自分のことを振り返ってみたくなりました vol.6

2010.03.16 Tuesday

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    長崎春徳寺裏山からの景観
                (末次平蔵の菩提寺 春徳寺裏山からの長崎の景観)


    末次平蔵の石棺3 村山等安と末次平蔵

    こうして私の長崎通いが始まりました。
    中国側の史料も読みたい。それも漢文としてではなく、中国語としてとらえたい。そんな思いで、授業だけでは足りないと、日中友好協会主催の中国語の学習サークルに参加しました。そこで知り合ったのが、現在の妻です。彼女とは一年後に学生結婚することになりますが、その新婚旅行もまた長崎でした。
    結婚してからも、費用を工面して長崎に通い続けました。史料を読み、古文書とにらめっこし、ときには研究者に話を聞き、現地を自分の足で歩いてみる。歩いてみて初めて分かったこともいくつかありました。それを歴史雑誌に投稿すると、いくばくかの金になる。その金でまた長崎へ行く。そんな繰り返しでした。
    調べれば調べるほど、当時の長崎は複雑な様相を呈しています。その複雑さの正体は、突き詰めてみればカネです。長崎の内町と外町の商人間の対立、旧教国ポルトガル・スペインと新教国オランダ・イギリスの対立、それにイエズス会と他修道会間の争い、幕府の思惑と南蛮貿易に投資する西国大名の思惑……、様々な利害が長崎で輻輳し、衝突していたのです。
    そんな勢力関係を背景に、前述の末次平蔵と村山等安の訴訟事件が起こりました。
    イエズス会が後押しするジョアン末次平蔵が、ドミニコ会やフランシスコ会が後押しする長崎代官アントニオ村山等安を、その数々の不正を原因として訴えたのです。
    この訴訟は、長崎の利権をめぐっての争いであったわけですが、先にも上げた、ポルトガル宣教師とスペイン系宣教師の対立、ひいては長崎の内町と外町の対立と、さまざまな思惑を抱え込んで複雑な様相を呈することとなり、あげくは、平蔵が、等安をキリシタンとして、しかも大坂の陣に際し等安の息子が大坂方に与したことを訴えることで結末を見ることとなったのです。
    以後、長崎代官の職は末次平蔵に移りましたが、このことは、平蔵の背教を意味し、これ以後、平蔵は苛酷な迫害者としてキリシタンの前に登場することになります。
    ところで末次家は平戸の木村氏から出ており、一族からは日本人として最初の宣教師となるセバスチャン木村(前述の鈴田牢の碑に、木村神父として紹介)を出しています。しかも平蔵の父興善(こうぜん)は、ザビエルの博多での宿主となったキリシタンの名門中の名門であり、平蔵の背教はイエズス会には信じがたいことであり、且つ受け入れがたいことでもありました。しかし、彼の目指すところが、宗教的救いではなく貿易の利潤であってみれば、それも致し方ないことでしょう。
    江戸幕府は、オランダ、イギリスの日本貿易参入により、次第に長崎貿易からキリスト教の影響を拭い取りにかかっていたのですから……。


    4 大嫌いなトマス荒木

    ところで、この末次氏と村山氏のことを調べていると、どうしても一人の人物がちらほらと顔を出します。それがトマス荒木です。ローマへ渡りパードレとなって禁教令下の日本へ戻ったのですが、間もなく捕らえられ、その教えを捨てました。
    彼は背教するや、キリシタン名簿を長崎奉行所へ提出し、江戸で末次平蔵と村山等安の公事(裁判)が取り結ばれた際、証人として出席し村山等安に不利な証言をしたと思われるのです。
    しかし彼の態度は、終始、揺れ動いています。キリスト教会を非難したかと思えば、次には自分はキリシタンだと言い出したりします。棄教前から、その懐疑的な態度は教会側からも問題視されており、帰日前、マカオ滞在中も、イエズス会から危険視されておりました。
    荒木に比べれば、平蔵のほうが余程すっきりしていて気持ちがよいと思うのです。荒木のようなウジウジした生き方だけはしたくない。この人物だけはいやだ。こんな人物だけにはなりたくない。そんな思いが出てくるのです。
    彼の弱さが身にしみて、浅間山麓の事件を思い出させるのです。彼の弱さを忌み嫌う心は、そっくり自分を嫌う心につながってきます。
    何度も、自分は違う、こんなにひどくない。自分はこんなにも弱くない。そう思おうとしました。でも、見たくない、知りたくない、こんな男のこと……そう思えば思うほど、トマス荒木が追いかけてくるように思います。
    彼が資料に出てくる箇所は、大急ぎで通りすぎようとしました。
    それでも出てくるのです。扱う史資料、どれにも、どんなところにも顔を出してくるのです。トマス荒木と言えば、イエズス会を裏切った人間として、資料が極端に少ない人間なのです。イエズス会は、殉教者については詳細な報告を残しました。途中の紛失を恐れ、何通もの日本通信が様々なルートで送られました。しかし、背教者、特に裏切り者の記録については何も語ろうとしません。
    だから、彼の資料は探すほうが難しいぐらいなのに、まるで追いかけてくるように、いやがればいやがるほど、資料が追いかけてくる感じです。そんな繰り返しが続き、それでも、末次平蔵と村山等安の訴訟事件を素材にした卒業論文は無事完成しました。
    ただし、その内容にトマス荒木については一言一句も触れることはありませんでしたが……。

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