阪神淡路大震災/自衛隊のテント風呂

2011.03.18 Friday

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    ここでは、僕が「政府刊行物大阪サービスステーション」で、はじめて出版活動を行うようになった第一号の作品「避難生活から学ぶ心の震災防備」(熱田親憙・著)のなかから、避難所生活の中でのいくつかのエピソードを紹介しています。東日本大震災の被災地域で、これから始まる復興に向けて、しばらくは避難所暮らしを余儀なくされる方々が大勢おられると思います。その方々に幾分でも参考になればと思う次第です。


    自衛隊のテント風呂

    救援活動のためここ東灘小学校へ自衛隊が着いたのは、震災一週後の一月二十四日であった。多淵夫妻も歓迎して、校門入口の運動場側に立った。外地で戦争した経験を持つ貞夫にとっては、彼らに何ができるかと半信半疑な印象を持っていた。到着するなり、校門正前奥の校舎寄りの運動場にテントを張り始めたので、野営テントかなと思っていたところ、炊事場だった。炊事場にプロパンガスの火がともり、夕餉の匂いともいうべき、ご飯の炊き上がる米の匂い、ダシを取る鰹節の香りが鼻を突き、空いていたお腹を刺戟してきた。忘れていた別のホルモンが動き出したのであろうか、炊き出されたご飯、味噌汁、お漬物を手にした多淵夫妻は異口同音に、
    「まあ、美味しい。熱いって、こんなに美味しいものだったかしら、じいちゃん。」
    「ご飯も汁も、丁度花が咲き始めたころって感じだな。この味、もう少しで忘れるところやった。」
    「心が伝わってくるような気がするワ。」
    「やはり出来たては美味しいなあ。」
    一週間振りに、空腹を超えた味わいを覚えたのである。自衛隊は予め決められた役割を黙々と続けて、被災者の列に応えていった。その列には近くの住民の人たちも混じっていた。我が家に住んでいるとはいえ、ガス、水道などのライフラインを止められた生活には、自衛隊の炊き出しは何とも嬉しかったようである。
    「思い切り火を燃して出来たご飯は、やはりおいしわネ。電気炊飯器と違うみたい。」
    「これ、コシヒカリかしら、おいしいもの。」
    「みんなで、食べるからおいしいのよ。」
    「炊き上って、蒸らし加減が丁度いいのよ。」
    とさまざまな感想を述べなから、校門を出ていった。
    こんな風景が当り前のようになった一週間後の一月三十一日、校門入口の右側に新たなテントを張り出した。校門入口の左側には、貞夫が仕切っている物資本部のテントがあり、運動場の中央奥には自衛隊の炊事テントがあり、右側奥には、避難テントが大小十個ほど陣取っていた。このテントは校舎の教室や講堂、廊下に避難することを嫌い、プライベートを保ちたい家族が多かったようだ。その後仮設住宅や転出先の決った方から教室を空けていくが、このテントは最後まであったという。
    運動場の残り少いスペースに立ちつつあるテントをじっとみていた貞夫は、「野営テントでもないのに、今更なんだろう」とつぶやいた。ややしばらくしていると、水を入れる大きな、腰高の、布製の槽を目にした。
    「風呂場を作るのか。」
    貞夫の忘れていた暮らしの場面である。この二週間、パンや弁当の荷降しや配布にすっかり心を奪われていたことを振り返りながら、自分の暮らしを見廻した。夕食を終えたあとのひとときや寝る前の瞬間に、誰のものともいえぬ体臭を感じたことが、何回もあったことを思い出した。
    目の前に、見る見るうちに、テント風呂が出来上がり、貞夫も年甲斐もなく狂喜した。同じように目を凝らしていた人たちが、たちまち列を作った。しかし隊員の行動は規律正しく、紳士的で、番台代わりの担当者は
    「この看板に書いてありますように、男湯、女湯に分けられませんので、一日交代とさせていただきます。皆さま全員にご利用いただくため、お一人十五分程度でお願いします。なお、下着等のお洗濯はご遠慮願います。」
    と丁重に言葉を繰り返していた。貞夫と久子は彼らの行動に感心し、すぐ甘える気になれなかった。
    「おじいちゃん! 今まで私たちが思っていた自衛隊と違うネ。みな物静かで、余分なことを何一ついわず、なかなかの好青年ばかりネ。」
    「皆が欲しがる頃合いをよく知ってるよ。お腹の心配がなくなったら、次は身の廻りの清潔、さしずめ洗濯だもの、風呂はグットタイミングだ。」
    「私たちの番はいつごろになるかしら。」
    「テント村も入れて、千二百人、それに近所の住民もいるから、大分先になるな。」
    こんな会話を物資本部の隅でしているところへ、隣の教室に避難されている本山さんの奥さんが、顔から湯気を出しながらお風呂談義。
    「ああいいお風呂だったワ。一度に二十人位入れるかしら。何しろ銭湯のようで、生き返った感じ! 久しぶりにジャブジャブとお湯を使ったけど、お水さまさまという感じだったワ!」
    普段何の苦労もなく蛇口をひねると、すぐ使えることに馴れ切った私たちには、自然の恵みに感謝するよい機会でもあった訳である。多淵夫妻がこのお風呂に入ったのは、二月の十日ごろだった。それまで待てなかった二人は意を決して、二月早々神戸脱出を図った。
    阪神電車の復旧は遠く、自分の足だけが頼りだった二人は、道を拾い拾いしながらJR芦屋まで歩いた。芦屋から尼崎まで乗り、駅から徒歩十分ほどのところに、目ざした尼湯ヘルスセンターがあった。同じようなお客で賑っていた。普段は入浴料干九百円のところ、震災価格三百円で開放していたから大繁盛である。それだけに浴舟に浸かっている暇も少なかったが、十八日ぶりのお風呂は、まさに本山さんの奥さんの言葉通りだった。風呂上がりに飲んだサイダーと明石焼が殊の外おいしかったという。多分震災のツメ跡もなく、別世界だったのだと思う。
    風呂の心地良さを知った貞夫が、自衛隊のテント風呂に入ったのは尼崎から帰って一週間後の二月十一日。六帖ほどの大きさの湯槽が二つ、重油を燃して流れ出る豊かな水の量、ほど良いぬくもりを含んだ真綿のような抱擁に酔うほど十五分、生きていればこそ味わえるこの幸せだった。こんな幸せを届けた自衛隊のテント風呂は、近くに銭湯が開業されるまでのニケ月以上続いた。
    満州に出征した当時の軍隊生活と比較しながら、隊員を温く、頼もしくながめていた貞夫は、運動場の片隅で思ったという。
    「自衛隊の役割としてODAの海外派遣は増えていくだろうが、その前に国内に目を傾けなければならない。文明が発達すればするほど、天災、人災の規模は大きくなる。これを助ける組織も、各自治体を超えた国レベルの組織が必要になってくる。それも単なる情報や行政の一元化だけでなく、行動がついてこないといけない。ヨー口ッパのようなレスキュー隊がない日本では、自衛隊しかない」と。そう思うと今回の働きは将来の役割を示唆するものであると貞夫は妙に嬉しさがこみ上げてきた。もし満州でこのような震災が起きたとしたら、当時の軍隊はどうしたであろうかと思うと、隔世の感があった。
    愛される軍隊、頼もしい軍隊と見直した自衛隊を、貞夫は旧日本軍と比較して次のように分析していた。

    一、上官(上司)が威張り散らさない。
    二、私的制裁(リンチ)がない。
    三、紳士的で、無駄口を吐かない。
    四、女性隊員の物事をわきまえた活躍の場(例えば女湯の案内など)。

    隊員にこんな感情を持ったのは貞夫ばかりではなかった。それをはっきり証明させてくれたのが、お別れの日だった。取り立てて退去スケジュールを宣伝しないのに、少しずつ去っていく隊員の仕種をかぎつけて、被災者や近くの住民の輪や列が自然にでき、手を上げて
    「ありがとう、ご苦労さま。」
    「お風呂がよかったよ。」
    「味噌汁がおいしかった。」
    「おやつの焼きいも、子供、喜んでたわよ。」
    「きれいにしてもらって、ありがとう。」
    それぞれの思いをぶつけて別れを惜しんだ。これを受ける隊員は慢ることなく、目に微笑を浮べながら、黙々と目礼して車の中に消えていった。貞夫もその中にあったが、このシーンを貞夫は沈黙の万才だと名付けた。 

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