クジラ・イルカ紀行 vol.007 / 壱岐・辰の島「デクスター・ケイトの決断」
2018.03.07 Wednesday
デクスター・ロンドン・ケイトさんについては、グリーンピースの運動家ということ以外、あまり分かっていません。
壱岐イルカ事件当時(1980年)は36才と言いますから、生きておられれば、今年で74才になられるのでしょうが、事件後、ダイビングの事故で亡くなられたと聞いています。
ケイトさんが最後に壱岐へ来られたときは、奥さん子供連れで、壱岐の「ふくや荘」に泊まられたようです。僕も、壱岐の辰の島取材のおり、辰の島への渡船や遊覧船のガイドをしておられるMさんから、ケイトさんが泊まられたのが「ふくや荘」だということを教えていただきました。
辰の島取材の後、その足でふくや荘を訪問させていただいたのですが、あいにく、この日は島をあげての運動会の日、旅館はもぬけのカラという状態。近所の方が見かねて「呼んできてあげましょうか?」と、親切に声をかけていただいたのですが、せっかくのお孫さんの運動会を邪魔する訳にもいかずお断りした次第です。
ところで、辰の島取材に当たっては、壱岐市役所観光課を通して「当時の模様を知る人に」ということで取材の申込みをしていました。取材当日は、今は勝本町漁港で観光船の船長をしておられる方が話してくださることになっていたのですが、やはりお孫さんの運動会ということで、辰の島へ渡る船が出るまでの時間、大急ぎで次のようなことを話してくれました。
「イルカを追い込んだのは昭和52年と53年のことで、2000頭ちかくを辰の島海水浴場に追い込んで網で囲ったんですよ。それを聞いた愛護団体のケイトという人が夜中に網を切って、約300頭ほどを逃がし、それが裁判沙汰になったんですよね。
でも、これが爆発したのは一日や二日のことではないんですよ。何年も何年もかかって、あげくの果ての爆発なんですよ。
ここ勝本はイカやブリを獲って生活しておったんですよ。それをイルカが食べに来るんですよね。だから何年も何年も、どうしたらよいか、どうしたらよいかと悩んだあげく、仕方なく、昭和52年と昭和53年に追い込みに踏み切ったわけです。
殺生は、しとうなかとですもん、どうしても生活がかかっとりますもんね。
イカ漁というのは、油代が一日何万もかかるんですよ。イルカは頭が良いけん、集魚灯を焚いて、高い燃料代つこうて、イカが寄ってきたと思う時分にやってくるですもんね。そうなると、その日はまるまる赤字――それが一年や二年やないんです。何年も何年も続いてきたとですよ。悩んだあげくに殺すことになったとです。」
――――――――
「お客さん、辰の島へ渡る船が出るけん……」
女性の受付けの方が、船の出航を知らせに来てくれた。このあとは、船のガイドをしているMさんという男性が、船長に引き続き、当時の話や案内をしてくれることになった。
イルカの大量屠殺で問題となった壹岐の無人島、辰の島へ到着です。
船長から話を引き継ぎ、辰の島を案内してくれるのは遊覧船でガイドをするMさん。
Mさんは、事件当時は中学生で、イルカの屠殺にアルバイトとして駆り出された一人です。今から40年近く前の話ですが、このアルバイト、時給800円の高額バイトだったそうです。
そのMさんの言うには、
「浜辺に並べられたイルカが涙流すんよ。」
さらに聞くと、涙を流すだけでなく、声を上げて泣くのだともいいます。
「叫ぶような、助けを求めているような、あの声を聞くと切のうてたまらん……」
Mさんの話では、今もときどき沖から2〜3マイルの所にイルカの群れがあらわれるときがあるそうです。
「そのときはどうするのですか」と聞いてみると、「爆弾で追い払うんよ! 殺すんやないよ、追っ払うんじゃ」との答えが返ってきました。
あとで調べたところでは、これは「爆弾」ではなく「爆竹」で追っ払っているということらしいです。
このあと、迎えの船は、辰の島周辺の蒼く澄み切った海を遊覧し、勝本漁港へと帰ることとなりました。
さて、辰の島の取材を終えるに当たって、最後に、デクスター・ケイトさんの人となりを「ふくや荘」のご主人や奥さんの証言を紹介しておきたいと思います。僕自身は、ふくや荘の方々とは、ついにお会いすることができませんでしたが、川端裕人さんの著書「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」(2010年刊)から引用させていただきます。
◇
デクスター・ケイトはひょろりとした長身の白人で、髪を後ろに束ねたヒッピー風の風貌だった。物腰が柔らかく優しい目をしていた。肉食をきらい、魚を喜んで食べた。
「動物好きで、穏やかな人だった。子どもにも人気があった。息子ともよく遊んでくれた」
ケイトの最後の壱岐訪問の際、例の事件が起こるまでの一週間、彼は毎日何をするでもなく過ごしていた。つれづれなるままに、近所の子どもたちとよく遊んだ。イルカが出てくる映画を見せてくれて、子どもたちが喜んだり、宿の主人もおばさんも、動物が好きでわざわざここまでやってきた人として、好意すら抱いていたという。
ある朝、漁協から電話がかかってきた。
「そっちのガイジンさんどうなってる。いるか?」と聞かれ、
「ああ、いるよ」と答えた。朝食前の時間である。当然、いると思ったのだという。
ところが部屋を訪ねてみると、奥さんと子どもしかいない。言葉が通じないから分からないが、奥さんもなにか慌てている。そうこうするうちに、刑事がやってくるやら、漁協の幹部がやってくるやらで、大変なことになった。
前夜のうちにケイトは単身、辰ノ島に渡ってイルカの囲い網を切ってしまったというのだ。
◇
ケイトは、今までの努力がすべて無駄だったと悟りました。
後は実力行使あるのみ。ケイトは、せめて今囲い込まれているイルカだけでも救おうと、皆が寝静まるのを待ってゴムボートで辰の島を目指したのです。
ケイトは、無事、囲い込みの網は切ったものの、折からの春の嵐に遭遇しゴムボートでは勝本へ戻れなくなってしまいました。そこでケイトは、網を切り、イルカたちを逃がすだけでなく、今度は浜にあげられたイルカたちを、一頭一頭引きずり、海へ戻す作業を始めたのです。
夜が明けて、イルカの処理作業に戻ってきた漁師たちは、網を切り、浜のイルカを引きずるようにして海へ戻しているケイトを見つけたのでした。
ケイトは「威力業務妨害」の罪で逮捕され、これより6回にわたって「動物の権利」が法廷で論議されることになりました。しかし、ケイトの思いは無視され、結局、ケイトの国外追放で、壱岐イルカ事件は幕を閉じたのです。
後日談ですが、漁獲量減少の張本人とされたイルカも、この海域には来なくなったのですが、それでも漁獲量が回復することはありませんでした。イルカの食害があったには違いありませんが、それ以上に乱獲による資源の枯渇が、問題の根本にあったようです。
次回は、この問題に別の取り組みをする「天草」に渡り、ミナミバンドーイルカと人間の関わりを取材します。
さらに北の海を目指したミナミバンドーイルカのカップルを追って、石川県能登島へと向かいます。