「トマス荒木を歩く」 vol.14  サン・ロレンツィアナ図書館

2009.12.05 Saturday

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    花の聖母教会とロレンティアーナ図書館
    (サンタ・マリア・デル・フローレ=花の聖母教会のドゥオーモとサン・ロレンツィアナ修道院)

    サン・ロレンティアナの中庭と礼拝堂修道院の中庭を巡る回廊、その途中に二階へと上がる階段がある。二階にも同じように回廊があり、まずはこの回廊を一巡りしてみる。狭い窓から金網越しに書庫や資料室の様子がわずかながら窺える。中庭には、草花に埋まった花壇の中央に一本のミカンの木が植えられてある。そして回廊の屋根越しにサンタ・マリア・デル・フローレ(花のサンタ・マリア教会)の大きなドゥオーモが辺りを圧倒している。回廊を一巡し、階段の所へ戻るが、その右手にある大きなドアが図書室への入り口だ。
    ドアを入ると、横手に大きなメディチ家の紋章が掲げられてあり、その反対側には、図書室入り口へ三方向から伸びる流れるような階段がある。まるで川の流れが、低い落差のところで三方向へ流れ落ちてでもいるかのような、なめらかで、それでいてリズム感のある曲線だ。聞けば、ミケランジェロの設計になる階段だという。
    その曲線がやがて一つになり、直線となって上っていく。その頂点に図書室入り口がある。
    正面からの階段を上がる。上がるに連れ、図書室の全貌がパースペクティブのように視界に広がってくる。入り口からまっすぐ奥へと走る豪華な絨毯。上には格子状の天井。両端にはメディチ家の紋章をあしらった窓。すべてが直線となって奥の一点に向かって走っている。そして、絨毯の両脇に並ぶ書見机の列、その数の多さ、そのあまりの整然とした様子、思わずその場に立ちすくんでしまう光景だった。
    ミケランジェロの階段と閲覧室私の前を歩いている人が、絨毯からはずれ、書見机に手をふれようとした。いきなり係の女性が現れ注意を与える。ピーンと張りつめた空気が流れる。
    ところで、その書見机をよく観察すると、側面に何か細かい文字の書かれたリストのようなものが貼られてある。リストは古い時代を誇るかのように、紙もインクの色も変色してしまっている。
    係の人をつかまえ、これは一体なんなのかと聞いた。もちろん、すんなりと話が進んだ訳ではない。ポケット辞典を引きながらイタリア語の単語を並べ、時に英語になったり、もどかしくなって日本語が飛び出したり、あげくは図まで描きあっての大奮闘の結果、この書見机は書棚をも兼ねていることがわかった。今は、貴重な図書のため、すべて書庫へ引き上げられてはいるが、この書見机の正面下の部分が棚になっており、ここに側面リストに掲げられてある図書が収められていたという。資料を探そうとする人間は、一覧表とこの机側面のリストを手がかりに、目的の本が収められている書見机に行き、ここで本を閲覧するという次第だ。つまり本を机まで運ぶのではなく、人間がその書物の置かれてある机兼書棚まで行き、その場所で書を繙くというやり方だ。
    ところで、この書見机のどれかにトマスは座ったろうか。この図書室でトマスが巡り合ったものは何だったろうか。かつて、この図書館は、メディチ家のカレッジの別荘と並んで新プラトン主義研究の一大拠点であった。メディチ家のコシモや、その子ロレンツォは、当時のキリスト教的常識を打ち破ろうとした。カソリック的迷信を排し、人間存在の本質を神秘主義の中に探ろうとした。だからこそ、ここにはカソリックが異端とする書が秘密裏に集められている。しかし、外見上はあくまで、キリスト教の探求を看板にしてはいたが……。
    そして、この神秘主義研究の流れに歯止めをかけたのが、ローマン・カソリックだった。一時は、三位一体説まで、ユダヤ神秘主義カバラによって解釈しようとしたのだが、ローマの目をごまかし続けることはできなかった。
    トマスが探していたもの、それはベラルミーノによって闇から闇に葬られた「シクストゥスの聖書」ではなかったか。トマスは日本語版聖書翻訳のテキストとなるべき「シクストゥスの聖書」を求めてローマを訪れた。しかし、彼に与えられたのは、誤植が多いという理由で、その後、ベラルミーノによって手の加えられた改訂版の「シクストゥス・クレメンタイン聖書」であった。おそらくテキストとしては、シクストゥスの勝手な思い込みが入っていない分、こちらのほうがより優れているであろうが、どうしてもトマスの心に釈然としないものがあった。
    「なぜ、一冊も残っていないのか。いくら誤植が多いといっても、ローマ教皇が自ら編纂した『聖書』がバチカン図書館にさえ残っていない。」
    トマスは日本へ持ち帰るべき書籍の文献目録をつくる傍ら、秘かに「シクストゥス聖書」の行方を探したのではないだろうか。このサン・ロレンツィアーナ図書館において、彼に何らかの示唆を与えた人物がいたに違いない。
    トマスが座ったかも知れない書見机に手を触れてみたくなった。そっと手を伸ばしながら、横に立つ係の女性の顔を振り返ってみた。その女性は、「オーケーだよ」と言わんばかりに、やさしく頷いてくれる。
    冷たい木の感触が伝わってくる。ほぼ四百年前、この書見机のどれかにトマスが座った。その思いは掌に伝わってくる机の感触に支えられ、いつしか確信へと変わっていく。指先から起こった痺れは全身へと広がり、体中の毛穴が開ききったかのような感じに襲われた。 

    サン・ロレンツィオ図書館とサン・マルコ図書館
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