伊勢に齋宮(いつきのみや)を訪ねる

2011.07.27 Wednesday

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    齋宮跡.jpg

    伊勢に仕事で出かけることがあった。
    伊勢には何かひっかかるところがあって行きたいとは思っていた。ところがどこに行きたいのか自分でもハッキリしない。伊勢の内宮だろうか、それとも外宮だろうか。
    しかし、どちらもピンとこない。
    そう言えばまだ20代のころ(もう40年前のことになる)、PR映画の制作部におり、近鉄電車のPR映画「伊勢志摩」という作品に制作助手として関わったことがある。その頃は、映画の撮影が何か偉いことのように思えて、優越感一杯で、参拝客・観光客に「撮影中ですから」「撮影に入りますから」と、当然のように押しのけてきた。今も、町などを歩いていて撮影風景に出くわすことがあるが、若いスタッフが見物人の整理をしている姿を見ると、自分の若いころの傲慢さを見せつけられることがある。
    閑話休題(それはさておき)、やはり伊勢に行きたいと言うからには、昔行った「内宮」「外宮」なんだろう。ともかく、そこへ行ってみれば何か分かるような気がして、仕事を済ませた翌日、息子の運転する車で、まずは外宮へと向かった。
    前日は、松阪のビジネスホテルに泊まっており、そこを朝8時に出発した。外宮までは約40分の道のり。ゆっくり行っても9時までには外宮に到着するだろう。

    ところが、旧伊勢街道をドンドン走り、櫛田川を越えた辺りで「齋宮の森」「齋宮歴史博物館」「齋宮(いつきのみや)歴史体験館」を示す表示板に出くわした。表示を見るなり
    「ここだ、伊勢で行きたかったのはここだったんだ!」
    そんな思いが一瞬にしてわき上がってきた。キョトンとする息子に「悪いけど、ここへ寄ってよ」と、頼み込み、道を右折し、一路、齋宮の森を目指すこととなった。



    では齋宮(いつきのみや)とは何だろうか。一頃の僕は、近世の日欧交渉史に興味を抱き、キリスト教を中心とした文化摩擦のことばかりほじくり返していた。それも「孤児たちのルネサンス」を書き上げたことで、ひとまず自分の中では決着がつけられるようになった。そこへ登場したのが、関東から関西へ帰ってきて落ち着いた引っ越し先、「北葛城郡広陵町馬見」という場所であった。
    日本という国が成立した舞台、つまり欽明、敏達から推古を経て天武に至る古代史のまっただ中へ降り立った、そんな感じなのだ。散歩コースにある牧野古墳(ばくやこふん)は敏達の息子・押坂彦人大兄皇子の墓と言われている。同じく散歩コースの新木山古墳、その近くには十市皇女の墓があると言われる「赤部」、高市皇子の墓と言われる見立山古墳(見立山近隣公園)。行くところ行くところが、古代史の、しかも日本という国が成立した時代の舞台となった場所。法隆寺は自転車で30分、飛鳥は自転車で1時間半、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳や大神神社、それに元伊勢と言われる檜原神社へは自転車で1時間。二上山登り口へは自転車で30分。そんな場所にいて古代史に心が向かないわけがない。
    特に二上山と、そこに眠る大津皇子――個人的には二上山雄岳よりも麓にある鳥谷口古墳が、大津の墓だと思っているが――そんな大津皇子について語ろうとすると、どうしても出てくるのが、大津皇子とは同母の姉・大来皇女(おおくのひめみこ)。彼女も伊勢の斎宮であったが、大津皇子が謀反の罪で刑せられたため、斎宮の任を解かれた。そんな彼女が遠く伊勢の地で、刑死した弟を思って歌ったのが、「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」の歌。二上近辺には、この歌を彫った石碑がいろんな場所におかれている。

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    やっと斎宮との接点が出てきた。
    恥ずかしながら、斎宮については、皇室の女性が任じられるんだろうぐらいの知識しかなく、場所も漠然と伊勢神宮の中にあるんだろうか? そんな按配で、本当のところは何も知らないのが実情であった。そればかりか斎宮の名前すらも、それに対する思いも、いつの間にか意識の底のほうに深く沈んでしまっている状態だ。それが伊勢に来て、「斎宮の森」の標識に触れ、いきなり意識の表面に噴きあがってきた。

    左の写真は、斎宮跡に文部省が立てた説明表示。これによると、「斎宮跡は、斎王の御殿とその事務を取り扱った役所の跡」だといわれ、「その創設は遠く飛鳥・奈良時代」にさかのぼるらしい。
    では斎王もしくは斎宮と呼ばれるのはどんな役割で、どのようにして選ばれたのか。中野イツさん著すところの「斎宮物語」によると、「幼少の皇女から、うら若き皇女まで、六十有余人の高貴な媛君が、伊勢の海辺近くの、穏やかな風光の地において、ひたすら、神に奉仕する清浄な日々を送られた」という。
    つまり天皇に代わり、伊勢神宮に仕えるため都から派遣される未婚の皇女が、齋宮とか齋王と呼ばれる存在と言うことになる。
    斎宮制度は、先に登場した大津皇子の姉・大来皇女のときに確立し、それ以降、最後の祥子内親王までおよそ六百六十年間続いたと言われ、最年少が二歳、最年長が三十歳であり、内親王から選ばれるのが普通だが、内親王のない時には、親王の王女がなられたという。天皇が代わるごとに齋宮も交代するが、その多くは未婚の内親王または王女の中から占いに当たった方が齋宮となったようだ。齋宮に選ばれると、宮中の一箇所に初齋院が設けられ、ここで身を清め、齋宮にふさわしい知識を身につけることとなる。

    葱華輦.jpg

    見苦しくて申し訳ないのだが、上の写真が葱華輦(そうかれん)という輿(こし)で、齋王はこの輿に乗って、鈴鹿峠を越え、都から伊勢の地へやってきたと言う。
    齋王は、普通は天皇の代替わりで退下(たいげ)し都に帰るか、両親のどちらかが亡くなったとき「退下」し都に帰ることになるが、先に掲げた大来皇女(おおくのひめみこ)は、弟・大津皇子の罪により解任されている。このような場合「事故」として都に連れ戻されるのだが、齋王が男女関係を持ったときも、やはり「事故」として都に連れ戻されるようだ。
    歴史上「事故」として扱われた齋宮が三人おられる。
    一人は、先に掲げた大来皇女。また一人は欽明天皇の娘・磐隈皇女(いわくまのひめみこ)。彼女は、母が蘇我氏の出ということもあって、宮中でも夢皇女(ゆめひめみこ)と呼ばれ可愛がられた媛であったが、齋王になってから異母兄・茨木皇子に犯され「事故」として都へ連れ戻されることとなった。
    齋王が無事任務を終え帰るときは、「退下(たいげ)」といって伊勢に群行した道を行列を整え帰るのだが、「事故」で連れ戻される場合は、別の道を密かに帰らねばならなかったという。
    そして菟道皇女(うじのひめみこ)の場合も、池邊皇子に犯され事故として都に連れ戻された。彼女は敏達天皇と、その妃・廣姫に間に生まれたが、母・廣姫が亡くなり、無事「退下」出来るはずだったのだが、母の亡くなる二ヶ月前に、この「事故」が起こってしまったのだ。

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    上の写真は、復元された齋宮の10分の1模型。この齋宮から伊勢の外宮までは、車で15分〜20分あまり。この齋宮の中でも、内院は男子禁制の場所なのだが、ここで2件の「事故」は起こっている。ところで3件の「事故」だが、磐隈皇女は欽明天皇の娘、菟道皇女は欽明天皇の子・敏達天皇の娘、そして大来皇女は天武天皇の娘。要するに、大王の連合国家である「倭(やまと)」が、「日本」という統一国家として成立した草創期にかたまっている。この時期に「齋宮制度」も確立しており、3件の「事故」は、いずれもこの時期に起こっており、これ以降は、そのような事故が起こるようなこと自体、恐れ多い時代へと移っていくのであろう。
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