自分のことを振り返ってみたくなりました vol.7

2010.03.20 Saturday

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    鉄眼書状
          (鉄眼寺に残された鉄眼の書状 飢饉の難民救済のための借金申込)


    第四章 大阪で(鉄眼禅寺と心を見る学び)

    1、妻との宗教戦争

    大学生活二年目で結婚した私は、生活のため、やむなく三回生のとき夜間部へ移籍しました。やがて長女が生まれ、大学に残りたいという私のささやかな夢も消えたのです。妻子を犠牲にしてでも、そんな勇気は、とてもありませんでした。
    卒業後の新しい仕事は、政府刊行物の店舗で「官報」公告を取り扱うという、映画の世界からは思いもつかないほどの堅い仕事でした。せめて本の背中を見られ、しかもせかせかしない仕事を、そんな思いで選んだ職場でした。
    ただ人生後半にして知った歴史のおもしろさは忘れようもなく、未練がましく、週に一度は古文書学の授業を聴講するため、母校へ通っておりました。古文書学の授業を担当するのは、私よりも歳の若い助教授です。うらやましくもありましたが、ともかく、この助教授と友達になり、会社勤めの合い間を見つけては、古文書調査の仕事を手伝わせてもらい、史学の現場にかかわっているという自己満足を得ておりました。
    もちろん、長崎行きもまだ続いています。未だに末次平蔵からは卒業できず、彼の足跡を追い続けておりました。
    妻はと言うと、やれ書道、やれアートフラワー、やれ宗教と、何かいそがしく走り回っています。書道やアートフラワーなら、こちらに影響はないので安心なのですが、宗教的なものはいけません。こちらを巻き込みにかかるからです。
    まずは妻の母が熱心に通う日蓮宗の道場。年老いた女性の行者が護摩を焚き、先祖供養をしてくれるのですが、ここへ連れていかれるのです。いやだと言うと、夫婦喧嘩の種になります。結局は私が負けて、しぶしぶ連れていかれるのです。
    ついで朝起き会。毎朝、早朝四時過ぎにドアがノックされます。設定された会場へ車で送ってくれるべく、係の方が会員の家を回って歩くのです。もちろん、私は寝たフリ。ところがこの会、勧誘が激しいのです。妻は一回でいいから顔を出してくれとせっつきます。仕方なく一度だけと顔を出すと、今度は、妻の仲間の亭主連中が、「大会があるので是非出席を」と、団体で説得に現われます。
    これには頑強に抵抗しました。でも妻との喧嘩の果て、やはり一度だけと念押しして顔を出している自分があります。この他にも、日の丸道場とか言う占いの先生の家にも連れていかれました。その先生、言うにことかいて、私を宗教的だと言い、将来、宗教的な仕事をするとも言ったのです。
    私はその頃は、自分が無神論者のつもりでいました。実際、私が育ったのは、神仏を敬うような、そんな環境ではありませんでした。最近こそ、父母は仏壇を置くようになりましたが、私が小中学生の頃は、父母ともに、神や仏など口に出したことなどなく、私が中学生の頃、教会へ行きたいと言い出すと、「宗教は弱い人間のやるもんだ。特にキリスト教はそうだ。あんな十字架にかけられた人間に手を合わせて、気持ちの悪い」と、一笑に付されてしまいました。
    私自身、それ以後、神などいない、あると思うのが錯覚だと決めてかかるようになりました。だから、この占いの先生の言には、どこをどう突ついたら、そんな言葉が出てくるのかと、頭をひねったものです。
    それはさておき、このままでは、いいように女房に振り回される。何か方法はないかと思いついたのが、こちらも宗教を始めることでした。勧誘されても、「やってますから」と断わることができる。
    かといって女房と同じものをする気にはなりません。
    「格の違うものを」と思いました。あんな訳のわからない新興宗教でなく、私の無神論も満足させてくれるようなやつ……、そう、禅宗です。銀行員時代、二泊三日で、黄檗禅宗の本山「萬福寺」へ社員研修と言って放り込まれましたが、皆のいやがる中、私自身、何かピッタリ来るものを感じていました。
    これだと思いました。
    無理なく続けられるよう、大阪近辺で座禅会を開いている寺を探し回りました。
    まず思いついたのが、泉屋博古館です。寺ではありません。住友グループの施設で、江戸時代は住友の銅精練所として使われていた建物です。江戸時代、貿易の決済は、初期は銀が主流でしたが、その後、銅が中心となっていきます。国内流通用には円板状に加工したものを使いますが、オランダ貿易には、桿銅といって細長く棒状にしたものを使います。この銅が、この住友灰吹き所で精練され、淀屋橋にある銅会所(現在は愛珠幼稚園として現存)を通じて、堂島川を船で下り、海路、長崎へと運ばれていったのです。
    おもしろいエピソードがあります。
    江戸時代、幕府の貿易統制策は、薩摩をはじめとして大小様々な密貿易を生み出しました。長崎でも、オランダ船が入港すると、体中にこの桿銅を縛りつけ、オランダ船に泳ぎ渡ろうとした人間がいたようです。その重みのため溺れ死んだ男の死骸が見つかったということが、長崎の「犯科帳」に記録されています。
    話を戻しましょう。
    私は、江戸時代の生糸貿易を調べていたおり、この銅の灰吹き所の建物が住友の施設(泉屋博古館)として今も残り、月に何度か、禅の「無門関」の講読会に使われいるのを知っておりました。座禅をはじめようとして、当然、まずここを思いついたのです。
    早速、連絡を取り、月に二度、土曜日の午後、「無門関」の講読会へ足を運ばせることになりました。そして、そこで鉄眼寺座禅会を知ったのです。


    2 鉄眼寺座禅会

    そんな折もおり、朝日新聞の心のページにも鉄眼寺座禅会の案内が掲載されました。週二回、場所は地下鉄四ツ橋線なんば駅。私の勤める会社は四ツ橋線肥後橋駅にありますから、南へ二つ目の駅……すぐ近くです。しかも参加費は百円と超破格値。
    早速、調べてみました。
    鉄眼寺、正式には瑞龍禅寺といい、江戸時代初頭、中国から隱元が伝えたという黄檗禅宗の一寺です。本山は宇治黄檗山萬福寺。私が銀行の社員研修に放り込まれたところです。まず、そのことに心が動きました。次いで鉄眼という人物に心が動いたのです。
    彼は、自らが大悟の器でないことを悟ったのでしょうか、当時、まだまだ普及していなかった仏教経典のすべて(一切経とか大蔵経とかいう)を、日本で版木にすることに一生をかけたのです。日本に仏教が伝わって千年以上が経とうというのに、未だ、日本で印刷された経典の数は少なく、仏典を学ぼうにも、経典自体、やすやすと目にすることができないのです。
    手に入れるには、大枚な金額をはたいて中国から輸入するしかありません。絶対数が不足しているので、学僧はそれを写経するしかなく、ときには写経の写経となり、最後には不完全なものでしか学べなくなってきます。それでも目にすることができるのは、幸運というべきでしょうか。
    仏典を日本で出版することで、そんな状態を改善しようとしたのが鉄眼でした。
    彼の一生は、自らが悟る道よりも、仏典を普及させることで、他者の悟りへの道を開こうとした一生だったようです。自らを大悟の器でないとしたところに引かれました。
    「小人、閑居して不善をなす」という諺がありまが、当時、私は、この諺を逆手にとって、小人である自分が、不善をなさず、小人の分をまっとうする生き方をするにはどうしたらよいか。自分のできる仕事があるはずだと思っていました。生活のための仕事ではなく、自分にとっての本当の仕事。給与生活者がその収入をつぎ込んでもやろうとする仕事。そんな生き方を求めていました。
    だから鉄眼に引かれました。間違っていようが何だろうが、自分が信じて進める人生。そのために地獄に墜ちるなら、それも本望だと思っていました。飢饉と闘って死んだ鉄眼の最期にさえ……共感を覚えました。
    彼は、大蔵経の印刷のほか、当時、西国を襲った飢饉の救済のためにも駆けずり回りました。仕上がってくる経典を担保に金を借り、粥を炊き出します。間に合わなければ米をじかに紙に包んで配ります。それでも間に合わなければ、銭を包んで配りました。そして金も尽きました。
    鉄眼寺施行門に並ぶ飢民の群れは日を追うごとに増えるばかり。飢民の群れは後を断つことがありません。与えれば与えるほど、飢民の群れは増え続けます。「米を、粥を」という怨嗟の声を聞きながら、過労に倒れ、病床にあった鉄眼は息を引き取ったと言われています。
    残された彼の最後の手紙は、飢民救済のため「拙僧施行やめ候えば、ことごとく餓死に及び申し候ゆえ、たとい指を刻み、骨を折りて施し候ともこの施行やめ申すまじく……」という、悲壮な借金依頼の書状でした。その書簡が鉄眼寺に残されています。彼の弟子が書き写したものです。自筆の物は京都にありますが、でも、私はその写しにひかれたのです……。

    その日、初めて鉄眼寺を訪ねました。
    夕方六時、座禅会の始まる三十分前です。陽はまだまだ明るかったので、多分、六月頃のことだったように思います。
    境内はひっそりと静まりかえっていました。四ツ橋筋を走るまばらな車の音も、その静けさの邪魔をせず、かえって静けさを引き立てているかのようです。
    空襲で新しく建て換えられたのでしょう。こざっぱりした建物は二階が本堂になっており、そこに誘う大きな階段が正面にありました。階段の上がり口には、布袋さんの像……後になって、よく住職が言っていました。
    「こんなもんに手を合わせたってしゃあないで。すがりついても何の助けにもならん。溺れて死ぬのがせいぜいや……」と。
    その階段の裏手に一階への入り口があります。座禅会の会場です。
    建物に足を入れるや、一層の静けさと冷ややかな空気が体を包みました。側面に下足棚が並び、正面には、上のほうから「脚下照顧」の偏額が見下ろしています。
    思わず「頼もう」とでも声をかけたくなるような雰囲気ですが、そこは常識的に「ごめんください」と声をかけました。でも、声が喉に張り付いたようで、内にこもったような小さな声しか出てきません。
    案の定、館内はシーンと静まりかえったままで、なんの応答もありません。
    もう一度、大きな声で、
    「ごめんくださーい…………」と、声をかけました。
    自分の声が静けさの中へ染み込んでいきます。
    ……また何の応答もありません。
    一瞬、間違ったかなあと思いました。三十分前に誰も来ていないのがおかしい。今日は違ったのかもしれない。
    そう思い、帰ろうとしたときです。
    恰幅のよい、おだやかそうな老僧が現われました。
    まるで入り口の布袋さんがきっちり僧衣を着けて入ってきたかのようです。
    「何かご用かな?」
    「新聞で座禅会の案内を見て来たんですが……」
    「まだ誰も来ませんでな。中に入って、少しお待ちくだされや」
    そう言って、住職は奥へと消えていきました。
    中はよく磨かれた板敷きの会場で、新しいせいか、寺というより公民館の集会所といった風情です。横手に並べられた机には、墨の色も鮮やかに、まだ書き終えたばかりと見える何枚かの書が乾かされています。その横の机には、大蔵経の版木の一部が無造作に飾られてあり、入り口側面の壁には、鉄眼寺施行門を取り巻く無数の飢民の群れと鉄眼を描いた板絵がかけられてあります。
    板絵に見入っていると、一人のおだやかそうな青年が入ってきました。こちらに軽く会釈すると、この人も奥へ消えていきます。
    やがて先程の住職にともなわれ、その青年が現われました。
    聞くと、この青年が、参加者の中で座禅会のリーダーをしておられる方だと言います。住職は、坐り方や注意事項などを教えるよう、その青年に指示してくれました。
    会は週二回。会費は百円は、テーブルの上にある空き缶の中に各自入れる。その金で、座禅が終わったあとに出される茶菓が買われる。それ以外、規則らしい規則はない。来るも来ないも自由……。
    坐り方は、まず二枚の座布団を用意する。まず一枚目の座布団を敷き、その上に二つ折りした座布団を端のほうに重ねて置く。これは早く来たものが準備する。
    坐ろうとする者は、一枚目の座布団の上に坐り、二枚目の二つに重ねた座布団を尻の下に入れる。足は、右足かかとを左太股の上に乗せ、左足かかとを右太股の上に乗せる。こうすることで尻を中心に、両膝がつっかえ棒となり、床に対し三脚をひろげたような状態となり安定がよくなる。これを結迦臥坐という。つらいようであれば、略式の半迦臥坐でもよいし正座でもよい。ただし、正座は長時間坐るのに向かない。
    やがて、人が集まりました。
    横二列に充分な間隔を取り、向かい合って坐ります。
    まず般若心経を全員で唱えます。
    読経が終わるや明りが落とされ、途端、吸い込まれるような静けさが漂います。
    目は半眼、つまり半開きの状態で、視線は自分の組んだ足より少し先のところに落とします。時間が経つに連れ、静けさがどんどん深まってきます。
    どれぐらいの時間が経ったでしょう。右端に坐っていた一人が立ち上がったようです。静かに、静かに、足をすべらすようにして列の間を歩いていく様子……。
    やがて、続けさまにパンパンパンッと甲高い音が響きました。
    警策(きょうさく)で背中を打たれる音です。眠気を催したときや、緊張で固くなった体をほぐすために打たれるのですが、静かな中、あの足音が近づいてくると、却って体がこわばります。
    私の後ろで足音が止まりました。
    警策が軽く肩に触れます。私は合掌すると、体を折るように前に倒します。
    警策がパンパンパンッと肩から背中にかけて振り下ろされます。このとき、決して体を動かしてはいけません。警策が振り下ろされたとき、体が動くと、誤って耳を削いでしまうこともあるそうです。
    足音は、また静かに遠ざかっていきます。
    体のこわばりは取れましたが、背中のほうは、しばらくジーンと痺れておりました。
    こうして私の座禅修行の真似事がはじまったのです。 

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