阪神淡路大震災/避難所の中での奉仕生活

2011.03.17 Thursday

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    「東日本大震災」が起こって一週間が過ぎようとしている。僕が「かんぽう」、いわゆる政府刊行物サービスステーションで出版活動を始めたのは、「阪神淡路大震災」が直接の原因だった。
    阪神淡路大震災は1995年1月17日に発生したのだが、それから5年以上も経った2000年の秋、関西国際大学の熱田親憙(あつたちかよし)教授が、「かんぽう」の僕のもとを訪ねてこられた。お話を聞くと、阪神淡路大震災の際、避難所生活を取材した本を書こうと取材活動を続けてきた。本もある出版社から発行される予定になっていた。ところがやっと原稿が完成した頃は、震災後のプレハブ住宅も撤去された後。出版社側も、この時期、この本を出しても売れないと判断し、出版を下りることになったのだという。自費出版も手が出ない、取材された人たちは、本になるのを待っている。「かんぽう」で何とかならないかというのだ。
    もともと「かんぽう」というのは、政府刊行物を書店に卸す業務、政令・法令公布紙である「官報」の取扱、「官報」への法定公告の掲載取次を主な業務とする会社だった。この業務の中に「出版」は含まれていない。
    しかし、国の出した出版物を書店に卸すだけというのも面白くない。せっかく書店への卸しをやっているのだから、独自の出版物を出せないか、そう思っていた矢先だった。
    没になったという原稿を読ませてもらって愕然とした。大地震という異常事態が発生したとき、それ以前の地域活動というか人と人との付き合いが如何に大きな意味を持ってくるか、また避難所生活という団体生活の中で「食べること」「排泄すること」をめぐる様々な葛藤。エゴもむき出しになれば、善意もクローズアップされる。
    この本は、将来、我々が直面する震災といった異常事態にどう対処していくかのヒントが本文中にちりばめられている。ぜひ出版しなければと思った。
    そこで考えたのが、読者をまず募集しようということだ。著者と出版社が協力して予約購読者を募る。たとえ製作費が全部でなくても、著者も出版社も、費用面でのリスクは大幅に下げられる。

    早速、著者の熱田教授に提案したところ、熱田さんも「面白い、やりましょう!」となり、こうして草の根出版活動とでもいうべき「オーダーメイド出版」がスタートしたのだ。
    そこへ、「神戸新聞」「読売新聞」「サンケイ新聞」「日経新聞」が「面白い」と記事にしてくれた。中でもサンケイ新聞のS記者は、「調べてみましたが、この出版方式、ありそうなのに、今までどこもやっていません」と応援してくれた。(上の写真は、2000年11月26日サンケイ新聞朝刊の記事)

    前置きが長くなったが、こうして「阪神淡路大震災・避難生活から学ぶ心の震災防備」は無事完成した。今では、この本も絶版品切れ状態だが、この機会に、著作権の関係で全文は無理だが、その一部を何度かにわけて紹介していこうと思う。


    避難所の中での奉仕生活

    昨年(九四年)十月、神戸の文化ホールで合同金婚式に出席、市や県の方々から祝辞をいただきながら、多淵夫妻は話し合った。
    「これまで元気にやってこれたのは、皆さんのお陰よ。それにおじいちゃんにも感謝してるワ。これからは感謝の気持を持って、日々暮したいものネ」と久子の提言。
    「改まると照れ臭いが、人間として原点に戻って暮せるといいね」と貞夫の応答。
    こんな会話を交わして、口も乾かぬ三ケ月後の今、地震の被災者として、この東灘小学校の一階の木村教室に、四世帯同居の一員となった。避難できる空間を得、食べるものが支援物資として三食得られるようになると、心も落着きを取戻しつつあった。久子も同じだった。姑の教育で清潔好きになっていた久子は、避難生活三日後の朝、廊下を通ってトイレに入ったら、ウンチの山。流そうにも水がないので、溜まる一方。これ以上になったら用もたせなくなると思うと、本来のきれい好きと金婚式の誓いの言葉が蘇り、
    「おじいちゃん。私、今日からトイレの掃除婦になるワ。地震で生きながらえさせてもらったのだから、感謝しなくちゃ。いつまでも避難生活者になっていたら、バチが当るワ。」
    「そうだな。人の為にする最後のチャンスかもしれんな。お前らしい役目を選んだが、俺は何をやろうかな?」
    「毎日、どうしてもやらねばならないのは、弁当やパンなどの食料の配布だね。力仕事は無理だけど、いろいろな手配、段取り、チェックなどあるから、その方を中心としたマネージャーになったら? おじいちゃん。」
    決ったらすぐ実行に掛かった。フットワークの良い久子は、ゴム手袋、タワシや薬品などを買って、自分たちの使うトイレ、男性用、女性用とも、約二時間半かけて、ウンチの山を袋詰めにして処理した。
    きれいにした満足感はすぐ傍の洗面所にも及び、約三時間で元のトイレ・洗面所に戻った。あとで久子は振り返っていう。
    「とにかく小学生の学び舎を、大人たちが住み家として奪ってしまったのだから、申し訳ないという気持が強かった。それに子供たちにトイレを汚す大人たちと笑われないようにしょうと、年配者である私が率先せねばならないという気持が強かったね。」
    こんな久子の働きぶりをみた同室の宮城さん。四十才前後の大学の先生であるが、早目に学校を引き上げて、自から清掃の役を買って出てくれた。そして同居する四人組全員が掃除婦になって、トイレは勿論、廊下まで水打ちできるようになった。心に余裕のあるときは、学校から足をのばして、ガレキの陰に咲く野の花を摘み、殺ばつとした教室に潤いを生けることも忘れなかった。
    きれいになったトイレでもまだ水洗は使えない。やはり用をたして、そのままの人がいる。責めても仕方ないので、四人の掃除婦は考えた。――徹底的にきれいにして、汚すことが咎められるようにしよう。そして入口に水桶と柄杓と小さなバケツを用意し、トイレに入るときは、バケツに水を汲んで入り、その後は流してもらうよう注意書きを貼ろう。――これを実行するとなると、水の確保と水洗が使用可能かどうかのチェックが必要だった。苦労したのは水洗のチェックである。流れるようにするため、便器の奥まで手を入れたり、棒を入れたりの苦戦の連続。この甲斐あって、以降汚す人はいなくなり、一階から二階・三階と徐々に広がっていった。
    「当初、飢えへの恐れから、人間の食欲のすごさを見てきましたが、排泄のエネルギーのすごさも、同じように感じたワ」と久子は述懐する。私の知人が震災まもなく、現地ボランティアで、温かいおでんを持参し、テントに住むお婆さんに勧めたら
    「おいしそうネ。食べたいけど、近くにトイレがないから―――」と耐えている姿をみて、暮らしの原点を気づかされたという話が思い出された。東灘小学校はまだまだ恵れていたのである。
    一方、食料班のマネージャーを決意した貞夫は、毎朝六時、校門から入ってくるトラックからパンや弁当を降して、皆さんに配るマネジメントをした。一日三回、一回が初めの千二百食。小学校へ避難した人ばかりでなく、学校附近の住民全員が集まったから、人数が読めなくて苦労したという。初めの二〜三日は、食料確保が最大の関心事だったので、一人で二食分、三食分を備蓄する人(比較的若い人)がいたので、年寄りは当らないときもあったという。これらの食料難も解消されると、被災者の関心は、今の避難共同生活をどうやって行くか、将来の自分たちの家はどうなるのかという点に移っていた。そのために自治会が発足、貞夫は副会長、会長はパチンコ店などを経営している事業家の松木さん。自治会の運営は十二ブロックの班長が中心となった。運営のポイントは三つあった。
    一つは今の避難共同生活のルールづくり、二つ目は被災者の要望に対する市対策本部、自衛隊、学校、児童側の回答の引き出し、三つ目は被災者のトラブルである。
    トラブルはいろいろあるが、多いものを上げると、まずは仮設住宅の件で、当選率が低い、場所が遠くて会社に通えないなどだった。次が弁当配給の不公平、人により二個三個確保するものがあるということ。三番目が勤め人の態度の問題。会社の無理解や本人の性格などから、とにかく会社第一。早朝出勤して夜遅く帰る。避難生活の共同活動に何も協力せず、申し訳ないの詫びもせずに、被災者として夜の弁当にありつける。昼間、清掃したり、整理整頓したりして疲れている老人や女の方からみれば、面白くないのは当然である。
    ここにも会社人間の人間像や会社像が浮かび上がってくる。伝え聞きであるが、十八日から平常勤務となったある会社は、神戸から通勤できない、連絡とれない社員を無断欠勤扱いしたという。このような会社の社員は、いつクビになるかもしれないと、家庭より会社を第一にするのは当然である。それにしても詫びる心の余裕だけは持って欲しいと思う。
    四番目が、朝から酒を飲んでいるグータラ男。何もしないで、被災者気取りが皆のひんしゅくを買っているのである。
    五番目が行政当局に対する苦情である。直後は空腹を充すためのパンやおにぎりも歓迎されたが、来る日も来る日も同じものが支給されるので飽きてしまう。そのため「ただ、支給したらいいというもんじゃない」と風当りは強かった。
    この点については自治会も反論できなかったが、往々にして、不平の多い人ほど行動が伴わないので、快く取り上げる気にもなれなかったこともあったという。これはいずれの社会でも同じである。不平不満の多い人は、自分で解決する力がないために不満になるのであるから、受け流してでも、聞いて上げること自体で、解決するかもしれない。
    貞夫は四月下旬、この東灘小学校で、副会長として約百日間頑張ったのである。今は悔いのない日々だったという。

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