自分のことを振り返ってみたくなりました vol.5

2010.03.15 Monday

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    鈴田のキリシタン牢跡
                   (大村湾に面して立つ鈴田のキリシタン牢跡)

    鈴田牢井戸跡と旧道入り口第三章 長崎で…

    1 鈴田牢跡に立って

    極寒の二月、私は大阪を朝一番に発つ全日空機に飛び乗るようにして、この長崎へとやってきた。長崎での最初の目的地は、空港のすぐ近くにある鈴田というところ。
    私は客待ちをしていたタクシーに乗り込むと、いきなり「鈴田に江戸時代のキリシタン牢の跡があるそうですが……」と、運転手に声を掛けた。運転手の怪訝そうな顔がバックミラーに映る。私はポケットから史跡案内の本を取り出すと、ページの折り込んだ箇所を開き、それを差し出しながら、「鈴田の宮崎というところにあるはずなんですが……」と問い掛ける。
    運転手は、差し出されたページをしばらく見ていましたが、「そう言えば、それらしきもんが道路沿いにあったとですね」と、顔に似合わぬ穏やかな口振りで答えてくれ、「でも、なんもなかとですよ。ただ丘のごたるところに、十字架が立っとるだけですたい……行かれるとですか?」と問い返してくる。
    私はただ「お願いします」とだけ答えた……。

    途中、この人のよさそうな運転手になにか話しかけたいと思うのだが、胸の中に重いものがつっかえているようで、どうしてもその気になれない。運転手のほうも、そんな私の様子を察したのか、とうとう二人とも何も話さぬまま目的地へと着いた。
    過ぎ去るタクシーを見送って、道路の右側を見ると、小高い丘のようなところに、木々の間から白い十字架が見える。逆に道路の左側は一段低くなっており、狭い畑のようなものがあって、案内書によると、どうもこの辺りが「牢屋の井戸」と呼ばれたところのようだ。道路から下りてみると、狭い畑の向こうに干拓地らしきものが広がっており、その向こうには、海を隔てて長崎空港が見える。おりしも一機の飛行機が滑走路から飛び立っていった。
    再び道路に上がり、さきほどの十字架の丘へ登る道を捜す。すぐに丘の裏手に出る地道が見つかった。道はゆるやかな登りになっており、少し行くと、左手に目的地である鈴田牢遺跡の入口が待ち構えていた。

    入口の短い階段を上がると、七、八坪程度の狭い広場に出る。ここが鈴田のキリシタン牢があったところだ。今では、その広場の真ん中に十字架が据えられているだけ……その台座の銘板に次のような言葉が記されていた。

    「鈴田牢の碑
    一六一七年七月から一六二二年九月まで、ここにキリシタン牢があった。広さ二六平方メートル(八坪)の小屋である。神父と修道者、信者ら三五人がこの牢にいた。
    肉体に加えられた迫害と苦しみをよそに、聖なる囚人たちは神への 愛に満ち足り、悲惨極まりない牢獄も、敬虔な修道院の如くであったという。
    一六二二年九月十日、囚人のうち木村神父ら二十五人は長崎の西坂で殉教、十二日にはフランコ神父、ズマラガ神父ら八人が大村の放虎原で信仰に殉じた。牢内で帰天した者二人……。」

    この鈴田牢に囚われていた、ほとんどすべてのキリシタンが死んだ。斬首された者、あるいは牢内で病死した者。またある者たちは、長崎の西坂刑場で生きながら焼き殺された。五年にわたる鈴田牢の歴史は、長崎の大殉教、そしてそれに続く放虎原での火炙りという形で幕を閉じる。
    この牢に囚われていたキリシタンの中で、ただ一人、トマス荒木だけが、背教者という汚名とともに生きてこの牢を出た。
    私がはるばるこの鈴田牢を訪ねてきたのは、今にして思えば、殉教者たちの栄光を偲ぶためではなく、イエズス会のスピノラ神父が、侮蔑の思いを込めて呼んだ、「ローマの聖職者」トマス荒木と出会うためであったと頷ける。
    ただ、そのころは、この鈴田牢を訪れた意味もよく分かってはいなかったが……。


    2 「折りたく柴の木」

    私が初めて、この「トマス荒木」という人物に出会ったのは、大学生活も二年目を迎えた頃でした。その頃の私は日本の近代史に夢中になっていました。一方に岡倉天心の「アジア主義」、一方に伊藤博文の「脱亜論」を抱えた近代日本が、その両面をときに使い分けながら、軍ファシズム運動に走っていく過程を、アジア史の中でとらえてみたいというのが、私が日本史を専攻した目的でした。
    そのため、年下の友人たちと同人誌を作り、友人の下宿を根城に気を吐いていたのがこの頃の私であり、いつしか、浅間山の麓で起こったことは忘れ去っていました。
    当時の私の頭にあるのは、大陸浪人の宮崎滔天であり、石原莞爾であり、北一輝、大川周明でした。二年目を迎え、東洋史特殊講義を受講しようとしたのも、東洋史の中で日本をとらえなおすのに、何か多少でも参考になるのではという漠然とした思いからでした。
    ところが、東洋史特殊講義を担当した大庭教授は、当時、江戸時代中国舶載貨物の研究で有名になられた方で、授業のテキスも、新井白石の「折りたく柴の木」……
    これでは自分の目的とはあまりにも縁遠いように思われました。
    最初、受講をやめようかと思いましたが、授業で取り扱われたテーマが圧倒的に私を魅了してしまい、日本の近代史どころではなくなってきたのです。
    そのテーマというのが、中国と日本の生糸貿易でした。

    この頃、日本はまだ鎖国はしておりません。
    それどころか十六世紀から十七世紀初頭は、日本人の海外進出の全盛期でした。その頃、日本が欲したものは中国産の絹であり、武家と言わず商人と言わず、こぞって絹を求め、ために生糸の値段が物価を左右したほどでした。しかし、日本ではまだまだ上質の生糸はできず、かといって中国は、倭寇対策を理由に日本に対し「海禁令」と称し、国を閉ざしています。そこに登場したのが、大航海時代を経て極東にまで進出してきたポルトガルだったのです。
    ポルトガルはマカオを拠点に中国産の生糸を長崎へ持ち込みました。日本の朱印船貿易家も、東南アジア各地で冒険的中国商人と出会い、生糸を仕入れはしましたが、日本の需要を賄えるほどではありませんでした。いきおいポルトガルの南蛮貿易が重要視されるようになります。そしてポルトガル人から生糸を購入するためには、どうしてもイエズス会宣教師の斡旋が必要とされたのです。
    このため、貿易に携わる人間はこぞってキリシタンとなりました。家康もキリスト教を歓迎はしませんでしたが、当初、貿易上の政策からこれを利用する方向に動いたのです。しかし、家康の最終目標は、長崎貿易からキリスト教を分離し、その主導権を幕府が掌握することにほかなりません。これを可能にしたのが、新興国オランダ、イギリスの日本貿易への参入だったのです。やがて禁教令が発布され、教会領長崎は幕府に接収され、じわりじわりとカトリック勢力の日本からの追い出しが推進されていきました。

    このようにして、講義は、生糸貿易からはじまり、キリシタンの迫害へ、そして最後に日本に潜入したイタリア人宣教師シドッチと新井白石の関係へと及んでいきます。その舞台となった江戸のキリシタン屋敷は、シドッチ以前にも数々のキリシタンたちが、その苦しい思いを吐いた場所であり、実は、現在私が仕事でよく行く書籍取次店星雲社のすぐそばが、かつて、このキリシタン屋敷があった場所なのです。
    それはさておき、私はたちまち、生糸貿易とキリシタンというテーマに夢中になっていきました。鎖国前の一時期、日本が世界に向かって手を広げようとした時代があったのです。航海術や造船術が進歩し、西洋型帆船と中国ジャンクの長所を併せた大型朱印船が、この日本で建造されました。
    聖地エルサレムを訪れた最初の日本人がいたかと思うと、キリシタン追放でロシアまで流れていき、その地でロシア聖教会から異端とされ火灸りにされた日本人キリシタンがいます。かと思えば、東南アジア各地で、奥地に入っては現地の人に金を渡し養蚕業への転向を奨励していった日本人商人たち。オランダやポルトガルに傭兵として雇われた日本の侍たち。明朝に味方し、清朝を倒そうと南京攻略に参加した鉄兵と呼ばれた日本の義友軍……この時代、興味は尽きることなく広がっていきます。
    やがて興味は一人の人物に収斂していきました。
    長崎代官、末次平蔵政直です。
    朱印船貿易家であり長崎内町乙名(おとな)であった彼は、同じキリシタンである長崎代官村山等安を幕府に訴え、自ら長崎代官となりました。以来、イエズス会最大のパトロンと言われた末次平蔵は、イエズス会の最大の敵と言われる迫害者となったのです。
    私は、なぜかこの人物に惹かれるのです。調べれば調べるほどこの人物に魅せられ、次第に末次平蔵の足跡を追いかけることに、自分の生きがいを見い出すようになってきたのです。 

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