熱海七湯めぐり

2011.07.16 Saturday

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    2001年11月、熱海のつるやホテルが閉館した。熱海温泉の中では「老舗中の老舗」と言える旅館だ。我々も関東方面でのセミナーでよく利用したが、その間、色んな思い出があった。夜間、子供たちの姿が見えないというので、ご両親と共に、車で熱海の町を探し回った。あげく見つかったのは熱海の突堤の上、釣りをしているうちに寝込んでしまったらしい。一歩間違えば海へ落ちていたかも知れない。かと思えば、セミナーが終了し、ホテルの裏口から機材を車に積み込んでいると、廃品回収の業者の方から「桐生さーん」と声をかけられた。見れば、以前お世話になっていたホテルの支配人だった。ホテルが潰れて、今はこの仕事をしているという。明るく快活で、以前知っていた方とは別人のようだ。「今は伸び伸びやっています」という言葉どおり、清々しい感じだ。たしかに暗く落ち込んでいるなら声をかけてもらえなかっただろう。声をかけてもらったこちらまでが嬉しくなった。
    話しだせば、思い出話が後を絶たなくなるが、なかでも朝の散歩は楽しかった。上の写真は朝の散歩の時に撮った「ヤコブス・ラダー」という現象(チンダル現象ともいう)。雲から光の帯が無数に出来、ヤコブス・ラダー(ヤコブのハシゴ)のオンパレード。本当に別世界にいるようだった。
    また朝の散歩で、熱海の源泉七湯めぐりをしたこともあった。パソコンで他の資料を探しているとき、その時に携帯で撮った写真が出てきた。懐かしさも手伝って、仕事の手を休めて写真整理を始めてしまった。以下の文章は、七湯の湯めぐりの現地に立てられていた案内板を書き写したモノ。

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    ◇佐治郎(さじろう)の湯(目の湯)
    佐治郎という者の邸内にあったことから「佐治郎の湯」といわれました。 また、この源泉は明治のころには上杉助七という者の邸内にあり、のち新かど旅館の所有になったので「新かどの湯」ともいわれました。
    この湯は火傷にも良いが眼病にもよく効くといわれ、別名を「目の湯」ともいいました。


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    ◇風呂の湯・水の湯
    「風呂の湯」は、昔の坂町高砂屋の庭から湧き出ていました。 今の福島屋旅館の西側です。
    この湯は外傷によいといわれ、また、湯気の上騰が盛んで饅頭を蒸したり酒を温めたりして販売していました。
    「風呂の湯」の傍ら1.5メートルほど東のところに塩分のない温泉が湧き出ていました。
    明治11年、大内青巒の熱海史誌には、淡白無味常水を温めるもののごとし、故に「水の湯」と名付くと記されています。


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    ◇小沢の湯
    沢口弥左衛門、藤井文次郎、米倉三左衛門の庭の湯を「平左衛門の湯」と称していました。また土地の人は小沢にあったので「小沢の湯」とも称しました。
    「清左衛門の湯」と同様、人が大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。


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    ◇大湯
    古来からの間歇泉で世界でも有名な自噴泉でありました。
    「大湯」の噴出は昼夜6回で、湯と蒸気を交互に激しい勢いで噴出し、地面が揺れるようであったといいます。 明治中ごろから次第に減少し末ごろには止まってしまいましたが、関東大震災のとき再び噴出しました。 しかし、その後も噴出回数は減少をつづけ、昭和のはじめついに止まってしまいました。
    昭和37年に人工的に噴出する間歇泉として整備され、市の文化財として保存し現在に至っています。


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    ◇野中の湯
    野中山のふもとの、このあたりを野中といいます。
    この辺一帯は、泥の中に湯がプクプク噴いて、杖で突くと湧き出したといわれています。また、このあたりの土は丹(赤色の土)のようで、壁を塗る材料にしました。
    江戸時代までは、この「野中の湯」は湧き出るところが浅かったので、あまり入浴には利用されなかったようで、そのため、湯をためる湯桝をもうけなかったといわれています。

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    ◇清左衛門の湯
    昔、農民の清左衛門という者が馬を走らせて、この湯壺に落ちて焼け死んだので、その名が付いたといいます。
    明治までは、昼夜常に湧き出て絶えることがありませんでした。
    人が大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。


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    ◇河原湯
    このあたりを東浜といい、道もなく石のごろごろした河原で、温泉が絶えず豊富に湧き出ていて村人の入浴場でした。
    湯治客は大湯の源泉が主に使われ、ほかの源泉も限られた家のみが使用するお湯で、熱海村の農民や漁師や近郷の人達が自由に入浴できるのは、この「河原湯」だけでした。
    寛文6年(1666年)小田原城主稲葉美濃守が、村民のために浴室を設けてその屋根を瓦葺としたため、「瓦湯」と称したともいわれています。
    この湯は神経痛やリューマチなどに効能があり塩分が多く、人が入ると透明な湯が白く濁るほどであったといいます。

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    以上、熱海の七湯めぐりの紹介ですが、今はもう熱海に行くことも少なくなりました。
    「つるやホテル」の消滅とともに、熱海は遠い世界になってしまったようです。
    今は、熱海に二人の知人が居ます。一人は熱海を拠点に、アメリカのニューヨークに足繁く通い、ニューヨークをルポし続ける「工藤明子」さん。今一人は、熱海に居を構え、東京でジャズ活動を続ける傍ら、映画や出版活動を通して「孤児」の問題を訴え続ける「中塚睦子」さん。この二人の方が、僕を熱海につないでくれています。

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