我が町のお気に入り史跡10選 No.7 大中公園と静御前

2009.11.16 Monday

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     大中公園野外能楽堂

    ◇大和高田市・大中公園
    広陵町中央体育館の東側を高田川が南へと流れているが、この高田川にに沿って自転車で6キロほど走ったところが大和高田市の大中公園だ。桜の季節には両岸がピンクに染まり、川岸は花見客で埋まる。桜の季節でなくても、早朝、この川岸を自転車で風を切って走ると、つまらない悩み事も風に飛ばされていくような心地がする。しかし、冬に向かうこれからの季節は少し厳しい。

    しかし、僕らが奈良へ越してきた当初は、この高田川もドブ川に近い状態で、桜はきれいだが匂いはたまらない、そんな有様だった。
    それが市政50周年を記念して1億円が市に寄贈されたという。その金で、大中公園に野外能楽堂「桜華殿」が池中に建てられ、同時に隣接する高田川も水辺プラザ整備事業と銘打って、川浚えがされ、“桜の名 所”として生まれ変わることとなった。公園の景観も、この浮舞台の竣工で様変わりしてしまった。

    きれいで気持ちよくなると、今まで気がつかなかったものが見えてきた。
    これまでにも建っていたはずだが、特に興味もないため見向きもしなかった石碑……なんだろうと自転車を止めてみると、それが「静御前の碑」だった。
    静御前の石碑
    「静御前は大和高田の宿の長者磯禅師の娘といわれる。京に遊んで歌舞の名手となり、立烏帽子に水干鞘巻を帯びたる麗姿は都人の賞讃をあびた かくて源義経と結ばれたが頼朝に追われ吉野山に義経と別れ捕えられた 鎌倉鶴岡八幡宮の社頭 頼朝政子の前に夫を想う曲を舞い 後許されて大和に帰り母子とも礒野の里におわるという ここに静御前の遺跡を示す村絵図により記念碑を建つ  昭和五十三年七月  高田川を美しくする会」

    「へえーっ、静御前って大和高田の生まれだったんだ。」
    でも、「許されて大和に帰り母子とも礒野の里におわるという」、これって違うよね。鎌倉へ連れてこられた静御前は、頼朝の妻、北条政子の口添えで助けられるが、身ごもっていた子供は、頼朝が「女の子なら助けるが、男の子なら殺す」と命じ、結局、男子を産んだため、その赤子は由比ヶ浜に沈められ殺されてしまう。その後、静御前の消息は不明というのが、僕らの知っているストーリー。
    でも、この碑には「許されて大和に帰り母子とも礒野の里におわる」と記されている。
    いったい、どっちが本当なんだろう。

    井園町の町並み「どうせ分からないだろうけど、静御前が住んでいた礒野っていうところへ行ってみよう」、そう思い、案内板を頼りに再び自転車を走らせる。人に聞きながら礒野町という古い町並み(写真)にでるが、何もめぼしいものは見つからない。小さなお寺があって境内を掃除している人が目についた。この人に聞いてみると、近くに「静御前の塚」というのがあるということだ。

    あった! 町の一角が囲われ、そこに「静御前の遺跡」という案内板と「礒野村古図」と題した2種類の説明書きが設置されていた。

    静御前の塚案内板◇「礒野村古図」と説明書き
    「左の写真は、宝暦年間に作られた礒野村の古図で、図の右側の川は旧高田川で、中央の左寄りに環濠のある礒野村が描かれている。現在も中世の防衛設備であった環濠の名残を礒野町の周りの水路に見ることができる。
    右の写真は、礒野村の北側に、田んぼの中に小さく描かれた静御前の塚である。三角形の小山の左側に「古来より、静御前の塚なりと」添え書きしてあり、今から250年以上前からの伝承が伺える貴重なものである。礒野村古図には、そのほかにも、現在の高田高校敷地内の静御前衣掛けの松や現在の春日町付近にあった笠神の社も描かれていて、静御前の古来よりの伝承を知ることができる。」

    ◇「静御前遺跡」という案内板
    「礒野村の古図に、静御前の遺跡が三ヶ所ある。衣掛けの松、住居の跡、静御前の塚が明示されている。衣掛けの松、住居の跡は、いずれもその跡をとどめないが、この一角だけは、静御前の塚として、現在も土地の人々の間で伝承されている。
    なお、大和高田市と、静御前の因縁を記念して、静御前の生涯を語る記念碑が、大中公園に建っている。」
    これですべて。
    後は、「文化財を大切にしましょう 大和高田市教育委員会」の文字があるだけ……。
    結局、何も残っていないし、何も分からないということ。暇が出来たら、高田市の教育委員会へ行って、どっちが本当か聞いてみよう。

    高田川と野外能楽堂

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