ビルマ敗戦記「太陽は未だ真上にあった」連載にあたって

2015.03.29 Sunday

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     福岡の友人から1冊の冊子が送られてきた。
     表紙には「太陽は未だ真上にあった」の表題があり、「ビルマ敗戦記」の副題がつけられている。著者名を見ると、松尾剛(まつおこわし)とある。
     同封されていた手紙を見ると、
    「お手数をおかけしますが、私の国鉄時代の大先輩《松尾剛》鳥栖機関区長の戦争体験の手記です。戦争の実態を後世に残したいと思いお願いいたします。」
    「お願いいたします」とあるのは、「たくさんの人の目に触れるようにし、戦争の実態を風化させないようにしてほしい」という思いのようだ。
     そこで、しばらく休んでいた私のブログ「徒然漫歩計」に連載しようということになった。たまたま中西喜次(なかにしよしつぐ)農学博士の書かれた「ジャワ・ビルマの大空 一気象隊士官の手記」と題された出版物も、大阪の友人からお預かりしている。ビルマで戦った二人の無名戦士の記録が手元にあるわけだ。
     とても偶然とは思えない。福岡の友人を通して、あるいは大阪の友人を通して、戦争で亡くなった方たちの思いが、僕のもとへ届けられたと考えるしかない。ならば、この二つの戦記を八月の終戦記念日に向けて「徒然漫歩計」に連載し、連載が完結した暁には、電子図書として後世に残すようにしよう。これで私に託され届けられた「思い」には、幾分なりとも応えることができるかもしれない。
    そう思い、この連載を始めることにした次第である。

     そこで、まずは「太陽は未だ真上にあった ビルマ敗戦記」から始めさせていただく。
     ところで福岡の友人というのは、JR博多車両区を、たしか七年前に退職し、今は悠々自適の生活を送る竹下博氏である。彼の手紙を読むと、松尾さんというのは、彼が国鉄時代世話になった大先輩だという。
     その松尾剛さんの思い出を、竹下氏自身が綴ったものがあるので、ここに紹介し、松尾さんの紹介に換えたい。

     私は昭和四十五年四月一日に日本国有鉄道九州支社に入社しました。
     六ヶ月間の研修を終えた後、十月一日付で鳥栖機関区車両係を拝命し機関士助手見習・機関助士・電気機関士見習・電気機関士となり、ある日、電気機関士として乗務し門司機関区の常務後点呼に行ったところ、
    「オイ若僧! おまえは組合バッジを付けていないが何処の組合だ」
     と問われ、私はまだ組合に組合に所属してなかったので、
    「私はまだ組合に入っていません」と答えたところ、
    「組合に入ってない者に、我々が勝ち取った乗泊に泊めることはできない」と言われました。
     仕事で来て寝るところがないというのはスジが通らないので、管理者である当直助役に交渉しようとしたところ、その助役はスーッと席をはずし私の要求を聞き入れてくれません。
     困っていると、後ろからポンポンと肩を叩いてくれる人がいて
    「泊まるところがないのなら、私共の確保した宿泊所に泊まりませんか?」と声をかけてくださいました。
     私は、その方の好意に甘え、その夜は紹介してくれた宿泊所に泊めてもらいました。
     当時の国鉄はオープンシップ制であり、組合に入ろうが入るまいが自由に選択ができる制度でしたが、現実と理想ではこのように違っていました。後で分かったことですが、当時の組合は大きく分けて総評系(官公労主体)の組合、国鉄労働組合(国労)と動労(動力車労働組合)の二大勢力と、同盟系(民間の労働組合系)とに分かれていました。
     私は翌日機関区に帰り指導室に行き、指導の方々に昨日のことを話したところ、指導の方から、
    「竹下君、一応国鉄はオープンショップ制を取り入れているが、現実にはどこかの組合に入らないと仕事ができないよ」と言われ、 イジワルをされた組合に入るよりは助けてくれた組合に入ろうと決め、その日から鉄道労働組合に所属しました。
     その翌年の春闘のことだったと思いますが、機関区の便所で用を足していたところ、若い男性と女性が一人ずつ入ってきて便所の壁にビラを貼り出しました。そのビラの内容は「要求貫徹」とか「スト権奪還」とかいうビラを所構わずベタベタと貼り出しました。
     私は、掃除のオバチャンが毎日きれいにしてくれる便所、おまけに花まで飾ってくれる便所に、そのような無法が許されてよいものではないと思い、その若い青年と女性に
    「おい、やめろ! 今貼ったビラをはがせ」と言いましたところ、二人は逃げてしまいました。
     そこで私は、安部政敏という後輩と二人で、そのビラを剥がしてまわりました。
     それから十分後、二、三十人のモサクレどもが徒党を組んで私を取り囲みました。彼らも上手いもので、手は出さず、腕組みをして足でボコボコと蹴るのです。
     その時の管理者(助役)達は見て見ぬふり。何もしてくれません。その時です、二階の区長室から、私が初めて赴任した現場長(松尾剛)がタッタッタッ と階段を駆け下りてきて、その二、三十人をかき分けて
    「竹下! 区長室へ上がれ!」と助けてくれました。
     区長室に入ると、そこに動労の支部長 立石某なる者がいて、
    「オイ若僧!」と声をかけてきましたが、私も腹が立っていましたので、
    「若僧があるか! 俺には竹下博という名前があるんじゃ」とやり返しました。

     その後、区長室で動労の支部長と区長が話し合いを持ち、立石支部長から「そんなに便所をキレイにしたいのなら今から便所掃除をしてこい」と言われ、私も「よし分かった、今から便所掃除に行く」と言って立ち上がろうとしたところを、松尾区長から止められ、区長室を出るようにに言われ退室しました。
     その後、この事件は門司鉄道管理局まで上がり、当時は組合が権力を持っていたため、松尾区長は五十四才の若さで退職、私は新幹線大阪運転所へ転勤が命じられ、この一件は終了しました。組合が権力を持っていたため区長は首を切られ、私は九州支社から大阪へ左遷されました。松尾区長は自分の首を差し出し私をかばってくれたのです。この区長は二回も戦争に行き、軍隊では「牛殺しの松」の異名を持つ勇気ある区長でした。初任地で、このような男気のある区長に巡り会えたことは、私にとって記憶に残る感謝すべき巡り合わせでした。

     竹下氏と松尾氏の出会いは、このようであった。
     しかし「牛殺しの松」の異名を持つ松尾さん、どんな強面の人かと思ったが、娘さんから送っていただいた写真を見ると、がっしりとした、やさしそうな、それでいて少しはにかみやさんのような印象を受ける。
     娘さんの記憶によれば、松尾さんは、大正七年二月四日に生まれ、昭和九年に小倉中学校を卒業、その後、鉄道専門学校に進み、卒業後、国鉄に入社、昭和四十七(一九七二)年、五十四歳で退職したという。この間、二度の招集で戦地に赴いた。

     では、「ビルマ敗戦記 太陽は未だ真上にあった」―― いよいよ、はじまりです。
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