ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」vol.2

2015.04.09 Thursday

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    バシー海峡の海水浴(二)

     ここで初めてビルマに行くとを知らされ、ビルマの本隊に合流するまでの部隊編成がなされた。私は小隊長を拝命し、約五〇人の初年兵を引率することになった。現役のときは兵卒であり、小隊指揮の経験は無かったが、鉄道教習所専門部では一年の時から小隊指揮者を命ぜられ、教練の時間には約五〇人の電気科生の指揮をとっていた。小隊長を拝命した時、特別に困ることはなかった。
     出発は深夜だった。事前に厳しく注意されていたので極めて静粛に行われ、久留米駅まで行軍して客車に乗り込んだ。門司港駅には翌日の夕方着き、門司港で数人ずつ民家に分宿した。私は夜間の巡察を命ぜられていた関係上、家族の方とゆっくり話をする時間もなく、ひと晩お世話になりながら、どの家のお世話になったのか記憶に残っていない。
     翌朝、門司港の桟橋前広場に集合したわれわれビルマの第五十六連隊の補充要員は、小隊ごとに別々の船に乗船した。輸送途中で敵潜水船等に攻撃され、撃沈された場合を配慮した措置と思われた。
     私が乗船した光栄丸は、排水量一万二〇〇〇トンの新造タンカーで、聞けば処女航海とのことだった。乗船したもののすぐには出航せず、出航は数日後であった。船団の船の数は分からなかったが、かなり大船団のようで、船団の周囲を駆遂艦か駆潜艇が護衛しているのが見えた。光栄丸にも機関砲一門が装備され、海軍軍人が数人乗り込んでいた。戦局の推移や輸送船の装備から考えて、この航海はかなり危険率が高いかもしれないと思われた。

     
    編集部註=前年の昭和十八年二月一日、ガダルカナル島から日本軍が撒退した。同島方面での巻き返しをはかる日本海軍は四月七日から「い号作戦」を展開した。ラバウルに赴き、自らこの作戦の指揮をとっていた山本五十六連合船隊司令長官は四月十八日朝、最前線部隊の状況視察のためラバウルからブーゲンビル島南方のバラレ蓄地に向かったが、アメリカ軍に暗号を解読されており、ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。
    十九年七月七日にはサイパン島の日本軍守備隊残存兵力約三〇〇〇名が玉砕した。前年末から二月にかけ中部太平洋の島々を陥落させたのち、六月十五日約七万一〇〇〇名の兵力をサイパン島に上陸させた米軍に対し、約四万四〇〇〇名の日本軍守備隊は懸命に応戦したが、十九、二十日のマリアナ沖海戦で連合艦隊が敗北したため、大本営は二十四日同島の放棄を決定した。次第に島の北端に追い詰められた日本軍は七月六日、戦闘を指揮していた斉藤義次陸軍中将と南雲忠一海軍中将らが自決、残りの守備隊も七日から八日にかけて万歳攻撃を敢行、玉砕した。その際、約一万人の一般住民もその多くが手榴弾や毒物で自決、あるいは断崖から身を投げ自ら命を断った。

     しかし台湾の高雄までは別段異常はなかった。高雄に停泊している間、小隊長には上陸許可がおりたので、初年兵らが郷里に出す手紙と、あらかじめ注文を受けた待望の食料、バナナ、砂糖を買い求める資金を集めて上陸した。預かった手紙を投函し、高雄の街を見て回りながら蛇皮の財布を私個人用に購入し、バナナと砂糖を一篭ずつ光栄丸に積み込むようにした。所定の時間に帰船するとすでにバナナと砂糖は積み込まれていた。内地では甘味品に飢えていた時であり、全員大いに喜んだ。積み込んだ食料品も毎日平等に分配した。
     高雄に何日か停泊した後、船団はマニラに向かった。乗船以来われわれの船室は船倉に造られていたが、タンカーを改造したもので、船室は暑くて換気もよくなかった。しかし日中は甲板上に出るのを禁止され、日が沈んでからしか許されなかった。
     高雄出航後は特に船室の温度が高くなったような気がする。甲板に上がって満天の星を跳めながら、大きく深呼吸したときの壮快さは、表現の言葉もないほどいい気分だったが、機関砲の砲側に配備の水兵の数は増えてきたように思え、なんとも不気味だったのも確かである。
     夜も次第に更けて、肌にあたる夜風が幾分涼しくなると、甲板上で皆、思い思いに横になった。すでに白河夜船をきめている者もいた。私も異常がないのを確かめて、今日も無事に終わったと思いながら横になった。遭難に備えて軍装を解くことは禁じられている。帯剣を締めたまま、銃は右手に抱いて横になるのが習慣だった。星の輝やきがことのほか鮮やかに思え、これが南の空かとロマンチツクな気分で、うとうとと浅い眠りについた。
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