自分のことを振り返ってみたくなりました vol.4

2010.03.14 Sunday

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    湯殿山 注連寺
                          (湯殿山 注連寺)

    第二章 湯殿山で

    一、鉄門海上人との出会い

    鉄門海上人の即身仏あの後、嬬恋村を逃げ出して東京へ出ました。何をしてよいのかも分からず、フラフラと日劇の前までやってくると、折から市川染五郎の「蒼き狼」が上演されていました。自然とチケット売り場に足が向きます。芝居でも観ていれば、その間、何も考えずに済むと思ったのです。しかし、窓口の向こうからは「あいにくですが、今日は貸し切りです」の声が返ってきます。途方に暮れ、その場を離れようとすると、一組のカップルが近づいてきて「一人来なくなったから……」と招待券を差し出してくれました。
    あんなことがあった後にもかかわらず、なぜかワクワクして劇場に入ります。
    シートに腰を落とすと、いつものように胸奥から言い知れぬ不安が込み上げてきます。ただいつもと違うのは、今回はその不安の原因が表面だけでもハッキリしているということです。
    私はいつものように、「今は芝居を楽しもう」、そう自分に言い聞かせ、その不安を飲み込んでしまいました。

    重い足を引きずり、大阪の自宅へ帰り着いたのは、その日の深夜でした。
    プロダクションから連絡が入っており、親戚やら心当たりに連絡が取られ、それでも見付からずにあきらめかけていたところだったそうです。今日、見付からなければ、ヘリコプターで捜索も考えられていたそうです。
    母は、怒る父を「今日は疲れているから寝かせてやってほしい」と説得し、私を寝室へ逃がしてくれました。でも興奮して寝つけそうにもありません。会社のみんなに、なんて言えばいいんだろう。それより何より、自分は、なぜ、あんなことをしたのか。なぜ、みんなができることを俺はできないのか。読売テレビ時代の、エディターの声がよみがえります。
    「女の子でもやっているのに……」

    嬬恋村からの蒸発以後、両親や職場のみんなの思いやりにも関わらず、やはり職場復帰はできませんでした。みんなと顔を合わすのがいやだったのです。出勤はしても、映画館や人けのないスタジオ、喫茶店と、みんなの目を逃れてウロウロするばかりです。
    そんな毎日にいたたまれず、休暇をとり、東北へ旅に出ました。
    両親にも内緒でした。一人でゆっくり考える時間が欲しかったのです。

    夜行で秋田へ向かい、そこで一泊、次の日は早朝一番の列車で東北へ。下北半島を周り、その地の鄙びた民宿に泊ります。トタン張りの屋根に海風が吹き付け、波の音と風の音を聞きながら、いつしか眠っていました。これから後、南へと下り、岩手の安家洞を訪ねましたが、旅館へ到着すると、大阪の父から電話が入ってきたというのです。どうしてここが分かったのか、多分、置いてきた時刻表に印でも付けてあったのでしょうか。今、思うと、どうも不思議でなりません。ためらわれましたが、それでも伝言通り、家に電話を入れました。
    父が出ました。早く帰ってくるように言われました。受話器の向こうから、父の声に混じって母の叫ぶような声が伝わってきました。狂ったように「敏明、死ぬな、敏明、死ぬなーっ」て叫んでいるのが聞こえてきます。
    電話を切り、旅館を出ました。安家洞は、昨夜までの雨のため、洞内水流があふれ、入洞禁止になっていました。鍾乳洞入り口の近くに小さなスナックがあり、そこで飲みました。店の中では地元の青年たちでしょうか、二、三人がマスターと親しそうに話しながら飲んでいます。私は、誰と話す気にもなれず、一人で飲んでいましたが、いくら飲んでも母親の声が忘れられません。明日は帰ろう、そう決めてスナックを出ました。床に着いても、寝付くまで母親の声が頭の中に残っていました。今も、しっかり心に残っています。「敏明、死ぬなーっ、敏明、死ぬなーっ」って。

    朝、岩手の駅へ出ました。しかし大阪へ帰る列車まで、まだ随分時間があります。切符だけを購入し、タクシーを拾いました。急に思いついたところが湯殿山です。
    写真専門学校へ通っていたとき、即身仏という日本のミイラに興味を持ったことがありました。弥勒信仰から生まれた、死を前提とした修行形態で、穀断ちによる、いわば緩慢たる飢餓自殺です。五十六億七千万年という、遥かな未来に現われる弥勒の救済を渇望し、ミイラになって身体を残そうというのです。
    卒業作品に、是非、この「弥勒と即身仏」というテーマを作品にしたかったのです。が、費用がかかり過ぎるため、資料を収集するだけに終わってしまいました。その即身仏の修行の山として有名なのがこの湯殿山なのです。
    「ここまで来たんだ。大阪へ帰るまでに一度この目で見ておこう」と、タクシーの運転手に相談しました。費用と時間はどうだろうか、場所も分かっていないのだが……。その運転手は快くこちらの条件を飲んでくれ、湯殿山のふもと、注連寺というお寺へ連れて行ってくれることになりました。凡字川を渡り、タクシーは大網の部落へと入っていきます。
    タクシーが注連寺本堂前に到着しました。でも、入り口には鍵がかかっているのでしょうか、押しても引いても開きません。大声で声をかけますと、私の背後、それも下のほうから返事が返ってきました。振り向くと、道の片側はゆるい崖となっており、その崖下に畑が広がっています。声の主はその畑で働いているお百姓さんでした。
    聞くと、住職は別の場所で百姓しているからここにはいない。この道を下だった所にこの寺の管理をしている家があるからそこへ行けというのです。
    そうこうして、やっとのことで、写真や活字ではなく、この肉眼で「即身仏」を見ることになりました。きらびやかな僧衣に包まれ、苦しそうに前屈みになった鉄門海上人。周りには、彼の事蹟を描いた板絵が取り巻いています。
    現在残されている即身仏の中でも、この鉄門海は、最下層の身分である人足出身で、伝承によると、本名、砂田鉄、鶴岡の青龍寺川の人足をしていたが遊廓の女のことで役人と喧嘩となり、これを殺してこの注連寺へ逃げ込んだというのです。以後、二十五才で出家し、五十九才で死を前提とした三年間の穀断ち修行(木食行)に入るまで、その足跡は関東から東北までかなりの広範囲にわたると言われています。
    やがて穀断ちの末に骨と皮となった鉄門海は、文政十二(一八二九)年十二月八日、ふとした風邪がもとで息を引き取りました。遺体は海水につけて洗い、その後、注連寺の天井に吊してたくさんの百目ろうそくを点して乾燥させミイラ化させたと言います。話を聞いていて思わず身震いするような光景でした。
    案内の老人も、ひとしきり説明するとどこかへ去り、誰もいない堂内で、しばらくは一人っきりでこの鉄門海のミイラと向き合うことになりました。
    まるで時間が止まってしまったような感じでした。

    このときの印象が強烈だったせいでしょうか。あれから何年も経ったある日のこと、夢の中にあの即身仏があらわれたのです。以来、この即身仏との付き合いがはじまりました。よく夢の中に現われるようになったのです。いつも同じパターンです。場所は日本のいろんな場所であったり、中東の乾いた風景の中だったりするのですが、道に迷い、彷徨っているうちに、いつしか即身仏の祭られてある洞窟へ入っていくのです。夢の中で、ここを行けば、また即身仏のところへ出ると分かっていながら、いやだいやだと思いつつ、逆らえずに即身仏と出会う。こんなパターンの夢を場合によっては毎日のように、いえ一日に二度も続けて見ることがあります。しばらく忘れていても、ある日、突然、その夢がまたはじまり、ぐっしょり寝汗をかいて目をあけます。そんな繰り返しが続きました。


    二、藤信次さんと大学受験

    ところで、東北から大阪へ帰った私は、プロダクションを辞めることを決心しました。辞めて何をするのか? 大学へ行こうと思ったのです。というのも、親しくしていたプロデューサーの藤さんが、「おまえは大学を出ていない。遊んでも勉強してもいいから、まず大学へ行け。大学四年を経験してこい」と言ってくれたからです。
    この藤さんとの関わりには少なからぬ因縁を感じております。藤信二さんは、私がこのプロダクションで働くようになってすぐ、テレビ畑から移ってこられた方です。
    本人が言うには、テレビでは「鬼の藤」で通っていたそうで、若い女性タレントは、いつも自分の前ではピリピリしていたと言い、フランキー堺の「私は貝になりたい」を手掛けたことが自慢でした。なぜかずいぶん可愛がってくれ、会員制のクラブやら何やら、よく遊びに連れていってもらったものです。そして連れて行ってもらう度に、女の子に向かって「人間は陽が昇ぼったら働いて、陽が沈んだら休むもんだ。こんな夜の仕事をしていてはいかん」と説教が始まり、「鬼藤」の話、「私は貝になりたい」の話がはじまります。
    本人が言うように、金銭的にはかなりルーズな人で、あるとき、私に
    「おまえ、少し貯えはあるのか」と聞きます。
    「少しぐらいだったら」と答えますと、
    「少し貸してくれ」「銀行で金を下ろし、その金をここへ持っていってくれ」とメモを差し出します。
    私が言われたようにしてその場所へ行ってみると、なんと、そこはサラ金だったのです。そう言えば、あの金も返してもらわないまま、藤さんは死んでしまいました。
    最後にあったのは、私が、その言葉通り、大学へ入学してからのことです。

    その後、十月にプロダクションを辞め、私は、それから来年の入試を目指して頑張りました。予備校は断わられました。高校卒業から七年が経っており、その間、受験勉強などはしていないわけですから、来年の入試は無茶だというのです。
    「来年一年、当予備校で頑張って再来年の受験を」と勧められました。でも、こっちはそんな悠長なことは言ってられません。
    仕事を辞め大学へ行くと言い出した私に、父は怒って口もきいてくれない状態です。何がなんでも、来年、合格しなければいけなかったのです。
    公立はあきらめ、受験科目の少ない私学三校にターゲットを絞りました。立命館、関西大学、桃山学院の三校です。
    午前中は、梅田の映画館で働きます。高校の映画部の世話や、職域観賞券の配付をするアルバイトです。夜、帰ってくると、父と顔を合わさないように夕食を済ませ、部屋に閉じこもり、深夜ラジオを聞きながら明け方まで頑張ります。
    いつも心は張り詰めた状態でした。「すべられない、なんとしてでも合格しなければ」と。その間、母だけは、私がいい方向へ向かっているんだって信じてくれていました。三ヶ月間の受験勉強のことを思い出すと、やぐらごたつに入り、だまって編み物をしている母の姿が浮かんできます。
    その姿を思う度に、励まされている自分を感じました。
    おかげで、受験した三校すべて合格しました。
    私は、授業料、交通費など四年間の経済的な生活を考え、関西大学へ入学することに決めました。立命は遠すぎますし、桃山は家からバスで通えて一番近いのですが、経済と産業社会学部しかありません。私は経済よりも歴史がどうしてもやりたかったため、この選択となったのです。

    入学が決まるや、藤さんから電話が入りました。あれからすぐに藤さんもプロダクションを辞めたというのです。今は子役を養成するタレント事務所をやっている。在学中、金もかかるだろうから、自分のところでアルバイトをしろというのです。
    私は、憶えていてもらえたことがうれしく、また懐かしさも手伝って、即座に「手伝わせてほしい」と答えていました。


    三、藤さんからのメッセージ

    タレント事務所でのアルバイト一日目、たちまち事件が起こりました。藤さんが何事か急に怒りだし、事務の男性を口汚なく罵り始めたのです。それを聞いていて、私は何が起こっているのか、なぜこうなったのか、何がなにか分からなくなってしまいました。顔は冷静でいるのですが、心の中はパニックで、どうしていいのかわからないのです。どうも、子役タレントの親元への電話の仕方のことで怒っているようです。藤さんは私に電話を渡すと、私に電話をかけろと言っています。
    電話を渡されたとき、私は、恐怖の絶頂でした。一体、誰に電話をしたのか、どうしゃべったものか、何も覚えていません。
    それでも私の電話が終わると、藤さんは、その事務の男性に向かって
    「どうだ、こういうふうに電話するんだ」と言っています。
    何か誉められているような気がするのですが、私自身、何をしゃべったのかも覚えていないのに、その事務員の方に何かうしろめたいような気分になってしまいました。そして、それより何より、自分の中のすごい恐怖感にびっくりしてしまい、こんな状態ではとても勤まらないと思いました。
    逃げ出したいと思いましたが、勇気を出して「できません、辞めます」とだけ言いました。
    藤さんは、「そうか」とだけ言うと、事務の人に「こいつに日給を出してやってくれ」と後ろを向きました。
    そう言えば、浅間ロケのときも、藤さんから罵声を浴びせられて以来、自分の中で何かが崩れていったような気がします。あの日、私は、浅間のロケ地で、撮影準備のため、付近の地理を尋ねに、とある民家に入りました。ところが、その家の老人が、どういうわけか天明のころの浅間山の噴火について、まるで見てきたかのように説明してくれるのです。私はもちろん、そのことを尋ねたわけではないのですが、あまりに熱心に教えてくれるものですから、ついつい旅館への帰りが遅くなってしまいました。旅館では、藤さんがカンカンになって怒っており、帰るなり、藤プロデューサーの罵声が降ってきました。
    あれからです、平静を装っていた心が揺れ出したのは。

    今、思えば、あの事務所での事件は、あまりにも不自然でした。何か藤さんは、私が隠しているものを探るために、あんなに事務の人を怒ったのではないでしょうか。それは同時に私へのメッセージだったような気がします。
    「いつまで自分の心を隠していても、同じことを繰り返すだけだよ」って……。
    (いつか藤さんに会ったら、このことを確認したいと思っていましたが、それも確認できないまま藤さんは亡くなってしまいました。聞くところによると、最後は子供たちの教育のためにと、塾を開いていたということです。) 

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