近江京(大津京)を訪ねて思うこと

2011.08.11 Thursday

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    2011年8月某日、今日は孫たちの夏休みの話題づくりのため、滋賀県は大津のロイヤル・オークホテルに来ている。日中、孫たちはホテルのプールで水遊びに興じていたが、僕はどうしても行きたいところがあった。

    百済復興に失敗し、女帝斉明も九州で没し、中大兄皇子が遷都に踏み切った大津京の跡。住まいする奈良からも近く、行こうと思えばいつでも行けるようなものだが、仕事に追われ、なかなか足が向かなかった。
    大津市に来ていて行かない法はないだろうと、宿泊先のホテルに着くなり別行動に踏み切った。夕方5時に家族と落ち合うことを約束し、ホテルの送迎バスでJR石山駅へ向かった。石山駅からは、いったん山科駅へ戻り、湖西線に乗り換え大津京駅へと向かう。ここですぐ近くにある京阪皇子山駅に移動し、次の近江神宮前で下車する。

    いよいよ目的の大津京跡に到着だ。改札口には卒業したてだろうか、若い女性駅員が降車客から切符の回収にあたっている。僕はというと、すぐ近くに来ているのだろうが、地理不案内ということもあって、右へ行っていいものか左へ行っていいものか、どちらに行っていいのかまるで見当がつかない。そこで、この女性駅員に「大津京跡は、どちらの方角へ行ったらいいでしょうか?」と訊ねてみた。
    すぐに元気のいい返事が返ってくると思ったが、

    「えっ? 大津京の駅ですか」
    「いえ、大津京の駅から来たところなんです。行きたいのは、大津京の都の跡なんですが……」
    「都の跡……? すみません、分かりません」
    「……」

    一瞬、間違ってとんでもない場所へ来たのかと思ったが、そんなわけはない。間違いなくすぐ近くに来ている筈だ。何て言ったらいいのか、匂いというのか、その場所に自分は居るのだという実感のようなものがある。自分の勘を信じて歩いてみるしかない。
    しかし、少し歩いたところに付近の地図が掲げられてあり、自分の思いが正しかったことが証明された。

    地図の表示に従い5分も歩かないうちに、「史跡 近江大津宮錦織遺跡」という表示板が草むらに表れた。狭い草に覆われた一角にそれは立っていたが、あまりにも寂しい。
    「都としてわずか5年の寿命だったとはいえ、古代史に大きな足跡を残した大津の宮跡、それがこの状態か。若い駅員が分からないのも無理はないか。」
    そんなことを思って歩いていると、歩いて二、三分のところに、またも「史跡 近江大津宮錦織遺跡 第一地点遺構」の標識が出てきた。案内板によると、ここは「内裏の東南隅にあたり、右手に見える2列に並ぶ柱は内裏の入口から東にのびる回廊の一部と考えられ」「左手に見える一列に並ぶ柱は、回廊から北にのびる塀の一部」だという。さらにここから80メートルあまりのところに、今度は「史跡 近江大津宮錦織遺跡 第二地点遺構」として「内裏正殿の跡」が現れた。内裏正殿跡は道を挟んで第七地点、第九地点まで広がっているようだ。
    こうして歩き続けると、今度は「大津京シンボル緑地」に突き当たる。ここには、藤原鎌足や額田王(ぬかたのおおきみ)、さらには柿本人麻呂の歌碑が立てられているほか、「平家物語」の時代まで進み、僕の好きな平忠度の「さざ浪や 志賀のみやこはあれにしを むかしながらの山ざくらかな」の碑まで立てられた公園に行き当たる。この先は「近江神宮」があり、ここで道を川に沿って右折し折り返すと、最後は、「京阪近江神宮駅前」に戻ることとなる。しかも、駅建物のすぐ前に「史跡 近江大津宮錦織遺跡 第四地点遺構」という薄汚れた標識が立っている。何のことはない、先ほど若い女性職員が「分かりません」と答えた目の前に、寂れてはいるが「第四遺跡」は存在しており、そこには「南北に伸びる塀の柱跡三個が見つかり、柱の太さは直径30センチメートル、ほぼ2.6メートル間隔で並んで」いるとの説明が書かれていた。
    「分かりません」と答えた若い女性駅員を責めるつもりはないが、近江京がこの地に存在したという事実自体が稀薄になってきているのを感じる。

    では飛鳥から大津京あるいは近江京への遷都はなぜ行われ、なぜ5年の短期間で再び飛鳥へと都が移されたのか。難しい話は抜くとしても、その背景には東アジアの大変動、朝鮮半島における百済、続いて高句麗の滅亡があり、新羅が唐の力を借りて半島を統一したという歴史的事実がある。百済滅亡に伴い、斉明女帝は、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)と共に、唐・新羅を相手に「百済復興」をうたい軍を起こす。ここで有名な「白村江」における日本軍の大敗北があり、百済は滅亡ということになる。この辺りから、「大津京」が滅ぶ「壬申の乱」までを年表に整理してみると、東アジアの情勢の中での日本の動きがよく見えてくる。


    660年(斉明天皇6年)、唐・新羅連合軍の攻撃で百済が滅亡。

    661年、日本に滞在中の百済王の太子・豊璋を盟主に倭国による百済復興軍が組織されるが、斉明女帝、遠征先の九州にて病没。倭国軍は三派に別れ韓半島南部に上陸。
    中大兄皇子は、天皇位を継ぐことなく、称政、つまり天皇位に就かず政務を遂行する。

    663年、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功するも、その後、倭軍が白村江で大敗し、百済復興は失敗に終わる。
    同年、中大兄皇子、戦後処理のため、唐へ「倭」としてではなく「日本」として使節を派遣する。唐と戦ったのは「倭」であって「日本」ではないというつもりだろうか。それはさておき、ここではじめて「日本」という国号が対外的に使用されることとなる。
    この後、唐からは、使節・郭務悰をはじめとして2000人の兵が日本へ派遣されており、663年〜666年の3年にわたって日本に駐留する。 
    (使節としてはあまりに大規模な派兵であり、おそらくは戦後処理の威嚇的な派兵ではないかと思われる。核武装なくとも2000で戦後処理=核武装と郭務悰をかけているのですが……下手なシャレ、「お粗末さま」と後始末。)

    666年〜668年、唐と新羅が高句麗攻撃を開始。

    667年、劉徳高が戦後処理の使節として来日する。
    この年3月(天智6年2月)、大津京への遷都。

    668年2月(天智7年1月)、いままで称政を続けていた中大兄皇子が天智天皇として即位した。天智が即位することにより、東宮すなわち皇太子は、その弟・大海人皇子となる。しかし我が子・大友皇子に皇位を譲りたい天智と衝突。
    この年、高句麗が滅ぶ。新羅による韓半島統一。

    669年、韓半島の統一なるや、一転して新羅は高句麗の遺臣と力を合わせ、韓半島にとどまろうとする唐に対し蜂起をおこなう。
    この年、河内鯨を遣唐使として派遣。唐からは、使節・郭務悰が2000の兵と共に再来日。

    671年(天智10年)1月、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命する。
    この年10月17日、天智天皇は病が深くなり、病床に大海人皇子を呼び寄せ後事を託そうとする。これを罠と知った大海人は、自分には皇位を継ぐ意志はないことを明言、その場で出家し、吉野山へ下る。

    672年1月(天智10年12月)、天智天皇崩御。このあと大友皇子が即位したかどうか不明ではあるが、後継に立ったのは間違いがないであろう。
    この年5月 唐の使節・郭務悰が2000の兵と共に帰国。
    この年6月 大海人、吉野を脱出して美濃へ向かい、この地で挙兵する。
    この年7月 大海人は大友側に決戦を挑み、大友側を破り、大津京または近江京は崩壊。

    この後、天武の時代には、遣唐使の派遣はなく、新羅との友好関係を保持する。 

    ※唐側は、天智の在世期間、使節・郭務悰に2000の兵を預け、二度も日本に送っている。
    特に二度目は、天智の亡くなる3年前に日本側が遣唐使を送り、これを送るに当たって2000の兵がやってきている。しかも、天智が没し、次の大友が皇位に就いたことを見届け帰国している。そして大海人は、中国の使節や兵が引き上げた一ヶ月後に挙兵している。

    このことから妄想をたくましくしてみると、こんなことが言えるのではないだろうか。
    白村江の敗戦で、唐から郭務悰が2000の兵をひきつれて戦後処理にやってきた。天智=中大兄皇子は、逆にこれを国内統一の駒として使ったのでは。難波の宮遷都で、旧豪族勢力の地盤から離れ、さらに官位を制定することで天皇を中心とした律令体制へ移行しようと頑張っているが、やはり豪族の勢力は強い。そこへこの敗戦。天智としては「皆さん、そんなこといってる場合じゃないですよ。唐が本気で攻め込んできたら、日本なんてひとたまりもありません。従来の権益にしがみつくより、ここは力を合わせて強い国造りに励みましょう。唐のことはしばらく僕に任せてください。悪いようにはしません。」
    唐は唐で、韓半島の背後に同盟国・日本を持つことで力強いことかぎりがない。百済は滅んだものの、まだ高句麗という強敵がいる。前の隋などは高句麗に攻め込んだものの、さんざん手こずらされたあげく逃げ帰り、これがもとで国が滅んだようなものだ。新羅とは手を組んでいるものの、なかなか足並みもそろわない。いつ手のひらを返すか知れたものではない。ここは背後の日本を抱え込んでおくにかぎる。
    こうして、天智=唐の同盟が出来上がった。天智は唐の驚異を煽りたて、国内統一に励む。唐は唐で、天智のスポンサーよろしく、「いつでも困ったことがあったら言ってこい」なんて。

    二度目の中国兵2000名の派遣は、天智が後継者の問題で悩んでいるとき。大海人は人気がある。息子の大友に跡を継がせたいけど、大海人が黙っていないだろう。「なんとかならない」と、河内鯨を遣唐使として派遣し頼み込む。「よっしゃ」とばかりに、またも郭務悰さんが2000の兵を引き連れて、にらみをきかせにやってくる。
    この頃は、韓半島でも、高句麗が新羅・唐の連合軍に滅ばされ、新羅が朝鮮統一を果たしている。ところが、力を借りるだけのはずだった唐は、半島から動こうとしない。この機会に半島も我がものになんて考えている。そんなこというんならと、新羅としては、旧百済や高句麗の遺臣達と協力するする傍ら、背後の日本に目を向ける。唐は日本の天智を手なずけて、韓半島を挟み撃ちにしようと狙っている。
    じゃあ、天智の対抗勢力・大海人くんを応援しよう。「どう、一緒にうっとおしい唐をなんとかしない。このままほっといたら、好き勝手しほうだい。手を組みましょうよ」なんてことにならないか。

    つまり、壬申の乱というのは、天智=大友を唐が応援し、大海人を新羅や高句麗の遺臣、それに百済の遺臣たちが応援するといった、東アジア全体の「仁義なき抗争」ではなかったのかということだ。

    かくして大津の都は、5年間だけで滅び去り、1300年を経た今では、京阪電鉄の若手職員からも忘れ去られる存在となった。

    芭蕉ではないが、「夏草や 兵どもが 夢の跡」、汗とともにそんな言葉がこぼれた。

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    • 新しい日本の歴史
    • 2015/11/06 1:45 AM
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