「奈良県」と「堺県」

2009.11.18 Wednesday

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    今日は、母親の用事で1週間ぶりに堺の母親の家を訪れた。奈良と堺の間には生駒山脈や金剛山脈が横たわっており、僕たちがよく利用するのは、二上山を越える「竹之内街道」を走り大阪府へ出るコースだ。「竹之内街道」から「太子」へ出るコースは、古来からの官道ともいうべき道で、中国や韓国からの使節は、この道を通って飛鳥へ赴いたという。

    ところが、現在、電車等の公共交通権関を使って堺へ出ようとすると、いったん近鉄電車で大阪市内へ出て、そこから南海電車に乗り換え堺を目指すか、近鉄電車で何度か乗り換えをしながら府下「河内長野」へ出て、そこから南海電車で「堺」を目指す、この二つのコースしかない。要するに北へ大きく迂回していくか、南へ大きく迂回していくか、最短距離を結ぶ交通機関はないということだ。

    ところで「奈良県」という存在が、歴史上なくなった時期がある。「県」という行政区分は、ご存知のように江戸末期から明治にかけての「廃藩置県」で生まれた。実際に「奈良県」が誕生したのは、廃藩置県の3年前、1868(慶応4)年のことだという。ところが出来てすぐに「奈良府」と改称され、翌年にまた「奈良県」に戻った。その後、旧大和国内に15の県が乱立したが、3年後の1871年に、それらは奈良県に統合され、今の「奈良県」に近いかたちが出来上がったのである。

    ところがである。この5年後の1876(明治9)年、奈良県は隣県の「堺県」に併合され、奈良という地名が消滅することとなる。奈良一県では財政基盤が脆弱で「県」として成り立たないというのだ。こうして「堺県」は、河内・和泉・大和の三国を管轄する巨大県となった。このため行政事務がすベて堺に移り、奈良は火の消えたようになってしまった。火が消えただけならいいのだが、事務手続きの多くが、奈良で処理できず、奈良住民は何かあると堺へ出向かなければならないという事態が起こってきた。現代でさえ、奈艮から堺へ行くのは不便だというのに、交通未発達の時代では、泊まりがけでなけれ用が足せないという有様。堺へ出向くということは、多額な出費を伴い、住民の生活を圧迫する。一時、県庁を近くに移動する案が出されたが却下され、「堺県」からの分県も検討はされたが、これも実現されないまま、1881年「堺県」自体が「大阪府」に併合されてしまう。
    今回の併合は、悪化している「大阪府」の財政救済が狙いだというから、奈良住民の不満はおさまらない。かくして奈良住民は再三上京し、「奈良県」再設置の請願運動が繰り広げられる。この頃、東京の町は幕末に結ばれた不平等条約の改正案をめぐる反政府運動が盛んで、上京委員は反政府運動と同じでないことをまず証明しなくてはならなかったという。

    しかし、そんな苦労も甲斐なく、むなしく年月が過ぎ、大阪府からの独立が認められたのは、「堺県」に併合されてから10年後の1886(明治20)年のことだという。
    この年、「奈良県設置ノ件」の議案が内務省に出され、同年10月24日、閣議提出され了解されるに至った。

    1、大和の地勢や人情は摂津・河内・和泉と違い、当然経済面でも異なる。
    2、摂・河・泉の議員は治水のことに、大和の議員は道路のことに執着する。
    3、大和の税金は地元に還元されにくい。
    4、大阪府会における大和の議員は少ないから、議場ではいつも不利である。
    5、近ごろ大阪府の地租は減額となったが、大和には適用されず、それは地方税にはね返ってくる。
    6、もともと、大阪府は広すぎるので、大和を独立させてもおかしくはない。
    7、大和は災害も少ないから、将来あまり費用がかからないだろう。

    これを見るかぎり、ここに来て「奈良県」の再設置を認める必然というものがあまり感じられない。ダラダラと決定を延ばし、「そろそろ認めてもいいか」的な感じで認められた、そんな雰囲気である。「奈良県」の復活が、これほどまでに難航した背景には、幕末に朝廷側につくか、幕府側につくか、曖昧な態度をとったことが原因ではないかとする説もあるぐらいだ。

    参考文献
    奈良県発行「青山四方にめぐれる国 −奈良県誕生物語−」
    浅井建爾「知らなかった!驚いた! 日本全国『県境』の謎」

    ※「東海道53次」万歩計の状況=今日、「大津」を過ぎ、最終地「京都」へあと5キロ。

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