仇野の三眛地で、ものを思う

2009.10.26 Monday

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    ◇仇野の三眛地に立って角倉素庵に心を向ける◇

    波の音が聞こえる。
    風を感じる。潮の匂い、カモメの鳴き声……。
    ああ、もう一度、海へ出たい。
    こんな化け物のような身体になって……化野(あだしの)とはよく言ったものだ。化けものような俺が、一生を終わるに相応しい。
    崩れた顔、崩れた手、この嵯峨野では、すき間から吹き込む風さえ血膿(ちうみ)の匂いがする。
    なぜ、こんな病に……? なぜ俺がこんな病にかかる。いや、人を恨むまい。人を呪うまい。俺の運命(さだめ)だ、受け入れよう……そう自分に言い聞かせ、ただただ学問に熱中する。学問だけが救い、学問だけが、俺に逃げ道をつくってくれる。
    そう自分に言い聞かせ、今日も弟子の音読する「文章達徳録」に耳を傾ける。
    異臭を放つ自分の身体。包帯を通して血膿の匂いを放つこの身体。俺の身体が生きながら死臭を放っている。こんな、こんなことがあっていいのか。しかし、そんな不快感より何より、人を呪う思い、世の中を恨む思い、そんな思いの渦の中に身を任せるのが恐ろしい。
    身体ばかりか心までが腐っていくようだ。恨み辛みに心をとらわれれば、心までが悪臭を放ち出す。弟子はこの匂いを感じているのだろうか。いや気付かれてはならない、病に冒されても俺は立派であらねば、そうだ背筋を伸ばせ、毅然としろ。おまえには「文章達徳録」の校注という仕事がある。
    のめり込むんだ、学問にのめり込んで行くんだ。そうすることで、この運命を乗り越えていくことができる。それでこそ「俺」という人格を全うすることができる。

    暗闇の中に弟子の声が聞こえる。一点の明かりさえ感じさせない暗闇が俺を包んでいる。その暗闇の中に弟子の音読する声……闇の中に次から次へと文字が浮かんでは消えていく。まるで闇から浮かび上がり、また闇へと吸い込まれていくようだ。
    そんな文字の向こうから、時に、潮の匂いが流れてくることがある。波のざわめきが聞こえることがある。そのざわめきに心を集中すると、やがてカモメの鳴き声さえ聞こえてくる。
    腐った身体に潮風が心地よい。
    海へ出たい。もう一度、海へ出たい。父と共に渡った安南の地……言葉の違う国、着るものの違う国、風習の違う国、ここには何か人を解き放つようなやさしさがあった。そこには格式張った家という概念からも、日本という国からも、もつれ合った人間関係からも、俺はすべてから自由だった。
    「船」という、閉鎖され隔絶された世界が……そして果てしなく広がる海が、俺を日常から切り離してくれる。そして、そんな海での暮らしの向こうに、別の世界が開けている。航海という閉鎖された時間を経て、その先に心を解放してくれる別な世界が広がっていた。
    今の俺はどうだ。病に視覚を奪われ、動くこともままならず、ただただ、この身が朽ちていくのを待つばかり。感じるものは深い闇と、自分の身体の腐っていく匂いだけ。弟子の声だけが、辛うじて自分を学問という逃げ道へ誘ってくれる。
    師、光悦の文字が踊る。暗闇の中に光悦の文字が浮かび上がる。闇に、まるで蒔絵のように散りばめられた金粉が綺羅星のように輝き、その中に光悦の文字が踊る。宗達の意匠の見事さはどうだ、この本の見事さはどうだ。これが刷られたものと思えるだろうか。この筆の運び、この筆の勢い、これが彫られた文字だろうか? 
    この本は生きている。俺の身体は朽ちていくが、この本は生き続ける。俺たちが作り上げた「嵯峨本」と呼ばれた数々の出版物……文字を活字として写すだけでなく、俺たちは、俺たちの命を、そこに刷り込もうとした……。

    潮の匂いが消えた。
    波のざわめきが消えた。
    残されたのは、深い、深い、闇…… 


    ◇角倉素庵(与一)という人◇
    <彼は、元亀二年(1571)六月から寛永九年(1632)六月までを生きた。>

    角倉素庵角倉氏は、もと吉田の姓。嵯峨角倉に住したため角倉と呼ばれるようになったという。素庵の祖父宗桂は名医として知られ、明の皇帝にも薬を献じたほど。日本に帰ってからは、医師を営むと共に、副業に土倉業を営んでいた。その子が角倉了以である。彼は勉学に志し、医者でも土倉業でもなく土木工学の技術を研究した。そればかりか海外雄飛の夢を膨らませ、秀吉の時代、朱印状を得て、安南へ通商の船を出し巨富を収めたという。家康時代になっても、了以は朱印船貿易家として活躍しているが、いつも息子与一(素庵=左写真)と行を共にしてきた(慶長八年の第一回安南渡海のときから父と共に海外へ出る=素庵33歳)。それが慶長十四年、東京(トンキン)からの帰途、暴風雨のため遭難。この事件がこたえたのか、了以は隠居し、与一に家督を譲った。しかし了以は自由な気風を以て与一を育ててきたため、決して彼を家業に縛りつけようとしなかった。与一は本の虫であり、学者肌であったが、書斎人として生涯を過ごすには、父譲りの冒険心も旺盛であり過ぎた。ために以後の渡海朱印状は角倉素庵に与えられることになった。しかし、慶長十八年の朱印状は切支丹の取締の余波を蒙り無効となってしまったのである。

    角倉船絵馬

                        (上の写真は角倉船の絵馬)

    ところで角倉親子は、海外渡航の合間を縫って、京都において一大土木工事に着手した。大堰川に舟を通そうというのである。今までこの丹波の水を利用して荷物を運ぶことを考えた人間はいない。山が険しく渓谷が深く、大石がごろごろしていたためである。このため丹後、丹波の産物は人の背を借りて山越えをしていた。それを親子は、川の岩を砕き、高瀬舟(平底の舟=右下写真は高瀬川一の舟入))を使って大堰川の舟運を考えたのである。慶長十一年三月、角倉親子は準備を進め、大堰川の開削に着手、これを成功させた。この成功により、幕府は富士川の舟運を開くことを了以親子に命じた。了以はこれをも成功させ、舟を見たことのない甲府の人たちを驚かせた。さらに豊臣秀頼の方広寺の再建に当たって、大木巨石の運搬のため、鴨川を舟を通せないかという依頼があった。了以は幕府の許可を得て鴨川疎通事業を起こした。人口運河の計画。はじめは伏見から五条付近までを、方広寺再建の資材運搬路として掘り、工事が終わると、この水路をもらい受けて、五条から二条まで延長させた。そこで西国の荷物が二条まで運び込まれるようになったという。これが完成した慶長十九年七月十二日、了以は六十一歳でこの世を去った。
    高瀬舟一舟入さて了以没後の素庵であるが、淀川過書船支配を命ぜられたり、江戸城改築のため富士山材木の採集運搬に当たったり、安南貿易を復活させたりと活躍していたが、晩年は学問に傾倒し、本阿弥光悦らと共に出版事業に着手する。世に嵯峨本と言われる。寛永三筆の一人、本阿弥光悦の書いた文字を単語ごとに一つの木版を作り、活字のようにそれを組み合わせることで一つの版を組んでいく。そこには、「トマス荒木」の項であげた「キリシタン版」の影響が表れていると指摘する人もいる。ともあれ、「嵯峨本」は角倉素庵がプロデュースし、本阿弥光悦が筆を執り、その意匠を俵屋宗達が手がけるという、出版史上、画期的な文化事業となった。
    内容そのものも、「平家物語」「太平記」など、「キリシタン版」と重なるものが多いのも興味があるが、それ以上に「王朝文化」の再現と言った趣を持ち、「文芸復興」と呼ばれた西洋ルネッサンスの影響さえ見え隠れしていることにも、当時、日本に流れ込んだヨーロッパの匂いを感じ取られる。
    さて、その後、元和の頃となって、尾張候から書物の講話とその整理を依頼された素庵は、その往復の間に病をつのらせていったという。その病が「らい病」であることを知ったとき、素庵は家督を息子厳昭に譲り、財産挙げて宗族、親戚に分かち、自らは数千巻の蔵書と共に、嵯峨清涼寺の西隣に安居し身を閉ざした。寛永四年のことである。
    当時「らい病」は「天刑病(天の刑罰の病)」と呼ばれ、これにかかること自体、家の名誉を汚すこととされた。このことを恥じた素庵は、角倉の家督を譲り、自らは、すべてを捨てて嵯峨野の奥に身を隠したというのだ。
    以後の素庵の生活は、嵯峨野の奥で弟子相手に、藤原惺窩(ふじわらせいか)編するところの「文章達徳録」の研究、増註がすべてであった。病が進み失明してからも、門人に口述して筆録させていたという。寛永九年(1632)三月になると、病勢はさらに進み、臥床の日々を送る。六月朔日、いよいよ重態となり、しばらくその状態を続けたが、その間にも輿で読書堂へ行き、病間に門人の和田宗允(後、姫路の儒者)を呼んで、宋の羅大経の著「鶴林玉露」を読ませたり、欧陽修や蘇東坡の文について「理と心と相通う」と歎賞したりしたという。
    先ほども述べたように、「らい病」と言えば、天刑病・業病とされ、「かったい」と呼ばれ乞食扱いされるのが普通であった。素庵にしてみれば、角倉家からこの患者を出したということ自体、家名を汚したということに繋がった。その自責の念と、懊悩が学問に逃げ道を見いだしたと言えないこともないだろう。
    しかし、これについても、実は「らい病」ではなく「梅毒」という見方もできる。「梅毒」は、スペインがキューバあたりからヨーロッパへ持ち込み、瞬く間にヨーロッパ中を席巻した。それをポルトガルが日本へと持ち込み、桃山から江戸時代初期にかけて日本でも爆発的流行を見る。うがった見方かも知れないが、もし、彼のかかった病が「梅毒」であるとするなら、それを「らい病」とした、素庵の道徳観や素庵の弱さ、苦しさが窺えるのではないだろうか。もちろん、証拠はない。ただ、そう感じるだけの話でしかないのだが……。
    ともあれ、素庵は、その家名のため、自ら角倉の菩提寺二尊院に葬られることを拒否し、中世以来の無縁墓所、仇野の三眛地に葬られることを希望した。
    いよいよ臨終が近付いた六月二十二日、二子と弟法眼長因を左右に呼んで、手を執って永訣したという。時に六十二歳であった。

    「我死せば、即ち西山の麓に葬り、〈貞子元之墓〉と書せ」(寛永九年三月、和田宗允をして訓戒をつくらせ、玄紀、厳昭の二子に遣わし命ず)。

    【参考文献】
    ■林屋辰三郎「角倉素庵」朝日評伝選19(朝日新聞社刊)
    ■林屋辰三郎ほか「光悦」(第一法規出版刊)
    ■小松茂美「光悦書状」

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