牛嶋神社の三ッ鳥居/東京の牛、奈良の馬

2011.03.15 Tuesday

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    墨田区向島の三囲(みめぐり)神社を後にし、言問橋(ことといばし)交差点に戻ってきたとき、方向を確認しようと持参のアイパッドで地図を開いた。通信さえつながっていればなんとも便利な代物だ。現在地が確認でき、行きたい場所まで道順が出て案内してくれる。若干、持ち歩くには大きいと思うが、アイポッドだと小さすぎて60歳を過ぎた目には酷だ。
    それはそうとアイパッドの地図をのぞき込んでいると、事問橋交差点の近くに「牛嶋神社」という表示に目が止まった。「牛」を祀る神社といえば、まず思いつくのが「牛頭天王」で知られる「祇園信仰」。祇園祭で有名だが、牛頭天王とスサノオは同義であり、これを合体させ祀っているのが祇園信仰となる。牛頭もスサノオも共に疫病をはやらせる神であり、それを慰め和ませるべく祀り、疫病から逃れようとする。これが祇園信仰の原形になったという。
    話はかわるが、かつてチャールトン・ヘストンがモーゼを演じ、セシル・B・デミルが制作した「十戒」という一大スペクタクル映画があった。ご覧になった方も多いと思うのだが、この映画の中で、モーゼがシナイ山に登っている間、先行きの見えない不安からか、一部のユダヤ種族が、牛の像をつくり、祭り拝むシーンがある。ユダヤ人達の中にはバァル神を崇拝する者も多く、バァル神を牛の形になぞらえ祭られることが多かったという。
    このバァル信仰が日本にもたらされ、祇園信仰になったという考え方がある。

    そんなことが思い浮かび、この牛嶋神社がなんとしても気になる。言問橋交差点でこんなことを思っていると、朝の散歩でも楽しんでいたのか、ひとりの老人が「あれは何ですか?」と声をかけてきた。
    老人の指さす方を見ると、そこには東京スカイツリーが聳え、その天辺から黒い雲のような筋が上空に向け放射状に伸びている。何かの自然現象なのだろうが、珍しくて「さて、何でしょう」と気のない返事をしながら、デジカメをスカイツリーに向けた。老人は「カメラですか、私も最近持ち歩いておるんですよ」と、同じようにスカイツリーにカメラを向ける。
    「どこへ行かれるんですか」
    と、老人はカメラを構えながら訊いてくる。
    「奈良から仕事できたんですが、少し自分のために時間を作って神社を回っているんです。」
    「ほぉー、神社ですか?」
    「歴史が好きなモノで、日本の古代史は神社を抜きに何も分かってきませんから……」
    「三囲神社は行かれましたか?」
    「ハイ、今行ってきたところで、これから牛嶋神社へ向かおうと思っています」
    「それなら、すぐ先ですよ」
    と言うや、一緒に歩き出した。
    ゆっくり一人で回りたかったのだが、こうなったら仕方がない。旅は道連れということか……とあきらめて一緒に歩き出した。

    やがて神社に到着してびっくりした。
    なんと奈良の大神(おおみわ)神社と同じ三ツ鳥居なのだ。
    三囲神社の三ツ鳥居は、同じ大きさの鳥居が三角形に組まれたものだが、大神神社、檜原神社(ともに奈良県の桜井市にある)にある三ツ鳥居は、中央に大鳥居、その左右に少し小さめの鳥居を配したものだ。この牛嶋神社の三ツ鳥居も、大神、檜原神社と同じタイプのものだ。



    大神神社の説明によると、「明神型鳥居を三つ組み合わせた独特の形式で、「三輪鳥居」とも呼ばれ、いつ頃どのようにして、このような形式になったかは伝えられておらず、社蔵の文書にも「古来、一社の神秘なり」とのみ記されている」だけだという。
    大神神社の三ツ鳥居は、拝殿の裏側にあって境内に入っただけでは見ることが出来ない。参集殿の受付へ頼めば特別拝観が可能だが、撮影は禁止になっている。この大神神社から山辺の道を北へしばらく行くと「檜原神社」へ出る。ここの三ツ鳥居は、境内にあって自由に見ることも撮影することも可能だ。二つの神社に共通しているのは、三ツ鳥居が、この「牛嶋神社」と違い、本殿前に配されいるのでなく、ご神体である御神座(みかぐら)=三輪山の前に配されている。
    つまり本殿がないのだ。
    「檜原神社」についてはいずれ別の機会にゆずるが、祭神は「天照大御神」、別名「元伊勢」とあるように「伊勢神宮」に「天照大御神」が祀られるようになるまでは、この神社がその役割を果たしてきたのだ。また「大神神社」の祭神は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)、少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)。
    これに対し、この「牛嶋神社」の祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、天之穂日命(あめのほひのみこと)、貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)となる。

    「日本書紀」の一書では、大物主神は大国主神の別名としており、「大神神社」の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。そして大国主の子供、あるいは大国主の六世の孫が、須佐之男命(すさのおのみこと)となる。
    先にあげたように、祇園信仰では、この須佐之男と牛頭を疫病をもたらす荒ぶる神として同神に扱っている。しかも、この牛嶋神社、五年に一度の大祭、神幸祭では、今日では珍しくなった黒雄和牛が神牛となり鳳輦を曳くという。
    思った通り、祇園信仰との関わりが深い神社のようだが、「三ツ鳥居」の存在によって、奈良の大神神社や檜原神社との関わりも推測できる。ただ江戸時代、火災にあっての再建のため、それ以前の資料がすべて消失しており、「三ツ鳥居」の由来も含め何もかもが不明だという。

    境内を清掃している若い神官の方とそんな話をしていると、一緒についてきた老人が、こんな話を聞かせてくれた。
    この牛嶋神社のある場所は、家康が荒川の流れを西に移す前には、荒川と隅田川の間にある中之島ような場所で、牛のような形をしていたので「牛嶋」と呼ばれていたと言うのだ。
    この話を掃除をしていた神官の方に確認すると、「そうだ」という。そればかりか、その牛嶋には、天皇家の牧場、いわゆる官牧(かんまき)があって牛を放牧し、牛乳を朝廷に献じていたという。それを書いた案内板が境内の裏手の方にあるという。

    境内の中の案内板探しが始まった。いつの間にか老人はいなくなっている。なかなか案内板が見つからず、またまた若い神官の方を探し出し、その場所まで連れて行ってもらった。
    以下は、その案内板の表示を写したものだ。

    江戸・東京の農業 浮島の牛牧(うしまき)
    文武天皇(701〜704)の時代、現在の向島から両国辺りにかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社でした。
    大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令(きゅうもくれい)が出され、平安時代までに全国の牛馬を育てる牧場(官牧かんまき)が39ヶ所と、天皇の意志により32ヶ所の牧場(勅旨牧ちょくしまき)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「牛嶋牛牧」が置かれたと伝えられます。
    時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることになりました。
    明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。

    この牛嶋の地は、祇園信仰で牛とつながっているばかりか、実際の官牧としても、牛の牧場として存在し、二重に牛と縁の深い場所であることがわかった。
    そのうえ、以前から何となく思っていたことがある。それは今住んでいる奈良は広陵町馬見という地名だ。馬に縁があるとは思っていたが、隣町に上牧というところがある。これは「うえまき」でも「かみまき」でもなく、「かんまき」と呼ぶのだ。しかもこの地は欽明王家の地。やはり、大宝律令以前に、天皇家のためというか、大王のための馬の放牧場があったのだろう。それが馬見や上牧(かんまき)という地名として残っている。この地は、聖徳太子に代表される、騎馬遊牧民族の拠点の地だったのではないだろうか。
    奈良から遠く離れた東京で、そんな確信に似た閃きに襲われた。

    なお最後に、ブログ中、桜並木の着色写真を紹介しているが、これは関東大震災後、後藤新平によって計画された「隅田公園」の開設当初の写真だということです。

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