孤児たちのルネサンス −トマスの物語− vol.26

2009.12.27 Sunday

0


    26

     ベラルミーノは、ベルベデーレ要塞の一室で、まだトスカナ大公フェルディナンドと向き合っていた。
    「だからこそ、『シクストゥス聖書』にあのような細工をすることができたのだ。現に、いまサンタンジェロに捕らえているチェンチ一族にしたところで間違いなくこの組織の人間だ。彼等に口を割らせればいいのだが、あるところまで以上は追いかけることができぬ。部分部分は分かっても、その全貌を知る人間はいない。チェンチの娘にしたところで、自分が無実の父親殺しの罪で捕らえられているとしか思っておらぬ。」
    「チェンチ一族の逮捕については、このフィレンツェにまで聞こえてきております。」
     フェルディナンドが言葉をはさんだ。
    「聞くところによると、娘のベアトリーチェはたいそうな美人とか……」
    「おかげでローマっ子が黙っておらぬ。何も知らぬくせに『ベアトリーチェは無実だ。彼女の言い分にバチカンはもっと耳を傾けるべきだ』などと騒ぎ立てる。」
    「……ということは無実ではないのですかな。」
    「無実だ。フランチェスコ・チェンチを殺させたのは、他でもない、このわしじゃ。チェンチ家は、代々バチカンの会計係をしておったが、カタリ派の流れを汲む異端をも信奉しておったようじゃ。わしはあの『シクストゥス聖書』については、あれは教皇一人でやったことではないと思っておった。確かに教皇は頑固で、ルネッサンス期のユマニスト(人文主義者)たちに反発するあまり、逆にその影響を受けていたと言えなくはない。しかし、聖書の中に、あのような文言を挿入する人物ではない。そこで、わしは当時のシクストゥス教皇の周辺を調べだした。そうしたら、フランチェスコの奴、何を怯えたのか、一族をあげてローマから逃げ出してしまった。おかしいと思い残されたチェンチ宮を異端審問所に命じ徹底的に調べさせた。結果、チェンチ家の礼拝堂から、書き写された『マリアの福音書』が見つかった。イエスの身近に居たというマグダラのマリアが、イエスの言葉を書き残したものだといい、カタリ派の信者に大事にされておったものだ。もちろん偽りであり、異端の書であることに間違いはない。これがフランチェスコ一人にとどまらず、調べていくに連れ、シクストゥス教皇の秘書を含め、教皇の周囲にいる人間や枢機卿にまで異端者が及んでいることが分かってきた。
     しかし、彼等以外に具体的な人物が特定できないばかりか、証拠がない。おおっぴらに騒げばバチカンの威信を傷つけることになるし、そこから『シクストゥス聖書』のことに及ばないとも限らない。そこでフランチェスコ・チェンチの逃亡先の城代を買収し、彼等の周辺を探らせることにしたのだが、そのことがフランチェスコにばれ、争ううちにやむなくフランチェスコ・チェンチを殺す羽目になってしまったという。」
    「ではチェンチの残された一家を親殺しの罪で裁くのは……」
    「一族こぞって異端を信奉しているように思われる。かといって、それを表面に出すことはできない。センセーショナルな事件をでっち上げ、目をそちらに向けさせる。
     派手で悲劇的なことほど人は信じやすい。その間に、バチカン内部にどれほど異端が浸食しているか、一族を徹底的に調べ上げ、そのうえで親殺しの罪で死んでもらう。」
    「惨いことを……」
    「今、この時期、バチカンはユマニストやプロテスタントたちを相手に戦っている。バチカンの威信が地に堕ちれば、この世界は、巨大な闇の支配するところとなろう。もっと惨い世の中が訪れる。」
    ベラルミーノは、思った。
    (教皇が私のことをあれほど嫌っていなければ、『シクストゥス聖書』のことは事前に阻止することはできたはずだ。しかし、教皇は私のことを病的なまでに毛嫌いしていた。かねてから自分の考えに何かと意見がましいことを言う私に対し、教皇は何度も怒りを爆発させ、シクストゥスが教皇職にある間、私は任務にことよせイタリアを離れるという避難措置さえとらなければならなかった。)
    「ウーンッ」
     フェルディナンドの咳払いが沈黙を破った。ベラルミーノは大公に顔を向けると「よい機会だ。『シクストゥス聖書』のことを嗅ぎまわる日本人トマスらを囮(おとり)にして、この際、バチカン内部にまで入り込んだ異端の根を摘んでしまおう。トマスらには重荷を背負わせることになるだろうが、それも自分の選んだ道だ。」 

    コメント
    コメントする
    トラックバック
    この記事のトラックバックURL