クジラ・イルカ紀行 vol.006 / 壱岐・辰の島「イルカ受難」

2018.03.06 Tuesday

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     動物に育てられたり、動物と一緒に暮らしたりした人間の子供の話をよく耳にします。実話だったり、お話しだったりしますが、そのいずれもが猿だったり、オオカミだったり、ヒョウだったりと陸上のほ乳類に限られています。変わったところではニワトリ小屋に閉じ込められ、ニワトリと一緒に育った子供の話が紹介されたりもしました。しかし、海洋生物となるとなかなか難しいものがあります。ザトウクジラやイルカは「母性愛」が人間以上に強い動物だと言われています。以前にも紹介しましたように、子クジラをおとりに母クジラを仕留めるという捕鯨の方法があるくらいで、母親クジラは自分の生命が危険にさらされても、決して子供のそばを離れようとしません。母性愛ではありませんが、ザトウクジラは、危険に陥った違った種類の生きものさえ助けようとします。タイガーシャークに囲まれた水中カメラマンを、ザトウクジラが助けた話。シャチに狙われたコククジラの子供を、ザトウクジラが助けた話。シャチに襲われたアザラシをザトウクジラが助け、胸びれに乗せて海岸まで運んだ話。

     しかし、如何に同じ「ほ乳類」とはいえ、水中で暮らす彼らが人間の子供を育てられるはずはありません。

    「イルカは人間の赤ちゃんにおっぱいをあげられるか?」

     いま書こうとしている「石鏡ものがたり」では、刃刺しの銑吉が、自ら定めた禁を破り、子クジラをおとりに母親クジラを仕留めます。その直後に起こった宝永地震と大津波によって石鏡(いじか)の浦は壊滅しますが、母親クジラを殺した後悔に苛まれていた刃刺しの銑吉には、この地震も、津波も、自分の過ちにあたえられた罰のように感じてしまいます。その矢先に子供をかばって死んだ母親の遺がいを見つけてしまうのです。津波で崩壊した浦で、自分には育てられないと分かっていながら、銑吉は、母親の遺がいが発する思いに呼び止められ、その思いに背けず、子供を拾い上げてしまいます。自分が殺した母クジラに、この子どもを託されたように感じたからなのです。

     乳児を連れ、小舟で石鏡の浦を離れる銑吉。小舟の上で腹をすかせ泣き叫ぶ子供。

     その声に惹かれるようにしてイルカの母親があらわれ小舟の周りを回り出します。

     

    鳥羽水族館でたまたま見かけた色分けイルカの授乳風景

     

     イルカは海で暮らすほ乳類です。したがって、えら呼吸でなく、肺呼吸をするわけで、酸素の取り入れ口である鼻が頭の上に着いています。

     イルカは水中で出産しますが、子供を産むと、すぐに、その子を下から持ち上げ海面へ押し上げます。呼吸することを教えるのです。授乳は水の中です。左上の写真は、和歌山マリンランドのバンドーイルカさんに、おなかを見せてもらったときのものです。下腹のあたりに中央に生殖腺があり性器が納められています。メスの場合は、その左右横手に乳腺があり、おっぱいが納められています。速く泳ぐため、邪魔なものはみんな内部に納められています。

     子どもにおっぱいを飲ませるときは、子どもが舌先を丸め、お母さんイルカの先ほどの溝に突っ込み、おっぱいを、その舌先にとらえます。するとお母さんイルカは、ミルクを搾るように押しだすという寸法です。

     下の写真や右横の写真は、鳥羽の水族館でたまたま見かけた色分けイルカの授乳風景です。泳ぎながら子どもイルカが上手におっぱいを飲んでいます。そのとき、勢いよく出たおっぱいが口からあふれ、白いもやのように水中を漂っています。

     さて銑吉と母性愛の強いお母さんイルカが、いかにしてお腹をすかせた人間の赤ちゃんにおっぱいを与えるかは「石鏡ものがたり」の完成を待っていただくとして、そのイルカと人間との関係が悪化し、1000頭近いイルカが、一時に殺戮されるという事件が壱岐で起こりました。

     俗に「壱岐イルカ事件」と呼ばれる一件です。では、その事件の起こった「壱岐郡・辰の島」という無人島へ、皆さんをご案内させていただきましょう。

     

    無人島・辰の島の砂浜。夏は海水浴場としてにぎわっている。


     事件の顛末はこうです。

     今手元に勝本漁港の石井敏夫さんが書かれた「勝本港の『みなと文化』」という小冊子があります。勝本漁港と言えば、まさに「壱岐イルカ事件」の当事者そのものの存在。右の写真も、その「勝本港の『みなと文化』」から転載させていただきました。

     まずは事件の顛末を、この小冊子から一部抜粋させていただきます。

     「ルカが壱岐海区で急増し、漁業被害が続発したのは昭和40年頃からである。当時イルカの生態調査が行なわれ、その結果2月〜3月にかけて壱岐近海には30万頭のイルカが回遊していると発表された。イルカの被害というのは、漁船が操業している漁場にイルカが回遊して来ると魚群は逃げてしまい、釣り上げ途中の魚は横取りされ、漁具は傷められ、イルカが漁場に滞在している間は漁獲ゼロの毎日が続く。
     そこで漁業者は団結して、イルカが多量に勝本近海に近づいた時には、約500隻の漁船が操業中止して円陣を幾重にも描き、船腹に取り付けた鉄筒の発音器をハンマーで叩きながら、海岸に追い込む捕獲作戦を行なうが、当初は途中で逃げられて失敗の連続であった。その後、水中花火が考案されイルカの群れの一部を追い込むことに成功した。
     昭和53年1回で約1,000頭のイルカを追い込んだ時、動物愛護団体の外国人がきてイルカ囲い網を切断し、一部のイルカを逃がした事件もあった。
     現在では、極少量のイルカが現れる程度で、あれ程いたイルカが何処で回遊しているのか七不思議の現象である。」

     

     文中、「動物愛護団体の外国人」というのが、もう一方の当事者である「デクスター・ロンドン・ケイト」さん。彼はハワイのヒロ市から、「動物の権利擁護」という新しい倫理観をひっさげてやってきました。

     「動物愛護」とは違います。「動物愛護」には人間優位の姿勢が示されています。しかし「動物の権利擁護」とくると、動物に対しても人間と同じ権利を認め、それを擁護していくという姿勢となり、当時は(今も)あまり知られていない概念でした。それだけにケイト氏の言い分は、勝本漁民には、突拍子もない言いがかりに聞こえたことでしょう。

     「ああ、あいつね、あの時、オレは漁協の青年部長だったんだ。あいつのおかげで大迷惑だ。まったく気でも違っていたんじゃないのかね。」(川端裕人「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」)

     当時、壱岐の勝本町ではブリ漁、イカ漁が盛んでしたが、イルカの回遊時期になると、イルカがやってくるだけで、イカもブリも漁場から姿を消してしまいます。そればかりか夜中に仕掛けたイカ釣りの仕掛け、そこにかかった獲物を、人間が回収するより早く、イルカの群れが食い散らかしてしまいます。

     これでは勝本の漁民の生活が成り立たなくなります。そこでイルカを駆除すべく、和歌山県の太地や静岡県の富戸(ふと)の漁民に教えを請い、追い込み漁が開始されるに至りました。

     ではケイトさんの言い分に耳を傾けてみましょう。

    ^躊瑤竜師たちが自分のものだとする漁場は、何千年もの間、イルカのエサとり場だった。人間が後からやってきて、イルカを邪魔者扱いすることはおかしい。

    漁獲量の減少はイルカのせいではなく、漁場自体が乱獲により貧しい海域になってきている。

    イルカは利口な動物で、人間と共生することが可能。うまくリードすれば、イルカも人間も、モーリタニア沿岸の例にあるように共同作業をして、ともに獲物を得ることが可能となる。

     一時は漁師たちもケイトの熱意に動かされ、イルカとの共同作業に臨むべく船を出しましたが、当のイルカたちがその時はおらず、二度の試みも結局は失敗に終わりました。

     残された最後の手段とばかり、ケイトは、イカ漁、ブリ漁に代わる「養殖漁業の育成計画」や、痩せた漁場を復活させるため「ブリ資源の増殖計画」などを提言しますが、こと既に遅く、最後に壱岐を訪問したときは、すでにイルカの追い込み漁が開始されていたのです。

     辰の島の浜辺には2000万円以上する巨大なイルカ粉砕機が据え付けられ、既に稼働を始め、壱岐の海はイルカの血で真っ赤に染まったといわれています。

     (次回、クジラ・イルカ紀行 vol.007 / 壱岐・辰の島「デクスター・ケイトの決断」に続きます。)

     

    当時、高校生でイルカ処理のアルバイトに参加したMさんが、今回、僕の辰の島行の案内をしてくれた。

     

    湾がくびれ一番狭くなっている箇所。イルカを追い込んだ後、ここから対岸まで網が張られた。
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