聖徳太子の命日に太子道を歩く Vol.4/聖徳太子と昼飯を食う

2011.03.02 Wednesday

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                             昼食会場「正福寺」に到着

    「第29回 太子道をたずねる集い」も、いよいよ前半最後の行程となった。目指すは香芝・正福寺。レジュメによれば、正福寺は1008年の開創と伝えられ、恵心僧都源信の作とされる阿弥陀如来像を本尊としているという。浄土宗の開祖法然上人は、法隆寺夢殿から磯長の叡福寺・聖徳太子御廟への墓参の祭、この正福寺に立ち寄ったということだ。
    そこで我々も、法然上人にならい、この正福寺に立ち寄り、昼食とする。
    既に狭い境内のあちらこちらで弁当を広げているグループもいる。
    しかし200人が弁当を広げるには、この境内は狭い。そんな不安をうち消すように、案内の方の声が響く。
    「本堂へ上がってください。本堂に食事をとれる場所を用意しています。」
    「お寺の本堂で食事か?! 線香臭いんじゃないのかなあ」、そうは思ったが、「まあ、いいかっ、面白いかも」と、ご本尊様のすぐ傍までいき、弁当を広げた。
    ふと横手に目をやると、なんと聖徳太子像も、ご本尊様の前にあぐらをかいておられる。像とはいえ、聖徳太子と飯を食うなどと、なかなか体験できるモノではない。差し向かいとはいかないが、ワタクシめのすぐ斜め前に太子が座っているのだ。
    おもむろにリュックの中から、自ら用意したサンドイッチと、魔法瓶に入ったお茶を取り出す。そして最後に小瓶に詰めた白ワイン。いつぞや出張したとき新幹線の駅で買ったワイン。プラスチック製の小ぶりのボトルで、蓋がグラスになっており、なかなか気が利いている。また使えると、中身を飲んだ後も捨てずに残しておいたものだ。ここに冷蔵庫の中に残っていた「マドンナ」というドイツの白ワインを入れ、リュックのなかに入れておいた次第。
    太子さんとグラスを酌み交わす、それは無理というものだが、気分的にはそんな感じ。
    太子のブレーンと言われ、帰化人技術者集団のリーダー、秦河勝。彼も酒造りに長じていたと言うが、さすがに太子にワインをすすめることはなかっただろう。
    ……と、思ってみたが、あながち荒唐無稽な話ではなさそうだ。秦氏といえば西域のにおいがプンプンする。ワインの歴史は古い。紀元前6000年頃には、メソポタミアのシュメール人により初めてワインが作られたといわれている。太子がワインを飲んだ可能性は十分あるのだ。聖徳太子には、日本の濁り酒や中国の老酒より、なぜかワインが似合う。
    そう思うのは、私だけだろうか。

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                         (太子像と共に本堂での食事風景)

    食事も終わり、本堂から外へ出てみた。そこで入り口の看板に気付いた。かなり年季の入った看板だ。下地になる板は摩滅しているが、墨の染みこんだ箇所だけが残り、「光明道場」と書かれたところが浮き彫りのようになっている。
    光明……またしても西域のにおいだ。
    たまたま、この寺の住職が傍におられ、これ幸いと訊いてみると、
    「光明道場と書かれてありますが……」
    「浄土宗ではよく使われる言葉です。私もこの言葉が好きで……」
    浄土宗、親鸞、光明……
    そういえば、親鸞が学んだ教典の中に「世尊布施論」というお経があった。漢文で書かれているので、これまで仏典とばかり思われてきたが、訳してみると、これが実は、キリスト教の「山上の垂訓」の漢文訳であった。空海や最澄が中国から持ち帰った教典は仏典ばかりでなく、当時、景教といわれたキリスト教の教典やマニ教、ゾロアスター教のモノも含まれていたようだ。
    いや、それ以前、聖徳太子の時代にも、仏教の仮面を被った、たくさんの西域の宗教も入ってきている。聖徳太子にしたところで、厩戸皇子 ( うまやどのみこ ) などというキリストまがいの名前をもっているし、宗教に寛容であった騎馬遊牧民族のにおいをプンプンさせている。
    光明道場、光明皇后、光明が遍(あま)ねく照らす=遍照、すなわち大日如来、南無大師遍照金剛、そして極めつけが、光明神=アフラ・マズダ……
    連想は連想を生み、果てがない。そんな妄想に釘を刺すように、集合の合図。

    いよいよ行程も大詰めを迎える。

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