荒れ果てた京の一角で/語りかけてくる思い

2011.05.22 Sunday

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    私は煤けた寺の一角に立っている。切り石が敷き詰められた回廊。その突き当たりに四角くポッカリと空いた穴。その穴を石の階段が闇の中へと続いている。
    仲間とはぐれ、探し回るうち、どんどん見知らぬところへと追いやられ、こんな奇妙なところへやってきてしまった。でも、この寺にこんなところがあったのだろうか。石段が下へ下へと伸び、ようやく下り詰めたところは、狭い蔵の中のようなところ……。真ん中に燭台が立ち、その小さな炎が、そこに集まった人たちの顔をユラユラと照し出している。
    どの顔も目ばかりがギラギラして厳しい顔ばかり。中でも何かゾッとするような凄さを感じさせる男の顔……、いきなりその口許が動いた。
    「俺は、女房を殺して喰った。それでも救われるのか……」
    押し殺すようなその声に合わせ、スクリーンのようなものに、その光景が浮かび上がってくる。私は、そのあまりの凄じさに、無我夢中で、その場から逃げ出した。
    ……どこをどう逃げたものか、私は、いつの間にか土塀が続く古い町並みに立っている。身に着けた僧衣は破れ、脚半からは血が滲み出している。
    一体、いつ僧侶になんかなったのだろう……。
    と、網代笠が風に転がされていく。その網代笠が土塀のところで止まるや、銀蝿の群れが、驚いたようにブーンと一斉に飛び立った。掃き寄せられたゴミのように、土塀の根元に並べられた死骸の群れ。途端に、今まで気付かなかった死臭が押し寄せてくる。

    まただ、また、あの苦しい思いが語りかけてきた……。

    臭い、臭い、たまらなく臭い……。鼻や口をいくら覆ってもあの臭いは防ぐことができない。やめろ、やめろ、来るんじゃない、来るんじゃない。俺にはどうすることもできない。やめろ、来るなっ、来るなーっ!
    亡者どもが追いかけてくる。はらわたを引きずった奴、膿みただれた奴、たくさんの亡者が追いかけてくる。
    もうたくさんだ。やめてくれ、やめてくれ、逃げて逃げて、息つく間もなく逃げ回り、どんなに祈ろうと、どんなに念じようと、亡者どもを防ぐことはできない。寄るな、寄るな、下がれ、下がれーっ!
    毎日毎日、切りがない。終わることがないんです。でもやめられません。やめたら、仲間や周りの人間が何と言うか、それを考えたらやめられません。でも切りがないんです。昨日済んだはずの通りに、また新しい死骸が転がっている。いつの間にか死骸という感覚もなくなり、嫌悪感も消え、ただ疲労感と腕のしびれだけを感じている。
    やめてくれ、また死骸が追いかけてきた。亡者が迫ってくる。「仏の結縁を」と、「救ってくれ」と、口々に叫びながら、その叫びが大きなうねりになって押し寄せてくる。息がつけない。いくら書いても、書いても切りがない。いくら書いても後を絶たない。いつの間にか、一人っきりになって、ただ逃げ回っていました。
    ああ、どうしたらいいんですか。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ……。みんなに感謝されて、喜ばれて、偉い人だと言われて、よくやったと言われて……、ああ、こんなはずじゃなかった。苦しい、苦しい、咽が焼け付くようだ。咽が熱くて熱くて、誰か、誰か水を、水を……。水を飲もうとしても、川の中に死骸が……。水をすくった手の向こうに亡者の顔が浮かんでいる。「結縁を、仏との結縁を頼みまいらする」と。
    私は逃げました。逃げて逃げて、苦しくて吐こうとしても、胃の中はからっぽで、苦い胃液だけが上がってくる。ああ、誰か助けてくれ、亡者のいない世界へ連れていってくれ。私はもう疲れ果ててしまいました。もう疲れて動くこともできません。
    ああ、少し落ち着きました。でも、こうしていても、いつ亡者が現われるか、気が気ではありません。いつの間にか筆もなくなりました。墨入れもどっかへいきました。
    私はどうしたんでしょうか。今、なぜか、私は間違ってきたという気がしてなりません。あれは遠い昔のことだと思っていたのに、もう過ぎてしまったことだと思っていたのに、私の心は、まだ、あの亡者たちの中にいました。あの餓えた地獄の世界にいました。煤けた、あの真っ暗な東寺の片隅で、私は震えております。いつまた、あのおどろおどろしい亡者たちが現われるかと……
    少し落ち着きました。少し落ち着きました。私は仁和寺の僧……、隆暁さまとともに少しでも、餓え、病み、死んでいった人たちを供養したいと、少しでも仏との結縁を結んでやらねばと……ああ、思い出したくない、亡者が、亡者が襲ってくる。いやだ、いやだ、思い出させないでくれ。もういやだ、もういやだ……

    誰に言うともなく、その思いは話しかけてくる。

    分からない、分からない……。最初は本当に思っていました。あの惨状を見て、私にできることはないかと、私は僧侶、せめて供養を、せめて死者と仏との結縁をと思い、あの仕事をはじめたのです。でも、切りがないんです。吐き気を催す臭い、犬に内臓を喰い破られた死骸、そんなおぞましい死体の一つひとつに、顔を寄せ、怯む心に鞭打ちながら、震える筆で、額に「阿」字を書いていくのです。毎日毎日、そんな繰り返しです。やめたくても人の目が怖くてやめられない。夢で亡者に追いかけられ、救うどころか、怨霊退散、怨霊退散と祈っている自分がありました。亡者を寄せ付けないよう、自分の周りに結界を巡らし、必死で祈っている自分がありました。それでもだめとなれば、必死で逃げている自分がありました。取りすがる亡者たちを蹴散らし、ひたすら逃げている自分がいました。今、その世界にいます。人の幸せを願うどころか、ただひたすら自分を守ろうと、逃げ回っている自分が見えます。
    ああ、少し楽になりました。少し胸のうちを話せて楽になりました。

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