ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」

2015.03.29 Sunday

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    バシー海峡の海水浴(一)
     

     昭和十九年七月六日、東京・池袋の鉄道教習所専門部電気科二年生として寮生活しているとき召集令状がきた。あとでわかったことだが、ビルマ(ミヤンマー)の日本軍が、世界戦史にも例を見ない悲劇的退却戦を始めた四日後のことである。
     
    編集部註=昭和十七年八月、当初破竹の勢いだった日本軍は、一たんビルマ全域を占領したが、その後、英印軍や米中連合軍の、インド側からの侵攻に悩まされた。第十五軍指令官牟田口廉也中将は、英印軍の拠点、ビルマ国境に近いインドのインパール攻略を主張、大本営もこれを認め、三月に作戦は開始された。しかし当初から補給や制空権の確保は無視されており、弾薬と食糧の補給のない日本軍は苦戦に陥り、七月二日インパール作戦は中止された。
    結局、この作戦で日本軍は参加兵士約九万名のうち約三万名が戦死、退却の途上飢えと病気で約四万二〇○○名の戦傷病死者を出した。

     当時、専門部の「有隣寮」が改築のため、寮生は全部「有朋寮」に住んでいた。非常に南京虫が多い寮で、夜は睡眠どころでなく、皆困り果てていた。
     その日も寝つかれない夜だった。寝台よりはましかもしれないと思い、長腰掛けの上に横になっていた。その時、電話の知らせを受け、寮長室に行ったが、遠くて全然聞きとれなかった。
     電話交換に聞いてもらったところ、「召集令状がきているので、明後日十一時までに久留米の西部○○部隊に入隊せよ。召集令状は小倉駅で渡すので、列車の小倉駅通過時刻を知らせよ。電報も打っておいたが、電報では間に合わないと思い電話をしている」とのことだった。
     当時、特急列車はなく、一日数本の急行列車があったが、電話を受けてから最も早い急行に乗っても、決められた時刻に入隊することは不可能であった。飛行機についても問い合わせてみたが、便があるはずもなかった。
     やむなく同室の同僚の一人に、憲兵隊に行って入隊遅延の理由について証明書を貰ってくれるよう依頼する一方、同僚の加勢で小倉の自宅に送り返す荷物を梱包した。
    翌七日、荷物の発送は同僚に頼み、教習所長や配属将校等に挨拶のあと、池袋駅から東京駅へ向かった。それぞれの駅で多数の同僚が見送ってくれた。証明書を依頼した同僚は憲兵隊で、証明書は東京駅長に貰うように言われ、東京駅長の証明書を駅まで届けてくれた。別の同僚は、東京から久留米まで二十四時間かかるため、食堂に無理をお願いし、当時常食にしていた豆粕入りの握り飯二個を用意してくれた。
     列車は始発時からかなり混雑していたが、応召タスキをかけていたので座席に掛けられた。時間の経過につれて腹が減ったが、長い道中を考え、夜までは手をつけずに辛抱した。つとめて眠ることにしたが、目が醒めるといろいろなことを考えた。
     現役の時、四度満州の冬を経験しているので、満州なら嫌だなと思った。また、昭和十七年五月、現役を満期除隊後は、父がしきりと結婚を薦めていた。父は専門部の受験にも反対だった。合格のあと父に話したが、これに対し何も言わなかったものの、召集されてみると、父の意向に添えなかった済まなさが心をよぎった。しかし応召の身では妻子がいないのに越したことはないと、自分自身に言い聞かせたり複雑だった。
     このほか現役時代のことなど思い浮かべているうちに列車は八日朝、小倉駅に到着した。
     小倉駅では父と弟とが召集令状と弁当を持って乗り込んできた。早速、弁当を思いきり食べようとしたが、腹は減っているのに半分も食べられなかった。母や兄弟のこと、商売や空襲のことなど車中での話は、ほとんど聞き役に回った。
     父と弟とは久留米連隊の営門の前で別れた。所定の時間を過ぎていたので、ごく手短かく、「からだだけは気をつけろよ」、「お父さんもな」と言っただけで別れた。父は戦争体験があり、負傷もしていたので未練がましいことは嫌いであった。営内で担当の将校から入隊時間の遅れを一応やかましく叱責されたが、処罰はされなかった。
    あまり覚えていないが久留米連隊には十日間ぐらい居たように思う。その間、各人に兵器や被服が支給され、私物の服や靴などは家に送り返した。
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