クジラ・イルカ紀行 vol.002 / 山口県長門市「早川家とくじら墓」

2018.02.03 Saturday

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    刃刺しの銑吉には不思議な特技があった。

    ご存知のようにクジラは哺乳類で、呼吸のために頭の上に鼻がついており、それを水面に出している。いかに長く深く海中に潜ろうと、呼吸のために、いつかは海面に頭を出さなければならない。

    ホエールウォッチングをしたことがある人なら分かるだろうが、クジラが出てくる場所を探すには「潮吹き(ブロー)」が目当てとなる。クジラが水面に上がるや鼻から溜まった海水を一気に噴き出すのだ。

    ところが仙吉は、見るのでなく、クジラを感じることができるという。今、海中のどのあたりにいるのか、どのあたりに上がってくるのか、まるで海の中にいるクジラの様子が手に取るようにわかってしまうらしい。

    そんな次第だから、鳥羽のクジラ捕り仲間では一目置かれる存在になっていた。だが、その半面、この力が災いしてどうにもやるせない思いに追い込まれることがある。

    南の海で生まれた子クジラを連れ、北の海にかえるメスの座頭クジラを見つけた時のことだ。

    普段は子連れのクジラは見逃すようにしている。クジラは母性愛が強く、子連れの時は常より猛々しくなる。しかも給餌のために帰る下りクジラは、子育て期間中、ほとんど餌を口にしていない。つまり栄養不良状態なのだ。そのうえ北へ流れる黒潮に乗っているので、泳ぐ速度も速く捕らえるのが難しいときている。

    普段なら見送るところだが、どうしたわけか、ここしばらくまったくクジラが姿を見せず、浦の生活自体も苦しくなってきていた。そこへ母親からはぐれた子クジラが浦へ迷い込んできたという次第。

    クジラの中でもザトウクジラは特に母性愛が強い。子供をおとりに捕まえてしまえば、決して母親はその子のそばを離れることはない。いやなやり方だが、浦の生活を思えば、なんとしても見逃すことはできない。

     

    (現在の石鏡漁港 宝永の大津波のあと、この地に移ってきたと言われる。)

     

    これが「石鏡(いじか)ものがたり」発端のシチュエーションである。

    「今回は見逃してほしい、子供を北の海へ連れて帰ったあと、この沖を通るときは、この命をささげよう!」

    銑吉は、伝わってきた母親クジラの思いを無視し、「浦のためだ、しかたねえ!」と、子供をおとりに母親クジラを追い込み、ついにとどめを刺す。

    銑吉は、とどめを刺すとき、まるで自分の母親を殺しているような後ろめたさに襲われたのだった。

    そして宝永の大地震、このときの大津波によって石鏡は壊滅する。

    生き残った銑吉は、殺した母鯨の断末魔の吠え声に苛まれ、壊滅した浦や村を彷徨いつづける。そんなとき、赤子に乳を含ませながら死んでいる母親に呼び止められた。

    最初は死んでいるとは思わなかったのだが、確かめれば、すでに息の切れた骸にちがいなかった。

    その骸のおっぱいにしがみつき、その子は元気に泣き叫んでいた。

    死んだ母親から「この娘を、この娘を……」という思いが伝わってくる。

    「石鏡ものがたり」の話はさておき、私はいま、石鏡からは遠く離れた、山口県長門市の青海島にある「早川家」住宅にお邪魔しています。江戸時代には、代々「古式捕鯨」の網本として存続し、現在、建物は重要文化財に指定された建物です。

     

    海から見た早川家住宅(昭和初期?)

    江戸時代の浜の状況

    現在の早川家住宅(内部)

     

    一番上の写真は、「重要文化財 早川家修理報告書」に掲載されていた写真をコピーさせていただいたものですが、船着き場が往時より随分小さくなっています。往時は江戸時代の浜の絵図面を見ても分かるように、鯨三頭が悠々並ぶ、かなりな規模のものだったようです。この同じ浜から、勢子舟(せこぶね)、樽舟、網船、持左右舟(もっそうぶね)など十数艘からなる鯨船の船団が漕ぎ出していきました。

    ちなみに早川家住宅は、江戸時代、通(かよい)に五軒あったといわれる鯨組の網本で、鯨屋敷と呼ばれ、全国でも数少ないとされる鯨漁家の遺構だといいます。この元鯨屋敷で、お茶とお菓子をいただきながら早川館長自ら通にある鯨墓や鯨の過去帳についてお話ししていただきました。

    早川館長の話によると、通の漁師たちは、捕れた鯨の一頭一頭に人間同様「戒名」をつけ、手厚く祀ったと言います。また鯨墓は小高い丘の上に、未だ海を見ることなく亡くなった鯨の胎児、その思いが海に届くようにという計らいから建てられたとも、また、はるばる訪れた鯨の子孫たちが、先祖の墓参りができるよう、海から見える小高い丘に作られたとも言います。

    いずれにせよ、通の漁師たちは、命のやり取りをする鯨たちを、人間に近い存在としてとらえていたようです。

    早川家住宅を後にし、鯨墓へと向かい、そのあと鯨の過去帳があるという向岸寺を訪ねますが、この向岸寺で不思議な体験をしました。話せば不思議でも何でもないと笑われそうですが、まずは話を聞いてください。

    駆けてあがったお寺の石段。

    おまいりすませて降りかけて、

    なぜだか、ふっと、おもい出す。

    石のすきまのかたばみの

    赤いちいさい葉のことを。

    ――とおい昔にみたように。

    向岸寺への近道とされる石段の坂道。その坂道を上り詰めた左手のお寺の壁に、金子みすゞの詩が掲げられてありました。その詩の書かれたわきに、金子みすゞの父親は、この向岸寺の旦那だったことが紹介されていました。みすゞが、まだ小さなころは、この向岸寺にもよく遊びにきたことが、この詩からも窺えます。

    今、上ってきたこの石段を、みすゞも幼少時に上り下りしていたのでしょう。

    そんなことを考えながらお寺の門をくぐったときです。墓参りでしょうか、いきなり着物姿の上品な老女と出会いました。

    「なにかお寺にご用?」

    「鯨の過去帳が、このお寺にあると聞いてきたのですが……」

    老婆というにはあまりに上品で、というより生活感がなく、浦で出会い話を交わしたおばさんたちとはあきらかに違った存在がそこにありました。お歳には違いないのですが、強いて言えば老婦人とでもいうのでしょうか、歳を感じさせない不思議なオーラを漂わせています。

    「和尚さんは、もうすぐ出かけられるから急いだほうがいいわ。ついて行ってあげましょうか?」

    私はお礼を言うと「一人で行ってみます」と、思いとは逆のことを口にしていました。

    そのあと、彼女がどこへ行ったのか、お寺のほうへ向かったのか、出ていかれたのか、さっぱりと思い出せないのです。覚えているのは、住職から、「これから急ぎの用があるので、またにしてほしい」と断られたこと。「いきなり来ず前もって連絡してほしい」と言われたこと。

    確かにこちらの落ち度には違いありません。仕方なく帰ろうとしたとき、どうしたわけか、住職が追いかけてきて「20分だけ」と制限付きで「鯨の過去帳」の写真を撮らせてもらえることになりました。住職は「ライトはダメだからね」と念押しすると、本堂へ上がって待っているように言いのこし、勝手口へと消えていきました。

     

    鯨墓と鯨の位牌  Whale Graves and Tiles

    向岸寺に現存する鯨の戒名  Whale's Past Book & Whale's Martial Name

     

    こうして、何とか写真は撮れたものの、どう考えても住職の心を変えさせたのは、先の老婦人が口をきいてくれたに違いありません。でも住職の心を変えさせるには、よほど力のある檀家か、それとも、今の住職は養子として迎えられたと聞いているので、養い親の婦人なのかもしれません?

    答えが出ぬままに、青海島を離れることになりましたが、バスが仙崎の町へ入ったとき、「金子みすゞ記念館」がオープンしたという案内が目に入り、次いで、その記念館の建物がバスの車窓に飛び込んできました。

    ―――

    そんなわけがない、そんなバカな話は考えられない。

    そう思いつつも、向岸寺で出会った夫人は、金子みすゞさんとつながりの深い人に違いない、お孫さんか、縁続きの人か? それとも本人?! 一瞬、そんな途方もない思いに落ち込んでいました。

    次回は、沖縄は慶良間諸島の座間味に住む素敵なご夫婦を紹介します。

     

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