孫と登る二上山/古代石切場へ

2011.03.22 Tuesday

0
    二上山にある古代石切場(高松塚の石はここから運ばれたという)


    東日本大震災の影響で、関東にいる孫たちが奈良のわが家へ避難してきている。学校を休んでの避難とあって、毎日が日曜日。そこへもってきて春分の日の3連休。元から同居している孫たちも休みとあっては、どこかへ連れて行かざるを得ない。
    近くに二上山があるが、僕も雄岳へは何度か登ったことがあるが、なぜか雌岳へは登ったことがない。
    そこで孫たちを率い二上山・雌岳へのハイキングとしゃれこんだ。娘が弁当を作ってくれ、これを背負って「いざ出発」という次第。僕が車の運転が出来ないため、娘や息子を巻き込んで、まずは竹ノ内街道を万葉の森公園まで進む。ついでながら竹ノ内街道は、古代の国道1号線とも言える道。ここを中国や新羅・百済の使節が飛鳥の宮へと向かった。
    万葉の森公園無料駐車場に車を止め、いよいよ歩き出すわけだが、古代池をすぎたところに、なぜか書家「榊莫山」の「花アルトキハ花ニ酔イ 風アルトキハ風ニ酔ウ」の石碑がある。不思議に思い、帰ってから調べてみると、榊莫山先生、大の二上山びいきだとか。こよなく二上山を愛し、来山記念として揮毫したのがこの句と、馬の背近くにある「トロイデ火山ハ静マリテ 女岳雄岳ヲ拝ム里 尼上嶽ト誰カ言ウ」の二句だという。どちらの句も、なにか不思議と心の琴線に響いてくる。

     

     
    古代池からかなり急な登りが続くが、登り切ったところで、登山道から左へ逸れる道がある。標識によれば古代の「石切場」へ向かう道だという。
    実は、私がここへ来た目的が、この古代石切場を見ておきたかったためだ。
    ここから切り出された石が、奈良の多くの古墳造営のために使われた。藤ノ木古墳しかり、わが家のすぐ近くにある牧野(ばくや)古墳しかり、有名な高松塚しかり、もっと大物では、卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳またしかりである。箸墓古墳が、卑弥呼の墓かどうかは別として(僕自身は、卑弥呼の墓は北九州にあると思っているが)、この古墳を造営するのに、二上山の石切場から、櫻井市の纒向まで、人がズラッと並んでバケツリレーよろしく、石を手送りで運んだという。下の写真は、箸墓古墳の近くにある檜原神社から二上山を写したものだが、数字的なデータは持ち合わせていないが、感覚的に、どれだけの人力が動員されたのか分かってもらえるのではないかと思う。またもう一枚は、箸墓古墳そのものの写真だが、手前の古灯籠の火袋は、太陽に半月をデザインした日月紋に見える。最近、新旧とりまぜ半月から三日月まで、太陽(円)と組み合わせた日月紋を火袋にデザインした石灯籠と良く出会う。これについては、またの機会に紹介したい。ここでは二上山から箸墓古墳までの距離を実感していただき、この間を人のリレーで石を手送りしたという大和政権の動員力の凄さを感じていただきたい。

     

    右手に見えるのが箸墓古墳



    「石切場跡
    ここから産した石材は、二上山凝灰岩です。
    古墳時代終末期に奈良県明日香村高松塚古墳、マルコ山古墳の横口式石棺の石槨材として利用されています。
    また、古墳や石棺のほかにも寺院や宮殿の基壇化粧石にも利用されています。
    二上山の岩屋、鹿谷寺もかつて凝灰岩石切場の跡を寺院に利用したものと言われています。この石切場跡は、凝灰岩の露頭が剥き出しになっており、岩塊には矢の跡が多く残り、方形の切り出し痕跡が認められます。」

    地図.jpg

    めでたく古代の石切場を、この目で見られたのは良かったが、息子や孫どもは、山が深そうだと行くのを嫌がり、私一人での寄り道となった。さて孫どもと合流すべく、もと来た道を引き返したのだが、いっこうに孫たちの姿に追いつけない。急な山道をひたすら上り詰め、とうとう雌岳山頂へ到着してしまった。しかし、山頂にも姿はない。どうしたのかと心配していると、逆の方からフーフー言いながら孫たちが現れたではないか。どうやら、勾配の少ない別のコースを登ってきたようだ。

    山頂で持参した弁当を広げ、しばし山頂で遊んだ後、下山する。

    行きしなには気付かなかったが、古代池(下の写真)の所に、手書きの看板が出ている。
    そこには「粥(かゆ)」の起源について、「光明皇后が病気やひもじさに苦しむ人々のために悲田院や施薬院を建て、そこで施されたのがはじまりという」と記されてある。
    文末に「万葉朝がゆ会」 という名が出ているが、これは「毎月第一日曜日に、朝6時30分から雌岳山頂に登り下山の頃に、この古代池付近でおいしい炊きたての茶がゆが振る舞われるという集まりらしい。入会金は年千円になっている。
    退職以来、出張したり書店回りしたりする以外は事務所にこもりっきり。またぞろ腹の出具合が気になりだしており、ぜひ参加したいと心が動いたが、万葉の森までの足がない。
    車を出してもらうわけにも行かず、かといって自転車となると、竹ノ内峠の坂を上れるのかと、それを考えると急にやる気も失せていく。
    なんとも情けない話だが、この4月1日、自転車でチャレンジしてみようと思っている。
    成功した暁には、このブログで自慢たらしく紹介することにしよう。

    コメント
    石灯籠によくある「日月文」について考察してみました。
    読んで頂ければ幸いです。
    http://www10.ocn.ne.jp/~tengaiya/tyosakusyu.html」(「天海屋源七本舗」ホームページ)に掲載

    石川県小松市土居原町186
    後藤朗


    石灯籠の日月文

    内容紹介
    神社とか寺院だけでなく、庭やその他いたる所で見られる石灯籠。その火袋という部分に対になって彫られている〈日月文〉という円型と月型の窓は「何を意味するのか」を考察してきた。伊勢信仰(神明宮)や民間信仰などいろいろ検討してみたが、筆者は石灯籠のそれは特定の信仰にもとづくものでなく、日本人の永遠の願いである〈日月清明〉〈天下太平〉を象徴化したものと結論づけるにいたった。

    はじめに
     〈日月文〉とよばれる文様がある。円形(○)と月形(D)の二つを対にした文様である。日本に住んでいれば、日常ごく普通に目にしているはずである。すぐに思い付かない人に、「神社や寺院、墓地、日本式庭園あるいは庭先などにある石灯籠によく彫られているあの模様」と話せば、「ああ、あれか」と思い出されるであろう。
     石灯籠の火袋という部分の四角形をした火口の左右にそれぞれ対になって彫られている。日・月の文はすべてのものにあるわけではないが、それ以外のものが彫られている石灯籠に比べて圧倒的に大きな比率をしめているといえる。ためしに、明暦三年(1657)に当時の小松城主前田利常公によって建立された小松天満宮の境内にある石灯籠を調査してみた。総数五十四基のうち全体の三分の一強が日月文の施されたものであった。この三分の一強という割合はほぼ全国的に共通するものと考えられる。
     ところが不思議なことに、「なぜこの文様が石灯籠に、しかも定番のように刻されているのか」ということについて、石灯籠について解説した書籍にいくつかあたってみたが、どれにもまったく触れられていなかった。石灯籠を造っている地元の石材店にも問い合わせてみたが、「知らない」あるいは、「同業者に話して調べてもらったが、わからなかった」というのが答えであった。逆に「わかったら教えてほしい」という石材店もあった。
     
    南加賀のいたるところにある〈日・月の石の祠〉
     筆者の地元小松市周辺の旧村落にある氏神社に、一例として、高さ70臓幅50臓奥行き40造如∩位未膨招10造留澆汎韻限腓さの三日月が彫られた石の祠がたいていある。しかし、その大部分の由来は不明で、地元民から忘れられた存在として境内の片隅などにおかれている。所によっては、堂を建立し、その中に〈日・月の石の祠〉を安置して、〈神明宮〉あるいは〈神明さん〉として祀っているのが少数ながらある。国内の他所ではどうであろうか。
     歴史というものの常ではあるが、ひとたび、事実が発生した時点の当事者による正確な記録や伝承が失われてしまうと、あとは100誉気靴い箸榔扮鵑肪把蠅靴┐覆じ綫い砲ける推定でしかなくなる。

    天照大御神と豊受大神
     日本の歴史にもっとも大きな影響を残した神仏習合を代表する両部神道では、伊勢神宮は天照大御神を祀る内宮と豊受大神を祀る外宮から成り立っており、それぞれを金剛、胎蔵両界の象徴とした。天照大御神は胎蔵界の大日如来であり、日天子(日天)であるとする。豊受大神は金剛界の大日如来であり、月天子(月天)であるとする。仏教では日天子は観音菩薩、月天子は勢至菩薩とすることもある。(親鸞『唯信鈔文意』)
     全国各地に鎮座する〈神明宮〉〈神明神社〉は伊勢神宮の内宮および外宮の、天照大神と豊受大神を祀ったものである。察するに、〈日・月の石の祠〉を神明宮あるいは神明さんとして祀ってあるのがいくつかあることから、〈日・月の石の祠〉の大部分は、もとは神明宮として建立されたものと判断してもよいであろう。天照大御神が日天子、豊受大神が月天子なら、その象徴として日月が刻されていることに合点がいく。
     江戸時代以来、一生に一度は伊勢参りをするものとされ、数人の仲間と近畿を巡り、また京都見物をかねた参宮旅行にでかけることが、日本の各地にひろまった。そのために伊勢講あるいは神明講というものが組織され、講金をつみたてて代表者により参詣(代参)がおこなわれた。〈日・月の石の祠〉はその折りに結成した講の記念として氏神社に寄進したものである可能性が強い。

    民間信仰
     民間信仰には、たとえば道祖神、産土神、庚申待信仰、日待、月待、大師詣、北斗信仰、地神信仰などがある。いずれも、多くは講の形をとっている。しかし、〈日月信仰〉という民間信仰はなかったようである。
     日待信仰と月待信仰および庚申待信仰は、当日は特定の場所に前夜から仲間が集まって、日の
    • by 後藤朗
    • 2011/03/31 8:04 AM
    日月紋についての考察、ありがとうございました。何も資料がなくて思いあぐねていたのですが、大変参考になりました。ただ一つ気になっているのが、法隆寺に残る獅子狩紋錦と救世観音の宝冠に付けられた文様です。下にお椀のような三日月、その上に太陽のような円盤が配せられた飾りなのですが、学者先生の中には、突厥系の騎馬民族特有の紋ではないかという方もおられます。この辺が今気になっているところで、ここから日月紋に興味を持つようになりました。
    • by 管理人
    • 2011/04/01 11:56 PM
    コメントする
    トラックバック
    この記事のトラックバックURL