「トマス荒木を歩く」 vol.16  ローマの美貌の幽霊

2009.12.06 Sunday

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    サンタンジェロ城壁の内側
                     (サンタンジェロ城壁 内側から)

    ベアトリーチェ・チェンチローマはサンタンジェロ橋に、薄幸の美少女の幽霊が出るという。小生は、なんとか無事イタリアを離れマカオへ向かう事となったが、ローマを離れる前に どうしてもこの人物のことを紹介しておきたい。人物と言うより幽霊と言うべきかも知れないが……。それはローマっ子なら誰でも知っているベアトリーチェ・チェンチという美少女。彼女もまた、トマスと同時代をローマに生き、父親殺しの罪で、ブルーノと同じサンタンジェロ牢獄に入れられ、ブルーノよりやや早く兄弟や継母とともに処刑された。
    トマスの物語では、重要な役割をはたす人物なのだが、これについては小説のほうで読んでいただくとして、ここではスタンダールの書いた「チェンチ一族」をもとに、事件の概略だけを紹介しておくことにしよう。
    右の写真は、グイド作「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」と言われる作品だが、最近はこれに対する疑問の声が起こってきている。グイドがローマへ来たのが、1600年に入ってからのことで、ベアトリーチェが処刑されたのが1599年秋のことだから、グイドはベアトリーチェのことを知らない。しかも、この肖像画は「女占い師」と呼ばれていて、シビラの神殿に仕える巫女を題材としたものだというのだ。勿論、これに反対する声もあるが、真偽のほどはともかく、この事件の悲劇性とベアトリーチェの美しさ故に、芸術家たちの想像力をかき立て、その都度、この絵がイマジネーションの源となってきた。

    パラッツィオ・チェンチのバルコニーベアトリーチェという少女の美しさは、当時の資料にくどいまでに繰り返されてきた。たとえば、彼女を助けようと、ローマ駐在の外交使節たちが、ローマ教皇宛て助命嘆願をおこなったり、サンタンジェロ牢獄の副所長が彼女の美しさに惹かれ、結局実行できなかったとはいうものの、彼女を脱出させる計画を練ったことを書き残しているし、彼女の死刑が行われたとき、ローマ市民の暴動さえ起こっている。各国外交使節に助命嘆願を出させ、ローマ市民に暴動をおこさせ、後世には文豪スタンダールをして「チェンチ一族」を書かしめたベアトリーチェ。彼女は一体どんな罪を犯したというのだろう。

    父親殺し……家族共謀しての父親殺しがその罪状である。
    ベアトリーチェの父クリストフォーロ・チェンチは女癖が悪く、後妻に迎えようとした女性も亭主のある身を強引に誘惑したと言われている。そのうえ家族への暴力も絶えない。娘のベアトリーチェさえ手込めにしようとした、そんな典型的な悪人。そんな父親を、継母や兄と共謀して殺害した、これがベアトリーチェの罪状である。しかし不思議なことがある。バチカン自ら調査に当たり、貴族には拷問が科せられない事になっているにもかかわらず、過酷な拷問が無実を主張するベアトリーチェや兄弟に科せられた。各国使節からバチカン宛ての嘆願書も、世論も無視し、強引に処刑へ持っていった、そんな感じがするのだ。口さがないローマっ子たちは、バチカンがチェンチ家の財産目当てに仕組んだことだと噂しあった。
    大いにあり得ることだが、まだ、もう一つの可能性がある。ベアトリーチェの父親がが、バチカンの秘密を握っており、その口封じに彼を暗殺し、その家族も父親殺しの罪を着せて葬り去った、そう考えることも、あながち突飛な推測ではないと思う。クリストフォーロは、シクストゥス5世の時、バチカンの事務に深く関わりを持っていたのだから……。もし彼がシクストゥス聖書の成立と、その抹消に関わる秘密を握っていたとしたら……。
    ローマ教皇は、カソリック教会のトップであり、どんな間違いがあってもならない。また聖書もおなじであり、これにどのような誤謬があってもならない。教皇と聖書に関するゴシップは、カソリック世界全体を揺るがす問題になりかねない。

    サンタンジェロ城とサンタンジェロ橋ともあれ、ベアトリーチェ等は、投獄から9ヶ月後、1599年9月11日の朝、サンタンジェロ城前の広場で処刑された。継母ルクレツィアは未亡人としての黒服、ベアトリーチェは対照的に白い衣装だったという。この時の様子をメディチ家の使者は、次のように記している。

    「少女の遺体は、市民たちの手によって、モントリオの聖ピエトロ教会に運ばれたが、市民たちはすっかり同情し、まわりを蝋燭の光で囲まれた死体にすがって、夜中までやってきては泣いていた。それは、彼女の証言に耳を貸さず、弁護しようともせず、死へと追いやった法王クレメンテに抗議し、神の復習を願いながらのものだった。彼女の死は、あまりにも神聖なる死だった」(島村菜津 訳)

    ところで中ほどに掲載した「パラツォ・チェンチのバルコニー」の写真は、同朋舎出版発行、地球・街角ガイド「ローマ」から掲載させていただいたものだが、その本文には、「この館は、魔術を使って非道な実父を殺したかどで、兄弟と継母とともに告発されたベアトリーチェ・チェンチの一家のものだった。彼女は死刑を言い渡され、1599年にサンタンジェロ橋で打ち首になった。現在の建物は1570年代に建て替えられたものだが、どことなく中世的な不気味さを漂わせている。プログレッソ通りに面する正面は半月の紋章で飾られ、反対側正面には美しいバルコニーがある。館のなかにはイオニア式涼み廊下を備えた伝統的な中庭があり、部屋の多くは、悲運のベアトリーチェが子どものころに親しんでいたであろう16世紀の装飾をいまでもそのままに残している」と、紹介されているが、残念ながら、この建物は現在非公開で、遂に覗くことが出来なかった。心残りではあるが、次の機会があればということで、マカオへ移動することにする。
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