民宿がほとんどです。エレベーターがあるホテルは慶良間ビーチホテルのみ。というのも座間味島民の生活を支えるのは、夏はマリンスポーツ、冬はザトウクジラのホエールウォッチングと、観光客だけが座間味島の支えなのです。
リゾートホテルの計画があっても、島民の反対で実現には漕ぎ着けません。それだけに泊まり客に対しても人情深いところがあって、毎年、同じ宿泊先を使うという旅行者も多いようです。
私などは、いろんな所を体験したいものですから、三度、座間味を訪問しましたが、それぞれ違う場所に泊まりました。最初の訪問時は、レストハウスあさぎ。このオーナーと厨房のシェフは、夕食時、料理ばかりでなく沖縄の歌や三線まで振る舞ってくれ、あげくはこちらまで踊らされる始末。楽しい思い出を作ってくれました。
二度目は、島でただ一つのエレベーターがあるという慶良間ビーチホテル。三度目は、素泊まりで安く泊まれるゲストハウスなかやまぐあ。どれも楽しい思い出です。
さて肝心の鯨の話に戻りますが、最初のホエールウォッチングで乗せてもらった船が、佐野船長が操船する「エスコート号」でした。ガイドは、佐野船長の奥さん佐野優美さんとバイトの回遊くん(僕が付けたニックネームです)。いずれも座間味島の出身ではないのです。佐野船長は鹿児島出身。奥さんの佐野優美さんは名古屋出身、バイトの回遊君は神奈川の出身。実にユニークな人たちなのです。
特に佐野船長にはお世話をかけっぱなしで、彼に無理を言って、三度目の座間味訪問で、ついにザトウクジラのメーティングポットを体験することができました。
ということで、この話については次回ということで、今日のところは失礼させていただきます。
(高月山展望台からの眺め)
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ご存知のようにクジラは哺乳類で、呼吸のために頭の上に鼻がついており、それを水面に出している。いかに長く深く海中に潜ろうと、呼吸のために、いつかは海面に頭を出さなければならない。
ホエールウォッチングをしたことがある人なら分かるだろうが、クジラが出てくる場所を探すには「潮吹き(ブロー)」が目当てとなる。クジラが水面に上がるや鼻から溜まった海水を一気に噴き出すのだ。
ところが仙吉は、見るのでなく、クジラを感じることができるという。今、海中のどのあたりにいるのか、どのあたりに上がってくるのか、まるで海の中にいるクジラの様子が手に取るようにわかってしまうらしい。
そんな次第だから、鳥羽のクジラ捕り仲間では一目置かれる存在になっていた。だが、その半面、この力が災いしてどうにもやるせない思いに追い込まれることがある。
南の海で生まれた子クジラを連れ、北の海にかえるメスの座頭クジラを見つけた時のことだ。
普段は子連れのクジラは見逃すようにしている。クジラは母性愛が強く、子連れの時は常より猛々しくなる。しかも給餌のために帰る下りクジラは、子育て期間中、ほとんど餌を口にしていない。つまり栄養不良状態なのだ。そのうえ北へ流れる黒潮に乗っているので、泳ぐ速度も速く捕らえるのが難しいときている。
普段なら見送るところだが、どうしたわけか、ここしばらくまったくクジラが姿を見せず、浦の生活自体も苦しくなってきていた。そこへ母親からはぐれた子クジラが浦へ迷い込んできたという次第。
クジラの中でもザトウクジラは特に母性愛が強い。子供をおとりに捕まえてしまえば、決して母親はその子のそばを離れることはない。いやなやり方だが、浦の生活を思えば、なんとしても見逃すことはできない。
(現在の石鏡漁港 宝永の大津波のあと、この地に移ってきたと言われる。)
これが「石鏡(いじか)ものがたり」発端のシチュエーションである。
「今回は見逃してほしい、子供を北の海へ連れて帰ったあと、この沖を通るときは、この命をささげよう!」
銑吉は、伝わってきた母親クジラの思いを無視し、「浦のためだ、しかたねえ!」と、子供をおとりに母親クジラを追い込み、ついにとどめを刺す。
銑吉は、とどめを刺すとき、まるで自分の母親を殺しているような後ろめたさに襲われたのだった。
そして宝永の大地震、このときの大津波によって石鏡は壊滅する。
生き残った銑吉は、殺した母鯨の断末魔の吠え声に苛まれ、壊滅した浦や村を彷徨いつづける。そんなとき、赤子に乳を含ませながら死んでいる母親に呼び止められた。
最初は死んでいるとは思わなかったのだが、確かめれば、すでに息の切れた骸にちがいなかった。
その骸のおっぱいにしがみつき、その子は元気に泣き叫んでいた。
死んだ母親から「この娘を、この娘を……」という思いが伝わってくる。
◇
「石鏡ものがたり」の話はさておき、私はいま、石鏡からは遠く離れた、山口県長門市の青海島にある「早川家」住宅にお邪魔しています。江戸時代には、代々「古式捕鯨」の網本として存続し、現在、建物は重要文化財に指定された建物です。
海から見た早川家住宅(昭和初期?)
江戸時代の浜の状況
現在の早川家住宅(内部)
一番上の写真は、「重要文化財 早川家修理報告書」に掲載されていた写真をコピーさせていただいたものですが、船着き場が往時より随分小さくなっています。往時は江戸時代の浜の絵図面を見ても分かるように、鯨三頭が悠々並ぶ、かなりな規模のものだったようです。この同じ浜から、勢子舟(せこぶね)、樽舟、網船、持左右舟(もっそうぶね)など十数艘からなる鯨船の船団が漕ぎ出していきました。
ちなみに早川家住宅は、江戸時代、通(かよい)に五軒あったといわれる鯨組の網本で、鯨屋敷と呼ばれ、全国でも数少ないとされる鯨漁家の遺構だといいます。この元鯨屋敷で、お茶とお菓子をいただきながら早川館長自ら通にある鯨墓や鯨の過去帳についてお話ししていただきました。
早川館長の話によると、通の漁師たちは、捕れた鯨の一頭一頭に人間同様「戒名」をつけ、手厚く祀ったと言います。また鯨墓は小高い丘の上に、未だ海を見ることなく亡くなった鯨の胎児、その思いが海に届くようにという計らいから建てられたとも、また、はるばる訪れた鯨の子孫たちが、先祖の墓参りができるよう、海から見える小高い丘に作られたとも言います。
いずれにせよ、通の漁師たちは、命のやり取りをする鯨たちを、人間に近い存在としてとらえていたようです。
◇
早川家住宅を後にし、鯨墓へと向かい、そのあと鯨の過去帳があるという向岸寺を訪ねますが、この向岸寺で不思議な体験をしました。話せば不思議でも何でもないと笑われそうですが、まずは話を聞いてください。
◇
駆けてあがったお寺の石段。
おまいりすませて降りかけて、
なぜだか、ふっと、おもい出す。
石のすきまのかたばみの
赤いちいさい葉のことを。
――とおい昔にみたように。
◇
向岸寺への近道とされる石段の坂道。その坂道を上り詰めた左手のお寺の壁に、金子みすゞの詩が掲げられてありました。その詩の書かれたわきに、金子みすゞの父親は、この向岸寺の旦那だったことが紹介されていました。みすゞが、まだ小さなころは、この向岸寺にもよく遊びにきたことが、この詩からも窺えます。
今、上ってきたこの石段を、みすゞも幼少時に上り下りしていたのでしょう。
そんなことを考えながらお寺の門をくぐったときです。墓参りでしょうか、いきなり着物姿の上品な老女と出会いました。
「なにかお寺にご用?」
「鯨の過去帳が、このお寺にあると聞いてきたのですが……」
老婆というにはあまりに上品で、というより生活感がなく、浦で出会い話を交わしたおばさんたちとはあきらかに違った存在がそこにありました。お歳には違いないのですが、強いて言えば老婦人とでもいうのでしょうか、歳を感じさせない不思議なオーラを漂わせています。
「和尚さんは、もうすぐ出かけられるから急いだほうがいいわ。ついて行ってあげましょうか?」
私はお礼を言うと「一人で行ってみます」と、思いとは逆のことを口にしていました。
そのあと、彼女がどこへ行ったのか、お寺のほうへ向かったのか、出ていかれたのか、さっぱりと思い出せないのです。覚えているのは、住職から、「これから急ぎの用があるので、またにしてほしい」と断られたこと。「いきなり来ず前もって連絡してほしい」と言われたこと。
確かにこちらの落ち度には違いありません。仕方なく帰ろうとしたとき、どうしたわけか、住職が追いかけてきて「20分だけ」と制限付きで「鯨の過去帳」の写真を撮らせてもらえることになりました。住職は「ライトはダメだからね」と念押しすると、本堂へ上がって待っているように言いのこし、勝手口へと消えていきました。
鯨墓と鯨の位牌 Whale Graves and Tiles
向岸寺に現存する鯨の戒名 Whale's Past Book & Whale's Martial Name
こうして、何とか写真は撮れたものの、どう考えても住職の心を変えさせたのは、先の老婦人が口をきいてくれたに違いありません。でも住職の心を変えさせるには、よほど力のある檀家か、それとも、今の住職は養子として迎えられたと聞いているので、養い親の婦人なのかもしれません?
答えが出ぬままに、青海島を離れることになりましたが、バスが仙崎の町へ入ったとき、「金子みすゞ記念館」がオープンしたという案内が目に入り、次いで、その記念館の建物がバスの車窓に飛び込んできました。
―――
そんなわけがない、そんなバカな話は考えられない。
そう思いつつも、向岸寺で出会った夫人は、金子みすゞさんとつながりの深い人に違いない、お孫さんか、縁続きの人か? それとも本人?! 一瞬、そんな途方もない思いに落ち込んでいました。
◇
次回は、沖縄は慶良間諸島の座間味に住む素敵なご夫婦を紹介します。
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一つの目的は、出版を予定している「動物のいる風景」―イルカ・クジラ編―の筆がなかなか進まないためである。少しずつブログで書きためていこうという魂胆。また、同時に子供向き読み物「石鏡(いじか)ものがたり」の想を練るという目的も兼ねている。
ところで、この「石鏡ものがたり」は、鳥羽でまだ捕鯨業が盛んだったころのお話。子クジラをおとりに母親の座頭クジラを仕留めた刃刺しの銑吉。不漁続きで、見逃してほしいという母親クジラの夢だのみを無視して、泣く泣く母クジラを仕留めた銑吉だが……。
◇
この銑吉にかかわらず、クジラ捕りの男たちは、ある種の後ろめたさを抱えている。特に母クジラを殺した後、残された子クジラたちは、このままではどうせ死んでいくだけ、それなら、人間の血となり肉となって、ともに成仏してくれという寸法。しかしいくら自分に言い聞かせてみても、ある種の後ろめたさというか後悔というものがついてまわる。子クジラだけではない、成獣となったクジラでも、いよいよの断末魔の吠え声は、熟練の刃刺でさえ耳をふさぎたくなるほど切ないものだという。
このためだろうか、クジラを供養する墓は、他の動物のものと比べダントツに多く、日本全国で約100か所に及ぶという。
◇
今回訪れたのは、山口県長門市の青海島(おうみじま)にある通(かよい)というところ。毎年7月に通(かよい)クジラまつりがあることで有名だが、この時ばかりはにぎわうものの、それ以外は辺鄙な漁師町。この辺鄙な漁師町の中心に目的の「くじら資料館」があった。
◇
長門市駅からバスで揺られること30分近く、通(かよい)漁協前で降りてすぐ目の前にある。建物の陰に巨大なザトウクジラの姿が見え隠れするように姿を現す。クジラ資料館の広場に置かれたクジラの張りぼてだ。クジラ祭りに使われるのだろう。その前には座頭クジラの尾びれが台座の上に据え付けられ、その台座にはめ込まれた銘板に次のような一文が記されている。
「有情/通浦では延宝元年(1673)頃から網取法によって捕鯨が始められ、明治末期まで長州捕鯨の中心をなしていました。
捕獲した鯨に対する報恩感謝を願う人情厚い浦人たちによって、鯨墓を元禄五年(1692)に左山手の清月庵に建立しました。
墓地には七十数体の鯨の胎児がまだ見ぬ大海の夢を抱いたまま、地中に永眠しています。
平成三年三月 長門市教育委員会」
館内に入ってまず目につくのが金子みすゞさんのクジラを歌った詩二編「くじら法会」と「鯨捕り」。「くじら法会」は館内に入ったホールに飾られており、入り口の「有情」の銘板と共にクジラ捕りの切なさがヒシヒシと伝わってくる。
くじら法会は春のくれ、海に飛魚採れるころ。
浜のお寺で鳴る鐘が、ゆれて水面をわたるとき、
村の漁師が羽織着て、浜のお寺へいそぐとき、
沖でくじらの子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしと泣いてます。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。
海の鳴る夜は 冬の夜は、
栗を焼き焼き 聴きました。
むかし、むかしの鯨捕り、
ここのこの海、紫津(しづ)が浦。
海は荒海、時季(とき)は冬、
風に狂うは雪の花、雪と飛び交う銛の縄。
岩も礫(こいし)もむらさきの、
常は水さえむらさきの、
岸さえ朱(あけ)に染むといふ。
厚いどてらの重ね着で、
舟の舳(みよし)に見て立つて、
鯨弱ればたちまちに、
ぱつと脱ぎすて素つ裸、
さかまく波にをどり込む、
むかし、むかしの漁師たち
きいてる胸も をどります。
いまは鯨はもう寄らぬ、
浦は貧乏になりました。
海は鳴ります。冬の夜を、
おはなしすむと、気がつくと
みすゞの詩にしんみりしていると、「説明しましょうか」と、中肉中背ながら、がっしりとした老人が声をかけてくれた。それが、この長門市くじら資料館の館長・早川さんだった。
早川さん……早川さんといえば、つい今しがた見て回っていた館内資料の中に「早川家」という古式捕鯨の元網本の屋敷が紹介されていた。この資料館に来る前にも、開館時間もまだだったため、漁協前でバスを降りた後、資料館とは反対側に海辺の突堤沿いに歩いていくと、「早川家住宅」の案内表示が道沿いの駐車場の中にぽつんと立っていた。案内表示に従い訪ねていくと、海沿いの道から一すじ奥に入った道に白壁の玄関口があり、そこに「早川家住宅」の説明書きが大きく出ている。
声をかけてみるが、留守のようだ。裏側へまわってみて声をかけるがやはり誰もいないようだ。
「ひょっとして、早川館長は、元網本の……?」
思った通り「そうだ」という答えが返ってきた。くじら資料館館長・早川義勝さんは、この地の古式捕鯨網本早川家18代目の当主だという。「さきほどご自宅を訪ねたがお留守だった」と伝えると、「では、受付の女性が昼の休憩から帰ったら一緒に行きましょう」という。屋敷の中をみんな見せてくれるという。
その間、館長の「通鯨唄(かよいくじらうた)」を聞かせていただくことになった。くじら祭りでは必ず歌われる祝い唄で、長門市の無形文化財になっている。歌う間、かならず手拍子でなく、もみ手をして歌うことになっている。これは命をささげてくれたクジラに、また共に幼いいのちを絶った子クジラや胎児のクジラに追悼の意を表しているのだという。館長の許可をいただき、撮影させていただいたものをユーチューブにアップしているので、興味のある方は視聴していただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=1BASsc9JCmM A Song to mourn a Whale.
さて次回は、早川家を見学させていただいた後、いよいよ「鯨墓」と「鯨の過去帳」を見学させていただきます。(続く)