我が町、広陵町の靴下

2011.04.20 Wednesday

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    我が町の広報「こうりょう」No.649号に、上記のようなPRがあがっていました。
    題して「第30回靴下の市&地域特産品交流フェア開催」。そういえば広陵町は「靴下の町」「日本一古墳の多い町」を売り物にしています。町の至る所に「靴下の町・日本一古墳の多い町、広陵町へようこそ」の看板が出ています。「日本一古墳が多い」、これはなんとなく納得できます。でも、どうして奈良の広陵町が靴下の町なのでしょうか?
    またぞろ物好きの虫に火がつき、調べてみることにしました。やはり、靴下の生産量は、広陵町がダントツ、国内シェアの40%をおさえている。

    靴下のことを調べていて、もう一つ気付いたことがあります。靴下に関しての歴史書が1冊もないということです。履き物の歴史、衣服の歴史、着物の歴史は、結構書かれているのに、靴下の歴史について書かれたものは皆無です。唯一の例外が、(株)ナイガイさんが出された「靴下の歴史」。これも(株)ナイガイさんが自費出版されたもので、一般書ではありません。図書館で調べようにも、近畿では、大阪市立中央図書館が蔵書しているのみの、いわば稀覯書ともいえるもの。
    靴下がいかに顧みられていないかの証ではないでしょうか。
    確かに、誰かに「今日、どんな靴下はいている?」と聞いてみても、即座に答えられる人は少ないのが現状。となれば、よりによって靴下の歴史なんて書く人はいませんよネ。

    しからば、ということで調べてみることにしました。
    まず、広陵町と靴下の関係。広陵町は「竹取物語」の舞台となったところ、四国の讃岐氏がここに移住し、朝廷に「竹」を納めていたと言われています。それだけに、「竹炭」とか竹製品日本一というなら分かるんですが、靴下がなぜ? そう思うのは僕だけでしょうか。

    奈良県自体、経済基盤が脆弱です。
    明治の廃藩置県では、この「経済基盤が脆弱だ」という理由で、「奈良県」自体が消滅し、「堺県」に吸収されてしまったことがあります。そこへ大阪府の財政危機を救うため、堺県自体が大阪府に統合されてしまったから、さあ大変。一体いつになったら「奈良県」の地名が復活するのでしょうか。その辺の所は、僕のブログ「奈良県と堺県」(http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=24)をご覧ください。
    まあ、そんわけで親分の奈良県がこんな状態ですから、広陵町は、それに輪をかけて財政基盤は脆弱だったわけです。1910年頃と言いますから、明治43年になりますが、広陵町の吉井泰治郎という方が、広陵町にも産業を興し財政基盤をしっかりさせようと、アメリカから靴下編機を導入したのです。

    では靴下編機というのはいつごろ作られたのかということになりますが、その前に、いったい人間はいつ頃から靴下を履きだしたのかということが問題になります。
    冒頭に紹介した(株)ナイガイさんは、靴下博物館を所蔵される他、Web上でも同名のサイトを運営されておられます。このサイトの「靴下のはじまり」という記事を読むと、4世紀〜5世紀にかけてのものと見られる「完全な編物で作られた指付きの子供用の靴下」が、エジプトの墳墓や、アンチーノの町から発掘されたといいます。いや靴下の歴史としてはもっと古く、今から5000年前、「草を編んだ靴に千草を詰め」たのが靴下のはじまり(岡本株式会社「靴下類の系譜」レジメ)という意見もあります。詳しくは、「ナイガイ」さんのホームページ(http://www.naigai.co.jp/05mos/)を見ていただくとして、では日本での靴下の歴史を見てみましょう。

    日本では「襪(しとうず)」という形で、応神天皇の時代に大陸から入ってきたとされています。

    衛士隊の交代10.jpg

    上の写真は、平城遷都1300年祭の時に撮った「衛士の交代」の模様ですが、隊長の足下を注目してください。履(くつ)の中に白い足袋状のものを履いています。これが「襪(しとうず)」です。
    平城京の場合、衛士の服装は、「養老衣服令」により、儀式の際に用いられたという黒服に鎧を着けたスタイル。隊長は、6位の武官の朝服で、冠は柔い黒絹製。紐をあごで結んでいる。位襖(いおう)と呼ばれる衣服は6位相当の深緑色のもの、下に半臂を重ねて白袴をはき、烏油(くろぬり)の腰帯をしめて、黒漆の横刀を組紐の緒で吊り木製の笏を持っている。足は白の襪(しとうず)という足袋に烏皮(くろかわ)の履(くつ)をはくという出で立ち。(http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=159

    この「襪(しとうず)」について、(株)岡本の庄健二氏は次のように述べています。

    1.織物生地を足形に縫製した布の靴下
    2.用途は現在の靴下と同様に足脚部を覆い保護する役割である。
    3.経錦(たてにしき):漢代に発達した経糸に色糸を用いて柄を出す織り方の生地を使用
    4.織物なので生地の伸縮性がなく、足首部をひもで縛って着用する。
    5.奈良時代までは、机・いすに座って執務していたため、木靴などの靴とともに着用された。

    この後、平安時代に入って、襪(しとうず)は、足趾割れ紐付きの「足袋」へと発展し、室町時代に足袋へと発展していきます。

    ところで海外では、11世紀、イスラム圏で初めて編み物としての靴下が作られ、それが十字軍の遠征でヨーロッパに伝えられ、16世紀には、イギリスでウイリアム・リー牧師が靴下編機を発明し、早くも江戸時代初期には、大航海時代の波に乗って、「メリヤス靴下」が日本に将来されることになるのです。

    以下、靴下編み機の歴史を年表風に見ておきます。
    1610年 ウイリアム・リーの弟ジェームス・リーがロンドンに靴下の新工場をつくる。
    1769年 サミュエル・ワイズが手動横編機を機械化。
    1847年 アメリカで、モーズ・メラーによって丸編機が発明される。
    1863年 同じくアメリカで、アイザック・ウイリム・ラムが、Vベット型横編機を発明。

    この5年後の1868年には、日本で初めて佐倉藩の西村勝三によって、アメリカから手回し式靴下編機が輸入されています。
    1874年、国友鉄砲鍛冶・国友則重によって国産第1号の編機が製造される。

    鉄砲鍛冶の製作した自転車
    (国友鉄砲鍛冶は、明治になって靴下編機の他、上記のような自転車製作にもチャレンジしている)

    そして、1910年頃、いよいよ我が広陵町の吉井泰治郎翁が、アメリカより編機を導入することになるわけです。この辺の事情を奈良商工会のホームページは、次のように述べています。

    奈良県は全国でも最大の靴下団地で、広陵町はその中核産地として発展してきました。広陵町は古くから大和木綿の産地として、その名を広く知られてきました。しかし、明治末期を境に急激に衰退し、その名も忘れがちになってきたころ、1人の事業家がアメリカへの視察で靴下機械を導入し、生産を開始したのが「靴下の町 広陵」の発祥です。大和木綿が農家の副業として広陵町に定着したように、靴下産業も農村工業を基盤として成立した地場産業であります。
    靴下産業は、編み立て部門を頂点に染色、セット加工、刺繍、縫製等、靴下産業に関わる企業と、すそ野の広がりを見せる一般家庭内職に支えられ発展してきました。
    これら下請け加工としての役割を担う企業や一般家庭のほとんどを町内で賄っていることから、地域内での経済的波及効果が大きいのが特徴です。この靴下産業は、戦後、ウーリーナイロン糸の登場により飛躍的な発展を遂げ、質、量共に全国有数の規模を誇る靴下産業として発展し、また町の経済を支える基幹産業としての役割を担ってきました。
    しかし、最近では中国、韓国等から安価な輸入品が大量に流入してきたことにより、国内での生産量が減少傾向にあります。また生産拠点を海外に移転していく傾向の中で、空洞化の状況となってきました。

    我が町広陵町の地場産業も、ご多分に漏れず縮小の一途をたどっているようだ。
    少々話も寂しくなってきたところで、靴下の長談義も、この辺でお開きとしたほうがよさそうだ。
    ところで明日の「靴下市」、天気予報によれば、空模様もあまり思わしくない。かぐや姫の涙にならなければいいのだが……。
    コメント
    「天国のマーチ」でお世話になりました、西谷のアシスタントの北良恵です。ご無沙汰しております。孤児たちのルネサンスの本をお送り頂きながらお礼も申し上げず失礼をいたしております。パソコンをいじっていて、このブログに到達しました。変わらずご活躍のご様子、大変嬉しくなりコメントを差し上げました。西谷も元気で頑張っています。またお会いできる機会を楽しみにしております。
    • by 北良恵
    • 2011/04/23 10:28 PM
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    • 2012/01/24 9:43 AM
    管理者の承認待ちコメントです。
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    • 2013/09/18 8:36 PM
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    • 2013/12/26 10:17 PM
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